東浩紀氏のオタク論を読む

清瀬 六朗



第一回 『動物化するポストモダン』(1)

テキスト

 東浩紀『動物化するポストモダン』講談社現代新書、2001年

 第一章「オタクたちの疑似日本」(1)



前置き

 私にこの本を批評できるのか、じつは自分で疑わしい。非常に疑わしい。

 いや、「批評」などという高尚なことはもちろん、「紹介」すらできないのではないかと恐れている。

 東氏の知識は、現代思想についても、また「オタク系」作品と捉えられているアニメやゲームについても、幅広く、また深い。その知識と理解を背景にして書かれたのが本書だ。その東氏の議論を私が全面的に検討対象にするのは無理である。

 でも、逆に言えば、検討しなければいいわけで、感想を述べることならばできる。東氏が引いている原典にぜんぶ当たり、その議論の妥当性を検証するというのが、たぶん学問的な批評なんだろう。それは最初から無理だ。

 だったら、そんなことは省略して、好き勝手に感じたことを並べよう。

 ということで、この企画をとりあえずスタートさせたい。



オタクであること、オタクについて考えること

 なんで私に東氏の書いたものを批評するだけの知識がないのか。

 私がテキストを読んで感じたのは、「オタクであること」をどう捉えているのか、という点の違いである。

 東氏自身が「オタク」であるのかどうかは私は知らない。少なくとも、東氏が考える「オタク」たちからは、東氏は「オタクでない」と位置づけられている、と東氏は捉えていることは読みとれる。つまり、東氏は自分について「典型的なオタク」ではないと考えているようだ。

 しかし、自分自身をどう考えているかは別として、東氏は「オタク」や「オタク系」文化について、自覚的に、または意識的に、捉えようとしている。オタクやオタク系文化と考えられるものに接したとき、その特徴は何か、それはどこに由来するのかということを、自分から意識して捉えようとしているようだ。そうして感じ、そうして考えたことの蓄積がこの本なのだ。

 ところが、私は自分がオタクなのかどうかはめったに意識しない。

 時と場合によって、「たぶん人からそう見られるだろうな」と意識することはある。それはそうだ。ゲーマーズの袋を、それも大小取り混ぜて二つとか三つとか抱えて秋葉原を歩いている男である。それが「オタク」と見られるのは当然のことだとは思っているし、そう思われていいと思ってもいる。そう思われては困ると思う場所ではそういう姿は見せないようにもしている。

 けれども、私は、自分の意識や行動がオタクに共通する特徴なのかどうかということにはあまり関心がない。自分だけではない。他の人の意識や行動が「オタク」っぽいのかどうかというようなことにはぜんぜん関心がない。

 そういうのは、けっきょくどうでもいいことだと思っているからだ。

 もしかすると、この「どうでもいいことだ」という感覚それ自体が、この本のキーワードで言う「動物化」した感覚なのかも知れない。そのことはまたあとで考えよう。もし考えないといけないような流れになったとしたら、だが。

 私が東氏の書いたものを「批評」とか「検討」とかすることができないのは、東氏が自覚的に「オタク」や「オタク系文化」に対峙しているのに対して、私はそんなことにまるで関心がないからだ。東氏は「オタクについて考える」ということを自覚的にやっている人であり、私はそうでない。

 「オタクであること」と「オタクについて考えること」とは、たぶん別のことなのだ。私はオタクであるかも知れないし、東氏もオタクであるかも知れない。けれども、私はオタクについて考えることはしない。東氏はそれをする。

 オタクかも知れないがオタクについて考えることはしない男が、オタクについて考えた結果として書かれた批評書にどういう姿勢で臨めばいいか、じつはいまの時点で私にはそれがわからないのである。

 だから、しょうがないので、好き勝手な感想を並べるところから始めようというわけだ。

 並べているうちに、たぶん、自分が東氏の本にどういう姿勢で臨んでいるかということに少しずつ気がついても行くだろう。



東氏の位置

 東氏は、オタクからは「オタク的でない」と思われていると自分では考えているようだ。その理由を、東氏は、オタクたちの反権威の空気の強さと、自分が現代思想の学術誌というメディアで論壇に登場したという出自に求めている。オタクはオタク的手法以外でアニメやゲームが語られることに不信感がある。だから、「現代思想」という「権威」を背負って現れた東氏はオタクたちからは不信感を持って見られる。それが東氏のオタクと自分との関係についての認識である。

 それが客観的にあたっているかどうかはよくわからない。

 ただ、私がこの本を手にし、一とおり目を通したときに感じた「とまどい」に、そのことが関係あるのかも知れないとも思う。

 たしかにおもしろかった。興味深い試みだとも思った。けれども、最後まで残ったのは「この本を読むことが私にとって何の意味があるんだろう」というとまどいだった。この本を読む時間があるのなら、録画してまだ観ていない『LAST EXILE』の最新エピソードを観るほうが先ではないか? この本を読むために早く帰宅するぐらいだったら、ゲーマーズ某店に行ってGA(『ギャラクシーエンジェル』)の新しいCDを買うほうがいいんじゃないか?

 そう、私にとっては、オタク的な言動とか、その背後にある思想とかを詮索することに、どうも意味が見いだせないのだ。やってみたらおもしろいかも知れないなとは思う。でも、それよりも、未見のアニメを観るほうが先だ、つまり、ムズカシげなことばで言えば、オタク活動を実践するほうが先だという感覚がどうしてもあるのだ。

 では、オタク的に語られる対象、つまりアニメやゲームについて、「○○萌え〜!!」といったいかにも「オタク的」な語りかた以外をすることについてはどうか? じつは、私はそういうアプローチをやるのが好きである。いやたしかに「アル萌へ〜!!」とか叫んだりもするけどね。でも、『LAST EXILE』が、ジュール・ヴェルヌの古典的「空想科学小説」の性格を強く受け継いだ作品かも知れなくて、もしそうだとするとそれはなぜか、とゆーよーなことを考えたりもするわけです。

 ただ、その語りかたっていうのが、やはり東氏と大きく違う気がする。東氏は、私たちの生きている時代、東氏のいう「ポストモダン」の時代を語ることを一つの大きな目的としてオタクやオタク系文化を語っている。しかし、私はたぶん違うのだ。

 東氏の立場から見れば、だから、私はやはり東氏の論に不信を抱く「オタク」に見えるのかも知れない。そして、それでいいと思ってもいる。


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