「戦前昭和」の民主主義的伝統を考える


坂野(ばんの)潤治

昭和史の決定的瞬間

ちくま新書(筑摩書房)、2004年


2.


 私は、この本を読むまで、著者が1936〜37(昭和11〜12)年を戦前史の「決定的」な時期と見なしていることの理由がよくわからなかった。

 二・二六事件のことは(毎年、2月26日に六本木で開かれている押井守イベントに行っているぐらいだから)いちおうは知っていた。けれどもこの前後の政治史はどうも地味で何の特徴もない時期のように思っていた。

 五・一五事件が「政党政治の終わり」ではないとしても、政党が首相を出して政党が政治体制をまとめていけるような時期は終わっている。一方で、日中全面戦争開戦後に本格的に華々しく展開する「近衛新体制」運動はこの時期にはまだ本格的に始まっていない(この評で少し触れた林内閣の衆議院解散と右翼三会派の育成計画がいちおうこの運動と関係がある)。この本が「決定的」だと言っている時期は、政友‐民政二大政党による「政党政治」と、強力なファシズム政党を目指して挫折した「近衛新体制」運動との「谷間」の時期にあたる。ぜんぜん目立たない。斎藤‐岡田‐広田‐林という、犬養首相が殺害された後の歴代首相も何か個性が感じられず、それぞれの内閣の特徴もよくつかめていなかった。何が「決定的」なのかさっぱりわからなかったのだ。

 それを、じつは日本の民主化が劇的に進んだ「決定的」な時期だったのだと鮮やかに描き出したのがこの坂野氏の業績である。


 日本は1930年代半ばで劇的に民主化していた。軍部は保守政党・自由主義政党と「狭義国防」で妥協した時点で影響力を後退させていた。そのままもう何度かの総選挙を繰り返せば、日本はヨーロッパと同じような「保守・自由‐社会民主」という政党制を持つ民主主義国家になっていたはずだ。その勢いを抑えこんだのが戦争だったというわけだ。

 すべては、幾多の困難を乗り越えた後に、順調に進んでいたのだ。それを戦争という事態が決定的に打ち壊した。

 ――ロマンチックで悲劇的な1930年代日本政治史の解釈である。しかも、この不条理さは、ワーグナーの楽劇というより(というのは、ワーグナーの作品では悲劇的なことが発生するには必ずそれがなぜ起こったかが描かれているから)、ヴェルディのオペラのようだ。


 こういう描きかたに対して寄せられる批判は、「実現しなかったことは何とでも言える」ということだろう。すべてを戦争のせいにしてしまえば、戦争がなければという仮定を持ちこめばどんな理想的な「あり得た歴史」でも書けてしまう。三方原(みかたがはら)の戦いの直後に武田信玄が病死していなければ日本を統一したのは織田信長ではなく信玄だったはずだ、とか、レイテ湾海戦(日本側公式名称「フィリピン沖海戦」。1944(昭和19)年10月)で栗田艦隊がレイテ湾に突入していればマッカーサー軍は大打撃を受けて日本はあんな大敗北はせずにすんだはずだ、とかいうのと同じだ……。

 しかし、著者はこのような批判には同意しない。

 「実現しなかったけれど、あり得た歴史」(歴史のイフ)は必ず現実の歴史に影響を与えている。その例を著者はこの本でいくつか挙げている。だから、「実現しなかったけれど、あり得た歴史」について考えることには十分に意味があるというのだ。

 その例の一つは宇垣協力内閣構想である。著者は、実現しなかった宇垣内閣を「平和と資本主義」の内閣とし、実現した林内閣を「戦争と社会主義」の内閣として、「平和と資本主義」が「平和」を嫌う軍部と「資本主義」に強く反発する社会大衆党の抵抗を押し切ることができなかったと見る。そして、その結果として、軍部主導の林内閣に「狭義国防」論を媒介に資本主義勢力の政友会・民政党が接近を果たし、林内閣は社会大衆党の期待に反して「戦争と資本主義」の内閣となる。これによって社会大衆党は「戦争」との関係から自由になり、日本の民主化が進む条件が整った。宇垣内閣構想の流産がなければ、社会大衆党と軍部の結びつきは切ることができず、1937(昭和12)年の劇的な民主化はなかったということだろう。

 もう一つは、その宇垣内閣構想にも関係のある二・二六事件についてだ。二・二六事件で青年将校たちが求めた国家改造構想は実現しなかった。しかし、それは天皇機関説・政党政治擁護の立場にあった天皇側近勢力を弱体化させて政治的影響力を奪い、「平和重視」の宇垣内閣を「流産」させることにつながった。直接に国家改造をなし遂げられなかった青年将校たちも、このようなかたちで「平和と資本主義」勢力(著者は天皇と天皇側近勢力はこのグループに属すると考える)に打撃を与えていたのだという。

 「実現しなかったけれど、あり得た歴史」は現実の歴史過程にしっかりと影響を与えているという考えかたは私はまずおもしろいと思った。

 量子力学のある解釈によると、私たちの世界とは別の世界が無数に存在していて、それは普通は私たちの世界とはまったく関係を持てないのだが、細かい粒子のレベルではそういう「別の世界」が影響力を持ち、私たちの世界のあり方を決めているという(→和田純夫『量子力学が語る世界像』の評。それに発想が似ているなと思ったのだ。

 量子力学だけではなく、歴史のような「人文・社会科学」でも「多世界性」という要素を考えに入れていかなければいけないのだろう。

 現実の世界の出来事は、現実の世界だけではなく、無数の「あり得た世界」の重なり合いのなかに存在しているというのが量子力学(のある解釈)の世界観だ。さまざまな可能性のなかに、私たちがいま見聞きし接し暮らしている世界のあり方が存在する。しかもそれはその世界のあり方によっては現在私たちがいる世界と同じぐらいの確率で存在していた可能性がある。だから、過去のことを考えるときにも現在を考えるときにも、その「あり得た世界」を考えに入れなければ、その時代の像を的確に描ききることができない。

 ただ、そうだとすれば、歴史を研究する上でも「ここに実現してはいないけれど、あり得た世界」の語りかたを注意深く作り上げていく必要がある。実現していないことならば何でも「現実の世界」と同じように実現したというのでは、架空戦記とかにはなり得ても、歴史研究にならない。量子力学でも「ごく小さい微粒子はどんな動きをする可能性もあるから、世界はどんなあり方になっていてもあたりまえだ」という乱暴な理論は採らない。粒子の状態それぞれに「この状態になり得た確率」を計算し、その確率の計算と統計の上に理論を成り立たせている。だから量子力学は非常に難しいのだ。歴史については、「この状態になり得た確率」を数学的に厳密に計算することはできないけれども、「実現しなかったできごとに、どれぐらい実現性があったか」を常に考えることは必要だろう。

 著者もそのことに留意して話を進めている。たとえば、宇垣「流産」内閣を語る際にも、宇垣内閣は十分に成立する可能性があり、しかし最後の一段階(天皇側近勢力の弱体化)の影響で成立を阻止されたのだから、「宇垣内閣が成立していれば」という可能性を考えに入れる必要があると著者は論じている。けっしてどんな可能性も平等に考えて歴史像を作っているわけではない。


 著者は、自分の方法を「当時の知識人の眼を借りる」と表現している。実際、この本には、美濃部達吉、蝋山(ろうやま)正道、河合栄治郎、戸坂潤(マルクス主義哲学者)、中野重治(しげはる)(マルクス主義的文学者。日本共産党史のなかで独特の役割を果たした)、武藤貞一(軍事評論家、朝日新聞論説委員)らの同時代評論が多く引用されている。

 このことにも、たぶん「実現しなかったけれどあり得た世界」を考えに入れる著者の方法が反映しているのだろう。

 歴史学の研究では「一次史料」が重要視される。政治史でいえば、政治の当事者がその当時に書き記したものや、その時代に発行された文書などである。歴史学研究で信頼できる「一次史料」と認められるための条件は厳格である。当事者が書いたものであっても後からの回想などは信頼性が低いと評価されるし、当事者ではない周囲の人が書いたこともやはり信頼されない。ほかに史料がなければ、それほど厳格に「一次史料」と言えないものであっても利用してかまわないが、そうではないばあい、「一次史料」ではない史料は「一次史料」を読み解くための補助にしか使ってはいけないというのが基本的な考えかたである(もちろん一次史料だって信頼性を厳格にチェックしてから利用しなければいけない)

 この時代でいうと、信頼できる史料は各政治家・軍人の日記や各省庁などの公的な記録である。そういうものが存在しているのに、当事者ではない当時の知識人や評論家が言ったり書いたりしたことなどをわざわざ使うというのは、歴史研究では「邪道」っぽいやり方だった。そういうものは、学問史や思想史の研究のための史料にはなるけれども、政治史研究の直接の史料にしてはいけないというのが学壇の雰囲気なのではないかと思う。

 だが、著者は、同時代の大学知識人・哲学者・作家・評論家の書いたものを、その時代のあり方を表現する史料として重視している。

 この方法をどう考えればいいだろう?

 こういう方法に危険がともなうのは確かだ。まず、だれをその時代の代表的人物として選ぶかによって時代像が違うものになってしまうからだ。また、知識人と一般の人たちではものの見かたがぜんぜん違うこともある。そのうち、現在まで残っているのは、知識人の考えかたのほうだ。知識人が時代をある見かたで見ていたとしても、知識人以外の人びとはぜんぜん別の見かたをしていた可能性もある。一般の人がその時代にどうものを見ていたかを知るのはけっこう難しい。一般の人たちの残した記録はなかなか公開されないからだ。

 また、その時代を生きた人たちは、その時代の制約を受けている。その時代の人にはよく見えていなかったものごとがじつはその時代を性格づける本質的なものごとであるかも知れない。逆に、その時代の人たちが非常に大きな変革だと思ったことが、じつは一時的な流行にすぎなかったということもあるだろう。

 そういう制約を考えずに無批判に受け入れてしまえば、「その時代の一部の人たちが見ていた歴史」を「その時代の歴史」として描いてしまう危険性がたしかにある。

 ただ、だからといって、その時代の「知識人の眼を借りる」という方法が悪い方法だということにはならない。


 現在の歴史研究者が描く歴史は「その時代の一部の人たちが見ていた歴史」よりも広い視野で書かれた客観的な歴史と言えるのだろうか?

 下手をすると、客観的で信頼できる一次史料ばかりを優先することの結果として、歴史研究者自身が持っている「後世の人」としてのものの見かたがふるい落とされることのないまま自分の描く歴史像に入りこんでしまうのではないだろうか?

 それに、客観的で信頼できる一次史料は、その当時の政治家の日記だったり、その当時の公式文書だったりする。たしかに信頼はできるかも知れないが、そういう文書はその時代の限られた人びとの目にしか触れなかったものだ。その時代の一部の人たちしか見なかった史料と後世の歴史研究者とがじかに対面しただけで、はたしてその時代の歴史像を適切に再現できるのだろうか?

 できるばあいもあるに違いない。けれども、後世の歴史家と「一次史料」との直接の対面によって描かれた歴史が、「その時代の一部の人たちが見ていた歴史」よりもその時代の歴史像により近く迫れているとは限らない。逆に言うと、「その時代の一部の人たちが見ていた歴史」も、その人がどういう人だったかについての注意を怠らなければ、立派にその時代の実際の姿に近い歴史像を描く重要な道筋になりうるだろう。

 また、その時代の信頼できる史料と後世の歴史研究者との直接の対面によって書かれた歴史に、じつは同時代の一部のひとが見ていた歴史像が紛れこんでいる可能性がある。研究者本人がその可能性に気づかないばあい、それは、意識的にその時代の知識人の書いたものを利用したばあいよりも問題が大きいかも知れない。

 たとえば、この評で何度も出てきた政友会と民政党の二大政党による第二次大戦までの日本の政党制度は、これまで政党政治としてはきわめて不十分なものであり、民主主義の名に値するようなものではなかったと低い評価を与えられてきた。

 だが、実際には、明治憲法の下でも衆議院が予算の決定権を与えられていた。したがってどんな専制政府も衆議院を無視しては政治を自由に進めることができず、だから、どんな政府でも衆議院を支配する政党の力には一定の配慮をしなければならなかった。それは、1890(明治23)年の第一議会からこの本に出てくる1930年代まで同じであった。また、限界はあったし、また現在の政治にも見られる選挙区への利益誘導のような問題も起こしたけれども、政党は選挙民の代表としてがんばった。当時の明治憲法が基本的に政党政治ができないように作られた憲法であったにしては、相当ながんばりようだったと言っていいと思う。

 その明治憲法下の政党を低く評価した勢力とはいったいどういう勢力だったか?

 一つは共産党である。共産党は、1928(昭和3)年の男子普通選挙施行と同時に大弾圧を受け(1928(昭和3)年三・一五事件、1929(昭和4)年四・一六事件)、この二大政党の政党制から排除されていた。当然ながら、そんな二大政党制をまともな二大政党制と評価するわけがない。

 もう一つ、政党を低く評価した勢力というと軍部である。1920〜30年代の政党政治など本格的なものでもなかったし、戦前の日本の民主主義などきわめて不十分なものだったという見かたをしてその時代の史料に接するならば、それはその時代の共産党や軍部の歴史観と同じ視点から歴史を見ていることに重なってしまう可能性があるのだ。

 そのことに歴史研究者自身が気づいていて、自分自身で戦前の政党制がたいしたものでないと考える根拠をきちんと説明するのならばいいけれども、気づいていなければやはり問題だろうと思う。


 知識人の見かただけではその時代の姿の一面しか見ることができないという批判についても、政治史については必ずしもそうは言えないと思う。

 現在でも、知識人ではない一般庶民が感じる「民主主義」と知識人が考える「民主主義」は違うのではないだろうか? 知識人ではない人びとの「民主主義」感覚や、知識人でも知識人としての活動を離れた場での「民主主義」感覚は、たとえ議論が堂々めぐりでもともかく表立って反対する人が出なくなるまで話し合うとか、与えられたものはみんなで分け合い損も苦労もみんなで分かち合うとかいう共同体倫理のようなものを意味しているのではないかと思う。

 もちろんそういう共同体倫理としての「民主主義」から歴史を見ることも重要だろうと思う。けれども、中世の後半以来、共同体倫理というのは時代によって大きく変化することがなかったものだ。それに、共同体倫理というのは生活に密着した場の感覚なので、その感覚だけで国政を評価するのは難しい。

 先日の選挙で、選挙民は年金問題や二大政党制の是非に関心を示した。だが、年金改革をめぐってどんな問題があるかとか、二大政党制が実現するとどういうメリットがあるかとかを一般の人たちに解説し、選挙民の関心の持ちかたに影響を与えたのは、さまざまな立場の(政党組織や官僚組織に属する人も含めた)知識人だった。年金問題をどう考えるかとか、二大政党制はよい制度かどうかとかは、共同体倫理だけでは十分に判断することができない。

 そういうことを考えると、知識人が政治をどう考えていたかを検証するのは、その時代の政治がどんな政治だったかを考えるうえで重要なことではないかと私は思う。


 しかし、だとしても、1937(昭和12)年の政治が民主主義に向かっていたというのはその時代の一部の知識人の希望的観測による読みまちがいではないのか?

 この本の著者はその読みまちがいをそのまま引き継いで1937(昭和12)年が日本民主化の重要な一年になるはずだったと思いこんだのではないか?

 それに対して、この本の著者は、選挙結果を示すことで、その民主化の傾向は確かなものだったという。1936(昭和11)年の選挙では、都市型自由主義政党の民政党が議席を伸ばし、社会主義政党の社会大衆党が議席を10台後半に載せた。政友会の復古主義的・非民主主義的な方向性は二・二六事件で後退し、しばらくは民政党と行動を共にするようになる。1937(昭和12)年の総選挙では社会大衆党がさらに勢力を増大させ、都市部では民政党の地盤を脅かすまでになった。その後の地方都市の市会議員選挙でも社会大衆党の躍進はつづく。変化の方向性は一貫しており、一時的なものではない関連年表・第二の危機。それがこの本の著者の判断である。

 私自身はこの考えかたを支持したいと思う。この「民主主義」への流れは、戦争を国家の最優先目標に置く総動員体制のなかで、その総動員を支えるメンタリティーとして存続した(この私の見通しには著者は同意しないかも知れない)。そして、戦争が終わり、議会制民主主義が復活した後、1946(昭和21)年、とくに混乱を起こすことなく二大保守政党(自由党と進歩党)と社会党を中心とする政党制が再建されたのである。社会党は1937(昭和12)年の社会大衆党の議席数のほぼ2倍半にあたる93議席を獲得した(他に中道政党の協同党が14議席、共産党が5議席)。この社会党の躍進はやはり1936〜37(昭和11〜12)年の社会大衆党の躍進を引き継いだものと考えるのが妥当だと私は思う。ちなみに、このときの二大保守政党が社会党の勢力増大を前に合同してできたのが現在の自由民主党だ。


 著者は、その着実で継続的な民主化への流れを強引に中断したのが戦争の勃発だったという。国内政治の流れとはつながりの薄いところで勃発した日中戦争の全面化で、民主化の流れは中断され、国内政治の流れは総力戦体制へとすばやく切り替わった。

 だが、この戦争の勃発が避けられないものだったとしたら、どちらにしてもこの民主化の動きは中断される運命にあったのではないか?

 日中全面戦争の勃発が必然だったかどうかについては著者は何とも言っていない。ただ、当時の政治指導層が、日中戦争は一時的衝突に終わり、日ソ戦争こそがその後に予期される大戦争だと考えたこと、そのなかにあって、戸坂潤・中野重治のようなマルクス主義的知識人と右翼的軍事評論家の武藤貞一が日中戦争の長期化と総力戦への発展を予期していたことを記しているだけだ。

 日中戦争の全面化は必然に近かったと私は思う。抗日戦争に活路を見出そうとしていた毛沢東の共産党はもとより、その共産党を弾圧してきた国民党も、いつかは日本の侵略と戦わなければならないと覚悟を決めていた。国民党は満洲国の樹立をはじめとする日本の中国への介入をけっして認めたのではなく、日本と戦える条件が整うまで黙認していただけなのだ(日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部 編『太平洋戦争への道』2〜3)。その中国側の姿勢と、日本中心の東アジア新秩序を目指す日本の姿勢とは相当に違ったもので、日中戦争の全面化はいつかは必至だっただろう。ただし、「戦争と資本主義」の結合を果たした林内閣(1937(昭和12)年2〜5月)は、「戦争」的なアプローチを抑え「資本主義」的な中国へのアプローチを採る佐藤尚武(なおたけ)を外相に起用した。「資本主義」的なアプローチを重視したからといって中国との対立が本質的に解消したとは言えないけれども、もしかすると戦争の全面化はもう少し後になったかも知れない。

 ただ、全面的日中戦争の勃発がもう少し後になったとしても、ヨーロッパでは日本の同盟国のドイツが戦争を始めるわけだから、戦争には発展したのではないだろうか?

 可能性だけを考えるならば、日本で「戦争と資本主義」の林政権にかえて「平和と社会民主主義」の政権が成立していれば、日独同盟を破棄し、中国との関係を調整し、第二次大戦を中立で乗り切る――というシナリオも考えられなくはない。しかしさすがにそこまでは無理だっただろう。社会大衆党がいかに躍進したといっても、社会大衆党もその後身の社会党も現在に至るまで衆議院の単独過半数を取れていないからだ(現在では社会民主党はかつての社会大衆党より弱い政党になってしまった)。それに、中国との関係の調整が万一成功していたとしても、その場合には日ソ戦争が起こっていた可能性がある。そうなれば、やはり民主化は封殺され、日本の政治体制は総動員体制へと切り換えられていただろう。

 ただ、先に書いたように、このとき実現しなかった「民主化」があったからこそ、戦後民主主義は戦後の混乱期にいち早く出発することができたのだと思う。歴史のなかで実現しなかったものごとも、歴史には何らかの影響を与える。この戦後民主主義の成立もそういう例なのではないかと私は思う。


 この本での考えの枠組では、「ファシズム」と「社会主義、民主主義」とはまったく別のものとされている。この本では「ファシズム」についてきちんと定義が行われているわけではないのだけれど、文章の流れから読めば軍部独裁を含む「立憲的ではない独裁」(というのは、「立憲独裁」ということばはファシズムとは別のものとして出てくるから)を指していると考えていいだろう。

 「ファシズム」というのは論争になりやすい概念だ。1980年代ごろからは日本の昭和10年代の体制を表現するのに「ファシズム」は使わないほうが普通になってきたように私は思う。

 日本はいちおう別として、イタリアやドイツのファシズム、それに政権に就くことのなかったイギリスのファシズムの系譜をたどると、社会主義と接触がある。ドイツのナチス党の正式名称は国民社会主義ドイツ労働者党で、マルクス主義には明確に反対していたけれど、ともかく自分の党は「社会主義」の「労働者」の党だという認識を持っていた。イタリアのファシスト指導者だったムッソリーニは社会主義の一種であるサンディカリズムの活動家だった。イギリスのファシズム運動の指導者モーズリーはもともと労働党の幹部だった。

 そう考えたとき、果たして日本の社会大衆党は社会民主主義の政党であって、「ファシズム」(軍事独裁)への志向を持つ軍部との関係はたんに戦略的なものだったのかという疑問はある。

 たとえば、社会大衆党が躍進した1937(昭和12)年4月総選挙後の『中央公論』誌上での座談会がこの本に紹介されている。そのなかで、社会大衆党から出席した三輪寿壮(じゅそう)(のち大政翼賛会幹部、東京裁判で岸信介の弁護人、社会党代議士という興味深い生涯をたどる)は、一方でファシズムへの反対こそが国民の支持を得ていると発言しつつ、他方で政友‐民政両党による二大政党制を「旧い」と決めつけている(183〜184ページ)。ここで「ファシズム」と言っているのは、話の流れから見て、林内閣とその政権運営の手法のことのようだ。しかし、では、「旧い」二大政党制にかえて、三輪が構想している「新しい」体制とはどんな体制だろうか?

 ここの文章を読むかぎりでは、保守二大政党(保守‐自由二大政党)のみを二大政党と言い、社会民主主義政党をのけ者にするような体制が「旧い」のであって、議会制民主主義でも、保守党と社会民主主義政党、または保守‐自由連合と社会主義政党という対立ならば「新しい」と三輪は言いたいようである。だが、それに限られるだろうか?

 この時代には議会制民主主義が唯一の民主主義的体制だとは考えられなかった時代である。著者も紹介しているように、反民主主義的な明治憲法をめいっぱい民主主義的に解釈した憲法学者の美濃部達吉が、反民主主義的保守政党が多数を占める議会の主導権を認めるよりはと、議会を横にどけて政界・産業界・労働界の指導者によって結成される国策審議機関を置くべきだ――一種のコーポラティズム(協調主義)の主張である――と主張したほどなのだ。

 だとすれば、社会大衆党も、議会制にかえて別の体制を模索したとしてもおかしくはない。何しろ、社会大衆党よりもずっと議会で成功してきた政友会にしてからが、陸軍内部の「ファシズム」的な「皇道派」勢力と提携してきたほどなのである。この座談会のときには、議会選挙で社会大衆党が躍進していた時期だから、社会大衆党は議会制そのものを批判していなくても当然である。だが、社会大衆党の躍進が党自身の期待ほどではなくなったとき、戦争による総動員体制への切り替えがなかったとしても、社会大衆党が何らかの「ファシズム」的な方向性に進んでいた可能性はやはりあるのではないだろうか? 少なくとも、社会大衆党の一部の幹部がふたたび「ファシズム」への傾向を強めた可能性は大いにある。

 こんなことを書くのは、戦時体制下での「ファシズム」との深い結びつきゆえに、その出発点からファシズム的勢力だったと考えられがちな社会大衆党を、その汚名から救出したいという著者の意図をあえて破壊するためではない。

 そうではなく、この1930年代には議会制民主主義が自明の体制ではなかったことを強調したいのだ。そして、そのことは、私たちの時代にも議会制民主主義はもしかして私たちが見ているほどしっかりした基礎をもっていないのかも知れないという危惧に私を導く。

 私は別にむやみに軍国主義とか全体主義とかの足音が近づいていると不安を煽りたいわけではない。ただ、議会民主主義そのものの存立の根拠に思いをいたさないで、たとえば「二大政党制の成立」といった目標に浮かれていたら、もしかするとどこかで足もとをすくわれるのではないかという恐れを感じないではない。何しろ、失業者の増大とか、国際的地位が低下しているのではないかという恐怖とか、国内に住む外国人の数の増大とか、組織されていない中間層の先行きへの不安とか、「強い指導者」への期待とか、現在の日本には政治を「ファシズム」へと向かわせかねない要素がごろごろしているのだから。フランスの国粋主義政党「国民戦線」のような勢力が出現して、選挙で多くの議席を取るという事態も、まったく考えられない状態ではないと私は思っている。しかし、だからといって「日本軍国主義復活の危機!」とか声高に叫んで回っても何も事態は変わらないだろうとも思う。


 この本から感じるのは、著者の1930年代知識人への時を超えた連帯意識である。これはじつは著者の本にはいつも感じることだ。著者は、明治の民権運動家に対しても、大正デモクラシー時代の知識人に対しても、著者は自分の仲間であるかのような熱い連帯意識を持っている。

 そして、それは、同時に、自分が生きている時代の日本の政治や知識人のあり方への強い違和感に裏打ちされているようにも思う。その根本にあるのは、しっかりと「戦前」の遺産を受け継いでいながら、そんなものはなかったかのように「戦前」をひたすら否定的に描いた上に成り立ってきた「戦後民主主義」の知識人への違和感と言っていいだろう(これは私が「PAX JAPONICAをめぐる冒険」「押井守の最後最大の戦い」で書いたことのネタである)。一方で、著者は、自民党にも自民党の保守的イデオロギーにも共感していないように思われる。

 その両方に共通するのは、「戦前」を保守の時代、「戦後」を革新や進歩の時代として、まるきり別の時代のように捉える認識だ。また、その両方とも、ろくな「民主主義」のなかった日本に民主主義を持ってきたアメリカ合衆国の役割を大きく評価する――「押しつけ」として否定的に評価するか、「解放軍」のように肯定的に評価するかは別として。

 そうじゃないというのが、著者が強烈な苛立ちとともに言いたいことなのだ。自由主義も民主主義も社会民主主義も1945(昭和20)年には日本の「伝統」のなかにあり、それが戦後民主主義を形づくったのである。しかし、その「伝統」はわざと忘れ去られ、無視されてしまった。

 著者はその「忘れ去られた伝統」の復活を懐古趣味的に主張しているわけではない。著者の問題意識はもっと切迫したものだ。1930年代までの民主主義の伝統のなかに私たちがいま考えなければならない問題が示されていると考えているのだ。

 その代表的なものとしてこの本で強調されているのは「改革と現状維持」と「戦争と平和」の問題である。

 国民としては「改革と平和」が結びついてくれればたぶんいちばんいいのだろう。だが、1930年代の民主主義ではそううまくは行かなかった。「平和」を強く求める民政党は資本主義の「現状維持」にしがみつき、それに対抗して、「改革」を求める社会大衆党は「戦争」を目指す(少なくとも対ソ戦争または対米戦争が戦える国家づくりを目指す)軍部に接近を図った。それは、「平和と現状維持」を目指す宇垣内閣構想が「流産」し、林内閣の下で軍部と政友会・民政党の中途半端な妥協の結果として「戦争と現状維持」が選択された結果、ようやく社会大衆党に「平和と改革」の期待が集まった。しかしそれが現実のものになる前に現実の戦争が始まってしまう(もしかすると、このときの幻の「平和と改革」志向が戦後の社会党に引き継がれたのかも知れない)

 著者はこれを今日の「改革と抵抗勢力」と「イラク派兵推進論と慎重論・反対論」とに重ね合わせる。「派兵推進論」をより「戦争」に近い選択だとすれば(著者が1930年代の政治情勢について「戦争」と表現しているのも、けっして具体的に戦争を始めるとか参戦するとかいう意味ではない)、小泉首相‐安倍幹事長の姿勢は「戦争‐改革」であり、自民党内「抵抗勢力」は「平和(イラク派兵に反対または慎重)‐現状維持」となる。

 もちろん、著者自身が書いているように、1930年代の「改革」と今日の「改革」ではなかみが違う。また、イラク派兵の問題には対米関係が深く絡んでおり、軍部独裁や軍部の影響力拡大を目指す軍部も存在しないので、「戦争‐平和/改革‐現状維持」を取り巻く環境も大きく違う。

 にもかかわらず、著者は「改革」によって現状を変更しようとすれば「戦争」に近づきがちで、「平和」を守ろうとすれば逆にその他の部分でも現状変更を嫌って「反改革・現状維持」に近づきがちだという、1930年代から(いや、たぶん、元老政治の打破を目指した第二次大隈内閣が中国に「二十一か条要求」を突きつけた1915(大正4)年から、いや、もしかするともっと前から)一貫する日本政治の体質に注意を促す。

 「平和」と「改革」がどうして結びつきにくいのか? それは著者も明確には説明していないように思えるし、私にもわからない。もしかすると、日本人の「平和」志向は「現状維持」の志向に強く結びついているのかも知れない。つまり、いまの生活や環境を変えたくないという思いの一環として「平和」を求める心がある。そのため、「改革」へと心を向けたとたんに、「平和」を求める心も消し飛んでしまう。「平和」を願う心は、もしかすると、私たち自身が考えているほどにも積極的な意思ではないのかも知れない。

 現在の日本でも、平和勢力であり、同時に改革勢力であることはそうかんたんなことではないようだ。そのことに、政治家自身や、政治を論じる知識人、そして知識人の言論を聞いて政治家を選ぶ国民の注意をもっと向けさせたい。そのためには、「戦前」の歴史を自分たちの時代に直接につながる歴史として、その「伝統」を評価しなおす必要がある。それが著者がこの本にこめた熱いメッセージなのではないかと思う。


―― おわり ――


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