伊賀上野と恭仁(くに)京再訪

清瀬 六朗



3.

「ステンショ」の碑(26KB)
 恭仁大橋の北側で見つけた道しるべ 「加茂ステンショ」という表現が時代を感じさせる。「駅」という訳語が定着するまで、駅は「ステンショ」と呼ばれていた。Stationの音訳(?)である。また距離も「里‐丁」で表記されている。たぶん明治時代の石碑だ。

 かなりの距離を歩いたと思う。西日が金色の光を投げかけていた。夕暮れどきだ。

 靴を買い変えたばかりで、しかも靴のサイズが合っていなかった。しかもふだんの運動不足がたたったのだろう。一日歩きつづけて、足がマメだらけになってしまった。歩くことはできるが、足を下ろすたびに足の裏に痛みが走る。

 でも気もちはよかった。高校のころに戻ったような気分だった。部活で遅くなって家に帰るときのような、疲れてはいるけれども充実した一日を送ったという感じがあった。ただ、こんなふうに考えると、「でもこれから帰るのは高校生のころの自分の家ではない」という考えが続いてくる。それで、わかりきっていることだけれども軽い失望に似た感じがしてきてしまう。

 あのころは自分の家に帰るのをなんとも思っていなかったけれども、一人で東京に出てきて仕事をしていると「学校が終わったら家に帰る」のがあたりまえになっていたのが貴重な境遇だったと思える。


忍者電車(伊賀上野〜上野市)(24KB)
忍者電車(伊賀上野〜上野市)

 加茂から亀山方面行きの列車に乗って伊賀上野に戻る。車輌の一部についているボックス席に座り、木津川の流れを見下ろす。川沿いから山間を抜ける沿線風景にもなじんできた。列車はほんものの部活から帰る現役中学生・高校生がかたまって乗っていたが、私の座っているボックスには他のお客さんは来なかった。

 伊賀上野からこんどは近鉄電車に乗ってみることにした。

 近鉄伊賀線は、伊賀上野から上野市駅を経て伊賀神戸(かんべ)まで通じている。伊賀神戸は、大阪の上本町(うえほんまち)難波(なんば)と伊勢方面や名古屋方面をつなぐ幹線の近鉄大阪線の駅だ。関西線と近鉄線とは三重県内をずっと並行して走っていて、奈良県を出てからは四日市附近まで交わらない。三重県の内陸部でその二本の鉄道を繋ぐ唯一の線路がこの近鉄伊賀線だ。当初は伊賀神戸から先の西名張という駅まで運行していたが、この区間はもう40年も前に廃止されたらしい(伊賀線の沿革については近鉄の→こちらのページに詳しい)。

 で、私の乗った電車がくの一を車体にペイントした忍者電車だった。前面だけではなく、側面にも同じキャラクターの横姿が描いてある。まあ伊賀忍者の里だからね。あとで鈴谷了さんにきいたところでは松本零二のデザインなんだそうである。言われてみれば、たしかに……。

 忍者電車は私の乗ったかぎりでは2編成あって、ピンク色の一編成が伊賀上野と上野市駅のあいだ、ブルーの一編成が上野市駅から伊賀神戸のあいだを往復しているようだ。私は上野市でブルーの編成のほうに乗り継いだので、その両方に乗ることができた。この忍者電車にかぎらず近鉄伊賀線の電車は2両編成で、両方の車輌のデザインは基本的に同じだ。つまりどちらを向いて走るときにも顔が正面に向くようになっている。

 電車の側面には、ピンクの電車には手裏剣が、ブルーの電車にはなぜかネコが描いてある。使い魔なんだろうか? というより忍者に使い魔っていたっけ? なお、電車の内部は他の電車と同じのようだ。なお、ネットを見ていると忍者電車の昔の写真も見ることができる(「近鉄 伊賀線 忍者 電車」で検索してみてください)。塗装は少しずつ変わっているようにも思える。

 伊賀上野を出た電車はしばらく関西線と並行して加茂や奈良の方向に走り、上野の街を行きすぎたあたりで方向を変えて南に向かう。

 途中駅は無人駅だ。切符を厳密にチェックする仕組みにはなっていないようで、実際には乗客がきちんとおカネを払って切符を買うものと信用して成り立っている「信用乗車」らしい(伊賀上野、上野市、伊賀神戸などターミナルにはちゃんと改札がある)。ジェイアール関西線のほうはワンマン運転の運転士がバスの運転手と同じように厳密にチェックしている。

 路面電車の本の書評で書いたように、「信用乗車」が成り立つことが鉄道のコストダウンにつながる。これと同じ仕組みを都会を走る路面電車で行えるかが鍵になるはずだ。現状では、不正乗車が発覚したときの制裁金に制限があるため、ヨーロッパと同じように不正乗車に対する厳しい制裁を組み合わせた「信用乗車」は成り立たないらしい。どこかの都市が「構造改革特区」を利用して実験してみないだろうか?

 でなければ、切符をぜんぶICカードにしてしまうかだ。シンガポールや香港では、普通の切符もSuicaやICOCAのようなプリペイド式ICカードにしているらしい。これを組み合わせると、すべての駅にそのカードの自動販売機を設置し、電車に乗るときに電車のドアのところで電波でチェックして課金し、余ったカネを下車した駅でカードと引き換えに返還する仕組みができる。もしあとでまた同じ電車を使うのだったらカードをそのまま持って出てもいい。ただ、いまこれを導入すると、システムトラブルで二重課金とか、無人駅で自動販売機荒らしとか起こりそうである。

 これもどこかの都市が「構造改革特区」で実験してみないかな? それにしても、社会主義国が資本主義を導入するときに使った「特区」という制度を資本主義の日本で使うなんて……これでは「日本はじつは社会主義国でした」と白状するようなものではないか、と思ったりして。

 まあ、1929年の大恐慌のあとの自由主義国は多かれ少なかれ「社会主義」の要素を採り入れているので、べつに日本だけが特殊だと考えることはないと思うんですけどね。


 伊賀線は街の西側をしばらく南下し、西側からまた大きく東に向きを変えて町の中心部に入る。お城のすぐ南側の中心街を西から東へと横切るのだ。つまり、伊賀上野駅からまっすぐ南下するのではなく、大きく西側を回って街の中心に入りこむのだ。服部川が流れていたり、お城があったりして、まっすぐ南へと線路をつけられなかったのだろうが、それにしても大回りである。

 電車が町の中心に入ると家や店の裏の軒を掠めて走る。東京の都電荒川線や江ノ電と同じ(おもむき)がある。ほどなく上野市駅に着いた。ここで電車を乗り換えなければならない。伊賀線の電車は、伊賀上野から伊賀神戸まで直通で走っておらず、上野市駅で乗り換えなければならないのだ。

 最初は線路がつながっていないのだろうと思った。この駅とは別の駅舎があって、そこから伊賀神戸行きが出ているに違いない。むかし乗ったことのある同じ近鉄の田原本(たわらもと)線は、王寺(おうじ)駅で生駒(いこま)線に接続するのだけれど、じつは田原本線の駅は「新王寺」で、王寺駅までいったん改札を出て歩かなければいけなかったように覚えている。ここもたぶん同じなのだ。いっしょに乗ってきたお客さんもどんどん改札を出て行く。

 それで私も改札を出ようとして切符を見せると、駅員さんに「どこまで行くんですか?」と呼び止められた。「伊賀神戸ですが」というと「そっちの青い電車に乗ってください」と言われた。島型ホームの反対側の線路に停まっていたブルーの忍者電車だ。「すぐ出ますよ」と言われたのだけど、時刻表を見ると発車まで少し時間がある。

 同じ駅で乗り換えられるんだとすると、なんで直通運転していないのか?

 それで考えたのが、ゲージ(レールの幅)が違うのではないかということだ。

 関西の私鉄の多くはヨーロッパの標準ゲージと同じ4フィート8インチ半(約1478ミリ)を採用している。ジェイアールは新幹線以外は3フィート6インチ(約1067ミリ)ゲージである(首都圏の私鉄もこのゲージが多い)。軽便鉄道ではこのジェイアールのゲージより狭いゲージを使っているばあいがある。たとえば2フィート6インチ(約762ミリ)ゲージなどだ。で、私の少し古い「鉄」的知識によると、近鉄線は基本的には標準ゲージだけれど、ジェイアールと同じゲージの線や軽便ゲージの線もあったはずだ。伊賀上野を出たときに、伊賀上野から上野市までのゲージがジェイアールと同じ狭いゲージだということは確かめている。

 もしかすると、上野市から伊賀神戸までは、さらに狭い軽便ゲージなのではないか? あるいは逆に他の近鉄線と同じ標準ゲージなのか? あんまり標準ゲージのようには見えないけれど。

 でもそうではなかった。伊賀上野から乗ってきた線路と、この先の伊賀神戸までの線路は、駅を出たところで合流している。ということは同じゲージなのだ。

 ではどうして直通運転をしていないのだろう? 私にはわからない。たんに「伊賀神戸から伊賀上野まで直通で乗る乗客が少ない」という平凡な理由が正しいのだろうか。

 ホームをうろうろしているうちに発車時間が来たので私はブルーの忍者電車に乗った。電車は、やはり家の裏軒を掠めるようにして町を西に向かい、「広小路」駅のあたりで南に曲がって伊賀神戸に向かう。このあたりで日が暮れてきた。電車は伊賀盆地を南下していく。関東の鉄道に較べてばかりで恐縮だが、私のふだんの活動範囲が首都圏なので容赦していただくとすると、なんか前に相模線に乗ったときの雰囲気になんか似ているように感じる。


忍者電車(上野市〜伊賀神戸)(18KB)
忍者電車(上野市〜伊賀神戸)

 伊賀神戸に着いたときにはもう日が暮れていた。伊賀神戸の伊賀線のホームから向こうの大阪線のホームを見ると、盛んに電車が発着しており、眺めているあいだに特急電車が通過して行ったりして、なんか昨日の晩から乗ってきた電車や気動車の世界からすると別世界の向こう岸を見ているように感じる。

 同じ電車に乗ったまま折り返すというのはやっぱりよろしくないのでいちおう下りてみる。伊賀神戸駅では、伊賀線のホームを出るところに駅員さんと乗務員さんが人垣を作っていて(てゆーかピケットライン?)切符をチェックしている。この駅はなかなか厳格である。

 そのまま改札を抜けたのだけれど、外は暗くて町の様子がわからない。ふだんなら、それでも外に出てみて、そこがどんな町か、自分の乗る電車が出るまでの時間に歩いてみるのだけれど、なにぶん足を下ろすたびに足の裏から痛みが走るような状態で、正常に歩けていない状態である。夜を迎えつつある町をその状態で歩くだけの元気が出なくて、そのまま改札を出たところで切符を買い、改札内に逆戻りし、もとのホームに逆戻りした。

 ホームの入り口(さっきは出口だった同じ場所だが)のところに人垣を作っていた駅員さん・乗務員さんに照れ笑いしてホームに入る。駅員さんたちはいま出て行ったばかりの客だとは気づかなかったようだ。まあ駅員さんにしてみれば同じ客がすぐ戻ってこようがどうしようがどうでもいいことだよねぇ。駅員や乗務員の人たちが同じ客をどの程度まで同定(アイデンティファイ)しているのか知りたいところではある。まあ鉄道会社にしてみれば手の内を明かさないほうが不正乗車に対する抑止力になっていいのだろうけど。

 帰りの切符は広小路駅まで買った。広小路駅はこの線の駅としては上野市市街地のなかでいちばん東側にある。泊まっているホテルも市街地の東のはずれにあるので、この広小路駅で下りればちょうどいいと思ったわけだ。


 ところで、市の名が上野で、駅が広小路である。この広小路駅を出てすぐの町は赤坂という。また、伊賀上野駅周辺の地名は三田である。訪れなかったけれど、市役所のあるところは「丸の内」らしい。

 なんか東京の地名に似ている。

 これは東京の地名を取って名づけたものではない。徳川幕府初期に伊勢・伊賀両国を支配した藤堂高虎(たかとら)が、上野でも江戸でもそれまで地名がはっきりしなかった土地に「三田」とか「赤坂」とか適当に名まえをつけたらしい。

 新興住宅地の造成が全国で盛んだったころ、その地名のつけかたが無個性で在来の地名とも調和しないと盛んに批判されたものだった。でもそういう名づけかたは江戸の昔からあったのだ。しかもそれで東京でもたぶん上野でも人びとの暮らしに定着しているんだから、いいんじゃないかと思うのだが。

 で、銀座線の上野広小路駅ではなく、近鉄伊賀線の広小路駅で下りた。このあたりが芭蕉翁の出生地だという(「翁」といっても「奥の細道」の旅のときにまだ40歳代である)。前に行った深川の芭蕉庵跡とはまた雰囲気が違う。

 山間の盆地で、町の中央の少し高くなったところに城がある。それほど大きくない町だ。芭蕉の家は武士と農民の中間のような身分だったらしいから、生まれたころにはその出生地はまだ農村部だったのだ。芭蕉は30歳前後で江戸に出て、最初は市中に住み、30歳代後半になって深川に引っ越した。江戸は海沿いの町で、山ははるかに遠い(いまではビルの陰になったり大気が濁っていたりするせいでなかなかその遠くの山も見えないが)。山のなかの盆地の町から出てきてそんな町に住むというのはどんな気もちだったのだろう?


 それはいいのだけれど、この駅で下りたからと言って、さてどこへどう行っていいかかわらない。ホテルはここよりも関西線に近いほうにあるのはわかっているから、北へ向かって歩いていた。すると町の路地に入りこんでしまって、自分がどこにいるのかわからない。また迷ってしまった。

 地理をよく知らない町で、それも夜に、知らない駅で下りて、きわめてアバウトな見当だけで歩くからだ。しかも、市街地のなかは、地名や街の特徴を知っていればそれが手がかりになるけれども、そうでなければ街の個性がつかみにくく自分のいる場所がわかりにくい。

 私は東京の二三区内ならば知らない街に出ても時間さえかければしばらくうろつき回っていればだいたいどちらの方向に行けばどこに出るかの見当はつけられる。鉄道と川の流れをいちおうは知っているからだ。終電が出てしまって、かなり遠くの駅から夜中の道を歩いて帰ってきたこともある。

 でも、私も、東京に出てきたばかりのころはそうではなかった。東京に出てきて一か月ぐらいしか経っていなかったころ、夜に近所の公園から自分のアパートまで歩こうとして、ほんの5分か10分の道で迷ったことがある。あとで確かめてみると、そのまま歩いていれば自分の知っている場所に出られたのだけれども、気もちがあせってくるから途中でへんなほうに曲がってしまう。しかも、そうなると、自分が迷っているという気もちがあるものだから、自分の知っている道を通っているのにそれに気づかない。逆にぜんぜん違う場所を自分の知っている場所と誤認してしまったりする。このときは心細くてしかたがなかった。

 そのときと同じような状況だ。こんどは前日の夜に思いきり迷っているのでそれほど焦りはしなかったが、そのかわり足が痛い。早く楽な道を通ってたどり着きたいという邪念があるからか、なかなか迷っているところを抜け出せない。

 歩いていると坂道に出た。坂道の途中に、お地蔵様だったか、仏様の小さなお堂があって、そこには電気があかあかと灯っている。道を逸れてお堂で手を合わせ、また坂を下っていくと、川沿いの道に出た。たしかに昨日渡った服部川だ。だが何か様子が違う。橋があったので渡ったのだけれど、渡った先は昨日の町並みとぜんぜん違っている。

 ここまで来ると遠くにライトアップされたお城が見えた。市街地のなかだとかえって近すぎて見えないお城が、少し城から離れた川沿いまで来たために見えるようになったのだ。お城が見えるとだいたい位置関係がわかる。泊まっているホテルからだとお城は南西のほうに見えなければいけないのだけれど、ここからは真西に見える。つまり泊まっているところからはまだずっと南にいるのだ。歩く方向はまちがっていなかった。距離の見当を大きくまちがっていただけだ。


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