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シュレディンガーの猫
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第二十七回

「現実」の現在

― 2004年2月 ―

 この文章は、前回の「時間の現在」とその前の「批評の場としてのインターネット」の続編である。「続編」というより「落ち穂拾い」や「混乱収拾編」というべきかも知れない。前二編の文章はなんとなく結論が出ないままに終わってしまっているので、それよりずっと前に出した話題や新しい話題にも触れつつなんとか収拾をつけようという企画である。前回の話題を、前々回にとりあげた東浩紀氏のメールマガジン『波状言論』の話題といっしょになんとかつづけてみようというわけだ。

 でも、だいたい「混乱収拾」なんてことを考えると逆効果に終わることのほうが多いが最近の世界的傾向である。さらに混乱してわけがわからなくなってあえなくしっぽを巻いて遁走ということにもなりかねない。

 でも、そうなったらそうなったで、「現代社会でこの問題にすっきりした答えを出すのは難しいようだ」とかなんとか書いて終わればいいわけだし……。

 最初から逃げに入っていて、はなはだ心許ない。心許ないまま、本論に入っていきたいと思う。


「タイム・シェアリング・システム」的な構造

 近代になるまでの人間は基本的に一つの「社会」に属して生きていた――という想定で前回の文章を書いた。

 ほんとうは、こういう考えかた自体、最初から疑ったほうがいいのかも知れないとは思う。中世や古代の人びともいくつもの「社会」に属していたかも知れないからだ。中世や古代の人びとが一つの「社会」にしか属していなかったという見かたは、中世や古代の人たちは基本的に農民であって、農民は一つの「社会」にしか属していなかったという論理に基づく。しかし中世や古代の人たちは農民ばかりではない。日本や中国について言えば、多様な人びとがいたのに、その時代の政治権力が、税金を取る都合で農民を基本に社会を編成しただけの話である。また、農民が一つの「社会」にしか属していないとも必ずしも言えない。

 しかし、今回もまたそういう話は飛ばして、近代の人びとは一人で複数の「社会」に属しているという前回の設定のまま話を進めようと思う。

 なお、ここでカッコつきで「社会」と呼ぶのは「人間のつきあいの場」や「人間のつきあいの輪」のことだ。具体的には、学校とか会社とか、町とか村とかいう地域の共同体とか、あるいは家庭とか、同人誌を作っているサークルとかを指す。 Society のもともとの意味である。「共同体」と言い換えてもいい。私たちがふだん使っている意味での社会はカッコなしで表現し、区別がわかりにくそうなときにはカッコなしの社会を社会全体と表現したりもしている。

 近代は一人の人間がいろいろな「社会」に属して活動するのが普通になった時代だという想定から前回の議論を組み立てた。それぞれの「社会」には、表情も意味もある時間が流れていて、その時間の流れはけっして一様ではない。近代社会では一人ひとりの人がそういう「社会」にいくつも属していて、日々、どの「社会」の時間に従うかを選択しながら生きている。そういう人間がたくさんより集まってできる近代の社会全体では、それぞれの「社会」の時間の意味が薄められ、相対化されて、けっきょく、特別な表情も意味もなく一様に流れる時間が社会全体の時間になってしまった。それが前回の議論だった。

 それを一人ひとりの人間の側からいうと「時間」は二つの層からできていることになる。一つめの層は自分が属しているいろいろな「社会」(人間のつきあいの場)の時間である。そして、その上に、二つめの層として、全社会共通の時間が流れている。

 人はいくつもの「社会」に属していて、あるときはあるひとつの「社会」の時間に従い、別のときにはまた別の「社会」の時間にしたがって生活する。5時までは会社の時間に従い、夜の8時とか9時とかまでは英会話学校の時間にしたがってお勉強し、10時に帰宅した後は家庭の時間にしたがうなどというふうにだ。自分がどの「社会」の時間に従うかを切り換えながら生活しているのである。そのそれぞれの「社会」の時間は、その人にとっても、同じ「社会」に属している人にとっても、表情も意味もある時間である。

 しかし、近代社会では、いつからいつまでをどの「社会」の時間に従うかを決めるために、全社会共通の時間の層が必要だ。これが、一つめの時間のうえのもう一つの層を流れる時間である。これが、一様に、特別の意味も表情も何もなく流れていく時間であり、セシウム原子の特殊な震動によって流れていく時間である。

 こんなふうに考えてみて、近代社会の時間は大型コンピューターの「タイム・シェアリング・システム」(TSS、timesharing system、日本語では「時分割処理システム」というらしい……って「自分勝つ処理」ってなんだよぉ〜?)に似ていると思った。

 1980年代には、コンピューター関係の研究者は別にして、そうでない人たちにはパソコンはそんなに普及していなかったと思う。そんなころ、学校のコンピューター実習などは大型コンピューターを使って行っていた。大型コンピューターの処理装置は一つだけだが、その一つの処理装置で何十人かの学生のやっているぜんぜん別々の作業を処理しているという。それは「タイム・シェアリング・システム」という方法で行っているのだと先生が説明してくれた。

 タイム・シェアリング・システムでは、大型コンピューターの処理(演算)装置は、一定時間はAさんの作業を処理し、その時間内で作業の終わらなかった部分は記憶装置に放りこんでおいて、次には一定時間だけBさんの作業の処理する。時間内で作業が終わらなかったら、また途中結果を記憶装置に放りこんでおいてCさんの作業に移る。ひととおりみんなの作業を一定時間ずつこなし、一回りしたら、またAさんの作業に戻って残りの作業をまた一定時間だけ処理する。次にまたBさんの作業を一定時間だけこなし、その次にはまたCさんの作業を一定時間だけ処理する。その繰り返しで、一度に何十人もの作業を同時に処理しているのである。ただ、それを非常に速い速度で処理するので、利用者の側は、「一人ずつ順繰りに少しずつ処理してもらっている」という感じではなく、同時に多くの人の作業が処理されているように感じるのだ。

 近代社会に生きる私たちの時間をこのタイム・シェアリング・システムにたとえることができるのではないかと思う。

 社会全体を流れる一様で意味も表情もない時間に、それぞれの人が、自分がどの「社会」(人間のつきあいの場)の時間に従うかを割り当てていく。ある時間から一定時間は家庭の時間に従い、その次の一定時間は学校の時間に従い、それから友だちづきあいの時間に従ったり塾の時間に従ったりし、家に帰ればまた家庭の時間に従うというようにである。それぞれの「社会」の時間への時間の割り当てを決めるための基準となるのが、一様に流れて特別な意味も表情もない社会全体の時間である。

 この仕組みをそれぞれの「社会」の側から見れば、学校や会社や家庭などそれぞれの「社会」は、他の「社会」の都合を考えずにその「社会」独自の時間を進めていくことができる。午後3時とか4時とかに学校が終われば、それぞれの生徒は友だちとの時間に従ったり塾の時間に従ったり家庭の時間に従ったりするというように、学校の時間以外の時間へと自分の時間を切り換えていく。生徒たちにとっての学校の時間は下校の時刻から次の日(学校のある日)の午前8時30分とか9時とかにつづく。その「学校の時間以外の時間」にそれぞれの生徒が何をやっているかは、基本的に学校の側の知ったことではない。

 学校としては、生徒たちが次の日の始業時間に無事に学校の時間に切り換えてくれるのであれば、「学校の時間以外の時間」にどんなろくでもないことをやっていても、学校としては文句はない。逆に、「学校の時間以外の時間」にどんな立派なことをやっていても、学校の時間が始まるときに学校に来なかったりすると学校では問題にされる。

 一人ひとりの人が自分の属しているいくつもの「社会」に時間を配分する。一つひとつの「社会」は一人ひとりの人から時間を配分されて、その時間のあいだにその人とのさまざまな関係を作り、情報とかものとか仕事とかをやりとりする。そして、一人ひとりの人がその「社会」の時間から別の「社会」の時間に時間を切り換えたあとは、その人が何をするかはその「社会」の知ったことではない。そういうコンピューターの「タイム・シェアリング・システム」と似た仕組みで私たちの社会全体は回っている。それで、私たちの社会では、一人ひとりの人間が、学校では生徒であり、家庭では子であり、某サークルでは超「萌え」な絵の描き手であり……というまったくちがう複数の役割を担いながら生きていくことができるのだ。

 もちろん、先の学校の例では、ほんとうは生徒の生活指導があるので、「学校の時間以外の時間」にも学校は関心も責任も持つし、持たなければならないことになっている。部活で遅くまで居残っている生徒もいるかも知れないし、休日にも試合があるかも知れない。部活や試合で生徒が何をしているかは学校は知りませんというわけにもいかない。会社でも同じで、会社の外で不祥事を起こしたりすると、会社とはまったく関係のないことでも「会社の信用を傷つけた」とかいう理由で懲戒とか食らったりする。

 また、それぞれの「社会」(人間のつきあいの場)にはそれぞれ重なり合いがある。同じ学校の友だちのつきあいとか、同じ会社の仲間のつきあいとかならば、それぞれのつきあいの時間は学校や会社の時間に大きく影響されるだろう。だから、実際には、一つの「社会」の時間から別の「社会」の時間に切り換えてしまえば、前の「社会」の時間の影響は何も受けなくなるとはかぎらない。

 だから、近代社会の「タイム・シェアリング・システム」はコンピューターの「タイム・シェアリング・システム」のようにはいかない。コンピューターは、この時間からこの時間まではAさんの作業、この時間からこの時間まではBさんの作業というように、まさに機械的に時間を区切っていく。しかし、近代社会の人間の「タイム・シェアリング・システム」では、一つの「社会」の時間から別の「社会」の時間に切り換えたからといって、前の「社会」の時間から完全に切り離されるわけではない。また、一人ひとりの人のほうがある「社会」から次の「社会」に時間を切り換えたつもりでも、「社会」のほうでは時間を切り換えられたつもりになっていなかったりすることもある。その逆もある。

 しかし、この話はいちおうここで止めておこう。とりあえず、近代社会は、人と「社会」(人間のつきあいの場)が「タイム・シェアリング・システム」的につながることでうまく動いてきたのだということを確かめておきたいと思う。一様に流れて特別な意味も表情も流れる時間を基準に、それぞれの人が何時から何時までというように時間を区切ってその人の属するいくつもの「社会」の時間に従う。そのことで、一人ひとりの人も一人でいくつもの役割を器用にこなすことができるし、社会全体のなかにいくつも存在する「社会」(人間のつきあいの場)も安定して存在していくことができるのだ。


「現実」のシェアリング・システム

 ここまで近代社会での人の生きかたを時間に焦点を置いて表現してきた。けれども、近代社会の「タイム・シェアリング・システム」で分配されているものは、ただ時間だけではない。もっと大きなものが時間ごとに分割されて分配されているのだ。それは何かというと「現実」である。

 なんでいきなり「現実」などという大それたことばが出てきたかというと、つまりは前々回でとりあげた東氏のメールマガジン『波状言論』の話題につなげるための仕掛けだ。とりあえずそういう見通しだけここで明かしておいて、議論を進めることにしよう。

 人が一つの「社会」の時間を選択するということは、その時間、その人はその「社会」で生きるということである。その時間のあいだは、人はその「社会」を通して世界を見る。そうすると、その「社会」を通じて感じられる世界の姿がとりあえずその人にとっての「現実」になる。別の「社会」に行くと、世界の見えかたは多かれ少なかれ変わる。だから、世界についての見えかたがまったく違う「社会」へとある一人の人が移れば、その移った瞬間からまったく別の「現実」がその人にとっての「現実」になる。

 たとえば、山歩きの好きな人が宅地開発会社に勤めていたとする。山好きの仲間と山歩きに行っているときには、山の自然を壊して宅地にするなんてとんでもないと思う。でも会社に戻ればどこかの山を切り崩して宅地にする開発計画を進めていて、スケジュール通りに地権者との交渉を進めて来ない部下に苛立ちを感じるかも知れない。山歩きしているあいだに感じる山の自然を中心にした「現実」のなかにいると、その山を開発しようなどという人間は、その外からその「現実」を脅かす悪鬼のような存在に見えるだろう。しかし、会社にいて、会社の事業の成功が何よりも大切だという「現実」のなかにいれば、「山の自然は大切だから」と言って土地を売ろうとしない地権者が「現実」にはあり得ないようなとんでもない分からず屋に見える。そんなことがあるかも知れない。

 あるいは、英会話学校に行って英語の講師と議論しているときには、「日本はもっと世界に開かれることで変わっていかなければ」と感じている人が、日本の伝統芸能の教室では「日本の伝統を変化から守らなければいけない」と感じるかも知れない。

 近代社会では、人は複数の「社会」に属し、複数の「現実」を感じ、それを「タイム・シェアリング・システム」的にやりくりしながら生きてきた。そこでは、一人の人がいくつもの「現実」を感じながら生きている。その「現実」は少しずつ違うものだし、ばあいによっては一人の人が大きく違う「現実」を感じながら生きることになる。

 しかし、そんなに自分の感じる「現実」がくるくる変わるのであれば、近代の人間は一人の人間としてまとまることができず、精神的に崩壊してしまうのではないだろうか。しかし、近代社会でも大多数の人間はそういう崩壊を経験せずに生きてきた。それはなぜなのか。

 そこでけっきょく東氏が『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)などで言っている「大きな物語」というものが関係してくるのだろうと思う。

 「大きな物語」というのは、「物語」ということばを非常に広い意味で使う「現代思想」の用語法に慣れていない人には難解な表現なようだ。じっさい、この『動物化するポストモダン』の「大きな物語」という概念をめぐっては、「大きな物語とはイデオロギーのことだ」という誤解(『動物化する世界の中で』の東書簡によると誤解なのだそうだ)が発生したり、まったく逆に「物語だけではなくイデオロギーも重要だ」という非常に素朴な混ぜっ返しが起こったりしている。

 最近、「現代思想」系らしい文章で「脱臼」ということばをときどき目にする。東浩紀氏も使っている。最初に読んだときは、何かすごく痛くて、実力でかなわない相手と柔道でもしたような感覚を感じた。よく読んでみると、「概念などの一部分のまとまりをもとの関係から切り離して自由に他の概念などと結びつけるようにする」という意味らしい。つまり「関節をはずす」という点で「脱臼」と言っているわけだ。外国語に原語があるのだろうけど、明らかに日本語にはなじまない用法ではないか。こういう「へんな日本語」が「現代思想」と日本語で文章を読む多くの人びととを隔ててきたのは明らかだと思う。

 では「大きな物語」とは何なのかというと、正確なところは東氏にきくしかないのだが、とりあえずは近代社会で社会全体に共有されてきた「客観的で標準的な世界の解釈や、その解釈のしかた」(難しく言えば「規範(きはん)的な世界解釈」または「世界解釈の規範」)とでも言っておけばいいのではないかと思う。

 近代社会では、それぞれの「社会」が独特の意味も表情もある時間を持っており、一人ひとりの人がいくつもの「社会」にタイム・シェアリング・システム的に時間を割り当てながら生きていると論じた。また、そのタイム・シェアリング・システムを動かすための基準として、近代に特有の「特別な意味も表情もなく一様に流れる時間」が、そういう一つひとつの「社会」の時間を超えたレベルを流れているのだとも論じた。

 その共通の「特別な意味も表情もなく一様に流れる時間」の支配する近代社会全体に、一つの揺るがすことのできない「客観的で標準的な世界の解釈」や「その解釈の方法」があると考える。そして、それは一つひとつの「社会」のレベルを超えて通用するものだと考える。つまり、近代社会全体に共通の時間の流れに対応して、近代社会全体が共通に感じる「現実」があると考えるのだ。その「社会全体の現実」は、一つひとつの「社会」のなかでどんな「現実」を感じたとしても否定されることのない、高いレベルの「現実」である。「高いレベルの現実」は「特別な意味も表情もなく一様に流れる時間」と一体のところに存在し、他のすべての「社会」で感じられる「現実」を支配していた。

 たとえば、ある「社会」(人間のつきあいの場。ここでは政党とか運動団体とかを考えればよい)から見るとベトナムで共産主義勢力と戦争することが正しい戦争に見え、別の「社会」から見るとそれがまちがった戦争に見える。また、同じように「まちがった戦争」に見えるという「社会」のなかにも、ある「社会」では「共産主義勢力との戦いだからまちがいだ」と見え、別の「社会」では「戦争そのものが悪いからまちがいだ」と見える。戦争が正しいと見えている「社会」では、戦争に関連して、共産主義政権の弾圧で収容所に送られた無数の人びとの悲惨さという「現実」が見えるかも知れない。「共産主義勢力との戦いだからまちがいだ」という「社会」からは逆に弾圧されて殺された社会主義者・共産主義者の姿や大国資本主義の下で低賃金で働かされる人びとという「現実」が見えるかも知れない。「戦争そのものが悪いからまちがいだ」という「社会」では、広島・長崎の惨禍や東京大空襲の体験という「現実」が重なっているかも知れない。

 これに対して、「高いレベルの現実」は、「平和は尊いものだ」とか「戦争はなるべくしないほうがよい」とか、「しかし人間はこれまでに戦争を起こそうとする勢力を抑えこむために戦争をしてきたことがある」とかいう考えかたを与える。抽象的である。そのかわり、その「高いレベルの現実」が与える考えかたを基礎にすれば、異なる「社会」のなかで別々の「現実」を感じていた人のあいだで対話が可能になる。「ベトナム戦争支持」も「ベトナム戦争反対」も、「人民戦争支持、帝国主義戦争反対」も「戦争絶対反対」も、そういう抽象的な考えかたの上では相対化される。多様な「社会」で多様な「現実」が感じられるのは、抽象的な原則が「社会」の一つひとつの特別さにふれ合うことで変形したからだという感覚を持つことができる。

 そういう対話を通して、社会全体の「高いレベルの現実」の与える抽象的な原則と一人ひとりの人が結びつくことで、他の「社会」に揺るがされない「個人」としての判断を持つことができるようになる。「個人」としての判断は、人ひとりずつ違うけれども、すべて「特別な意味も表情もなく一様に流れる時間」と同じレベルにある「現実」と結びつくことで作られた判断だから、その「個人」にとっては他のどんな「社会」で感じる「現実」よりも尊重しなければならないものだ。

 古代ギリシアの哲学者プラトンは、世界にはものごとの絶対的に正しいあり方というのがあって、ただ人間は不完全なのでその「ものごとの絶対的に正しいあり方」を見ることはできないという考えを打ち出した(イデア論)。だから、人間は、「ものごとの絶対的に正しいあり方」の一部分を見てそのものごとだと思いこんでしまう。この考えかたを延長していくと、だれも「絶対的に正しいあり方」がわからないでから何が正しいかということについていろんな見かたをする人が出てくるという話になる。

 この近代社会の「現実」感覚には似たところがある。世界には絶対的に正しい「客観的な事実」が存在し、人間がこの世のなかのすべてのものごとについての情報を知ればすべてのものの「客観的事実」を正確に把握することができるはずだ。しかし、人間にはこの世のなかのすべてのものごとを知るだけの能力がない。だから、人間は自分の手に入りやすい情報から「客観的事実」を構成して正しいだのまちがっているだの判断してしまう。それで社会全体のなかで議論が対立するのだというわけだ。ここでは「ものごとの絶対的に正しいあり方」がいままで「高いレベルの現実」と呼んできたものに相当する。ちなみに、プラトンは「一様に流れる時間」を時間の本質だと考えた人でもある。「一様に流れる時間」が支配する世界には「ものごとの絶対的に正しいあり方」がある。その感覚がプラトンと近代社会の「現実」感覚には共通しているところがある。この「ものごとの絶対的に正しいあり方」への確信こそが東浩紀氏のいう近代の「大きな物語」なのだろう。

 この「大きな物語」は、近代社会のタイム・シェアリング・システムがうまく機能するのと一体になりながら機能してきた。しかし、前回の文章の最後のほうで、私は、そのタイム・シェアリング・システムが機能しにくくなっているという見通しを述べておいた。東氏は、20世紀の後半に、その近代社会の「大きな物語」が失墜し、ついに存在しなくなったと書く。その延長線上に『波状言論』の議論が展開する。そのことを、私が進めてきた「時間」についての議論で語りなおしてみよう。


「現実」のシェアリング・システムの危機

 前回の文章での議論を、今回の流れに照らして繰り返しておこう。

 近代社会のタイム・シェアリング・システムは、一人ひとりの人が属する「社会」が増えることによって生まれ、一人ひとりの人の時間を「社会」に割り振る仕組みとして成立した。そこでは、「社会」一つひとつが持っている「特別な意味も表情もある時間」と、社会全体が共有している「一様に流れ特別な意味も表情もない時間」との二つの種類の時間が流れ、社会全体の共通時間がより高いレベルの時間としてタイム・シェアリング・システム全体を支えていた。また、近代社会では「社会」ごとに「社会」を通して見る「現実」は違っていた。けれども、共通の高いレベルの時間に寄り添うかたちで「高いレベルの現実」が存在すると信じられていたために、人一人ずつの「現実」感覚がその人のなかでばらばらになって分解せずにすんでいた。かえって、人一人ひとりがその「高いレベルの現実」と直接につながることで、人一人ひとりは自分の属する「社会」が見せる「現実」を相対化することができ、自立した「個人」になることができると信じられていた。

 しかし、この人間世界のタイム・シェアリング・システムには、コンピューターのシステムとは決定的に違った特徴がある。

 コンピューターは、与えられた作業量が膨大でなかなか処理しきれなくても、人間がプログラムを書き変えないかぎり、同じ一定時間を使いながら坦々と多数の人から与えられた作業を少しずつ処理していく。人間がどんなにたくさんの作業をさせようとしても、コンピューター(CPU)の性能を向上させるか、プログラムを書き変えてむだな処理過程を削るかしなければコンピューターはその作業効率を変えない。コンピューターの作業をしている人間がどんなに苛立ったって怒りまくったって、コンピューターは何も感じない。へたに蹴ったり殴ったり強制的に電源を切ったりするとかえって不具合が生じたりもする(強制的に電源を切ってうまくいくこともあるけどね。ちなみに、UNIXには、コンピューターがうまく動かなくなったとき、もう一人の自分としてあとからコンピューターと連絡を取り、先にコンピューターに作業を命令した自分を殺す( kill する)ことでコンピューターを不具合から解放するというSF的な手順があるらしい)

 しかし、人間はそうではない。

 人間は大量の作業量を与えられると無理をしてでもそれを処理しようとする。それどころか、自分で自分のやりたい作業を探し求めたりもする。相手に怒られたら「この作業もしなければ」とか「もっと早くやらなければ」とか思うし、自分で「これはやっぱりやらないといけないな」と思う。ときには、怒られてもいないのに「これをやらないとあの人は怒るに違いないからやらないと」と思ったりもする。

 人間は作業を詰めこむことができる。しかも、他人も作業を詰めこむことができるとわかっているから、他人にも作業を詰めこむように期待してしまう。そして、作業を詰めこまれた人間は、最初に決めた時間をオーバーしてもその作業を処理しようとする。さらに、他人にも同じことを期待してしまう。人間とコンピューターの関係と違って、人間の社会では作業をさせる相手も同じ人間だというのがやっかいなところだ。

 先に、「社会」は一人ひとりの人からある一定時間を自分たちの「社会」に割いてもらえれば、それ以外の時間のその人の生活には何も口をはさまないというようなことを書いた。

 しかし、ほんとうは違うのだ。ほんとうは、その「社会」は、その人が自分の「社会」の時間以外の時間を選択しているあいだでも、自分の「社会」の時間を生き、自分の「社会」の与える「現実」をその人の現実として生きていてほしいと強く願っている。自分の「社会」の時間以外をその人に生きてほしくはなく、自分の「社会」の与える「現実」以外の現実をその人に感じてほしくないのだ。そういう関係のしかたの究極的なあり方が理想的に考えたばあいの恋愛なのである。ただ、純愛に生きる恋人たちでもないかぎり、いろいろな「社会」にはそこまで人の生活に首を突っこむだけの余裕も能力もなかった。だから、それを断念していた。それだけのことである。

 人一人ひとりは複数の「社会」に属し、それぞれに一定の時間を割り当てながら生きている。「社会」のほうも、人一人ひとりの時間をそれ以上に支配しようとすると労力や資金がかかりすぎるので、一定の時間の割り当てに満足している。その均衡状態の下で、近代社会のタイム・シェアリング・システムは機能してきた。

 ところが、前の文章でインターネットや携帯電話で象徴したように、情報伝達の効率が上がったことで、そのタイム・シェアリング・システムが機能する条件が危うくなってきたのだ。自分の「社会」の外にいるときに、その人が何をしているかが以前より把握しやすくなった。そのことで、人が関わるあらゆる「社会」(人間どうしのつきあいの場)が、純愛に生きる恋人のようにその人の生活のすべての時間を支配することが可能になってきた。そうなると、自分の属する「社会」に自分の時間を支配されそうになっている側も、同じような要求を他の人に対して持つようになるのが自然だ。その結果は、一人ひとりの人が、多くの「社会」から無限の時間を支配しようとされ、同時に自分の「社会」に属する他の人の時間を無限に支配しようとする社会へとつながる。一方で、情報のやりとりが頻繁になったことで、人が「社会」にふれ合う機会は増加し、人が属する「社会」の数も増大する。しかもその「社会」が人一人ひとりの無限の時間を支配しようと働きかけてくる。

 そうやって一人ひとりの人にこれまでよりはるかに多くの数の「社会」に属するようになり、従来のようなタイム・シェアリング・システムでは捌ききれなくなっている。それが現在の状況だと思う。

 そこで起こることとはいったい何か。

 一つひとつの「社会」が無限の時間を支配しようとするようになる。すると、支配されようとしている人にとって見れば、自分の時間のすべてを支配しようとする「社会」の時間が、すべての時間の基本となる世界共通の時間ということになる。しかも、自分の時間を支配しようとする「社会」は一つだけではない。非常に多くの数の「社会」が自分の時間のすべてを支配しようとする。

 そうなるとどうなるか?

 一人ひとりの人にとって、すべての時間の基本となる世界共通の時間が複数あることになってしまう。

 近代社会では、すべての時間の基本となる世界共通の時間は「一様に流れ、特別な意味も表情もない時間」ただ一つだった。いまでは、さまざまな「社会」の時間が、その「世界共通の時間」の地位を奪おうと争っている。そして、一人の人にとって、「世界共通の時間」の地位を占める時間がいくつもあるという事態にまでなってしまっている。

 では、ふたたび、そうなると、どうなるか?

 かつて、ただ一つの「一様に流れ、特別な意味も表情もない時間」に寄り添っていた「高いレベルの現実」が意味を失ってしまう。いや、自分の時間を支配しようとする「社会」が感じさせる「現実」がその「高いレベルの現実」の地位に居すわってしまう。そして、自分の時間を支配しようとする「現実」がいくつもあるばあいには、その「高いレベルの現実」がいくつも存在することになる。

 東氏のいう「大きな物語」の失調とは、そういうことを指しているのではないだろうか?


複数の「現実」

 ということで、ようやく東氏のメールマガジン『波状言論』の話に到達する。

 東氏は、現在までのところ(2月24日現在、創刊準備号を入れて第4号にあたる2月A号まで配布されている)、メールマガジンの巻頭コラム「crypto-survival noteZ」で「メタリアルな現実こそが私たちの感じている現実である」という議論を展開している。ゲームでは、一つの「現実」から、何の脈絡も感じられないままに別の「現実」にジャンプしてしまうという、不条理な「現実」のつながり方しばしば描かれる。その「現実」の感じかたこそが、私たちにとっていちばん身近な「現実」だというのだ。東氏は、ジェームズ・マンゴールド監督の映画『アイデンティティ』や、1月B号までロングインタビューを連載していた相手の西尾維新氏の小説を素材に、そのことを語っている。『動物化するポストモダン』の最後に出てきたゲーム『YU‐NO』論のつづきと考えていい。

 近代社会では、さまざまな「社会」の時間の上に、「一様に流れ、意味も表情もない時間」が存在し、そこに「高いレベルの現実」があるということがなんとなく社会全体の共通理解になっていた。ほんとうは、「高いレベルの現実」というのは、さまざまな「社会」を通して感じられる「現実」をなんとか調和させるために、さまざまな「社会」を通して感じられる「現実」から都合のいい断片だけをつなぎ合わせて作り上げられたものだにすぎない。そして、「高いレベルの現実」などというのは虚構に過ぎないと見破る人もいた。けれども、虚構に過ぎなくても、そういうものがあると想定することで世のなかがうまく回っているということはほとんどの人が認めていた。

 しかし、情報化が飛躍的に進んだことなどによって、「一様に流れ、意味も表情もない時間」だけが占めていた「世界共通の時間」の地位を、さまざまな「社会」の時間が脅かすようになった。しかも、その「世界共通の時間」の地位を占める時間が、社会全体はもちろん、一人ひとりにとってもいくつもあるようになってしまった。それとともに、「高いレベルの現実」も一人ひとりにとって一つしかないわけではなくなってしまった。そうやってたくさん存在するようになった「世界共通の時間」や「高いレベルの現実」を整理するためには、さらに高いレベルに「世界共通の時間」や「高いレベルの現実」が存在することが必要だ。しかしそんなものは少なくとも現在のところ存在しない。

 つまり、私たちは、さまざまな「社会」から与えられる「世界共通の時間」と「高いレベルの現実」のセットのあいだを、何の整理もされないままに、脈絡なくそのときの都合だけに合わせて渡り歩くという「現実」感しか持てない状況にいるのだ。そう考えれば、東氏の議論もよく理解できると私は思う。

 では、私たちはそういう「現実」のあり方を追認するしかないのだろうか?

 とりあえずはそうだ。しかし、その「現実」から自分を防衛する努力は必要だと思う。私たちは身体を持った存在なのだから、そんなにたくさんの「社会」に時間を支配されるままにしていたら身体を維持するための時間すらとれなくなる。

 近代社会の「個人主義」は、「一様に流れ、特別な意味も表情もない時間」とともに存在すると思われていた「高いレベルの現実」と「個人」が直接につながることで、どんな「社会」の与える「現実」をも相対化することができるという考えに足場を置いていた。その足場はくずれた。しかし、現在、さまざまな「社会」が「世界共通の時間」として自分たちの時間を押しつけ、自分たちの「現実」を押しつけようとしてきている状況のなかでは、やっぱり一種の「個人主義」を盾にして抵抗するしかないように思う(ここで別の構想が出てくることはじゅうぶん考えられる。しかし今回はそのことには触れない)

 もちろんそれは楽なことではない。それが抵抗の手段として役立つためには、その「個人主義」を社会全体の共通理解にしなければならない。しかし、その「共通理解」自体がさまざまな「社会」の「高いレベルの現実」の地位の奪い合いのなかでうち立てにくい状況になっているのだ。

 もしかすると、いま少し触れた「人間は一人ひとりが身体を持った存在だ」というところから「個人主義」を立て直す道があるかも知れないと思う。むろんそれもはなはだ心もとない思いつきである。身体をことばで論じることなしに「個人主義」なり別の思想なりに一般化することはできないし、一般化しないことには人に伝えて「共通理解」を作り出すこともできない。しかし、身体をことばで論じたとたんに、まさに具体的な「身体」が置き去りにされてしまうのだ。それで「身体」に論じているはずの理論が何かわけのわからない抽象論に化けてしまったりする。

 しかし、ともかく、「個人主義」につながるかどうかは別にして、「身体」からこの世界をどう見ればいいかという「哲学原論」みたいなものを組み立ててみる試みを始めてみてもおもしろいんじゃないかと思う。

 というわけで、いま、私は、ここのホームページでいくつも連載を抱えて困り果てている私自身に、さらに新しい連載を始めることを求めた。つまり、「シュレディンガーの猫」執筆者の私が「ムササビは語る」執筆者の私の時間を支配しようとしているのである。おそらくこういうことが起こるのが現在の「現実」のあり方なのだ――という自己言及っぽくて次回予告的っぽい結びに到達したところで、今回は終わりにしたいと思います。なお、身体論にも触れる予定の「私の書いてみた哲学原論(仮題)」は、現在連載中の「恭仁京を訪れる」の連載終了後に掲載を開始する予定です――とは「ムササビは語る」執筆者の私からの伝言でありました。

 う〜む、こんな終わりかたになるとは予想もしていなかった。それも、ついさっきまで……。


―― おわり ――