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シュレディンガーの猫
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第三十回

統帥(とうすい)をめぐる危機

― 2004年4月 ―

 イラク戦争とその後のイラク情勢を中心に論じた文章を、私はこのページにこれまで二度書いている。「イラク戦争について思うこと」はイラク戦争が戦われている最中に書いた。「イラク情勢の今後」は、アメリカ軍がサッダーム(サダム)・フセインを捕まえたというニュースに接して、そのすぐあとに書いた。

 この二本の文章にはどちらも見通しを誤っているところがある。


見通しの誤り その1

 「イラク戦争について思うこと」を書いたときにはサッダーム・フセインは大量破壊兵器をほんとうに持っていると考えていた。だから、戦争が終われば、アメリカ合衆国の言う大量破壊兵器はすぐに発見されるだろうという見通しだった。それでも、アメリカは戦争をすぐに起こさなければならないほど状況が切迫していることを説明していない。したがって、アメリカの戦争を支持することはできないというのが、この文章を書いたときの私の考えかただった。

 まさか、イラクでの大規模な戦闘がいちおう終結してから一年が経っても、その大量破壊兵器が出てこないなどというお粗末なことになるとは、じつは夢にも思っていなかった。

 アメリカ合衆国は偵察衛星も持っているし、偵察機も飛ばしている。実態はわからないが、世界中でやりとりされる電子メールを横取りして盗み読みする「エシュロン」とかいう情報戦組織も持っているらしい(そう言えば最近聞かないな)。また、先進国の軍事組織では、RMA(軍事上の革命)などといって(そう言えばこれも最近聞かない。アタリマエになったから?)、高度の情報通信技術を軍事行動の各分野に一体化して運用する戦争のしかたが進んでいるという議論が盛んで、アメリカ合衆国はその最先進国であると言われていた。

 そのアメリカの情報力をもってすれば、経済制裁で疲弊しきったサッダームがトタン屋根か何かで隠した大量破壊兵器ぐらいすぐ見つけ出せると思っていた(そう言えば最近「トタン屋根」もあんまり見かけないなぁ。関係ないけど)

 イラク戦争開戦の時期から、イラクには大量破壊兵器は存在しないのではないかという論説はあった。私の目に触れたかぎりでも何本かあった。しかし、そうした論説よりも、私はアメリカ軍の情報力のほうを信頼したのだ。

 結果から見ればその判断は誤っていた。

 今後、もしアメリカ軍がサッダームの隠した大量破壊兵器を見つけたとしても、アメリカ軍の情報力を評価した私の判断がまちがっていたことには変わりはない。これから見つけたとしても、それは優れた情報力の成果とはとても言えないからだ。


見通しの誤り その2

 昨年の12月に「イラク情勢の今後」を書いたときには、サッダームが捕まった以上、イラクでのテロは多少とも鎮静化に向かうと考えていた。

 イラクで頻発していたテロは、サッダームが関係するものとそうでないものの二種類があるというのがその時期の私の判断だった。サッダームが捕まった以上は、サッダームが指示を出して起こすテロはなくなる。また、昔の部下などがサッダームに忠誠を尽くすために起こしていたテロや、後にサッダームが復活したときのことを考えてそのご機嫌を取るために起こしていたテロもなくなる。そのぶんのテロが減るのなら、イラク全体のテロ事件は減少するだろうと計算していたのである。

 この見かたが全面的に誤っていたとは思わない。たしかにイラクからはそれまでにも増して犯罪、暴力事件、戦闘や激しい反米アジテーション(煽動。「アジ」なんてことばも死語だなぁ……)のニュースが伝えられてくる。けれども、サッダーム政権時代の精鋭と言われた共和国防衛隊の残党がどうしたとか、サッダームの与党だった元バース党員がこうしたとかいうニュースは減っているように私は感じる(最近ではバース党員の一部の公職追放を解除したとか)。少なくとも政権時代の組織そのままでの抵抗は弱体化したのではないか。

 でもこの判断だってやっぱりまちがいかも知れない。じつは、サッダームが捕まるまえから共和国防衛隊とかバース党とかいう組織は解体していて、アメリカ軍やその同盟軍やイラクの民間人にテロを仕掛けていたのは、いま犯罪行為や暴力行為やテロやもしかすると暴力的ジハード(ジハードとは「教えのために努力すること」全体を指す)を繰り返している連中と大差なかった可能性もある。それをアメリカ軍が勝手に共和国防衛隊やバース党の残存勢力の仕業と発表していただけかも知れないのだ。逆に、いまでも、共和国防衛隊やバース党の組織があんがい強固に残っていることも考えられ……ないな。でも、その組織の一部が横滑りしてそのまま別の武装勢力や抵抗勢力に成長していることは十分に考えられる。

 いずれにしても、サッダームが捕まってもイラクの暴力的状況は少しも鎮静化の方向に向かわなかった。

 この文章を執筆している時点で、ファルージャやカルバラーやナジャフでアメリカ軍と地元のアラブ人勢力とのあいだの対立がつづいている。ファルージャではアメリカ軍が都市を包囲した上で攻撃し、またも一般住民に多くの犠牲が出ているようだ。ナジャフでも緊張が高まっている。ファルージャでは民間人の犠牲者は百の桁に乗っているという。報道に接しているかぎり、限定的な「テロ」対「対テロ」というなま易しい状況ではなくなりつつある。民間人が大量に殺害される、戦争として非常に悪い局面に入っているように思える(少なくともファルージャには事態が落ち着いたあとで何が起こったかを検証する国連の調査団を派遣すべきだ)

 こうなることは予想していなかった。逆に、テロがイラクの民間人を多く巻きこみ始めた時点で、イラクの反米勢力はイラクの人びとから愛想をつかされて弱体化するだろうと私は考えていた。

 見通しが甘かった。大ハズレだったというほかない。


アメリカの軍事行動と情報

 この二つの失敗は、私が安易にアメリカ軍やアメリカ合衆国政府の発表を信頼したために起こった。

 もちろん戦争をしている国やその国の軍が出す情報である。情報操作はされていて当然だ。戦争をしている国や軍は、戦争を有利に進めるために、確認の取れていない情報を大きく流してみたり、逆に知っている情報を隠したりする。それは倫理的にはよくないことかも知れないが、戦争をする以上は必要なことだろう。

 だが、イラク戦争開戦当初から思い返してみれば、世界的にも最高水準の情報収集・分析力を持っているはずのアメリカ軍にしてはあまりにお粗末な事実がいくつか思いあたる。

 大量破壊兵器がいつまで経っても出てこないのもその一つである。ただ、この件については、大量破壊兵器が存在していないのを知っていたのに、開戦を正当化するためにわざと情報を操作した可能性もある。国際社会を相手にそういう行為をするのは許されないと思うが、もしそうだとするとアメリカ軍・政府の情報収集・分析力に問題があるということにはならない。

 しかし、サッダームらの所在がつかめたからといって急いでバグダードに攻撃をしかけたという開戦時の事情はどうだろう? その後、しばらく、サッダーム本人か息子たちかは少なくとも重傷だというような説が流れつづけていたように思うが、それは事実ではなかった。その後もアメリカ軍はサッダームらの所在の把握に失敗しつづける。そして、大規模戦闘の終結を宣言した後も、アメリカは半年以上にわたってサッダームを拘束することができなかった。

 アメリカ軍のバグダード占領の経緯も何か奇妙な感じがする。武装偵察に行ってみたらだいじょうぶそうだったんでそのまま居すわっちゃいました――という説明だったと思う。敵の本拠地に突入するのにそんな行き当たりばったりな作戦を採ったのだろうか?

 こういういくつかのできごとをいま振り返ってみると、アメリカ軍やアメリカ政府は、正確な情報を握ってそれを操作しているのではなく、最初から正確な情報を持たずにいいかげんに行動しているのではないかという疑念を強く感じる。少なくとも、軍やその他の情報機関の一部が正確な情報を持っていたとしても、それがアメリカ軍や政府に適切に共有されていないのではないか。イラク占領後の展開も合わせて考えると、政策決定の段階では現地の具体的な情報がろくに参照されていないのではないかという疑念さえ生まれてしまう。

 このまえ読んだ『幻の大戦果・大本営発表の真相』という本によると(→この本の評)、かつての日本帝国海軍では、作戦部門のステイタスが高く、情報部門が軽んじられていた。そのために、昭和19(1944)年に戦況が日本に不利になると、情報を完全に無視した机上の空論や精神主義がまかり通ってしまった。

 それと似たような状況が「対テロ戦争」期のアメリカにはあるのではないか?

 この疑念が思い過ごしであればいいと思う。アメリカ合衆国が昭和19(1944)年の日本の帝国陸海軍と似たような状況だとすれば、イラクやアフガニスタンの人びとだってたまったものではないし、アメリカの同盟国だってやっぱりたまったものではない。

 でも、もしそうだとすると、世界でも突出した強い軍事力を持ち、しかもやはり突出した情報通信技術を持っているはずのアメリカになぜそんな事態が起こってしまったのだろうか? それを、唐突ながら、第二次世界大戦前の日本との比較で考えてみようというのが今回の意図である。


第二次世界大戦前の日本

 第二次世界大戦前の日本の体制は「軍国主義」と言われる。1932(昭和7)年の五・一五事件で犬養(いぬかい)(つよし)首相が青年軍人に暗殺された。以後、政党政治は復活せず、日本は軍が支配する暗黒時代に突入した。これが日本の軍国主義である。

 ――なぁんてね。ウソだよ

 さすがに百パーセント嘘ではないのだが、でもいろいろと問題があるのはたしかだ。

 まず、1930〜40年代(1931(昭和6)年ごろから1945(昭和20)年まで。いわゆる「十五年戦争」期)の日本で軍が直接に政権を握ったことはない。1941(昭和16)年の東条英機(ひでき)内閣で、東条首相が陸軍大臣と参謀総長を兼任したことはある。しかし、東条首相の下でも、内閣と陸軍が一体化したわけではないし、閣僚をすべて陸軍軍人が占めたわけでもない。東条内閣以前にも1930年代には軍人が首相を務める例が多かった。しかし、だからといって国政のなかで軍が特別の地位を与えられたことはない。軍人以外出身の首相もいる。

 五・一五事件で政党政治が消滅したわけでもない。たしかに政党から首相が出なくなったのは確かだが、政党はあいかわらず内閣に閣僚を送りこんでいる。1940(昭和15)年に大政翼賛会(たいせいよくさんかい)が結成される直前まで、政友会(せいゆうかい)民政党(みんせいとう)の二大政党をはじめ、政党はさまざまな問題を抱えつつも活発に活動していた。

 その「さまざまな問題」の一つは政党の分裂である。政友会も民政党も内部の統一が失われ、政党指導者たちの主導権争いがつづいていた。政党が首相を出せなくなったのも一つにはそれが原因である。実質的に政党の全体を代表するといえるような指導者がいなくなったのだ。けっして軍が政治を支配したから政党から首相が出せなくなったわけではない。

 それに、犬養首相の率いる政友会自体が、1932(昭和7)年の時点では相当な親軍政党だった。犬養の前任の政友会総裁(党首)は田中義一だ。この田中も陸軍の大物軍人出身の政治家である。そこからもこの時点での政友会の親軍ぶりをうかがうことができる。さらに、政友会は自分の党の生え抜きの政治家を田中の後任として立てることができなかった。それでこの時点では実質的に隠退していた犬養を総裁に担ぎ出したのだ。

 犬養自身は政党人としてその一生を歩んできた人ではある。しかし、だからといって、政友会の親軍体質が変わったわけではない。1930(昭和5)年に民政党政権がロンドン海軍軍縮条約を締結したときに、軍の強硬派と歩調を合わせて政府と軍縮条約を攻撃したのは、この犬養総裁の率いる政友会だった。

 五・一五事件はたしかに在任中の首相が軍人テロリストに殺されるという衝撃的な大事件だった。だが、この事件からとつぜん「軍国主義」が始まったわけではない。日本ではその後も軍が直接に政権を掌握したことはない。また、軍の立場を支持する政権ということを言えば、犬養政権自体がすでに軍の立場に理解を示し、軍の行動を支持する政権だった。

 では1930〜40年代の日本に「軍国主義」がまったくなかったかというと、そういうわけでもない。1931(昭和6)年に満洲事変が勃発すると、「現在は非常時である」ということが喧伝されるようになり、1937(昭和12)年に日中戦争が全面化すると戦時ムードが強まっていく。「聖戦」を戦い抜くことを目標にして国民総動員の国家体制の整備も進められ、言論や市民生活への統制も強まってくる。

 ただそれを軍だけが行ったのではない。「軍国主義」化に熱心な政党人も官僚もいた。民間社会もやがてその「軍国主義」化に積極的に呼応していく。

 つまり、1930〜1940年代には、五・一五事件の引き起こした恐怖を利用して軍が政府を支配し、日本を戦争へと向かわせていったのではない。つまり軍だけが「軍国主義」に責任があるわけではないのだ。

 問題は別のところにある。


戦争を止める指導者の不在

 ところで、1930〜40年代の日本の戦争の進めかたはけっして巧いものとは言えなかった。

 1931(昭和6)年に日本軍の一部が謀略によって満洲事変を起こし、1933(昭和8)年には停戦に持ちこんだ。倫理的・法的な正当性はここでは問題にしないとして、軍事的な戦略上の視点からだけ見れば、この時点ではまだ戦争の進めかたとしては成功している。満洲事変の結果として成立させた満洲国の中国からの分離をともかくも中国側に事実上黙認させて停戦に持ちこんだからである。

 しかし、軍の一部はこの成果に満足せず、満洲国に隣接する中国北部や中国領モンゴルの中国中央政権からの切り離し工作を進めた。これに対して中国国内の抗日世論は盛り上がりを見せる。1937(昭和12)年、その状況下で北京郊外の盧溝橋(ろこうきょう)で日本の現地軍と中国軍の一部が衝突した。現地では局地的衝突事件として解決しようという動きもあったが、軍中央と中央政府はその方針を採らず、日中戦争の全面化を招いてしまう。

 この日中戦争の決着の見通しが立たないまま、中国の蒋介石(しょうかいせき)政権への援助ルートを断つことなどを目的に1940〜41(昭和15〜16)年にフランス領インドシナ(ベトナム、ラオス、カンボジアのインドシナ三国の領域)への軍進駐を進める。これがアメリカ合衆国の態度を硬化させ、外交交渉が行き詰まる。そこで、アメリカ合衆国の経済封鎖で石油がなくなってしまう前に日本はアメリカ・イギリスなどに対して戦端を開いた。開戦後も緒戦の勢いを駆って日本はインド洋から太平洋中部、ソロモン諸島まで戦線を拡大した。しかし、当初は海軍指導部の一部が期待していたような戦争の早期終結は実現せず、対米英戦争も泥沼化し、国力を使い尽くして敗戦を迎えることになる。

 1933(昭和8)年以後の日本の戦争の進めかたは、一つの戦争が片づいていないのに、むしろその戦争を片づけようとして新たな大きな戦争を始めるというものだった。中国の一地方での軍事衝突を全面戦争に拡大し、その全面戦争が泥沼化すると、中国との戦争をアメリカ・イギリスなどとの戦争に拡大していった。

 一つの戦争が片づいていないのに新たな戦争を始めたら、それだけ敵も増えるし、戦争は複雑になって作戦も難しくなる。将兵の数もそれだけ必要になるし、情報処理能力や輸送力にも大きな負担がかかる。戦争の進めかたとしては非常にまずいやり方だ。

 19世紀後半のドイツを強大な国に成長させた宰相(さいしょう)ビスマルクは、デンマークを相手に戦っているときにはオーストリアを敵にせず、デンマークとの戦争が片づいてからオーストリアを相手に戦争をし、オーストリアとの和平が完全に成立してからフランスに戦争を仕掛けた。一つの戦争が終わるまではけっして敵を増やさなかった。そしてそのどの戦争にも勝利し、ドイツの有力な地方国家に過ぎなかったプロイセン王国によるドイツ統一を完成させたのである。

 1930〜40年代の日本の戦争の進めかたはそのまったく逆を行くやり方だった。

 どうしてこんなことになってしまったのか?

 戦争を止められるリーダーがいなかったからである。


カオスとしての戦争

 戦争はいったん始まってしまうと手に負えない複雑さを示すようになる。

 一つひとつの戦場のレベルでも、もっと広い戦略的なレベルでも、その場所を占拠していれば戦争を有利に進められるような地点があればそこは手に入れたいし、手に入れた以上は保持していたい。土地だけではなく、石油や水などの資源でも同じである。なるたけ手に入れて保持したい。土地も戦争を進めるうえで役に立つものだから一種の「資源」と考えることができる。戦争が始まれば、戦場では戦争に参加しているあらゆる部分がなるたけ資源を自分の手もとに確保しようと求めはじめ、その欲求にしたがって動こうとする。また、撤退は指揮官の不名誉になるから、指揮官の名誉を守るためにも撤退は避けられる。

 だが、自分たちに有利な資源を手に入れたい、手に入れた以上は何が何でも守りたいという論理を戦場のあらゆるところで野放しにしたら全体的な戦略はめちゃくちゃになる。また、戦線は、その動きを容認したら、止めどもなく拡大していくから、兵力もいくらあっても足りなくなる。

 攻撃とか防衛とかいう区別も、実際の戦場のレベルともっと上の戦争指導のレベルでは同じではなくなる。たとえば、いったん奪われた土地を奪い返しに行く作戦は、上からの戦争指導のレベルでは防衛かも知れない。しかし、実際の戦場での戦いとしては攻撃と変わらないかもしれない。防衛戦のほうが実際には相手にたくさん銃弾やミサイルを叩きこんでたくさん殺さなければならないこともあるだろう。また、地形や資源の都合で、少しだけ相手の領域を侵しておかなければ、相手から攻められたときにものすごくたくさん後退してしまわなければならないことになることだってある。領土の幅が狭くなっているような場所があれば、相手の領域を侵してでも、その幅の狭いところが相手から絶対に攻撃を受けないようにしておかないと、国全体の安全を守りきれないことだってある。

 戦争が始まると、戦争の遂行にはさまざまな意思が絡むことになる。愛国心とか愛郷心とか殉教者精神とかのほかに、戦争で活躍して名声を高めたいという功名心、戦争で利得を得たいという功利心、自分たちだけはなるべく無事でいたいという気もち、ほんとうはこんな戦争は早く終わってほしいという厭戦気分などが、戦場の一兵士から国家の指導者層までのあらゆるレベルで複雑に動くことになる。

 一回の大きな決戦で決着がつくような戦争ならともかく、広い範囲で長い期間つづける戦争では、戦争ではない平時の単純明快な論理は通用しなくなる。あらゆる場面がつぎの場面で何を起こすかわからない複雑さをもって絡み合う。戦争が始まると、まさに複雑系の議論でいうカオスのような状況が戦争のすべての局面に出現することになる。

 カオスというのは、ただのもやもやしてつかみどころがない状態ではなくて、そこからいきなりこれまでになかった新しいことが起こってくる(これを複雑系のほうでは「創発」とか「現出」とかいう)可能性をいつも持っているような状態である。

 カオスは、「複雑系」ということばから受ける印象とは少し違って、いくつかの単純なルールが決まっていることによっても発生するばあいがある。空間のなかの一つひとつの点がいくつかの単純なルールにしたがって自由に動くということを定め、そのルールに沿って動かす。現実の空間でも、コンピューター上に仮想された「空間」でもかまわない。そうすれば、ばあいによっては、複雑でつかみどころがなくて、しかもそこからいままでになかった新しい動きがとつぜん生まれるようなカオスが発生する。それが複雑系理論の教えるところなのだそうだ。

 戦争というのをろくに指導せずにほうっておいたらそういう状態が生まれてしまう。戦争のための資源を確保したい、自分たちの身の安全を確保したい、手柄を立てて名を挙げたい、あの上官は怒らせると怖そうだな……などという、その場その場ではもっともな行動原理で、戦線のすべての場所で軍隊が勝手に動いたらどうなるか。ある部分のある思惑や行動と、別の部分の別の思惑や行動とがどんどん積み重なり合って、だれもが予想をしなかった展開をいきなり生み出す可能性がある。「複雑で何が生まれてくるかわからない」ようなカオスが発生してしまうのだ。

 だからこそ、軍隊には、上官の命令への絶対服従というような厳しい規律と明確な指揮系統が必要になる。戦争が行われている全「空間」の各部隊を、いくつかの単純な規則によって自ら動く「点」ではなく、上官の命令に従ってしか動かない「点」に変えることで、そのカオスの発生を抑止するのだ。

 しかし戦場では何が起こるかわからない。それに対応するため、やっぱり軍隊は自分の判断で自由に動く余地を持っていなければ困る。そういう軍隊を国家の道具にし、戦争を国家の利益のための事業にしておくためには、軍隊と戦争に対する強い指導力を国家の側が持ちつづけることがどうしても必要なのである。


統帥(とうすい)権の独立

 ところが、1930〜40年代の日本ではこの軍に対する国家の指導力が十分ではなかった。

 明治憲法(大日本帝国憲法)の下では、軍隊の編制を決める権限は政府(内閣)にあったが、実際に軍隊を動かす権限は政府になかったからである。実際に軍隊を動かす権限は、その最高権限を天皇が握り、天皇を助けるかたちで、陸軍では参謀本部、海軍では軍令部(それぞれ正式名は何度か変わっている)が握っていた。政府をバイパスするかたちで天皇と参謀本部・軍令部が結びついていたのである。このしくみを「統帥権の独立」と呼ぶ。「統帥権」とは全軍の軍事行動を命令する権限のことだ。

 なぜそんな制度になっていたか?

 この統帥権に限らず、明治憲法は主権者である天皇がすべての国家権力を握るというたてまえで作られていたからだ。

 明治憲法の下では、議会や内閣や裁判所や軍などさまざまな国家機関の役割は、その天皇の国家権力(天皇の「大権(たいけん)」という)の行使をそれぞれの分野で「助ける」ということだった。言ってみれば、天皇の権力を分野別に細分化し、いろいろな国家機関に下請けに出していたのである。

 だからそれぞれの国家機関のあいだの横の関係はもともと弱く作られていた。それぞれの国家機関は、自分が与えられた分野でだけ天皇の国家権力行使を助ければよく、それ以外の分野に首をつっこむのは好ましくないとされていたのだ。

 なぜそうなっていたか? 明治憲法の制定者は、江戸時代と違って、天皇を直接の最高権力者にする体制を明治国家の体制にしようとした。もし、天皇の権力の大部分をひとまとめにして下請けする機関を作ってしまえば、江戸時代の幕府と同じような組織ができて、天皇の権力を形式的なものにしてしまうかも知れない。それは避けたかった。だから「分野別の下請け」形式を徹底的なものにしたのである。

 政党政治の実現を避けたいという動機も強かった。明治憲法制定当時から、イギリスでは、政党が国会に進出し、国会での多数党が政府の権力を握り、国王は支配については何の実権も持っていないという体制ができていた。ところで、明治憲法の制定作業が進められていた1880年代には日本でも自由民権運動が活発で、政党が政府批判をさかんに繰り広げていた。議会が開かれればそのような政党が議会の多数を占める可能性がある。もしイギリスのような体制にしておくと、政党が議会から政府を支配し、政治のすべての分野を支配してしまう。そうなれば、それまでの指導者が苦心して作り上げた明治国家の仕組みは政党によって崩されてしまうかも知れない。それも絶対に避けたかった。

 だから、政党が議会に進出するのは避けられないとしても、それは衆議院だけにして、貴族院(現在の参議院の前身)には政党の影響力が及ばないようにした。また、議会で政党が多数を占めても、政党が内閣を支配できないようにした。さらに、何かの拍子に政党が内閣を支配したとしても、こんどは内閣が軍を支配できないようにした。そのために「天皇大権の分野別の下請け」という形式を徹底した。そういう面もある。


バラバラの国家機関のまとめ役

 この「分野別の下請け」体制の下では、国家のすべての分野を統括できるのはただ一人、天皇だけである。しかし、それで不都合は起こらないのだろうか?

 近代国家の国家機関が処理しなければならない問題は非常に多い。それを天皇一人がすべて見て、チェックして、おかしいところがあれば突っ返すということができるかというと、そんなことはとてもできない(もちろん天皇がまったく見なかったというわけではない)。だとすると、国家機関のすべてがうまく協調し合って効果的に動くように指導する役割がだれにも果たせなくなってしまう。それでは困ったことになるのではないだろうか?

 明治憲法が制定された当初にはそうはならなかった。実際にはすべての国家機関が効果的に協調して動けるようにリードする集団が明治国家にはいたのである。明治憲法を制定した人びと、つまり薩摩や長州の下級武士出身者を中心とする明治維新の功労者たちであった。

 明治維新のころの(きずな)と信頼感で結ばれた明治の指導者たちは、一人は政府に、一人は軍にというふうに分かれていても、互いに協調しながら国家全体の政策を調整して進めていた。もちろん明治の指導者たちのあいだにも対立もあったが、最後には自分たちの作った明治国家のあり方を守り発展させるためという目標で一致できた。だから、形式的には「分野別の下請け」になっていても、実際にはそれぞれの分野での協調や調整はできていたのである。

 しかし、明治国家の指導者たちは1920年前後には世を去ってしまう。そこで新しく国家機関のまとめ役として登場してきたのが政党だった。だが、もともと政党政治ができないように作られている明治憲法の下で政党にできることは限られていた。政党から首相を出して内閣を支配することまではなんとかできた。貴族院にも間接的ながら政党の影響力は及ぼすことができた。しかしけっきょくどうにもできなかったのが軍隊である。それどころか、政党の指導部の力が内部分裂などを経て弱くなると、軍隊の影響力が逆に政党に流れこんでしまった。1920年代前半には軍縮推進政党だった政友会が、1920年代後半には親軍政党になって軍縮に反対するようになるのは、一つにはそのためである。

 こんな状態では政党がさまざまな国家機関を調整し、協調させ、まとめ役として働くことなどできるはずがない。1930年代に入ると、政党はまとめ役としての働きができなくなり、かといって他のどの勢力もその役割を担えず、さまざまな国家機関がバラバラに動くようになってしまう。


「統帥権干犯(かんぱん)」問題

 1930年代の入り口にあたる1930(昭和5)年に、まとめ役としての政党の働きに大きな打撃を与えたのがロンドン海軍軍縮条約問題である。

 この条約は、その方面のオタクな人ならだれでも知っているように、アメリカ合衆国、イギリス、日本の三大海軍国で巡洋艦以下の「補助艦」の保有量を制限しようとしたものだ。

 1922(大正11)年のワシントン海軍軍縮条約では戦艦や巡洋戦艦といった大型で攻撃力の大きい艦艇(主力艦)の保有量の制限を主に決めた。ところがこんどはその制限からはずれた巡洋艦以下の艦艇の軍備拡充競争が起こってしまった。そこで、こんどはその巡洋艦以下の軍備を制限しようという国際世論が起こり、そのための軍縮会議が開かれた。20世紀後半の情勢にたとえて言えば、最初に大陸間の大型核ミサイルについてのミサイル軍縮を決めたら、中距離の小型核ミサイルが発達してしまったから、つぎはその中距離・小高核ミサイルの軍縮を決めようというようなものである。

 じっさいこの時代の軍艦は現在の核兵器に似ている面がある。海を隔てた向こうの国まで直接に脅威を及ぼすことができる兵器であること、その時代の最新技術が応用されていたこと、そして、「軍艦をどれだけ持っているか」が国際的に抑止力として機能したことなどである(「存在することに意味のある海軍」のことを fleet in being という)

 このロンドン海軍軍縮会議については、海軍の一部に、大きな口径の砲を装備した巡洋艦(重巡洋艦という)について「対米7割」を求める強硬な意見があった。

 海軍はアメリカ合衆国を仮想敵国にしていた。そして、アメリカとの戦争になれば、最終的には日露戦争の日本海海戦のような艦隊どうしの大決戦が起こり、戦争の勝敗が決まると考えていた。アメリカに対して7割の兵力ならば、艦艇をこまめに改装して最新式の兵器を搭載し、日ごろの猛訓練などで将兵の質をカバーして、なんとか勝てる(どんな細部にも妥協を許さずに最高品質の製品を装備し、あとは関係者の超人的ながんばりで逆転を狙う『プロジェクトX』的発想の一つの原点である)。しかし7割を切ると勝利は絶望的と考えていた。だからワシントン会議の時にも戦艦・巡洋戦艦の対米7割を要求したのだが、けっきょく対米5割9分になってしまった経緯がある(これも海軍マニアは知っているように、最初は6割だったのに、日本が戦艦「陸奥」を残すことに固執したためにさらに比率が下がってしまったのである)。これで重巡洋艦まで7割を割ってしまうと対米決戦に勝つのは絶望的だと海軍の一部は考えていた。だから重巡洋艦保有量の対米7割の実現を強く主張したのである。

 だが、日本はアメリカからさまざまな譲歩を引き出したけれども、対米7割は実現できなかった。それに対して、海軍強硬派は、政府が天皇の統帥権を侵害(「干犯」という)したと非難したのである。

 これに対して政府は統帥権の干犯にはあたらないという立場だった。軍の編制に関する天皇の大権は政府(内閣)に「下請け」されているから、軍縮問題を軍の編制に関する問題と考えれば、統帥大権の侵害にはあたらない。

 この議論は、議論として深められることがないまま、犬養総裁の率いる政友会によって倒閣運動に利用された。そんななかで民政党内閣の浜口雄幸(おさち)首相はテロリストに銃撃されてやがて死亡する。実質的に議論ではなく暴力が問題にかたをつけたのだ。

 このことが政府に「軍の権限に手を出すと何をされるかわからない」という教訓を植えつけた。五・一五事件より1年半前のことである。軍が国政の主導権を握ったわけでも何でもない。ただ、政府が軍の権限内のことがらに容易に手が出さない雰囲気が作られてしまっただけだ。だがそれ自体が大問題だったのである。


軍自体もまとまっていなかった

 この事件は、政府を萎縮させ、軍内部の強硬派を勇気づける結果になった。そのことがよく表れたのが、浜口首相銃撃事件が起こった翌年の1931(昭和6)年に勃発した満洲(まんしゅう)事変だ。

 満洲事変は中国東北地方に駐留していた関東軍が起こした事件である(関東軍といっても日本の関東地方とは関係はない)。関東軍指導部の一部が中央政府にも知らせないまま謀略をめぐらせ、準備を進めていた。関東軍が戦争を始めたあと、日本の中央政府は何度も戦争の拡大を止めようとした。だがそれには何の効果もなかった。けっきょく、関東軍が作った既成事実を追認するしかなかったのである。

 満洲事変以後の戦争では、さらに、軍自体が一つにまとまっていないということが明らかになっていく。

 日本では陸軍と海軍の仲が悪かった。ただ仲が悪いだけならいいのだが、兵器開発も別々に進めるから、陸軍と海軍の同じような兵器のあいだで互換性がない。銃砲も飛行機も別々に開発していた。太平洋戦争で遠方の島が戦場になると陸軍が航空母艦を造りはじめたぐらいだ。戦争で物資が乏しいなかで不経済なことこのうえない。

 戦略目標も別々だった。伝統的に、陸軍は中国大陸からモンゴル・シベリア方面への関心が強く、海軍は同じ中国でも南方沿岸地帯から東南アジア・太平洋地域への関心が強かった。いわゆる北進論と南進論の対立である。とりあえずそういうことにしておこう。ほんとうは、陸軍・海軍それぞれの内部に北進・南進その他のさまざまな志向があって、それが状況に応じて一貫性を欠いたかたちで出てくるので話はさらにややこしい。

 国家全体の戦略を決めるとなると、当然、陸軍と海軍の両方の主張を聴かなければならない。そうするとどうなるか? 陸軍と海軍の要求を両方とも並べた過大目標ができてしまうのだ。もっともこれは軍だけの問題でもない。政治家・官僚や財界なども含めて、日本が大陸の豊かな資源を抱えて農業生産と工業生産を中心に発展する大陸国家になるのか、通商を重視した海洋国家になるのか、どちらに重点を置くかを決められていなかったということにも問題がある。社会全体に「大陸国家になり、海洋国家にもなる」という欲張りな欲望があったのだろうと思う。

 ともかく、陸軍と海軍との協調はうまくいっていなかった。さらに、陸軍にも海軍にも派閥対立や人脈対立があった。しかも、それぞれの派閥が、官僚の一部や民間運動家の一部、政党の一部に接近して連帯関係を作ったりするので、1930〜40年代の日本には、政界・軍を巻きこんだまさに「複雑怪奇」な構図ができあがっていたのだ。

 こんな状態では、よほど力のある優れた指導者でなければ政治も軍もコントロールしきれるものではない。そしてそんな指導者はいなかった。ところで、戦争というのは、先に書いたように、強くコントロールしていなければ、だれも考えていなかったような新しい展開を自ら生み出してしまう性質を持っている。けっきょく1930〜40年代の日本ではだれもが自分の国が戦っている戦争をコントロールすることができなかった。カオス的な動きを見せつつ自ら拡大していく戦争に振り回され、政府の指導部も軍の指導部もそれぞれのレベルで戦争の拡大を追認しているうちにとてつもない大戦争になってしまい、そして国力が尽きて敗北した。

 それが1930〜40年代に日本が戦った戦争の一つの本質だと私は思う。


そして現在のアメリカ

 では、現在のアメリカ合衆国はどうだろう?

 アメリカでは統帥権は合衆国大統領が握っている。大統領は行政機関の長官であり、しかも選挙によって選ばれる。大統領を通じて軍隊にも民主的なコントロールが効いている体制なのだ。現在のアメリカ軍は第二次大戦以前の日本軍とは対照的な統制のとれた軍隊である。

 それがどうしてイラクではあのような失敗を繰り返しているのだろうか?

 私は、この失敗の本質は、1930〜40年代の日本の例とは逆に、民主的にコントロールされた軍隊であることがその根源ではないかという妄想にいまとらわれている。

 つまり、ブッシュやチェイニーやラムズフェルドといった最高指導層が戦争をコントロールしようとする意思が一方的にイラクの「戦場」に押しつけられているだけで、「戦場」からの情報が最高指導層にきちんと還流していないのではないかということだ。「戦場」の現場では、最高指導層の意志に従って動き、最高指導層の求める情報だけを送るという、まるで暴君の支配下のような事態が生じているのではないだろうか。

 だから最高指導層は事態をつねに楽観的な方向に考え、それが現場での事態の推移によって裏切られたとわかると強硬策で対応しようとする。現場がそういう最高指導層の動きを少しも制止できない。もしかすると制止しようとする意志を最初から持っていないのかも知れない。外交の場でブッシュ政権の代表が楽観的な見通しばかり述べ、大混乱が起こっているのに「混乱は一部にとどまっている」と主張したりしたのは、事実を知っていて強弁したのではなく、ほんとうに知らなかったのではないかという疑念をいま私は持っている。

 1930〜40年代の日本が、戦争と軍隊に対する指導力が弱くて戦争のカオス的性格を抑えきれなかったとするならば、現在のアメリカは軍隊に対する中央政府の指導力が強すぎて、戦争の実情が軍隊を通じて中央政府に還流していないのではないか。そのため、現地でカオス化する戦争の実態に軍隊が十分に対応できないのではないか。

 現在のアメリカ合衆国指導部ははっきりした世界観を持って世界に臨んでいる。世界じゅうをアメリカのように自由でアメリカのように民主主義的な世界に変えたいという世界観である。その世界観は、戦争の拡大にしたがって後追い的に形づくられていった面が強い1930〜40年代日本の「大東亜共栄圏」の世界観よりも強固なものかも知れない。あんがい、それは、いまほとんど死滅しつつあるソ連的な世界革命論に近いのかも知れないと思う。

 そのソ連の海軍では、大陸間核ミサイルを搭載した大型原子力潜水艦をなるたけたくさん海に出そうと無理をしていたらしい。べつに核ミサイルを使わなければならないような戦争の危機が迫っているからではない。海軍官僚がソ連指導部に「わが国の原潜はアメリカと同じレベルで活動しています」ということを示したがったからだ。

 はっきりした世界観を持った指導部の下で、アメリカ合衆国の軍隊でも同じようなことが起こっているのでなければいいのだが。

 もしそれが起こっているのだとすれば、統帥の危機は、民主的に選ばれた指導力の強い政府の下でも発生するということになる。つまり、1930〜40年代の日本のように、政治も軍の内部もバラバラで、民主的なコントロールが利いていない政府だから起こったこととは限らないのだ。まったく逆の状況でも統帥の危機は起こりうるのである。


戦争に対して謙虚であることの重要さ

 軍隊は規則と上官に対する絶対服従を絶対の原則として組み立てられている組織だ。どこのお役所よりも苛酷な官僚制組織である。それはなぜかというと、さきに書いたとおり、戦争は少しでも現場の好き勝手を許すと勝手に生き物のように(カオス的に)動き出してしまう現象だからだ。

 そして、1930〜40年代の日本は、満洲事変で現場の好き勝手を許してしまったところから、その後、戦争が勝手に動き出し拡大するのを止めることができなくなってしまった。しかも、明治憲法は政治・軍事のバラバラの分野別下請け制で国家機関を配置していた。それでは勝手に動き出してしまった戦争をコントロールすることなどとてもできなかった。

 けれどもコントロールする力が強ければいいというものでもないようだ。コントロールする力が強ければ、こんどは官僚制組織という面が強くなってしまって、上からの統制力が一方的に働き、現場からは上が求めるような情報しか上がっていかないという暴君政治のような状況が生まれてしまうのである。

 民主主義的に選ばれた政府に軍隊を指導する権力を集中させれば、たしかに軍隊はコントロールできる。軍隊が国民の意思とはまったく無関係に暴走してしまうことは起こらないだろう(1930〜40年代の日本軍も完全に国民の意思と無関係に「暴走」したわけではないが)。しかし、軍隊がコントロールできるからといって、戦争をコントロールできるとは限らない! むしろ、官僚制化しすぎて硬直した軍隊は、勝手に生き物のように動き出すカオス的な性質を持った戦争に対応できなくなってしまうのではないだろうか。

 いまアメリカ合衆国が進めている「戦争」は第二次世界大戦とはまったく違った戦争だ。

 第二次世界大戦までの戦争では、勝つ戦争でも勝者側に必ず少なからぬ死者が出るのがあたりまえだった。しかし、21世紀のアフガニスタンやイラクの戦争は違う。最初から勝者はアメリカと決まっていて、しかもそのアメリカ人が死なないのがあたりまえの戦争である。

 しかしアメリカとその同盟国だけが戦争をしているのではない。アメリカとその同盟国を敵に回した側は、爆破とか脅迫とか煽動とか、あるいは「殉教」とか、さまざまなかたちの暴力を用いて対抗してくる。アメリカは、その「敵」をテロリストと名づけ、テロリストを狩り出すためならば多少の民間人の犠牲はしかたがなく、ましてや民間人の生活に多大な不安と不便をもたらしても気にしないという策で対抗する。イスラエルがパレスチナ人たちや周辺国のパレスチナ支援組織に対してやっている過剰報復戦略と同じ質のものである。

 アメリカがやっているのは、その過剰報復で、いったん始まってしまったら勝手に生き物のように動き出す戦争の状況を最初から抑えこんでしまうというやり方だ。「勝手に生き物のように動き出す」ような戦争が始まってしまったら、情報通信機器とハイテク兵器だけを駆使した「アメリカ人の死なない戦争」をつづけるのは難しくなるからだ。

 だが、過剰報復で戦争状況の出現を封じこめるのはあくまで一時的でその場かぎりの対処法に過ぎない。現にイスラエルの過剰報復戦略だって成功していない。その地域の住民や民族を全滅させてしまうとでもいうのでないかぎり、過剰報復は現地の住民や民族の反感をかき立て、それが敵に回って新たな暴力を生み出す悪循環がつづくと考えるほうが普通だろう。

 ではアメリカ合衆国はいったいどうすればいいのか? 私にはそんなことを考える義務なんかない。ブッシュやチェイニーやラムズフェルドが、そしてその政府を選挙で選ぶアメリカ国民が考えればいいことである。

 それとはべつに、現在のイラクでの戦争の経過から強く感じることは、私たちは戦争に対して謙虚でいなければならないということだ。

 戦争を始めるのはそんなに難しいことではない。けれども、戦争というものは、始まってしまうと生き物のように動き出してしまうカオス的な面を強く持っている。その結果、戦争を始めた者の意図とはまったく違った方向へ勢いよく進んでしまう可能性があるのだ。人間がそれを後追い的にコントロールしようとしたってなかなか止めることができない。それは、バラバラでまとまりのない政府ではもちろん、指導力があっても軍隊を官僚化させてしまった政府でも対応できない。民主的なコントロールが行き届いていたら止められるというものでもない。

 戦争は政治の道具として気軽に使うことができ、気軽に止めることができるという感覚をまず捨てなければならない。ましてや戦争は一部の政治家の世界観で現実の世界を作りかえるための便利で無害な魔法でもない。いったん起こってしまったら何を引き起こすかわからない「生き物」としての戦争のあり方を直視すること――あえて言えばそういう戦争を畏怖(いふ)することがどうしても必要だ。

 戦争をしたり計画したり論じたりするのはもちろん、平和論や平和主義というものも、そのことを考慮に入れなければ、いつかは戦争そのものから手痛い反撃を受けることになるのではないかと思う。


―― おわり ――