東浩紀氏のオタク論を読む

清瀬 六朗



第四回 『動物化するポストモダン』(4)

テキスト

 東浩紀『動物化するポストモダン』講談社現代新書、2001年

 第一章「オタクたちの疑似日本」(4)



東氏の「疑似日本」論

 東氏は、「ポストモダン」について解説を加えた後、オタク系文化の持つ「日本」のイメージについて触れる。

 東氏の議論は、このオタク系文化の「日本」系イメージを、日本が1945年の敗戦で受けた傷を修復し覆い隠そうとする動きの産物だと規定する。東氏の議論を私の視点から整理すると、だいたいこんなふうになると思う。

  1. 日本は第二次大戦での敗戦によって傷を受け、アメリカ(合衆国)の文化侵略を受けて文化的な自立性を失ってしまった。日本の戦後の近代文化とはアメリカ文化の劣悪なコピーにほかならない。
  2. オタク系文化には日本的なデザインがたびたび登場する。それは、アメリカによる文化侵略で受けた傷を修復し、覆い隠すためのものであり、日本の伝統そのものではない。日本の伝統からばらばらに取り出した素材を、アメリカ的素材で作られたアメリカ的な骨組みの上に配置することで、骨組みや主要な素材がアメリカから来たものだという事実を覆い隠そうとしているのだ。
  3. 「近代」が「ポストモダン」に移り変わることで、日本こそが最先端だと主張することが可能になった。「近代」ではどう見ても日本はアメリカに勝てなかった。しかし、その「近代」的なものが疑われると、日本の「ポストモダン」がアメリカ的「近代」に勝っているという主張がやりやすくなった。しかしそれはナルシシズムの産物であり、裏付けのない幻想に過ぎない。
  4. 「疑似日本」像は、アメリカ製の骨組みの上に部分的に日本的なものを配置することで作り上げられた。そして、その「疑似日本」像をもとにして日本はアメリカよりも進んでいるとか優位であるとか主張するのがオタク系文化の特徴だ。しかし、これは、オタク系文化だけではなく、幅広く「ポストモダン」時代の日本に見られる現象である。だからオタク系文化の検討は現在の日本文化を語るために重要なのだ。

 つまり、日本の現在の文化は、アメリカの大量消費文化の土台の上にちょっとだけ独自素材をばらばらに継ぎ足したものにほかならず、そしてそれを「日本の伝統」と誤解すること、または、強弁することの上に成り立っているというわけだ。そして、そうやって作り上げられた日本を「日本のほうがアメリカより優れている」と誇るという滑稽なことが、「ポストモダン」期の日本文化の特徴であり、それをよく体現しているのがオタク系文化だと東氏はいうわけである。

 で、どうっすかねぇ、これ……?



日本のアニメファンがアニメを観る動機

 まず、現在のオタク系文化にとって「疑似日本」性は本質的に重要なことかということからして、ほんとにそうなのかな、と思う。

 たしかに、岡田斗司夫は、オタク文化の源流が江戸時代にあり、それはすぐれた文化なのだというようなことを書いていたと思う。東氏によると、大塚英志や村上隆もそんなことを言っているらしい。

 それに対して、東氏は、オタク系文化はどう見てもアメリカ由来のものであり、それに日本的なデザインを断片的に持ちこんでみたところで、その骨組みと大部分の素材がアメリカ起源であることは間違いないとする。ところが、そういうものを岡田や大塚や村上は「日本の伝統文化の継承」とし、アメリカを超えた独自のものとして誇りにする。それがオタク系文化の自意識の特徴だとしているわけだ。

 だが、日本のオタク系文化にとってほんとうに「日本の伝統文化の継承」とか「アメリカを超えた」とかいう要素が重要なのだろうか?

 日本のアニメやゲームを愛好するオタク系の人たちは、たいていアメリカのディズニーの映画に無関心である。敵意を持っていることもあるかも知れない。また、日本のアニメのファンは、アニメ映画は見るけれど、映画一般をよく見るとは言えない。したがって日本でヒットしているハリウッド大作映画も見ない。

 しかし、日本のオタク系の人たちがディズニーやハリウッド大作映画を観ないのは、「日本のアニメがアメリカ映画より優れているから」なのだろうか。

 日本のアニメファンにとって、日本のアニメの絵柄やキャラクターの動かしかた、声の演技などが馴染めるのはたしかだと思う。逆に、ディズニーのアニメの絵柄には馴染めず、そのキャラクターの動かしかたには、テレビのCMで流される断片的映像を見ただけで強い違和感を感じる。日本のアニメファンにはそういう人が多いのではないかと思う。

 そういう日本のアニメファンが「日本のアニメは優れていると思うか」と言われれば、その多くはたぶん「優れている」と答えるだろう。

 けれども、そのことは多くのオタク系の人たちにとって、果たして重要なことなのだろうか。

 「日本のアニメが優れている」から観るというより、日本のアニメのキャラクターの動かしかたや物語の展開のしかたに馴染んでいるから観るのではないだろうか。

 オタク系の人たちは、多くの作品に接することよりも、自分が愛着を持っている少数の作品により深く接しようとする。その愛着を持つ相手が、特定の作品ではなく、脚本家・演出家・アニメーターなどの作者であったり、作品に登場するキャラクターであったり、声優であったりすることもある。ともかく、そのような少数の対象により深く接しようとするのが日本のオタク系の人たちの行動の特徴だ。

 だから、日本のオタク系の人たちは、ディズニーにもハリウッドの大作映画にもあまり関心を示さないのである。

 ではなぜ日本のアニメ作品に愛着を持つのかというと、日本では日本で作られたアニメ作品に接する機会が圧倒的に多いからだ。日本のアニメファンの手もとに届く情報も、日本で作られたアニメ作品のものがやっぱり圧倒的に多い。そうやってたまたま接したアニメ作品に愛着を持てば、それにより深く接しようとするのが日本のアニメファンのあり方である。だから、日本のアニメファンは、ディズニーやハリウッド大作映画にあまり興味を持たないだけではない。日本のアニメでも、自分の好きな作品以外はなかなか積極的に観ようとはしない。

 オタク系の人たちは、日本のアニメやゲームが「優れているから」という理由で日本のアニメやゲームに接するよりも、日本のアニメやゲームのなかの特定の作品に強い愛着を持っているからその作品により深く接しようとする。その範囲以外の作品に広く触れる機会を持つことよりも、特定の作品により深く接するために時間もカネも注ぎこむ。そう説明したほうがいいのではないかと思う。



議論の手順の問題

 岡田斗司夫や大塚英志や村上隆は、たしかにオタク系文化の「伝統日本」的性格を高く評価しているかも知れない。だが、これを「オタク系文化」の問題として語るには、途中にもう一段階のステップが必要だ。

 オタク系文化と「伝統日本」とを結びつけているのは、当のオタクたちではない。オタクのなかで日本の伝統文化について深い知識を持っていたり、関心を持っていたりするのは一部だと思う。二次創作を作ってネットで公開したりコミケで売ったりしているオタク系の人たちの大多数は、歌舞伎や人形浄瑠璃に何の興味も持っていないだろう。日本のアニメの「止め絵」や「アオリ構図(下から上を見上げる構図)」に興味を抱くオタク系の人たちのいったい何人が、狩野山雪や仏像彫刻に関心を示すだろうか。そういうことに興味を示すのは、「オタク」よりも、その「オタク」を対象に評論を行う「オタク論者」なのではないだろうか。オタク系文化と「日本の伝統文化」を結びつけているのは、オタクたち自身ではなくて、「日本のオタク論者」たちなのである。

 とすれば、オタク系文化と「日本の伝統文化」との関連を論じるには、直截に「オタク」を論じるのではなく、まず「日本のオタク論者」について論じるというステップが必要なのではないかと思う。

 「日本のオタク論者」たちが日本のオタクのあり方を捉え損ねている可能性だってある。また、こういう「オタク論者」たちが、自分の言いたいことを言うために、実在するオタクの一側面だけを捉えて、その側面がすべてであるように語っている可能性もある。

 だから、「日本のオタク論者による日本のオタク・オタク系文化論」というのがどういう性格のものかという位置づけを示すことがまず必要だと思う。

 ところが、東氏の議論を読むと、どうも「日本のオタク論者が言っていること」と「日本のオタク系文化」とをはっきり区別せずに話を進めているように感じる。



日本のアニメ作品と「疑似日本」

 そうした上で、東氏は、『うる星やつら』や『美少女戦士セーラームーン』に巫女の姿をしたキャラクターが登場することをとりあげる。『うる星』のサクラと『セーラームーン』の火野レイである(本には「セーラーマーズ」と書いてあるが、「火野レイ」としたほうが適切だろう)。これを、東氏は、日本のアニメが、敗戦によって打ち砕かれた日本文化の連続性をごまかすために、日本の伝統文化の断片を使って日本の文化の連続性をでっち上げようとした証だとしている。そして、それをオタクたちがでっち上げた「疑似日本」だといっているのだ。

 果たしてそう言えるのだろうか。

 その前の段階として、東氏は、日本のアニメ制作のやり方は、もともとはアメリカ合衆国のアニメーションの劣悪な模倣に過ぎなかったことを論じている。ディズニーのようなフルアニメーションに対して、その表現への批判から、アメリカでリミテッドアニメーションが作られるようになった。そして、日本でアニメが作られるようになったとき、そのリミテッドアニメの手法が導入された。ただし、アメリカのリミテッドアニメーションのような批判精神からではなく、単なる作画の手間を省くための「必要悪」としてである。

 いちおう説明しておく。フルアニメーションとは、キャラクターが動くときには基本的に身体全部を切れ目なく動かすアニメーションである。ディズニーは基本的にこのフルアニメーションでアニメーション作品を作ってきた。それに対して、リミテッドアニメーションとは、動かす必要のある部分だけ動かし、他は動かさないという方法である。東氏は、一秒24コマのフィルムを一秒8枚の動画で撮影することだけを挙げているが、それだけがリミテッドアニメーションの技法なのではない。しゃべっているときに人間は顔全体はもちろん身体もある程度は動かすものである。しゃべっているときに身体全体の動きまで描くのがフルアニメーション、それに対して、口だけ動かして顔全体や身体の動きまでは描かないのがリミテッドアニメーションだ。

 かつてはアニメでは「セル」と呼ばれる透明な樹脂のシートに一枚ずつ絵の具で色を塗っていた。フルアニメーションではそれを塗るための手間が膨大だった。リミテッドアニメーションでは、動かすところだけ塗ればいいわけで、他の部分はセルが流用できるから、手間が省ける。そこに、作画の手間を減らすうえでリミテッドアニメーションの技術を採用する優位性が生まれたのだ。

 ところが、少ない予算で作画をもたせるための「必要悪」であったリミテッドアニメーションの制約から、止め絵の多様や独特のアオリ構図などの日本のアニメ独特の「美学」が生まれてきたという。

 東氏は、それを「アメリカの素材で作り上げた日本のアニメ独自の美学」であるという。そして、『うる星』のサクラや『セーラームーン』の火野レイの存在をその延長で捉えているのである。

 しかし、この持っていきかたには疑問がある。

 まず、『うる星やつら』も『セーラームーン』も原作はマンガである。だから、『うる星やつら』や『セーラームーン』のキャラクターを語るためには、日本のアニメがアメリカのアニメーションの劣悪な模倣品として作られたなどという議論とは別に、最初にマンガのキャラクターとして語る必要がある。

 また、『うる星やつら』にしても『セーラームーン』にしても舞台は日本である。巫女さんが出てこなければならない必然性はないが、出てきても別におかしくはない。巫女が出てくるから「オタク系文化」は「疑似日本」を捏造する志向性があると言われても、「日本では、学校の先生が巫女の資格を持っていたり、学校の友だちに神社の家の子がいたりしてもべつにおかしくないでしょ?」と切り返すことができる。それが「日本では普通にあり得ること」ではなく「疑似日本」のでっち上げであることを、東氏が十分に論証しているとは私には思えない。



宮崎アニメの位置づけ

 本論の流れからは少し脇道に入る。

 東氏は、大塚康生、高畑勲、宮崎駿などを「表現主義」の作者であって、アニメーションの「動き」に魅せられ、ディズニー的なフルアニメーションを目指した作者と位置づけている。これに対して、安彦良和や富野由悠季や出崎統を東氏は「物語主義」として、フルアニメーション的な動きの実現を断念し、物語・世界観や演出、構図といった点で独自性を出そうとしたのだと位置づける。そして、この後者の「物語主義」系の作者やその作品が日本のオタク系文化と深い関わりがあるとして、大塚、高畑、宮崎などの作品をオタク系文化から切り離している。

 現時点で見るかぎり、大塚康生や高畑勲や宮崎駿の作品は「オタク系文化」とは別の流れで語られることが多い。だから、それを「オタク系文化」の議論から切り離すことには、ある程度の妥当性はあるだろう。

 けれども、1970年代後半の状況を見るかぎり、宮崎駿はとても良識的なアニメの作者なんかじゃなかった。『未来少年コナン』でラナを、『ルパン三世 カリオストロの城』でクラリスを描き、ロリコンアニメの作者として位置づけられていたのだ。『未来少年コナン』は、物語も古典的にきちんと完成されているが、その物語に惹かれた人たちのほかに、ラナのキャラだけに惹かれた人もけっこういるはずだ。「最初は心を閉じていた、でもじつは純朴で明るい少女キャラ」というラナの設定は、その後の日本のアニメの少女キャラの描きかたに、あるいはあえて言えば現在に連なる「萌え」文化に大きな影響を与えていると私は思う。

 オタク系文化の歴史を語る上で、1970年代末に宮崎駿が与えた影響というのはやっぱりあるわけで、宮崎らの流れが日本のオタク系文化と完全に切り離されているということは言えない。

 これらの作者が「表現主義」であり、ディズニー的な表現を目指していたかというと、これも私には疑問だ。たしかに初期のアニメーション映画はそうだった。東氏が例に挙げている『太陽の王子ホルスの大冒険』は、ディズニー的なものを目指そうとして、まさに劣悪な制作条件から挫折した典型的な作品である。しかし、『パンダコパンダ』や『アルプスの少女ハイジ』、『ルパン三世』(第一シリーズの後半)を作った後の大塚、高畑、宮崎はディズニー的なアニメーションの理想から離れていく。『ルパン三世 カリオストロの城』がディズニーのフルアニメーションを志向して作られているなんてだれも考えはしないだろう。

 「表現」への執着が強いのは確かだけれど、それは、1980年代以後、高畑勲や宮崎駿が徳間書店その他のバックアップを受けて、比較的資金の余裕のある環境で作品を作れるようになったためで、高畑や宮崎だけが「表現」志向を持っていたわけではない。だいたい、東氏が「物語主義」系に分類している金田伊功は宮崎駿の多くの映画でも原画の中心人物として参加している。東氏のいう「表現主義」と「物語主義」系との区別は、そうはっきりしたものではないというのが私の印象である。

 アニメの「表現」をめぐる環境が大きく変わるのは、1990年代後半以後、デジタル技術が大幅にアニメに採り入れられてからである。『もののけ姫』以後の宮崎駿監督作品は、やはり1990年代に大幅にデジタル技術を導入したディズニー作品の印象に近づいていく。それはこの技術的な変革の影響があるからだと考えるべきだろう。

 アニメの表現は制作環境に左右される。資金面からも制約されるし、スケジュール的な面でも制約されるし、技術面からも制約を受ける。スポンサー企業の意向や宣伝戦略からも制約を受ける。

 東氏の議論には、アニメにしてもゲームにしても、そのようなさまざまな物質的制約のなかで作られて世のなかに送り出されるということへの配慮があまり見られない。これは、もちろん、わかった上で、そのような要素はあえて切り捨てているということだろう。紙幅に制限のある新書版の本だ。アニメやゲームづくりを制約する条件にいちいち目配りしていたらとんでもない大著になってしまうだろう。

 もっとも、私は、東氏はこの同じテーマでハードカバーで二段組み500頁とか600頁とかの大著は書ける人物だし、東氏もほんとうはそうしたかったのではないかと邪推したりもしているのだが。

 しかし、たとえば、アニメづくりの資金や制作手順という方向から見れば、巫女の件にしたって、「巫女の服装は基本的に白と赤で塗り分ければすみ、色指定の手間がかからないから、アニメには巫女がよく登場する」という説明もできてしまうわけだ。少なくとも、巫女の服が非常に複雑なデザインで単純化ができないのだったら、こんなにいろんなアニメで巫女が登場することはなかっただろう。もしそうだったとしたら、東氏はアニメの「疑似日本」性を何を素材に例証したのだろうか? そんなことを考えてみても、この本を読むうえではおもしろいと思う。



東氏と私との「オタク」観の違い

 ここで、もう一つ、本論の流れからすると中休み的な話題を入れておくことにしよう。

 ここまで書いてきて、「オタク」や「オタク系文化」についてのとらえ方が東氏と私とで大きく違っている点に気がついた。ここまでの議論でもときどき触れていることだけれども、ここでいちおうまとめておこう。

 東氏は「オタク」をひとまとまりにして捉えている。三世代の分類はあるが、オタク系の人たちの集団は内部でさらに細分化されるということにはあまり関心を払っていないように思える。

 もしかすると、『メガゾーン23』に感動した人は『セイバーマリオネットJ』には反発以外の何も感じないかも知れないし、『うる星』の熱烈なファンは『セーラームーン』は観ていないかも知れない。しかし、東氏は、『メガゾーン23』と『セイバーJ』と『うる星』と『セーラームーン』を、日本の「オタク系文化」というものの特徴を示すものとして取り上げている。その前提には、日本の「オタク」はだいたい同じ興味や関心を有していて、その「オタク」たちが単一の日本「オタク系文化」を形成しているという仮定がある。

 私は、ここまで何度も書いてきたように、「オタク」という存在があるとすれば、それは、多くの対象に幅広く接することよりも、自分が愛着を持っているものにより深く接することに執着する人たちのことだと考えている。自分が愛着を持つものに深く接するためには、より多くのものに接する手間や時間を喜んで切り捨てる。そういう行動様式を持つのが「オタク」と呼ばれる人たちだと私は思っている。

 私自身も、積極的に自分で言いふらしたりはしないが、自分は「オタク」と呼ばれておかしくない人間の一人だとは思っている。それはそういう特徴が私自身に当てはまるからだ。

 オタク系の人たちは、広く接するよりも、狭い範囲の対象に深く接しようとする。だとすると、オタク系の人たちは、その対象によって細分化されると考えるのが自然だ。コミックマーケットの配置がまさにそうなっているわけで、一つの作品のサークルでもさらにどのキャラを中心に置くかで配置が決定されている。

 オタクという存在がそういうものだとすれば、単一の「オタク系文化」というのは存在し得ない。

 もし単一の「オタク系文化」というものを語りうるとすれば、それは、その細分化された「オタク」たちの諸文化を何かの方法で「抽象」して作り上げた「フィクション」、つまり「思想的な作りもの」としてだけである。

 私から見ると、東氏の議論は、そういう「フィクション」として作り上げられたオタクやオタク系文化を語っているように見える。これは岡田斗司夫や大塚英志や村上隆でも同じだろう。

 もちろんそれでいいのだ。たとえば、「日本経済」なんていうのも、歩いて5分のところの小さいスーパーでキャベツを買うのと、車で15分のところのショッピングセンターでタオルを買うのとを同じような経済行動とまとめてしまう「フィクション」の上に成り立っている。ほんとうは、近所のスーパーでキャベツを買うのと遠くのショッピングセンターでタオルを買うのとではぜんぜん意味が違うかも知れないのに。そうやって「フィクション」化することで、政治とか、経済とか、そして文化とかは語られるのだ。

 しかし、「フィクション」は、その作りかたによって、その「フィクション」で語れることが限られてきてしまう。ばあいによっては、ある「フィクション」を設定したことで特定の結論しか出なくなってしまうこともある。「フィクション」を用いた議論には常に危うさがつきまとうのだ。

 その危うさのなかで、どう舵を切りつつ東氏は議論を進めていくのか。それもこの本を読む注目点の一つであると思う。


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