タイガースファンの「心理」とタイガースフィーバー

―― 玉木正之『タイガースへの鎮魂歌(レクイエム)』と井上章一『「あと一球っ!」の精神史』を手がかりに ――

鈴谷 了





「幻想」の担い手としてのタイガース

 『あと一球』において、井上氏はタイガースファンとして知られる作詞家の阿久悠氏の小説「球臣蔵」から次のような文章を引用している。

 「株式会社阪神タイガースが愛の対象にならなくても、人々が幻想として作り上げ、幻想ゆえに美しく悲しく存在した阪神タイガースは愛せるのである」

 まったく、日本のプロ野球十二球団の中で、タイガースほどファンの「幻想」の拠り所となってきたチームはないだろう。

 阿久氏と言えば、ピンクレディーに提供した「サウスポー」の歌詞は、(女性が歌うという事情による)「女性投手」という設定をはずして読むと、どう見てもタイガース時代の江夏をイメージしているとしか思えなかったりする。また、同時期に作った西武ライオンズの球団歌にも「ミラクル元年奇跡を呼んで」と、まるでタイガースのようなシチュエーションが歌われている。しかしそれらの事実を指摘する人は当時も極めて少なく、このあたりカムフラージュのうまい人だと思う。

 もちろん、どの球団のファンでも「こうあってほしい」という理想のチーム像がある。ただ、タイガースの場合はその「理想」と現実の乖離が最も大きい。あるいは、ファンの求める理想が最も高いといってもよいだろう。それは単に弱いチームに強くあってほしいというだけではない。ただ「勝つ」のではなく、「勝ち方」にこだわる。「タイガースらしいおもろい勝ち方」でないとあかん、というわけだ。あるいはたとえチームが強くなったとしても、何連覇もするような常勝チームになることには抵抗を感じる向きが多い。実際、一九八五年の優勝直後にファンに「今後どんなチームになってほしいか」という調査をしたところ、最も多かったのは「毎年優勝争いに加わって、数年に一度優勝するくらいのチーム」になってほしいものだったという記憶がある。

 逆に「幻想」から最も遠い球団はいうまでもなくジャイアンツである。「ともかく勝つ」ということを至上に掲げるジャイアンツは、勝って優勝を達成すればそれ以上の「幻想」は必要ではないし、ファンもそれを望むまい。世俗的な栄達の獲得、というきわめて現実的な目標を掲げ、善し悪しは措くとしてもそのためのシステム〜監督が誰であろうと4年に一度は優勝できるチームができる体制〜まで作り上げたのだ。(そのシステムには、メディアの圧倒的な力によって全国に「強いジャイアンツ」「常にマスコミに注目されるジャイアンツ」を喧伝し、それによってジャイアンツに憧れるプロ野球選手志望の青少年を増やして有望選手を獲得するという部分まで含まれる)

 東京に住むようになって周囲のジャイアンツファンに聞いて驚いたのが、彼らの多くが 「ペナントレースは(ジャイアンツが)独走するほどよい」と考えていたことだ。圧倒的な強さを見せつけることこそジャイアンツのあるべき姿だ、というわけだ。おそらくタイガースファンの多くはこの考えに同調しまい。ペナントレースは複数チームが接戦になる方がおもしろいし、一方的に勝つなどというのは「えげつない」と考えるだろう。実際、昨年まで過去にタイガースが優勝争いをしたシーズンはいずれも接戦だった。今シーズンについての考察はあとで。

 ジャイアンツの場合、球団・チーム・ファンのめざす方向が大体同じで、それは共有されている。(その中の「異分子」として長嶋茂雄という「個性」が存在する、という指摘を玉木・井上両氏ともしている)チームも「優勝」という方向に意識づけられている。 しかし、タイガースは球団は「経営」に熱心といわれる中で、チームは明確な方向を長い間持たなかった。ジャイアンツへの対抗心、といっても、親会社が同業という理由でジャイアンツに強い対抗意識を持つドラゴンズと比べると、タイガースのそれは「個人的意識」という部分が大きいように思われる。チーム自体がいわば「無色透明」だったことが、ファンの幻想の「受け皿」として機能する大きな要因になったのではないだろうか。

 井上氏・玉木氏という自らがタイガースファンである書き手にとっても、その「幻想」から自由なわけではない。自分もまたそういう幻想を抱いていることを認識しつつ、あえてそれを分析しようと試みたのがこれらの著作だといえる。

 井上氏は「こんな苦しい思いをするなら阪神ファンを辞めたいという気持ちはありました」と書きながら、球団の姑息でいい加減な体質にネガティブな気持ちをぶつけることで、幻想のタイガースへの愛を育んだと告白している。

 玉木氏もまた一九八五年の優勝の時には、「管理野球の時代に対するアンチテーゼとしての豪快奔放な野球」の担い手としてタイガースに夢を託した。ただ、玉木氏自身もそれが組織的・戦略的な方針の結果ではなく、偶然性の要素の強いものだということは認識していた。それ故、その年のシーズン終了後には「そうしたタイガースの野球が継続的な連覇をもたらすことはありえない」と断言し、これはそのまま当たってしまう。それでも玉木氏は『タイガースへの鎮魂歌』を、再びそうした瞬間が訪れることをひたすら待つ、と結んでいる。

 タイガースファンは「幻想」によって「現実」に対応し続けてきた。その副産物として生み出されたのが、球団やファンにまつわる数々のフォークロアだ。中でも有名なものは「球団は年俸の高騰を恐れて、優勝より二位がよいと考えている。だから優勝できないのだ」というものだ。一九六〇年代から七〇年代にかけて球団社長を務めた人物が、冗談めかして記者の前でこうしたことを口にしたといわれる。それから派生したものが、「マジック1」から優勝を逃した一九七三年のシーズンに関する話だ。残り2試合1引き分けで優勝というときに、球団幹部が監督や選手に「優勝しなくていい」と言っていた、という噂である。この話は『タイガースへの鎮魂歌』に収録されている文章にも登場する。九〇年代に入ってからこの話は「江夏が試合前日に球団に呼ばれてそう言われた」とディティールが細かくなる。ついには江夏自身もそれを評伝(後藤正治『左腕の誇り』)で証言するに至る。

 井上氏は『阪神タイガースの正体』で、江夏自身の証言を踏まえてなお、このエピソードにはタイガースファンの抱くフォークロアとしての側面が捨てきれないと指摘する。

 他球団でこれに近いエピソードとしては、一九七八年にスワローズが初優勝したとき、シーズン中に球団幹部が当時の広岡監督に「二位でいい」と言ったという話があり、『プロ野球大事典』にも紹介されている。この話も真偽のほどは不明だが、当時のオーナーがジャイアンツファンだったという事情もあり、かなりタイガースに近い体質を持っていたとはいえそうだ。

 それとは性格が違うが、一九八五年の優勝後に語られた「カーネルサンダースの呪い」も、タイガースが低迷する「説明」として広く流布した。これらの説はいずれも、しばらくたってから「優勝できない理由」を探そうとしたときに、格好の説明として冗談半分に流布したのである。

 筆者は「ET(江夏・田淵)の呪い」というものを考えたことがある。この二人をトレードで放出した次のシーズンはタイガースはいずれも優勝争いに絡む健闘を見せたが結局優勝できず。一方この二人はともにトレードから4年後に優勝・日本一を経験した。タイガースが二十一年ぶりの優勝を果たしたのは、この二人が揃って現役を引退した次の年だったのだ。

 本当にこうしたフォークロアにささやかれているような事情が原因でタイガースが優勝を逃したり低迷したりしている、と心から信じていたファンはいなかっただろう。戦力が弱いとか監督の指導力に問題がある、といった「ありきたりな説明」では、タイガースが「理想のタイガース」にならない理由としておもしろくない、納得がいかないという気分がそうしたうわさ話を生み出しているのだろう。そのベクトルが自らに向くとき、「こんなアホな球団を応援してますねん」という「自虐的な語り」となり、外に向くときには「巨人はこういう汚いことをする、えげつない」という別の種類のフォークロアとなる。

 興味深いことに、アメリカのメジャーリーグでもなかなか優勝できないチームにはこうした「呪い」の話がある。今年ヤンキースとアメリカンリーグの優勝を争ったレッドソックスには「バンビーノの呪い」(ベーブルースをヤンキースにトレードしたこと)が、またナショナルリーグのチャンピオンを逃したカブスには「ヤギの呪い」(前回ワールドシリーズに出場したときに、いつもヤギを連れて観戦していたファンの入場を拒否した)が語られている。

 今年もやはり浮上した「カーネルサンダースの呪い」のある記事で、井上氏は「ファンが本気でそういうことを信じているのではなく、関西らしいネタとして流布したのではないか」ということを発言していた。だからといって、井上氏はそんなフォークロアをアホ臭いものだとは言っていない。むしろ井上氏自身もそうしたフォークロアを愛しているのではないか?と思える向きもある。というのは、『あと一球』にはこういう記述があるからだ。

 「うわさによると読売新聞東京本社には、『読売猛虎会』というような会があるという。時々屋上に集まって『六甲おろし』を歌っているらしい。それが配管をつたってオーナーである渡辺さんの部屋に聞こえているといいます」。

 このあとに「ほんまかいなと思いますね」と続けているので、これをそのまま井上氏が信じているわけではないようだが、実はこのフォークロアの出所は玉木氏の文章なのである。『タイガースへの鎮魂歌』に収録されている「トラキチは奇人・変人・マゾ集団」という文章(一九八二年発表)に、この集団が「ヨミウリ・タイガース・ファンクラブ(読虎会)」という名称で、十名前後のメンバーがおり、一日の仕事始めに屋上に集まって「六甲おろし」を歌っているという紹介がされている。文章はそのあと次のように続く。

 「さすがに彼らは、自分たちのおかれた微妙な立場が気になるのか、歌声はできる限り低く潜めてはいる。(中略)そして、虎の咆哮を模した歌詞は、ときには屋上の換気ダクトを逆流し、九階にある東京読売巨人軍事務所のなかへ流れ込み、ジャイアンツ関係者を呪うように響き渡るという─」

 内容がほぼ一致するのがおわかりいただけるだろう。「歌声がダクトを逆流する」というのはもちろん確認されて書かれた事実ではないが、そういう集団が存在したことは事実のようである。この内容は東都書房版「大事典」に【読虎会(よみとらかい)】という項目で記載されたが、そこには「現在彼らはこの怨歌を歌うのをやめ、『ジャイアンツにももう少し強なってもらわんとなぁ』と笑顔で語り合っている」とあり、最初の取材から3年後の時点ではまだこの会が存在し、玉木氏がメンバーと接触可能だったことがわかる。しかし、さらに4年後に出た新潮文庫版「大事典」では「もっとも、これは一九八〇年代初期に伝え聞いた話であり、いまはどうなっているやら……」と書かれていて、ここで読虎会は追跡不能な伝説の存在になってしまったのだ。にもかかわらず、それから10年以上経過した今年まで、この話は一人歩きして生きていたというわけである。

 こうしたフォークロアはいわば、民俗信仰に付属してくる説話の類に近い。「理想のチームにならない」のは現実が間違っているからだ、というのは宗教原理主義の立場とそんなに変わらない。信仰?そう、タイガースファンの心理をこの二人は宗教にも擬している。

 玉木氏の『プロ野球大事典』にはこうある。

 【甲子園詣】キリスト教徒はエルサレムへ、イスラム教徒はメッカへ、タイガース・ファンのトラキチは甲子園へ詣でる。(中略)もちろん、トラキチたちは、甲子園球場に詣でるわけだから、そこで行われる試合の結果などには頓着しないのである。

 一方井上氏は甲子園のライトスタンドの観客の行動は、ほとんど宗教の信者と変わりがないと書く。ファンの思いは「祈り」であり、それゆえ「奇跡」の待望論が起こるのであると。そしてまた、タイガースが長く優勝から遠ざかったことで、その信仰は「勝利」という現世利益ではなく、「来世」的なものを志向するものになったという。

 「宗教」と考えれば、なるほどなぜタイガースファンがあそこまで「たかがプロ野球」に入れ込めるのか、説明は付きやすい。グッズはお布施であり、選手への応援歌と振り付けは「踊念仏」のたぐいというわけだ。もちろん、他の球団のファンだってグッズを持ったり応援歌を歌ったりしている。しかし、タイガースの場合、玉木氏も書いているがたとえばいい年をした男が阪神電車の中で、応援グッズに身を固めていたとしても、「場」から浮いているなどということはない。それだけ「地域宗教」として根付いているということである。(ただし、井上氏は関西に見られる「非・タイガースファン」「ジャイアンツファン」を白眼視するような態度は「いやらしい」と批判している。この点は筆者も大いに賛同するものだ)

 しかし、今回の優勝がその「地域宗教」という性格を変えてしまうのではないか、という仮説が井上氏の著書の最後の方に出てくる。


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