LDP・スクラッチ 1998.9.30〜12.18

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大塚英志の正直な問題提議



  要はぼくたちに管理職になるカクゴがあるかどうかである。

             『終らない消費社会』(大塚英志)


サブカル論議で大塚英志の悪口を言うとウケがイイだの、オタクとコミットしやすくなるだのという話しは幾度となく見聞した。
上記の大塚英志の言葉は92年末にバブル崩壊までを総括したコラム(『スタジオ・ボイス』掲載、『仮想現実批評』収録)でのものだが、それは同時に“反大塚”現象に関する答えでもあり解決をも示唆したものになっている。
もともと、これは大塚英志が属する世代であるところのいわゆる新人類世代にとっての大きな問題提議であり、ある解決方法でもある。そして私見だが、解決方法はこれしかないというのが現況の全てであり必要なのだ。それは以前に記した大塚英志の倫理の問題からのパースペクティブでもあり、新人類世代にとっての倫理でもある(べきだ)ということだ。


実をいうと、違うカタチで
この正直な問題提議とオーバーラップするものを長い冗長性をかけて顕在化させたのが東浩紀の『存在論的、郵便的』でもあり、4年という月日と3百数十ページにわたる紙面はそのためにさかれていると考えてもそれほど間違いではない。
東は80年にラカンがパリ・フロイト学派を解散したことに注目している。これはラカンという強靭な父性に対する弟子たちの「父親殺し」の画策を、子供性を持ったラカンの方が敏感に察知して先手を打ち、弟子たちの集うパリ・フロイト学派を解散してしまった事件である。拠り所を失った弟子たちは右往左往してしまう。ラカンによる後継管理の放棄だ。東はこの「解散後のラカン派たちの迷走」を指摘し、弟子や後に続こうとする者に対するスタンスとしてデリダの戦略をラカンのとった手段に対置させて取り上げている。このデリダの戦略に対する詳細な検討が『存在論的、郵便的』の主な内容なのだ。特に何かが新規(新奇)なわけではないが、丹念に詳細に執拗にデリダの戦略に関する仔細な考察がなされ、恐らく世界最高峰のデリダ研究の書であることは間違いない。


大胆に言えば、デリダは「管理職になるカクゴ」をしたのだが、その方法は弟子や後継による解釈を「拡散」させ「その中心から内破させておくため」に「より過激に「主」として振る舞う」こととその「加速化」だという。東は年月をかけて、そのデリダの戦略を確認したわけだ。それは何のためにか? もちろん彼自身が明言しているように東自身の実存のためだ。
そして、それに費やした年月やテキスト表現の冗長性こそが東のアカデミシャンとしての証しでもあり、同時にそれが彼に与えられた社会的存在としての意味でもあるのだろう。


大衆のディテールと大衆への伝達にこだわる大塚英志は、大衆への呼び掛けも兼ねて「管理職になるカクゴがあるかどうか」と記したのだと思われる。東においては自己の実存の問題であり、いかにも青年の模索であるのだが、大人である大塚においてはそれを突破しクリアしていく方法の確認であり、読者に示唆することそのものが目的でもあるのだ。子供と大人の違い、と言ってしまえばそれまでだが、これらの言辞の受容のされ方そのものが如実に世代の属性や、この社会の今後を予期させるものとして読めるだろう。少なくともそう読もうとするのことが社会を語るものへの期待でもあるハズだ。


この大塚英志と東浩紀の差異は何か?
サブカルオタクに批判されがちだという大塚と、サブカルオタクも含む一部で高い評価や熱烈歓迎の声も出つつある東との差異は何を現しているのか?


『存在論的、郵便的』のなかでラディカルに評価できる部分として


  デリダがヨーロッパの伝統的テクストばかり読むのは何故なのか、
  とあえて素朴に問うたサイードが完全に正しいと考える。



という東による指摘がある。
この問題はウィトゲンシュタインも含めてニーチェとマルクスを除く多くの欧米の思索者たちの陥穽でもある。当然、ニーチェやマルクスはそれを超える必要なり方法なりに気がついている。ここで、デリダは自らその陥穽にハマってみせることで“解”を得ようとし、東はそのスタンスに興味の持ったのだ。この東の興味の持ち方こそ彼とその同世代とのギャップを示しているのではないか。東はニューアカが示したポストモダンの諸々から得られる最大の成果を我が物としたのであり、ニューアカやポストモダンを否定はしても対象化し得ない輩は、何も得られないままフラットなザマをさらしているに過ぎない。大人になれない、とはそういうことだ。東の
イノセンスな興味は、まるでダンジョンをクリアするかのようにデリダ(の陥穽)を超えた、と評価していいと思う。


ところで、日本にはこの陥穽も含めて、東が興味をもったデリダ的戦略そのものをも一言で明言してしまうような思索者が複数いたのではないか。
たとえば、親鸞の「面々に計らえ」がそれだ。
吉本隆明が『最後の親鸞』で追究した極限の思想もしくは思想の極限としての親鸞は、「ヨーロッパの伝統的テクスト」による拘束からは無縁(これがニーチェやマルクスがヨーロッパ外に見い出した可能性だ)であるために、実に解りやすく伝えやすく思想できたのではないだろうか。ただし、日本にはその代償でもあるかのようにポストモダン情況が現在進行形でもあるが。

それが日本のリアルというものであるのも確かだろう。
だからこそ、吉本隆明をアイドルとする大塚英志の実直な問題意識も知らずしてそこにあり、また彼を巡るサブカルやオタク周辺でのレスポンスがそのリアルな反映そのものであるのも当然なのだ。


フラットなポストモダンの解決が「要はぼくたちに管理職になるカクゴがあるかどうかである」というのは究極の方途であり当然の倫理となる。

ポストモダンの解決はモダンのなかにしかないのだから。



東浩紀の正直な解決



  僕はこのような本をもうニ度と書けないだろうが、また書くべきでもない。

             『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』(東浩紀)


後期デリダの提議したハイデガー的な問題を、呆気なく駆け抜け、非ハイデガー的解決としての柄谷・浅田のパラドキシカル・ジャンプを瞬く間に自分のものとした瞬才として、思ったより正直で強靭な東浩紀が確認できる一冊である。


もちろん東浩紀にその契機を与えたのは、宣伝コピーにも使われている浅田の一言だ。


  東浩紀のとの出会いは新鮮な驚きだった。
  ・・・
  その驚きとともに私は『構造と力』が
  とうとう過去のものとなった
ことを認めたのである。


                       『批評空間―編集後記』(浅田彰)


パラドキシカル・ジャンプへの誘いである。
意味あるGOサイン。
意味のない言葉が多すぎるなかでの。
だからこそ、ポストモダンの解決でもあるのだ。
もちろん、スタートでもあるが。



正直な坊やが書いた、正直なテキスト



正直な男が書いた、正直なテキストがある。
それは、その男が独白するとおりに4年間かかって書かれた正直で、しかも、ある種凡庸なテキストだ。失礼。


ある哲学者が10年以上かかって世界的な評価に値するエクリチュールによる“建築への意志”を貫き、一定以上の成果を収めた。権威の獲得である。ほどなく、それがリアルなバベルの塔だと自覚したその哲学者は哲学を捨てるべく、自らの“建築への意志”をディコンストラクションするために政治的実践へと没入していく。これも成果を収めた。フランス左翼政権における文化大臣という実行力(実効力)の獲得である。“力”へのスピード感溢れるアプローチと言えるだろう。

その哲学者にとって、それらの実践はソクラテスが毒をあおるように静かで確固たるものであり、何よりその哲学者にとって不可逆な飛翔でもあっただろう。

マルクスにおけるパラドキシカル・ジャンプの概念、理論から実践への転換を10数年以上にわたって哲学者らしく慎重に体現した哲学者と、その姿に自らの問題を見い出して4年間にわたる分析と著述を行なった男の記録。


『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』はそういう本である。

これが第一印象だ。



モダンイデオロギーの希少なマトモたるロマンチズム



ダーウイン、フロイト、マルクスは近代知性最大の成果だとはよく言われることだろう。
そして<近代><知性><最大の成果>が同時にその<近代><知性>の<限界>であることをも指摘する向きがあるのは、ある意味で当然だ。100度℃という最高水温というものが、同時に水が液体であることの限界温度であることのように、である。もちろん、100度℃を超えた水は液体から気体へと構造変換する。

モダン最大の成果だったダーウインやマルクス、フロイトはどのようなカタチへと変換したか?

液体と気体の間に形態の共通性がないように、モダンイデオロギーのポストモダンにおける形態にはイデーやロゴスから予測・推量できるカタチはないのではないか?


モダンイデオロギーの名辞たるアイコン(イコン)は、単に実行(実効)されつつある諸行為、諸実践としてしか現実にはあり得ないというリアルへの認識。ルーマンや宮台の基本的なスタンスも、実践へのパラドキシカルジャンプにだけリアルな力や政治を認知していたマルクスも、直視しているのはそこだけではないのか。そして、それこそがアカデミシャンやインテリに決定的に欠落している部分でもあり、オタクやサブカル周辺にいたってはその欠落だけがその閉鎖的で脆弱なテリトリーを保障するものとなっている様は、そのままジャンクの由縁でもあるだろう。

「モダンイデオロギーのポストモダンにおける形態にはイデーやロゴスから予測・推量できるカタチはない」ことに敏感になっているイデオローグは新人類世代以降では限られた面々だけなのか。


カタチがないイデーをどう捉えるのか?

ここに「カタチはない」ものを感性や身体性ならば射程できるという最悪の勘違いがフラットな連中にフラットに広がりつつあるのも確かだ。もちろんフラットであることを隠蔽するためにまとわれた「カタチ」はサブカルに代表される多数の意匠となってあふれている。芸術や文学の普遍化(アウラの消失と表裏一体であることは当然)すなわちあらゆるものの商品化という資本主義最大の実効性に流されつつ、主体的に泳いでるふりをする演出に、サブカル他の衣装(意匠)は豊富にあったという事実に過ぎないのだが。もちろん、これも資本主義のおかげである。


それらを直視することが現在必要な認識のすべてであり、個別的現存に自己言及すること以外に止揚の途はないだろう。

「カタチがない」ことを「透明な僕」と自己に引き寄せて直視できる認識はジャンクなイデオローグより深い。


どこにも希望がないということは、自分だけが希望たるということに過ぎない。
透明な自分ならば、その希望はなお無限だとする可能性でさえ、その時リアルになる。

モダニズムのロマンとは、そういうことだ。



プチブルが示す数少ないマトモ



 ことによると、労働のインセンティヴや、協働や共同性の意義を再構成することを志向する思索は、果敢にマルクス主義の再評価に取り組まざるを得ないようになるかもしれない。
 言い換えるならば、資本制に唯一拮抗できる理念であるマルクス主義を、「保守主義」の新たな源泉として読み換えることが要請されるほどに、全域化した市場システムは「人間」という概念を追い詰め、その疎外を完了しつつあるということである。(宮崎哲弥/発言者97.6〜8月号)




浅田や宮台に入門することだな。
アタマがないとフォローできないけどな。
そして何より健全な精神がないと、な。
もちろん、アタマが悪くて気が小さい分だけ、声や態度や図体のデカさでカバーしようとする愚劣輩(市井の愚連隊より悪い連中)には無理だ。
小市民(プチブル)が市民サマ(同類項)をオチョくる小林なみのマンガには欠伸もでないからな。