LDP・スクラッチ 1998.4.1〜8.28

♪ クールな、お言葉
● LDP・スクラッチ
○ 哲学的?エッセイ
♪ 羊通信
♪ ひつじ・わーるど


国家を巡る論が照らし出すもの



左翼が国家をターゲットにするのは、それが最もリアルだからだ。
リアルな暴力こそ問題であり、
また、あらゆる問題の解決はリアルでなければ意味がないからだ。

右翼が国家を論じるのは、それが最も非理性的だからだ。
つまり、理性がなくても語ることができ、
理性的に語る必然もない
からだ。



これらの二つは同じ理由によっている。
そして、その理由をめぐる全く正反対のベクトルこそ左右両派の特徴であり、そのスタンスの程度がバイアスとなって各党派や階級や趣味や文化の違いを表象させているに過ぎない。



この「同じ理由」とはテキストを巡る解釈に集約される。

まず、左翼は、国家が「論」や「テキスト」無しに行使されている<何か>であることを知っている。近代法であろうが民族主義やイデオロギーであろうが、慣習法であろうが、それらのテキストや論はすでにある現実の追認か反映でしかなく、常にそれらのテキストを超えて現存する諸力の最大値としての国家こそがリアルであるという認識は、左翼の大前提だ。左翼は国家が「理由」無しに実効されている<何か>であることを知っているのだ。そして、だからこそ、その理由を探究するスタンス抜きには左翼はあり得ないのであり、それが左翼のイメージをも決定づけていると言えるだろう。それがイデオロギーというレッテルであり、また学究的であり、信頼の対象となり得る根拠でもある。

それに対して、逆のベクトルが右翼のスタンスだ。つまり「論」や「テキスト」が介在しないからこそ国家が絶対的存在であることを身体をともなって示しているのが右翼なのだ。理由無しに存在する国家を理由がないゆえに絶対視しているという単純な構図にそれを見て取ることは簡単だろう。これは宗教と紙一重であり、理由やテキストという共通コードを必要としないことにおいてラディカルに反公共的であり反社会的でもある。しかも共通コードを必要としない(マテリアルな事実としては共通コードがあっては右翼が存在し得ないという程度のことでしかないが)ことによって右翼は「一人一党」と言われるように、その特徴はパンピーからもイージーに見抜かれている。「一人一党」とはまさしく「理由無しに存在する国家」に自らをアイデンティファイすることで、理由無しに自らの存在の正当化を要求する幼児的認識にすぎない。さまざまな保守のスタンスは自己正当化の程度問題、幼児性の度合でしかないことも確かだ。その開き直りは、自ら「お坊っちゃん保守」を名乗るようなポストモダンぶりにも露呈している。

より暗愚で気が小さく認識能力も劣るプチブル最悪のフォロワーに至ってはポストモダン症状もモロにジャンクの程を呈し、自らの政治・国家を語れない臆病ぶりを“左右は国家を語り過ぎる”とすり換えて強弁する様子は電波系と五十歩百歩だ。

戦後最悪の病態がそこにある。



朝ナマバカパネラーのザマ



学生の真っ当な発言は?

もちろん当の朝ナマ学生の発言全てがバカの証しだとは言わない。極めて真っ当な発言が2つほどあったのも確かだ。

女の子の発言で「キャンパスではこんな話しすら出来ない」などの状況を客観視した、学生全体への反省を込めた指摘があった。救われるね、こういう発言があると。
望みはないわけじゃないということか。

それから、自分自身がいつも団塊や全共闘の世代に対して持っていた大きな疑問であるととも具体的に放っていた言葉そのものでもある「それで、どうしたんですか。勝ったんですか。何も変わってないじゃないですか」といったような発言があった。この言葉に正面から回答できないパネラーのザマは予想通りでもあるが。
安田講堂に立てこもったり、ゲバルトやロックアウトする程度で革命だとかほざいてた、はた迷惑以外の何ものでもない全共闘の集団マスターベションの気味の悪さと鬱陶しさ。おまけにコイツらの同志であった加藤程度の人間が自民党の幹事長になったくらいで、「我々の時代が来た」とかなんとか集会まで開いて喜んじまうお目出度ぶりは、もはや団塊の世代はカワイイものなのかもしれないな、などといけない幻想を抱かせるほどだ。ふざけるなよ、と言いたくなるわな。
田原の「猪瀬さんなんかも戦ってきたんだよ」というオヤジの説教じみたセリフに対する学生からのカウンターで「それで何か効果があったのか」という疑問は、正当じゃないか。問題はいつも“問い”ではなく“答え”の方にあるんだから。


選挙投票の棄権を主張した宮崎の愚劣!

坊っちゃん保守の呼び声も高い宮崎哲弥の自己矛盾は、中沢や浅田へのスタンドプレイ的なケチにおいて露呈してるが、さすが“「朝ナマ」新世代の旗手”とも称されるようになっただけあって当の朝ナマでこそホントにバカをさらけ出してしまった。
いわく「選挙は棄権する」であり、棄権こそが政治を変える方法だなどとスペイン市民戦争当時のアナーキストさえも笑っちまいそうな主張を繰り返す有り様。まだ全共闘時代の同志である加藤の自民党幹事長就任を喜んだ輩の方が可愛いいだろう。
選挙の棄権? 現前のシステムを肯定するはずの保守が選挙の棄権を主張するとは革命的なこったな。いつからコイツは革命家になったのか? 怯えた分だけ反市民を唱えるバカで小心な反市民派とは違って、内心は市民の良識を期待したい旨を表明したこともある宮崎が、議会制民主主義を否定して選挙の棄権を唱えるなんて、団塊世代以下になっちまったのか? コイツ、何なの?

同様に選挙の棄権を主張したオタキングも相当間抜けだが、オタキングのイデオロギーそのものとの不整合はなく、もともと狭義には非政治であることの別名称でしかないオタクやその現象全般との矛盾はあまりないのだ。「洗脳力」「自由洗脳競争社会」「洗脳利潤」などの術語を用意して構成したオリジナルなイデオロギーはそれなりのトータルな認識を可能にし得るし、東大の御墨付?もあり、一定の評価ができるだろう。いわゆるタームの輸入代行業学者よりましなのは確か。ハズしたボードリヤール解釈などよりオタキングの洗脳社会論の方が有用であり真っ当であるのは歴史が証明するか?(笑)


繰り返す。お坊っちゃん保守が棄権を主張? 良識派が民主主義を否定? 笑わせるなよ、コイツ。



朝ナマバカ学生のザマ



基地がある方がいいだと?

沖縄の基地はない方がいいと思う人が36人だったか。
つまり基地がある方がいいと思う者が64人なのかな。

先月、久しぶりに途中から朝ナマを観たら、100人の大学生にその場でアンケのレスポンスを取りながら進められていた中で象徴的だったのがこの場面。
基地がある方がいいと思うことなど、思考能力(基本をなすのは構成同一性。日常では相手の立場になって考えることなど)に比してこの程度のものになっていくだろうという予想の範疇だったので特に気にならないが(バカが確実に増えているという認識を確認させてくれただけなので)、何が象徴的かっていうと、次のシーンだ。

田原をはじめとしたパネラーのサイドが大学生に具体的な意見を聴きたくて、基地がある方がいいと判断した大学生に挙手を求めたら、誰も手を挙げないときた。なんだこのガキども。

この怯え。
人の立場は考慮せず、しかも自分の立場も明らかにしない、このグチャグチャの自己保身の怯え。


親って、何?

コイツらの親って何(コレって、もちろん“ボクって何”だよな)? “安田講堂”なんぞのコトバに特別な感慨持ってる世代が、反帝反スタのスローガンも忘れてアメリカンなニューファミリーを気取って作っちまった人生にゃこの程度のガキが似合っているわけか。団塊世代で東大キャンパスに「止めてくれるな、オッカさん」の立て看板描いて、テメーのマザコンぶりにケリをつけようとした橋本治やセクトの代議員大会放っぽってパンピーへ転向した糸井重里なんぞの一部を除けば、やっぱこの程度のガキを生み育てるのがやっとこさの団塊輩なんだろな、親たち。まあ、そんな風にワテのなかで縮減される傾向がなきにしもあらずなのは何故なのか?

いずれにせよ、いわゆる宮台なども困っちゃってる“社会や政治やカタイ話しになると「身を引く」大学生”の典型例というわけだ。しかし困っちまうのはそれだけではない。この100人の大学生は国際政治シンポジウムを主宰してたり、ボランティアで海外へ行ってたり、弁論部で政治をテーマにディベートしてたりする人間なのだという。それが、このザマだ。ホントにコイツらも、その親も何なんだ?

が、しかし、冷静に考えたら、だからこそ救いなのかもしれないという可能性もありだ。いくらなんでも“朝ナマ”出演してなんか意義あると思ってる自意識過剰の電波予備軍(肥満した自意識の恣意的関連付け症候群?)と、センター街でブラブラしてる連中やタワーレコードの常連や秋葉原でブツブツ言ってるオタクとの間にリレーションなんてないだろう。それが救いだ。自民党の総裁選みたいなもんで、パンピーと全く関係のないとこで“保守”という名のもとに単なる自己保身で汗かいてるバカオヤジに対して、必死に働いてる人間や家計のやりくりでカリカリしてるオバさんの関係意識が急速に希薄になっているのが唯一の救いであるように、だ。その結果が民主と共産の勝利なんだろうが。

朝ナマでバカさと不勉強とガイキチぶり披露してる連中より、猿岩石の真似してアジアの片隅なんかでイッちまった400名以上の大学生や若者の方が世代文化の生け贄みたいで同情の余地があるものな。
そのうちNHKのドキュメントか何かでやるでしょ。猿岩石風ヒッチハイクの虚構性に絡めとられ、ジンガイがみーんな親切だと思って若い命を粗末にしちまった400名以上の物語をさ。それをドキュメントするはジャーナリズムにとって数少ない意義の一つだろう。やれよ、いいな、NHK。


コイツらとイデオローグの勝負は?

比べるのも酷だが、朝ナマ大学生なんて、東浩紀一人にも対峙できないねコイツら。ディベートオタクがゾンビみたいなツラして泡飛ばして喋ってる様なんか、ガイキチの自己PR見本以外の何ものでもないからな。適切な自然成長をしくじった人間のシステムで、口蓋周辺の筋肉に神経がいっちまうタイプと捕捉対象への同着を運動行為として繰り返すタイプとが、それぞれおしゃべりオタクとストーカー程度でしかないような状況を、まま、このTV場面はプレゼンしてくれた訳だ。(笑)
バカとガイキチは増えてますってか。いいだろう、いいだろう。


パンピーは電波じゃない分だけ元気?

しかし、大衆は健全だぜ。いや、みんなは元気だと言い換えるべきか。
それは今や過ぎ去ったTKのヒットにも、ミスチルの人気にも、エレカシの登場にも、パフィーのサマにも感じられることだ。思わずBZも買いたくなるしな。
TVのニュースで見かけた、香港の復帰記念式典で江沢民主席やクリントン大統領を前に演奏してたglobeやTKだって健全なトレンドの証しに思えるわな。

未成熟なお子様システムが専門用語や活動といった公的に認知されうる諸々をまといながら、実はそれらは、未成熟なままある程度のウルサ型作法や属性を身につけてしまったにすぎない、あと一歩で電波ORガイキチ系でしかないおしゃべり人形と化した様子はキャンパスでもありありだ。


ある日のキャンパスでの教育的指導の例(笑)

ゼミに遅れたにもかかわらず態度の悪い学生に教授が一発パンチを見舞った。学生をかばおうとした別のゼミ生に、教授はケリをぶち込んだ。
先日、某有名私大であった事件。
いいなあ、これが、教育ってもんだぜ。大学にもなって“教育”というものさびしいが。(笑)

民族学校の生徒にリンチされ、数回金品を取りあげられ、国家主義学校で鉄拳の嵐を受け続けた青春つーのが、もう、懐かしくてしょーがない。ワテ。

「友だちが口をきいてくれません」程度がイジメだと大騒ぎする、この脆弱な団塊バカ親世代とまんま増幅遺伝した団塊ジュニアお子様には、生きていく全てが試練であり、試練全てが生そのものであることは理解できないかもしれない。バイバイ。


明日の散歩とお仕事は、っと

かつて大塚英志にはじまった団塊世代へのラディカルな批判は全共闘とフェミニズムへの理念的な解体に匹敵する成果をあげ、宮台におけるオヤジ批判としてはより具体化・普遍化し、なにより様々な現実化として効果した、のではないか。今年からの戦いはシビアになるというようなことを宮台がどこかで述べていたが、それは掃討戦のあと建設に向かう困難さであることぐらいはワテにもわかる。

まあ、ガンバってくれい。



ブレるアタマもデフレ気味?



デフレはどうすればいいか?
プロなら考えてみな!


インフレに対する基本的な処方は通貨総量の抑制なのは近代経済学もマルクス経済学も同じだ。それがわかりゃデフレへの対応策はわかるはずだがな。推論すれば。だのに誰も言わない。ま、言えないのか、能力的にな。経済学者とかシンクタンク研究員とかアナリストとか、TVから雑誌まで最近トレンディな“経済”のコメンテーターやパネリストがこんなに大勢登場してるのにもかかわらず、だ。

デフレが戦後日本の世界へのお披露目式だった1964年の東京オリンピックの前後からはじまっているのは企業のシンクタンクも指摘するところだ。現在まで企業の設備投資はアメリカの約2倍の額に達している。30年以上かかって企業の設備資産としてアメリカの2倍もの資本が注ぎ込まれていればデフレになるのは当然だろう。これで生産力もアメリカの2倍になり就労者の賃金もアメリカの2倍ならつじつまが合う。しかし生産力はGDP比でアメリカの8分の5、賃金も3〜4割程度低く、物価は高い。どうなってるんだ、いったい。まあ、物価は一部ディスカウントでゴマかされてもいるが。

実際にはアメリカの2倍にもなった設備投資は、日本経済崩壊への3つの要因を生み出してしまった。

 (1) 生産力が向上しすぎて異常なディスカウントを可能にしたこと。
 (2) 正常な減価償却を待たずに生産設備の更新を行なったこと。
 (3) 余った設備資産を担保にしてマネーゲームを行なったこと。

(1)有り余る生産力でコストダウンに成功したのはいいが、反面それは低賃金でも生活できる環境の演出であり、生産力と購買力の正常な市場関係の形成を妨げたことになる。
(2)必然性のない設備更新の前倒しは、工作機械などの需要を喚起しても、一般消費市場(国民)とは関係のないGDPを生むだけで、国民経済から乖離した企業のマスターベーションに過ぎない。
(3)必要性のない支店や名目上の厚生施設ほか不動産をメインに担保形成としての設備拡充が一般市場の裏打ちのないマネーゲームへの参入を拡大した。

以上の3つの問題点のベースには、それらを可能にするために犠牲になった低賃金労働と下請け企業の存在が前提となっている。低賃金労働は借地借家人保護法と食糧管理法というレーニンの戦時共産主義法を真似た統制経済下であること、下請け企業は世界銀行からの莫大な融資を支えにした傾斜生産方式下であることが、それぞれ前提だ。この命題から演繹し、現況を鑑みて考察するのが学問とか科学とかいうものだ。本来は。
国家や行政府とそれを取り巻く社会との整合性は、諸々の社会学的考察と社会の疎外態であり同時に表現である法との連関から検証されていくのが経済学以外の方法論の一つだろう。パンク右翼の福ちゃんは文芸評論家の立場からどうやって国家や社会を見たのか?


アタマもデフレ、か?
デフレを考察できないアタマの、その理由


繰り返す。30年以上かかって企業の設備資産はアメリカの2倍もの資本が注ぎ込まれた。しかし、生産力はGDP比でアメリカの8分の5、賃金も3〜4割程度低く、物価は高い。どうなってるんだ、いったい。

この「どうなってるんだ」という状況がいよいよデフレとして顕在化した、それが今の状況じゃないか。各種数値を専門家から丹念に集め、識者や官僚からデータや貴重が意見までもらっていながら、福ちゃんの分析はボロボロだ。結局データオタクでしかないのか? 現在公開情報だけでもアナリシスのデータは充分だし、パンピーにはデータがないとか情報への認識がないとかケチつけてるアナリストやシンクタンク関係者といった自称プロは、公開情報だけでも分析できてしまう公然たる事実にビビッてるだけにすぎない。プロや専門家がパンピーとのデータの差などを主張しだすのは自己の地位やプロとしてのアイデンティティをどうにか維持したいという怯えや不安以外のないものでもないのは、いつでもどこでも共通だ。病気は医者じゃ治らないということ(自己体力で快復する以外にはない)がようやく多くの人の知るところとなったのと同じで、プロや専門家に社会や経済が分析できるなどという戯けは通用しなくなってきている。ヤツらのアタマは専門用語でデフレになってるだけなのはコギャルだって知ってるさ。


用語解説や、理論装置もデフレだね

おまけに経済学者は「誰も彼もが自由に経済を語れるわけではない」とかなんとか訳のわからない癇癪をおこしたりしてるらしい。シロウトが誰でも景気や経済を語るようになったんで気分を害してるんだとか? 心配するなよ、「誰でもわかる」とかいう宣伝文句の経済関連本に至っては用語解説を経済解説と勘違いしてる有り様だぜ。
まあ、そんなことはとにかく、プロならアカデミシャンらしくちゃんと語ってみなよ、日本経済を。できるか? 保守面するクセに国家を語ることもできないガキ論壇とは違うとこを示してほしいぜ。プロフェッサーならな。

論壇否定しながら新たな論壇つくるお間抜け同様に、イデオロギーを否定するクセに新たな理論を求めるヤツには、現象の数だけ論理を数えようとする複雑系ゲーマーちゃんの遊び心はわかんねーだろーが。


日本で「オリーブの木」は可能か?

政権とそれを支える勢力はイタリア共産党から派生した3つの左翼政党で6〜7割を占める構図の中、直接政権を担う「オリーブの木」が日本でも話題になってるが、不況克服程度で「戦争」する「覚悟」を持ち出すくせに、自分自身は反共呪縛や自縛からは逃れられないメンタリティが多数を占める日本じゃ成立するわけがない。ブレア首相に政権は20年間早いとか言われちまった管直人が関の山ってこと。


大物の風情、浅田彰のスゴサ?(笑)

まあ、共産党中央委員会機関誌である『前衛』に颯爽と登場し、しかも共産党に向かって現代資本主義を解説した上に自説を披露し、おまけに共産党への客観的な評価を下して、ついでに自分のプロフィールまでしっかり紹介してもらってる浅田彰の大物ぶりなんていうのは、論壇ゴッコで自閉してる輩や、デフレ克服策も「ないのです」とかのたまってるヤツにわかるわけがないよな。


文化の意味、現実の意味

たとえば、真面目なアカデミシャンである吉見俊哉が愛知万博反対の主張をし、中沢新一が愛知万博のコンセプトワークを担っている、という構図は何を示しているのか。こういった問題の方が、よほど文化やそれで食ってる人間と、その構図に束縛されてるにすぎない理念や理論をどうやってもっともらしく見せていくかっていうクロウトの芸や演技を見物できるだけ楽しいもんな。まだ見せ場があるってこった。
しかも宮台のレベルまでくれば「現実による審判」と「実効性」はフィードバックしあってループする。そしてインデペンデントなモノゴト(宮台現象から実効ある解決プロジェクトまで)として成立するわけだ。それこそが文化装置なのは論を待たないぜ。TKのヒットのようにな。

「わからない」や「戦争」や「覚悟」ばっかりじゃ、三島先生好みかもしれないが、誰もあんなお笑な人生はイヤさね。SPEEDやglobeでカラオケがなってる方が楽しいもん。

かつて、フィアットを国民車にすると主張し、キリスト教徒100万人が葬儀に参列したベルリンゲル書記長のイタリア共産党の機関紙ウニタにはトトカルチョから株式投資のページまであって楽しめるらしいし、それは今も変わらないだろう。

浅田がNTTや日経の顧問である理由はよくわかる気がするもんな。
坊っちゃん保守やガキ論壇には文化もなけりゃ、ましてや正当な価値判断などないわけだ。世代論的な怯えと思考能力のなさを裏返しにした、支離滅裂なガキレベルの主張とスタンドプレイにもならないイキガリは、都合が悪くなると“宮台の悪口言っちゃった”で自滅する程度のものでしかないのはすでに過去のことか。

“状況と対峙する「朝ナマ」新世代の旗手”というデキの悪いジョーク以外の何ものでもないコピーがつく宮崎哲弥ほどになると、もう浅田批判などの売名スタンドプレイでさえパンク以下でしかないが。

経済学部に入った時の素朴な疑問に「経済学者に金持ちがいない」というのがあった。最近、インテリやアカデミシャンに金持ちがいない理由がわかるような気がする。正確にはサクセスするのとインテリかどうかと全然関係がないということでもあるんだろうとも思うんだが。海外のインテリや思想家はそのままポリティカルな存在が多いしな。まあ、文化大臣だったデリダなんて、そのために「写真を撮らせない変わり者の思想家」だったのを返上しちゃったけどさ。

まあ、大胆な理念とプロジェとプロジェクトを想起できるインテリは、金持ちになるわな、ということだろうか。

日本じゃ小数派のスタイルだが、浅田彰は正しいぜ、やっぱり。



デフレでブレるデブ!



バブル崩壊以降6年経ってもまだまだ崩れる一方の日本の経済は、それを取り繕う役目以外は何もない文化や、根性まで水脹れした水死体並みの水分含有率のように、ますます膨れて、経済以外の上部構造までデフレーションを起していることを隠蔽することさえ出来ない不様な光景を演出してくれる。資産も文化もデフレだね。



  それでは、デフレーションを克服するには、どうすればいいのか。
  その方法は、実は、ないのです。
                       『壊滅』(福田和也)



バカだね、コイツ。
ナチスを支えたのがニーチェの思想ではなくて、新カント派の思想だと的確に指摘できるほどちゃんと調べてる勉強家なのに、残念だぜ、福ちゃん。

新カント派を見切れる、そんな風に正確でリアルな認識はレーニン派だけの特権だと思ってたちょっとサビシイ風情のイデーのクラブに登場したデブッチョくん。姿もパフォーマンスも面白いのに、どっか、いつも国家とかナショナルとかワクがあるギコチなさでシラケさせるんだけど、ワクによる拘禁を解けばもっと自由なイデーのポテンシャルがあるんじゃないのと思ったのに、ちょいと残念。やっぱ、お脳もムクんでるのかしら?


「世界に誇る日本の文化」として「浅田彰」の名前を挙げながら「背景には経済がある」と言い切れる東浩紀のスルドサは、やっぱ、福ちゃんにはないのだろーか。「文化」にとらわれない東の認識力は、エヴァを批評するに際して「“中学生日記”並みの内容」(東)にとらわれることなくアニメとセル画というメディアの形態に表現への評価を見出しているぜ。スルドイな、東浩紀。まあ、東ってスリムだしな、今のとこ。
日本文化への把握能力からして、伝統や保守を気取るやつがコワッパのイデオローグに差をつけられたんじゃ、もう一億玉砕ですぜ。ただし、保守のな。

昭和天皇の在位最長を祝う式典で、中曽根首相が昭和天皇に向かって「ご苦労様でした」とのたまった不敬な行いをとがめることも出来なかったバカ保守バカ右翼ども。
敬語の基本的な用法も知らず、国語すら理解できない輩が伝統や国家を主張する気味悪さは、中年までドウテイだった小田が宮台にコンプレックスを持ったり、保守政権ご用達で反共を売り物にしてた中川が、今や役所や警察に呼ばれて各種意見を求められ条例や法文の草稿さえ検討してる宮台にビジネスライバル以上の敵愾心を覚えるのと同様にコッケイだ。もちろん、こちとらにゃ楽しい見物でもあるぜよ。まあ、いいか。



  いいですか。この不況は、戦争でもしなければ克服できないようなものなんですよ。
  だとしたら、戦争をやるくらいの覚悟がなくては、とても対応できるわけがない。
                               『壊滅』(福田和也)


へえ、「戦争をやるくらいの覚悟」を説教する福ちゃんだが、何故だかデフレに関してはわからない?だと。んじゃ、インフレに関してはわかってんのかねえ、君。
それに不況克服に「戦争をやるくらいの覚悟」を要求するなら、不況克服のために共産党が政権を担ったりするのを認めるのかな? 共産党と戦争、どっちがいい? どっちもイヤだとデフレは続くんじゃないのか? 君の言い分だとな。まあ、いい、とは言わないぜ、今後は。



7月1日報告



ぜんぜんスクラッチじゃない、っていう悩みは依然当然メシ三膳な毎日です。
落書や走り書きみたいに批評するのはどんなもんだかわかんないのがホント。
でも、wall-paintでscratchする“FUCK-YOU”とかは究極の批評だと思うけどお。
三文評論風にでずーっと社会批評なんかやってる人とかいますが、まあ、継続は力ですね、確かに。

あれ? 3月末日でケリつけて4月1日からリニューアルという話しもあったようですが、いつもココはいいかげんだな。継続だけが取り柄なの?



真理追求の非現実性



部分が全体を示し、全体が部分を示すような、
位相の違い以外では部分=全体となる集合において、
部分の真理は全体の真理でもある。

もちろん逆も真なり、か。


 メビウスの輪がゲーデル的決定不能性を二次元の具象として示しながらも、
 三次元(現実)としては存在し得ない、という事実。



これだけで論理の非現実性をラディカルに証明するには充分だ。



人が遠ざかるほど立派で、それぞれ真理とその追究を自称するとする哲学や思想がホロニックであるかどうかは知るところではないが、ホロニックでなければ笑い話にしかならないデキゴトは2度目の笑いとして、それこそあらゆるところに転がっていそうでもある。

たとえば吉永良正著『複雑系とは何か』などに紹介されているある興味深い事件がある。
事件どころか圧倒的なエンターテイメントでもあり、それこそ「真理とは如何に」的なテーマに真正面から問いを発したマジメな出来事でもある。
しかも笑を誘いながら、だ。


それは、デリダやラカンなどからカットアップした難解な哲学や思想のテキトウな言葉のテキトウなパッチワークで仕上がった“量子重力の解釈学”をテーマとした学術論文が正しいか、真理であるか、といったものだ。
この類の喜劇は、それこそ当事者がマジメであれば滑稽で、不マジメであればありふれた日常の出来事という程度のものでしかないだろう。


ここで事件のマジメな当事者への救済の契機なるものを考えてみると、たとえば、ある問いが浮かぶ。
それは、それがホロニカルであるかどうかということだ。そのことは同時にそれが真理であるかどうかという問にもなるだろう。

たとえば、哲学者Aのコトバと思想家Bのコトバ。
それぞれが真理であれば、どこをどうつなぎ合わせても真理であるハズだ、とパンピーが考えても無理はない。

もちろん、論理のクラスターの峻別が必要だなどという類の戯言は、現実というものや資本主義というリアルには通用しない。それは論理至上主義者がゲーデルの不完全性定理やチューリングの停止性判定問題を回避しようとして持ち出した欺瞞以外の何ものでもないし、マルキストやポストモダニストならば、パラノドライブとスイッチオフで対応する日常の1コマでしかないだろう。趣味で数学を読む人間ならばブール代数でも指し示せばケリがつく程度の問題でしかないのだ。


文法的な正しさと、意味的な正しさ。
常識的であること自明性によることから乖離する可能性のある“タテマエ”(社会の疎外態など)の根拠である前者と、瞹昧な論理性による“ホンネ(生活)”でしかない後者
は、それぞれガイキチや電波系と、コギャルやオヤジといった典型によってパンピーにも認識されているはずだ。

円や丸は、ユダヤ人が見てもマルキストが見ても、宗教者が見ても、コギャルが見ても、ただ単に円や丸である…というパンピーな認識が、真円性にこだわったり真理であるがための理念の世界をでっち上げたりするガイキチ系の論理より説得力を持ち得ないことはない。社会や一般というものはどちらをコードに採用するか? これが自明性というものだ。



AとBは主張が違うのでパーツの切り貼りではトータルで真理にならない、とするならば、いったい何が真理なのか?
AとBの主張が相対的なものにすぎないなら、そもそも街のオヤジの主張とどこが違うのか?



不マジメな当事者への質問をいくつか考えてみると…いつも密かにテーマにしているコトが思い起される。

パッチワーク論文の真偽・正誤を問うゲームと笑い話作りには賛成だ。
ただし、
形式論理の究極である数理において円周率は割り切れないが、現実に円や丸はどこにでもいくらでも存在するという事実が意味するところは何なのか?
数学(形式論理)の意味(価値)は何だ?
論理の追究は個人的な趣味以外に何か意味があるのか?



そして、プロパガンダ?が一つ。
割り切れない円周率(形式論理)に興味はないが、現実に無数に存在する円や丸のさらなる生産に喜びを感じるのがマルキストだ、と。あるいはシュールレアリストであり、資本主義のパラノドライブだと…。



もちろん真理を夢想するのは勝手だが、その夢想に芸術や文学だの名辞によって価値が付与されることは今後の資本主義では認め難くなっていくだろう。それは、POPへのトレンドであることにしか価値は認めない、ということでもある。

すでに「美しい数学」などもってのほかだ、とパンピーやコギャルは言葉によらずして表明している。
また、それを早くから読み取ったニューアカや宮台の認識は、まだ、超えられていない。


「マルクスに100年遅れてやってきた科学者らの自覚なき反省=複雑系」の当事者が誘ってくれる笑いと喜劇を楽しめるヒマがあることを願いたいとこだ、とパンピーのイデオローグは啖呵をきるだろう。

正しい。



虚構性が提議する東京や宮台



虚構はそれ単独では虚構でさえあり得ない。
“虚構”が虚構であると認識できるのは、虚構ではない“何か”と比してはじめて可能である
ことは、認識のイロハであり反意語辞典のABCでもあるだろう。


このサイトの説明に“東京の虚構性”とか“東京の虚構性に立脚した都市論”などという内容のコピーがある。
理由はたぶん簡単で、“東京を語ることが出来れば、世界を語ることが出来る”という程度のことに違いない。それほどに東京は虚構(性)の権化であり、バルトの文句を持ち出すまでもなく、その非中心化された求心性は絶えず拡大再生産されている。リングドーナツが、その真ん中の穴ボコという虚な空間とともに魅惑を示しているようにだ。


もちろんこの虚構性は東京イデオロギーそのものなのだが、その虚偽意識ゆえに、マテリアルに実態ある時空間として機能し、その密度と効率から世界最大の生産の場であるとともに消費の場でもあることをも可能にしている。マテリアルというものは虚偽意識にこそ支えられているし、それ以外にはあり得ない。これは、イデオロギー(観念)を獲得したゆえに猿が直立歩行に踏み切れたのと同様の因果律だが、それは単なるダーウイン主義者や反ダーウイン主義者には理解不能でもあるはずだ。


東京の虚構性は文藝批評における印象批評と客観批評にも対応する。印象批評は作品内のあるポイントに依拠し、ポイントはプロットその他のカウント数の無限倍存在するがゆえに、印象批評もまたオーディエンスの恣意性の数だけ自由無限に存在する。それは作品を自分本意に気ままに評せるということにすぎない。
逆に作品をオーディエンスとそれを取り巻くTPOにおいて考察する時、そのフレームは無限であっても、恣意的ではなく、マテリアルにテクノロジカルに規定されていく。

人間にとっての世界は<マテリアルを媒介にした人間関係>として以外には表出し得ない。東京は何より、その巨大な具現なのだ。ゆえにまた魅力するTPOでもある。



“東京を語ることが出来れば、世界を語ることが出来る”

…というのはもちろん本気なのだが、同じことを宮台が社会学(ルーマン)に関して説明しているのを見つけた時にはニヤリとしてしまった。

もちろん、そこでさらに大きな関心を持てるのは、その宮台の主張を誰が気に留めたかという例の興味の方なのだが。そういったリアルにこそアプローチしていきたいというのが長い間変わらない自分の問題意識でもある。

誰にとっても、本質的には「現実による審判」こそがリアルであることに違いはないからだ。もちろん、この「誰にとっても」がPOPの原点であり、オタクの対極でもある。



80年代からのTMNが提議するもの



80年代バブルからはじまったカルチャー全般の分節化・細分化のなかで、細分化を超え、世代を超え、モダンの究極の表現を示し、産業的ジャンルでのシステムの確立にまでも至り、その方面の表現理論の再構築をさえ要求したのはTK現象ただ一つかもしれない。


今年、TMNが復活されるというウワサがあったが、「TaMaNetwork(多摩ネットワーク)」の略でありローカリティをコンセプトにしていたTMNがアニメオタクとシンセオタクなど15万人のハードコアのヒットからはじまって、東京ヒット→国民ヒット→アジアヒット→世界ヒットへと軌跡を描いていく事由こそ、このWEBが探究するテーマでもあるのではないか? TKはかつてバブルでベイエリアが注目される以前からその可能性をエッセイで考察していたが、その確かな都市論的なセンスはTK周囲のスタッフも驚いたという。当然TMNのネーミングを生んだエリアが第4山の手として2000万人を代表する新中間層の典型的なエリア、つまり郊外であることとその雰囲気を自らの生活を通じても知り尽しているTKが、TMNにシンボライズさせたものは何か?
一回で消費される商品としての表現だけではなく、私的には、その軌跡(歴史)をもこそ考えてみたい誘惑にかられもする。



TKは“引用”や“パッチワーク”的な印象を与える表現だけではなく、純粋なクロマチックディファレンスと転調という手法から音楽理論としても衝撃を与え、「必然のない転調」を批判した旧来の有名作曲家たちや、「音程がハズレてる」「ヘタ」と揶揄した一部の評価をコケにしつつ全く新たなジャンルを確立してしまった。

まったりを常態にした多数に対して、「楽しく」「優しく」過ごしたいという共感をダイレクトにメッセージにしながら、その音(メディア)に雰囲気としての緊張感を人知れず表現できる方法を独自に確立したのだ。私見でも半音ズレたスケールによって緊張感を高めたのはH.ハンコックのアドリブぐらいであり、それを歌われるメロディ・主旋律でやってのけたTKにはただ感心する。

この背景の一つにボーカルをメッセージの媒体ではなく楽音あるいは楽器音、和声のあるパートと見なすスタンスがあるが、これはバンド形態での演奏が前提であり、ミックスダウンでこれを行なった歌手は中森明菜だった。スコアにおいてM7thやm9thが示すクロマチックの緊張感は現在では常識的だが、メロディにおいて半音の差を維持することを未だ「(ハ)ズレ」とする聴感は、オヤジ以外の何ものでもない。計算された華原のそれとネイティブであるエレカシのそれとは、テクノロジーによる表現の可能性と大衆の新たなる欲求に応える聴感刺激をぞれぞれに提供しているのだ。その提供システムをまとめて資本主義というのは常識だ。

H・ハンコックのヘッド・ハンターズによって開拓されたファンクとそのエッセンスが、マイルス・デイビズに影響を与えたことを認知する言辞がないのと同様、TKがそれらを吸収していたかもしれないことを想像する批評性も見かけることはない。
ところで、ハンコックがマイルス門下生であることは確かだが、復活した後のマイルスの音からかつてのH・ハンターズの影響の大きさに感動できたヤツがほぼ皆無なのは、オーディエンスの聴感のみならず認識力全般のレベルを示しているにすぎないと思う。


いずれにせよ、何よりTKは資本主義的にも“一つの業界そのもの”の売上げとシステムを確立し、世界レベルの実業界でも注目を浴びることになった。ビル・ゲイツのようだと言っても間違いではない。
もちろん、いちばん大切なのはより多くが楽しめることであり、POPであることだ。自分の楽しみには固執する(もっともそれ以外はなにも“する”ことがないらしいが)が、他者のそれを認めない、またはより多くのそれを認めないオタク論壇(あるいは論壇風オタク)のガキ言説が、TKのヒットやサブカル解析のスルドイ宮台言説に怯えコンプレックスを抱いたのは、すでに過去のことだろうか。



80年代POPが提議するもの



その道のプロではないのに、その楽屋を知っていることがオタクだが、80年代のPOP(表POP)が“楽屋オチ”や“業界ネタ”へ至ったことはオタク(裏POP)への通底でありリゾームであり、団塊ジュニア文化への継承であることは確かだ。これらの世界観(イデオロギー)的フラッグは当然ニューアカにあるが、大抵のニューアカに対する批判や価値相対主義に対する批判はこれを直視しないし、できない。それは思考能力のなさに起因する以外は理由が探し得ないが、根本的には自らに言及できていない、それだけのことである。

さらには、究極的にニューアカや価値相対主義それへの批判を含めて、カルチャーやイデオロギーなどというものはマテリアルな環境の反映に過ぎないし、あらゆる意図の実現可能性も、それらを前提にしたテクノロジーの問題でしかないが、そこへ“実感”や“身体性”を持込んで不可侵の領域であるかのようにスタンドプレイすることでしかアイデンティティを保持できない状況こそが“今、ここ”なのだろう。本来語るべきはそれだけだ。

もちろん、80年代のサブカルリーダーとして“オタクへの通底”を推し進めたいとうせいこうなどが、通底のはてにくるモノゴトに関して予測なり造詣を持つことが出来ているのは、ニューアカ的認識力によるところでもあるだろう。ニューアカはその程度の射程を持っているはずだし、また、それ以外にニューアカの意味などないとも言える。これがインテリジェンスの基本であるのはルフェーブルの言葉を出すまでもない。

もちろんニューアカはポストモダンと呼ばれる思想の日本的総括であり、30年も前から“日本が江戸時代以来ポストモダン状況にある”と見ているフランス(哲学者・高級官僚であるコジェーヴなど)では、日本のそのポテンシャルを羨望してもいる。ジャック・アタリのようにEU統合が日本を意識した戦略基盤であることを認めるインテリもいるほどだ。



で、だから、“今、ここ”はどうなのか?



80年代リーダーの“今”が提議するもの



新人類メジャーのポパイ少年や表POPを仕掛けていったのが秋元であり泉であるのは間違いないが、そこで何が仕掛けられたのかについての検討作業は少ない。新人類文化の閉塞とともにそれらは団塊ジュニア文化にシフトしていったのだが、いったい何が継承されたのか、でもある。世代論を含めてこれらに関する息の長い調査研究は宮台らのライズコーポレーションやアクロスの三浦らのワークくらいだろう。

これはオタクだけではなく出版やメディアの老若男女多数派の認識だ。もちろん表立って表明されることがないのは単に商取引上の理由に過ぎないのだが。

そして、現在の業界の認識は“秋元、泉の人気のなさ”である。一定のファンはいるし、彼らの仕事も継続されており、ワタシもそれらが好きだ。しかし、業界の表面化しないメジャーな意見は80年代リーダーらの人気のなさ、説得力のなさを指摘している。一方、彼らと同世代の小室哲哉があれだけメジャーとなり、サブカルレベルのオタク性、内輪性、あるいは島宇宙ぶりを簡単に超えてPOPそのものとなっているのは、何故か? が、しかし、一方で、同世代である秋元や泉には人気と説得力はない、というワケだ。

このことはある大手出版社の人間などから提議された問題でもあるのだが、彼らは同時に解答も用意していて、ホントの大手、または大手のホントの時代感覚や緻密なマーケティングというものに、いつもながら驚かされてしまった。

彼らが断定するのは、簡単なことだった。
それは、秋元や泉の批評性のなさだという。

まったく批評性のないユーミンから等身大の批評性のあるTKへの人気のシフトは考えていることでもあったが、秋元や泉の人気の変遷もそれに類するものであるのは確かなのだろう。

もっと否定的な批評性、過激な認識を前面に押し出した尾崎豊でさえ未だに、あるいは今でも、または今だからこそ人気があるという事実が示すものを考えてみる価値は少なくない。

それをリアルと感じる最大多数がマーケティングされていそうなミスチルの批評性のように、ヒット作の批評性は意外に高いのかもしれない。



青二才とパンクが提議するもの



  金も知性もない少年たちはいつの時代でも、
  暴力か、アートかの選択を迫られる。
                    『世紀末新マンザイ』(サヨク青二才)



その暴力がバタフライナイフ程度で、アートが所詮サンプリング程度なのは、芸能新聞三文版からブスとバカがオンパレードするTVまで、まったくフラットに同質だ。平等っていいね! 違うか?

しかも、それらは、恥ずかしげもないどころか極めて積極的に表明されているからこそ、
エロス(アウラでも可)は不在であり、もちろん、最高の媚態としての無邪気(エロスの初源)もない。

それを糊塗しようとする強迫観念だけが名辞としてのエロスと戯れを量産する。ポルノとトレンドだ。もちろんポストモダンな批評力はここでこそ真価を発揮するだろう。なぜなら、その消費者がいることこそがエロスの不在を暴いている、というのはポストモダンの指摘するところだからだ。

ところで、表層の暴力やアートにさえ無縁の輩はどうするか?
そいつらはとりあえず現状を肯定するところからはじめるしかないというレベルから保守のスタンスを気取るだろう。環境=TPOをマテリアルに把握する認識と現状肯定とを峻別できない場合、その数はそのまま保守にカウントされる。しかし、それはもちろん保守のイデオロギーではないしナショナリズムでもなく、ザコ一般の何ものでもない。ゆえに現在保守イデオロギーに突き付けられている問題など考えもおよばないのだ。



  天皇をアリバイにしないナショナリティを考えなければならない。
                    『世紀末新マンザイ』(パンク右翼)



この福田の認識は絶対的であり、保守イデオロギーやナショナリズムの根幹にかかわる問題だ。中間共同体などの言葉をもってして相対的な思考しか出来ない宮崎らとのラディカルな違いが際立っている。ま、頭脳の違いなのだが。中間共同体云々は家族的共同体などを想起させ、比較的ウケやすいというマーケティング的なネライでないとすれば、単に認識力の限界を表明しているにすぎない。

チーマーやコギャルに読んでもらいたい、という微笑ましい?ネライを披露していたパンク右翼には、その限りにおいて興味があったが、島田の紹介においても自ら説くところにおいても、人に嫌われたいらしい志向と、『世紀末新マンザイ』における主張は思想としてラディカルな問題提議をなし、その容貌や態度をさておいても興味を持たせてくれた。意外でもあったが、この辺は『批評空間』に登用された理由でもあるのか? 

どこかで読んだが、ナチスがニーチェやハイデガーではなく新カント派の影響下にあったというパンク右翼の認識はニューアカ派にさえないものだ。たいしたもんだ。それはもともとレーニン派の認識でもあり、マテリアルに現状を探究したものにしか得られない結論でもある。真にドンキホーテが優れていたことをパフォーマンスしてくれるのを希望するね。コイツに。



リアルというダンジョン/レーニンとポケモンの楽しみ


 

「ドリンドリン」とレーニンの笑い

が聴こえてくるような名著『はじまりのレーニン』(中沢新一・岩波書店)は、マテリアルな現実の<はじまり>をとらえながら、そこから始まり、そこに終わっていく人間というものを描いている。そこには分節化され微分されバラバラになった知や概念、思想や哲学などに囚われることのない崇容な大衆の権化のようなレーニンがいる。
 革命当初の頃、身の危険さえある激しい批判の場に引きずり出されたレーニンが、青ざめたトロツキーの隣で大声で笑っていたというエピソード。後に、伊達男でもありオシャレなトロツキーはスターリンの不穏さが見え隠れしだした頃の中央委員会の重要な会議の最中、みんなに背を向けてバルザックを読んでいたという話しはあるが、レーニンの場合は何かあるととにかく大笑いしていたようだ。

 それは、あのマルクスの“2度目の笑い”でもあるだろう。もちろんレーニンにとっては2度目どころか生来はじまりのはじまりからこの<笑い>なのだと思わせるほど強烈なようだが。

 大衆が

<そこに、はじまり><そこに、おわる>マテリアルな現実

を生きているというシンプルな真実
は、人に何かしら力強い勇気を与えてくれる。そのことを知っているレーニンには、ことさら大きな<笑い>と生きていく<楽しみ>を与えてくれたようだ。

 

そこから<はじまる/エロス>と、そこに<おわる/タナトス>という<生きること>そのもの

を楽しんで生きる<徴(しるし)>こそが<笑い>に象徴されている。

 それは、

エロスとタナトスをシンボルする<笑い>

だ。

 そして、

イナイイナイ/バアに触発される<笑い>

でもある。

 人間の原理を示した原初としての運動でもあるだろう。





 そして、この

エロスとタナトスから社会現象を説いた

もう一冊の名著に『ポケットの中の野生』(同)がある。『はじまりのレーニン』を明示するかのように、あるいはエロスとタナトス、そこにはじまりそこに終わる生の<はじまり>を示すように“「はじまりの時間」に立ちもどってみよう”、という前ふりの言葉からはじまる『ポケットの中の野生』は「ポケモン」のゲームデザイナー田尻智との対談からスタートする“読める論文”だ。レヴィ=ストロースの“野生の思考”をポケモンに興じる子どもたちに見出しながら、フロイトとラカンを援用しつつ<ゲームの楽しみ>を読み解いていく。テクニカルタームのない平易な、それだけ力強い論はインベーダゲームにはじまる日本のテレビゲームへの概観と考察であり、その<エロス-タナトス>史観は、『はじまりのレーニン』で明示された唯物史観=リアリズムとパラレルなもうひとつの認識方法として透徹した視点を示している。『はじまりのレーニン』から3年3ヶ月を経て出版された『ポケットの中の野生』だが、著者である中沢新一が探究したものは変わっていない。

 『はじまりのレーニン』巻末で、モスクワの子供たちのレーニンへの直観的なイマージュに感嘆したトロツキーの思いを引用することでしめくくる結びの文は、むしろ中沢が子供の直観に感嘆したことを示すものである。その子供の直観とは「<ここには何の神秘主義もない>」(トロツキー)ことをはじめから知っていて、「無の世界の記憶」を失っていない、「無底である<物質>の運動」を察知している、リアルでシンプルな認識のことだ。この認識をレヴィ=ストロースの言葉とオーバーラップさせて示したのが『ポケットの中の野生』における「野生の思考」である。

 そこで「ポケモン」への探究とテレビゲーム論の形をとっているのは、現代のテクノロジーと社会状況といったTPOに即して展開させたという方法上の問題であり、何ら本質は変わっていない。それどころか進展さえしているのだ。

 

「レーニンは恐がらずに墓へ行きました」という子供の言葉

にトロツキーとともに感動している中沢は、恐がらずにダンジョンをクリアしモンスターと戦うRPGの主人公に子供ならば誰もが見なければならない「ファンタジー」と、「実現不可能」でも追求しなければならない「不可能の旅への出発」を認め、また期待している。それは、レーニンが革命を夢想したように、でもある。