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マンガ、アニメ、ゲームについて

マンガ、アニメ、ゲームに関する 嶋田 TFJ 丈裕 の発言の抜粋です。 順番は新しいものほど上になっています。 リンク先のURLの維持更新は行っていませんので、 古い発言ではリンク先が失われている場合もありますが、ご了承ください。 コメントは談話室へお願いします。

- 弦巻, 東京, Sat Jan 18 2:41:29 2003

稲葉 振一郎インタラクティヴ読書ノート・新本館(暫定) を読んでいて、 唐沢 俊一 の 裏モノ日記 の2003年1月15日分に、以下のような記述があることを知りました。

これはエヴァンゲリオンブームの中での東氏たち一派の言説に共通するものだが、彼らには、エヴァが、またヤマトが、そこに至るまでの膨大な量と、それぞれの特質を持ったアニメ作品群、いや、それらをふくめたマンガ・SF・特撮映画という娯楽文化の基盤に支えられて出現し、そのピーク的作品として喝采されたという事実がまったく理解できていない。いや、理解しようとしない。なぜ理解しようとしないのか。それは、知識不足なまま彼らが打ち立てたエヴァ(或いは彼らが好きな他のオタク的作品)に対する独善的理論が、その背景的な作品や成立事情を調べていくに従って成立しなくなっていくことが、彼らにとって都合の悪いことであるからに他ならない、と私は理解している。そうとでも思わなければ、彼らはただのバカではないか。

(中略)

今のわれわれ(オタク 文化に興味を持つ者たち)に必要なのは、それらの資料・証言を照らし合わせ、異同 をただし、それらの中から、日本にどのような過程を経てオタク文化が発生し、どの ような筋道をたどって現在に至るのかという“正史”を作り上げることだ。その上で なら、例えば性の問題、例えばフェミニズムの問題というような個々の分野における分析も有効化するだろう。今の状態でそれを行うのは、患者の血液型や病歴も調べずにいきなりメスをふるうに等しい蛮行である。

僕は、東 浩紀 の本は、 『動物化するポストモダン』 (講談社現代新書, ISBN4-06-149575-5, 2001, book) しか読んだことが無いですし、唐沢 氏が槍玉に挙げている他の人の文章は読んだことがありません。 しかし、『動物化するポストモダン』を読んだときに感じた (例えば、去年のこの発言この発言で 「スーパーフラット」「データベース消費」といった言葉を通して、軽く言及しているような) 漠然とした違和感を、ハッキリと言ってくれたようで、なるほどと思うところがあります。 というわけで、いろいろ誤解しているかもしれないですし、 多分に我田引水になってしまう気もしますが、もう少しコメント。 同じように感じている人がいるのかも、と、ちょっと嬉しかったので…。

『動物化するポストモダン』を読んでいると、 アニメやマンガ、ゲームなどを (モダニズムを批判するネタとして) ポストモダンな文化として祭り上げようとしているのではないか、と、 ふつふつと思ってしまうんですよね (この発言で述べたように)。 その一方で、 例えば、「少年がものを考えるよう」に描くことを可能にしたアニメの技法・約束事、 そういったアニメの技法・約束事の定着を支えた制度、 といったものの変遷を歴史化して浮かび上がってくるのは、 むしろ、アニメにおけるモダニズムだと思います (この発言この発言で述べたように)。 そういうことを考えると、唐沢氏の 「独善的理論が、その背景的な作品や成立事情を調べていくに従って成立しなくなっていく」 という指摘は、さもありなん、と感じるところもあります (唐沢 氏の指摘が、そういうことを指しているとは、判りませんが)。 1990年前後の techno / house 流行初期に、 「house → 引用・匿名性 → ポストモダン」 みたいな物言いが流行ったことを思い出してしまいますね…。 僕には同じような話に感じてなりません。

しかし、美術館でマンガ、ゲームなどを取りあげた展覧会を観る度に 散々言ってきていることですが。 そういったものをアカデミックに (大学や美術館のような場で) 取りあげようとする際に、 系譜立てたり体系的に分類したりする (“正史”を作ると言っていいのかな) ことが 非常に軽視・無視されているように感じることが多いです。 ま、僕も、系譜化・体系化に必要となる地道な作業に寄与しているわけではないので、 あまり強いこと言えた立場じゃないとは思います。 しかし、趣味でハマっているだけの人ならそれでいいかもしれないですが、 アカデミックな人たちがそれでいいの? と思うときもあります。うむ。 もちろん、歴史主義的なアプローチに対する批判もあると思いますし、 その点から歴史化を避けているのかもしれないですが…。

ま、マンガに関しては、 NHK BS『マンガ夜話』 を観ていても、 戦後日本マンガの発展史みたいなもののおおまかな合意が感じられますし、 夏目 房之介 が「夏目の目」でダイアグラムを示したのを観たこともあります (本になっているのでしょうか?)。 そういう意味では、この界隈ではマンガが最も歴史化がするんで入るのかなぁ、と思ったり。

- 弦巻, 東京, Tue Dec 24 23:54:44 2002

美術館でサブカルチャーを扱う展示 (これこれこれ) に関して 「系譜立てたり体系的に分類したりする意図が感じられない」 という話ですが、与えられた現象が「物語化されていない」というより、 与えられた現象 (例えば、ミュージックビデオのシーン) を 「物語化する意図が感じられない」、 いや、そもそも「物語化するという発想が欠落している」って感じでしょうか。 例えば、「新しい感受性」ということを主張するのであれば、 普通、それ以前の「古い感受性」をどう捉えていてそれに対して何が「新しい」のか、 という歴史観が問われると思うんですが…。 そういう主張というか過去に対する批評性が全然無いんですよね…。 歴史観なしに、新しい感受性、新しい表現もないでしょう、と。 いや、業界ノリで「今これがキてる」みたいな話はあると思うんですけど、 それってそのまま美術館でプレゼンするようなことか…、と、思ってしまいます。 「物語の終焉」とか「データベース消費」とかいうタームを使って、 これこそポストモダンな文化的態度と弁護する論とか 目にしないわけじゃないけど、それって単に、 自身の、物事から構造を読み取る能力、物事を体系立てる能力の不足・欠如を 自己申告しているだけじゃないのか、って思うときもありますね…。

- 弦巻, 東京, Sun Oct 27 1:51:23 2002

どうも、堀井さん宮崎 駿 に関する話が、 堀井さんの書いた話と関連していたこと、覚えていませんでしたか。 てっきり、そのこともあって 宮崎 駿 の話をよく覚えていたのかと思いました…。 この 宮崎 駿 の話は、日本のアニメ表現におけるモダニズム、みたいなものを意識していたわけですが。 これを書いていたときに頭の片隅にあったのは、実は、 夏目 房之介 の 手塚 治虫 論 (例えば、『手塚治虫の冒険』 (小学館文庫, ISBN4-09-402521-9, 1995/1998)) だったりします。 これも、日本のマンガ表現におけるモダニズム論という感じで、とても面白いと思いますよ (関連発言) 。 しかし、世間的に見て、マンガ・アニメ論に求められているのは、ポストモダンな文化としてマンガやアニメを扱うものだと思うんですよね。 例えば、現代美術や建築の分野からマンガ・アニメ文化を参照するときにもてはやされるのは、「スーパーフラット」みたいな観点からのものなんですよね。 それに比べて、夏目 房之介 のような観点からのマンガの分析は、とても地味な扱いしか受けてないように思います。 同様に、アニメ表現がいかに登場人物の内面性を獲得していったか、みたいな話には、読者が付かないだろうなぁ、と、つくづく思いますよ。 (前の発言の「ま、こういう話って、例えば「スーパーフラット」みたいな話に比べて、非常に地味な話で、読者もたいして付かないように思いますが…。」を丁寧に言うと、ま、こんなことです。) そして、その構図は、堀井さんの書いていた建築と映画の話と同じだなぁ、と僕は思っています。

- 弦巻, 東京, Wed May 15 23:16:41 2002

さて、 東 浩紀 『動物化するポストモダン』 (講談社現代新書, ISBN4-06-149575-5, 2001, book) を通勤途上の古書店で100円でみかけたので、買って読んでみました。 で、気になるキーワードがあったので軽く読書メモ。 そのキーワードは「動物化」ではなく、「萌え要素」

半年くらい前だったか、平日に休んだとき、TVを付けていて、 『ピーコのファッションチェック』という午後のワイドショー (詳細は失念したのですが、検索したらどうやらフジTV系のようですね) の1コーナーを目にしました。 これは、ピーコ が街中の一般の人の服装に遠慮の無いコメントをするという企画です。 そして、そのときに登場した人で、とても強烈な印象を残した人がいました。 その人は、40歳代の女性で、見るからに安物の上下 (実際、上はユニクロ、下は韓国で買ったという3000円のスカート、 だと言っていたように記憶しています) を着ていました。 それも、それらをカジュアルに着こなしている、というより、 コーディネートもいささか安っぽい印象を与えるものではあったのですが。 しかし、僕に強烈な印象を残したのは、手に持っている鞄は Louis Vuitton 、 腕にした時計は Rolex だったということでした。 その極端な不釣合いさゆえにTV番組でも取り上げられたように思うのですが、 こう示されて改めて見ると、ここまで極端でないにしろ近いコーディネートであれば、 渋谷や新宿で多く目にすることができるようにも思います。 自分のライフスタイル、TPO や自分の属するトライブに合わせて トータルにコーディネートするのではなく、 単にある種のアイテムを記号的に身につける、というファッション消費の仕方って、 「データベース消費」に近いように思えてしまいました。 前者が「大きな物語」 (TPOに合わせて…) や「小さな物語」 (トライブ…) で、 後者が「大きな非物語」というか。 高級ブランド・アイテムって「萌え要素」なのかしらん、というか。

その一方、この本で示されている「データベース消費」的な表象文化の消費って、 実は、ポストモダン云々というより、 市場に組織されて公的な視線に触れるようになったのが最近なだけで、 表象文化の大衆的な消費の基層なのではないか…、 とか思ってみたり、とか、いろいろあるんですが…。

- 弦巻, 東京, Thu Mar 7 23:07:40 2002

『マンガ夜話』 (NHK BS2) を観た勢いで、去年に出た 夏目 房之介 『マンガ・世界・戦略 ―― カモネギ化するのかマンガ産業』 (小学館, ISBN4-09-387336-4, 2001) を読んでみました。夏目 房之介 というと、 『手塚治虫の冒険』 (小学館文庫, ISBN4-09-402521-9, 1995/1998) 、 『マンガはなぜ面白いのか ― その表現と文法』 (NHKライブラリー, ISBN4-14-084066-8, 1997) 、 『消えた魔球』 (新潮文庫, ISBN4-10-133511-7, 1991/1994) のような表現論の本は非常に良くて、お薦めです。 しかし、表現論については本人の中ではひと段落ついているようで、 この本は、むしろ制作、出版、流通といった社会システムの分析という アプローチのマンガ論になっています。 自身のエピソードから語るエッセー的な語り口は確かに読み易いのですが、 こういうアプローチを取るのであれば、 自身の体験は脇において客観的な資料を積み上げた方が説得力が出たように思います。 ま、夏目 房之介 に求めることでもないような気もしますが。 けど、個々のエピソードはそれなりに面白かったです。 夏目 房之介 が企画して欧州を巡回した Manga: Short Comics from Modern Japan 展が気になっていたので、 その企画の概要から欧州での反響の様子、さらに裏話まで読めたのが、 特に興味深かったです。 日本に巡回してこないかなぁ、けど、日本だと開催する意味があまりないのかなぁ、と思ってみたり。

- 弦巻, 東京, Mon Jan 7 22:41:14 2002

去年末、斎藤 美奈子 の 『モダンガール論』 (マガジンハウス, ISBN4-8387-1286-3, 2000, book) が、けっこう興味深く読めたので、続いて読んでみました、 『紅一点論』 (ビレッジセンター出版局, ISBN4-89436-113-2, 1998, book)。 アニメなどにおける主役級の女性の登場人物の分析に関していえば、 正直に言えば、読む前の予想の範囲内でした。 ただ、去年の5月頃にこの談話室でちょっと話をした、 アニメーションの近代芸術化、 という観点からは、いろいろ示唆的な分析があって、興味深かったです。

アニメの国の三○年は、主役の少年たちを 「ヒーロー」の呪縛から徐々に解き放っていった歴史だった、といえるだろう。 古代進(『ヤマト』)→アムロ・レイ(『ガンダム』)→碇シンジ(『エヴァンゲリオン』)という流れにしろ、 コナン(『コナン』)→アスベル(『ナウシカ』)→アシタカ(『もののけ姫』)という流れにしろ、 これは少年がものを考えるようになっていった過程である。 ものを考えはじめた少年は、もはや無邪気に戦うことはできなくなる。 かつて単純素朴で勇猛果敢なアニメの国の英雄譚は崩壊せざるを得なくなった。

という少年向けアニメの分析のまとめ (p.204) など、まさにそうなのですが。 『エヴァンゲリオン』と『もののけ姫』は観ていないので この2作品の分析については保留するものの、 観たことのある前半の4作品に関して言えば納得、というか。 そして、このような登場人物の 「少年がものを考えるようになっていった過程」というのは、 文学の近代化と同じようなものだと思います。 (そして、そこから女性の登場人物を疎外したのも同じか!?)

ま、『紅一点論』に求めるものではないとは思いますが、 物語の部分にばかり注目するのではなく、 やはり、「少年がものを考えるよう」に描くことができるようになった アニメの技法というか約束事の発展や、 そういったアニメの約束事の定着を支えた制度とか、 そういう分析もやはり重要なのではないかなぁ、と思うところもあったりしますが。

アニメに関する話題といえば、 『SIGHT』 (ロッキング・オン, Vol.10 Winter 2002) に、宮崎 駿押井 守 のインタヴューが載っていたので、 ちょっと読んでみました。 1980年前後のアニメの近代芸術化 (作家性や作品性の付与) を制度的な面で支えたのが その当時にどっと創刊された『アニメージュ』 (徳間書店) のような アニメ雑誌だったように、僕は感じていたわけですが。 それについての 宮崎 駿 のコメントが面白いですね (p.10)。

それで『アニメージュ』って雑誌ができて何度か取材に来てたんだけど、 アニメーションの無名性っていうのは、僕らはもうとっくの昔に受け入れていて、 むしろ誰々がやった映画だとか、 誰それの描いたキャラクターだとかっていうことを胡散臭く思ってましたから。 だから極めて非協力的に接してたんです。 『絵を描いてくれないか』って言うのに『ヤダ』って言ったりね、 『3カ月で潰れますよ、そんな雑誌』とかってそんなこと言ってたんですけど(笑)。

そんな意図に全く反した結果になっているというか。 押井 守 のインタヴュー「押井守、宮崎駿を語る」の方も、興味深いんですが。 アニメのことはよく知らないので、 この2人にこんなに接点があるとは思いませんでした。

ま、そんな雑誌記事に触発されたこともあって、この年末年始を使って、ビデオで 『天空の城ラピュタ』 (宮崎 駿 (dir.), 1986) と、 『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』 (押井 守 (dir.), 1984) を観てしまいました。これらの作品が公開された頃は、 もうアニメをあまり観なくなっていた頃だったので、今回、初めて観ました。 『天空の城ラピュタ』は、『未来少年コナン』のようなキャラクターを使った 『ルパン三世 カリオストロの城』のような物語、という感じだったんですね。 というか、オリジナルキャラクターを使って 『ルパン三世 カリオストロの城』をリメイクしたというか。 『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』にしても、 『アヴァロン』 (押井 守 (dir.), 2001) (二番館落ちしてから劇場で観ました。) と同じような作りで、現実と虚構の曖昧さを映像化にしていたり。 監督の個性が強く感じる作りだからこそ、名作と言われるのでしょうか。 いや、そう感じるのは、今から振りかえって観るからでしょうか。 単に、僕の映画を観る目が作家主義に毒されているからだったりして…。 ま、『ルパン三世 カリオストロの城』や 『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』における 『ルパン三世』や『うる星やつら』のキャラクターと、 宮崎 駿 や 押井 守 との関係というのは、 映画における主演俳優と監督の関係、というよりも、 むしろ、ポピュラー音楽における (アイドル) 歌手とそのプロデューサの関係に 近いような印象を受けます。 なんとなく、で、その違いは何か、と言われてもうまく言えないのですが。

- 弦巻, 東京, Sat Nov 24 3:24:56 2001

あ、桝山 寛 『テレビゲーム文化論 ― インタラクティブ・メディアのゆくえ』 (講談社現代新書, ISBN4-06-149573-9, 2001, book) の感想へのコメント、ありがとうございます、河二さん。 「テレビゲームというのを文化的実践として捉えて」というのは鍵だと僕は思うのですが。 この文化的実践の捉え方というのが、制作側の実践が中心だったりする、というのはよくあることで…。 この本も、それなりにテレビゲームを文化的実践として捉えているように思うのですが、 制作するという側から見ての実践というかそういう感じがするんですよね。 これって、いろんな文化論で陥りがちなことだと思っていて。 音楽に関してだって、文化的実践とは作詞作曲編曲演奏、みたいな感じで、 消費する側の実践は単に制作者の意図もしくは暗黙・明示的な規約に従って聴くこと、 って感じで話を進めてしまっていることってけっこうあるような気がします…。

- 弦巻, 東京, Fri Nov 23 17:17:03 2001

桝山 寛 『テレビゲーム文化論 ― インタラクティブ・メディアのゆくえ』 (講談社現代新書, ISBN4-06-149573-9, 2001, book) は、今年の頭に観た、 『テレビゲーム展 ― BIT GENERATION 2000』 を企画した人によるテレビゲーム論。展覧会を観たときは、否定的な印象の方が強く カタログも買う気がしなかったのですが、新書ということで手を出してみました。 想像していたよりもちゃんとした内容だなぁ、と思いました。 けれども、やはり、『テレビゲーム展』を観たときに感じたような違和感と物足りなさを、 読んでいて感じましたが。というわけで、備忘録代わりに簡単な読書メモ。

読んでいて感じた違和感をまとめると次の二点になるように思います。 まず一点は、展覧会の際と同じですが、いささか技術決定論的、というか、 ハードウエアの進化や、アフォーダンスの話のようなジャンルに比較的共通した ソフト的な技法の話を中心に据えすぎなように感じました。 もう一点は、制作者中心の視点で書かれている、ということでしょうか。 マスな消費者側の価値判断の多様性を無視しているように感じましたし、 消費者は作品 (ゲーム) でデザインされていることしかしない (もしくは、デザインされていること以外はゲームとは無関係) と想定しているようにも感じました。 そして、この二点が欠落しているため、少なくともこの本の提示している枠組みでは、 ゲームやその消費者の多様性から生じる現象、 例えは、ゲーム作品の様々なジャンルに関係することなど、 ほとんど扱えないと、僕は思います。

確かに、音楽論と比較して考えるとして、楽器の進化や、 ジャンル間に渡って比較的共通した作曲・演奏の技法についての分析や、 それを社会的な背景として結び付けて語ることは、それはそれで面白いことだとは思うし、 例えば電子音楽において技術が主導したような時代では、それなりに有効かな、とも思います。 この本もそういう意味での面白さはありましたし、 特に黎明期を扱った部分ではこのアプローチは意味があると思います。 しかし、この本の第5章の冒頭でも指摘されているように 技術的にも飽和した感もある現在のテレビゲームの状況を分析するとき、 いささか物足りないものを感じたりするわけです。 もちろん、身体性を持つ方向性で脱「テレビ」ゲーム化していく、という感じの指摘も なるほどと思うところはあるんですが、しかし、テレビゲームは、 それはそれで表現メディアとして生きていくようにも思います。 TVの登場によって、ラジオや映画による表現というものの可能性が 無くなったわけではない、という意味で。 で、そういう部分に関して、この本の示している枠組はほとんど役に立たないように感じるのです。

もう一つ、第3章「「相手をしてくれる」メディア」での議論は、多分に的外れだと思います。 ここでの議論の鍵ともいえる「観賞」するか「体験」するかの区別は、 ほぼ、近代芸術的/機能主義的ということに対応していて、 それは、メディアや表現に本質的なものではなく、 多分にイデオロギー的なものだ、と僕は思っているからです。 特に、96〜97ページの音楽に関する話を持ち出しているあたり (「ロックが「体験」を強調する音楽」、だとか、 「ロックに始まり、その後ハウスやテクノといった機能主義ダンスミュージックへと変貌している流れ」) を読むと、表現における近代芸術/機能主義的という文節のイデオロギーを 素朴に受容して、議論を展開しているように感じられて…。 そこらが、制作側の意図ばかりを見て、 消費者側の自発性・多様性を無視しているように 感じられる一因なのかもしれません。

って、否定的なことを書きましたが、 ある程度のレベルをクリアしているしそれなりに面白く読めたからこそ、 物足りないところをコメントする気になるというか。

- 弦巻, 東京, Sat May 12 1:15:29 2001

連休冒頭に、アフリカ料理屋にワニを食べに行ったのですが、 一緒に行った一人が、 そのときのことを書いてますねー。 って、そこからかなりアクセスがあったので、連休中に気付いていたのですが、 そこからのアクセスがなくなった頃に、こそっとレスポンス。 (単になかなかレスポンスする余裕がなかっただけですが。) 「ガンダムの登場でアニメーションにおけるキャラクターの"内面"が発見された」 (トミノ=フローベール説) って、ま、そんなたいした話じゃないんですが。 どういう話をしたのか、自分への備忘録も兼ねて、メモ。

この話をするのに僕でも思いつくような典型的な例を挙げるとすると、 宮崎 駿高畑 勲 の界隈のアニメの 1980年前後の一連の作品がわかりやすいと思いますが (って、 このとき もその話がメインだったのですが。) まず、『アルプス少女ハイジ』 (1974) や 『母をたずねて三千里』 (1976)、 続いて、『未来少年コナン』 (1978) と 『ルパン三世 カリオストロの城』 (1979)、 最後に『風の谷のナウシカ』 (1984) がくるわけですが、 この間の変化を通して、(少なくとも 宮崎 駿 の) アニメが自律した表現を獲得し、 近代的な内面を持つ登場人物や複雑な世界が、 アニメとして描かれるようになったように僕は思っています。

物語レベルで見れば、『アルプスの少女ハイジ』や『母をたずねて三千里』は、 既存の児童文学のアニメ化です。 それが、『未来少年コナン』では原作をほとんど踏襲しておらず、 オリジナルの物語と言っていいものになっています。 しかし、『未来少年コナン』と『ルパン三世 カリオストロの城』とで 登場人物の間にある程度の対応が取ることができる (コナン=ルパン、 ラナ=クラリス、 レプカ=伯爵、 ダイス=銭形、 モンスリー=峰不二子、 …) ほど登場人物は類型的な面が強いです。 舞台も狭いし、善悪の対比も明白で、舞台世界の設定もまだ単純です。 が、『風の谷のナウシカ』となると、 舞台世界における利害や善悪の関係も複雑になり、 登場人物もさまざまな葛藤を抱え類型に収まらない個性を持つように 描かれるようになったと思います。 これを「キャラクターが内面を持つようになった」と僕は言っていたわけです。 ここで、これらの一連のアニメにこのような変化が起きたのは、 文章で書き起こせる物語の部分に内面描写に相当する所があるから、でもなく、 ナレーションやセリフが「哲学的」「文学的」なことを語るようになったから、 でもなく、アニメの表現自体が変わったからだと、僕は思うのです。 というのは、例えば、『アルプスの少女ハイジ』のような動きや絵の粗さのアニメで 『風の谷のナウシカ』の物語をアニメ化したとして、 いくらセリフやナレーションに凝っても、 それだけではあの複雑な世界観や登場人物は描ききれないように、 つまり登場人物や世界観の設定が鑑賞者にリアルに届くようにはならないように、 僕は思うからです。

しかし、この一連のアニメ作品において、アニメの表現の観点で大きく変化したのは、 『風の谷のナウシカ』でではなく、 『アルプスの少女ハイジ』と『未来少年コナン』の間のように思います。 僕が『未来少年コナン』を観たときはまだ小学生だったわけですが、 『アルプスの少女ハイジ』と同じような絵なのに、登場人物のダイナミックな動きに ぐっと引き込まれたことが、今でも強く印象に残っています。 『アルプスの少女ハイジ』におけるダイナミックな動きといえば、 モミの木のブランコをこぐシーンがまず思い浮かぶわけですが、せいぜいその程度。 ペーターの軽業的な動きも、控え目でした。 基本的に原作の物語があって、それをアニメとして説明していたわけです。 しかし、『未来少年コナン』でのコナンは、 もはや非人間的・非現実的な動きで画面の中を走り回っているわけです。 何かを説明するのではなく、動きそのものが語っている、というか。 最も対照的なのは、登場人物が駆け寄り抱き合って喜ぶような表現。 『アルプスの少女ハイジ』では常識的は範囲の歩幅でことことと駆け寄るわけですが、 もちろん、『未来少年コナン』でもそういうものもありますが、 まるで飛ぶような速度で駆け寄ったりもするわけです。

『未来少年コナン』だけでなく『ルパン三世 カリオストロの城』でも そのような動きが多用されるわけですが。 それでは、コナンやラナ、ルパンやクラリスに特に顕著に見られる、 非人間的・非現実的な登場人物の動きは何を意味しているのでしょうか。 もちろん、ギャグの技法という面もあって、 そういう点ではそれ以前のアニメにも多用されていた表現だと思います。 SFやアクション物としての物語展開上必要となるご都合主義的なトリック、 という面もあると思います。 しかし、『未来少年コナン』や『ルパン三世 カリオストロの城』で特徴的だったのは、 表現形式的な面からのギャグとして主に用いられてきた非人間的な動きの表現が、 登場人物の感情 (喜びや怒り、悲しみ、など) の強弱を表現するために 積極的に使われた、ということだったと思うのです。 実際、コナンやルパンが非人間的な跳躍や疾走を見せるとき、 その跳躍や疾走が困難で非現実的な面が強ければそれだけ、 その行為をしている登場人物の意思や感情が強い、 ということを表現しているわけです。 『未来少年コナン』や『ルパン三世 カリオストロの城』では、 登場人物の動きを非人間的な領域にまでデフォルメすることによって、 『アルプスの少女ハイジ』では限られていた 登場人物の感情や意思の表現の幅を広げたのだと思います。 そして、デフォルメした大きな動きを導入することによって、 それに対比することによる、小さな動きによる微妙な表現も可能になります。 これによって、微妙な感情の揺らぎや意思の変化を、 アニメとして表現することが可能になったのだと思います。 もちろん、このような微妙な表現を可能したのは デフォルメされた登場人物の動きを用いた表現技法だけではないと思いますが、 『風の谷のナウシカ』で、 近代文学作品に匹敵するような複雑な登場人物像や世界観を アニメとして描くことができるようになったのは、 このような『未来少年コナン』や『ルパン三世 カリオストロの城』で作られたような (もちろん、同時代の他のアニメ作品で作られたものもあると思いますが) アニメ表現があったからだと僕は思っています。

そして、このようなアニメ表現の近代芸術化とでも言えるようなものと、 宮崎 駿 のようなアニメーターが作家とみなされるようになったのとは、 並行して進んだようにも思います。 もちろん、アニメの熱心なファンならそれ以前から 演出やキャラクターデザインを手がけた人をチェックしていたと思いますが、 『風の谷のナウシカ』の頃には普通にアニメを観ている人でも、 宮崎 駿 作品として意識されるようになったように思います。 そして、そのような作家性の成立は、単に制度的なものだけでなく、 アニメ技法によって表現することが可能な登場人物像や世界観が、 そこに「作家の意図」を汲み取ることができるくらいに複雑になった、 ということとも関係していると思います。 もちろん、有名どころでは1978年に『アニメージュ』 (徳間書店) が創刊されたように 1977〜1981年の 間に多くのアニメ雑誌が創刊されているわけで、 このようなメディアがアニメの作品性、アニメーターの作家性を 強めていったという、制度的な変化もあるのではないかと僕は思いますが。

さて、宮崎 駿 のアニメの話から離れて、 の 『機動戦士 ガンダム』 (1979) の話に戻ろうかと思います。 僕がこのアニメのTV放送を観たのは1980〜2年頃にあった 最初の再放送のときだったと思うのですが。 ちょっと暗いと感じる程の内省的な登場人物の描き方は、 それまでみたアニメとは違うという感じで、その当時も印象的でした。 そして、宮崎 駿 のアニメで述べたような位置付けできないのですが、 『機動戦士 ガンダム』のようなアニメの登場は、 僕にとっては『風の谷のナウシカ』へ向けた宮崎アニメの変化と 並行する関係に、僕には見えていました。 そして、それまでもそれほど熱心にいろいろ観ていたわけではないのですが、 『機動戦士 ガンダム』はほぼ全話観たのですが、それ以降、 僕は日本のアニメはほとんど観なくなりました。 僕は『風の谷のナウシカ』にはもはやついていけませんでした。

中学高校時代 (1980〜5年)、 周囲には『アニメージュ』のような雑誌を読んでいる友人もけっこういましたし、 ときどきそんなアニメ雑誌を読ませてもらったりしていたわけですが、 そんな雑誌記事で語られている作家の意図やら物語の解釈、登場人物の内面などが、 次第に僕には胡散臭く感じられるようになっていました。 これは、多分に 筒井 康隆 の小説を好んで読むようになって、 技法に自覚的な小説の読み方に影響を受けたところもあると思うのですが。 決定的だったのは、筒井 康隆 の影響で中学から高校に進学する頃 (1982〜3) に読んだ アラン・ロブ=グリエ 『新しい小説のために』 (Alain Robbe=Grillet, Pour Un Nouveau Roman, 1963) でしょうか。 アニメ雑誌記事などに書かれた、 『機動戦士ガンダム』や『風の谷のナウシカ』が持っているとされた メッセージや登場人物の内面など、 Robbe=Grillet が Pour Un Nouveau Roman で批判していること ものそのものじゃないか、と思いましたし、 それに従って「それはアニメの技法で実現されているものであって現実は違う」と 切り捨てるのが、1980年代の僕の基本的な立場でした。 今から思うとそれも単純で極端だったと思いますが。 少なくとも『風の谷のナウシカ』が出てきた頃には、 概念的な面でここまで明確になっていませんでしたが、 今ここで書いたような感じのことは、それなりに意識するようになっていました。 逆に言うと、そういうことを意識し始めたころだったから、 『機動戦士ガンダム』や『風の谷のナウシカ』といったものを 近代的な内面を持つ登場人物を持つアニメの登場として 捉えていたのかもしれないと、思うところもあります。 そういうことを意識させるような雑誌媒体が登場し始めた頃でしたし。

実際のところ、僕がいわゆる日本のアニメ (つまり、漫画映画的なもの。 クレイやパペットのアニメーションは除く。) をよく観ていたのは、 1980年代初頭くらい (中学生くらい) までで、それほど網羅的に観ていないので、 登場人物の内面描写の技法の変遷を観た場合でも、 違うところでこので挙げた以上に急激な変化が見られるのかもしれないですが。 それに、それ以降、この話で挙げた作品もほとんど観直すことはしてないので、 誤認や思い込み違いなどがあるかもしれません。 というわけで、補足、訂正のコメントは特に歓迎します。

ま、いわれるまでもなく、 こんな話をすれば、ひく読者も少なからずいると思いますが。 ま、もともとこのサイトはモテ系の逆を行っているので、 それは気にしないということで。 それに、この話をこの談話室でしておこう思ったのは、 堀井さんの Cybernote で出てきた 建築と映画に関する話 を読んで少々思うところがあったから、ということもあります。 自分の中でもきちんと対応が取れているわけではないのですが、 マンガやアニメのようなものが現代美術の文脈などで言及され引用されるとき、 似たようなことが行われているように感じることがあるからです。 既にマンガやアニメが近代芸術的な技法や制度を備えているのにもかかわらず、 美術の文脈における近代主義の文脈になかったというだけで その批判の道具として用いられているのではないのか、とでもいうような。

嶋田 TFJ 丈裕 <tfj(at)kt.rim.or.jp>
- 弦巻, 東京, Tue Oct 31 23:19:24 2000

昨晩からまた始まりましたね、 『BSマンガ夜話』。 第16弾 (NHK BS2, 10/30-11/2, 24:00-25:00) の第一回は、 車田 正美 『聖戦士 星矢』 (週刊少年ジャンプ)。 車田 正美 というと、まだ少年マンガ誌をそれなりに読んでいた 1980年 (中学進学) 前後に連載されていた『リングにかけろ』 を少し知っている程度。 ま、『聖戦士 星矢』も『リングにかけろ』みたいなマンガ、 という程度の認識しか無かったのですが。ま、たいして認識は変わらなかったですね。 といっても、『聖戦士 星矢』は「ヤンキ―マンガ」であり、 その大ヒットはヤンキ―文化が一般化したという証だという主旨の いしかわじゅん の指摘には妙に説得力を感じてしまいました。

それよりも、レギュラー陣 (いしかわじゅん岡田 斗司夫、 夏目 房之介 と司会の 大月 隆寛) が、 表現手法の特徴やヒットの要因の分析、例えば、「ヤンキ―マンガ」という結論や それに至る表現の分析における「半端な知識の濫用」「派手なデコレーション」などの 指摘に対して、かつての愛読者だったゲストの一人 (名前がわかりません…。) が、 「関係ないじゃん」「そういうのむかつく」と言って、 かなりの不快感を表明していたのが、見ていてとても興味深かったです。 また、週刊少年ジャンブの制作システムに関する話は作品とは関係ないと感じて、 その話が出たことに 不快感を感じている視聴者が、少なからずいるというのも、同じような話ですね。 実際のところ、車田 正美 のこの大ヒット作の表現形態を考察するには、 映画におけるハリウッド・システムのように 大ヒットを支えた制作システムが切って離せない、と (ま、そう明言したわけじゃないですが、「日本はハリウッドは作れなかったけれども、 週刊少年ジャンプを作った」と言っていたくらいで、僕からすれば明らかにそう) いう感じで、週刊少年ジャンプの話が出ていたのですが。

ま、これって、マスダさんの指摘する サブカルチャーを巡る言説闘争 の一例ともいえるようなものだと思うのですが。 レギュラー陣だってアカデミズムというほどガチガチじゃないし、 ゲストだってオタクというより普通のファンという感じだったのですが、 それでも、こうも対立が表面化してしまうのだなぁ、と感慨深かったです。

僕が音楽などを語る際に取っている立場はかなり折衷的だと自分では思っていますが、 それでも、この番組で対立する様子を見ていて、僕がここに書いている 音楽趣味履歴話も、 特に、ギターポップに関してのインディーズ・イデオロギーの話とかは、 読んでいて不快に感じるギターポップのファンも多いかもしれない、と思いました。 この話の直後にこのサイトの読者が半減したのも、その影響も大きかったりして…。 ま、これに懲りずに続けますけど。

嶋田 TFJ 丈裕 <tfj(at)kt.rim.or.jp>
- 弦巻, 東京, Thu May 18 23:56:45 2000

岡崎 京子 ですが、今まで読んだ限りでは僕にはピンとこないですね。 『リバーズ・エッジ』 (新装版, 宝島社, ISBN4-7966-1669-1, 2000/1994) の後に、さらに、『ジオラマボーイ、パノラマガール』 (マガジンハウス, ISBN4-8387-0059-8, 1989)、 『pink』 (マガジンハウス, ISBN4-8387-0107-1, 1989) といったところを入手したのですが、 『ジオラマボーイ、パノラマガール』を少し齧ったところで、 積読状態になっています…。 そういえば、『ジオラマボーイ、パノラマガール』も 団地が舞台の一つになっていますね。

大友 克洋 『童夢』 (双葉社, ISBN4-575-93032-6, 1983) は、 僕は楽しめましたが、「今読んでも」なのかどうかは判断しかねます。 僕の過去に団地育ちの経験があるから、かもしれないですし。
翻訳したら売れる、といった話ですが、 欧米にもあの舞台となっているような大規模な団地ってあるのでしょうか。 舞台となっている団地の雰囲気が理解できないのではないか、という気もしたので。 アメリカのサバービアとはまた違うように思いますし。 そういえば、Paris 郊外の新しい高層の集合住宅が 1970年前後の Jean-Luc Godard の映画とかによく出てきたりするので、 ヨーロッパには日本の戦後の団地に相当するものが それなりにありそうな気がしますが。 それでも日本の団地とはちょっと違うのではないか、と。
実は、『AKIRA』 (全6巻, 講談社, 1984-1993) も、実は第5巻くらいまで読み進めてはいるんですが、 『童夢』ほどは面白く読めないです…。 単に、近未来SF的な設定があまり好きじゃないから、 というだけのようにも思いますが。

高野 文子 の最新の単行本は、 『ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事』 (マガジンハウス, ISBN4-8387-0896-3, 1998) です。 絵は好きな方ですが、話はそれほど好きじゃないです…。
『棒がいっぽん』 (マガジンハウス, ISBN4-8387-0613-8, 1995) は、 「美しい町」 (1987) はもちろん、「バスで四時に」 (1990) や 「東京コロボックル」 (1993) など、僕の好みの収録作品がけっこうあって、 最も好きな単行本です。
次に好きなのは、『るきさん』 (筑摩書房, ISBN4-480-87224-8, 1993)。 4コママンガというか、静的なコマ割の16コママンガなんですが。 ふと思ったのですが、この16コマ形式って、 『ビックコミック・スピリッツ』 (小学館) に連載されていた 中崎 タツヤ 『じみへん』と同じですね。 他にこの形式を取っている有名なマンガって、何がありましたっけ?
『絶対安全剃刀』 (白泉社, ISBN4-592-76016-6, 1982) は画風にもばらつきがあるように感じますし、絵があまり好きじゃなかったりします。 「ふとん」 (1979) とか好きな作品もありますが、 『棒がいっぽん』 ほどは楽しめませんでした…。
『おともだち』 (筑摩書房, ISBN4-480-87235-3, 1983/1993) くらいになると、絵は落ち着いてきているように思うのですが。
って、高野 文子 の単行本は、この5冊だけだと思います。

嶋田 TFJ 丈裕 <tfj(at)kt.rim.or.jp>
- 弦巻, 東京, Wed May 17 1:22:27 2000

閑話休題。今年の2月頃に、この談話室で 岡崎 京子 の話題が出たわけですが。しばらくして、僕も、 『リバーズ・エッジ』 (新装版, 宝島社, 1994/2000, ISBN4-7966-1669-1) を読んだりしていたのですが。 いまいちピンとこなかったり、忙しかったり、他に盛り上がっている話題があったり、 で、コメントしていなかったのですが。この連休中に 大友 克洋 『童夢』 (双葉社, 1983, ISBN4-575-93032-6) を読んだら、とっても面白かったので、マンガ話を少々。

まず、『リバース・エッジ』ですが、題名どおり、最も印象に残ったのは、 河原、というか、川縁の風景でした。 草っ原の河川敷にコンクリートで固めた堤防、その向こうにはすぐビルが並ぶ、 という風景は、ありそうでそれほどない風景だと思います。 といっても、僕は、自転車散策で見慣れた、 多摩川の最下流、大師とか六郷とか川崎駅の近くの風景を連想しましたが。 八景島とか大森のレントゲン芸術研究所など、 マンガの中で話題に上る場所から考えても、 多摩川か鶴見川の河口近くあたりがモデルになっているように思います。

そうそう、川似さんが2月頃のコメントで、 妹にカッターで切り付けられる閉じ篭りの姉との対比として、 『童夢』に出てくるカッターで自爆する部屋に閉じ篭ってプラモデルを作っている男 を挙げていましたが。読み比べると、なるほど、と思いました。

『童夢』を読んでいて面白いと思ったは、 いわゆる大規模な団地に感じる漠然とした不気味さや得体の知れなさを、 「子供の超能力」というフィクションを使って巧くマンガ化している、 と思ったところでしょうか。 僕も、都区内で大規模ではないものの、小学校時代まで団地で育ったので、 こういう不気味な感じってわかるような気がしました。

『リバース・エッジ』の主人公が住んでいるのも団地だし、 共通する部分も多いと思うのですが、漠然と感じる不気味さ、という点では、 僕の感覚とズレているように思いました。河原に埋められた死体の描き方が、特に。 描線のリアルさのせいもあるのでしょうが、 不気味さすら、生理的に訴えてくるというより、 ワンクッション置いた記号的なものになっている、というか。

『リバーズ・エッジ』にしても『童夢』にしても団地を描いているわけですが、 最近読んだ団地を描いたマンガで、とても気に入っていて、 強く印象に残っているのは、高野 文子 「美しき町」 (1987; 『棒がいっぽん』 (マガジンハウス, 1995, ISBN4-8387-0613-8) 所収)。 団地、というか、集合住宅が、『童夢』で描かれるような不気味なものになる以前、 まだ近代の夢でありえた時代を描いたマンガといった具合です。 戦前の同潤会アパート的な夢というより、 戦後高度成長期の 団地の夢という感じですが。 題名からしても、かなり感傷的に懐古的にこの夢を描いていますが。 逆に今はもう無いものというのを実感させるような。
団地から近くの工場に通う労働者の若夫婦一家を描いていて、 労働組合運動に対する言及 (第二組合潰しとか) もあったりするのに、 社会的というよりもずっと私的にこじんまりして、かなりズレた感じになっています。 大友風の劇画調で描いたら社会派のシリアスなマンガにでもできそうなところを、 高野のちょっととぼけたような間のあるマンガ絵が、ズラしているように思います。 それから、このマンガが収録されている『棒がいっぽん』で多用されている かなり特殊な視点から描かれた絵のせいも、題材の脱構築にハマっていますね。 収録されている「東京コロボックル」 (1993) から、 コロボックル的視点、とでも名付けたくなるような。 「美しき町」は、こういう題材と表現のバランスが絶妙で、とても面白かったですね。

で、この3作品を読んで、団地マンガ とでも言うようなものがあるんだなぁ、 と、思ったりしたりしました。ふむ。

嶋田 TFJ 丈裕 <tfj(at)kt.rim.or.jp>
- 馬込, 東京, Thu Mar 30 23:25:35 2000

昨晩書いた、ゲームにおける価値判断、 また、それに関係する、オーセンティシティ、作家性、ジャンルの話ですが、 ちょっと言い足りなかったので、補足します。
価値判断の基準軸としては、基本構造の新規性、 難易度を決める基本構造のパラメータのバランス (ゲームバランス)、 ストーリー・世界観の良し悪し (ゲームに内在・外在)、 登場するキャラクターの好感度、背景の好感度、描画能力、B.G.M.の好感度、… があるわけですが、これらは互いに独立に存在するわけではなく、 微妙な階層構造をなしていると思います。
例えば、ゲーム関係の掲示板のログ (例えば、検索して目についたのは サターンの掲示板) を読んでいると、 「ギャルゲー」に対する批判、もしくは、 あるゲームを「ギャルゲー」として低く評価する、 ということがよく見られるわけです。(もちろん、一方的でではないですが。) 「ギャルゲー」の定義は 「ユーザーの購入・プレイの目的の中心がゲーム中の女の子にあるゲーム」 というわけで、肯定・否定いずれにせよ、それにまつわる評価基準軸は ゲームに登場するキャラクタの好感度に関するものといえます。 「ギャルゲー」はそれなりに人気があり、 キャラクタの好感度という観点では評価は高いとも言えます。 むしろ、面白いのは、「ギャルゲー」に対する批判を読んでいると、 キャラクタの好感度の観点から評価が低い、というのではなく、むしろ、 キャラクタの好感度の観点からしか高い評価ができない という形で行われる、ということです。 むしろ、そこで強調されるのは、基本構造の新規性やゲームバランスにおける評価、 といった異なる評価基準だったりします。
このような話は「ギャルゲー」に関する話においてのみ見られるわけではありません。 例えば、rouge-like のサイトでの、 『チョコボの不思議なダンジョン2』 (スクウェア, 1998, PS) への コメント にも、同じようなことが言えるように思います。 『チョコボレーシング』へのコメントも含めて、このでの話は、 「ギャルゲー」ではなく「「チョコボ」もの」という感じですが。
話をまとめると、まず第一に、キャラクタの好感度が ゲームの価値判断の基準として存在すると思います。 確かに、ゲームに関するサイトや掲示板での発言としては 目立たないかもしれないですが、少なくとも、人気や売上の点で、 それを批判する人にとっても無視できない存在になっていると思います。 いや、むしろ、そちらの方が主流なのかもしれません。 むしろ、その上で、あるゲーム愛好者の集団において、 基本構造の新規性やゲームバランスの価値判断に基づいて、 「良いゲーム」という形での趣味の差別化が行われているように思います。 そして、そこでは、基本構造の新規性やゲームバランスの評価軸が、 キャラクタの好感度による評価軸より、上位にあるわけです。 さらに、もうちょっと突っ込んで言えば (理由付けとなりそうな典型的なサイトが見つからないので、 いまいち説得力に欠けますが…。)、そういった価値判断基準の階層は、 価値判断する人のゲームやコンピュータに関する経験・知識・スキルの量、 さらにその周辺のマンガ、映画、小説に関する知識の量 などとも対応していると、僕は思うのです。

嶋田 TFJ 丈裕 <tfj(at)kt.rim.or.jp>
- 馬込, 東京, Wed Mar 29 23:51:49 2000

だいぶ余裕が出てきたので、先週末に、 PlayStation 2 用のゲーム・ソフトを買いました。ゲーム機としても使おう、とは思っていたので。
買ったのは、 『ファンタビジョン (Fantavision)』 (Sony Computer Entertainment, SCPS11002, 2000, PS2)。 落ちるのではなく打ち上げるという違いがあるとはいえ、 ある制限以内に状態選択し決定して得点を得る、という意味では、 ゲームの基本構造はテトリス型パズル・ゲーム (「落ちゲー」) です (表1)。

表1: テトリス型パズル・ゲームの基本構造と『ファンタビジョン』
『テトリス』『ファンタビジョン』
選択の自由度整数型 (右、左、90度回転の3操作)実数型 (ジョイスティックで360度全方向)
状態の自由度整数型 (ブロックの位置)実数型 (花火の位置)
決定一段階 (落下)二段階 (「キャッチ」と「フラッシュ」)
制限時間落下時間花火が消える時間
罰則落下時間短縮 (ブロック上面上昇)プレイメーター減少
得点一種類 (横一列完成)多種類 (花火の組合せ方による)

しかし、状態選択の自由度が実数型、つまり「連続」になっただけで、 「キャッチ」の操作がシューティング・ゲーム風になるものですね。 しかし、PlayStation 2 を買う前までコンシューマ・ゲーム機など持ったことが無く、 コントローラの操作に慣れない僕にとって、これが実に難しいのです。ひえ〜。 昨晩、やっと最初のステージをクリアしました…。
PlayStation 2 の能力を生かしたといわれる花火のグラフィックスは 確かに少し綺麗かなとは思いますが。 家の14インチTV画面ということもあるのか、そもそもNTSCの限界なのか、 それほど凄いという感じでもありません。 手ぶれがあったりパンが早いとビデオや映画でもすぐに酔ってしまう僕とって、 レーシング・ゲームの画面はもちろん、 RPG でもダンジョンの中を動き回ったときに変化する3Dで描かれた画面を見ていても 酔って しまいがちなのですが、このゲームの場合はそういうことは無さそうです。 これもけっこう嬉しかったりします。
意匠、という観点では、得点やハイスコアの表示も 一昔前のアーケード・ゲーム風ですが。 ガイダンスや付属のパンフレットに出てくる人物の写真など、 アメリカのミッドセンチュリーの白人中流階級的なものを意識していますね。 ちょっとレトロにミッドセンチュリー・モダンな雰囲気を ちょっと演出しているようにも思いました。徹底しているわけじゃないですが。
といっても、もっとミニマルな ― つまり、ゲームの基本構造以外の部分に ついては意匠などを作りこんでいない ― 作りの方が僕は好みですね。 花火の炸裂は良いと思いますが 最初のステージならビル街の夜景やジェット機などの背景は無い方が良く、 音についても、B.G.M. は不要で、花火の炸裂音だけの方が良いように思います。 得点などの表示も、もっとシンプルで幾何的な感じの方が見やすいように思います。 B.G.M. は音量調節できますが、背景は off にできないんですよね…。
しかし、現在のゲーム機のハードウェアの進歩って、 まさにゲームの構造とは関係ない描画や音の処理の部分に関するものなのですよね。 また、おそらく、ゲームの開発費用のほとんども、 そういう部分に費やされているように思います。 制作側ではなく消費側から見ても、ゲームを楽しんでいる人たちの中には、 ゲームの構造とは関係ない背景や音楽を楽しみにしている人もいるわけですし、 実際、ウェブサイトなどでゲームに関するコメントを見ていると、そういう観点からの 「第○ステージが好き」といった価値判断は、 『ファンタビジョン』に対してだけでなく、広く見られます。 そういったことを否定するつもりは、僕はありません。

そう、まだたいしてゲームはしてないですが、それでもこうして実際にやってみると、 ウェブの日記や掲示板で読むことができる何気ないゲームのコメントを読んでいても、 ゲームにおけるこういった価値判断の基準、オーセンティシティや作家性、 それに基づく様々なジャンル分けなどが具体的に見えてきて、 とても興味深いです。 コンシューマ・ゲーム機を買って一番面白く思っているのは、 実はこういう所だったりします。 ウェブ・サイトの日記や掲示板を見ていて僕が気づいた限りでは、 こんな感じになっているように思います。 ざっとまとめたものなので、いくらかの誤解も含まれていると思いますが。

価値判断の基準
基本構造の新規性、 難易度を決める基本構造のパラメータのバランス (ゲームバランス)、 ストーリー・世界観の良し悪し (ゲームに内在・外在)、 登場するキャラクターの好感度、背景の好感度、描画能力、B.G.M.の好感度、…
オーセンティシティ
ゲーム史 (過去の「名作」「ヒット作」と言われる一連のゲーム)、 マンガ・アニメーション (ストーリー・世界観、キャラクター、背景)、 小説 (特にSF、ファンタジー) (ストーリー・世界観)、 映画 (特にSF、特撮) (ストーリー・世界観、キャラクター、背景)、 音楽 (B.G.M.)、実世界との類似度 (基本構造、世界観)、 ハードウェア・ソフトウェアの処理能力、…。
作家性
ハードウェア・メーカー (特に、描画能力、世界観 (画像・音声のリアルさ))、 ゲーム・メーカー、プロデューサ (キャラクタの好感度、ストーリー・世界観の良し悪し)、 キャラクタ・CGデザイン・アートディレクタ (世界観・キャラクタ・背景の好感度)、 声優 (キャラクタの好感度)、B.G.M.制作者 (B.G.M.の好感度)、…
ジャンル
基本構造に基づくもの (ロールプレイング、パズル、レーシング、シューティング、…)、 キャラクタに基づくもの (○○もの、「ギャルゲー」、…)、 ストーリー・世界観に基づくもの (「ギャルゲー」、「エロゲー」、…)、…

上のリストやその間の関係もまだうまくまとまっていませんが…、 言うまでもなく、こういった価値判断の基準と判断者の社会的背景 (ゲームする頻度、コンピュータに関する知識や利用頻度、年齢、 教育的背景 (最終学歴、理系・文系、…)、他の趣味嗜好 (マンガや音楽)、…) との相関もそれなりに感じられるわけで、 そのゲームにかんするコメントが載っている日記や掲示板の「ノリ」との相関、 というのも興味深いものがあったりしますが…。

嶋田 TFJ 丈裕 <tfj(at)kt.rim.or.jp>
- 馬込, 東京, Mon Jan 31 23:55:58 2000

1月26日の発言で、手塚治虫的なマンガの方の評論を読んでいない、と書きましたが、 せっかく勢いがついたところで、大阪行の移動時間を使って、 夏目 房之介『手塚治虫の冒険』 (小学館文庫, ISBN4-09-402521-9, 1995/1998) を読んでしまいました。書店頭で比べた限り、 『手塚治虫はどこにいる』(ちくま文庫) よりまとまっているように思います。 議論の甘さはありますが、日本のマンガ表現におけるモダニズム論、 という感じでとても面白かったです。これと、 『マンガはなぜ面白いのか ― その表現と文法』 (NHKライブラリー, ISBN4-14-084066-8, 1997) と 『消えた魔球』(新潮文庫, ISBN4-10-133511-7, 1991/1994) と併せてどうぞ、といったところでしょうか。

嶋田 TFJ 丈裕 <tfj(at)kt.rim.or.jp>
- 馬込, 東京, Wed Jan 26 1:14:08 2000

日曜日に、川似さんに、マンガに関する評論・エッセーとして、 夏目 房之介 を勧めたのですが、八重洲ブックセンターで具体的に本を勧めようと思っていたら、 閉店後でできなかったので、ここでフォローアップ。 僕自身、マンガに関する知識があるわけではないので、 私信にするよりも、ここで話した方が、話が発展する可能性もあるかと。

まず一冊読むとしたら、夏目 房之介 『マンガはなぜ面白いのか ― その表現と文法』 (NHKライブラリー, ISBN4-14-084066-8, 1997) を僕は勧めます。1996年7〜9月にNHK『人間大学』で放送された 夏目 房之介『マンガはなぜ面白いのか』のテキストの文庫化 (正確には、文庫サイズよりちょっと大きい本ですが。) で、 文庫化に際して大学での講義録を2本、追加収録しています。 おおよその概要は、描線、オノマトペ、コマの構成といった表現に焦点を当てて、 マンガがどのような約束事 (文法) によって成立しているか明らかにし、 その成立の過程を日本戦後史を軽く絡めながら分析するというものです。 文学的なストーリーにだけ焦点を当てて文学の手法を当てはめる、 といった評論とは一線を画しています。 このTV番組は大変に面白く、マンガ以上の射程のある内容だったと僕は思います。 僕もかなり影響を受けています。 これは、今でもテキストはこうして文庫で手に入るので、一読を勧めたいです。 ただ、テキストが主体で、挙げている例のマンガ模写が少ないのが難かもしれません。

夏目 房之介 のこうした一連の評論・エッセーの原点は、 夏目 房之介『夏目房之介の漫画学』(ちくま文庫, ISBN4-480-02625-8, 1988/1992) ですが、マンガの部分が主役という感じで、文章がまだこなれていません。 テキストはエッセー風ですが 例として挙げているマンガ模写のバランスが良いと思うのは、 対象となるマンガが「熱血スポーツ漫画」に限定されるのですが、 夏目 房之介『消えた魔球』(新潮文庫, ISBN4-10-133511-7, 1991/1994)。 これは、非「手塚治虫」的なマンガの系譜に関するエッセーなので、 夏目 房之介『手塚治虫はどこにいる』(ちくま文庫) を併読した方がいいのかもしれないのですが、こちらは僕は未読です。 夏目 房之介『マンガと「戦争」』(講談社現代新書, ISBN4-06-149384-1, 1997) というエッセーもあって、(これは出たばかりのころにこの談話室で触れましたが、) 表現と社会背景の関係を深読みし過ぎているように思います。 あと、夏目房之介・他『マンガの読み方』(別冊宝島EX, 1995) というムックもありますが、これも僕はチェックしていません。