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シュレディンガーの猫
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第二十九回

自由の現在

― 2004年3月 ―

 ここで、「自由の現在」と、申すの、は、現在の自由さまの声を演じているのは、堀江由衣で、ござる、と、いう、話、では、ない、の、で、ござる。

 ――という、深夜のアニメを見たりしている人以外には何のことかわからないような話はここではこれだけとするのでござる。でも、3月中にこのタイトルの文章を掲載したのは、やっぱりそういうことだよなぁ……。

 さて……えーと、今回とりあげるのは、そういう意味ではない「自由」の現在である。


アメリカ合衆国の「自由」

 アメリカ合衆国は対外戦争のときによく「自由」ということばを掲げる。

 アメリカの論理は、独裁者によってどこかの国の国民の自由が踏みにじられているから、独裁者からその国民を自由にしてやるというわけだ。第一次世界大戦でドイツ皇帝ヴィルヘルム2世と戦うヨーロッパ諸国を支援したときも、イラク戦争でサッダーム・フセインと戦ったときもそうだった。アメリカ国民のそういう考えかたは、少なくともこの100年間は変わっていない。

 このようなアメリカ合衆国の姿勢に賛同する必要はない。ただ、それはただの口から出まかせでもないということもいちおうわかっておく必要がある。アメリカ国民は、政府にはアメリカ国民の自由を実現する責任があると考えている。アメリカ政府が国民の自由を実現していないと考えたならば、アメリカ国民は政治運動を起こして政府に自由を実現するように圧力をかける。同じように、アメリカ国民のなかには、アメリカ合衆国が合衆国以外の人たちの自由のためにも戦うべきだという理念がある。

 最近では、さすがのアメリカ合衆国国民もブッシュの戦争政策への批判を強めつつあるらしい。けれども、「ブッシュの戦争」を否定するからといって、アメリカが自由のために戦うという「自由のための戦争」を否定するわけではない。「イラク戦争を支持するか」という質問に「支持しない」と答えるアメリカ国民のなかにも、「ある国の人びとを独裁者の支配から自由にするための戦いを支持するか」という尋ねかたをすれば、「支持する」と答える人はけっこう多いに違いない。

 その一方で、アメリカ国内では、九・一一大規模テロ以後、「パトリオット法」(法律名は、詳しくは知らないが、頭文字から作った略語と「愛国者」との語呂合わせらしい)などという法律が制定され、南アジア・西アジアの出身者やイスラム教徒の自由に対する制限が強められている。テロリストは南アジア・西アジアの出身者に限らないし、ましてやイスラム教徒にも限らない。しかし、アメリカ合衆国に敵意を持ってテロを起こすのは「アル・カーイダ」のテロリストの可能性が大きく、「アル・カーイダ」のテロリストは南アジア・西アジア出身者やイスラム教徒のなかにいる可能性が大きいという理由で、その制限が正当化されている。アメリカ国民の自由や安全を守るためには、アメリカ国民以外のあやしげな人の自由は制限されても当然だという論理である。

 だから、アメリカ合衆国の軍隊の力でサッダームの支配から自由になったはずのイラク人が、もしアメリカに引っ越してきたらどうなるか? その日から、サッダームの残存勢力かも知れない、いや、もしかすると「アル・カーイダ」のテロリストかも知れないというアメリカ国民の疑いの目にさらされるだろう。その日常生活は監視され、ささいなことで逮捕されたり国外に追放されてしまったりするかも知れない。

 外国にいれば「アメリカの力でその自由を守ってやらなければならない人びと」と考えられる人たちが、実際に隣人になってみると「アメリカ人の自由な生活に危害を加えるかも知れない危険性を秘めた人びと」になってしまう。外国の独裁者がそこに住む人たちの自由を踏みにじるのは許せないが、アメリカ国民が外国から来た人たちの自由を侵害するのは自由である。そういう「自由」の使い分けが行われているわけだ。


アメリカの戦争と日本社会のなかの「自由」

 この「自由」をめぐる問題は私たちにも関係の深い問題だ。

 まず、日本は、2001年のアフガニスタン戦争でも2003年のイラク戦争でも、少なくとも外交的にはそのアメリカ合衆国の立場を全面的に支持してきている。たしかに、日本のばあい、外国人を国民的に監視対象にすることを定めたアメリカ合衆国の「パトリオット法」のような露骨な法律はない。けれども、外国人への自由の制限は、日本のばあい、法律的にも社会的にも大きい。

 こう書いてみて、この「テロに対する戦争」について見るかぎり、日本のばあいはやっぱりアメリカとは少し問題が違うぞと思いついた。

 日本のばあい、社会的に「自由」が非常にたいせつな価値であるという観念があまり強くない。日本の社会は、一人ひとりの自由よりも共同体の都合のほうが優先されるしくみでできている。とくに会社などおカネの関係する事業をやっているところではそうだ。

 しかも、日本社会のばあい、「個人の都合と会社の都合がぶつかるときには会社の都合を優先すること」というはっきりした決まりごとがあるわけではない。一人ひとりが自発的に会社や職場の都合を優先して自分の都合を後回しにし、大多数がそうすることで自分の都合を強く主張できない雰囲気を作ってしまうのだ。予定を立てるほうも、最初から会社の人たちがそういう行動をとることを見こんで予定を立てる。

 けれども、日本でも、一人ひとりの人間の「自由」へのこだわりが弱いというわけではない。むしろ一人ひとりの人間の「自由」へのこだわりは日本社会のほうが強いのではないかとさえ思う。アメリカ人は、契約をきちんと結びさえすれば、その契約の定めにしたがって自由を制限されることを比較的ドライに受け入れる。しかし、日本人は契約でどんなことが定められているかにかかわりなく、自分の「自由」が外から一方的に制限されることには強く反発する。仲間どうしの思いやりとか譲り合いとか「痛みを分かち合う」とかいう理由でなら自分から「自由」を投げ出すけれども、その「仲間」の外からはっきりしたかたちで「自由」を制限されることは強く嫌うのだ。だから、日本社会では、形式的に手続にしたがって何かを決めたとしても、「仲間うち」での議論を通さずに決めたらたちまち「やり方が強引」とか「独裁的」とかいう非難にさらされてしまう。

 そういう雰囲気は、一人の人間は、一生涯、一つの会社で働くという仕組みが崩れた現在では通用しなくなりつつあるのかも知れない。けれども、いまのところ、まだそういう「仲間うち」優先文化は日本社会で通用しつづけているように思う。

 日本では、「自由」はたしかにたいせつにされているけれども、社会そのものは「仲間うち」優先主義で組み立てられている。日本国内では、国民の自由を実現するのが政府の役割だという認識は弱い。むしろ、自分に直接に関係のあることでなければ、政府の決めることは日本国民の「大きな仲間うち」の決めごとであって、それには不満があっても従うべきだという感じかたのほうが強いのではないかと思う。

 日本の政府(自治体も含む)は国民の自由を守ることを最優先課題にはしていない。また自由を守ることを政府の最優先課題として期待している国民もそれほど多くないだろう。「自分たちの生活を便利にしてくれれば、あとはよけいなことはしないでほしい」というのが、日本国民の政府への期待の普通のあり方ではないかと私は思う。

 そういう政府が、ほかの国の独裁者からその国民を自由にするための戦いを支持すると言っても、まず自分の国でその言い分がなかなか実感をもって受けとめてもらえないだろう。けっきょく、「アメリカに逆らうとろくなことにならないから」とか、「北朝鮮の問題でアメリカに協力してもらわなければいけないから、イラクの問題ではアメリカに協力しなければいけない」とか「ここまでアメリカに協力してしまったのだからここで投げ出すとかえって話がこじれる」とかいう消極的な理由のほうが、戦争を支持する実質的な理由として説得力を持つ。べつにそれならそれでいい。いつまで経っても、戦争についても「復興」についても「主役でなくてよかった」とか「日本は脇役でいいんだ」という意識が抜けないということを除いてだが――そういう話はまた別の機会に議論するかもしれないということにして、今回はこれ以上は触れないことにする。


社会の都市化・情報化・グローバル化の下で

 いま考えてみたように、日本社会では「自由」はアメリカ社会とは別の位置づけられかたをしているように思う。だが、日本社会でも、「自由」が置かれている立場にはアメリカと共通するものがある。

 それは、一部の人たちの自由や安全を守るために、別の一部の人たちの自由を制限するという問題だ。

 プライバシーを守るために週刊誌の出版を禁止するという地方裁判所の仮処分が出され、プライバシーと言論の自由との衝突をめぐる議論がわき起こったのは、記憶に新しい……かな? これを書いている時点ではまだ新しいんだけど。

 また、日本の都会では、犯罪防止を名目として、監視カメラの設置が進んでいる。どこで自分の姿がカメラに捉えられているかがわからない社会になっている。犯罪者を発見するために、地域住民が警察と連携して町を組織的に監視しようという動きもあちこちで始まっている。よそ者を「犯罪者予備軍」としてマークする社会が、アメリカ合衆国と同じように日本にもやって来つつあるのだ。

 アメリカ合衆国はもともと「権利を主張する社会」だった。日本もそう変わりつつある。また、アメリカも日本も「監視社会」へと変わっていきつつある。

 これは「社会の都市化」という流れの結果と考えるのがよいと思う。

 「仲間うち」社会ならば、権利などというものを主張しなくても、それぞれの立場はなんとなくわかりあえる。「仲間うち」全体が置かれた条件のなかで、仲間のだれかがとくに大きい不満を持たない状況で調整がつけられる。たとえば、仲間うちの一人に仕事が集中しているとすると、その人は仕事がたいへんだろうから懇親会費はタダにするとかいう融通のきかせかたもできる。それでみんなが満足するわけではないが、だれかがとくに大きい不満を持たずに「まあしかたがないか」程度の気もちに収めるということができる。

 しかし、都市にいろいろな地方から、まったく別々の事情で人が流れこんでくるとなると、その人たちのあいだでの「仲間うち」関係が成り立たちにくくなる。「仲間うち」関係にない人たちとふれ合うことも多くなる。19世紀以来のロンドンとか、20世紀の東京とかいう近代的な都市では、好むと好まざるとに関わらず、「仲間うち」関係にない人たちとふれ合いながら生きていかなければならないのだ。

 そういう状況をここで私は「社会の都市化」と呼んでいる。

 「グローバル化」というのも「社会の都市化」の一つだ。全世界の人の往き来が活発になり、もののやりとりも活発になって、自分の「仲間うち」を超えた人やものとの接触が避けられなくなってきた。すこし前まで、そこの町から東京に出て行くというだけで大ごとだったような町に、いきなり近所の工場で働く外国人がやって来てたくさん住むようになるとか、近所の食堂で食っていた定食の肉がじつは遠い外国産の肉だったとか、そういうことがぜんぜん珍しくなくなってくる。同じ流れで、外国人の犯罪者グループが地方都市からも離れた町や村の資産家の家を狙って盗みや強盗を働くなどということも起こってくる。いままで、大都市から離れているとか、来るのが不便だからということが「壁」になり、なんとなく「仲間うち」社会が守られていた。しかしその「壁」はいまでは十分に役立たなくなっている。

 まして、コンピューターネットワーク上でやりとりされる情報には距離は関係がない。たぶん一生出会うことのない人のあいだで、もしかすると毎日顔を合わせている家族以上に頻繁に情報をやりとりすることもあるだろう。とうぜん、コンピューターウィルスなど、悪意をもって送られてくる情報もある。自分としてはぜんぜん欲しくない情報が大量に送られてくることもある。ウィルス対策ソフトをインストールするとか、いらない情報を送ってくるアドレスからの着信を拒否するとかして、意識して「壁」を立てなければ、「仲間うち」関係にない人たちと情報を通した接触を避けることはできない。


「監視社会」化が生み出す「仲間うち」

 都市化した社会では、隣近所の人間の多くと「仲間うち」の関係がないわけだから、どこにどんな悪人が潜んでいるかわからない。だから、自分の生活の安全を守るためには社会全体を監視社会にしていかなければならない。「仲間うち」社会が成り立っていた時代には、とりたてて監視などといわなくても、その地域とか組織とかに見慣れぬ人が入ってくればすぐにわかっていた。「仲間うち」社会が成り立たなくなったために、わざわざ「監視」というかたちを取らなければならなくなった。

 ただ、「監視」するには、どんなに情報通信技術が発達しても「監視する人」が必要だ。街頭カメラで通行人を片端から撮影して録画するとしても、だれがあやしいかを判断するにはやっぱり人が見て決めなければいけない。しかも、それは一人ではできない。一人で監視するのは疲れるし、情報機器を管理するにしたって一人では無理だ。だれが「見慣れない人」かを判断するにも、一人で判断していたら、それはほんとうにその地域にめったに現れない人なのか、その判断する人がたまたま知らないだけなのかはっきりしない。けっきょく、監視するための「仲間うち」が必要になる。それは、具体的には街頭カメラを設置している商店街の組合だったり、ある地域で「パトロール」の役割を託されている犬の飼い主とか、保育園・幼稚園に子どもを送り迎えするご父兄とか、買い物中の主婦とかいう人たちだったりする。

 監視を通じて「仲間うち」社会が再編成されれば、「仲間うち」社会が復活し、「監視」などとぎくしゃくしたことをいわずにすむ社会が来るかというと、必ずしもそうでもない。そういう「仲間うち」に属していない人が社会に入ってくることは現在の都市では避けられないし、それをぜんぶ「仲間うち」に組織していられるほど人びとはひまではない。「悪いことをするつもりがぜんぜんないような見慣れない人」が社会に出入りするのは避けられない。そうすると、そのなかには「悪いことをするつもりの見慣れない人」が交じることもありうる。

 また、近代より前の「仲間うち」社会では、ある程度の「わからない部分」が残されているものだ。ある人がどうも変わった人だと思っていても、「仲間うち」社会に害を及ぼさなければ、あまり深くその「変わった」ところを探ったり調べたりしない。宮本常一(つねいち)さんの研究によると、ぜんぜん見も知らない人が村にやってきても、そういう人に堂守りなどの仕事を与えて受け入れるという仕組みを日本の村は持っていたようだ。村社会は、素姓のぜんぜんわからない人でも、最初から排除してしまうのではなく、一定の距離を置きながら、「わからない部分」を残したまま共存する仕組みを持っていたのだ。

 しかし、監視社会にはそういう「一定の距離」がない。「あやしい」と認定された人は「わけのわからない人」ではなく、はっきりと「犯罪者かも知れない人」と位置づけられてしまう。社会の都市化を経験したあとに、監視社会化を通じて「仲間うち」関係が復活したような社会も、それは「わからない部分」を残したまま共存するということに耐えられなくなった社会という点で「古き良き仲間うち社会」ではなくなっているのだ。

 自分の「仲間うち」であることをはっきりと示さない者は「犯罪者かも知れない者」である――都市の社会化を経たあとに監視社会化した社会のこの感覚を地球規模に拡大したのが、「アメリカ合衆国とともにテロと戦わないものはテロリストの味方である」というブッシュ大統領の「テロとの戦い」の考えかただ。

 一方で、そういう「わからない部分」が存在するのを許さなくなった社会で、自分が何かを自由に行う余地を守るためには、それを「権利」というかたちで主張しなければならなくなってきた。ほうっておくと、自分が他人と違うことをやっていると、それがその他人に害を加えるための行動かも知れないと解釈され、自分が不利益を受けるかも知れないからだ。自分は他人と違うことをやっているが、それは社会に認められたことなのであって、社会に害を加えるものではないとはっきりさせなければならない。そのためには、自分にはその「社会の人と違うことをやる権利」があると社会に認めさせなければならないのだ。

 こうして、都市の社会化が進み、その延長上にグローバル化が進んで、世界は「監視社会」化し、また「権利を主張する社会」化していくことになる。


自由の優先度分け

 そういう社会での自由はどうなっていくのだろう? そういう社会で自由をどうしていけばいいのだろう?

 現実に社会で進んでいるのは自由の優先度分けである。その社会で、一定以上の地位を持っていたり、財産を持っていたり、ある一定の生きかたをしていたりする「多数」の人たちが、自分たちの自由を一流の自由と決める。そして、その人たちが、それ以外の人たちの自由を二流の自由と決める。そして、その「多数」者たちは、自分たちの一流の自由を守るためには二流の自由は犠牲になってもやむを得ないという対応をとるのだ。

 アメリカ合衆国ならば、以前からアメリカに住んでいて、キリスト教かユダヤ教を信じている人たちが「多数」を構成し、外国人やイスラム教徒はそれ以外ということになる。「多数」の人たちはそれ以外の人たちの自由も認める。ただし、自分たちの自由が侵害されそうになったばあいには、「多数」者以外の自由は制限されてもやむを得ないと考えるわけだ。これはアメリカ合衆国に限らず「監視社会」化の進んでいる社会ならばどこでもあてはまる構図である。

 この考えかたを「おかしい」と決めつけるのはかんたんだ。だが、現実にこういう考えを完全に否定しきるのはそうかんたんではないと思う。自分が住んでいるところで犯罪が頻発していて、いつ自分や自分の家族が狙われるかわからないという状況を考えてみればよい。そういうばあいには、やっぱり「犯罪者かも知れない人」の自由を自分の自由と同じように尊重しようという気にはならないのが普通だと思う。まして、それがただの「犯罪者」でなく、「テロリストかも知れない人」だとするとなおさらだ。

 それを認めた上で、やっぱり「一流の自由」と「二流以下の自由」を優先度分けする考えかたに問題があることも認めなければならない。それは、第一に、だれでも「一流の自由」の持ち主になれるとは限らないからだ。「一流の自由」の持ち主になるためには、その社会で、一定の地位や財産を持っていたり、一定の生きかたをしていたりする人にならなければならない。だれもがそんなけっこうな暮らしを送れるわけではない。また、第二に、たとえいまはそういう「一流の自由」の持ち主であっても、何かの事情で「一流の自由」の持ち主でなくなってしまう可能性を多くの人が持っている。

 自由の優先度分けを必要とする人たちがいる。しかし、自由の優先度分けをされると、不愉快な思いをしたり、現実に犯罪者とまちがわれて不利益をこうむったりする人たちもいる。そういう社会で、自由というのをどうしていけばいいのだろう?

 残念ながら、私にはこの問いへの十分な答えを思いつかない。

 せいぜい思いつくのは、「仲間うち」と「仲間うち以外の人」とのあいだに「わからない部分」が残るのを許していた社会だったら、こんな問題はいまほど大きな問題にはならなかったのかも知れないということだ。けれども、社会の都市化が進み、情報化も進み、グローバル化が進んだ時代にそんなことを言っても、それはただの郷愁以上のものを意味しはしない。「わからない部分」を残したければ、たとえばプライバシーというかたちで「権利」として主張するしかないし、それをやると、少なくともどこからどこまでは「わかって欲しくない部分」なのかが明らかにされてしまうことになる。

 だから、いまは、いくつか「自由」について考えていることを書き連ねて、考えるための手がかりを整理するしかないと思う。


問題設定――近代社会と自由

 近代以後の社会では「自由」は人間ならばだれでも持っているものとされている。そのなかでも、身体の自由や思想・信条の自由などは「基本的人権」として、その人が犯罪者で服役しているなどの特別な事情がないかぎり奪うことができないとされている。つまり、近代以後の社会では「自由」は尊重されなければならないたいせつなものと考えられているのだ。

 でも、どうしてなのだろう?

 この問題を考えるには、その社会の文化的・宗教的な伝統の違いなどが絡んできて、複雑な話になってくる。近代になって宗教は人間生活の一つの領域に封じこめられてしまったが、それ以前は宗教とは生活を全面的に支配するものだった。日常生活の細かい部分まで指図するものだった。現在でも、サウジアラビアでは、人間はイスラム教の教えにしたがって生活するものという原則で社会が作られているし、イスラエルでも人間はユダヤ教の戒律に従って生活すべきだと主張する人たちが社会的勢力を持っている。

 思想史的に話を持っていくならば、近代の自由というのは、そういう宗教とのさまざまな葛藤を経て生み出されてきたものだということになる。

 けれども、多くの人間は、宗教とは深く関わりあってきても、思想とは必ずしも深く関わり合ってはこなかった。少なくとも、近代より前の社会が近代以後の社会に変化するときには、その社会のすべての人が近代的な思想を理解して、社会を変えたわけではなかった。だから、社会の変化を思想の流れだけから理解するのは私は不十分だと思う。

 私は、思想的な説明とは別のやり方で、どうして近代社会が自由を尊重するという原則でできているかを説明してみたいと思う。


人間が自由を求める欲求

 そこで、私が考えるのは、まず、人間には最初から自由を求める欲求があるということだ。

 「自由」とは、「自」が自分のことで、「由」が「思い通りになる」というような意味だから、それが合わさって「自分の思い通りになる」という意味だ。これが漢語の字面にとらわれた解釈であることは承知している(でもいきなり英語やドイツ語・フランス語やラテン語の解釈から入るよりはましでしょ?)。しかし、「自由」が、自分の身体を自分の思い通りに動かすというところから始まっていることは認めていいのではないかと思う。自分の身体を思い通りに動かすことへの欲求から、自分の周囲のものごとを自分の思い通りに動かしたいという思いが生まれてくる。それが人間の求める自由の最初のかたちだと思う。

 けれども、自分のまわりのものごとを自分の思い通りに動かそうとすると、いろいろと不都合も生まれてくる。思い通りにしたら自分自身やほかの人を危険にさらすこともあるし、他の人も自分のまわりのものごとを思い通りにしようという思いを持っているのだから、それと衝突することもある。けっきょく、そういうなかから社会の規則とかルールとかが生まれてくる。宗教というのもいちおうはそういう規則やルールの一つと考えることができるだろう。

 そういう社会の規則やルールのほうが優先され、人間一人ひとりの自由はその制約の下に置かれてきた時代が長くつづいた。

 これは、事実としてその時代の人間が自由だったかどうかということとは別である。もしかすると、その時代の人のほうが、朝から晩まで会社のスケジュールに拘束されている現在の日本の会社員よりもずっと自由だったかも知れない。ここで言っているのは、考えかたとして、自由よりも社会の規則やルールのほうが優先されてきたということである。この「社会の規則やルール」には、「人間である以上はこうしなければならない」という一般的なものから、限られた「仲間うち」にだけ通用する規則やルールまで含まれる。


近代社会をコントロールする原則としての自由

 こう考えると、「社会の規則やルール」と「自由」との地位が逆転するのが近代に入ってからだということになる。では、それはどうしてなのだろうか?

 近代というのは人間の生きかたが多様化した時代だと私は考える。社会のなかにいろんな生きかたの人間がいるようになり、また、一人の人間がいくつもの「仲間うち」に属していろんな生きかたをするようになった。この考えは「時間の現在」「「現実」の現在」で論じたとおりである。

 そうなると、一つの「仲間うち」の規則やルールでは人間の動きをコントロール(管制)できなくなる。しかし、社会のなかではたくさんの人間が生きているのだから、そのたくさんの人たちが互いに無用の衝突を起こしたり、依存し合いすぎてたがいの足を引っぱったりしないようにするためのルールは必要だ。人間どうしが気もちよく暮らせるようにたがいの動きの原則のようなものを定めておく必要がある。

 それが、けっきょく、「人間一人ひとりは自由で、その言動には一人ひとりが責任を持つ」という原則だったのだ。近代社会は、それまで社会の規則やルールに抑制される存在だった自由を、社会の規則やルールの地位に引っぱり上げたのである。つまり、近代社会は、人間がだれでも持っている自由への欲求を社会の規則やルールで抑えつけるかわりに、その自由を人間の社会をコントロールするものの地位に引っぱり上げたのだ。

 それは、美しく言えば、近代社会は人間が持っていた自由への欲望を解放し、人間の自由を実現したということになるのだろう。だが、人間の自由への欲求というのは、「自由という原則によってコントロールされる社会」を求める欲求ではない。それどころか、「自由という原則によってコントロールされる社会」は人間の自由への欲求を抑えつけてしまう可能性もある。「自由」が原則になってしまえば、自分の思い通りになる部分も増えるけれども、他人にも自由があるのだから、他人の思い通りにされて自分の思い通りにならない部分も増えてしまう。また、自分の思い通りにすることが原則になれば、何かをするときにまず「自分の思い」をはっきり決めなければならなくなる。それはそれでめんどうなことだ。

 「人間がほんらい持っている自由への欲求・欲望を実現する」というのと、「自由を社会をコントロールする原則として採用する」というのは、まったく別のことなのだ。近代社会で実現したのは、「社会をコントロールするための原則としての自由」なのであって、「人間がほんらい持っている欲求・欲望としての自由」ではない。

 だから、近代社会では、社会の都合で人の自由のあり方は決められる。社会の都合で、何ごとかを自分の思い通りにできないこともある。また、社会の都合で、自分では何かをどうかしようとぜんぜん思っていないのに、思っていることにしなければならないこともある。

 近代政治学の祖といわれるマキャヴェリは、支配者の「徳」(いちおう「あからさまな力以外で、その支配者に人を自然に引きつけるような力」の意味としておく)について「支配者にとって必要なのは、実際に徳があることではなく、徳があるように見えることだ」と言った。同じ言いかたが近代社会の自由について言える。近代社会にとって重要なのは、人間の自由な意思や言論や行動したりすることで社会が動いているように見えることであって、実際に人間の自由な意思や言論や行動によって社会が動いていることではないのだ。

 こんなことを書くと、社会というのは人間一人ひとりが集まって作り上げているもので、その人間一人ひとりが自由を求めているのだから、自由が原則になった近代社会で自由が実現しないはずがないという反論が出るかも知れない。しかし、その考えはあたらない。なぜかというと、人が求める「自由」とは「自分の思い通りにすること」であり、それを実現しようとすると、一人の人の自由が他の人の自由を制限してしまうことになるからだ。

 一人ひとりが自由を求める動きだけを考えると、近代社会では自由が何の妨げもなく実現してもおかしくない。けれども、ある人の自由が他の人の自由を妨げるという動きを考えに入れると、近代社会では自由の実現をじゃましようと足を引っぱる力も大きいことになる。けっきょく、近代社会で一人ひとりの人間の自由が原則になっているからといって、近代社会で一人ひとりの自由が何の不自由もなく実現することなど絶対にあり得ないのだ。


階層分けと自由の「許可」

 自分は自分の思い通りに生きようとする。その自分の思い通りの生きかたを妨害する者が思い通りにすることは許さない。自分の思い通りの生きかたを妨害しそうな者はあらかじめ発見してチェックしておく。しかし、自分一人が思い通りに生きていて他のみんなは思い通りに生きてはいけないという状態にするのは不安だ。他人から自分を見れば、自分がその「思い通りに生きてはいけない」という分類のほうに入ってしまうからだ。その不安から逃れるためには、「思い通りに生きてはいけない」という者を例外的な存在にし、人間はみんなできるかぎり思い通りに生きるものだということを原則としてしまうしかない。だから、自分の思い通りの生きかたを妨害しそうな者を犯罪者やテロリストに指定して例外扱いにしてしまう。ただ、犯罪者やテロリストかどうかは、実際に犯罪やテロを起こさないとわからないから、「犯罪者かも知れない」とか「テロリストかも知れない」という理屈でその範囲を広げて対処する。

 自由が原則となった社会で、その社会に住む人の自由への態度は、だれの自由かという点から分類して、だいたい四つぐらいに分けることができると思う。まず、自分の自由は、これはできるかぎり守ろうとする。つぎに、自分と親しい人たちやとくに利害関係のない人たちの自由もやはり守ろうとする。そうすることで、相手も自分の自由を守るために力を尽くしてくれるかも知れないからだ。ただし、その人たちも他人である以上は、いつ自分に害を及ぼす人に変化するかわからないから、つねにある程度は警戒しておくことが必要だ。

 一方で、自分に対する犯罪やテロをたくらむ犯罪者やテロリストなど、自分に害を及ぼす人の自由は絶対に認めない。また、実際に害を及ぼしていなくても、自分に害を及ぼすかも知れない人の自由はあらかじめなるたけ制限しておきたい。ただ、いま自分に害を及ぼすかも知れないと思っている人も、もしかするといつかは自分と親しくなるかも知れない。また、ひとの自由を制限するのにも監視したり行為を禁止したりするために手間がかかる。だから、「害を及ぼすかも知れない」程度の人への制限は「明らかに害を及ぼす人」よりはある程度は緩やかにしておいたほうがいろいろと都合がいい。

 そこでは、「自分‐自分と親しい人やどうでもいい人‐自分に害を及ぼすかも知れない人‐自分に害を及ぼす人」、あるいは「自分‐仲間または仲間になりうる人‐敵になりそうな人‐敵」という階層分けが行われる。そして、それぞれの階層について、どの程度の自由を認めるかという「許可(パーミッション)」を一人ひとりが割り当てていく。

 自分の自由は絶対に守る。自分の仲間になりうる人の自由もなるたけ守る。自分の敵になりうる人の自由は制限するが、ある程度の自由は認める。明らかな自分の敵の自由は絶対に認めない。いや、明らかな自分の敵については、できれば存在そのものを認めないことにしたい。

 人間の自由をめぐる願望とはそういうものなのだ。近代になるまでの社会では、人間についても自然についてもわかっていないことが多かった。「よくわからない部分」がかなり広く残っていたために、四つの階層の分類のあいだにもかなり広いあいまいな部分が残っていた。いかにもわざわいをもたらしそうな人がじつはよいことをしに来た人(あるいは神)かも知れないというためらいが残っていた。前回のこの欄で採り上げた網野善彦さんの「無縁」という考えかたは、そういう「よくわからない部分」が日本の中世の自由のあり方に深く関わっていたという考えに支えられているものだと思う。

 しかし、近代ではそういう「よくわからない部分」が少なくなってきた。「よくわからない」相手に下手に害を与えるとたたりのようなかたちで自分が損をするという恐れも社会からなくなった。そのため、相手のことが「よくわからない」からこそ自由を認めるというあり方もなくなった。しかも、近代社会は「自由」を原則にしてしまったために、人間の自由をめぐる願望が社会の表に出るのを抑える手段がなくなってしまった。


多数者・有力者本位の社会と自由

 近代社会のなかで、みんなが自由をめぐるそういう願望を持ちつづけたならば、社会のなかでは社会的な立場や力の強い者の都合が通りやすくなる。

 19世紀の初期の社会主義者が自由という価値に敵意を持っていたのはそのためである。階級差のある社会で自由という価値を全面的に認めてしまえば、社会的に勢力のある貴族や資本家のやりたい放題を許すことになるからだ。

 その後、産業先進国の社会に関していえば、産業の発展で社会の生活水準が全体として向上し、階級をはっきり区別しなければならないような不平等は目立たなくなった。だが、そういう時期の社会でも、社会には「仲間うち」集団が生きつづけていて、それが一人ひとりの自由をめぐる願望を調整し、抑制するという役割を果たしていた。ところが、社会の都市化が進み、それが情報化とともに地球規模に広がってグローバル化へと発展するなかで、そういう「仲間うち」集団の壁が役に立たなくなってしまった。

 人間は、自分に対して害を及ぼそうという悪意を持った人間がどこにいるかわからない状況に一人で立ち向かうという不安や恐怖に直接にさらされることになってしまったのだ。

 そういう不安や恐怖に対処するために、比較的、境遇が似たものどうしが結びつき、「仲間うち」集団が作られる。この「仲間うち」集団にも実際にはいろいろなあり方があるだろうけれど、あくまでモデル的に言うと、この「仲間うち」集団は外からやってくる不安や恐怖に対処するために作られる。だから、「仲間うち」集団内部での自由をめぐる願望の調整や抑制の機能はあまり十分に意識されない。むしろ、「仲間うち」集団内部には、自分たちに害を及ぼすような者は含まれていないということを前提に、この「仲間うち」集団は結成される。

 しかし、そういう「仲間うち」集団を作ることができるのは、同じ場所に長いあいだ住みつづけ、ある程度は生活に余裕があり、ほかの人と同じような時間帯で生活しているような人たちだ。社会的にもある程度の力がある多数者の集団ということになる。そういう集団が、現在、世界の多くの社会で生み出されてきており、力を持ちつつある。それが自分たちの自由を一流の自由と位置づけ、自分のよく知らない者たちの自由を二流の自由と位置づけ、二流の自由を擁護する姿勢をいちおうは示しながらも、一流の自由のためには二流の自由は犠牲にしてもよいという態度で社会を管理しようとしている。

 国際社会のレベルでは、それが「テロに対して戦う」という正義を旗印に結集した先進諸国の連合体ということになる。国民国家というのを、社会的にある程度の力がある多数者の組織として編成し、それ以外の「何をするかわからない者」への対抗手段に活用していこうという動きも目立ってきている。地域社会のレベルでは、空き巣や子ども連れ去りに対抗するための住民パトロールというようなかたちでその組織が進んでいる。そして、先にも書いたとおり、そういうものを「多数者の横暴」としていちがいに非難できないのが現在の「社会の都市化」社会の難しい点だと思う。

 しかも、この有力者・多数者集団は、いつ犯罪やテロの被害に遭うかわからないというさし迫った懸念を感じている。だから、近代より前の社会の身分の高い人たちに期待できた「寛容」とか「高貴な者の義務」とかいう「徳」を、現在の有力者・多数者集団に期待することはできない。「寛容」とは犯罪者やテロリストに犯罪やテロを実行する時間と余裕を許すことにしかならないからだ。このような有力者・多数者が主導権を握る社会は、その有力者・多数者の「仲間うち」では自由が抑制されないかわりに、その有力者・多数者の仲間に入れない者に対しては非常に不寛容な社会になる。「先進国」社会は、現在でもその傾向を強めているし、これからもこの傾向がつづくだろうと思う。

 近代社会で人間に自由が認められているのは、近代社会をコントロールする仕組みとして「人間は自由に考え、ものを言い、行動する」ことにしておくのがいちばん都合がよいからだ。その近代社会の仕組みのなかには、「有力者・多数者が自分たちの自由を一流の自由に、それ以外の者の自由を二流の自由に位置づける」ことを阻止する仕組みは含まれていない。


どうすればいい?

 現在の世界で進んでいる「自由の優先度分け」の動きに対して、私たちはどういう態度をとればいいのだろうか。

 一つ考えられる態度は、その動きを放置する、または、むしろそれを積極的に進めようとするという態度だろう。有力者・多数者の側に立てばいちおうそういう考えかたができる。ただ、そのばあい、問題なのは、先に書いたように、だれでもが有力者や多数者の立場に立てるわけではないから、不公平が生じるということである。また、現在の有力者や多数者の仲間にいる人だって、いつまでもその立場にいつづけられるわけではない。「自由の優先度分け」への動きを放置したり推進したりするということは、その不公平を「しかたがないもの」として承認することをも意味する。有力者や多数者の仲間になれない者は「二流の自由」でがまんせよというわけだ。もちろん、そのかわり自分が「一流の自由」を失ってもそれは自分のせいだと割り切る覚悟は必要だ。また、有力者・多数者の都合だけで社会を組み立ててしまえば、そういう社会で生きにくくなった有力者・多数者以外のなかから犯罪やテロに走る者が生み出されてしまう。そのことも覚悟しておかなければいけない。

 逆の極端な態度は、そういう「自由の優先度分け」を完全に否定することだ。その目的が「反テロ」であれ「犯罪抑止」であれ、自分の自由を守るために一部の人の自由を抑制するようなやり方はいっさい許さないという態度である。これは思想や理屈としてはあり得る。また、そういう思想や理屈が現実の社会で持つ意味を軽く見るつもりもない。けれども、一方で、そうは言っても、社会の有力者・多数者が現実に「自由の優先度分け」をするのを思想や理屈だけで止めることはできない。

 けっきょく、有力者・多数者の集団が「自由の優先度分け」を行うことを認めながら、それが大きな不公平や弊害を生み出さないようにできるだけ配慮していくという漸進的なやり方しかないだろう。

 一方では、犯罪やテロの温床の一つが貧困なのだから、一国内の社会でも国際社会でも貧困の問題を解決することが必要だと思う。貧困の問題を解決すれば犯罪やテロがなくなるわけではないが、少なくとも犯罪やテロのうち貧困から生まれる部分がなくなれば、対処もやりやすくなるはずだ。ただ、これは現在ではけっこう遠大な目標になる。グローバル化した現在では、一地域や一国の規模で貧困問題を解決したところで、他の地域や国の貧困を放置しておけば、そこの貧困が引き起こす問題が自分の地域や社会に直接に及んで来かねないからだ。

 他方で、「二流の自由」しか認められない人たちを、有力者・多数者の理屈ではない立場から保護する制度をきちんと作るという方法があると思う。その制度として有効なのはやはり法的な制度だ。ただし、日本でも他の民主主義国でも、法を定めるのは議会だし、議会は有力者・多数者の代表なのだから、法的な制度によって有力者・多数者からそれ以外の人の自由を完全に守りきることはできない。できないけれども、法的な制度を通すことで、有力者・多数者に自分たちの判断や行動が適当だったのかどうかを考え直す機会を作ることはできると思う。


語らなかったこと、語り残したこと

 今回、私は、この文章で「心がけ」論になるのをなるたけ避けたつもりだ。「こういう時代だからこそ寛容の精神がたいせつだ」とか「自分と異なる文化を理解する姿勢がまずたいせつだ」とかいう議論はしていない。

 それは私が「心がけ」論が無意味だと思っているからではない。「心がけ」論を強調することにも私は十分に意味があると思っている。ただ、今回は、そういう議論ではない方向から「自由の現在」の問題を考えてみたというだけのことだ。

 また、近代社会での「自由」とは、けっして単純に「自分の思い通りにすること」を意味するのではなく、他の人の立場を十分に尊重した「自由」でなければならないというような議論にも触れなかった。「何かをする自由・何かを求める自由」と「何かに支配されない自由・何かから干渉されない自由」という区別を立てて議論することもしなかった。だいたい同じような内容だが、積極的な自由と消極的な自由とか、進取的な自由と防衛的な自由とかいう議論もしなかった。

 これも、そういう思想的・理論的な考察を無意味だと考えたからではない。思想や理論の階層で「自由」を考えることも私は重要だと思っている。

 しかし、それをしなかった理由の一つは、思想的に考えを操ることに慣れていない人たちにとっては、「自由」とはやっぱり「自分の思い通りにすること」や「自分の思い通りになること」と感じられているだろうという見通しからである。

 さらに、「自由市場」とか「自由主義」とかいうときに使う「自由」ということばと、「人身の自由」とか「思想の自由」とかいうときに使う「自由」ということばとでは、同じ「自由」でももしかすると内実が異なっているのではないか――というような話もしなかった。

 ここでは、ただ、近代社会の「自由」というのは、近代社会が自らをコントロールする原則として採用されたものであり、人間が持っている「自由」への欲求とは必ずしも重なり合わないということを論じただけにとどめた。「自由」ということばのついた制度や思想を考えるばあいに忘れてはならないことは、「制度」になった自由は、人間が心で求めている自由とは、多かれ少なかれかけ離れているということだと思う。

 そういうわけで、今回ここで論じきらなかったことも多い。それを論じるのはまたの機会ということにして、今回の考察はここで止めることにする。


―― おわり ――