タイガースファンの「心理」とタイガースフィーバー

―― 玉木正之『タイガースへの鎮魂歌(レクイエム)』と井上章一『「あと一球っ!」の精神史』を手がかりに ――

鈴谷 了





タイガースファンを「選択」すること
――筆者の場合――

 『プロ野球大事典』には【元服】という項目があって、こう書かれている。(引用は新潮文庫版)

 「関西地方に伝わる古くからある風習で、幼いころジャイアンツ・ファンだった少年がタイガース・ファンに心を入れ替えること。子供のころはミーハー的にジャイアンツのファンであっても、おとなになれば、深く人生の不条理を味わわせてくれるタイガースのファンに変身するという風習」

 玉木氏自身、もとは長嶋ファン(これは長じてからもそうだったようだが)でジャイアンツファンであったが、中学に入ったときに周囲の大人に習ってタイガースファンになったと書いている。また、井上氏も『あと一球』で「子供のころには読売ファンだったけれども、(中略)元服をしたような感じで阪神ファンになったという人が、七〇年代には出始めていた」と、同じような表現を用いている。

 筆者自身も実はこれにかなり近い体験をしている。といってもジャイアンツファンだったことはない。プロ野球そのものに無頓着、イノセンスな状態だったのだ。その原因は周囲の環境故にまともに野球をしたことがなかった、ということにつきる。(キャッチボール程度)

 そんな中で、幼稚園のころに使っていた弁当箱と浮輪は『巨人の星』があしらわれていたし、かぶっていた野球帽にはジャイアンツのマークがついていた。というより、それしかなかったのである。現在のように実際に使用されているもののレプリカが売られるようになるのは七〇年代後半に入ってからで、その頃はフェルトで作った球団のマークを普通の野球帽に縫いつけたものしか店には置いていなかった。そして七〇年代はじめ頃には、たとえ関西でもジャイアンツマークの帽子しかなかったらしいのだ。

 アンチジャイアンツであった筆者の父は、しかしそのことに関しては何も言わなかった。「巨人・大鵬・卵焼き」の時代だったこともあるだろうし、おそらく「子どものものなんだからいい」という割り切りもあったのだろう。

 その頃に筆者の家庭でも毎朝、朝日放送ラジオの「おはようパーソナリティー」を聞くようになった。パーソナリティーの中村鋭一氏が歌う「六甲颪」こと「タイガースの歌」をそのとき初めて聞いた。親から「タイガースが勝ったさかい六甲颪歌(うと)てはるわ」と聞かされた。井上氏が『阪神タイガースの正体』で掘り起こしたとおり、この番組こそが関西のタイガースファンに「六甲颪」を普及させ、ひいては「タイガース=関西の代表」という意識を植え付けることになった。とはいえ、そのときは何の歌かよくわからないというのが正直なところだった。(ちなみに筆者が「六甲颪」の歌詞を全部きちんと覚えたのは前回優勝の時である)

 筆者がタイガースファンに「目覚めた」のは一九七四年のことだ。親がテレビのプロ野球中継を見ているのを一緒に眺めていると、どうもジャイアンツのことが好きではないらしい、タイガースの勝ち負けを気にしているらしい、ということがわかってきたのである。それで、何とはなしにタイガースを応援するようになった。

 したがって、その前年に起きた、タイガースファンにとって長いトラウマとなった「マジック1からジャイアンツに逆転優勝を許す」という痛恨事はリアルタイムで体験していない。しかし、その年出ていた少年野球本には(前年三冠王を獲得した王の読み物に)早くもそのことが取りあげられており、筆者もすぐに知るところとなった。

 その当時、野球本の巻末についていた歴代のプロ野球優勝チームの年表を見たとき、「阪神」があまりに少ないことに驚き、(同時に「巨人」があまりに多いことに驚き)タイガースファンとしての意識を強めることになった。また、それまでかぶっていた帽子についていたマークの「意味」を理解し、即刻それをハサミで切り取った。

 とはいえ、筆者の親は「絶対タイガース」というほどではなく、「タイガースがダメだったらどこか(ジャイアンツ以外の)他の球団が勝ってもよい」という意識であり、その点に関しては筆者もそう変わらなかった。それは前年までジャイアンツがV9という非常識な勝ち方をしていたこともあるだろう。そう、一九七四年は(前年のタイガースが果たせなかった)ジャイアンツの10連覇阻止が星野仙一のいたドラゴンズによって成し遂げられ、長嶋が現役を引退したその年でもあったのだ。(ちなみにタイガースはこの年前半首位で折り返しながら、後半バテバテとなり四位に沈んだ。掛布がデビューした年でもある)したがって、筆者はかろうじて長嶋の現役時代を知る世代でもある。(とはいえ、例の引退試合以外はほとんど記憶にない)引退直後に出た少年向けの伝記を読んで、「天覧試合のサヨナラホームラン」というものを知ることになった。

 野球というものがある程度わかるようになり、タイガースファンの年月を重なるに連れ、その「不条理さ」というものも次第に認識した。つまり、むちゃくちゃ好調かと思えば一転して連敗を重ね、「もうあかんわ」と思いそうになるとまた勝つ、という「ファンの心を絶妙につなぎとめる」体質に気づいたのだ。そして優勝を争っても最後に脱落する、ということにも。とはいえ、優勝争いできる力はまだあったので、小学生でもまわりのタイガースファンは意気軒昂だった。

 井上氏は『あと一球』の中で、今江祥智氏の小説『冬の光』(一九八一年)から、京都に住む中学生の主人公が、学校でジャイアンツを批判して、ジャイアンツファンのクラスメイトに白眼視されたという記述を引いている。この作品の年代設定は一九七〇年代末期とあるので、この主人公はほぼ筆者と同年代だ。ここから井上氏は京都では当時タイガースファンはジャイアンツに比べて少数派だったと述べる。小学校高学年時代の筆者の場合は、周囲はジャイアンツが多数と言うほどではないが、ある程度はそれに近い状態だった。

 筆者が住んでいたのは、当時関西の大手私鉄で唯一プロ野球団を持たない会社の沿線だったので、その意味では(親会社の沿線という理由での)バイアスの少ないサンプルであろう。七〇年代も後半になると、子供用の野球帽にも実際に使われているものにかなり近いものが出回るようになり(当初はマークは相変わらずフェルト製だったが、そのうちオリジナル同様刺繍したものが出てきた)、そうした帽子の「色分け」によってどこのファンかというのが大体見当がついた。当時の印象から言えばやはり一番多いのはタイガースファン、ただしやはり圧倒的多数ではなかった。次がジャイアンツで(筆者のもっとも親しかった友人は「みっともないから」という理由でタイガース嫌いのジャイアンツファンだった)、その次は阪急ブレーブスだった。リーグ4連覇・日本シリーズ3連覇を達成した当時の阪急ブレーブスはまさに黄金時代、パリーグが年2シーズン制だったこともあって、阪急百貨店の優勝セールはさながら年中行事のごとくであった。「強いものに憧れる」というところからブレーブスファンになったものもそれなりにはいた。(当時熱心なブレーブスファンだった筆者のクラスメイトの一人は、約10年後に同窓会で会ったときにはライオンズファンに転向していた)バファローズや南海ホークスとなると帽子をかぶっているものは学年に一人いるかどうかという程度だった。バファローズの場合、当時すでに強くなり始めていたが黄金時代を迎えるのはもう少しあとのことだったし、南海ホークスの場合は沿線から遠すぎる(筆者は京都と大阪の間に住んでいた)という事情があった。このほかに、親が広島出身という理由でカープファンという者もいて、初優勝の年は大変威勢が良かった。

 筆者は前に書いたように、自分の帽子からジャイアンツマークをハサミで切り捨てた。とはいえ、帽子のマークでどこのファンということを色分けし、あれこれ言われるのが嫌で、それ以後ずっと「無地」の帽子をかぶり続け、「自分はそうした争いからはニュートラルだ」ということを宣言していたのである。実際のところ、一九七五年のカープ初優勝も一九七八年のスワローズ初優勝(余談だがタイガースはこの年球団史上初の最下位。そしてその年にスワローズファンのいしいひさいちが世に送ったのがかの「がんばれ!!タブチくん!」である)もそれなりに嬉しかったし、タイガースがダメならそれ以外でジャイアンツと優勝を争うチームを、そしてジャイアンツが優勝すれば日本シリーズではパリーグ球団に肩入れする(チームによっては消極的にだが)、というのが筆者の「楽しみ方」でもあった。

 それだけなら単なるアンチジャイアンツ、ということにもなろうが、関西人のかなりの層が持つ「弱いもの贔屓」という一面ともつながりがあるように考える。筆者の父はその当時パリーグで全盛を誇った阪急ブレーブスが勝つことを喜ばなかった。(それは、西本監督時代、パリーグでは圧倒的に強いのに日本シリーズでは川上監督率いるジャイアンツにことごとく敗れたこととも無縁ではないのだろうが)そうした気質を受け継いで、筆者もブレーブスよりはバファローズに肩入れする方だった。

 実際、大阪府民はPL学園が甲子園に出場してもあまり盛り上がらない。むしろ無名の公立高校が出場を果たしたりすると「よっしゃ、みんなで応援したろ」となる。

 いずれにせよ、筆者の小学生時代、周囲のプロ野球支持はそのような分布であった。さらにいえば、どの球場からも遠いという事情で、実際の観戦に行った者が少ないということも共通していた。(どこに行くにも最低一度は電車の乗換が必要で、一時間以上はかかった。甲子園のナイターなどとても小学生には見に行けなかった)

 タイガースは「万年二位」からだんだん三〜四位あたりが定位置に変わりつつあったが、前にも書いたように決して優勝に手が届かない戦力ではなかった。その点が一九八五年以降の歴史とは大きく異なるところだ。逆にむしろそれ故、タイガースファンの焦燥感が募ったという面もある。この間カープやバファローズ、スワローズといったかつての「お荷物球団」や、長らく遠ざかっていたライオンズやファイターズが優勝したことで、「何でタイガースだけが」という意識になったとしてもおかしなことではない。

 しかも、それまでに「いいところ」で優勝を逃す、という場面を一度ならず演じたことで、屈折したファン心理が形成された。この点については『タイガースへの鎮魂歌』に収録された、優勝以前に書かれた文章に描かれている。同時に、その期間にタイガースは(他の在阪球団を差し置いて)「関西の代表」という地位へと上り詰めたのだ。

 その理由の一端は『タイガースへの鎮魂歌』収録の「関西タイガース─その人気の秘密」という文章で考察されている。(この文章は優勝した年の夏、「ナンバー」のタイガース特集に掲載された)内容を要約すると、阪神電気鉄道という「中小企業」が親会社であり、また「阪神」という地域名に通じるネーミングを使っていることで、タイガースには親会社の宣伝臭が薄くなり、関西人が共通して「自分のチーム」と感じることができるのではないか。加えて、甲子園球場という舞台が「非日常の空間」を生みだし、そこで行われる試合に「祭り」という性格を与えている。そういう分析だ。

 二〇〇三年の日本シリーズは、総合力では明らかにホークスが上回っていた。しかし、甲子園球場の3試合ではタイガースはまさに神がかり的な勝ち方をした。甲子園はやはり「非日常の空間」なのだ。

 タイガースが阪神電鉄に結びつきにくい、というのは関西出身者として共感できる事実である。大学時代、阪神電車を日常的に利用するようになったとき、車内にタイガースの試合の案内が出ているのを見て「そういえば阪神ってタイガースの親会社だったんだ」と改めて気づいたくらいだ。しかし、そうしたタイガースの位置づけが、自然ななりゆきばかりではなく、メディア戦略によってもたらされた部分が少なくないことを明らかにしたのが井上氏である。


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