National Theatre による新演出の『ヘッダ・ガーブレル』 (aka 『ヘッダ・ガブラー』)。 去年末の Kolozsvári Állami Magyar Színház [Hungarian Theatre of Cluj] によるプロダクションが楽しめたし [鑑賞メモ]、 先日の Othello での Ivo van Hove 演出も比較的好みだったので [鑑賞メモ]、 National Theatre Live での上映を観てきた。
Kolozsvári Állami Magyar Színház [Hungarian Theatre of Cluj] によるプロダクションは 登場人物をバランス良く描いていたように感じたのですが、 National Theatre / Ivo van Hove のプロダクションでは Hedda の存在感が圧倒的。 Othello 同様に現代に時代設定を移していましたが、 時代はほとんど感じさせずに、まるで、Hedda の心象風景を描いているような舞台でした。 特に Kolozsvári Állami Magyar Színház 版の Lövborg は、 その不遇な過去/身分差を背負った重さもぐっとメロドラマ感を盛り立てていたのですが、 National Theatre / Ivo van Hove は単なるライバルで重さをあまり感じさせないため、 Hedda - Tesman - Lövborg の三角関係もさらっと流すよう。 むしろ、弱みを握ってからの Hedda を支配する Brown との関係の描写が強烈で、その二人の関係を軸とした心理劇のよう。
舞台美術は、Othello でのガラス張りの小部屋のような面白さはなかったのですが、 ソファやアップライトピアノがある程度で家具はもちろん装飾もほとんど無いモダンなリビングルームのようなガランとした舞台は、虚ろな Hedda の内面を映すよう。 下手の窓から時にブラインド越しに差し込む光と作り出す影や、Hedda によって花束がバラバラに床にばらまかれ壁に打ちつけられた様など、 アイデンティティやジェンダーの問題を仄めかす現代美術のインスタレーション作品 [関連鑑賞メモ] を観るようでもありました。
と、演出のほとんどの点はとても好みなのだが、場面転換時に前の場面の余韻に浸りつつも次の場面に向けて心を静かに切り替えたい場面で、歌が入ってしまうのは、 それ以外の場面でBGMの類を使わ無いだけに、効果的よいうより、興醒めするような俗っぽさ。 Joni Mitchell の “Blue” や Leonard Cohen の “Hallelujah” など、 選ばれた曲だけ見ればセンス悪いわけではないのですが。 Othello のエンディングでも歌を流していたりしたので、 これも Ivo van Hoen の好む演出なのでしょうか。