東浩紀氏のオタク論を読む

清瀬 六朗



第二回 『動物化するポストモダン』(2)

テキスト

 東浩紀『動物化するポストモダン』講談社現代新書、2001年

 第一章「オタクたちの疑似日本」(2)



現代思想とオタクのあいだから

 前回 自分が書いたものを読んでみた。

 う〜む、くどい。

 要するに、言いたいことは、……なんだっけ?

 東氏が、オタクとか「オタク系」文化とかを自覚的に捉え、それによって現代の日本の社会を語ろうとしているのに対して、私はそういうことにはまったく関心がないこと、そしてその違う立場から東氏の書いたものを読んでみるのがこの企画であること――そんなところだろうか。

 くどいのは私の癖でもあるのだが、今回のばあいは、とりわけ、くどい。やっぱり「現代思想からオタクを語る」という東氏の文章に向き合うことの難しさに私がためらいを感じているからだと思う。

 これ以上 言いわけがましいことを書くとさらにくどくなるので、とっとと先に進もう。



話のつづき

 オタクの「反権威の空気」という東氏の表現は巧い表現だと思った。

 たしかに、「オタク系の人たち」には、外からの権威を持ち出されることを嫌う傾向があるようだ。

 ところで、いま私が使った「オタク系の人たち」という表現は、東氏の「オタク系文化」という呼びかたに倣ったものだ。東氏は、この本で「オタク文化」という表現を避け、「オタク系文化」ということばを使っている。「オタク系」として定義をぼかすのが東氏の狙いであるらしい。

 「オタク文化」というより直截な表現を使ったばあい、何がオタク文化で何がそうでないかと言うことについて見解の対立が起こるというのが東氏の認識だ。「オタク系」と定義をぼかすことによって、そのような対立にとらわれず、オタクに関わるさまざまな文化的現象を全体として捉えていける。それが東氏の狙いのようである。

 「オタク文化」をきちんと定義せずに、それに「〜系」をくっつけた「オタク系」というものを定めることができるのか。まぁ、この話題は、東氏が問題にしつづける「近代」と「ポストモダン」との性格の違いにも行き着く話なんじゃないかと思う。

 ところで、東氏のいう「ポストモダン」とは現在を含む時代であり、「近代」というのは1960〜70年代あたりまでの、少しまえの時代である。「近代」が「ちょっと昔」、「ポストモダン」が「いま」なのだ。こういう「ポストモダン」の使いかたに違和感のあるひとは、とりあえずここでは「ポストモダン」とは「現代」のことだと考えて読みすすめていただいてかまわないと思う。

 「近代」が前提にしていた考えかたというのは、あることばについてはきちんと定義を立てることができ、その定義に基づいて議論するのが意味のある議論という考えかただ。逆に言うと、きちんと定義を立てることができないことばを使って行われる議論には意味がない。それが「近代」の考えかただ。

 東氏のいう「ポストモダン」はそういう考えかたが疑われ始めた時代である。通用しなくなり始めた時代と言ってもいい。

 世のなかで話されることばには必ずしも明確な定義があるわけでもなく、しかもそれで「意味のある議論」は成り立っている。あるいは、それでも「意味のある議論」は成り立っていると考えざるを得ない。そうでないと世のなかで語ることのできるものの幅が極端に制限されてしまう。それでは「ポストモダン」の世のなかを語ることができなくなってしまう。

 「オタク」というのはまさにそうした対象なのだろう。「オタク」ということばの定義を突きつめても、その議論からは結論を出すことは不可能で、「各人のアイデンティティをかけた感情的な遣り取りしかでてこない」と東氏はいう(13頁)。それで「オタク系」というぼかした言いかたを使うのだ。

 「近代」的な感覚から言えば、「オタク」を定義できないで「オタク系」を語るのは不可能だということになるだろう。だが、それでも「世のなかでオタクとかオタクっぽいとかオタクみたいとか呼ばれたり感じられたりしているもの」をとりあえず「オタク系」として語ってみる。そのことに意味がある。それが、東氏のいう「ポストモダン」の時代の特性の一つなのかも知れない。



オタク系の人たちの反権威的な空気

 便利な表現なので、「何がオタクか」ということをぼかした「オタク系」という表現を使わせていただくことにしよう。

 オタク系の人たちには反権威的な空気が強い、というところまで話を進めた。

 たしかにオタク系の人たちには外から別の体系でオタク系のものごとを評論されるのを嫌う傾向がある。それはなぜだろうか。

 それは、オタク系の人たちにとって、自分の好きな作品や作者、キャラクターが興味や愛着の中心だからだろうと思う。作品とか作者とかキャラクターとかが好きだということがまずある。それは純粋な信仰と同じ理屈抜きの愛情なのだ。それをどう考えたり位置づけたり批評したりするかは、オタク系の感じかた・考えかたにとってはどうでもいいことなのである。

 その作品や作者やキャラクターを、オタク系とはいえない体系で論評されたり、そういう体系を論じる素材に使われたりすると、その愛情の対象を辱められたように感じる。論理の問題ではない。論理に先立つ心情の問題なのである。オタク系の人たちにとって、自分の愛情の対象を、情緒も何もない論理の道具に使われることが、まずもって許しがたいことなのだ。それは何も「オタク系ではない体系」で論じることだけに向けられるわけではない。ある作品や作者やキャラクターが好きな人は、その愛着の対象を他の作品や作者やキャラクターが好きな人に論じられることを嫌う。

 作品や作者やキャラクター、声優、「猫耳」や「メイド服」のような「属性」への愛着を至上とし、その愛着に干渉されることを極度に嫌う。それがオタク系的な感じかたと言えるのではないかと思う。

 だから、そういうオタク系的な愛着の対象を「現代思想」の語りの素材に使おうとする東氏が、オタク系の人たちから反発を受けるのは、当然のことではないかと思う。

 また、オタク系の人たちには、多数者のなかに加わることを嫌い、少数者でいることを好む傾向もあるようだ。

 それは、作品、作者、キャラクターなどへの自分の愛着が独特のものであることを信じたいという心情から来るのだろうと思う。

 多数者のなかに加わってしまうと、その対象への愛着の独特さは失われてしまう。また、自分ほどその対象を愛していない人たちがその多数者のなかには多く含まれているはずだ。そういう人たちが、自分の愛している対象を愛しているかのような言動をとることは、やはり自分の愛情や愛情の対象が辱められているような気分になって、耐え難い。さらに、外から見られたばあいにも、あまり広く知られていない愛情の対象を持っていたほうが別の論理からの干渉を受けにくい。

 そんなわけで、広く名まえを知られた作者とか、ベストセラーの作家とか、主人公のキャラとか、そういう対象はオタク系の人たちからはむしろ敬遠される。ばあいによっては白眼視される。

 だから、ベストセラー作家あかほりさとるの『セイバーマリオネットJ』を賞賛したりする東氏は、よけいにオタク系の人たちから、アニメのことなどなにもわかっていないという反発を受けやすい立場にいるのかも知れない。

 それがオタクたちの「反権威的な空気」と東氏が感じていることのなかみなのではないか。



「オタク」につきまとう病的な印象

 一方で東氏は「オタク」ということばには1988〜89年の連続幼女誘拐殺人事件に由来する「独特の負荷」がかかっているという。この事件の犯人がオタク系の人だったことで、オタクとは「人間本来のコミュニケーションが苦手で、自分の世界に閉じ込もりやすい」という一般的な印象ができてしまったというのだ。

 たしかに1989年の一時期には「アニメが好きだ」ということがはばかられる、私にとって重苦しい雰囲気はあったように思う。しかし、大人になってアニメが好きだというのはみっともないことだという雰囲気はそれ以前から強かった。そういう規範が弛み始めたところにこの事件が起こり、大人になってアニメを見たりゲームをプレイしたりすることを「異常」と見る社会の視線が再解釈されて復活した。そのなかで「オタク」の定義が社会的に作られてしまって定着した。そういうことは言えるかも知れないとは思う。

 このころからオタクということばが社会的に認知されたのは確かだろう。この事件のころまで、オタクなんてことばはごく一部の人にしか通用しないことばだった。私の記憶ではそうである。「フェチ」ということばはあったし、たとえば「ロリコン」というようなことばも使われていた。けれども、それは「オタク」のような広い対象を指すことばとして使われたわけではなかった。

 しかし、この事件の犯人のことが大きく報道されたことをきっかけに、まるで「オタク系文化」には関係のないような人までが「オタク」とか「オタク的」とかいうことばを平気で使うようになった。それも、別に悪い意味ではなく、それまでならたとえば「〜〜の専門家」と表現していた内容を「〜〜オタク」と言うなどというように、ごく普通の会話に「オタク」ということばを使うようになった。

 しかし、ことばはその出自を背負っている。「オタク」ということばは連続幼女誘拐事件の記憶に結びついている。無意識に使われるだけに、かえって、「オタクと呼ばれる人には何かしら病的な面がある」という印象は世のなかに定着していく。だから、「自分は〜〜オタクだ」と平気で言う人だって、その「オタク」ということばには「病的な一面を持つ人」という感覚をじつはどこかに持ちつづけている。

 しかも、日本の社会のなかでマンガやアニメやゲームの地位が上がってきた現在でも、その「オタク」ということばにつきまとう病的な印象は残っている。日本のアニメ産業が世界一だと持ち上げられたり、日本のマンガには高度なストーリー性があるから日本では大人がマンガを読むのは当然なのだと言われても、「オタク」には「人間本来のコミュニケーションが苦手で、自分の世界に閉じ込もりやすい」という印象がつきまといつづけている。日本のアニメやゲームの高度さが強調されるとき、そのアニメやゲームをだれが享受してきたのか、現在も享受しているのかということは軽視されてしまう。

 東氏が一方でいらだちを持ちつづけているのはそのことなのだろうと思う。



キリスト的大事業?

 東氏は、オタク系文化をめぐる機能不全が日本の社会にはあるという。この機能不全とは、

  1. オタク系文化は現在の日本社会を語るうえで重要なものである。
  2. しかし、オタクたちは、オタク自身以外がそのオタク系文化を語ることを認めようとしない。
  3. 一方で、オタク系文化を病的なものとして忌み嫌う文化状況も現在の日本には存在する。
  4. その結果、日本では、ほかならぬ日本社会のなかに存在しているオタクとオタク系文化の重要性が語られることがない。

といったことを指している。

 東氏がこの『動物化するポストモダン』を書いたのは、その機能不全を修復するためだという。「当たり前のことを当たり前に分析し批評できる風通しのよい状況を作り出す」ことがこの本を書いた目的だというのである(11〜12頁)。

 なんだかイエス・キリストみたいだな、と私は思った。キリストがやろうとしたことも、神の世界と人間の世界のあいだにある「機能不全」を修復して、神の世界と人間の世界のあいだに「風通しのよい状況を作り出す」ことだったと言えるかも知れないわけだ。

 けれども、そういうことをすると、「預言者は故郷に受け入れられない」という事態が起こったりもするわけである。しかも、キリストの出現で神の世界と人間の世界が一つになったかというと、そう考える宗派もあるが、そう考えないでいまだに神の世界と人間の世界は分かれていると考える宗派もある。もしかすると、「風通しのよい状況」よりも、神の世界とはいちおう切り離され、それが原罪意識でつながれた人間世界のほうが、人間にとって生きやすいのかも知れない。

 オタクについても、オタクの世界はオタクの世界、非オタクの世界は非オタクの世界で分かれていて、それが「オタクはどこかしら病的だ」という認識でつながれている世界のほうが、人にとっては住みやすいのかも知れない。オタクの世界が非オタクの世界と合わさって一つになってしまうことに、非オタクの世界は「病的な異物」が入ってくると感じて抵抗するかも知れないし、オタクは自分たちの世界が失われると感じてこちらも抵抗するかも知れない。

 東氏のやろうとしていることはだれからも報われない苦行になるかも知れないという気がする。

 というより、そうなって当然だと思う。べつに意地悪で言っているのではない。東氏がやろうとしているのは、もし東氏の言うとおりの意義があるのだとすると、それだけの当然の抵抗を通り抜けて認められなければならない大事なことなのだ。この本については、ものわかりのいい批評は、かえって東氏にとって大事な部分をすり抜けて書かれたものじゃないかと思ったりもする。

 それは、この本に触れてどうにも抵抗感を感じずにはいられなかった私の自己弁護でもあるわけだが、自己弁護だからいつも不当だということにもなるまいと私は思っている。

 なお、私は、この比喩で、オタクは神のように偉いんだなどということが言いたいわけではない。念のため。



オタク三世代論

 この本で印象に残ったのは、東氏が、オタク系の消費者の中心が30〜40歳代であると正面から認め、オタクのなかに三つの世代を区別していることである。

 ただ、オタク系の「消費者の中心」というとらえ方は、オタク系の人の世代的分布の中心がそこにあるということを意味しないと思う。「消費」にはカネが必要だからだ。また、パソコンゲームなどは、パソコンを使うことにある程度は慣れないとプレイできない。現在の日本の教育状況では、20歳前後まではパソコンを使いこなせない人の率がそんなに低くない。使いこなせても、マイクロソフト社のいくつかのソフトが使えることが「パソコンができる」ことだと考えているユーザーも多いだろう。

 だから、私が「オタク系」のイベントに参加したり、ゲーマーズやアニメイトに行ったりしたときに、その場で出会う人は、やはり20歳代が多いように思う。私より年上の人に出会う率はそんなに高くない。

 それでも、30歳代以上の「オタク」を例外とせず、逆にそれをオタク系の「消費者の中心」と捉えているという視点は、私にとっては斬新だった。そう認めてもらえるのを待っていた、と言ってもいい。

 そうした上で、東氏は「オタク」を三世代に分類する。

 なお、東氏は『新世紀エヴァンゲリオン』のブームを一つの重要な契機に位置づけている。東氏は「95年にヒットした」と書いているのだが、私の記憶によるとそれが「ブーム」になったのは少し遅かった。1995年には、たしかにアニメファンや従来からのガイナックスファンのなかでは大いに注目され、ネット上では肯定的意見と罵倒とが飛び交った。けれどもこの本放送時点ではアニメファン以外にはさほど注目された印象がない。それが、最初の映画版の公開の前に再放送されたのをきっかけに異常な盛り上がりを見せはじめた。私のところにも、それまでアニメになんか何の関心もなかった知り合いから、「人類補完計画って何だ?」とか「シンジくんかわいい」とかいう声が電話で届きはじめ、私はほんとうに驚いた。そう、電話だったのだ。まだこの時期には電子メールを使っていたのはまだ一部に過ぎなかった。このときに「オタク」になった集団が第三世代ということになるのだろう。一方で、『エヴァンゲリオン』本放送中の1995年にマイクロソフトのウィンドウズ95が日本で発売され、少し間をおいて日本でもインターネットへの接続が一般的になっていった。第三世代にデジタル機器とネットが自然なものとして受け入れられていったのはそういう状況があったのだろう。

 東氏はこのうち第三世代のオタクに注目してこの本の考察を進めていくと言っている。最後のほうでデジタル技術とオタク系文化の関連を考察するこの本の趣旨からすると、そこに注目するのは当然だろうと思う。ただ、だとすると、オタク系の「消費者の中心」が30〜40歳代だとしてオタク文化の重要性を強調した最初の説明と食い違いも生じるわけで、その点はもう少しわかりやすく説明してほしかったという気はする。

 さて、オタクについての東氏の整理が示されたところで、次に「オタク」と並ぶこの本の主題――「ポストモダン」論に入ることになる。


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