イラク戦争について思うこと

清瀬 六朗



7.

 ただ、日本は、第二次大戦終結時には無力な国家だったのが、冷戦体制のなかで経済大国として「復興」していたため、その「民主的な国際協調体制」にすなおに溶けこんでいくことができなかった。「民主的な国際協調体制」のなかで「大国」としての役割を果たすためには、その体制を護持し、発展させるために軍事力を供出することを求められたからである。それは日本国憲法の予定していた「国際社会」像とは食い違うものだった。

 ところで、冷戦状況が実現しなかったら日本はどうなっていただろうか。日米安保体制によってアメリカの軍事体制のもとに組みこまれることもなく、平和主義を貫いていただろうか。

 あるいはそうだったかも知れない。しかし、同時に、第二次大戦終結時の連合国の戦後世界秩序構想が実現していれば、東アジアの中心国家は最初から中国だったはずである。しかも、その中国は、中国共産党の革命の起こっていない中国だったはずだ。日米安保条約は締結されなかったかも知れない。けれども、軍事力を持たない日本は、そのかわりに独立後も五大国と安全保障条約を結ばされ、五大国の軍事的共同管理の下に置かれていたかも知れない。中国が中国共産党の支配下に置かれ、冷戦体制が固まったことで、日本は東アジアの資本主義世界の中心国家としての地位を与えられた。そのことが日本の経済「復興」を支え、日本が経済大国になっていく契機となったのである。

 「冷戦がなければ」というばあいのことを考えるならば、冷戦と日米安保体制によって可能になった経済繁栄があったかというところから考え直さなければならないはずだ。「冷戦がなければ」という仮定の下で、「経済繁栄は享受し、日米安保の束縛は受けない日本」というのを構想するとしたら、それはあまりに身勝手というものだ。

 ともかく、1990年代の日本はその「民主的な国際協調体制」からは距離を置いた。そのおかげで、日本は、「民主的な国際協調体制」がアメリカ合衆国の理念とその軍事的都合ででっち上げられたものだということを早くから見抜くことはできた。けれども、その半面として、民主主義や平和を実現するためには軍事力が必要なばあいもあるのではないかという問題を考える機会を日本は失ってしまった。

 憲法の話を出してしまったので、ここでもう少し憲法の話を続けよう。

 日本では、現在の日本国憲法を支持する人も支持しない人も、「戦争放棄は世界に例のない日本国憲法だけの特徴」だと思っている傾向が強いように思う。

 しかしこの思いこみは私はおかしいと思っている。とくに、「平和憲法」支持者が「日本だけが平和憲法を持っているのを誇りにすべきだ」という議論をすることがある。「世界よりも進んでいる平和主義憲法」という表現に接することもある。心情的平和主義者の私は、こういう考えかたは非常に危なっかしいといつも思っている。それは「日本以外の国はみんな好戦憲法や侵略憲法を持っている」とか「日本以外の国は遅れた憲法を持っている」とか言っているのと同じことだからだ。早い話が、「大東亜共栄圏」イデオロギーの思想家が、当時の天皇をいただく日本の体制について「万邦無比の国体」と誇りにしていたのと同じ姿勢である。平和主義者ならばもっと日本以外の国のことを意識して発言すべきだろう。

 それに関連して、もう一つ、「戦後思想」についても、「戦後思想」擁護派・批判派の双方に思いこみがあるんじゃないかと感じている点がある。

 ここで「戦後思想」というのは、日本の「戦後」を肯定的に捉えて、民主主義・平和主義や福祉国家主義をひたすら理想主義的に追い求める態度のことをいう。このような「戦後思想」は、肯定する立場からは、「戦前」・「戦中」の「軍国主義」と、それが生み出した戦争の悲惨さへの痛切な反省から、「戦後」になって生み出されたものとされるし、非難する立場からは占領軍の宣伝による「押しつけ」ということになる。

 たしかに、占領軍の主体をなしていたのはアメリカ合衆国軍で、そのアメリカ合衆国は当時はニューディール時代の思想傾向をまだ色濃く残していた。1929年末からの大恐慌に直面して「自由放任」と「小さな政府」によるそれまでの自由主義的な政治を否定し、国土開発や福祉政策によって経済の回復を図ったのがニューディール政策である。それまでのアメリカ民主主義が「政府がなるべく国民生活のじゃまをしない民主主義」であったのに対して、ニューディールは「政府が国民生活の面倒を見る民主主義」であった。そういう民主主義観を持ったニューディール派の政治家や軍人がまだ多くいて、それがアメリカの占領政策に大きな影響を与えていた。それが戦後日本の政治体制の大枠を決めるのに一定の役割を果たし、思想にも影響を与えたことは確かである。

 しかし、「戦後思想」は「戦後」になってとつぜん始まったものではない。それは「戦前」からあり、いわゆる「十五年戦争」(満洲事変勃発〜太平洋戦争終結)期にも絶えることなく続いていた思想的態度なんじゃないかと私は思っている。

 じつは、「戦後思想」は「十五年戦争」期の思想とは正反対の思想であり、「十五年戦争」期の思想の主流とはまったく違う流れであると、私自身もずっと思っていた。ところが、あるとき、太平洋戦争開戦を挟む昭和15年(1940年)頃から17年(1942年)頃までの雑誌記事や論説をまとめて読んでいて、その論調があまりに理想主義的なのに驚いた。

 日本はこの時点で中国では先の見えない戦争を続けていたし、フランス領インドシナ(現在のベトナム・ラオス・カンボジア三国)への軍隊進駐もこの時期に強行している。それなのに、雑誌に出てくる論説記事などを読むと、論調が非常に理想主義的なのである。「これから新しい時代が始まるのだ」という期待に高揚した気分が読みとれる。

 もちろんその中心は「大東亜共栄圏」的なイデオロギーである。発言する者にも偏りがあったし、発言内容も政府のコントロール下にあった。社会主義者や共産主義者、急進的な民主主義者などは沈黙を強いられていたし、石橋湛山(たんざん)(「小日本主義」で日本の植民地帝国化を批判した。戦後、首相になる)のような自由主義者も、事実上、発言の場を制限されていた。現在と違って出版物の検閲もあり、当時の日本の体制が許容できない文章や単語は削除されたり伏せ字にされたりした。

 もっとも、それでは「進歩的」な発言がすべて封殺されたかというと、そうではない。たとえば、社会主義者のなかには、その社会主義を国家主義と結合させることで、当時の体制の擁護者や推進者へと転身(「転向」)していった人びともいた。戦時体制下の言論は、一部分は、1920年代までの自由主義的・民主主義的な議論を確かに継承しているのである。それどころか、国家主義と結合した屈折したかたちではあったけれども、社会主義さえ「戦前」・「戦中」のイデオロギーへと続いている。

 その「大東亜共栄圏」的なイデオロギーは、「これから諸民族の協調による新しい理想的な時代が始まるのだ」という感覚で語られている。「これからは世界史の授業でも世界のいろいろな民族のことを教えなければならない」などという「国際主義」っぽい発言もあった。日本は平和を希求しているのだという発言もよく目にした。現実に戦地で展開されていたはずの先の見えない状況と、思想の上で語られることばとのあいだに、こんなに大きなズレがあったのだ。

 日本の「戦後思想」は、この「大東亜共栄圏」下の理想主義を継承して成立したものなのではないか。「戦後思想」が民主主義や平和主義に対して理想主義的な態度をとるようになったのは、それはじつは「戦前」・「戦中」の「大東亜共栄圏」的なイデオロギーの理想主義的な態度を受け継いでいるからではないか。私はそういうふうに思うようになっている。

 これはべつに私の独創ではないことは断っておくべきだろう。私が太平洋戦争開戦前後の雑誌記事や論説を調べたのは、近年の「カルチュラル・スタディーズ」(「文化研究」)のなかで「ポストコロニアリズム」(とりあえず「脱植民地主義」論とでも解しておくのが適当だろうか)などと称している議論の「戦後思想」批判を読んだことがきっかけだった。「戦後思想」は「戦前」や「戦中」の思想と連続性がある、だから「戦後思想」には限界があるという批判である。それを国家主義とは逆のナショナリズム批判の立場から行っているのがその「ポストコロニアル」論であった。ほんとうだろうか、と思って、太平洋戦争開戦前後の雑誌記事・論説を読んでみたのである。

 話を憲法の平和主義の話に戻す。

 平和主義は日本国憲法でとつぜんに出現したものではない。その起源は、第一次世界大戦後に主要国間で締結された不戦条約にある。さらに言えば、第一次世界大戦が、開戦時の予想を裏切って長期戦争になり、非常に凄惨な戦争になってしまったことへの反省から出発している。

 19世紀の戦争観というのは、クラウゼヴィッツが定式化したように、「戦争は外交の継続である」というものであった。ある国際的な紛争について、外交交渉での解決が失敗した以上は、戦争でその紛争を解決してかまわないという考えかたがあったのだ。その時期のヨーロッパでは、戦争は主として軍隊どうしで戦われ、基本的に短期決戦で勝敗を決するものだとされていたのである。

 ところが、それが第一次大戦では通用せず、戦線が膠着して勝敗が決しないまま犠牲者だけが増えていくという悲惨な戦争になってしまった。そこで、その反省から、自衛戦争以外の戦争はやめようというルールが世界に共有されることになったのである。それは、第一次世界大戦後の国際協調体制の一環だった。

 ところが、日本では、第一次世界大戦でその凄惨な戦場を経験していないために、不戦条約の意味する理念が十分に理解されなかった。不戦条約締結問題は、その一部分「人民の名において」ということばをめぐる主要政党間の揚げ足取り合戦に利用されただけだった。そのあとまもなく満洲事変が起こされ、日本は国際協調体制から離脱してしまう。だから、日本人の多くにとっては不戦条約の理念は敗戦を迎えるまで縁遠いものだった。それだけに日本国憲法の第九条が非常に斬新なものとして印象づけられたのではないだろうか。

 たしかに軍隊を保持しないとまで言い切っている国は少ないだろう。それが適当なのかどうかの議論はここではしない。ただ、よく指摘されるように、憲法第九条を「絶対に軍隊を持ってはならない」とは定めていないと読む解釈もありうることは確認しておいたほうがいいだろう。憲法第九条は二つの「項」で構成されていて、第一項で日本が拠って立つ平和主義の原則が記され、第二項で「前項の目的を達するため」に軍隊は持たないと書かれている。日本が拠って立つ平和主義の原則を「自衛のためには軍事力行使も容認する」と読めば、日本は軍隊は持てることになる。実際に自衛隊の存在を認めているのはこの憲法解釈によるはずである。だから、そういう解釈をとる以上は、無理して「自衛隊は軍隊ではない」と言い張る必要はないと私は思っている。

 その「軍隊を持たない」という規定を「自衛のためでも軍隊は持てない」と解釈するのは別にかまわない。心情的にはたぶんそのほうがすなおな解釈なのだろうと思う。けれども、「軍隊を持たない」と定めた憲法を持つ国だけが平和主義の国であり、したがって日本は「平和主義の国」として特別なのだという思いこみはやめたほうがいいと思う。そういう議論の組み立てかたに私は「大東亜共栄圏」イデオロギーから「戦後思想」への連続性を感じてしまうのだ。平和は世界に共有されている理想なのであり、にもかかわらず、世界は平和でないのだと認識して対話を試みるのが平和主義として望ましい態度なのではないだろうか。


前に戻る ○ つづき




はじめに 1. 2. 3. 4. 5. 6. 7. 8. 9. 10. 11. 12. 13.