国立映画アーカイブと東京国際映画祭 (TIFF) の共催による生誕120年、没後60年記念の上映企画 『TIFF/NFAJ クラシックス 小津安二郎監督週間』 で、戦間戦中期の小津安二郎の映画を観てきました。
この2本を映画館でピアノ生伴奏付きで観るのは生誕110年企画で観て以来10年ぶり[鑑賞メモ]。 その時と大きく印象は変わらないのですが、 今回は、辛さの中のささやかな喜び、嬉しさの中の寂しさ、ありがたさのなかの満ちたりなさ、嫉妬による憎しみと好意、好意故に一緒にいたいが身を引いた方が良いという気持ち、 などの感情のアンビバレンスの表現を興味深く観ました。 セリフ付きの場合、セリフと演技の食い違いで表現されることが多いように思うのですが、 少し長めのシーンを使って感情が2つの間を揺れ動く様を表現したり、 対比としての他の人の表情などを揺れ動きの間にモンタージュして複雑な感情の表現します。 これらの映画に感じる切なさやるせなさは、感情の丁寧な描写を通してのものだと、改めて実感しました。
今年は国立映画アーカイブ恒例の無声映画企画 『サイレントシネマ・デイズ2023』へ行かれなかったので、 その代わりにピアノ伴奏付で無声映画を観る良い機会かとこの2本に足を運んだのでした。 小津の繊細な作りの映画とピアノの伴奏は相性はとても良く、しんみりと味わうことができました。
没落して解体していく資産家一家を、厄介者扱いされる母と三女 節子の視点からホームドラマ的に描いた作品で[以前の鑑賞メモ]、 後の 小津 安二郎 (監督) 『東京物語』 (松竹大船, 1953) で変奏されることになる主題です。 この頃の松竹メロドラマでの 佐分利 信 の役というと、 例えば 吉村 公三郎 (監督) 『暖流』 (松竹大船, 1939) のように [鑑賞メモ] 貧しい出身ながら出世を目指すも上流階級に馴染めない男という役が多いのですが、 この作品では資産家の家の出ながら馴染めずに出身が問われない新天地 (満州) へ行こうとする男という、 似ているようで方向性が逆だという所に、そこはかとはない違和感を覚えました。
そういえば映画館では観ていない気がしたので足を運んだのですが、 今回の上映も今まで観たものと同様にかなり酷いノイズが乗ったもので、やはりこれしか残っていないのでしょうか。