PAX JAPONICAをめぐる冒険

清瀬 六朗





2.日露戦争に負けた日本

 「PAX JAPONICA」の第二回が掲載されている、巨大な「ふろく」のついた『ニュータイプ』誌を買ってきた。買った店はゲーマーズ本店一号店だが、そのことは今回の論旨にはまったく関係がない。

 アニメ誌の番組改編期の号などほんとうに久しぶりに買った。ページをめくってみて、いまの日本で放映されているアニメの数の多さに圧倒された。しかも、この本数は、状況が大きく変わらなければこれとそう変わらない水準で定着するのだろうか。少なくとも劇的なバブル大崩壊はしばらくは起こりそうにないように思う。私がいま放映中の作品を何本か見た印象では、個人的に好きになれない作品はあっても、どれもともかくも一定以上の水準を保っているようだ。

 でも、作り手のほうは先端産業の従業員にふさわしい生活水準が保てているのだろうか? まあ、『女工哀史』の時代から、日本の先端産業は従業員の厳しい労働と豊かでない生活の上に成り立ってきたという事実はあるわけだが。

 おっと、そういう話をする場ではなかった。



日本が日露戦争に負けていたら

 連載第二回を読むと、前回、私があれこれ可能性を推測したうちの「日露戦争に日本が負けていたら」という想定が押井さんの構想にあたっていたようである。

 ただ、私はこの可能性はあまりないと書いてしまった。ちょっとばつが悪い。そのあたりの弁明をまず今回のとっかかりにしたい。

 日露戦争では、日本はたしかに幸運な勝ちかたはしている。戦争を続けられそうもなくなったときに、アメリカ合衆国のセオドア・ローズヴェルト(ルーズベルト)政権の仲介で日本は有利な条件でロシアと講和を結ぶことができた。もっとも、これはただの幸運ではなく、日本政府がロシアとの講和条件を有利に締結できるよう懸命に奔走した結果である。

 また、日露戦争で日本が「幸運な勝ちかた」をしたもう一つの局面は日本海海戦だろう。

 日本海軍はそれまでに旅順口やウラジオストックの艦隊と戦って傷ついていた。そこに、日本海軍の総力にも匹敵する勢力を誇るバルチック艦隊(第二太平洋艦隊を主力とし、その他の艦隊を加えて編成されていた)がはるばるバルト海と黒海から回航してきたのである。

 このバルチック艦隊をウラジオストックに入港させてしまえば、日本の制海権は危機にさらされる。そこで、日本の連合艦隊(当時の文字では「聯合艦隊」)はそのバルチック艦隊を迎撃することになった。しかし、バルチック艦隊の進路がわからない。

 けっきょく、バルチック艦隊は対馬海峡を北上しようとし、そこで連合艦隊に捕捉されて撃滅された。だが、バルチック艦隊の進路と連合艦隊の進路が食い違っていれば取り逃がしてしまう可能性もあったのだ。バルチック艦隊を発見して、まだ実用化されたばかりの無線通信で報告したのは特設巡洋艦(商船を徴用して兵装を施し、巡洋艦として使用したもの)の信濃丸である。この船がバルチック艦隊を発見できていなかったら、あるいは、発見していても無線がちゃんと届かなかったら、連合艦隊はバルチック艦隊を取り逃がしていた可能性がある。もっと無線技術が確立していたはずの1944(昭和19)年の捷一号作戦でも、日本の帝国海軍は無線通信が届かなかったために合衆国海軍に大敗している。

 さらに、もしバルチック艦隊に遭遇していても、砲撃戦で敗れていた可能性もある。

 この海戦では、東郷平八郎提督が有名な「T(丁)字戦法」をとってロシア艦隊に砲火を集中して勝ちを収めた。当時の戦術では先頭の戦艦に指揮官が乗って全艦隊を指揮していたから、先頭の戦艦が相手の集中砲火で戦力を失うと艦隊の指揮は乱れてしまう。また、日本艦隊のほうが速力が速く、敗勢に追いこまれたロシアの主力艦隊が逃げることを許さなかった。

 全体にこの戦いではバルチック艦隊のほうが士気が低かった。一部の艦を除いてスエズ運河を通らずにアフリカの南を回ってきたため、ロシア将兵は慣れない熱帯の海を長い時間をかけて航行してこなければならなかった。そのうえイギリスが日本の同盟国である。バルト海から大西洋に出る途中ではイギリス本国の目と鼻の先を通るわけだし、インド洋に出たらこんどはインドからマレー半島にかけてがイギリスの勢力範囲だ。いちおうフランスがロシアの同盟国で、フランスが便宜を与えてくれるはずなのだが、イギリスの圧力で全面的支援は得られない。それで日本周辺に到達したときにはもうみんな疲れ切っていたわけだ。なお、このバルチック艦隊の航海の実情はノビコフ・プリボイの『ツシマ――バルチック艦隊の潰滅』(上脇進(訳)、原書房)がよく伝えている。ここで書いていることも、じつは、ずっと以前に読んだこの本の記憶に基づいている。

 この疲れ切ったバルチック艦隊に対して、日本の連合艦隊は、旅順口やウラジオストックの艦隊との戦いが一段落してからずっと自分の国で待ちかまえていた。しかも、ここでバルチック艦隊を通してしまうと国の存亡にかかわるとわかっていたから士気が旺盛だった。

 この士気の差が連合艦隊の勝利の大きな鍵となったのである。

 だから、この条件のままだと、遭遇したばあいにはやはり日本側が有利である。しかし、ロシア側が本気で戦う気になっていて、巧妙な戦術をとったとしたら、ロシア側が優勢な火力で連合艦隊を撃破していた可能性もある。撃破していなくても、逃げ切ってウラジオストックに入港し、日本海を挟んで連合艦隊に制海権をかけた持久戦を強いていた可能性もある。

 ただ、ロシア艦隊がイギリスの制海権の下を長々と航行してきて、それでも士気が高いというのはあまり考えられないので、国際関係をいじって、たとえばイギリスがロシアを全面援助しているというような想定を導入する必要がある。

 で、イギリスとロシアがそうかんたんに手を結んだかというと、そうはいかなさそうだ。アジアではロシアがシベリアから中央アジアや中国や朝鮮半島に南下政策をとり、イギリスがインドを拠点にペルシア(現イラン)・ビルマ(現ミャンマー)・マレーを押さえて北上政策をとっていたというライバル関係があるからだ。

 けれども、たとえば、当時、ヨーロッパで、現実よりも急速にドイツの強国化が進んでいて、イギリス、フランス、ロシアが「ドイツの脅威」におびえていたとするとどうだろうか。イギリスにとっては遠くのアジアよりもまず近くのヨーロッパである。ドイツの脅威におびえたとすると、イギリスはアジアでのライバル関係なんか捨ててロシアやフランスと手を結んだかも知れない。そうなると日本が孤立する。

 では、そうなる可能性はゼロだったかというと、そうでもない。現実には、イギリス、フランス、ロシアがドイツの脅威に対して手を結ぶという事態は日露戦争後に起こった。そのために日本もイギリス、フランス、ロシアの側に加わることができ、その結果、第一次世界大戦でも「勝ち組」の一員になることができたのだ。このドイツの強国化がもう5年だけ早ければ、日本海海戦での日本敗北の条件を整えることはできないこともない。



日本分割占領の可能性

 ただ、ロシアが優勢に立ったとして、日本が占領されるところまで行っていたかというと、これはあまり可能性がない。

 まず、日本のほうも国力が尽きかけていたけれども、ロシアのほうも同じだった。しかも、日本は国民が戦争を支持していたが、ロシアではそうでもなかった。皇帝専制政府への不満が厭戦気分と結びつきかねない状況があった。その民衆の不満は実際に「血の日曜日事件」というかたちで政府との衝突を引き起こしたのである。

 したがって、日本が戦争継続力を失って不利に追いこまれていても、ロシアのほうも日本に派兵して占領するところまで戦争を続けられたかというと、やはり疑問だ。現実よりも不利な条件で日本が講和に応じざるをえなかった程度で止まっていた可能性が大きいと思う。

 だいいち、日露戦争は、満洲(中国の一部としては東北)の覇権をめぐって起こった戦争である。1900年の「義和団戦争」のときに日本とともに北中国に派兵したロシアは、この中国との戦争が終わったあとも満洲を占領しつづけ、韓国(大韓帝国)にも大きな影響力を行使しつづけた。日本はその満洲の覇権をめぐって戦争を挑んだのである。

 したがって、ロシアが優勢に立ったとしても、まず満洲の覇権を固め、次に韓国への影響力を確立し(現実には日本が韓国と第一次〜第二次日韓協約を締結し、保護権を確立した)、日本まで攻めてくるのはそのあとになる。しかも、わざわざ海を渡って日本に来るぐらいなら、先に北京に向かって中国権益の確立を急ぐほうを選択したであろう。日本まで来るとしたらそのあとである。

 現実に日本が韓国併合にこぎ着けるのが日露戦争講和から5年経った1910年だから、ロシアが勝っていても、ロシアが韓国(当時の大韓帝国)を支配下に置くのはやはりそれぐらいの時期になっただろう。そうすると、日本を攻撃している余裕も十分にとれないままに1914年に第一次世界大戦が始まってしまう。どうも、ロシアが優勢に進めていても、ロシアが日本を占領している時間的余裕はありそうにない。前回、日露戦争が契機になるのはあまり可能性が高くないと書いたのはそういうことを考えたからである。

 ただ、日本を占領するのがロシアに限らないと想定すればどうだろうか?

 ロシアに対する戦争が長引いて日本の国家財政が底をつき、イギリスやアメリカ合衆国やフランスから大量の借款を借りまくったあげく破綻してしまうようなばあいである。このばあい、たとえば借款の担保として日本の国土が保証占領され、そのまま占領が長期化してしまうということも考えられる。

 けれども、同じように国家財政が破綻状態であった中国に対しても、イギリスは大量の借款を与えながら、中国を大規模に植民地化することはしていない。香港を植民地として持っていた以外には、拠点となる都市に「租界」を設定して拠点にしたり、鉄道収入を担保として押さえたりしただけである。イギリス本国から遠い東アジアでは、イギリスは、拠点を確保し、経済的利益を上げられるところを個別に押さえていき、面としての植民地支配は展開していない。

 だから、先のように、日本が莫大な借款を抱えて破綻したとしても、列強は、日本を分割してしまうところまで行ったとはあまり考えられない。たとえば東京や横浜や神戸に租界を開いたり、鉄道の運賃収入を差し押さえたりしたかも知れないけれど、それで経済的利益を手にすれば満足したのではないだろうか。しかも、やはり1914年に第一次世界大戦が始まるまでに分割を終えてしまわなければならないという時間制限がある。第一次大戦後の欧米列強は植民地を積極的に拡大する余力は持っていない。その余力を持っていた国があったとしたら、アメリカ合衆国と、当の日本だけである。

 そのアメリカ合衆国が日露戦争期に日本を占領していたら、と考えることもできなくはない。フィリピンと日本を入れ替えればいいのだ。現実にはアメリカは20世紀初めにフィリピンを植民地化した。そのときにアメリカがフィリピンではなく日本を植民地化していれば、という想定である。そうすれば、日本は現実よりも40年早く米軍の支配を経験していたことになる。この想定によれば、第二次大戦末期には、マッカーサーが日本を拠点にフィリピンに上陸を果たすというようなことが起こるのかも知れない。

 ただ、これは可能性としてはほとんど考えられないと思う。アメリカがフィリピンを支配したのはスペインとの戦争の結果である。大西洋方面の戦争、いや、アメリカ大陸の覇権争いが起こり、フィリピンがたまたまスペイン領だったためにフィリピンがアメリカ領になってしまっただけだ。前段階で日本がスペイン領にされていたという想定を置くならばともかく(この想定を置くならば戦国時代までさかのぼるシナリオを採用しなければならない)、そうでないならばこの可能性はほとんどない。

 でも、ここでは、強いて、列強が日本を分割占領しなければならなかったような要因を考えてみよう。



「アジアの解放者」としてのドイツ

 日露戦争期の欧米列強を考えたばあい、日本を強いて分割占領しなければならない要因はほとんどない。占領したり植民地支配したりするにはコストがかかる。欧米から遠い東アジアでそれだけのコストを払って植民地支配するメリットはあまりありそうもない。むしろ、弱体化した政府に借款を供与してその見返りに経済的利権をむさぼり、租界のようなかたちで都市部のおいしいところだけ支配権を切り取ろうとするだろう。

 そこに強いてそれだけのコストを払ってでも日本を分割占領しなければならない状況を作り出すのである。

 19世紀後半の帝国主義全盛時代ならばともかく、その時期をやや過ぎた日露戦争の時期を考えたばあい、どういうばあいに列強は大きなコストを払ってでも支配権を確立しようとしただろうか?

 その支配を確立していないとしたら、支配のコストを上回るような大きな損失をこうむるようなばあいである。ではそれはどういうばあいだろうか?

 アメリカ合衆国はともかく、当時のイギリスとフランスを考えたばあい、その最大の脅威はやはりドイツである。もし日本を占領しなければドイツの脅威に対抗できないと考えたばあい、イギリスやフランスは無理をしてでも日本占領に乗り出すかも知れない。

 そこで、あの「日本海海戦に日本が敗れる条件」のところで構想した、ドイツの強国化がもう少し早ければ、という想定をここにつなげてくることができる。しかし、アジア情勢と「ドイツの脅威」をなんとか結びつけることができるだろうか?

 やってやれないことはない。

 その後に起こった第一次世界大戦で、ドイツは現実にオスマン帝国と同盟している。

 このオスマン帝国は、直接にはいまのトルコの前身だが、支配範囲はイランとエジプトを除く中東全域にまで及んでいた。イギリスとフランスが戦勝国になってトルコ以外の中東地域をオスマン帝国から切り離したときに、イギリスがイラクという国をでっち上げ、ついでにパレスチナでアラブ人にもユダヤ人にも調子のいい約束をしてしまった(いわゆるイギリスの「三枚舌外交」)。その結果、2003年になってあんなことになっているのである。困ったことだ……ではすまない。だからって戦争して最終的に解決っていうのもなかなか難しいだろう。もういちど帝国主義に戻って「この国はもういちど戦後からやり直すことになるのさ」とでも嘯くのだろうか? ただし、第一次大戦の「戦後」から、である。

 後の話はいいとしよう。で、このオスマン帝国は、19世紀にはフランスやドイツやロシアにいいように翻弄されてきた。その結果、そのヨーロッパ列強への対抗策として、オスマン帝国はアジア各地に散らばるトルコ系民族やイスラム教徒を糾合しようという動きを示し始めた。

 実際にはこの動きはさしたる成果も挙げないままに第一次世界大戦に突入し、オスマンは惨めな敗戦国になってしまう。だいいち、オスマン帝国の下でのイスラム教徒の連帯を呼びかけたところで、メッカとメディナを擁するアラブ人が応じるはずがない。アラブ人にとってはイスラム世界の中心は自分たちであり、トルコ人のオスマンなんかに主導権をとらせようなどと思うはずがないからだ。さらに、アラブの向こうには、オスマンと長いあいだライバル関係にあり、宗派的にもオスマンと対立するペルシア(現在のイラン)が控えている。

 だが、ここでその問題も解決したとして、このオスマンの「アジアの連帯の中心」構想もうまく進展していたとしよう。その上で、かなり強引で大がかりな設定として、オスマンとアラブ人勢力・ペルシアとのあいだで妥協が成立し、その上で「アジアの解放者」の声のもとにインドやインドネシア(当時のオランダ領東インド)のイスラム教徒の独立運動を組織しはじめていることにする。イスラムだけではなく、他のアジアの宗教も、反イギリス、反フランス、反オランダなどの旗印の下に糾合する。

 そのオスマンと、現実よりも早く強国化を果たしたドイツが同盟を結ぶ。ドイツはアジアにはほとんど植民地を持っていないから好都合だ。その結果、ドイツが「アジアの解放者」としてアジア大陸に急速に影響力を広めてくる。中国と韓国がこの「ドイツのアジア同盟」に加わったとしたら、対ドイツという観点から日本の重要性は急速に高まってくる。

 ただ、やっぱり中国は国内にイスラム教徒民族を少数民族として抱えているわけだし、中国の西でトルコ系民族の大団結が成功したりするとそれは中国には脅威になる。だから、ドイツ・オスマン連合に中国が乗る可能性がまた小さい。ここでは、たとえば、イギリスとロシアの勢力拡張で国土が蚕食されることに耐えられなくなった中国がドイツ・オスマン連合に助けを求めるという構図になるのだろう。ペルシアにも同じ構図を想定することになりそうだ。アラブはその一角であるエジプトをイギリスに占領されている。そのイギリス勢力がアラブに進出してメッカ・メディナまで占領することを恐れて、アラブはドイツ・オスマン側につく。全体として、イギリスとロシアの脅威を強調すれば、ドイツを中心とするアジア諸国・諸民族の「大同団結」は実現しやすい。

 もっとも、イギリスは、植民地帝国を拡張する過程で、そういうことが起こらないように、王朝から地方政権まで、地元の有力者を懐柔しながら味方につけて行った。だから、このドイツ・オスマン連合によるアジア大陸制覇という想定が成功するには、イギリスが現実よりもかなり拙劣な植民地支配をしていたことも条件になってしまう。

 でも、ここはもう覚悟を決めて押井さんの「妄想」に張り合えるだけの都合のいい設定を考えてみることにしよう。ドイツとオスマンの影響力がアジア大陸を横断して韓国(朝鮮半島)まで及び、インドでもインドネシアでもドイツ・オスマン勢力に呼応する反乱が勃発している。そうなったときには、アジアでのドイツ・オスマン勢力を封じるために、日本は大きな重要性を帯びてくるはずだ。

 こういう条件下で日本が借款漬けで破綻していたら、イギリスもフランスも、もしかするとアメリカ合衆国も日本に支配を確立しようとするだろう。対抗して、ドイツ側も日本のどこかに拠点を獲得しようとするかも知れない。こうなれば、押井さんの想定している「日本分割」もあり得る。

 ……というより、ここまで無茶な設定を重ねないと、日露戦争後の日本が分割占領されるという事態はあまり起きそうにない。

 でも、この設定だと、日本を舞台にドイツ・ロシア・イギリスの戦車戦が描けたりするかも知れないので、戦車マニアの押井さんには好都合かも知れない。それとも、『アヴァロン』で戦車を描いてしまったから、もう戦車はいいのかな?

 ついでに、この段階でここまで無理を重ねれば、欧米列強諸国は大いに国力を消耗するだろう。だから、押井さんの「日本以外の列強が共倒れする」という想定にも近づくことになるかも知れない。



海軍覇権国としての日本

 しかも、押井さんは海軍力で覇権を保持するということを考えている。しかも海軍航空兵力でである。私なんかは、巡洋戦艦好きなので、どうせだったら航空兵力の発達も抑えて中口径の艦砲と快速力で、という話のほうが好きになれそうだ。しかし、押井さんは『ビューティフル・ドリーマー』で立ち食いそば屋の地下からハリアー飛ばしたような人だから、やはり航空兵力のほうが好みにかなっているのだろう。

 航空兵力の出現で、戦艦や巡洋戦艦はもちろん、巡洋艦から駆逐艦に至るまで、第一次大戦時の艦艇体系は完全になくなってしまった。大艦巨砲も必要なければ、30ノットを超える高速力も航空機が相手ではむだになってしまった。いま生き延びているのは、第一次世界大戦の時期以後に発達した航空母艦と潜水艦である。あとは、速力と砲の口径だけ見れば、速力が20ノット台、3インチ(7.6センチ)単装砲装備という、第二次世界大戦期の艦艇体系のなかでは二流以下の扱いしか受けなかったであろう護衛艦艇がいまは幅をきかせている。艦隊決戦を前提に組み立てられていた海軍の体系が消滅し、対空戦闘と対陸上戦闘を想定した体系に移っているからだ。

 宮崎駿なら、断然、大艦巨砲主義時代のほうを採るのだろう。それにしても、『千と千尋の神隠し』でアカデミー賞なんか取ってしまったからには、宮崎さんもミリタリードタバタ漫画映画なんかもう絶対に撮れないだろうな〜。

 たぶん、押井さんのばあいには、やはりこの新しいほうの海軍思想に基づいた海軍を覇権国の源泉として想定するのだろう。空母も、三段甲板で石炭を焚いていた時代の加賀なんかではなくて、いまニュース映像でよく目にする斜め向き甲板つきの現代空母で、ジェット軍用機を積んでいるのだろう。

 ただし、「PAX JAPONICA」ではミサイルは存在しないという想定である。したがって、護衛はミサイル巡洋艦などではなく、ある程度の口径の砲を装備した巡洋艦と護衛艦ということになる。誘導装置のついていないロケット兵器はあるかも知れない。しかし現実よりも砲の重要性は高いはずだ。レーダーは存在するだろう。けれども、コンピューター技術が発達していればミサイル誘導技術が可能になってしまうから、コンピューター技術の発達段階も低いことにしなければならない。したがってイージスシステムなどは存在しない。情報通信技術を軍事技術に組みこんだ「RMA」なんて夢の話だろう(ちなみに『世界の艦船』2003年4月号に岡部いさくさんが「RMA」について総論的な解説記事を書いています)。宇宙ロケットがあればその技術で弾道ミサイルが作れてしまうから、宇宙ロケットもないことにしなければならない。したがって、人類は月はもちろん宇宙に出てもいないし、人工衛星も存在しない。したがって衛星を偵察に利用することもできない。

 『アヴァロン』の小説版(「灰色の貴婦人」)などを見ても、押井守はあまり自動化の進んだ兵器は好きではないらしい。だから、兵器は、給弾機構などが自動化はされていても、最後には人間が照準して発射する兵器ということになりそうだ。

 そうなると、「ピンポイント爆撃」なんて器用なことはできないから、空爆で効果を挙げるには「一般市民」は巻きこまざるを得なくなる。誘導弾ができていない以上、情報通信技術の発達も低いはずだから、敵の支配下の状況もあまり的確に把握できない。空爆するならば、敵の拠点のありそうなところは軒並み爆撃するしかない。したがって、こういう状況下での覇権国は、現在の現実の覇権国以上に風当たりが強くなってしまう。

 その風当たりに抗して覇権国でいられるということは、相当に強い兵力を持っていなければならない。そうなると、第一次世界大戦当時にイギリスがやっていたような「世界第二位と世界第三位の海軍力を合わせても自国の海軍力には勝てない」というような海軍力整備計画を持たなければならない。当時のイギリスは戦艦と巡洋戦艦(装甲巡洋艦)の兵力量でそれを計ったわけだが、押井守の「PAX JAPONICA」世界ではたぶん空母と艦載機がその基準になるのだろう。

 その大艦隊を支えるには莫大な予算が必要である。その莫大な予算を支える国富は重商主義政策で確保するというのが押井さんの構想のようだ。覇権大国だった時期のイギリスをモデルにしているのだろう。

 ただ、こう構想したばあい、気質的におよそ覇権国の国民性に適しない日本を覇権国家にしてみるという構想がどうなるのかが、気になるといえば気になる。

 日本が「重商主義の海軍国」になるという発想を採れば、日本の国民性が変わってしまいそうな気がするのだ。

 日本は、日本海海戦から第二次世界大戦まで、海軍を徹底して艦隊決戦のために運用しようとした。だから、海上護衛という発想がほとんどなかった。日本の海上補給線が危機にさらされている1945(昭和20)年に入っても、海上護衛に重油を回すより戦艦大和の海上特攻に貴重な油を注ぎこんでしまうようなことをしているのだ。日本は戦争遂行のために資源を効率的に配分するということが敗戦までできず、そのためにさらに資源面で苦しくなっていったのである。

 戦後の日本は、政府の保護のもとで海外に製品を売りさばいて経済大国に成長した。重商主義と言えるかも知れない。ただ、やっぱりその商業を海軍力で護衛するという発想はなかった。

 そういう気質を持った国が、重商主義で海軍国でもあるということができるのだろうか。イギリスは第二次世界大戦の当初から船団護衛に力を注いでいた。海軍力で通商を護衛するという気質が染みついていたのだ。重商主義で成功するためには、やはり海軍力で通商を護衛するという商業・貿易重視の発想が自然に身についていなければならないと思う。ところが、それが身につけば、押井さんが「手際が悪い」としている日本の国民性が変わってしまう可能性がある。少なくとも軍の気質は変わる。それでは企画意図からしてこの「PAX JAPONICA」企画は意味がなくなる。

 それを避けるためには、ともかく覇権国が軍事力でも財力でも技術力でもずば抜けていて、国際的な信用はゼロでも他の国は覇権国に依存せざるを得ないような状況を想定することになるだろう。

 現在のアメリカ合衆国のように、世界にドルを通用させるためにあえて対外赤字でドルをあふれ出させるなどというのではとてもだめだ。第二次世界大戦直後のアメリカがそうだったように、金本位制を前提に、世界の金地金を覇権国が独占し、その財力を見せつけることで経済的覇権も握る。

 不器用で、受動的で、情緒的な国民性を持つ国が覇権国になるとしたら、当然、自分の国が持っている資源を器用に配置することなどぜんぜんできない。現に太平洋戦争ではそれができなかった。現在の経済政策のもたつき具合を見てもそういう面で日本政治の性格が大きく変わったとは言えなさそうである。

 だから、それだけ不器用でも覇権を支えられるだけの隔絶した力をその覇権国は持たなければならない。つまり、「PAX JAPONICA」の日本は、軍事力でも財力でも技術力でも、現在のアメリカ合衆国はもちろん、全盛期の大英帝国も上回る隔絶した優位を保っているはずである。そして、たぶん、いまのアメリカ合衆国以上に憎悪を向けられている。

 しかも、たぶん、その覇権国日本の日本人は、自分たちがそんな力の優位を持っていることに気づいていない。日本の優位性は道徳性の高さとか勤勉さとか思いやりの精神とかから来ていると信じていることだろう。



戦争を仮想することの不謹慎さ

 ここまで書いてきて、架空の歴史を考えるのは楽しいということを感じた。

 ひとつ過程を変えてみれば、ほかのいろんな過程も変わらざるを得なくなる。また、ひとつの過程を変えてみたら、別の過程も変えてみればどうなるだろうという興味を引き起こされる。

 とくに、この「PAX JAPONICA」のばあい、かなり無理をしないと想定に合った方向に話が進んでいかない。その無理を正当化するためにさらに無理な設定を仮想する。そうしていると、いつの間にかいかにもそういうことがあってもよさそうな気分になってしまう。

 いろいろな条件を仮想しながら歴史を動かすというのは楽しいことなのだ。

 たぶん、人間の支配欲というのはそこに根ざしているのだろう。というより、人間の支配欲がそういうかたちで現れているのかも知れない。

 人間は、自分の身体を自分の思い通り動かせるということを暗黙の前提として、他人の身体や、その他人の集合体である世間とか世界とかを自分の思い通りに動かせるかどうかということを試してみたくなる。そしてそれが自分の思い通りに動いたときには快感を覚える。しかも、自分の力で動かしたのではなくても、自分の思い通りになれば快感を感じるようになっていく。それは人間の多くの行動の原動力になっている欲望ではないだろうか。それがどういうふうに現れるかは育てられる過程で身につけさせられることかも知れないが、その根源にある欲求は人間の本質的なものだと思う。

 架空の歴史を考えること、とくに架空の戦争の歴史を考えることのもたらす快感はそこに根ざしたものなのだろう。

 さらに、そこには「架空」であるゆえの身軽さがついてくる。

 現実に人間が支配欲を発揮しようとすれば、社会とか国家とかはもちろん、家庭内でもいざこざが発生しかねない。だから人間の支配欲の発揮は他の人間との関係のなかで常に強く抑制されてしまう。他の人間を支配したいというのがその支配欲であるのだが、その他人のほうも同じように支配欲を持っているから、それが自分の支配欲の発揮を妨げてしまう。

 だが、架空ならば、相手がいないわけだから、どんなにでも支配欲を充足させられるような想定が可能になっていく。しかも、兵器を主体に戦争を描くばあい、人間はその兵器の付属品としてしか登場させないで描くことができる。これは大づかみな歴史を描くときも同じで、「アメリカが」とか「イギリスが」とか言っているかぎり、人間はそのアメリカとかイギリスとかいう国の意思のままに動く存在として描いても描けてしまう。自分の支配欲を妨げられずに「妄想」を展開することができるのが、架空戦記とか、架空国際政治史とかいう世界である。

 もう一つ、架空で戦争や国際政治を考えるばあい、素材をぜんぶ自前で用意しなくていいという楽さがある。世界自体を最初から構成してしまったばあい、それを設定するという作業が必要になる。それはけっこう面倒なことだ。その世界といま私たちが現実にいる世界との関連というのも、「パラレルワールド」という便利な言い抜けのしかたはあるけれど、いちおう考えておかないといけない。さらにその世界のなかでその場の都合に合わせて作った設定があとで矛盾したりする。こういうのが好きな人はいいんだろうけど、それが煩わしい人にとっては、すでに現実世界に素材が十分すぎるほど用意されている戦争や国際政治はとてもよい題材だ。

 日本の架空戦記のばあいには、さらに、それに日本が現実には太平洋戦争で敗れたことのもたらす挫折感とか、軍や戦争に関わることが日常の領域からほぼ完全に隠されていることから来る「戦争を考えることの気楽さ」が加わるのだろう。

 さらに、日本の帝国海軍に関していえば、アメリカのように効率性を重視して同じ兵器を大量生産して大量に使うということをしなかった。じつに細かく用途を決めていろいろな艦艇や兵器を生産した。潜水艦など、艦隊決戦用の巡洋潜水艦を三種類も造り、爆撃機搭載用の大型潜水艦も造り、そのうえ一世代前の「海大型」も持っていたし、機雷敷設潜水艦も持っていた。魚雷も何種類も持っていて、しかも同じ口径の魚雷でも種類によって搭載できる艦が違っていたりした。この兵器体系の複雑さがけっきょく太平洋戦争での帝国海軍の戦争遂行の足を引っぱる結果となってしまった。だが、マニアの目から見ればほんとうに興味が尽きない。マニアに対しては実にユーザーフレンドリーな海軍だったのである。現実には戦況の展開によって開発意図どおりに活用できなかった艦艇や兵器が、その能力を存分に発揮させられる状況で戦えたならばどうだったか。そこからいくらでも妄想が膨らむ。まあ、そういうこまごまとした体系の隅々まで気を配って最高の製品を仕上げていくという気質が、敗戦後の日本を「プロジェクトX」の国として再生させる原動力になったわけだけれども。

 「航空戦艦」など、実際は戦艦の空母への改造ができなかったのでやむなく戦艦部分を空母部分と併存させただけの妥協の産物で、しかも改造が完成したときには搭載機がなくて、けっきょく捷一号作戦(フィリピン沖海戦)では空母の護衛艦として戦闘して終わってしまった。だが、この航空戦艦が、航空攻撃でも活躍し、しかも戦艦として戦っていればと考えてみる。実際にそうならなかっただけに、逆に「もしそうなっていたら」という妄想は膨らませることはできる。まあ、それでも、最新鋭で高速のアイオワ級戦艦を擁するハルゼー機動部隊に劣速で14インチ砲しか持っていない伊勢・日向で立ち向かっても、勝てる確率は相当に低かったと思うけどね。

 仮想の戦争を考えることには不謹慎な面がつきまとう。

 それは、戦争を仮想することが、人間の支配欲に基づく想像力を何の制限もなしに解放するからである。本来はそれは他の人間の存在によって強く抑制されているはずのものだ。しかも、それが、他の人間にまったく関わりのない空想世界に向かって解放されるならばいい。「トランスバール」という惑星が実際に存在しない以上、物語のなかで「トランスバール」星の住人の半分が事件や事故で死ぬことにしてしまっても、それはその物語のなかだけの話に終わる。

 ところが、現実世界を素材にする以上、その素材にされる場所には人間がいる。しかも、想定しているのが戦争だったり植民地支配だったりで、生死を含む人の生きかたに影響するのだ。実際に自分が死ぬのでなくても、その物語が現実のものになっていれば自分は死んでいたかも知れないし、自分は生まれていなかったかも知れない。そういう想定を愉快に感じることはできない。

 アメリカ人が「もし日本に百発原爆を落としていたら」という想定で、しかもアメリカにばかり都合のいい架空の戦争像を描いたとすれば、日本人の多くは不愉快に感じるだろう。戦争を仮想することには常にこの問題がつきまとう。押井さんは「PAX JAPONICA」の企画では中国が8つぐらいに分割されているという想定をしているらしいが、「中華民族は一つだ」と言って帝国主義時代を耐え抜いてきた中国人は、日本人が「日本が分割されていたら」という想定を聞いて怒る数倍の激しさで怒るかも知れない。

 もしかすると、押井さんが「PAX JAPONICA」でやろうとしているのは、その場合に中国の人が怒るのと同じくらいに日本人を怒らせるということなんじゃないかと思う。そこでそれだけ怒らない日本人が、もしかすると押井さんにとって非常に不愉快な存在か、そうでなければ不可解な存在なのではないか。

 もちろん、押井さんのことであるから、それが作品になって出てきたときには、評論家たちが大絶賛して「いや〜やっぱり日本のアニメはすごい」とか「この作品のデジタル技術はたいしたもんだ」と言いふらすような作品に仕上げるんだろうけれども。



「捨て犬の飼い主」、「不在のキャラクター」

 押井守が違和感をあらわにしているのは、日本人がアニメのような架空の作品のなかで自分の国の首都を平気に破壊してしまうことについてのようだ。もちろん他人事ではない。押井守自身が『パトレイバー』の「二課の一番長い日」や二本の映画で東京破壊の企てを描き、二本めでは東京が破壊されるところまで描いている。

 どうしてそうかんたんに壊してしまえるのか?

 押井さんにとっては、ほかの作品で東京を壊しているのと、『パトレイバー2』で自身が東京を壊そうとしたこととのあいだには明らかな違いがあるはずだ。それがたぶん押井さんの自負である。しかし、その違いとはいったい何だったのか? その探索のなかでこの「PAX JAPONICA」の企画が生まれてきたのだろう。

 押井さん自身が「東京」についてはひとことでは説明できない複雑な気もちを持っているようだ(と正面からきいてもたぶん「いや、そんなことないよ」とはぐらかされるんだろうけど)。どんなに関心を失ったように装っていても、押井さんは東京生まれだし、アニメ作品でも短く見積もっても『迷宮物件』以来のつきあいである。

 押井さんは「東京」という飼い主に飼われ、そしてあるときその飼い主のもとから逃げ出した犬だ。だが、飼い主のことを忘れようとしても、どうしても気にかかってしまう。あの『Stray Dog』(『ケルベロス地獄の番犬』)の乾のようなものだ。その飼い主を追い求めてみたら、飼い主にめぐり会えるか会えないかということとは別に、世界のほんとうの姿に出会うことができるかも知れない。乾は「飼い主」を追い求める旅の果てに「道端で飯を食う時代は終わった」という真実に行き当たる。では押井守は「東京」を追い求める旅の果てに何に出会うのか?

 別の考えかたもできる。

 押井守は、『パトレイバー』だけでなく、『迷宮物件』でも『御先祖様万々歳!』でも「東京」に悪意を向けてきた。しかも、その悪意は、ほかの演出家が東京に向けた悪意とは違うんだよという自負も持っている。その押井が「PAX JAPONICA」に向かう動機になっているのは、もしかすると、その東京はほんとうは自分が悪意を向ける値打ちもない場所なのではないかという不安なのかも知れない。

 『機動警察パトレイバー』劇場版第一作で、松井刑事は帆場の存在を追いかけて、帆場の存在が限りなく希薄で、その帆場が見ていた東京の街の不思議さこそが重要だということに気づいた。もしかすると、いまの押井さんは、自分にとっての東京こそが「不在のキャラクター」だという思いにとらわれているのではないか。

 だが、押井守作品では、「不在のキャラクター」と対になって、より意味のある世界の本質が明らかにされていく。東京が「不在のキャラクター」だとしたら、それを通して世界の何が見えてくるのか? それを確かめることが、「PAX JAPONICA」で押井さんが意図していることなのかも知れない。

 ともかく、押井守にとって、たぶん「空爆に対抗できる東京」とか、「世界から非難される覇権国家日本」とかいうのは、何かの通過点、何かの媒介なのだろう。押井が描きたいもの、出会いたい真実は、その通過点を通ってのみ見えてくるものに違いない。

 それは何なのかは、神でも押井守でもないこの身には知れようはずもない。押井さん自身にすらまだ十分にわかっていないのかも知れない。

 とりあえずそれが連載第二回まで読んで私が抱いた妄想である。


―― おわり ――



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関連アーティクル

北京で押井守について考えたこと(清瀬 六朗)

映画評:押井守ナイトショウ(テアトル池袋 2003年2月15日)

オンライン同人誌WWF(押井守関係コンテンツリスト)


ガブリエルの憂鬱 〜 押井守公式サイト 〜

野田真外さんのサイト「方舟」