PAX JAPONICAをめぐる冒険

清瀬 六朗






1.独立国としての東京

東京独立

 「PAX JAPONICA」の第一回では、「独立国としての東京」という仮想に触れられている。日本国家を「うしろ盾」としない都市国家としての東京である。そういう「東京国」は可能か、また、そういう「東京国」があったらどういう行動をとるだろうか。そういうことを考えてみようというわけである。

 現代世界で「都市国家」の存立は可能だろうか。

 可能ではある。実際にシンガポールは都市国家だ。香港も、中華人民共和国の一部になってはいるが、いまも独立国家的な性格を持ちつづけている。

 しかし、押井守が考えている「東京国」は、シンガポールや香港よりも軍事的な独立性の強い国家だ。経済や資源では外国や日本列島のほかの地域に依存しながら、独自の軍事力を持ち、自国の通商を防衛する軍事体制を整えた国家である。「PAX JAPONICA Project」での発言によれば、たぶんその「東京国」は空母も持っているのだろう。岡部いさく氏(軍事評論家、フジテレビの軍事関係のコメンテーターを担当)はアメリカとの安全保障条約も想定すれば、そのような東京国の軍事的な自立は可能であろうとコメントしている。

 軍事的なことは押井さんが自ら展開していくだろうし、「東京要塞化計画」のときから協力者として岡部いさくさんもついている。だから、ここでは、まず政治や経済の視点から、独立国としての「東京国」は可能か、可能だとすればどんな国になるかということを考えてみようと思う。



近代国家の性格――都市国家と領域国家

 政治制度から見れば、近代国家の原型は都市国家である。古代地中海世界の都市国家が近代ヨーロッパ国家の原型になり、その近代ヨーロッパの国家が世界の近代国家の原型になっている。

 たしかに、アジアやアフリカなどの非欧米世界には、近代ヨーロッパの影響を受ける以前からある国を継承している国もある。たとえば、日本、中国、朝鮮・韓国、ベトナム、タイ、ビルマ(ミャンマー)、インド、イラン、エジプトなどだ。しかし、政治・軍事・経済などの面から見ると、その国家のあり方は、19世紀の欧米諸国の「帝国主義」の衝撃を受けて、近代より前とは大きく違ったものになっている。「帝国主義」の脅威に対抗し、また、「帝国主義」の支配をはね返すために、その国家体制は欧米諸国と同じものに変化しているのだ。

 けれども、同時に、特殊な例を除いて、近代国家は領域国家である。都市や都市近郊だけでなく、広い領域を支配しているのが通例だ。アメリカ合衆国やロシアだけでなく、イギリスもフランスも日本もそうだ。

 近代より前にはまだ都市国家はあった。19世紀に統一されるまでのイタリアには、ヴェネツィアやジェノヴァやフィレンツェやミラノなどの都市国家が存在した。ドイツにも自由都市と呼ばれる独立都市国家がいくつもあった。東南アジアにも、マラッカなど、貿易港を擁する都市国家がいくつも存在した。

 しかし、こういう国家は、その地域内のより広い領域を持った領域国家に敗れたり、ヨーロッパの植民地主義に敗れたりして、独立性を失っていった。近代より前の世界から近代世界に入る段階に多発した戦争で、都市国家は敗退して衰退したのである。やはり戦争になると都市国家は脆かった。

 だから、近代国家は、都市国家としての面と領域国家としての面の両方を持っている。都市国家の政治体系と領域国家の持久力を併せ持っているのだ。



首都と首都以外の領域

 では、近代国家のなかで、都市国家としての面と領域国家としての面はどう関係しているのだろう。

 モデルとして整理すれば、その関係は、首都が都市国家としてその他の領域を支配するというかたちである。

 首都以外の領域は首都に食糧や水・電力や人(人材)などの資源を供給する。また、首都が攻撃されるような事態になったときには、首都に到達する前の領域で敵の進撃を食い止める。もし首都が陥落したら、首都以外の領域に首都を移して抗戦を継続する。

 首都以外の地域は、首都を養い、首都を支えるための従属地域になるわけだ。

 もちろん現実にはそう簡単な構造にはなっていない。アメリカ合衆国や中国のように、政治上の中心と経済的な中心とが違っているばあいもある。首都と同じような機能を果たす都市が一つの国の国土のなかに 複数 存在することもある。

 そんななかで、東京はとくに集中傾向の強い首都だ。人も集中しているし、政治や経済の機能も集中している。日本のばあい、文化や学問・芸術の面でも東京への集中傾向が強い。現在の日本は東京の存在なしには存立することができない。

 ただ、それは、東京以外の地方が東京に依存していると同時に、東京が東京以外の地方に依存しているということでもある。東京は、物資も人材もエネルギーも東京以外の地方から得ている。だから、その東京が独立国になるとすると、東京と東京以外の地方との関係を組み替えなければならなくなる。

 でも、資源がなくても独立国として存続はできる。水の供給さえ外国に頼っている独立国や独立地域も存在する。その分、その独立国は対外的な弱味を持つことにはなる。けれども、その弱味を補えるだけの強味を持っていれば、独立国は存在していくことができる。

 たとえばシンガポールがそうだ。シンガポールがエリート的な人材の育成に国家を挙げて取り組むのは、物資もエネルギーも外部に依存しなければならない国で、資源としての人材への依存度が高いからである。

 そういうことを考えれば、東京が「東京国」として独立することは可能だろう。



「東京国」と「日本国」の関係

 ただし、そのばあいには、現在の東京のあり方も東京以外の地方のあり方も変えなければならない。

 東京が独立したばあいには、やはり、貿易や通商で利益を得ながら、日本列島の諸地域から物資やエネルギーを調達する必要がある。東京が消費する電気エネルギーを東京だけでまかなうのはたいへんそうだし、水を自分だけで調達するのも難しい。東京で出る廃棄物も東京の内部だけでは処理しきれないかも知れない。だから、東京以外の地域との依存関係を絶つことはできない。

 現在は、東京には東京以外の地方から選出された政治家が主導する政府があり、それが東京に集中するさまざまな資源の配分を管理している。それが東京以外の地域と首都東京との依存関係の現れであり、また、この政治家を介した構造がその依存関係を支えてもいるわけだ。東京以外の地方は、政治家という「資源」を首都としての東京に供給し、そのかわりに高速道路とか橋とかトンネルとかいう「資源」を首都の政治家に配分してもらっている。

 東京が独立すればこのような関係はなくなる。

 東京の政治は東京から選出される政治家だけが担うことになる。東京はもっとドライな取引関係によっていま得ている資源を得なければならなくなる。そのかわり、東京以外の地方も、東京の政府からの資源配分を受けずに自立していかなければならなくなる。

 国家が別になれば通貨も別になる。「東京円」と「日本円」は別の通貨になり、双方の経済力を反映した別々のレートが設定されるだろう。もっとも、EUのように「東京国」と「日本国」のあいだで通貨協定を結び、単一の中央銀行を置いて単一通貨を流通させることも可能だ。しかし、そのばあいでも、「東京国」と「日本国」では財政政策が異なるから、実際の生活上で通貨が持つ価値は変わってくる。ヨーロッパ中央銀行のある金融政策が、フランスに有利に、ドイツに不利に働くことがあるように、「東京国」と「日本国」の単一中央銀行がとる一つの金融政策が、「東京国」には有利に、「日本国」には不利に働くこともある。単一中央銀行総裁の席をめぐって「東京国」と「日本国」のあいだで緊張関係が高まることもあるだろう。

 また、独立した「東京国」は「日本国」以外の外国とも自由に外交関係や経済関係を持てる。いま日本国内で調達している物資やエネルギーも、「日本国」以外の国から安く物資やエネルギーを調達することが可能になる。「東京国」は、主要食糧として、「日本国」のコメではなくアメリカやオーストラリアやアジア諸国からコメを買うことになるかも知れない。

 「東京国」が独立すれば、いまの日本で東京と東京以外の地方とのあいだに存在する見えにくい関係や隠されている関係が一挙に表に出てくる。そしてそれを明確なかたちにして処理することが求められる。そうやってできた「東京国」と「日本国」は、いまの日本より暮らしにくい国だろうか、それとも暮らしやすい国になるだろうか。

 少なくとも、そのばあいの「東京国」に関するかぎり、いまの日本よりも政治の説明責任は高くならざるを得ない。すぐ「近隣」の「日本国」との外交関係・経済関係は、いまの日本の近隣諸国との関わりよりもずっと「国民」の日常に直接に関係してくる。また、「東京国」が攻撃されたばあいに抵抗を継続するための領域の余地はほとんどない。経済政策は「東京国」国民の日常生活により直接に影響を与え、軍事政策は「東京国」国民の安全により直接に影響を与える。いまの日本よりも、あらゆる分野の政策が「国民」の日常により直接に関わりを持つようになってくる。

 もしかすると、その「東京国」は、押井さんの言う「真っ当」な国になることができるかも知れない。

 ここまでは、いまの東京が独立したら、ということを考えてみた。



歴史から見た東京独立の可能性

 一方で、押井さんは、歴史上のどこかの時点で東京が独立することを考えているようだ。そういう可能性はあっただろうか。

 東京が独立しているためには、まず「東京」ができていなければならない。江戸から東京に直接につながっているとしても、江戸が都市として成立していなければ独立はあり得ない。では、江戸はいつ都市として成立したのか。

 江戸は徳川家康が関東の中心に定めてから都市として本格的に発展し始めたのだが、ここでは、その原型が作られた戦国時代をいちおうの出発点にしよう。「PAX JAPONICA」の連載の第一回を読めば、押井さんも太田道灌までさかのぼる可能性までを考えに入れているようだ。



(1)戦国時代

 そうすると、第一の可能性として、戦国時代が「天下統一」で終わらず、日本列島にいくつもの「国」が残りつづけたばあいが考えられる。その一つの国として、江戸を首都とした国が残っていたかも知れない。

 これはあり得た展開ではあると思う。

 じつは、日本は、平安時代から戦国時代にかけて、京都を首都とする国と、鎌倉を首都とする関東の国に分かれていたという説がある。

 10世紀に平将門(たいらのまさかど)が反乱を起こし、「新皇(しんこう)」と称して関東国家を樹立して以来、京都の朝廷は関東を十分に支配しきることができなかった。平将門の反乱は短期間に内部分裂を起こして鎮圧されたが、つづいて平忠常(たいらのただつね)の反乱が発生し、こんどは三年ほど継続する。それを鎮圧した源氏が関東に勢力を下ろし、関東に広がる平氏系・藤原氏系諸族の勢力を糾合して、武士の独立勢力を関東に築く。これが基礎になってやがて鎌倉幕府が開かれる。

 鎌倉時代には、京都に朝廷(上皇・法皇の「院」も含む)があり、関東に鎌倉幕府があって、日本を二分して支配していた。

 もう少し詳しく言うと、じつは、平安時代の末期には、日本は荘園に細分されていた。形式上は荘園になっていない部分(「公領」)も、荘園と同じような社会構造の下に置かれていた。この荘園の領主や荘園管理者の総まとめ役として有力だったのが朝廷と鎌倉幕府だったのだ。鎌倉幕府が武士を中心に掌握し、朝廷が武士以外を中心に掌握したが、武士でも鎌倉幕府に従属していない武士もいた。また、関東は鎌倉幕府の力が強かったが、西日本には朝廷の影響力が強かった。承久の乱で鎌倉幕府側の影響力が強まっても、朝廷の自立性は失われていなかった。

 室町時代には、幕府が京都に置かれ、幕府の実権が朝廷を圧倒した。荘園制下の国土にも武士の支配が強く及ぶようになった。

 しかしこんどは武家政権自体が京都と鎌倉に分かれた。鎌倉には幕府の出先というかたちで鎌倉府が置かれる。鎌倉府の長官である鎌倉公方(くぼう)とその補佐官である関東管領(かんれい)は基本的に世襲され、京都からは独立性を保って関東を支配していた。そのため関東の独立性は室町時代にも失われなかった。そのまま時代は戦国時代に突入する。

 中世史研究者のなかには、この関東の独立性を高く評価する研究者と、あまり高く評価しない研究者とがいる。ただ、関東と西日本とでは、イエ共同体とムラ共同体のどちらが有力かなどという点で社会に違いがあった。それが西日本と関東との独立性の基礎になっていたという説には説得力があると私は感じている。

 戦国時代にも、西日本の大内氏が京都への影響力拡大を狙ったのに対して、北陸・関東の長尾(上杉)氏や北条(後北条)氏は鎌倉への影響力拡大を図った。上杉謙信は関東の支配者としての自分の正統性を確保するために鎌倉まで行っている。そのエネルギーを「上洛」のほうに注いでいれば、謙信は織田信長より先に日本の統一者の地位を確保していたかも知れない。逆に言うと、謙信の時代には、東国の中心である鎌倉を押さえることが織田信長にとっての上洛と同様に大きな意味を持っていたわけである。

 徳川家康は、豊臣政権によって関東に領地を与えられ、その関東領の首都として江戸を開発した。それと同時に、関ヶ原の合戦で西日本連合軍を撃破し、日本の統一者の地位を確保した。けれども、戦国時代の分国制は、いわゆる「幕藩体制」というかたちで残ったのである。

 もし、徳川家康が全国制覇に乗り出さず、豊臣政権に対して関東だけで「関東国」を形成するという方向を目指していたら、関東独立はあり得たかも知れない。関東には平将門以来の自立性の伝統もある。徳川家康が関ヶ原で敗れ、関東の領国だけで生き延びることにしたとしても、江戸を首都とする関東国の独立はあったかも知れない。

 また、上杉氏や北条氏など、関東の自立性に執着する勢力が豊臣政権に屈服せず、関東の独立性を保持しつづけばあいにも、関東は独立国になっていたかも知れない。ただし、このばあいには、関東の首都は東京湾のいちばん奥の江戸にはなっていなかった可能性がある。鎌倉か、小田原か、三浦半島から相模湾周辺のどこかが「東の都」として「東京」になっていただろう。

 いずれにしても、江戸時代が始まった段階では、江戸は一城下町に過ぎず、単独で独立国を形成できるような条件になかった。したがって、この時点で独立していたとしたら「関東」の単位だろう。その首都が江戸だった可能性がある。



(2)明治維新

 次の可能性として、押井さんは、「明治維新のときに無血開城しなかった江戸」という可能性を挙げている。

 このばあいにも江戸が独立国として存続したと考えるよりも、「佐幕」派の諸藩の支持を受けつつ、関東・北陸・東北の地域の首都として存続した可能性が大きい。榎本武揚(たけあき)が実際にとった行動を考えると、北海道もこの勢力圏に入っていたかも知れない。薩長と公家の勢力が京都・大阪に明治新政府を樹立し、関東より東・北は幕府系の勢力が存続して両者の共存が図られたばあいである。

 ただし、このシナリオを考えたばあい、明治以後の歴史は、実際の日本の歴史よりもより困難なものになっていた可能性がある。日本が二つに分裂していたら、世界に植民地を拡げようとしていた列強諸国の力に対抗しきれなかった可能性が大きいからだ。その分立割拠状態につけいられて、インドと同じように列強に蚕食されてしまっていたかも知れない。19世紀にインドがイギリスの植民地にされてしまったのは、イギリスの軍事力が優越していたからでもあるが、インドが江戸時代の日本と同じような地方政権の集合体で、イギリスの巧みな外交戦術で個別にイギリス支配に取り込まれ、屈服させられていったからでもある。

 そうなったばあいには、こんどは東京が植民地支配下で香港やシンガポールのようになっていた可能性もある。つまり、植民地主義国の支配の拠点で、植民地経済の中心地としての東京というわけだ。そして、第二次世界大戦後の植民地主義の退潮のなかで独立し、独立の「東京国」として存続する。香港やシンガポールのたどった歴史を見れば、これもあり得なかったわけではないだろう。



(3)日露戦争から第二次世界大戦まで

 押井さんは、六本木でのイベントで、日露戦争で日本が敗れていたら日本は幕藩体制に逆戻りしたかも知れないと発言していた。しかし、日露戦争の段階では、経済面でも政治面でも、日本はかなり高度な一体性を確保していた。地方ごとに自立できるような勢力もない。江戸時代の大名家は華族に列せられて地方とのつながりを断たれていたし、一方で代議士はまだ地方に勢力を拡げていない。

 だから、このばあい、「東京国」の独立があり得るとしたら、やはり日本が占領されて東京が分離されていた可能性を考えるしかない。日本がロシアに占領されるか、ロシアとの戦争が長引いて国家財政が破綻し、外国からの借金漬けになって独立を喪失するかどちらかだ。ただ、当時の日本の国力と、イギリスやロシアの植民地拡張時代が第一次世界大戦で終わることを考えれば、どちらの可能性もあまり高くはないと思う。

 「PAX JAPONICA」の連載第一回では、押井さんは第一次大戦に参戦したばあいを分岐点として挙げている。第一次大戦を契機とするばあい、二通りに考えることができるように思う。

 第一次大戦は、イギリス・フランス・ロシアなどの連合国と、ドイツ・オーストリア・オスマン帝国(現在のトルコの前身)などの同盟国のあいだで戦われた戦争である。このとき日本は連合国側に参戦している。戦争には連合国側が勝った。したがって、日本は勝者の側だった。ただし、ドイツが権益を持っていた中国の青島(チンタオ)(青島ビールのもともとの産地である)を攻撃したり、ヨーロッパに駆逐艦を派遣したりしているほかは、日本はあまり積極的に戦ってはいない。

 そこで、一つの想定は、第一次大戦にドイツ側で参戦したばあいである。このばあい、第一次大戦では日本がドイツとともに敗退していたというシナリオになる。日本は、ドイツやオーストリアやオスマン帝国と同じような苛酷な敗戦後処理を強制されていたかも知れない。このとき、トルコは、前身のオスマン帝国が五百年以上も支配してきた地域まで放棄することを強制されかけた。だから、日本もオスマンと同じように分割されていた可能性がある。このばあい、東京が国際共同管理都市として日本から切り離されていたこともあり得るだろう。ただ、第一次大戦の戦勝国から見て東京を分離するメリットは何もないので、この可能性はあまり考えられない。

 もう一つは、日本が第一次大戦で史実と同じように連合国側に立ち、ただしもっと積極的に戦争に参加していたばあいである。第一次大戦で、海軍力・陸軍力を傾注してヨーロッパ戦線に兵力を送りこんでいたら、日本は第一次大戦後にアメリカ合衆国が得たような覇権大国の地位を確保したかも知れない。アメリカ合衆国が南北アメリカ大陸を超えて世界的な大国として認識されるようになったのは、第一次大戦に参戦し、その戦勝国となってからだ。

 しかし、アメリカはなかなか参戦しなかった。アメリカはヨーロッパのことにかかわるべきでないという世論が圧倒的だったからだ。アメリカが参戦したのは、実際に自分の国の船がドイツの潜水艦に撃沈されてからのことだ。それ以前に、ヨーロッパの連合国が苦境に陥っているところへ日本が派兵し、参戦していれば、どうなっただろうか。

 このばあいには、日本はアメリカにかわって覇権大国になっていたかも知れない。第一次大戦後の世界で、日本とアメリカの順位は入れ替わっていた可能性もある。ただし、日本がヨーロッパ戦線で大きな損害を出さず、日本が戦場にならずに、日本の工業が発展していればという留保はつく。参戦したことで日本の工業力が打撃を受けていたら、覇権大国になるどころか、大国の地位を失っていた可能性も出てくる。

 また、この戦争でヨーロッパ戦線に出ていれば、日本の戦争観は一変していたかも知れない。第一次世界大戦は、19世紀の帝国主義時代に確立された戦争観を一挙に覆してしまった。ところが、日本は、第一次世界大戦の苛酷な戦場を直接に経験していないので、20世紀の戦争が非常にシビアなものになることをなかなか実感できなかった。

 実際には日本の軍人のほとんどは第一次世界大戦を実地で体験していない。だから世代交替が進むなかで、1930年代になると軍の指導部から戦争を直接に経験した指揮官がほとんどいなくなってしまった。第二次大戦のころには学校で戦争を習って出世した指揮官が中心になって最高指導部を構成していた。

 太平洋戦争では、帝国海軍は凝った作戦を立てて、たまに成功していたが、大失敗も重ねた。ミッドウェー海戦やフィリピン沖海戦((しょう)一号作戦)では、多数の艦艇を動員して複雑な作戦を立案し、弱点を衝かれたり、現場で状況把握ができなくなって味方どうしの連携に失敗したりして、大失敗を重ねている。マリアナ沖海戦では、現場の搭乗員の技術水準も考えずに、遠距離から攻撃をしかけるアウトレンジ戦法を採用して大敗した。こういう失敗が頻繁に起こった理由の一つは、現実の戦場の経験がないまま指導部入りしてしまった指揮官が帝国海軍指導部に多かったからだ。第一次世界大戦の戦場を実際に知っていた指揮官が1930〜40年代(昭和一ケタ後半〜昭和10年代)までいたら、その時代の戦争指導は大きく違っていただろう。

 だから、戦争をめぐる思想というレベルを考えると、第一次世界大戦でヨーロッパ戦線に参戦していた日本という仮想からは、現実のその後の日本と大きく違った姿を思い描くことができる。だとしたら、東京の防衛体制も大きく変わっていたかも知れない。フランスやドイツの国土のように、国土が戦争の舞台(=戦場(シアター))になることを想定した国土整備が進められたかも知れない。ただ、この展開だと、東京が独立していた可能性はあまり考えられない。

 それよりもあり得るのは、第二次世界大戦後に日本が分割占領され、その中で東京が切り離されるという可能性である。ドイツの「西ベルリン」が実際にたどったのと同じ可能性だ。

 そうなれば、荒川・江戸川・多摩川には監視塔が並んで不法越境者を監視し、練馬から多摩にかけては「練馬の壁」や「多摩の長城」が築かれていたかも知れない。羽田空港は、東京が封鎖されたばあいに、東京の住民生活を支える物資を空輸できるように拡充されていただろう。確実に東京の「要塞化」は進んだわけだし、東京の住民の国防意識も現実とは大きく違ったものになっていただろう。その東京が、冷戦終結とともに強大な覇権国家になる。それが押井さんの描く「PAX JAPONICA」像に近づくかも知れないと思う。



日本は「幸運」ゆえに「真っ当」さを失った?

 「東京独立」の可能性について、いくつかの可能性を考えてみた。  そのどれにも共通するのは、「東京独立」の可能性を追究していくと、歴史の流れの転換点で日本の「不運」を想定することになるということだ。どこかで「不運」だったかわりに、日本はいまよりも押井さんの言う「真っ当」な国になっていたという想定ができあがる。

 日本はそれほど身に余る「幸運」を享受してきたのだろうか?

 たしかにそういう面はある。

 押井さんが六本木のイベントで言っていたように、ヨーロッパが軍事的拡張を遂げていた時代、日本はヨーロッパからいちばん遠かったために、その影響から免れることができた。距離から言えば南半球のオーストラリアやニュージーランドのほうが遠いが、日本のばあい、日本に到達する前に香料の産地であるマルク諸島があり、中国があり、フィリピンがあって、ヨーロッパ勢力はそこで足止めされてしまった。それでも、台湾は17世紀にオランダの植民地支配下に置かれたことがあるのだから、危ないところではあった。

 ヨーロッパとアメリカ合衆国の軍事的拡張が再び始まった19世紀には、日本はすばやい体制変革と経済力・軍事力の増強に成功して、植民地化される運命を免れた。そればかりか、20世紀初頭には日本は植民地を持つ帝国として、欧米列強と肩を並べることができた。

 江戸時代には、沖縄と北海道を除く日本は「幕藩体制」と呼ばれる分国制をとっていた。少なくとも、たてまえ上は、いまの県ぐらいか、それよりも狭い範囲に、大名の「国」が分立していた。城下町を中心とする都市国家のようなものである。その分国制のもとで、「国」どうしが競い合うかたちで、日本列島の経済は発展した。やがて、日本経済の発展は、分国制に見合うレベルを超え、日本列島を覆う経済圏が成立する。そんなタイミングで日本は西洋勢力に接触し、分国制を廃止して高度の統一国家へと移行した。

 江戸時代の経済発展も、明治の殖産興業・富国強兵の成功も、それはその時代に日本にいた人びとが知恵を発揮し、また努力を重ねた成果である。漫然と「幸運」を享受していただけではその成功は得られなかった。けれども、日本の経済的発展の段階と、欧米勢力との接触の段階とがうまく重なり合わなければ、このような成功は得られなかったのも確かだろう。

 日本はやはり「幸運」ではあったのだ。

 しかし、日本は「幸運」でありすぎたために、押井守の言う「真っ当」さを失ったのだろうか? それを考えるのはけっこう難しいことだと思う。

 とか言っているうちに、「PAX JAPONICA」の第二回が載っているはずの『ニュータイプ』の次の号が発売されてしまった(しかもうちの近所の書店では早々に売り切れていた)。そこで、そのことを考えるのは、次回以降の課題にしたいと思う。



前に戻る ○ つづき



目次



関連アーティクル

北京で押井守について考えたこと(清瀬 六朗)

映画評:押井守ナイトショウ(テアトル池袋 2003年2月15日)

オンライン同人誌WWF(押井守関係コンテンツリスト)


ガブリエルの憂鬱 〜 押井守公式サイト 〜

野田真外さんのサイト「方舟」