LDP・スクラッチ 1997.9.10〜12.20

♪ クールな、お言葉
● LDP・スクラッチ
○ 哲学的?エッセイ
♪ 羊通信
♪ ひつじ・わーるど


テキスト派より・・・3



しばらく前になるが、ある意味で団塊ジュニアを象徴するような典型的な発言を、あまり見ないTVで2度ほど見た。

一つは筑紫哲也の司会で行なわれていた神戸の事件に関する番組だった。
モデル出身の俳優である反町のようなモテそうな若者が

 “どうして人を殺しちゃいけないのか、わからない”

と述べ、しかも、誰もそれに回答できないという状況が、現在の団塊ジュニアとそれを取りまく環境を見事に映しだしていた。

あと一つは朝ナマだが、会場の若者の一人がオタキングや宮崎らの出席者に対して

 “あなたたちがイデオロギーをつくったから、ぼくたちが生まれてきた時には
  すでにイデオロギーがあって、ぼくらはどうにもならない状況だ”


という怒りと緊張に満ちた発言だ。
さすがに反ニューアカのイデオローグであるはずの宮崎自身も呆れ返り“何が言いたいの?”で終わってしまった。

ここで明白になったのは反ニューアカというイデオロギーやスタンスも所詮イデオロギーとしてしか見なされていないという事実だ。当り前だが。
岡田はナニワの御用聞きよろしく若者にこびつつ問い直していたが、岡田が現象を論じても共同性や幻想そのものを論じる能力がないことがバレてしまうような趣でもある。宮崎の“何が言いたいの?”でケリがつく程度の事にすぎないのだから。





ところでホントの問題はそんなところにはない。

問われるべきなのは若者が対象化としている「イデオロギー」の意味だ。

もちろん、これは文字どおりのイデオロギーではない。これは若者が感じている不安やビビリや不可知なものを反映させた表現にすぎないからだ。

心理的防衛機制において不安は対象化・具体化されるとともに何らかの理由付けがされる。不安を対象化・具体化することが不安克服の第一歩であり、ついで、理由付けは不安解消のプログラムを用意することの準備だからだ。


若者は「イデオロギー」を「あなたたちがつくった」と言う。

つまり、若者は不安の原因を「あなたたちがつくった」と理由付けることによって不安解消プログラムを用意しようとしているのだ。

「あなたたちがつくった」のだから「あなたたち」が解決せよ、ということだろうが、そこには相手に依存するという幼児的な甘えが見える。また「あなたたち」とするところに微弱ながら共同性への正常な認識(関係意識)もあることもわかる。この共同性への関係意識が歪み、対象(関与)とする相手も妄想となれば、それは電波系にほかならない。

現実的には、この後若者がどのような解消プログラムをどのように実行していくかに彼自身の不安や憤りの解消はかかっているのだが。

もちろん、対象化された不安やその理由付けが間違っている場合(現実と整合性がない場合)その解消プログラムの実行は空回転し、他者から見れば、それはコッケイであり、狂気でもある。くり返すが、それは電波系でしかない。

たとえば少年Aがそうだし、オウムもそうだ。


オウムにおいては不安の具体化・対象化として「社会の矛盾」や「アメリカ」が仮想され、そして不安解消プログラムの実行可能性として、対象に対抗する行動や対象に対抗する教団への絶対帰依が当然のこととして求められたのだ。もちろん、この場合の「不安」は信者個人の不安を喚起し教団の求心力として機能させるためでっち上げられたものでもあるが。


若者なればこそ感じるであろう「不安」や「怒り」は掘り下げてこそ意味がある。

が、実際には思考能力のなさに応じてバカバカしく対象を自己創出し、自閉した自己防衛にとらわれてケースが多い。「あなたたちがイデオロギーをつくった」という言い分も、その一例にすぎない。これは精神分析などで補完できるものではない。『心的現象論序説』や『初期心的現象の世界』に拠るなら別だが。



大塚英志の倫理



表現と表現者、発言と発言者は峻別しなければいけないという常識と、表現と表現者は不可分だという常識がある。

実際には、主張とその人がギャップなく存在し、ある種の倫理を放っている場合もある。

たとえば大塚英志だ。


早くから消費資本主義を解析してみせ、アニメや少女を取り上げてもいた彼の鋭い時代感覚は、消費資本主義の張本人でもある大手広告代理店から新人類メジャーのポパイ少年らに圧迫され日陰者だったオタク、そしてアカデミズムまで、多くから評価を得ている。


リメイクという拡大再生産を資本主義の特徴として描いてみせ、ジュリーだけがリメイクされないのはジュリーがもともと引用のパッチワークだからだという大塚の分析には感心させられたことがある。

もちろん、たまたまリメイクされていないジュリーを発見して、これを非中心化された中心として論理に組込む排中の論理による認識だと見なすこともできるだろう。それにしたって、この方法によってリサーチすることそのものが大した事でもあるのだ。


かつて中森明夫によってオタクという言辞を受けた大塚のオタク擁護の主張は見事だった。オタクをコケにしていたワタシも大塚の言説を読んで自分の中にあったオタク的部分を肯定できるようになったのも確かだ。浅田彰らとは違い「小さいもの」を取りこぼさない、むしろ小さいものやディテールに何かを見出そうとする大塚の姿勢は、多くの人からの共感を得るものでもあるだろう。

ある程度大塚を読んでいる者は、そこに吉本隆明的な倫理を感じることがあるだろうとも思う。

それを象徴するのが「M」を理解しようとし、実際に裁判で「M」の弁護を引受け、最終弁論まで一貫した主張と「Mへの理解」を訴えつづけた大塚の姿勢に現れている。彼はMの理解にいたるまで子供を作らない決意をまでしている。 極論すれば彼はMに代わり世間を引き受けたばかりか、自らにも自ら掟を設けてしまったのだ。解けないかもしれない“掟”をである。

世間=共同性への関与の仕方を共同性の側に立って、しかし自ら規定することを倫理というならば、大塚の倫理は何を私たちに示しているのか?

共同性への関与に怯える者には予め論外のことでもあるが。



テキスト派より・・・2


「12月8日報告」にしようとして、まったりしちまったのがコレ。ヨロピー!



80年代・90年代のいちばん大きな問題は?


80年代・90年代の文学、批評、事件をめぐる島田雅彦と東浩紀の対談を観にいった。団塊ジュニア文化のイデオローグとしての東浩紀と、生来の文学的キャラクターに憲法9条を尊ぶという今や希少価値に類する島田雅彦への興味がその理由だ。

数日前に宮台らの調査を総括するライズコーポレーションの岩間の著作を読み終えたばかりの自分にとって、東浩紀の言辞に耳を傾けるのは、ある意味で情報収集の仕上げでもある。

「柄谷や蓮實を知ってるヤツなんて、どこにもいませんよ」「建築はいまだニューアカが支配してるんで、磯崎や蓮實で通りがいいけど」と遠慮のない指摘と、「『批評空間』でデリダについて書いたのに、どこからも仕事がこない」といった爆笑を誘うトークに込められた東の問題意識の一部は自分にとってのものでもあった。

東が自ら述べている基本的な問題は、ニューアカの立て役者である浅田彰に近い東自身の立場と、それゆえの65年以降に生まれた世代とのコミュニケーションにおける困惑である。つまりニューアカを理解できる者とニューアカを理解できない者とのディスコミュニケーションだ。ディスコミュニケーションという事態そのものは宮台ら社会システム理論の得意分野でもあり、実効策というのもあるのでそれには触れないが、ここで東が提議し自ら困惑している問題は大きな意味を持っているだろう。

また、自らフランス現代思想というニューアカの源泉を専門とし、同時にエヴァンゲリオンやエヴァ現象のような団塊ジュニア文化の典型を読み切ってみせる認識者として東浩紀は絶好のサンプルでもある。見た目の坊っちゃん顔から、元気のいいその喋りまで、オザケンみたいな風貌は渋谷系イデオローグとでも命名してみたくなるものだ。



団塊ジュニアは非テキスト派か?


このニューアカ派と非ニューアカ派の関係に見る対立やディスコミュニケーションは、宮台的言辞も含めて当面の大きなテーマでもあるだろう。もちろん永劫の大きなテーマは厳然とそして現前とあり、パースペクティブはそこへ向かって絞られている。

ここで確認できた、団塊ジュニアはホントにニューアカを知らないという事実は大きな事件に類する。ニューアカであれオールド左翼であれ、カタログ文化であれ、オタクカルチャーであれ、その言辞・言説がいわゆるテキストであること、ここ日本においては日本語であること、その情報の伝達なりコミュニケーションは言葉によって行なわれていること、という疑いのない前提があり、そして、さらには、それらを語るものはそれらを読み調べあるいはリサーチするという過程なり手続きを経ている、という当たり前の認識があった。が、事実は違っていたようだ。東はその辺を端的に述べていたが、私的には自分の認識の甘さを反省することになった。これは自分の大きな認識不足だった。

たとえば東大のアカデミシャンの多くの悩みである「最近の学生は本を読まない」と嘆きが大内力のコメントとして新聞の記事になったのは、考えてみれば随分と昔の事だった。今はもっとシビアらしい。

大学で学に趣くまでもなく、ただ書店で本を購入し読書する者からポッと出一回限りのインスタント作家まで、ニューアカ的批評のタームはおろか、有名な古典作家名も、はては去年の同業新人の存在までも全く知らない者がいるという事実がある。この事実そのものはまるでバブリーな80年代のバカさそのものだが、90年代それも後期に至って新人類メジャーのバカさ加減が団塊ジュニアそのものにおいてより強烈に体現されている現実には笑うしかないだろう。データ的には宮台や岩間らの調査が示してる通りだ。

これに近いことは東も指摘している。


いずれにせよ本を読むとか文を書くとか、批評をするとか、イデオロギーを語る者が何も知らないという事実には愕然させるものがある。しかも、さらには何も知らないままニューアカや新人類文化に対して否定的な意識を持っていることが不思議でもあった。

この辺は新人類世代が団塊世代に対して拒絶反応を示しながらも、その闘争?方法を模索したのに比して、団塊ジュニア世代の新人類世代やニューアカに対するレスポンスが時に突飛であったり、無反応であったり、単にディスコミュニケーションであったりすることは少なくないことを現している。宮台らライズコーポレーションの調査だけではなく政府認可のハイライフ研究所などのシンクタンクでも似たような旨が指摘されている。ついでに言うと団塊ジュニアは団塊世代とは親和的だというリサーチの結果が笑わせてくれもする。宮台にコケにされる団塊オヤジと親和性が高い団塊ジュニアの関係は? コンプレックスとコンプレックスの回避という視点でスポットをあてるだけでも面白いものだ。



オタキングの限界が解るのは誰か?


こういった現実に島田雅彦はただ「(インテリや作家としては)知識の総量が少ない人はダメですよ」と淡々としてみせ、では知識を獲得すればいいのかということに関しては東ともども、バカはバカだから的に突き放して見せるイヤらしさがある。それは「ボクは頭がイイ」とヤケに正直な東とともにインテリであることの自負を感じさせてもくれるが、もちろん自負があることと実際どの程度の頭脳があるかは別の問題だ。

ネット上の論議ではオタキングを評価することを「不勉強」と批判する東だが、彼自身のオタキングに対する評価はありがちな団塊ジュニア的な反ニューアカ色のもの。それはそれでいいのだが、そこに東自身の自己否定が含まれることによる動揺と、そこまででしかないパースペクティブが残念でもあるのだ。

オタキングの優れた見解は『ぼくたちの洗脳社会』一冊でもちゃんと読めば解る。問題はその先で、そこにオタキングの限界も見てとれることだ。(ある表現が表現であると同時にその表現の限界である、などという認識の仕方はニューアカのものでもなく、従来の哲学の範疇たとえば弁証法の基本的な構図である「正・反・合」程度のものでしかない。そんなことさえニューアカの言説と間違えられたりするのは何を意味しているのか?)

オタキングの主張で「まず技術を見よ」というとても正当な作品の見方があるが、オタキング自らもこの技術についてしか語っておらず、そこがオタキングをインテリではなくしているところだ。しかし、それは屹立する世界観や思想にビビッている団塊ジュニアがオタキングに安心できるウリどころでもあろうだろう。(もちろん東や島田はこういったスタンスとは無関係である。それはインテリだからだ。正確にはこの場合“無関係”とする距離感がインテリであることを保障している)

オタキングの限界は共同性や共同体について一切語れないところにある。それは、このWEBでも以前に指摘されてるようにオタクカルチャーの前提である「楽しいことを探そう」をイデオロギーとしながら、その反意価値である「悲しいこと」に代表される否定性の価値をどうするかに触れていない(触れることが出来ない)とこなのだ。これは団塊ジュニアの共同性の世界観=イデオロギーへのビビリに通じるものがある。そのビビリとスキに一挙に強力な(エヴァ程度でも可)イデオロギー(共同性への意識)に関する洗脳を行なえばオウムでも何でも(会社人間への誘いでも)容易く成立する。



80年代裏POPから90年代メジャーへ


そして、団塊ジュニア世代内の個別化、各価値それぞれの並列化、アクロス流で言うたこつぼ化、宮台らが指摘する島宇宙化のなかで、世代間のディスコミュニケーションや対立と同等のコンフリクトが世代内で生起するという状況がある。

かつて雑誌ポパイに代表されるカタログ文化と浅田に代表されるニューアカが白水社の白い表紙のフランス語辞典の売上げに貢献し、本文より註釈テキストで注目された田中康夫的言辞がそれらの背景たる消費文化を裏打ちする大衆の願望を示唆した時、このメイントレンドに参画する事を自ら拒否したオタク文化は裏POPとして機能していた。

裏POPがメインカルチャーとなったのは、過剰な差異化により崩壊した新人類メジャーのポパイ少年に代わって新人類マイナーのオタクが浮上した時である。やがてこの新人類マイナーのオタクは団塊ジュニア文化のある種のシーズとなるとともに融合し、オタク概念は島宇宙的並列としてその背景となる。ある意味で世代全体がオタク化したのだ。

オタキングがニューアカを嫌う理由は案外こんなところにあるのかもしれない。80年代にオタクだったものが90年代において団塊ジュニアをオーディエンスとしたサブカルの担い手となっても、80年代におけるオタク被迫害のルサンチマンは変わらないだろう。オタク評価に反論を加えながら自らオタクであることを肯定し「浅田彰がライバル」と表明できる大塚英志の見事さとの差は何か?

90年代被迫害のルサンチマン・イデオローグがイデオロギー全般への拒否反応をメジャーとする団塊ジュニアとシンクロしたにすぎないオタキングなどが、正当なイデオロギーの手続き=テキストを読むことをクリアした東に否定されるのは当たり前のことにすぎない。

ただ、東にはテキストを読む書きする能力や努力がありながら、同世代文化の影響というよりもそれへの配慮や自らの未成熟ゆえの動揺がある。それを端的にしかもイデオローグらしく示しているのが「柄谷や蓮實を読んでるヤツなんていない」という「共通のディスクールがない状況」で、ではどうするのかという島田との応答自問に対して「論理のスピードとか」と自信なさそうにつぶやくように応えたところに象徴されているかもしれない。(「論理のスピード」の他にもう一つあげたのだが、それは聞きとれなかった)


「論理のスピード」だって?


新しいナゾには喜んでおこうか。



結論からいうと、東が同世代に対して感じる異和感はテキストをめぐる違和感であって、かつ、その違和感の程度こそインテリ度に比例し、その違和感を克服できる程度がイデオローグ度に比例するだろう。この自覚がない間はコドモだ。宮台のオトナぶりを見よ。(笑)



どの世代においてもインテリジェンスと世代内大衆に差異があるのは当り前だ。その差異がインテリ度なのだから。それはみんなから浮いていることでもあり、孤立することでもある。これにビビルのならインテリなどやめればいい。テキストの読み書きなどしなくていい。“みんなで盛り上がること”程度にしか共同性への関与を行為できない世代にあって、強固なコードとコードの更新に勤しまなければならないイデオロギーの世界、テキストを媒介にした世界観のコンフリクトに耐えられない脆弱さは危険でもあるかもしれない。何故ならその弱体ゆえの歪みから異様なインテリジェンス≧ファシズムやオウムやバモイドオキ神が生じるからだ。
もちろんその程度のものは物質的脅威とならない限り、テキストやロゴスというロンギヌスの槍の一撃で処理できることでもあるが。



 初めにロゴスあり

という聖書のテキストは伊達ではない。
ロンギヌス=Longinusをラングの人(言葉の人)と読むのがテキスト派だ。
深読みであっても、である。



テキスト派より・・・1



宮台真司らの東大社会学グループによる調査で、その中心人物でもある岩間夏樹は戦後の文化的特徴を大胆にも3つの世代に分けている。団塊世代文化・新人類世代文化・団塊ジュニア世代文化である。団塊世代と全共闘世代の峻別にもナーバスな大塚英志だったら考えられないことだが、大きく俯瞰する事と大胆なロジックの展開が必要な時でもあり、一般的にも解りやすくなるという大切なメリットも認めたい。


しかし、ルーズでまったりとしたココではもっと大胆に、しかもオリジナルな分別を試みる。(笑) この分別は宮台らが主張する団塊ジュニア世代文化に見られる特徴である「島宇宙化した社会」における個人から、全共闘世代における唯我独尊、滅私奉公のサラーリーマンまで包含するパーソナルな属性にも基くものだ。
定義も出来ないままモダンやポストモダンの言葉が振り回され、ニューアカの是非も問えない矮小なアタマにデカイ声がともなったりするお笑な現状で、ノイズやガジェットの乱舞から認識対象を切出す基本的な因数分解でもある。


それはテキストをめぐるスタンスだ。

この場合のテキストは言語であることに限定され、その定義は非テキストを際立たせるためのものでもある。基本的にはテキストの受容は認識であって、非テキストの受容は感覚である、といった属性の意味をポイントにしている。もちろんテキストを持ち得なかった文化がこの地上から消滅したことや、言語が共同体の最大公約数であることは前提だ。


ルーマンが芸術というものをほとんど評価していない理由も、その非テキスト性にあるのではないかと考えられる。何故ならば、端的にはシステム論はテキストの上に構築されるものだからだ。
ドイツ観念論と言われるような大雑把な哲学分類が、実を言うと論理学というテキストに依拠し、イギリス経験論と言われる趣が経済と言う実態経験や現実を反映した社会学を生み、フランス合理主義が言葉のアヤをもってしてルイ16世をギロチンに送ったフランス革命を起点にしているように、である。


テキストと非テキスト、テキストとポストテキスト・・・ こういった分別と党派性こそ、分かりやすいようでその実ハズしている世代論や、各世代内でのコンフリクトをも簡単に解析する基本であり、それが認識方法のすべてでもある。
ココでの批評の根拠や、このWEBのコンセプトが“虚構としての東京”や“虚空を見上げる自己言及”であることはいくつかのリンクやサーチエンジンでのコメントのとおりだろう。論理における自己言及の究極がゲーデルの定理として決定不能であることを流布したのはニューアカ最大の功績であり、論理的に決定不能であるに関わらず現実が存するリアルへの誘いはその解決だった。

宮台がニューアカの解決であり、日常はニューアカにより喚起され、宮台は日常を生きる・・・という“完成”に苛立つガキ(年齢に関係なく認識に欠落のある輩)は、どこが欠けているのか。それを繰り出すのが、ココでのカウンターインテリジェンスでもあるだろう。補完してやろうか、とでも言っておくか。



簡単なプロパガンダ



  『透明な存在の不透明な悪意』 春秋社・¥1700

  『まぼろしの郊外/成熟社会を生きる若者たちの行方』 朝日新聞社・¥1500


 発売当日の今日、どうしたって買ってしまったのが以上の2冊。題名が示すように、神戸の事件やテレクラ少女を扱った宮台真司の新著だ。

 『透明な存在』ではそれこそ酒鬼薔薇聖斗事件を透して、“不透明な悪意”を露呈させていく宮台の切れ味が「社会は何を防衛したのか」と題したまえがきから発揮されている。少年Aが医療少年院に送致されるという決定が何を示しているのか? 社会学者または社会科学者である宮台は「子供幻想を温存するために」「社会通念を防衛するため」「社会全体がそろって」少年を医療少年院に送致するようなケリのつけ方をした、といった見解をとる。この異常なものを排除する「切断操作」を問題としつつ、宮台らの指摘に共感した多くのレスポンスがあったことに「成熟社会化」ヘ向けた明るい可能性を見ている。「不透明な悪意」に加担する法律や精神医学といった個別科学を断罪しながら、「酒鬼薔薇聖斗事件を徹底して「利用」するべきなのである」というクールな言葉に、まれに見る明るさや暖かさを感じることができるのだ。
 『まぼろしの郊外』では「社会学的フイールドワーカーになる」ことを選択肢として示し、宮台のスタンスが当初から異色であることの“解”としてこれを読む人もいるだろう。それはプロパガンダであり、アナーキーな革命への誘いにも読める。ワタシは思わずアンリ・ルフェーブルの『都市革命』を思い出してしまったほどだ。前に指摘した宮台の“自己言及し得る自己の(理論、イデオロギーの)根拠が「無根拠」であることをクールに認める宮台のラディカルさ”は、いよいよここで実践への呼び掛けとなって登場している。本書は実は『世紀末の作法』と相互補完的な関係にもなっていて、両方を読むと宮台理論ともいうべきものの輪郭がつかめるだろう。


ちょっと押えておきたいのは、最近家族幻想、学校幻想批判の仕事が多い宮台の、幻想一般を否定するのではなく、どんな幻想に頼るかを自分で選択できるようになるのが大切、という主張。宮台の言葉 (に限らず相対主義的な言説一般についても)をニヒリズムっぽいものとして享受している人には誤解して欲しくない部分だと思いました。

以上のなんばりょうすけ氏のような宮台(だけではなくさまざまな思想や理論一般)への理解や共感(つまり読解)などがWEBでも表明されたり解説されたりしつつあるのは明るいニュースだと思う。



簡単な権力



  AはBにプレゼントする


という状況で何が生じるか?


Aには「Bにプレゼントしよう」という気持ちがあり、Bが何も知らない現段階ではBがそれを受けとるかどうかはAには解らない。


この時、Aを拘束する判断が生じる。それはBの対応が未知であることからだ。


Bが「受けとる」か「受けとらない」かは、Aには予期できない。

受けとってくれればウレシイし、受けとってくれなければ気まずくなる。Aは自ら意図したプレゼントによって自らがワクをはめられる。


しかも、この未知の可能性(Bが受けとるかどうか)は現段階ではA自身が想像するものであって、Bそのものの意志とは何も関係ない。

つまりAは自分で描くBの対応像によって自縛される。そして、Aは事実上Bに関係なくB像によって左右され、支配される立場に置かれる。



どこにも支配の意図はなく支配者であろうとする者もいないのに、Aは拘束され支配されてしまう。Aは自ら支配されていく。
Aの「プレゼントしよう」という意志と意図された行動が自らが拘束される発端となる。

ここに支配者なき支配がはじまる。

誰も権力者などいないのに権力が充満する状況。つまり、現在の状況が生まれるのだ。




宮台真司は『権力/何が東欧改革を可能にしたか』(91年)という社会学の論文の中でその2年前に刊行した『権力の予期理論』(89年)の手法を応用し「草の根の権力」といった「正統な権力」を成立せしめるファクターについて説明している。


  「どんな人間同士でも、2人が出会えばそこには必ずといっていいほど権力関係の萌芽を見出せる」

と「草の根の権力」について喚起し、

  「国家権力や企業などの組織権力のような、強力で組織に裏打ちされた権力も、
  実はそうした草の根の権力を、独特の技術を用いて選別し、集約した上で、安定化
  させたも
のなのだ」

と「正統な権力」について説明している。


これを読んで咄嗟に思い浮かべたのが埴谷雄高をはじめとするいくつかのファシズム論だ。ファシズム論は究極の権力論でありナチスやスターリンはもとよりポルポトから現代の官僚の権力を保障する制度まで分析できる可能性を持っている。身近なところではワンマン社長の存立する理由から家族における父性・父権まで説明することもできるだろう。

それらを含めて“力の場”を構成するものを微分すれば支配‐被支配、権力‐被権力といった2項に収斂するのは今や多くの共通認識だ。そればかりかフロイトにおける対幻想から吉本における幻想論まで、この2項というファクターは基本単位でもある。宮台はそれを社会システムを構成する最少単位として抽出し、その機能関係から解き明かすことを試みている。

「2人が出会えばそこには必ずといっていいほど権力関係の萌芽を見出せる」と宮台が指摘するとおり、政治や企業といった「正統な権力」からコギャルとオヤジの関係までを透徹して認識する権力論。そこには「悪魔の理論」とも呼ばれるらしいルーマンを含めて、宮台真司の方法が「天使の理論」たるかを探る楽しみもあるだろう。



簡単な問題



簡単な問題が一つ。
真理がいつもシンプルなように、この問題もシンプルだ。
だが解答はシンプルではない。



解答をめぐる情況は複雑怪奇にして抱腹絶倒であり、愛憎のような絶対矛盾の自己同一云々とかなんとかたるを遥かに陵駕するファニーな現実があるのみでもある。

問題に対する解答を見たことはないし、解答を見つけ出そうとする努力や営為にも出会ったことがない。

ただ、街中で、ふいにそれらしき独り言や何気ない仕草を見つけて独り感心することはある。が、意図した解答は予兆すら感じることはない。



  ビンボウ人は腹いっぱい食べると満足する。
  腹いっぱい食べることに最高の価値を感じている。


  その一方に美味しいものを食べたがる人たちがいる。
  美味しいことに価値を感じていて、腹が空いても不味いものは食べない。




この違いは何なのか?

この違いはどこから来るのか?

この違いは解消可能なのか?

この違いを解消する必要があるのか?


これは、<食べる=獲得する>という<量>の問題と、<味わう=認識する>という<質>の問題でもある。
また、<食べる>という<所有>を目的とする行為と、<味わう>という<使用>を目的とする行為の問題でもある。
もちろん、これらの問題は現実上は連続していて明白に峻別できるものではないが、その傾向は全く違う問題点を究極にしている。

この美味しいものを芸術に、美味しくないものを芸術でないものに例えると、これは立派な芸術論にもなる。しかも、解答の出せない論として端緒から無視されるか不可知とされるほどのラディカルな問題提議となる。事実、それが現在の情況なのだ。

この論は実際にある思想家の問題意識の原点であり、そこではギリシャ芸術から産業経済までが触れられている。
こんなシンプルな問題意識から、芸術的と言われるほど壮大な理論体系の創造とそれを支える論理的精緻さを昼寝の合間にこなしたというエピソードもある思索者には、せいぜい憬れしかもてないが、この問題意識は共有出来るだろう。

ジャンクフードで満たされるコンビニイーターと、フランス料理と聞けばその名辞ゆえに満足できるバル(ババァのギャル)の、このそれぞれの感性の不思議な特徴と、何故かアートや芸術が高尚で価値があるとする非ベンヤミンな輩どもの属性は、どちらもモダン最悪のサンプルとして超えていかなければならないターゲットでもある。

ターミネーターやエヴァンゲリオンで戦われた戦いは本来こうしてここでも戦わられるべきものなのだ。(笑)



10月15日報告



てやんでー、このやろー
わかってらあ、そんなこたあよー


  内容はとても面白いですが、文章がつまらないです。


あーさいでっかあ
わかってまんがな、ほなこと

ホントに他者の見解は貴重です。

ジェットコースター風書きなぐりの方がナチュラルでいいと
ちっともスクラッチじゃないと

エーン、エーン


オヤジのスクラッチなコメントを目指しましょう!
と、内心言い聞かせてるんですが



宮台真司のラディカル



毎週あるいは外出する度にまたは毎日のように書店に足を運んでは、新刊やお気に入りのコーナーを覗きつつ数冊購入する。特に新刊コーナーで発売当日の気になる一冊を見つけた時の気持ちはかつて50円玉をもって駄菓子屋に駆け込み息き切れでなかなか注文できなかったもどかしさにも似て、それだけでも読み込み方が違ってしまう一冊になるような予感に浸れる一時だ。

夏の頃、店頭に出ると即座に購入した『世紀末の作法/終ワリナキ日常ヲ生キル知恵』(宮台真司・株式会社リクルート/ダ・ヴィンチ編集部)はそんな一冊だが、その切れ味に興味を持っていた宮台の基本的なスタンスを知ることが出来るものとして、何度もページをめくっている。

各種媒体への記事や原稿を集めたこの本は、全体がエッセイやコラムのようで、理論書の類よりよっぽどよくその思想を現してる。宮台に対して持っていた最大の疑問である「感覚の変容」の後をどうするか、ということに関して肩透かしに近い解答もあって興醒めでもあったが、同時にイデオロギーとしてとてつもない発見をさせてもくれた。宮台のルーマンに関する認識だ。たぶん宮台は廣松渉、見田宗介、小室直樹をアイドルにしてるのだが、論理の緻密さ以外には意味を見い出せない廣松は別として見田や小室の影響は社会認識において貴重なものがあるのはよくわかる。それとともに宮台が社会システム論を主張する理由がルーマンにおいて説明されているのにインスパイアされた。

エッセイというカタチからしてワタシのアイドルでもあるベンヤミンは、言語論などでも専門の言語学者を抜きんでる認識を持っている。そのベンヤミンは自他ともに認めるマルキストでもあり、また彼が所属したフランクフルト学派(シュールレアリズムはこの芸術版だ)の系統に位置し現代のイデオローグとしてハーバマスらがいるが、このハーバマスをラディカルに批判し尽くしたのがルーマンなのだ。

フランクフルト学派のエーリッヒ・フロムのマルクス本『マルクスの人間観』はワタシが本格的に読んだマルクス関係の最初の著作だったが、このワタシでも?と思ってしまうほどこのフロムのマルクス解釈はヒューマンだ。それは牧歌的でホットでもあり、非システムな人間理解だった。このホットなマルキシズムに対してクールなものを感じさせたのはマルクスそのものであり、柄谷や浅田でもあった。そして人間として倫理をまとい現実において有効性を持ちうるものとして吉本隆明があり、坂本龍一がいちばん影響されたとコメントする気持ちがわかる気がしたり、教授への聴き方が変わったりもした。
このヒューマンなフロムやランダムで深いベンヤミン、これらの知的系統をひくハーバマスらを批判し尽くしてしまったルーマンのいうシステム理論。そのシステム理論を援用する宮台にあからさまなクールはともかくホットなものを感得した自分自身の感性への問いでもあるのが、宮台への興味でもあるだろう。

かつてアクロス誌上に大塚の主張を罵倒するかのように登場した宮台のインパクトは、今も新鮮だ。当時、大塚英志を読んで感心していた事柄は今でも自分にとって依然有効でありながら、宮台の主張への感心も変わらない。



宮台のスルドククールで実際緻密な論理と、逆にホットな問題意識が非常に興味をひくのだが、前にも引用した以下の一文で宮台は何を主張したかったのか?


  『制服少女たちの選択』(「あとがき」/宮台・講談社)

  ただはっきりしているのは、
  「感覚のほとんど不可逆な変容が生じる」という事実であり、
  「変容が生じてしまってからは、もはや後戻りできない」という事実である。


「変容が生じ」た後のことに関して、後日宮台は呆気なく解答を見つけてしまった。そのことをまた呆気なく表明してしまうのはワタシにとっては肩透かしだったが、その答えそのものは納得してしまうものだ。それはまったりとした生きざまに解決を見い出したということだが、これは社会変遷の必然でもあり、と読めばまるでマルキシズムの歴史法則や必然の概念を思いだしてしまう。しかもそう違いはないだろうという感慨もある。
マルクスもウエーバーも研究レベルの高い日本において、両者の結論が相似になるのは珍しくないケースだ。例えば事象を実証として積み重ねる阿部勤也の社会へのアプローチのしかたに、システム論や弁証法を以ってするものが親近感を覚えても不思議はないと思う。


  『世紀末の作法』(「システム理論をめぐる「枢軸の逆説」
           ―実効性のある言葉を紡ぎ出すために」/宮台・リクルート社)


  システム理論がいかに無謬に見えようとも、実はその正当性は端的=無根拠
  でしかありえず、それが実効的なコミュニケーションに結びつくかどうかも
  (むろん社会システム理論は実効性に結びつくと「主張」するのだが)「現
  実による審判」を待つしかないことになる。


自己言及し得る自己の(理論、イデオロギーの)根拠が「無根拠」であることをクールに認める宮台のラディカルさは、自らに問う倫理と同じものなのだが、この“自己言及”というタームが空々しい“今”への憤りや反発や疑問をテーマにすることもないスタンスと、「現実による審判」の関係を問うことこそがここでのラディカルなのだ。

『世紀末の作法』に納められた最後の2編(ルーマンと春樹に関するコメント)が宮台にとってのラディカルであることは確かなのだが、この2編こそ宮台読者や批判派を測る絶好のタネであることぐらい彼自身折込済みなはずだ。インテリジェンスというものそのものに向けられたこの2編は、まったく好都合に、しかもまたもや、オーディエンス(の認識力を)をあぶり出すことが出来るギミックでさえあるからだ。



エヴァをちょっと、振り返って



『エヴァンゲリオン快楽原則』は確かによくまとめられてる。その冒頭で世代論、ジャンル論、イデオロギー論、精神分析、映像批評、物語分析、「クリシェと化してしまった言説」としてオウム関連の言説などを概観し、スタートとしてイデオロギッシュに東浩紀と上野俊哉の主張からはじめている。現行の諸々のエヴァ言説のなかではトップのレベルは守られているし資料価値は高い。「アニメの世界には批評がない」「批評の場そのものが存在しない」と言及してるのも真っ当な証拠だ。しかし、この『快楽原則』そのものがクリシェでしなく、批評でもないことの可能性は拭いされない。それどころか、事実、そう見なすことはできるからだ。

『くたばれ!エヴァンゲリオン』もオヤジライターが世代の違いもものともぜすよくこんだけ書けたなという感動ものでもある。全く外部からの視点というものは絶対に必要だと思わせてくれる内容だ。この緒方の批判に回答できなければエヴァ・ファンなんていうのはたかだかシンジの亜種にすぎない幼稚な存在でしかないことになり、福田や宮崎、大塚が呆れるゾーンであることが理解できてしまう。

岡田が指摘する通り、エヴァの人気にはパソコン通信やインターネットが大きくものをいっている。そういったメディアなしでは考えられない現象なのだ。TV放映だけで判断すれば視聴率も低めでありけっして成功とは言い難い。放映後、メディアミックスとは違う意味で複数のメディア、伝搬ルートが大きな効果を持ったことは確かだ。また、作品上の映像やBGMといった各要素やガジェットとしてのメディアではなく、単純にアニメとして視覚情報が優位なメディア、視覚情報に統合されたメディアと考えた時、その特性を捉えた分析がないのが不思議だ。

小林秀雄が文学を言葉から分析し、マルクスが経済を商品から分析したように、エヴァはアニメとして視覚から分析されるべきではなかったのか。
少なくともそれがオリジナルな視点であることは確かだろう。
たとえば坂本龍一は“音”の学者として“音楽”を捉えている。

エヴァをめぐる言説の多弁とそれに比例したダメさは、例えばシンジや綾波レイが言説の主人として鎮座する度合に応じてフヌケてることでもある。エヴァ・ファンがまったりした輩にも、コギャル現象を笑い飛ばすフツーの女子高生にも、及ばないし乃ぶこともないだろうと思わせてくれる現象こそがエヴァ現象であり、ここでも作品は見事にオーディエンスの姿を明らかにしてくれたな、と少し感謝したいほどだ。ホントに。



エヴァをちょっと・・・6



 すくなくともアニメの内容に閉じこもってステレオタイプのオタクのレッテルを貼られて憤慨するよりは、外へでて、作品をめぐる現象すべてを対象化して眺めてみる価値はある。そしてそれは面白いだけではなく、解読されなければいけない出来事であり現象そのものの有り様だからだ。何かを解読するとか批評するとかいうことはそういうことだろう。少なくともここでは、もしくはワタシにとっては、である。


 東浩紀が世代論的にエヴァを批評しているのは、資本主義の最も急速な進展を見せた時期にその一端としてアニメが登場した日本の情況からして妥当だ。また、中学校や高校といった3年制の学校ではまさしく3年も経てば世代間の連続性は無くなってしまうし、あらゆるアイテムの変遷の激しい資本主義社会では世代という時系列的な区分けがそのままアイテムやジャンルといった空間性の識別になるからだ。

 実際ビジネス的に見ても10年の試行錯誤の後にメガブレイクし3年間で舞台を海外へ移動させてしまったTK(小室哲哉)の活躍ぶりでもそれは言える。あるTPOで風化しないためには、別のTPOへ移動すればいいのだ。さらには、この限りにおいてノマドであることや移動することに意味があり、それと同様に認識することの自由に至高の価値がある。

 時代や社会に対して“リアル”であることをキープしようとする時、自らの空間的な構造のチェンジかTPOである場のシフトかを選び実行するのは覚者にとっては当然のことだ(逆にそれをするのが覚者だ)。このチェンジとシフトに向かう道程がデリダの「差延」であることにポスト構造主義の意味があった。それ以外にはフランス思想たらの意味なぞないのも確かでもあり、それが、ここでのスタンスなのだ。


では世代論的に東の言説と東らの世代を捉えるとどうなるか、という興味深い問題がある。


 まず何よりもエヴァの生みの親である庵野の世代を考えてみると、そこには現在のカルチャー全般をめぐる最も大きな解答があることがわかる。
 そもそもエヴァンゲリオンの監督としてすっかり有名になってしまった庵野秀明をはじめ、GAINAXのプロデューサーでもあった岡田斗司夫、援助交際からエヴァまで切り刻む宮台真司、一歩先に少女やマンガを論じ始めていた大塚英志、エヴァンゲリオンへ鋭い批評を投げかけた上野俊哉、保守的ながらラディカルに問題提議する宮崎哲弥、心理学的なアプローチで評判の香山リカなど主な論客が新人類と言われた同世代であることが興味をひく。
 この事実は世代論的な興味というより、エヴァをはじめさまざまな現代的事象が未だに定義され得ていない世代のハシリである新人類以降によって論じられているという事実とシンクロする場であり、そのレゾナンスの臨界点は、次元へのトリガーでもある。さらには中森明夫らが指摘するように新人類世代は言論に関わる者(ライター、編集者をはじめ)の人数が異様に多い世代でもある。実をいうとこのことが大きなキーポイントなのだ。





 団塊の世代や全共闘世代が現役だった時代には哲学書や思想書が飛ぶように売れていた。エンゲルスをまねたような羽仁五郎の『都市の論理』は学生の常識であり、革命の古典にして現代資本主義のさまざまな制度(社会保障や労働時間など)の基準となった『共産党宣言』は1年間で70万部以上(現在は数百から二千部ほど)も売れていたのだ。革命やマルクスを語らずして学生か?といった風潮があり、東大での共産党支持率は40%を超えていた。


この時期東大生であった舛添などはそういった情況に反発をもってフランス留学へと逃避したほど。現在の日本の社会経済やその批評の脆弱さも、情況の真っ只中で戦わず海外へ逃避する程度のインテリや、アメリカでは相手にされなかった人間がハーバードビジネススクール帰国組などの肩書で本を書いていることと無縁ではないのだが。


 一方、西海岸からのカウンターカルチャーのムーブメント(具体的にはMITのメディアラボなどによるヴァーチャル関係各方面への基礎研究。マリファナやLSDからコンピュータのGUIまでをコアにしている。価値観としては東洋思想などを含み、この系統の影響から複数のノーベル賞受賞者がでている)があり、新宿西口でのフォークムーブメントをはじめサムライなどのジャズ喫茶やロック喫茶でたむろすヒッピー系からヘルメットとゲバ棒の反代々木系(代々木の共産党に反対する党派のこと。自称新左翼)や全共闘まで反体制&カウンターカルチャーといった一大勢力があったことは確かだ。


この時あくまで紳士然とし制度的あるいは官僚的に革命を志向した共産党が東大で最大勢力だったのはあまりにもハマっていて笑える歴史的事実でもある。しかしまた制度の中でしか制度をラディカルに変革できないことを知らずして体現する共産党が革命のプロであることも厳然とした事実なのだ。で、最近の共産党の伸長が示すものは何か?


 この団塊・全共闘世代は物語を生きた世代だとも言えるだろう。彼らは文字どおり活字や言葉による物語≦イデオロギーとその現実化を生きており、反体制ムーブメントの後も橋本治や糸井重里に代表されるコピーライターブームを形成している。実に言葉巧みな世代なのだ。
 この言葉巧みな彼らに影響されたのが新人類世代だ。コピーライターが先導(扇動)する消費ブームに学生時代を過ごし、先輩やアニキやニュースや小説や音楽から見聞するカウンターカルチャーと反体制的スタンスとそのパワーになかば圧倒されている。この強力で言葉巧みな世代に対する臆病な探究は、言葉そのものへの批評的スタンスとしてニューアカデミズムというムーブメントとして結実したといっても過言ではない。さらに言語以外のカルチャーではマンガとロック、ポップス、ディスコとして消費の中心とまでなってしまう。あらゆるカルチャーはすでに消費生活の日常的なガジェットであり、しかも、この時すでに全家庭に普及していたテレビによって言葉以外の共通体験を持ち、それがコミュニケーションの共通コードともなってしまう現実をすでに生きていたのだ。その一人が庵野である。

 モダン・合理性・物語性への懐疑をベースとした新人類世代である庵野が、一見して物語性の破壊や不合理(不条理)を前面に押し出したのは当然だろう。しかし、彼の才はメディアのテクノロジーとしてそれを表現したことにあり、その限界もそこにある。

 一方、“学”としてモダン・合理性・物語性への懐疑をベースにしたフランス思想を学んだ東がエヴァを解析できることは当然のことにすぎなくなる。そして、その東がエヴァの亮受者の一人として批評たるものを放棄するほど感動してしまったのも理解できる。世代としての特徴は、オウムからマルチ商法、人格改造セミナーなどに引っ掛かるゾーンのボリューム世代を形成していることでも明らかだ。
 いずれもその企みと指図は新人類世代で、引っ掛かるのは団塊ジュニアという構図が多く見てとれる。モダンへの懐疑さえ持てない彼らのメンタリティは新人類の言説やニューアカ系とシンクロすることなくそれ以前へ退行し、安堵できる言説を見い出しているだろう。福田や宮崎の出番というワケだ。「幼稚」がまかり通る光景が逆説的に明らかになってくる様にはやっぱり笑うしかない。



エヴァをちょっと・・・5



TKのヒットとエヴァの閉塞は、そのメディアの違いに起因する。

TKは音楽であり、聴覚によって受容される商品(作品)だ。
エヴァはアニメであり、視覚による受容を第一義としている。


この聴覚と視覚という感覚器とその受容の形態の違いこそが、TK現象とエヴァ現象の違いそのもののファクターなのだ。


 聴覚された音が指示決定により理解(例:アムロの新曲だな)され、自己決定により了解・同定(例:やっぱりいいなあ)されるまでの過程に介在する要素はある種身体的である。空気振動による触覚である聴覚は、それまでの身体の体験である聴覚の記憶(経験値)に影響される。これは他の触覚である味覚や嗅覚でも同様だ。それらは生きていく上で必要な身体への直接のTPO情報であり、TPOを生きる場とする(それ以外にはないが)生命の大前提からして、生きてきた経験値に大きく影響される特徴を持っている。

 一方、視覚は“生きる(生きた)場”に影響されないで情報を収集することができる感覚器だ。視覚が影響を受けるのは可視光線の有無だけであり、身体が直接に触覚しなくても情報を得ることができる感覚器は視覚しかない。人間の腕の長さではテーブルの向こうまでも手は届かないが(触覚は到達できないが)、視覚はモニターを介在させメディアを通してアメリカの街角の眺めることができる。このことを逆手にとった発想こそがMITメディアラボのヴァーチャルに関する概念だった。

 視覚は感覚を統合する脳に直結し、触覚をはじめとする情報の受容(≧解釈)を修正するサブシステムとして機能する。逆に視覚から得られる情報は指示決定として受容されるが、自己決定として了解される確度は高くはない。自己決定による了解とは“生きる場”における受容と確認であり、触覚とその経験値による照応と確認である。視覚によって受容される情報とは、まさしく抽象度の高い“情報”であり、これは視覚が電磁波を媒介とした物質の空間的延長をデータとして受容している感覚構造そのものに由来する。

 一方、触覚が受容する情報は具体的な情報であり、それらは迅速に自己決定される。味、香り、肌ざわり、温度、そして音もそうである。それらの情報は直接的に“生きる場”を意味し、身体は即座にその情報に対して判断=反射しなければならない。この連続が生きることそのものだ。“痛い”という触覚に対していちいち思考をめぐらせ、あらゆる情報と照らし合わせながら判断を下していく、などという優雅な対応をしていれば、それは生命の危険をともなうだろう。触覚による情報に対する自己決定は迅速であり、無意識的であり、身体的である。
 他方、視覚の情報によって生命が即座に危険にさらされたりすることはない。物質から延長された抽象度の高い情報を受容する視覚は、思考を通した後に知識として情報を集積(記憶)することが主だ。そこでは危険さえも情報や知識として指示決定され自己決定されていく。視覚は高度に頭脳的であり、逆に、視覚の身体性は低度なのだ。



 TPOと絶えずシンクロしているのは“生”そのものであり、その感覚プラグは触覚である。触覚が生命と世界を媒介している。
 しかし、延長された空間性を受容する視覚では、世界が身体までの距離を持ち、受容された情報は自己決定までの時間を持つ。しかも本来サブシステムの修正情報である視覚情報が受容判断(≧思考判断)に中心的な影響を持つ時、判断そのものにズレとデフォルメと絶えずオーバーフローがつきまとい、不安定なものとなる。視覚認識にともなうズレや距離といった外部からの介在を可能にする過程の多さは、現実社会の反映のしやすさとなり、高度に頭脳的であることは言語による反応を触発し、身体性の低さは自己決定のなさと虚いやすさとなる。ブームや熱気、言説や噂の多さ、飽きやすさと忘却など、典型的なレスポンスとオタク的情況を形づくる根拠がここにある。


 視覚という高度に頭脳的な、つまり身体性の低い(生と場のシンクロ率の低い)感覚とその判断が決定権を持つメディアこそ、エヴァだった。


 視覚メディア商品(作品)としてエヴァは、視覚メディアとその表現その感覚のある極限を現象させたといえる。もちろん、それは同時に視覚メディアの限界を現しもした。視覚メディアによる伝播が、どのように生命や場そのものからの乖離を生じるかも表したのである。

 視覚のない生き物はいるが、触覚のない生命はない。

 エヴァの成功はその形態にあり、その限界もその形態にある。そして、それは別に時代や社会の必要でも要請でもなかった。ただ、視覚メディアの表現者であった庵野が、視覚メディア表現の頂点と限界を、現在のテクノロジー(庵野のノウハウ)において試みたということにすぎない。指摘される物語性の崩壊も以前から他の表現ではあることであり特に意味はないとも考えられる。ただ、TKと同様にマーケティングによるつかみや引っ掛けといった意味でのガジェット(死海文書からビールまで)と組立ての成功があり、何ら努力や才能の見られない近年の小説やTVより価値があったということだ。



エヴァをちょっと・・・4



 同じ世代の制作者が、似たようなファンをコアとして制作した作品と表現がある。しかしその後の急速に拡大する展開では2つの表現は大きな違いを見せ、一方は老若男女を問わない国民的ヒットとなり、他方はオタクとレッテルされてもいる。
 それは多くの人間が楽しみメガヒットしたTKと、話題を呼びながらも限定された亮受と閉塞感を免れないエヴァだ。


 この違いはどこから来るのか?

 違いの由来は何か?


 音楽とアニメというジャンルの違いは一目了然だが、これは別にポップと芸術といった差でもなく、大衆化した表現と前衛的表現の違いでもない。TKもエヴァも大衆を対象にした資本主義商品でしかなく、売れることを無視した芸術的表現などという狡獪な定義とも全く無縁な<作品=表現=商品>にすぎない。この2つは、資本主義のカルチャー商品として、その制作過程も驚くほど似ている。TKあるいは庵野という表現者を中心に家内制手工業的にスタッフを配して形成されるそれぞれの工房は、制度化しつつある生産現場の初期の姿そのままであり、それ以外ではない。中心人物がOKする表現作品が出来上がれば、あとは資本主義最新の技術であるデジタルなテクノロジーがCDを、ビデオを、LDを、巧みな皮算用の主が納得する数量まで複製し流通させるだけのことだ。そしてCDが500万枚売れた、視聴率が7%だったという具合にレスポンスをチェックしたり誇ったり反省したりするメンタリティまで、この2つはそっくり同じなのだ。なぜなら、それこそが資本主義の精神だからだ。レスポンス=売上げを気にしない資本主義などというものはあり得ない。


 しかし、明らかにTKへのレスポンスや評価と、エヴァへのそれは違う。全く異質だとも言えるだろう。これはそれぞれを巡る言説やファンの属性の違いでもある。ここにはどちらが表現として芸術的かなどという陳腐な主張や、ジャンルを超えた表現だなどという青い言説も全く関与していない。いや、関与できない、と断じておく。ただし、それぞれのファンの対他関係(他者に対するスタンス)における反応が大きく違うのは認めなければならない。そして、そのことこそがTKとエヴァの差異を証明するポイントでもあるのだ。では、証明される差異とは何か。


それはTKとエヴァという2つの表現のメディアの違いだ。

この当たり前にして解りきっていること、メディアの違いこそ、TK現象とエヴァ現象を全く違ったものにしている原因であり起因そのものだと考える。
当たり前すぎるようだが、本質や真理はいつも当り前でシンプルだ。誤認や間違った言説は深読みや探究心といった論理の緻密さや能力からこそ生じてしまう。
現実とは時空間によるソリッドなTPOであり、論理ではないし、ましてや個人の脳裏にあふれる幻想などではない。



 アメリカのメディアラボで主要なテーマでもあった感覚の問題や、中村雄二郎が提議した感性の問題というのは、ポストモダンの主題でもあった。直裁には身体論ブームもあり、ダイレクトに関係する資本主義プロダクトとしてウオークマン自体が論じられもした。

 視覚情報を制限した中世キリスト教の世界観から、資本主義は人間を解放したが、それは感覚の問題としては視覚の解放であった。資本主義の進行とともにメディアの発展は加速度を増し、その原点を突いたマクルーハン理論が注目されたのは当然だ。メディアは身体感覚を拡張するというマクルーハンの主張は説得力がある。だが、マクルーハンの誤りは視覚に身体感覚を代表させたことではないだろうか?

 今や人間は家にいながら世界中の光景を見、情報を獲得できる。しかし、人間は安易でもあり、ことに自己の利益になることは検証しないし反省もしないで肯定してしまう。確かに世界中の光景を見ることができ、海の向こうからのラジオを聴くことができる。
 その時「見」ている目や「聴」いている耳は<どこ>にあるのか? 当り前だが情報を受容している目や耳、視覚や聴覚は<ここ>にあるのだ。あらゆる感覚は身体とともにここにあるにすぎない。あらゆる感覚<今、ここ>というTPO位置しているにすぎないのだ。そして生命がTPOという場の中にしか存在しないように、感覚は時空にワクどられた場を知るものであって時空を超えて情報を感得するものではない。感覚の基本は場に直に接する触覚にあり、視覚はそれを身体から延長された情報によって確認もしくは修正するサブシステムでしかない

 中村雄二郎らが提議した問題はこの感覚のヒエラルキーである。サブシステムでしかない視覚がメインの情報収集システムとして機能するように資本主義は条件を整えてきた。身体感覚=触覚が獲得した情報を視覚が補助するというパターンは崩れ、視覚優先の社会となったことは否めない。人間が脚で歩き、口から物を食べるように、感覚による外界の情報獲得は外界との接触面である皮膚(脳・神経・眼球は皮膚と同じ外胚細胞から形成される)の感覚が基本となっている。触覚の対象は基本的に物質であり、視覚が対象とする光景は電磁波を媒介とした空間性の延長として受容される。聴覚は空気振動を媒介とした空間性を受容している。嗅覚味覚は浸透性の触覚である。

 これらの感覚の相互連関とヒエラルキーは経験によってある程度変容するが、基本的な相互の連関構造は変わらない。感覚の連関のうえで視覚の占めるポジションはサブシステムだ。視覚はあくまで触覚をメインとした感覚情報を補助するものでしかない。メインであること、基本であることが変容しにくいということと同義であるならば、1週間で完全に変容(プリズム眼鏡によって左右上下がすべて逆に見えるようにして生活しても1週間で慣れる)してしまう視覚というものは、まさしくメインではない。視覚はサブシステムでしかないのだ。人間の感覚の基本は立つこと(歩行の準備段階)にあり、重力に対して垂直に立った時、大腿筋の一つ一つがほぼ10倍の数の脳神経に対してパルスを発しはじめる。さらに歩行のリズムは脳幹からのパルスとなって脳の起動を準備する。あらゆる脳波、神経情報伝達はこの脳幹パルスに乗って伝播する。触覚の基本は立つことによる身体の位置と場の確認からはじまるといえる。この生命の基本となる場の確認を触覚が行なっている。

 視覚は比較的簡単な機能であり、可視光線がなければ見えず、あれば見えるということだけである。眼球は機構的には経験によって近視や遠視といったものが生じるが、視覚そのものとしての特徴は光線の有無による脳への直接的な刺激(情報伝達物質の量的変化)が主なものだろう。これは直接に身体に影響を与えるものではなく、むしろ生活行為や精神活動といった覚醒意識の次元に関わる情報の獲得、提供といったものだ。視覚が大きくものをいうのは、その獲得された情報そのもののにおいてで、探しているものが視野に無ければ「無い」と判断し、お湯がたぎっていれば「熱いだろう」と判断するそれらの根拠たる情報を提供している。視覚はこの判断の材料を提供しているのである。視覚は受容した情報を脳へ伝えるのであって、それをどう判断するかは脳が経験と思考を照らし合わせて行なっているのだ。また、客観的な風景に対する視覚野のズレを計算して身体の位置を絶えず修正するといった情報を身体に提供し、触覚の補助を行なっている。
 思考や判断の材料として視覚は情報を提供するが、触覚やその総体ともいえる経験は思考や判断そのものを左右する。もしくは思考そのものでさえあるだろう。視覚情報に拠って立つメディアと触覚情報に拠って立つメディアの違いは、受容する感覚の違いから大きな展開の違いを生じるのは当たり前のことだ。

 ただ逆に経験値の低い身体性に強い視覚情報を与え、さらには思考>や判断の根拠を視覚情報の方に委ねることを要請するメディアがあれば、それは如何なるものか。
 その如何なるものの一つがエヴァだった、ということが言えるかもしれない。


   「
    エ
     ヴ
      ァ
       は
        素
         晴
          ら
           し
            か
             っ
              た
               」


というような視覚情報のデザインは、

   「エヴァは素晴らしかった」

という合理的な記述に絶えず収斂させられる同調圧力がある。
もちろんこの同調圧力はテクノロジーによる要請だ。
メディアが保持できるビット数の幾何学的な増大は、合理的であることを超える何らかの契機ではない。むしろその逆で、ビット数の増大はモダンや合理的であることを超えられるかのような幻想をこそ増幅させていくだけだ。あるいは超えられないことを隠蔽するためである。

何故か?


モダンが政治だからであり、合理的であることがテクノロジーであるからだ。

あるいは一般的な幻想や共同幻想を実現しようとするヴァーチャルは非モダン非合理をイデオロギーとして主張した。ポストモダンを電子計算機に、非合理を論理に、カルトをコードに載せようとし、予定調和よろしくフラットに崩壊するザマを、モダンという神は俯瞰しているんだろうか。


ついに、モダンを超える表現はなかったということがテクノロジーにおいて明らかにされた時、
視覚のない生き物はいるが、触覚のない生命はあり得ないというような自明の認識が脳裏をかすめていく。自明性の欠如こそが精神分裂症をはじめとした幻想の病の共通点だが、メディアにもそれが現れている現実には、笑ってしまうしかない気がする。



エヴァをちょっと・・・3




東浩紀の象徴するもの


言語への懐疑と感覚への期待が資本主義の進展とともに螺旋を形成するなかでMITの
メディアラボ以来のカウンターカルチャーのトレンドと東浩紀の解析力を支えるフランス
現代思想との響きあう刹那こそ、ひとりのエヴァファンだった東浩紀のインテリジェンス
としての葬送の時だったのは、これも資本主義のなせるワザだぜえ、つー世界ですね。




※ある人へのメールをチトいじって援用しました。ケケケ



エヴァをちょっと・・・2



 エヴァに対する興味はそのまま同世代である庵野秀明監督に対するものでもあり、むしろそちらの方が大きなテーマのカギでもある。70年代以降を探ったり、ニューアカやバブルとその崩壊などモダンにともなう強迫観念とポストモダンの意味、そして近未来へのパースペクティブが見えてくるかもしれない。

 同世代としては他にも小室哲哉や中森明夫がいるし、大塚英志や宮台真司、岡田斗司夫らが目立つ。もちろんエヴァ論者のひとりである上野俊哉もそうだ。他にもしっかりしたフイールドワークで定評のある武田徹などを含めることがきできるだろう。これらの新人類と呼ばれる世代には、中森とともに御三家と呼ばれた田口賢司(TVディレクター)や野々村文宏(編集者)などクリエイターが目立つ。特に世代の人口割合いに比してライターや編集者が多いらしく、総じてクリエイターというかたちの表現者が多い。

 同世代の中では庵野秀明が表現手段とするアニメはまだまだ小数派であり異色に見える存在でもあった。いわゆるオタクである。さらに庵野には人間として特徴的な経歴?があり、表現者として考えるとこれはとても意味深い出来事だと思う。庵野には4年間のブランクがある。彼自身が「ただ死んでいないだけだった」と語る「壊れたまま何もできなかった」4年間があり、そこからの再起動がエヴァなのである。

 表現者にとってこの沈黙の4年間は何を意味するのか? もしかするとこれこそが大きなテーマかもしれないし、これこそがリアルな問題なのではないだろうか。少なくともそこには「壊れたまま」から再起動する(できる)までの回復・復帰の契機があるはずだ。アニメの巨神たる庵野の復活。復活祭としての、エヴァである。





 モダンを代名詞にした強迫観念が、それこそラストスパートをかけ、死海に手前する砂漠でスカッドとトマホークが競い合い、行き当たりばったりのイケイケに日本が覆われる中、壊れた庵野は沈黙していた。
 表現のプロフェッショナルである庵野が、アニメモダンへの最終闘争たるカウンターインテリジェンスとして立ち上がった時、表現のアマチュアゆえに伝達がうまくいかない女子高生は疲れ、ただただ、まったりとしていた。
 この時点(91〜97年)で、ユーミンが“まったり”というコトバを使ってから10年、村上春樹が“伝達すること”をテーマにしてから12年以上も時を経ている。ある面でユーミンと村上は10〜18年も早かったことにもなるだろう。これは何らかの現実を表現や文明・文化というものに反映させていく時の速度の差の現れだ。


 この速度とは何か?

 この速度の差とは何に由来するのか?


 この速度という単位時間当たりの空間性(または、ある空間性の質)を、単なる空間性として固定化(物質化)し、オブジェクトとして借定すると解析がしやすくなる。


 それは、メディアだ。

 そしてメディアには、それに応じた受容構造がある。感覚器官と感性である。



 庵野は、どの感覚にアプローチしたのか?

 解の大きな端緒を、ここからはじめることもできるだろう。



エヴァをちょっと・・・1



 この夏、ニュースでも新聞でも取り上げられた“エヴァンゲリオン”だが、興味があるのはこのアニメそのものではない。このアニメの内容などより、このアニメをめぐるさまざまな現象の方がよっぽど面白いのである。たまごっちの売上げとどっこいどっこいと言っても言い過ぎではないだろう。(笑)
 それほどの話題であり、それほど関心のない人には全く意味も何もない現象(どころか知りもしない)でしかないのも確なのだが。開演初日には前日から並んで待っていた若者がインタビューされる模様がニュース画面にも流れた(1週間前に上京して待っていたヤツもいるというウワサもある)。しかし、2日目には空き席も散見する状態であったというのもエヴァ現象を象徴している。さらには2回以上観たリピーターが結構いるのも確かであり、そこには喧伝されるほどの広がりはないが、予想以上に深く濃いエヴァを巡る世界があることが容易に理解できる。


 ところで、なぜ、内容ではなくそれをめぐる現象の方が面白いのか?


 優れた作品だろうと作者だろうと読まれるべきはそのTPOとの関係性であって、作品や作者そのものではないというワタシ(たち)の主張はここでも有効だ。もっと言えば、作品性とかそれを創造させた作者の世界観そのものがTPOとの関係性においてしか存立し得ないという単純な事実だけが、“表現”とか“作品”とか、それらの上等な形容詞らしい“芸術”とかの必要条件であり、属性のすべてに過ぎないからだ。
 経済が文化を規定するというマルキシズムの主張ほどではないが、表現がTPOに規定されているという認識はここでは大きな前提だ。


 この夏に発売された『エヴァンゲリオン快楽原則』(第三書館・五十嵐太郎編)というアンソロジーが読み応えのある一冊となっている。読み応えを保証するいくつかの理由をあげるておくと、まず第一にこの本がアンソロジーであることだ。編者である五十嵐が6月17日までに把握したエヴァ関連の情報(テキスト)が対象とされているはずであり、『WIRED』8月号までが巻末の「言説リスト・完全攻略」に記載されている。過剰な拡散とすでに収束しつつあるエヴァ現象とその言説が手軽なパッケージとなり経年変化に左右されない資料価値を与えられている。
 第二にトータルなエヴァ批判(上野俊哉のような言説)に対して「本書もまたこの批判を完全には逃れ得ていない」と自己規定していることだ。批評や反論に見せかけたビビリと自己防衛の言説が溢れるなかで、クールにして信頼に値するスタンスの表明であり、自己言及の見事でもある。
 第三に全体を構成する7つの章はそれぞれ「対立する議論を軸にして」構成され、各章のテーマごとに関連する庵野の対談やインタビューでのコメントを引用している。またこれらを概観し解説する五十嵐の洞察力の確かさと、疑問を明確にしつつ展開される論の巧みさなど編集的技量をベースにした能力に助けられている。

 『快楽原則』は収集可能な資料の中では最高の出来上がりのアンソロジーだと言えるだろう。ただ一つ残念なのはこの本の刊行日だ。97年7月19日なのだが、この9日前に『くたばれ!エヴァンゲリオン』(シネマサプライ・緒方邦彦)が発刊されている。この本はその前書であり評判(20万部以上売ったという)になった『エヴァンゲリオン補完計画』へのレスポンスをベースにした内容の異色な本でもあり、五十嵐の『快楽原則』の制作作業に間に合えばそのアンソロジーのなかで最もラディカルな批判的言説として位置づけられ、本の内容をさらにスリリングに豊かにした可能性もあるだろう(?)と思わせるものなのだ。
 『くたばれ!』の裏帯のキャッチは「捨てられるのは キミだ」であり、これは著者である緒方がエヴァ・ファンに対して放ちたい一言であるとともに、瞬く間に拡大拡散しながらある種自閉的状況からは一歩も外へ出なかったエヴァ・ファンの“可能性”や“レベル”を見極めるための一言でもあるハズだ。主なエヴァ論者より二周りも年長である緒方の言説は全くエヴァ現象を俯瞰したものだが、それゆえに確実な外部の視点でもあり、またそうではなくともクールな分析眼によるエヴァへの視点は貴重なものとなっている。エヴァ・ファンなりエヴァ論者がこの緒方の言説に対してどう対応するのかは、実を言うといちばんの見所であるはずだ、と言いたい。ただ残念なことに現時点では“匿名メールによる中傷”程度のものしか緒方のもとにはレスポンスがないようだ。これも如実にエヴァ・ファンとその現象を象徴する事実の一端であることには違いないし、あるいは、これがすべてかもしれないのだ。緒方はそこに“寒々とした「いま」という現実”を見て取っている。しかし、これらは庵野の責任でもなければ彼が原因でもない。むしろ庵野はこういった現実を照らし出すことを計算に入れてエヴァを制作したはずだ。すぐれた作品ほど亮受者の姿をリアルに露にするものだ。


 『快楽原則』ではそのスタートに「エヴァンゲリオン批評の基本的なフレームとして、世代論とジャンル論、そしてイデオロギー論を検証しよう」と宣言し、第1章をそれにあてている。そこで「最も本格的な議論の出発点をあたえ」られているのが東浩紀と上野俊哉の両名で、「フランス現代思想を専門とする若手の批評家、東浩紀」と「社会思想を専門とする活動的な批評家、上野俊哉」とそれぞれ紹介されている。実際この両名によるエヴァ批評はそれぞれ最もラディカルな問題を提議しており、エヴァンゲリオンを巡る言説はこの東と上野の論を取り上げればほとんど足りてしまうと見なしても問題はないだろう。もちろん、ここではもっとラディカルなパースペクティブとフレーミングから捉えていく関係上、その観点からサンプルとして東と上野の両名の言説とその関係で充分でありもする。批評をはじめとしたあらゆる価値判断は最高峰の言説を解析すれば十全であるのは、生物進化の過程でも資本主義の発展史としても一つの真理なのだ。それはあらゆる論理は上位互換であり、最上位へのアプローチでコトは済む、といった程度のものだ。


 表現論としてもエヴァに対して鋭い洞察を繰り広げた東浩紀は、その後大きな動揺を自己表明してもいる。一方エヴァに関して「好きだけど、愛することはないかもしれない」と当初からクールに自己言及している上野俊哉は、庵野と同世代でありリアルタイムに時代を共有したスタンスからの発言は深く説得力がある。
 この東の鋭さと動揺、上野のクールと深さに、正直すぎるほどに思想、時代、世代、個人としてのスタンスが表出し、まさしく作品が亮受者を照らし出していることは、逆にこの作品表現の到達点とジャンルの限界をも示している。また、制作者である庵野の内的緊張とそれを統御できる資質に時代と向き合った人間の可能性を読み取ることもできるだろう。そしてこの作品と制作者が、すでに次の問題を提議していることも、である。



9月10日報告



   批評してる人たち、カッコ悪いよ


気の弱いワタシはこういうコメントに弱い。
カッコ悪いって、カッコ悪いんだ、ホントに。
しかし、カッコつくほどの自分でもないし、
ぜんぜんスクラッチじゃないじゃないかとか、
ジェットコースター風無差別級コメントの嵐が好きっ、
なんてラブレターもらうと考えてしまいます。

最近80sの大台突破してDavidくんじゃないが、デイブな感じでもあるし。カカカッ
1mいくつ以上になっちまった胸囲のおかげでシャツとスーツは全部着られなくなったし。ホッホッホ
自慢の猪首は42p以上だし。グフフッ
オオー、壊れてきたかな、小さな頭脳が。

とりあえず、一度も実行されてないからこその初心貫徹といくか。フフフ

総身に知恵がまわりかね〜〜〜のスクラッチぃ。

独り言だぜ。