PAX JAPONICAをめぐる冒険

清瀬 六朗





3.押井守の最後最大の戦い

 弾種徹甲! 舵中央! アル萌へ〜!!

 ……とかやっているばあいではない。

 というわけで、いまのネタがわからない方は、「PAX JAPONICA」第三回が載っている『ニュータイプ』(2003年5月号)の26〜29ページを見るか、アニメ『LAST EXILE』を観るかしてください。個人的には、4月に始まったテレビアニメで拙宅で受信可能な作品のなかでは、いちばん好きなのがこの『LAST EXILE』なんですよ。

 この『ニュータイプ』には別冊付録で『ニョータイプ』というのもついていて、コゲどんぼ先生の『げまげま』が50本一挙掲載という快挙がなし遂げられている。

 と感激していたら、「PAX JAPONICA」第二回の号を買ったゲーマーズ本店一号店がなくなってしまった。4月の末ごろまではかろうじて「でじこ看板」は残っていたのだが、それもなくなってしまった。

 たしかに、ここ、秋葉原駅前に本店二号店ができてからはほんとに閑散としてたからなぁ。末期には、一階の入り口の内側に「あ〜ミントさんだぁ」「お金なら貸しませんわよ」という、掲出意図不明の対聯が貼ってあった。4月6日閉店ということだし、『ギャラクシーエンジェル』アニメ版とともに歴史を閉じたっていうことなんだろうか。

 ここの一階の商品レイアウト、けっこう気に入っていたんだけどね。

 ……というような話をする場所でもないのであって、「PAX JAPONICA」第三回と、『ニュータイプ』6月号に載った最終回について書くのがここの場の趣旨なんだが……正直に言って、ちょっと困っている。

 私自身の「妄想」はこれまで2回でだいたい書いてしまった。だから、今回、「PAX JAPONICA」の内容について書き加えることは残っていない。

 そう言えば『成恵の世界』というタイトルが『(ナル)Aの世界』のもじりであることって某氏に指摘されてはじめて気がついたよ〜。

 ……って、だからそういう話をする場所じゃないって!

 う〜む。

 ……じゃ、どうしよう?



日本は「幸運」すぎたのか?

 押井さんは、日本が「幸運」にも日露戦争に「勝ってしまった」ことが問題だと考えているらしい。

 日本は、島国として無自覚的にまとまっていたために、「日本人」には自己認識を確立する契機がもともと乏しかった。日露戦争で敗北することがその「日本人」としての自己認識を確立する大きな「チャンス」だったのだが、日本はその「チャンス」を逸してしまった。そして「日本人」としての自己認識がないまま太平洋戦争に「なだれ込んだ」のが問題だったと押井さんは言う。

 果たしてそうなのだろうか。

 私はぜんぜん違う認識でいる。まず、日本人は、明治より前から「島国」として無自覚的にまとまっていたとは、私はぜんぜん思わない。



「家」の集合体としての日本

 たしかに、13世紀後半の元(大元帝国)の日本攻撃とそれに対する日本の防衛戦争は、幕府方か朝廷方か、御家人か非御家人かという区別を超えた「日本」の一体性を当時の人たちに生み出すきっかけとなった。また、この攻撃に対抗するために神仏への祈祷が盛んに行われ、それに応えるような天候の急変で元の日本攻撃軍が大打撃を受けたことで、日本は「神国」であるという意識も生まれた。ここまでは確かだと思う。

 けれども、それで「日本」が政治的に結束を高めたかというと、まったく逆だった。朝廷も幕府も内部で激烈な主導権争いを展開し、朝廷は分裂し、幕府は崩壊する。

 この防衛戦争を通じて「日本」というまとまりを意識した人たちも、じゃあふだんから「日本」というまとまりを意識して動いていたかというと、そうでもなかった。

 このころの「日本」の人たちにとって日常的に重要なのは、まず自分の属している「家」だった。

 この時代の「家」というのは、たんなる家族とか、家庭とかではない。その「家」の主人の家族はもとより、「家の子・郎党」といった主人の従者たち、従者の家族や使用人たち、主人や家族の持っている土地、その土地に住んだり働いてたりしている人たちの全体の共同体である。そういう「家」を抱える主人であるという点では、地方の貧しい武士も、朝廷の貴族も、鎌倉幕府を動かす有力御家人も、そして朝廷の主導権を握る「治天の君」(院政を行っている上皇・法皇など)や鎌倉幕府の最高権力者「得宗(とくそう)」も同じだったのである。

 そういう「家」の機構が、重なり合いながら雑然と積み重なり、それが頂点ではなんとはなしに朝廷と幕府に収斂(しゅうれん)しているというのが、当時の「日本」のあり方であった。元の攻撃軍に対しては「日本」を防衛するためにともに戦った人たちは、それよりもはるかに多く自分の「家」を防衛するために互いに戦ったのだ。



「家」集合体としての日本の起源

 この「家」構造が雑然と積み重なる「日本」のあり方は、北東北や北海道や琉球(奄美を含む)を除く日本列島に「日本」と名のる政権が実質的支配を確立していくなかで形成されていった。

 古代のヤマト(倭)国の統一は、たぶん、神の権威を背景にした、神権的な、または呪術的な側面を強く持っていただろう。ヤマト国が国際的に「日本」と名のりはじめた時期に、日本の中央政権は同時代の中国の律令制度を導入し、神権的な統一を制度的に補強した。

 しかし、その神権的な意義づけが忘れられていくにつれて、当時の日本国は「家」機構によって実質的に組織されていく。その「家」機構による組織は、荘園制度といわれる土地制度と深く関わりを持ちながら発展していった。

 各地の農村の有力者は、自分の村を「荘園」というかたちで自分の「家」の財産に組織する。そして、その荘園にかかわる高いレベルの領主権をより有力な者に譲っていく。そのかわりに、その現地の有力者たちは、上位の領主権の持ち主から、荘園に対して何らかの権力を持つ地位を与えられる。その地位を「家」の財産として子孫へと引き継いでいく。その関係が何重にも積み重なり、藤原氏などの中央貴族や東大寺・東寺・春日大社などの宗教勢力がその頂点に立つ。中央貴族の「家」の支配機関として「政所(まんどころ)」などの機関が作られ、それが全国に散らばる荘園を統括する。寺社は「家」ではないが、やはり同じような支配機関を用いて荘園を統括していた。

 荘園と呼ばれる土地と、そこに住んでいたりその土地を耕したりする人たち、その人たちへの支配を正当化する官位や職位、その土地やその人たちを支配するための「家」の使用人たち、土地や人たちを外部の侵入者から防衛し、同時に、土地の人たちを服従させるための武人たちなどが、一つのセットをなして「家」ができていた。それはもはや家族とか家庭とかいうことばから連想される安易な集団ではない。この時代の「家」は国家そのものだったのである。この時代にはタイムマシンも黄色い飛行船もなかったけれど、この時代の「家」は四方田家よりもはるかに本格的で国家らしい国家だったのだ。

 11世紀になると、朝廷の権力も実質的に「家」機構の論理によって組み立てられ、その権力を発揮するようになっていった。院政の開始である。天皇ではなく「天皇家の家長」と認められた人物が朝廷の主導権を握るようになったのである。同じ時期に、武士が、やはり全国に広がった荘園制度と「家」機構に足がかりを得て中央権力に接近してくる。12世紀の末には、その武士の多くを糾合することに成功した勢力が、鎌倉に独立性の高い中央権力を樹立する。鎌倉幕府である。この鎌倉幕府も、形式的には将軍家の「家」の支配機関として構成されていた。朝廷も幕府も、荘園制度に基礎を置き、それを「家」機構によって支配することで成り立っていた。

 元の攻撃軍に対して防衛戦争を戦った時代の「日本」は、まさにその「家」単位の小国家の集合体という性格のいちばん強い時期だったのだ。



「家」国家と「日本」国家の闘争

 それ以後、明治維新に至るまでの「日本」の歴史は、「家」国家を制圧しつつ「日本」国家が日本列島の支配権を確立していく過程だと整理することもできる。

 鎌倉時代が去ったあと、一つの地方に雑然と積み上がっていたいろいろな「家」の権力が排除され、ある一つの「家」が一つの地方の政治権力を掌握することになる。これが「大名」だ。大名の下にそれぞれの地方の権力が集中し、地域国家が成立したことによって、日本列島は戦国の動乱におちいる。

 その戦国の大名体制を徳川家の管理下に置き、地域国家間の戦争が起こらないように秩序を固定化したのが江戸時代の体制だった。

 この体制下では「家」はまだ国家的性格を持ちつづけていた。廃絶された播州赤穂の浅野家の遺臣たちが徳川幕府の重要幹部を襲撃して殺害し、そして、この事件が「忠臣蔵」となって美談として語り伝えられたことは、江戸時代にはまだ「家」こそが第一に忠誠を尽くすべき存在であると考えられていたことを証明している。もちろん、「日本」全体の秩序の管理者である徳川幕府体制の視点から見れば、浅野家の遺臣たちの行動は、体制の秩序を乱す集団テロであり、禁じられた私戦にすぎない。その徳川体制の論理を認めつつも、それでも浅野家の「家」への忠誠を優先する遺臣たちの行動を誉めたたえるのが「忠臣蔵」の立場だ。

 「日本」全体よりも大名の「家」こそがまず忠誠を捧げるべき対象であるという考えを破壊して成立したのが明治国家である。「日本」は19世紀も後半になってようやく「家」という小国家群を完全に制圧することに成功したのだ。

 明治国家の下では、「家」も「村」も「日本」国家を頂点とする体制によって再編された。「神」も国家神道というかたちで「日本」国家に強く結びつけられた。すべてを「日本」国家の管制の下に置く考えかたが、急いで整備された国家教育網を通じて日本臣民に徹底して叩きこまれた。『御先祖様万々歳!』第二話でタイムパトロール室戸文明が言うように、この時代以来、「家」は国家を支える底辺組織としてのみ機能することを国家から求められるようになる。

 この動きによって、「日本」こそが自分たちの属している基本的共同体であり、その「日本」こそがまず忠誠を捧げ、ばあいによっては命さえ捧げなければならない対象なのだという強い思いこみが「日本人」に共有されるようになった。それはたぶんやっと1880年代に入ってから(明治10年代も後半に入ってから)のことだっただろうと思う。

 つまり、自分がまず「日本」というまとまりに属しているという意識が、日本人の大多数にとって確かなものになったのは、たぶん19世紀の最後の20年間なのである。それは、「ご一新」や「文明開化」の熱狂のなか、近代的制度の確立とともに急速に推進された。江戸幕府が倒れて世のなかが浮かれた状態になっていたことと、その機会を逃さずに近代的制度の確立を計った政府指導者の行動と、その両方がなければこの変革はとても成功しなかっただろう。この「日本」意識は、人為的に、そしてそのぶん強烈に「日本人」の意識のなかに定着させられた。

 20世紀の初めには、すでに、「日本人」にとって自分が属している共同体とはまず「日本」であり、まず忠誠を捧げるべき対象は「日本」であるという意識は自明のものになっていたと考えていいだろう。もちろん個人ごとにその考えを見ればさまざまだろうが、少なくとも公の場でそのことを堂々と否定するのは相当に難しくなっていた。

 1880年代にそういう教育を受けた「日本人」が社会の中堅クラスを占めはじめた時代に起こったのが日露戦争である。



「日本人」としての自己認識

 だから、日露戦争のときの「日本人」が、漠然とした「昔から同じ日本列島に住んできた者」としての自己認識しか持っていなかったとは私には思えない。日露戦争の時代は、おそらく、明治以来の日本国家が作り出した「日本」像や「日本人」像をいちばんまじめに信じていた時代ではないかと思う。

 そして、そうだからこそ、押井守が日露戦争でその「日本」の歴史を中断させてみるという試みに、私は心を惹かれる。

 現実には、日露戦争に勝利した日本では、日本人たちが、「日本」や「日本人」という枠組みを自明のものとしながら、その内実を変えていこうという動きを示し始めた。「日本」や「日本人」を作り出す動きはそれで一段落し、その「日本」のなかみを変えていこうという動きが社会のいろいろなところから現れてきたのだ。

 その結果、それまでは制度上に植民地的な性格を残していた沖縄や北海道も「内地」と同じような地方となり、薩長藩閥は動揺し、政党が政治の主役の地位を占め、そしてやがて「大正デモクラシー」の時代を迎えることになる。藩閥との関係で権勢を誇っていた官僚たちが退場し、大学教育を受けたエリート官僚が行政の主導権を握る。軍隊でも同じだ。明治維新の戦争をともに戦ったという絆で結ばれた軍の最高指導者たちが退き、やはり士官学校で育成されたエリート軍人が軍の指導部を構成するようになる。

 明治の時期を通して日本の主導権を握った藩閥とは、明治維新に際して特定の立場に立ち、明治政府がきちんと自立するまで特定の立場から政府を支えつづけた人たちの集合体であった。しかし、日露戦争後の時代には、日本全国のどこの出身であっても、能力があったり、ある訓練を最後まで受け通したりした人たちが、日本の指導者層の地位に就くことができるようになった。日本の「民主化」はここから始まっている。政党指導者として爵位を持たずにはじめて内閣総理大臣になった原敬が、明治維新時代に「朝敵」だった東北地方の出身だったことは、その何よりの象徴である。

 しかし、そのために、「日本」は、どのような者でも受け入れることのできる器になってしまった。「日本とは何か」を切実に問わなければならない機会は次第に失われていった。

 つまり、日露戦争後の変革は、そのほとんどが「日本」や「日本人」という枠を自明のものとした変革だったということである。「大東亜共栄圏」の思想も「日本」や「日本人」という枠組みを揺るがせはせず、むしろその枠組みを前提としていた。そして、大変革であったように思われがちな占領下の戦後改革すら、やはり「日本」や「日本人」の枠組みそのものを大きく問い直しはしなかったのである。

 その果てに、押井が感じる日本の「自己認識」の空虚さが訪れる。

 日露戦争での敗北という設定を持ちこむことで、明治国家が必死になって作り出して「日本人」に教えこんだ「自己認識」が空虚になっていく過程の出発点を絶つことができる。それでいったいどうなるのか。それについて押井がどんな構想を出してくるのかが「PAX JAPONICA」を見る楽しみと言えるだろう。



日本近現代史解釈の違い

 私の解釈は押井の日本近現代史解釈とは相当に違っていると思う。

 だいいち、前回に掲載した部分で書いたように、私は日露戦争が「幸運にも」勝てた戦争だとは思っていない。あれほど勝てたのはたしかに幸運かも知れない。いちばん勝てているときに講和に持ちこめたのも幸運だろう。しかし、逆に大敗する可能性もそんなに大きくはなかったと思っている。むしろ、日本が日露戦争を機に列強諸国に分割占領されるというシナリオを描くほうが難しい(だいたい、分割するなら、中央政府が弱体化していた中国を列強は先に分割していただろう)。それが私の現時点での考えだ。

 また、私は、日露戦争当時の日本人は、「戦後」つまり第二次世界大戦後の私たちと、やはり相当に違っていたと思う。たしかに日本人の心性の底の部分が変わったとは思わない。だが、時代状況は大きく違う。日露戦争の時代といえば、封建時代の共同体社会が急速に大衆社会へと向かっていく時代である。「戦後」とは、大衆社会というあり方があたりまえのものとして定着し、それが滞り澱みきる時代である。その二つの時代で、日本人の心性の現れかたは相当に違っていると考えるのが、私は自然だと思う。

 私から見ると、押井守の「日本」観は、「戦後」の「日本」観に対して感じている押井自身のいらだちや不快感・違和感を20世紀前半までさかのぼらせて構成したもののように見える。

 もちろんそれでいい。私自身だって、この「PAX JAPONICAをめぐる冒険」で書いてきた私の歴史観が時代を超えて正しいものだとは少しも思っていない。私の歴史観は、私の育ってきた環境によって、また、私がその環境のなかで歴史を語るための素材にどのように触れてきたかによって、形づくられてきたものにすぎない。それは私が育ってきた時代の制約からも逃れることができない。ヘロドトスの歴史観だって、司馬遷の歴史観だって、ヘーゲルの歴史観だって、マルクスの歴史観だって、みんなそうなのだ。

 ある条件の下で形づくられた歴史観を持っている私が、それとは少し違う条件の下で形づくられた押井守の歴史観を評し、揚げ足をとり、そしてその押井の歴史観を弄んで楽しむ。それがこの「PAX JAPONICAをめぐる冒険」の趣旨だ。押井が今後も「PAX JAPONICA」企画を推し進めるならば私はずっとそうやってつき合っていくだろう。



「戦後」の民主主義は「押しつけ」ではない

 「最終回」の岸田秀との対談を読むと、押井は「戦後」の日本を特別にダメな国だと思っているように感じる。そして、その「ダメ」さの原点を、日露戦争で「幸運にも」勝ってしまったことに求めているようだ。

 だが、私には「戦後」日本が特別にダメな国だとは思えない。ダメかどうかはそのひとの価値観にもよるが、何より、私は「戦後」日本の歴史が何か「特別」なものとは思えないのである。

 戦勝国の体制や、自分の国を「解放」した国の体制を採り入れ、その国と同盟を結んだのは日本だけではない。東ヨーロッパの国はぜんぶそうだし、イランだってそうだ。軍事的に自立できず、「主権国家」とは思えないほど国家主権の行使を制約されたのも、別に日本だけではない。だいたい、「主権国家」という考えかたが国際的に成立して以後、ほんとうに十分な「国家主権」を持てた国がいくつあるというのか。その時代の覇権国と、せいぜい第二位・第三位の準覇権国ぐらいではないのか。憲法の平和主義だって、第二次世界大戦前からいちおうは言われていた国際ルールを明文化しただけである。

 日本は「戦争」に敗れたことでアメリカ合衆国の価値観を受け入れ、「民主主義」を何の疑いもなく導入したというのが、押井の認識のようだ。それを押井は日本の近代史に染みついた「機会主義」的な本質の現れと見ているのだろう。

 しかし私はそうは考えていない。

 押しつけられた民主主義ならばあんなにかんたんに根づくはずがないと思っている。何しろ、日本は、暫定何とか評議会なんかでっち上げなくても、占領下で政府を組織し、国会を開くことができたのだ。しかも、このとき、アメリカ合衆国の軍人を中心とする占領軍当局が、自分たちの気に入らない政治家を片端から「追放」して、国会や政府に出てこれないようにした。それにもかかわらず、それでも政府を担いうる人材は揃ったのである。「民主主義」政府の運営を担うことのできる人間がそれだけいたのだ。

 それは戦前から日本に「民主主義」があったからにほかならない。

 選挙権を持っているのは成年男子だけだったけれど、ともかく日本は敗戦の15年以上も前から普通選挙をやっていた。代議士が選挙区に中央から利益を持ってくることで票を獲得するという、現在まで続いている「利益誘導」政治も1910年代にはできあがっている。昔は選挙区に鉄道を引くのが選挙区に持っていく「利益」のなかみだった。いまではそれが新幹線や高速道路に進化しただけの話だ。1920年代には社会主義政党だって存在した。共産党は弾圧されたが、共産党と無関係の社会主義政党は活躍をつづけている。そして、その社会主義政党の存在なしには、第二次世界大戦期の戦時体制はあり得なかった。反共系の社会主義勢力と、軍や官僚組織内の「革新」勢力とが、その戦時体制への道を切り開いたのだから。

 もっといえば、1920年代の「民主主義」的な政治体制がなければ、第二次世界大戦期の戦時体制はなかった。日本の戦時体制を政治面から支えた大政翼賛会ですら、いちおうは選挙によって支えられていたのだ。もし「戦前」の日本に民主主義がなければ、たとえ第二次世界大戦期に戦時体制が実現していたとしても、それは、少なくとも、実現したものとは相当に違うものになっていたはずだ。

 「アメリカが日本に民主主義を押しつけた」と考えるなら、そう考えること自体でアメリカの術中にはまっている。事実として、日本の「戦後」の「民主主義」は、戦前の「民主主義」の残したものを、そのよくない面もひっくるめて受け継いできた。そう考えるのが正しいと私は思っている。



何が「機会主義」だったか

 ただし、である。

 「戦後」の現実ではなく、「戦後」の思想が、日本を特別な国にしてしまったのだ。日本の「戦後」的なものを支持しようとする人たちが、日本の「戦後民主主義」や「平和主義」を世界でも特別なものとして格付けしてしまったのである。

 なぜそうなってしまったかはここでは議論しない。現在のところ、それは「大東亜共栄圏」時代に日本を特別視した思考法が清算されないまま残ってしまったからだろうという見通しを私は持っている。しかし、この問題に答えを出すためには、もう少し私自身が材料を揃えなければならないだろう。

 ともかく、たとえば、「戦後」日本の民主主義者自身が、「戦後」日本の「民主主義」が「戦前」から受け継がれたことを認めようとしなかった。

 「戦後」日本の民主主義者たちは、冷戦体制に日本を組みこもうとしたアメリカ合衆国も、それに呼応して日本政府を運営しようとした日本の保守政治家も、どちらも民主主義的でないとして否定しようとした。そうする以上は、その保守政治家を生み出した「戦前」の体制も民主主義ではないことにしなければならない。「戦前」の日本には民主主義はなかったことになった。そして、そうしてしまった以上は、「アメリカが日本に民主主義を持ってきた」という虚構を肯定しなければならない。

 だが、アメリカはその保守政治家を支持している。それに対しては、「アメリカが持ってきたものかどうかに関係なく民主主義は正しいしすばらしい」と突っぱねることができる。しかし、その論理では「日本に民主主義をもたらしたのはアメリカだ」ということを否定することはできない。「アメリカは悪である」という認識と「日本に民主主義をもたらしたのはアメリカだ」という認識が共存することになってしまった。

 また、どのような思想であっても、その思想を実現させるためには戦略的な思考が必要だ。ところが、「戦後」日本の民主主義は、戦略的な思考を身につけようとしなかった。そればかりか、それを一方的に嫌悪した。妥協を嫌った。長い目で見て目的を達成するために一時的に原則を棚上げすることを「変節」として激しく憎んだ。そうすることで、「戦後」日本の民主主義は、じつはどんどんと内実を失っていったのである。

 刻々と変わる状況の下で、さまざまな別の思想と出会い、ぶつかり合いながら、思想はそれぞれの時代の状況の下で生き延びていく力を身につけることができる。それを拒否したことで、「戦後」日本の民主主義は内実を失っていった。たんに「戦前」的なものや「アメリカ」的なものを否定するだけの原理主義へと頽落していってしまったのだ。

 しかし原理主義的に生きるのは困難なことである。そこで、必要に迫られたときには、その原理とのすり合わせの過程を抜かして、選択を迫られるぎりぎりの段階になってから「現実」的な「妥協」を無条件に肯定することになる。

 アメリカ合衆国との安保条約には反対だが、安保条約を破壊するために暴力的な行動を起こすのも悪いことだから、しようがないではないか。

 じつは簡単なことなのだ。妥協を嫌悪しながら、その妥協に対して行動を起こさなければそれですむのだから。アメリカ合衆国との同盟を嫌悪し、それを批判しながら、日本がアメリカ合衆国の核戦力の威嚇効果を借りることで近隣の強国からの安全を確保しているという実態に対して、その実態を劇的に変えるための大きな行動を起こさない。そうしておけば、悪に加担しない立場を表明しながら、自分の身の安全も確保できる。

 そういう状況の下では、性急に行動を起こした人間がいちばんばかを見ることになる。

 こう書いてきて、私は「ああ、そうだったのか」と思いあたった。



行動してしまった人間としての押井守

 そうなのだ。押井守は行動してしまった人間なのだ。日米安保が大問題になっていた時期に、何を考えていたかは知らないけども、高校生だった押井守はともかく行動してしまったのである。それで押井守はばかを見たのだ。

 何をやったのか具体的には知らない。高校にバリケードを築こうとしたとか、ビラ撒きをやったとかいう話はきいたことがあるが、それ以上は知らない。知りたいとも思わないし、知る必要があるとも思わない。じつはそういう押井の経歴がぜんぶ嘘であったとしてもかまわないと思っている。押井が、かつての自分自身を、「戦後民主主義」を信じて行動して、その「戦後民主主義」に裏切られた高校生として演出しようとしているだけで、実際の押井の経歴はぜんぜん違ったとしても、べつにかまわない。

 ともかく、押井は、高校生のころに「戦後民主主義」に裏切られた人間として自分を規定している。そして、その裏切られたことへの仕返しが、この「PAX JAPONICA」なのだ。

 押井がその経験を作品に反映させることははじめてではない。『とどのつまり』や『紅い眼鏡』・『Stray Dog(ケルベロス地獄の番犬)』で、いや『うる星やつら 2 ビューティフル・ドリーマー』でも、押井は、バリケードの向こう側の世界を描き、また、自分の信じるものに忠実でありすぎて「歴史的必然」によって切り捨てられていった者たちを描いた。『天使のたまご』や『機動警察パトレイバー』もこの経験と無縁ではない。何かとてもたいせつなものを追い求め、また、守ろうとして、その「何か」のなかにはじつは何もなかったという結果にたどり着く。そこに、何かの思想のために自分のすべてを賭けて行動してばかを見た押井自身の経験の投影を見ることはできるだろう。

 押井はその経験をかんたんに解消してしまうことはしなかった。自分自身が悧巧になって、思想に忠実に行動に走る者を軽率だと笑う立場に立ちはしなかった。そういう時代だったのだと「時代」や「雰囲気」のせいにしてごまかすこともしなかった。当時の主張とはまったく違うことをふだんはやっておきながら、気分だけはいまも「反体制」側にいるつもりで、たまに当時の仲間が集うと当時の気分に戻ったつもりで気勢を上げて大騒ぎする(いるんだ、そういう困ったオジサンたちが……)などということも、たぶんしないだろう。

 押井は、その体験で感じたことをことばにして整理してしまうことも十分にしないまま、今日もなお抱えつづけている。



押井守の最後最大の戦い

 押井自身にそういうあり方を強いた状況との最後にして最大の最終決戦がこの「PAX JAPONICA」なのだ。

 だとしたら、私がいくら「戦後の民主主義は戦前の民主主義を受け継いでいて、アメリカが日本に民主主義を押しつけたということ自体が虚構なのではないか」と言ってみても、あまり意味がない。「戦後民主主義」の命じるままに行動して、けっきょく「戦後民主主義」から嘲笑とともに見捨てられた者としては、その「戦後民主主義」の示したどうしようもない機会主義こそが問題なのである。それ以外のことはどうでもいいのだ。その機会主義を増長させた決定的な契機が日露戦争に勝ってしまったことだと押井が考えるならば、私が「日露戦争に大敗するのもあまりありそうにない想定だ」と言っても意味はない。

 日露戦争に決定的に敗北し、列強に分割占領されて、それでも生来の機会主義を捨てなかった「日本人」がどうなるか。

 アメリカ合衆国に負けて民主主義を押しつけられたのではなく、覇権大国となって世界じゅうに何かを押しつけまくるしかなくなって、それでも生来の機会主義を捨てない「日本人」はどう生きるのか。

 とうぜん、そこでは「日米安保には反対だが、アメリカ合衆国の「核の傘」がもたらす平和はきっちり享受する」というかたちでの機会主義の現れは許されない。それでも「日本人」が生来の機会主義を捨てないとすれば、いったいその「日本人」はどういう生きかたをすればいいのか?

 押井守が描きたいのはたぶんそのことなのである。

 これまで、その「挫折」の経験をことばにして整理しないまま、それをいわばブラックボックスとして使うことで、押井守は作品を作ってきた。

 押井作品の「わかりにくさ」の一部は、その核心になる部分がことばや論理として整理されていないことから来ていたはずである。『紅い眼鏡』の紅一も『Stray Dog』の乾も、自分たちを死に追いやったものが何かを少しも暴露しないで死んでいく。それに対して、「この主人公は何で死んだんだ」ということの説明がつかないという印象が、「わかりにくさ」として残ったということはあるんじゃないだろうか。

 しかし、今回は、その「挫折」をもたらしたものとの全面対決だ。

 押井がどう戦いを挑むのか、注目していたいと思う。

 そして、私にとっては、押井のその戦いは、しょせんは他人ごとである。というより、私がいい加減な気もちで参加できるようななま易しいものではないはずだ。

 だったら、私は、他人ごととしてこの企画を楽しんでいくことにしたい。ここまでもそうやって楽しんできたわけだし、これからもそうしていくしかないだろう。

 私自身は「戦後民主主義」批判には慎重でいたいと思っている。とくに、その「戦後民主主義」がこれだけ綻びを見せてきた時代に、勝ち誇って「戦後民主主義」を攻撃して傷つけたってしかたないと思っている。思想とは不完全なものであり、現実に関わりを持ってしまった思想は綻びだらけになるのは当然だ。「戦後民主主義」がこれだけ綻びを見せているのは、「戦後民主主義」がそれだけ現実に関わるようになったからで、それは「戦後民主主義」にとってけっして悪いことじゃない。

 そういう思想の綻びばかりつついて崩壊させてしまっても、新しく社会を支える立派な思想が生まれてくるわけでもない。社会を支える新しい思想を生み出さないまま、現在の思想を破壊することばかりに血眼になっても、その結果として得られるものは単なる混乱だけだろう。それは中国が1960〜70年代に「文化大革命」として経験した悲惨な過程にほかならない。

 少なくとも、私は、「戦後民主主義」が私に与えてくれたものを逆さに構えて「戦後民主主義」自体を攻撃するということには慎重でいたい。

 けれども、それは「戦後民主主義」に安穏と育んでもらった私の話である。「戦後民主主義」に非情な裏切られかたをした押井には、「戦後民主主義」を攻撃するだけの理由があると私は思う。

 だから、私は押井の「戦後民主主義」攻撃にいっしょになって加わることはしないつもりだ。押井が「戦後民主主義」相手に孤軍奮闘する姿を傍観して楽しむだけである。また、たぶん押井が「読者」に望んでいるのもそういうことなんだろう、と、手前勝手な推測を交えつつ、私のこの文章もここでいったん終わることにしたい。


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関連アーティクル

北京で押井守について考えたこと(清瀬 六朗)

映画評:押井守ナイトショウ(テアトル池袋 2003年2月15日)

オンライン同人誌WWF(押井守関係コンテンツリスト)


ガブリエルの憂鬱 〜 押井守公式サイト 〜

野田真外さんのサイト「方舟」