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『未来少年コナン』について (2005/1)

2005/1〜2の一連の『未来少年コナン』に関する発言の抜粋です。 順番は古いものほど上になっています。 リンク先のURLの維持更新は行っていませんので、 古い発言ではリンク先が失われている場合もありますが、ご了承ください。 コメントは談話室へお願いします。

[1075] 嶋田 丈裕 <tfj(at)kt.rim.or.jp>
- 若林, 東京, Wed Jan 5 0:04:24 2005

去年末にいきつけのジャズ喫茶で インド洋大津波 のテレビ映像を見ていて、アルバイトの女の子が 「セカンドインパクトを思い出しました」 (セカンドではなくてディープだったかも) と言ったので、 「僕は『未来少年コナン』の「大津波」かな」と応えたら、 「そういっていたお客さん、他にもいましたよ〜」とのことでした。

今の話題の 宮崎 駿 のアニメといったら、公開中の映画 『ハウルの動く城』 なのでしょうが、そちらは特に観ることも無いと思うのでパス。 ところで、去年の11月からNHK教育の木曜19:25〜19:55でテレビ版の 『未来少年コナン』 の再放送をやっています (NHKのサイト)。 HDD録画して放送済の第1話から第9話まで観ました。

『未来少年コナン』を最初に観たのは1978年4月〜10月のNHK総合での本放送。 当時は小学5年生で、毎回とても楽しみにしていたものでした。 今回の再放送の前に最後に観たのは中学生のとき、 たしか1981年頃の民放での再放送でした。 こうして見直すのも実に20余年ぶりです。 1981年頃の『未来少年コナン』や『機動戦士ガンダム』の再放送を最後に アニメをほとんど観なくなったということもあると思うのですが、 『未来少年コナン』は最も記憶に残っているアニメです。 といっても、中学の再放送の際には このアニメにおける超人的なアクションを「心理描写のための演出」と思うくらいに 距離を置いて観ていたようにも思います。 最近セルDVDがリリースされても、 それを買ったりレンタルしたりしてまで観たいとは思いませんでした。

そんなわけで、とりあえず録画しておくかと最初は軽い気分だったのですが、 いざ見直し始めると、不覚にも思いきり感情移入して観ている自分がいました。 正月休み中に今までの録画分を3回くらい見直してしまいましたよ。うーむ。 2〜3年前に『未来少年コナン』と似たプロットの 宮崎 駿 のアニメ 『天空の城ラピュタ』 (1986) をレンタルで観たときも とても楽しんで観たものの繰り返し観たいとまでではなかったですし。 どうしてここまでハマってしまったのか、我ながら不思議でもあります。 やはり、小学5年生のときに観たという原体験が効いているのでしょうか。 けど、当時観ていたアニメを見直したら必ずこうなるとも思えないですし。ふむ。

今見直した中で最も印象に残っているのは、やはり第8話「逃亡」。 コナン (主人公の少年) とラナ (ヒロインの少女) の水中キスシーンがある回です。 確かにあのシーンは名シーンだとは思うのですが、 その後の浜辺に打ち上げられた2人の会話のシーンでの ラナの笑顔がとても印象的に思いました。 思わず早送りで確認してしまった程ですが、あそこで初めてラナは思いっきり笑うのです。 それまでの話は寂しい顏、怒った顏、泣き顔が多くて、笑顔があってもどこかちょっと力なく翳がある感じ。 ここまで笑顔の無いヒロインだったかと。 あと、第5話「インダストリア」で 三角塔の部屋の中でモンスリー (ラナを虜にしている側の女性) が コナンが助けに来たことをラナに告げるシーンも印象に残りました。 前半あまり「女らしく」描かれることが無いモンスリーですが、 そんな中、あのシーンが最も「女らしく」感じられました。 どうしてそう感じたのか、自分でもいまいちよくわかってないのですが。 ま、コナンがインダストリアに着いて (第5話「インダストリア」) から この浜に打ち上げられるシーン (第8話「逃亡」) までが、最初のヤマでしょうか。

こうして書いていて気付いたのですが、 昔観たときはコナンのアクションの面白さが一番の楽しみだったように思うのですが、 今は、むしろラナやモンスリーのような女性キャラクタの方に目が行ってしまっている ような気がします……。うーむ。 ひょっとして、これが本当の「萌え」?

こうして見直していて、やっぱりいいアニメだなぁ、と。お薦めです。 アニメをたいして観てない人が薦めても説得力無いですし、 再放送も9話も進んでしまってから薦めるのもなんですが。 ま、前半は単なる王子様がお姫様を救出する活劇といえばそうで、 ハイハーバー (ラナの故郷) に戻ってからの話が『未来少年コナン』が 『ルパン三世カリオストロの城』や『天空の城ラピュタ』と一線を画す所ではないかと 思っているところもありますし。 ま、その話は、するにしても、再放送がそこまで進んでから、ということで。

[1080] 嶋田 丈裕 <tfj(at)kt.rim.or.jp>
- 若林, 東京, Fri Jan 7 0:06:27 2005

『未来少年コナン』再放送、今晩は第10話「ラオ博士」。 第9話「サルベージ船」に続いておとなしい演出が続いて (というか、その前の第7話、第8話がヤリ過ぎ)、 ちょっと、世界名作劇場のアニメを観てるような感じがします。 ってことで、前回の発言はラナやモンスリーに萌えてるだけのような書きっぷりで、 後で読み返すと我ながらアレなのですが、そこで言いそびれたことを。

基本的なところでは、昔も今も 僕はアクション・コメディとして『未来少年コナン』を楽しんでいます。 そういう観点で今まで再放送された中で僕が最も好きなシーンというのは、 第8話「逃亡」でラナ (ヒロイン) がコナン (ヒーロー) を助けに 彼女を拐ったバラクーダ号を逃げ出すシーン。 彼女の乗ったボートを逃さまいと船長ダイスがボートに繋がるロープを掴み、 その後、ジムシー (コナンの仲間) やバラクーダ号の船員などが 人の鎖を付くっていく所が実にコミカルに描かれているのです。 コナンも拘束具で泳ぎも自由にならず、ラナも逃げてコナンを助けられるられるかどうかのところ、 さらに、その背後ではバラクーダ号を拿捕すべくガンボード (軍艦) が追いかけてきている、という、 状況的にはいくらでもシリアスに描けるであろう所にコミカルな表現を入れていくこの落差が、 僕が大好きな点です。

こういった表現は、ま、アクションコメディの常套手段ですが、 『未来少年コナン』の場合、最近 Buster Keaton のサイレント映画を見直しているせいか 実に Keaton 風 (Keatonesque という形容詞があるのですね) だなぁと思います。 Keaton の人並み外れたアクロバティックの能力がコナンのアクションと共通するように感じますし。 Keaton 演じる強いのだか間抜けなのだか判らないヒーローが 身を張ったアクロバティックな演技で笑いを取りながら最終的にはヒロインを助ける、 って話が多いですし。先日観た Steamboat Bill, Jr. (1928) のラストの 嵐で濁流となった川に流される家に取り残されたヒロイン Kitty や父親を Bill Jr. が助けるシーンなど、 これこそ『未来少年コナン』的な表現の原点だと思いましたよ。 The General (1927) だって、敵軍に捕えられたヒロインを助ける機関士の話です。 こういうの大好きなんですよ。実は。

ただ、Keaton を思わせるようなコメディ表現という意味で、 『未来少年コナン』の表現はセリフに依存しない サイレント的な所がかなりあるように思うのですが、 コメディ表現だけでなく状況描写や心理描写にもセリフを用いないような 演出を多用している所も、『未来少年コナン』 (そしてそれ以降の 宮崎 駿 のアニメ) の面白さのように思います。 今までの再放送の中では 特に第7話「追跡」から第8話「逃亡」にかけて顕著のように思うのですが、 ラナやコナンがほとんどまともなセリフを語らないのです。

例えば、第7話「追跡」の冒頭、ダイスがラナを拐ってバラクーダ号に乗り インダストリアから逃亡するシーンでは、ラナは、 「コナンが、コナンが、コナンが」とダイスに強く呼びかけたり、 インダストリアに向かって「コナン」とくり返し叫んだりするばかり、 唯一、ダイスに向かって「うそつき」と強く言うくらいです。 それでも、牢屋にいるコナンの場面のモンタージュや彼女の表情や身ぶりを通して、 コナンがインダストリアに捕われたままであること、 ラナが「コナンがインダストリアに捕われてるので助けて」と強く要求していること、 「コナンがインダストリアに捕われたままなので戻りたい」と強く思っていることは、 充分に (むしろセリフで言われるよりも) 理解できるようになっているわけです。 むしろ、船員に取り押さえられ「コナン」と泣き叫ぶシーンなど、 少し崩れた絵になることも少なくないこのアニメの中では特に美しくラナが描かれている感もある上、 ここだけ少々スローモーションにして飛び散る涙などを描くなどの演出も細かく、 ラナの感情がもっとも激しく表現されている一場面にすらなっているように思います。

こんな感じで第7話から第8話にかけてはラナとコナンのセリフの半分くらいは お互いの名前を呼び合うことに費やされていて、長いセリフがありません。 そして、それと対称的なのがダイスに関する演出。 第7話と第8話でダイス (ラナを拐ったバラクーダ号の船長) は1回ずつ長々と語ります。 まず、第7話後半で拐ったラナを船長室に呼び どうしてインダストリアに叛逆しラナを拐ったのかとうとうと語るシーン、 続いて、第8話前半でラナを人質としてバラクーダ号の先端に結びつけ ガンボートから逃げるためには仕方ないと言訳するシーン。 しかし、いずれもセリフは長いのですが、 キャラクタの表情身振や声の質といった要素も含め、 意味があることではなくしらじらしい嘘や言訳を言っているという演出がなされています。 ラナのセリフを控えめにした演出に対して、 ダイスの長いセリフを使った演出でこういうことをするということは、 セリフに対する不信感・忌避感があったのではないか、と勘ぐりたくなるくらいです。 もちろん、長々と軽口を叩くダイスの存在があって、 寡黙なラナが発する短いセリフが生きているとも思います。 特に第7話冒頭のダイスの長舌の言訳の後、ラナが 「あなたはうそつきよ。(中略) あのままインダストリアにいたほうがよかったわ……」 と後半目を涙で潤ませて半泣き声で言い返す所ところなど、 その対比によってラナの感情の激しさが際立つようになっています。 しかし、冒頭の泣き叫ぶシーンといい、 第7話のラナの泣きシーンって演出に気合入りまくってるような……。

もちろん、『未来少年コナン』にもセリフ依存度の高い表現を用いている所もあります。 例えば第1話「のこされ島」の冒頭のコナンのおじいさんが ロケット小屋で日記を付けていてその内容をナレーションとして聞かせるような所です。 ここでは、映像も添えられているものの、主にナレーションのセリフで 人類滅亡の危機の大戦争で生き残った人たちで戦後20年経ったという状況を説明 しているわけです (これをナレーション使わずに描くのもかなり困難なようには思いますが)。 小屋の中で机に向かって日記を書いている静的なシーンがあるためか、 特に第1話における物話の進め方は、 先行するTVアニメシリーズの世界名作劇場での表現と共通点を強く感じます。 それ以外でも、第1話後半でラナとコナンが自己紹介しあうシーンで、 ラナという名前を知って喜んで逆立ちするコナンは『アルプスの少女ハイジ』のペーターを連想させますし、 ちょっと暗い表情で仕草少なく佇んで話をするラナは『母をたずねて三千里』のフィオリーナを思わせます。 (これは、初めて観た小学生当時にも思ったことですが。) そういった表現も『未来少年コナン』は残しているわけですが、 第7話から第8話に典型的なセリフ依存度を排した演出が 世界名作劇場的なアニメ表現に馴れていた当時の自分にとって、 とても斬新だったように思います。

このように、『未来少年コナン』のセリフを排した演出は見どころが多いと思うのですが、 それ対する主人公の行動原理というのが、特に前半は、 コナンは「ラナを救い出してハイハーバーに連れていく」だけであり、 ラナにしても「インダストリアに屈せず、コナンを助け、おじいさんを探す」という程度で、 描くべき登場人物の内面に対して演出がオーバースペックの感があるように思います。 たわいのないミニマルなラブソングが心を打つように、 むしろ描くべき内容がたいして無いからこそ、 泣き叫ぶラナのような表現が描かれている世界観を越えて純粋に心を打つのかもしれないなぁ、 と思ったりもしましたが。

関心空間のキーワードを読んでいても、 『未来少年コナン』のファンの間で最も印象に残っているセリフは、 コナンとラナの間の名前での声のかけ合いなんだろうなぁ、と思いました。 というのも、上で述べたようなセリフ依存度低い演出のせいなんでしょうね。 自分にしても名シーンはいくつも思いつくももの、名セリフは思いつかないですし。 そういう意味でも数々の名セリフを残した『機動戦士ガンダム』とは対称的かもしれないなぁ、と。

と、長々と語ってしまいましたが、 『未来少年コナン』話に今までの読者がヒいているような気が……。

[1092] 嶋田 丈裕 <tfj(at)kt.rim.or.jp>
- 若林, 東京, Sat Jan 15 16:13:49 2005

『未来少年コナン』再放送、先日木曜は第11話「脱出」。 話の展開はサルベージ船からインダストリアへの舞台移動のための繋ぎという感じで、 それまでの緊張感の高さから比べ緩んだ感じは否めませんが、 アクションコメディ的な要素が多かったのでそれなりに楽しめました。 ドライバーくわえて壊れた無線機を直してるモンスリー、かっこいー(萌)。 一方、笑顔の多い明るいラナには違和感を覚えます。

閑話休題、最近この談話室を読みだした方の中には、 なんでいきなり『未来少年コナン』について語り出したんだと、 引いている方もいるのではないかと思います。 しかし、自分にとっては、4年前にした、つまり、 1980年代前半に近代的な内面を持つ登場人物や複雑な世界がアニメとして描かれるようになった (その後に読んだ 斎藤 美奈子 『紅一点論』 (1999) に従えば 「少年がものを考えるようになっていった過程」。 関連発言) という話のフォローアップというつもりもあっりします。 あのときは昔観た記憶を頼りに漠然とした印象で書いたわけですが、 せっかく『未来少年コナン』の再放送を観ているので、 より具体的な表現に触れながら確認しておこうと思っているところがあります。 もちろん、4年前の話には認識違い/認識不足に基づくものも多いと思うので、 再放送を観るうちに話を修正・訂正すべきところが出て来るとも思いますし。

そんなわけで、久しぶりに 斎藤 美奈子 『紅一点論』(1999; ちくま文庫 さ13-2, ISBN4-480-03666-0, 2001) を読みなおしてしまいました。 いやー、けちょんけちょんですね、宮崎 駿 も。ま、わからんでもないです。 ラナとモンスリーに「強い女」に対する伝統的な二つの解釈のパターン (「静かに耐える女のこそが強い女である」と「強がっている女ほど本当はもろくて優しい女である」) が露出しているという指摘 (文庫判 p.198) など、まさにそうだもんなぁ。 第5話「インダストリア」でラナにコナンが来たことを告げるシーンと、 第6話「ダイスの反逆」の後半のラナとコナンの取り調べシーンで、 モンスリーに「ラナ=お姫様」「コナン=王子様」とわざわざ言わせるし、 判っていてやってるって感じでしょうね。 むしろ、類型的なキャラクターで作っている話だからこそ、 そこから微妙にズレる点が個人的には興味深かったりするんですが。 昔観た記憶ではそのポイントはハイハーバーに戻ってからの話のように思うだけに、 早くハイハーバーの話にならないか、待ち遠しいです。

[1124] 嶋田 丈裕 <tfj(at)kt.rim.or.jp>
- 若林, 東京, Fri Feb 11 0:04:25 2005

久々に、『未来少年コナン』 の話を。 ここに話題は振ってませんが、ちゃんと見続けています。 しかし、第11話を最後にモンスリーが出て来ないので、 ちょっと観るテンション落ち気味……。 再放送は第15話まで進んで、 舞台をラナの故郷ハイハーバーに移しています。 以前から少し言及していましたが、『未来少年コナン』の中において、 このハイハーバーを舞台とした話の前半 (第13話「ハイハーバー」、第14話「島の一日」、第15話「荒地」) は 全体の中ではちょっと異質なエピソードとなっています。 今回はその話を。 ちなみに、以前に『未来少年コナン』について書いたものは 談話室から消えてしまっているので、 改めてアーカイブにまとめておきました。

第12話「コアブロック」で無事にインダスタリアを脱出した所で、 前編とでもいうべき最初のエピソードが完結します。 第12話のラスト近く、インダストリア脱出後、 空高く飛ぶフライングマシンの屋根の上に乗って気持良さそうに風を切っている場面で、 ヒロインのラナが「まるで夢みたい、みんなと一緒にハイハーバーに帰れるなんて」と言います。 このセリフに象徴されるように、第12話までのラナのモーチベーションは ほぼ「おじいさんとコナンと一緒にハイハーバーに帰る」に尽きていました。 ヒーローのコナンのモーチベーションも「ラナを救い出してハイハーバーへ連れて行く」でした。 そして、第12話末でそれが実現し、 それまで主人公2人を駆動していたモーチベーションが失われてしまいます。 そのため、第12話のエンディングは、観ていてまるで最終回のようにすら感じられます。 初めて観た小学生のときですら、これで終ってしまうのではないかと思った程です。 ここでプリンセス・ストーリーらしく 「コナンとラナはハイハーバーで幸せに暮らしましたとさ」で終ってもいいくらいです。

もちろん、第12話で完全に話が切れているわけではありません。 インダストリアを牛耳る悪役レプカをやっつけたわけでもないですし、 第12話ではインダストリアの地下街で抵抗運動をしている人々を登場させ、 第13話冒頭でラオ博士 (ラナの祖父) が人々を救うためにインダストリアに戻るように、 今後の物語の伏線も準備されています。

それでは、第13話「ハイハーバー」以降、物語を駆動するための 主人公の新たなモーチベーションは何なのでしょうか。 マクロで見た場合、次のモーチベーションは「インダストリアからハイハーバーを救う」であり、 さらにこの後「抑圧的な支配階級と沈没からインダストリアの人々を救う」へとスケールアップします。 これは、少年マンガの世界で知られる「敵のインフレーション」に近いものがあります。 また、三段階でスケールアップしつつ、最終的には 「コナンとラナは大陸となった残され島で幸せに暮らしましたとさ」 で終わり、プリンセスストーリーの枠組みからも外れてはいません。

しかし、ミクロで見た場合、第13話「ハイハーバー」でいきなり 次のモーチベーション「インダストリアからハイハーバーを救う」が登場するわけではありません。 もちろん、ハイハーバーで勝手な行動をする集団のリーダーであるオーロが悪役といえばそうなのですが、 「オーロらの集団からハイハーバーを救う」というような主人公のモーチベーションが物語を駆動するような意味での悪役ではありません。 その結果、インダストリアのガンボート (軍艦) がハイハーバーに来襲するまで、 勧善懲悪的な展開ではなく、むしろ、微妙な人間ドラマ的な部分がぐっと表に出てきます。 そして、そういう人間ドラマの中でコナンとラナの間に生じた矛盾が 第15話「荒地」のラナがコナンをビンタするシーンで一気に炸裂するわけです。 そして、その後 (まだ再放送されてませんが)、インダストリアのガンボート来襲が、 本来の勧善懲悪物+プリンセス・ストーリーに話を引き戻します。

斎藤 美奈子 は 『紅一点論』 (1999; ちくま文庫 さ13-2, ISBN4-480-03666-0, 2001) で ラナを「みごとなくらい自分からは行動を起こさない」と指摘しています。 この指摘は大筋で的を射ていると僕も思います。 ラナの場合、自分で決断を下すかのような場面でも 「おじいさんだったら」「コナンだったら」と言い添えることがあります。 そんな中で、ラナが最も自律した行動を取るのは、 第13話「ハイハーバー」から第15話「荒地」の間のように思います。 この間、おじいさん (ラオ博士) はほとんど存在感を失います。 第13話「ハイハーバー」でコナンやジムシーを追って自分で木を登り下りするシーンなど、 それ以外の場面であればコナンがラナを抱えるなり背負うなりして登り下りしそうなものです。 さらに、第15話「荒地」でコナンをビンタするに至るように、 コナンから自律した判断で行動するようにラナは描かれます。

そもそも第12話「コアブロック」まで コナンとその仲間ジムシー、そして祖父のラオ博士以外には心を閉ざした感じで ほとんどコナンと祖父だけを見て生きているかのようにラナは描かれていました。 しかしハイハーバーでは、 ハイハーバーの様々な村の住民との関係も見えるようになります。 養父母でもある伯父母 (シャンとメイザル) や風車村の機織りの女友達も登場します。 このハイハーバーを舞台とした話の前半では、ラナは、 ヒーロー (王子様) にしか目が向いていない御伽話のヒロイン (お姫様) ではなく、 家族もいれば女友達もいる普通の女の子となるわけです。 この点が、ヒロインのクラリスをお姫様としてしか描かなかった『ルパン三世カリオストロの城』と ヒロインのラナが普通の女の子となる時を描いた『未来少年コナン』との間の 大きな違いとなっていると思います。

コナンにしても、ハイハーバーではラナを助けること以外をモーチベーションとして摸索します。 その迷走の結果、オーロとの集団とのトラブルに至るとも言えます。 ほとんど悪意を知らない純朴なヒーローとして描かれるコナンですが、 このハイハーバーを舞台とした前半、特に第15話「荒地」では、 ラナを突きとばし、ラナにビンタされるような迷走をする 普通の男の子になるわけです。

大筋で悪意を知らない純朴なヒーローが無邪気に戦いヒロインは単に救出を待つ 勧善懲悪物+プリンセス・ストーリーと言っていい『未来少年コナン』ですが、 そんな中でハイハーバーを舞台とした前半は、普通のプリンセス・ストーリーであれば 「コナンとラナはハイハーバーで幸せに暮らしましたとさ」 というようなハッピーエンドの結語が覆い隠している男女関係の実際 (たとえば、コナンがラナを突きとばしたり、ラナがコナンをビンタするようなときもある) を垣間見させているかのような感もあって、とても興味深く観られました。

といっても、大人になった今観るとやはり話の薄さは否めません。 風車村でのラナの女友達間の友情や ハイハーバーの人間関係におけるコナンの葛藤、 コナンとラナのすれ違いなど、 もっといろいろ掘り下げて描かれていたら、とも思います。 しかし、勧善懲悪物+プリンセス・ストーリーという大枠の中でやるには、 これが限界かもしれません。

クレジットを見ていて気付いたのですが、このハイハーバーを舞台にしての一話 第14話「島の一日」では、絵コンテを とみの 喜幸 (富野 由悠季) が担当しています。 ちょっと調べてみたら、他にも第21話「地下の住民たち」でも担当しているようです。 このハイハーバーでの話に 富野 の個性が強く反映されているとは思いませんが、 翌年『機動戦士ガンダム』においてヒーローが無邪気に戦えなくなるような 人間ドラマを「男の国のアニメ」に持ち込んだ 富野 が、 『未来少年コナン』の中では異質なハイハーバーでの前半の話で絵コンテを担当していた、 というのは、なかなか象徴的なことのようにも思います。

ところで、第13話「ハイハーバー」から第14話「島の一日」でのラナの目が それまでに比べて大きく描かれているのに違和感を覚えました。 小さな目が内向的な印象を与えるだけに、 普通の快活で可愛い女の子であることを表現するためなのでしょうが……。 というか、明るく快活な時よりも、 ちょっと翳がある時の方がいいと思ってしまう自分もいかがなものかと……。 昔々、自分の好きな音楽をいろいろ女友達に聴かせていたら、 「不機嫌そうに歌う女性歌手が好きなんですね……」 と言われてしまったことを思い出してしまいましたよ……(凹)。

しかし、少しずつ書き溜めていたら、いつのまにか長文に……。 『未来少年コナン』について、なんでこんなに語っているのかという……(自問)。

[1247] 嶋田 丈裕 <tfj(at)kt.rim.or.jp>
- 若林, 東京, Tue May 3 1:58:58 2005

NHK教育で再放送していたTVアニメシリーズ 『未来少年コナン』 (1978) が終りました。第15話まで観た感想を ここ談話室に書いてきたわけですが、その後も最終話までHDD録画して観ました。 第15話までの感想で書きたいことはだいたい書いてしまったように思いますが、 そこまでしか観たと書いてないのも中途半端なので、全話通して観ての感想を軽く。

通して観ると、前半のきめ細かな登場人物の描写・演出に比べて、 後半どんどん図式的になる所が気になりました。

『未来少年コナン』の話は、 大きく「ラナ解放」「ハイハーバー解放」「インダストリア解放」という 3ステージに区分できます。 そして、「ラナ解放」の第一ステージに12話、 「ハイハーバー解放」の第二ステージに7話、 「インダストリア解放」の第三ステージに7話費やしています。 後のステージに行くに従い世界が広がり関わる人が増えるにも関わらず、 費やす話数は「ラナ解放」より少ないのです。 そのことは、後になるほど、話の進め方が粗くなり、 図式的で御都合主義的に感じる所が増えることを意味しています。

例えば、第一ステージではモンスリーの2人の部下が クズウとドウケと一応キャラクターを立てて描き分けられています。 しかし、第二ステージでハイハーバーを攻めるインダストリアの兵士は、 中にクズウらしき人もいますが、 個別にキャラクターが設定された兵士が一人もいなくなり、没個性的となります。 これは、作品中では「モンスリー率いるインダストリア軍」で人格的に一括りであり、 「モンスリー率いるインダストリア軍」が占領しているということ以上のものを ほとんど描いていないことを意味しています。 ハイハーバー解放についても、インダストリア軍側に一つの人格しか無いため、 指揮官のモンスリーがハイハーバーの自然に心を動かされ、 さらに、コナンによって大津波から救われただけで、 あっさりインダストリア軍全員が戦意喪失したかのような、 御都合主義とも感じるような描かれ方になっています。

実際のところは、ガンボード沈没の時点でインダストリア軍は軍事的に失敗していて、 モンスリーの心変り如何にかかわらずハイハーバー解放は時間の問題と思われるのですが、 そういう部分がぼやけてしまっているように思います。 そもそも、ハイハーバーの側にオーロのような「とんだ鬼子」が描かれるように、 インダストリア軍の側も占領下の住民の友好的な人のいい兵士から 敵対的で乱暴な兵士まで幅を持たせて描き分けることだってできるわけです。 そのように人物を描き分けることによって、 住民間の齟齬や兵士間の統率の乱れ、個別の兵士と住民の間の交流などを通して、 抵抗運動とハイハーバー解放のドラマを数話にわたって丁寧に描いていれば、 最終的に大津波から救ったことをきっかけにハイハーバー解放となっても、 その説得力は格段に上がったように思います。

このことは、第三ステージについても言えます。 インダストリアの地下住民についても、 実質、作品内での人格は「ルーケと地下住民たち」で一括りとなっています。 一方のインダストリアの抑圧的な支配層も、 「行政局長レプカと行政局員たち」で一括りとなります。 これは、「行政局」が「地下住民」を抑圧してきたということ、や、 装甲シャッター閉鎖と地下街水没を契機に 「行政局」に対して「地下住民」が革命を起こした、という、 抽象的な図式以上のことをほとんど描いていないことを意味しています。 そして、三角塔を駆け登る「地下住民」の群集とそれに圧倒される「行政局」という 記号的な形で革命は描かれます。

そもそも、ハイハーバー程度の人口規模ですらオーロのような「鬼子」がいたのに、 インダストリアの地下住民が一枚岩になっていること自体不自然ですらあります。 地下住民の連帯組織作りや、行政局員の統制の乱れ、 革命時の戦闘、革命後の混乱と統治機構の再編など、 やはり、革命ドラマとして数話くらいかけて描いて欲しかったようにも思います。 もちろん、実際には全26話という制約もあり、 ハイハーバーでの抵抗運動や インダストリアでの革命を描いている余裕は無かったのだとは思いますが。

確かに、ハイハーバー解放やインダストリア解放は、 コナンとラナの勧善懲悪+プリンセス・ストーリーの背景に過ぎず、 図式的に示されていれば充分とも言えます。 しかし、その一方で、ハイハーバー解放やインダストリア解放は 物語を駆動する主人公コナンのモーチベーションでもあるため、 結局、図式の単純さが主人公の心理の単純さに繋がってしまったように思います。 第一ステージのラナ解放はハイハーバー解放やインダストリア解放と違い 私的なことであるため背景の図式から比較的自由でした。 そんなこともあってか、 第7話「追跡」から第8話「逃亡」にかけての ダイスによるラナの誘拐とラナとコナンの逃亡では、 アクションによって主人公の内面の機微、思いの強さを描き込むような演出が 随所に見られました (関連発言)。 しかし、第三ステージとなると登場人物のモーチベーションが社会的なだけ 図式化された背景設定に縛られ、そこからアクションが浮くとこが増えます。 典型的なのが第25話「インダストリアの最期」のギガント上での戦闘シーンです。 ここでのコナンの超人的なアクションは「インダストリア解放」の意気込みの強さを 表現していないわけではありませんが、 第7〜8話のアクションに比べて登場人物の心理との結び付きは弱く、 単純な戦闘アクション・コメディと言った方がよいものになっています。

アクションの派手さという点では第25話のギガント上の戦闘も見所だとは思うのですが、 ハイハーバーに行く前までのアクションに比べて薄っぺらい印象は否めませんでした。 全体を通して最も楽しんで (というよりテンション高い状態で) 観られたのは、 やはり第7話「追跡」から第8話「逃亡」にかけてでした。 ラナがバラクーダ号の船上でコナンと泣き叫ぶシーン、 船長室でのダイスとラナのやりとり、 ラナが舳先での縛りを解いてボードでバラクーダ号を脱出するシーン、 そして、撃沈されたボートでのコナンとラナの水中キス、と、 心を打たれる演出が次々と繰り出されくる 『未来少年コナン』一番の見所だと思います。