LDP・スクラッチ 1999.1.28〜12.28

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『郵便的不安たち』の示すもの



■マテリアルというダンジョンへの契機


 『存在論的、郵便的』に対するラディカルな批評が登場しなかったことそのものが、この著書のプレゼンスの必要性(≦必然性)であり、それは同時にポストモダンの度合を示している。
 『構造と力』以降すでにポストモダンの第2ステージである現在、社会の全般を見渡す特権的見地は消失したというのが著者東浩紀の基本的なスタンスになっている。しかし、さまざな場面における東のコメントに中には既にこのテキスト化されている立場を超えているものがあるのだ。
 浅田彰やアニメといった日本の文化が世界に流通した背景には日本の経済があると思う、と東はある講演会で語っている。
それは旧左翼にとってはありきたりな認識かもしれないが、ここで重要なのは東が下部構造による影響の強度というものを認識しているということだ。もちろんそれは否定神学の類とは正反対の世界観であり、これこそがマテリアルというダンジョンへの端緒の可能性を示すただ一つのトリガーでもあり、今後の東を決定するポイントでもあるだろう。

 今やその象徴界の地上化(特に日本においてのみ忠実に実行されたレーニン的手法による全面的都市化と大衆の生活向上など。つまり官僚的、自民党的政策の良質の部分。)によって象徴的価値を解消(解体ではない)させてしまったマルキシズムだが、その認識においてこの東のコメントはマルキシズム・ビギナーのステップであり、それはレーニン的笑いをもって暖かく迎えられるべきものでさえあるハズだ。レーニン的笑いとは何か。

 『存在論的、郵便的』が東そのものの即自的→対自的認識の深化つまり実存に根ざした思索であったとすれば、『郵便的不安たち』は対自的→対他的な認識の展開である。対他的認識をテッテ-するには対象そのものの論理において理論化することだ。その時、認識はマテリアルになる。



■オタクと同世代に対するラジカルな批判


 『構造と力』や浅田彰、ニューアカなどが特権的地位を得るコトができたのは非特権的であるオタクの充足と対であることは明白だが、これらの周辺状況に関係する考察は宮台真司らが関わっている大きなフィールドワークとその報告である『戦後若者世代の光芒』にも詳しい。

 特権的地位を得るコトができたというのは予め普遍化する属性を持っていたということに過ぎない。それはテキスト性でありPOP度でありメジャー志向であることだ。逆に非特権的であったオタクのその非特権性もオタクゆえの属性であって何らPOPやメジャー志向から排斥されたものではない。POP化しないメジャー化しないという志向(嗜好)性そのものの体現に過ぎないからだ。現在もマスメディアの取材を極端に嫌うコミケその他においてもこれらは確認できる。

 問題はなぜPOP化、普遍化を避けているのか? であり、ホントにPOP化、普遍化を避けたいのか? というクエスチョンである。POP化を避けつつも、しかし自らの領域(≦共同体)の拡大は歓迎しているとすれば、それは何を意味しているか? である。それは単に<郵便的不安>に<怯えている>ということの証左に過ぎないだろう。

 それとは正反対に不安と混乱の中から<郵便的誤配>を以てしてでも<共同体>が必要だと考えるに至った東浩紀の大人ぶりが遺憾なく発揮されているのが本書『郵便的不安たち』だ。東が子供ぶりを発揮していた頃は小説なんぞを書いていたらしいが、そんな一文が公開されることはあるのだろうかなどと期待させる存在になった思索者である。
 サブカルやオタク、同世代に対するカウンターインテリジェンスとして、東の存在は際立っている。



■東とバランスするイデオローグの解


 東が大人になること、あるいは文学的?表現によっては東が敗北することを批判し、反発してみせる同世代の気の小ささとガキぶりは「レーニンは恐がらずに墓へ行きました」というグノーシスな子供らが持つごく普通の認識にさえ乃ぶことはないだろう。そこまで日本はダメなのかもしれない。いや、それこそポストモダンと言うべきか。

 東を同世代のフラッグとしながらも東の覚悟である「僕はこのような本をもうニ度と書けないだろうが、また書くべきでもない。」というガキへの訣別宣言を理解し得ない同世代に対する東の辛辣なレスポンスは新人類世代の世代内コンフリクトよりも鋭利であるほどだ。しかし、それこそが東の東たるところであり、期待を担える事由でもある。


 東は加藤典洋を吉本隆明派だとレッテルするが、吉本隆明の認識はグノーシスよりもさらにテクニカルでマテリアルであることを忘れてはならない。文学者である加藤に関してはテクノロジカルに言語の分析をもってして対応できるが、科学者でありラディカルである吉本隆明に対してはマテリアルに及ぶ認識が前提となるのだ。“存在論”ではなく“存在”がテーマである、というようにである。


     「死は、それゆえ心的時間性の無機的自然の時間性への同化であり、
      同時に心的空間性の突然の切断であると解される。」

                           『心的現象論序説』


 ダンジョンが所詮プログラムされたものであることは吉本には自明なことだ。
 問題はプログラムを解析するコトであり、その認識を普遍化するコトだろう。
 POPのパースペクティブもそこを原点にしている。
 吉本のイデオロギーにおける大衆もそこにあるハズだ。

 もちろんプログラムはオブジェクトの論理そのものであり、無機的自然そのもののコトだ。
 リアルとは、それを、それそのものにおいて感得するコトにほかならない。

 問題は東の同世代以降においてリアルを感得する能力が相当に劣ってきているということだ。バカになったに過ぎないとといえばそれまでだが。



個人の暗愚を根拠にする『戦争論』のザマ



知人がビデオに録画していた朝ナマを見た。あの『戦争論』を巡る放送の時のものだ。


   「ワシ、わからんのよ」


頭が足りなきゃ「わからん」のは当たり前だが、わからないからといって「解らない事」そのものを否定するのはガキにも劣る甘ったれのコワッパだ。「解らない事」は解っている人間に尋ねればいいだけの話しだろう。

自分には解らないというコンプレックスと怯えが、解っているサイドに対する否定としてでてくるのは、幼児心理レベルの防衛機制に過ぎない。問題はそれを多少の知識を交えたウルサイ資本主義商品に仕上げたところ売れてしまった、という点だ。『戦争論』とはそういう本だ。もちろん商品や売れたことそのものが問題なのではない。アレを本気で読んだことが可笑しいのでもない。個人レベルの<わかる/わからない>程度のアタマ(認識能力)の問題がいかにも思想レベルの問題であるかのようにスリ換えられていることが問題なのだ。

そして“死ぬと解っていてそれでも戦いに行く姿”に感動する、ガキの戦争ゴッコにも乃ばない自分の矮小な感覚体験を絶対視し、そういった感動を正義の基準とするような発想が、気分の高揚を国家への帰属意識と見なすフェティッシュなガイキチであるファシストや右翼となんら変わるところはない、ということだ。正義や共同性を気取るほどパアの証しになる材料はないということを未だ知らないバカがいる証拠でしかない。おなじ個人的な高揚や興奮でも吉本隆明全集の広告コピーに使われた三島由紀夫の「(吉本の著作を読むと)性的興奮を覚える」という感覚の方が無害である。それをもって読解にのぞみ思索に励んだ方がどれほど有意義だろうかとも言えるだろう。


かつてロックが若者の文化だとか叫びだとか言われたが、それが強制と抑圧をともなったものだったのに気がついた向きは少なかった。コンサートの会場ではノラなければならない、踊らなければならないという昂揚や興奮の強制が大手をふっていた。レイブやクラブの出現と一般化で、これらの「ノリ」を強要するトレンドは解消されたかに見える。もちろん、そのことは一定の評価は出来るのだが、クラブの属性たるセグメンテーションは小さな共同性なりの選別がより明確に働いているのも確かであり、それは「タコツボ」や「島宇宙」の具象化した空間性に過ぎない。そもそもクラブがなければ救済されないのであれば何の解決でもないし、クラバーの絶対数そのものが有意なレベルだとは考えにくい。これはコンビニ前にたむろす方がどれほど人数が多いかという簡単な問題だ。1年で2万五千人が自殺する現在、クラブがそれをどれほど救えるというのか?という問題でもある。

より考察されるべきラディカルな問題はクラブにしろ何にしろ「人は何故集うのか?」というものがある。哲学や思想が<人間の存在>ととともにターゲットににしてきた<人間の共同性・社会性>の問題だ。現在それが最も有効に機能し、あるいは最も非理性的に暴力する装置としてリアルに屹立しているのはもちろん国家においてである。これに言及できない認識が相当根本的に無力なのは以上の理由による。表層や現象を繰り返し語っても原理や根本には届きはしない。



使用価値と交換価値



 世界中の宗教家も軍人もサラリーマンも、すべての人間が毎日、ある価値観によって生活している。それが<交換価値>と<使用価値>だ。



◆市場経済


 実際の経済はたいてい<市場経済>で、これは需要と供給の均衡の上に成り立っている。つまり、買い手と売り手のバランスがポイントとなる経済体制だ。このバランスをとるのが政治であり政策の役目だろう。タテマエとしては、バランスをとるためにさまざまな調整を行ないつつ、より理想的な状態を目指して社会は変化し進歩していくはずである。



◆2つの価値観


 市場経済を支えている価値観が<交換価値>というものだ。
 商品と商品、商品とお金を交換しようとする価値観であり、古代史の物々交換から、現在の電子マネーによる売買まで、すべて交換価値(がある)という視点(イデオロギー)によって成り立っている。それは、社会を構成する人類にとって普遍的な価値といえるだろう。
 交換価値は、基本的に何とでも交換できるお金に代表される価値だ。

 人々がある商品を手に入れるのはある目的に沿って使うためにであり、市場で手に入れられた商品はそれぞれの目的に沿って使われる。これを<使用価値>という。自動車は乗るために、カメラは写真を撮るために、コーヒーは飲むために、絵は飾るために買われる。

 この使用価値は個人ごと、または時と場合などTPOによって千差万別であり、水は飲むだけではなく工業用水として使われたり、農業用水として作物を育み、自動車は移動の手段としてだけではなく高級外車は投資やコレクションの対象でもあり、レースカーは競技の道具でもある。また、本来の目的とは違う価値を見い出しては付加価値、差異化などと呼んできた。この差異化の度合は時代の進歩や文化のレベルに比例する。しかし、本質的には使うことに価値があり、それは変わらない。逆にたとえば、マグライトは昼間や明るいところで使うことは少ないだろうし、ノドが渇いていなければ水は飲まないだろう。
 このように、使用価値はTPOに規定される価値だともいえる。