タイガースファンの「心理」とタイガースフィーバー

―― 玉木正之『タイガースへの鎮魂歌(レクイエム)』と井上章一『「あと一球っ!」の精神史』を手がかりに ――

鈴谷 了





一九八五年の思い出

 前回優勝した一九八五年、筆者は大学に入り神戸市内の阪神沿線にある下宿屋に世話になった。そこの主人もタイガースファンで(江本孟紀氏に会ったと聞いた)、ご家族とともに夕食を取るときにはもちろんタイガース戦のテレビ中継を見ながらである。この年タイガース快進撃のきっかけになった、ジャイアンツ戦の河埜選手の落球も、その翌日の「バックスクリーン三連発」もそこで眺めた。ご主人は「今年はえらいうまいこと勝ちよる。でもこんなん長続きしまへんで」とつぶやいていた。筆者も心の中で深くうなずいていたのは言うまでもない。

 もっと強烈に地元民とタイガースのつながりを感じたのは、近所の銭湯に出かけるときだった。番台の上のテレビはもちろんタイガース戦を流していて、入浴中の人まで浴室の窓越しに眺めていた。高校までの間、周囲にタイガースファンの人間は少なからずいたけれど、こうした日常の場でタイガース戦を皆で見るという経験はなかった。やはり甲子園から近いところは違うなぁと感じたものである。その中で一度だけ甲子園に観戦にも行った。すでに優勝マジックが点灯しロードで6連勝して帰ってきた9月の週末、デーゲームのドラゴンズ戦だったが、その試合は敗れた。それでもバースはホームランを打ち、広い甲子園にタイガースファンの黄色いメガホンがセイタカアワダチソウの如く揺れる独特の雰囲気は味わうことができた。これは筆者がタイガースの公式戦を球場で見た今のところ唯一の経験である。(その後複数の球場でプロ野球を観戦したが、一度しか行っていないにもかかわらず甲子園以上の印象を受けた球場はない)

 優勝した翌日、阪神電車の駅の売店に行くと、スポーツ新聞は全部売り切れだった。大学の図書館でもこの日のスポーツ新聞は(普段はストッカーにはさんで自由に取れるのに)カウンターに頼まなければ見ることができなかった。平日の日本シリーズ(その頃はデーゲームだった。個人的には土日の試合くらいデーゲームに戻してほしいと思うが)は、大学生協のテレビで(全部ではないが)観戦していた。

 その翌春に下宿屋は諸般の事情で廃業となり、筆者はより大学に近い阪急沿線のアパートに転居した。筆者にとって「あの年」はいろいろな意味で特別な一年として記憶に残ることになった。(ちなみに、それから九年後の阪神大震災で元下宿屋とその周囲は壊滅的な被害を受け〜幸い元下宿屋一家は無事だったようだが〜筆者が暮らした建物ももう残っていない)

 筆者が玉木正之氏の名前を意識して読むようになったのも、前回のタイガースフィーバーのときだった。優勝が決まる1ヶ月半くらい前に、当時の週刊サンケイ(現在の『SPA!』の前身)が、「タイガース優勝祈念号」という増刊を出した。

 これはタイガースの「優勝」を謳った出版物としてはこの年最初に近いものだった。中に「優勝したら表紙の『祈』の上に貼り付けて下さい」という但し書きとともに「記」という文字が印刷されたページがあった。ちなみに筆者はそれを実行した。

 この中に「タイガース大事典」という読み物があった。『広辞苑』の体裁を真似てパロディやギャグを散りばめたその読み物は、(筒井康隆の『乱調文学大事典』や、アニメ同人誌によくある事典で筆者には馴染み深かったが)プロ野球を扱った読み物としては今までにない「おもろい」ものとして記憶に残った。その乗りは筆者の親しんだ「関西のノリ」でもあった。しかしその段階では筆者が誰かということはあまり意識しなかった。

 その翌年の春先、書店で『プロ野球大大大事典』(東都書房、以下東都書房版「大事典」と略)という本を見つけた。そのおもしろい内容に引かれてさっそく買ってみたが、どうも去年の週刊サンケイで見たのと同じネタがある。と思って「凡例」を見ると「以前に発表した部分がある」といった記述があり、その中に件の週刊サンケイの「タイガース大事典」が含まれていた。つまりこの二つの事典の作者が同じということがわかったのである。そして、この東都書房版「大事典」で玉木正之という名前を初めて明確に意識したのだった。

 ちなみに東都書房版「大事典」を後に加筆改訂したものが、新潮文庫に収録された『プロ野球大事典』(一九九〇年、以下新潮文庫版「大事典」と略)である。こちらの方が一般には有名であるし(ネットで検索しても東都書房版「大事典」に言及したものはごくわずかである)、著者の取材によって深まった記述も多いのだが、個人的にはこの東都書房版「大事典」の方が好きだ。その最大のポイントは、東都書房版「大事典」にはまだ日の浅かったタイガース優勝の興奮と高揚感が文章にそのまま反映されている点にある。

 もう一つの点は、東都書房版「大事典」ではたくさんあった、「おもしろくするためにわざと嘘を書いている項目」に「これは冗談ですよ」とわかるような加筆が数多く行われたことだ。
 たとえば、【野球場】という項目を比較すると、
 「明治時代、野球が日本に伝わった直後は保健場と呼ばれていた。その名が野球場に変わったのは、野球が健康を保つのに不適とわかったからである」
(東都書房版「大事典」)
 「明治時代、ベースボールが日本に伝わった直後は保健場と呼ばれていた。その名が野球場にかわったのは、野球が必ずしも健康を保つためにふさわしいものではないとわかったからか?」
(新潮文庫版「大事典」)
といった具合である。なぜそのような「改悪」を行ったかについては、新潮文庫版「大事典」にその一端が触れられている。【代走】という項目の説明において、東都書房版「大事典」では元バファローズの藤瀬史郎選手が代走百盗塁という記録を達成したのを見て、大江健三郎が長編小説『ピンチランナー調書』を書いた、という記述がされていた。これに対して新潮文庫版「大事典」ではそのあとに続けてこう書かれている。「と以前書いたところが、あるスポーツ・アナがこれを冗談と思わず信用してしまったので、最近は冗談が書きにくくなった」
 どうも日本のスポーツ界にはこうした「遊び」を理解する向きが少なかったらしい。これは非常に残念なことだ。玉木氏は別のところでこう書いている。
 「この辞典の著者も、つまるところ(引用者注:野球や特定の球団を)『好きだから好き』が心の根底にあるのである。したがって、プロ野球評論とは、ある意味でレトリックの楽しさ、おもしろさであり、その主張の是非ではないともいえる。もっとも『好きだから好き』という姿勢の感じられない人物の評論がおおむね間違った方向を向いていることは事実であり、それはプロ野球にかぎらず、あらゆる評論についてもいえることのように思われる。」

 当時のフィーバーの中でも筆者はその「名残」とよべるものをほとんど手元に残さなかった。阪神電鉄の記念乗車券も(その気になれば買えたのに)買わなかったし、タイガースグッズと呼ばれるものもない。優勝実況の録音テープ(当時下宿にはビデオがなかった)の他には当日の一般紙のスクラップ、阪神百貨店のバーゲンの紙袋(これは親が行った)程度で、その意味ではこの東都書房版「大事典」は数少ないフィーバーの「名残」でもあった。

 ちなみに私が録音した優勝実況は大阪朝日放送のもので、名スポーツアナと呼ばれた植草貞夫氏の担当であった。その後の長い低迷時代、このテープは「心の拠り所」だった。これはラジオの録音だったからこそではないかと秘かに思っている。ラジオならそれを聞いていたときのことを頭に思い浮かべる分、すべての情報が流されるテレビの録画より思いは深まったと考えるからだ。
 ところで、この優勝のテレビ中継(10月16日、神宮球場のスワローズ戦)は当時関西では流されたが、東京ではなかったらしい。当日は水曜日でこの日放映の『うる星やつら』は関西のみ別の日に振替放映したからである。それだけに、今年の優勝シーンが地上波でも東京で中継されたことには正直驚いた。

 当時、筆者は文芸春秋社のスポーツ誌「ナンバー」を愛読していたが、玉木氏がこの「ナンバー」にも寄稿していることを知り(その一部は『タイガースへの鎮魂歌』にも収録されている)その文章に注目していった。当時の玉木氏は片やさまざまなデータを駆使した硬派な評論を書く一方で、文学や話芸などの体裁を模したりしながらプロ野球をおもしろおかしく語るスタイルの文章も発表していた。『タイガースへの鎮魂歌』にもその両方が収録されているが、タイガースファンの心理をうまく語っているのは後者のスタイルの方だという印象がある。何より、「人間ドラマ」と称するものばかりだったスポーツ読み物において、こうした「おもろい」文章で楽しませること自体が新鮮だった。(同じ関西人ということで「おもしろがりかた」が似ていたという事情もあるが)

 ネットでの玉木氏についての見方は千差万別で、スポーツ系の掲示板あたりではジャンルを問わず発生する「有名ライター叩き」の標的にもなっているようである。
 また、玉木氏の著作を好む人でも(『タイガースへの鎮魂歌』と同じ時期の)ひと昔前のものがいいという人、その中でも「おもしろ型」の文章には馴染めないという人、さまざまである。ただ「おもしろ型」に馴染むにはその元ネタの素養も必要とされるので、そのあたり好みが分かれるのかもしれない。最近の玉木氏はかつてのような「おもしろ型」の著作はめっきり減り、そのことを嘆く向きもあるが、それだけスポーツ(特にプロ野球)をとりまく環境が厳しくなり、お気楽な文章を書けなくなったということだろう。

 その他私的な面でもこの一九八五年というのはひときわ印象深い年だったが、それをさらに深くしたのがタイガースの優勝だったことはまちがいない。


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