特権的古代史からあたりまえの古代史へ


平勢隆郎

中国の歴史 02 都市国家から中華へ 殷周 春秋戦国

講談社、2005年



3.


平勢さんの中国史像の独特さ

 ここで私がまとめたのが平勢さんの「いちばん古い古代」中国史像のまとめとして的確だとすると、普通に語られるその時代の中国史像(これは第1回に書いた)とは違うところがある。

 まず、春秋時代までの「国家」を「都市国家」と見て、春秋時代まではその「都市国家」が特定の都市国家を指導国とする「都市国家同盟」を形成していたという見かたは、これまではあまり強く打ち出されなかった。この見かたによると、まず、「都市国家同盟の時代」であったという点で、これまで殷・周(西周)・春秋と時代分けをしていた時期を連続して見ることになる。それに対して、都市国家時代である「殷・周・春秋」と領域国家時代へ移行する「戦国」との時代の断絶が強調される。その後まで含めて言えば、「殷・周・春秋」が都市国家時代、戦国時代が領域国家時代で、秦を経て漢の後期(紀元前1世紀)には統一帝国が安定する時代を迎える。「殷・周」の統一時代と「春秋・戦国」の分裂時代という分けかたとは明らかに分けかたの基準が異なる。

 この認識を平勢さんの史料批判論に結びつけると、その「都市国家時代から領域国家時代へ」の転換期に一度、「領域国家時代から統一帝国の安定期へ」の転換期にもう一度、歴史書の編纂の「波」があったということになる。領域国家時代への転換期に編纂された歴史書は、都市国家時代の歴史を領域国家時代に合わせて解釈し、論じている。統一帝国安定期への転換期に編纂された歴史書は、都市国家時代・領域国家時代の歴史を統一帝国時代に合わせて解釈し、論じている。だから、現在から領域国家時代の歴史を復元するためには、まず統一帝国安定期の歴史編纂の「波」の影響を取り除かなければならない。さらに都市国家時代の歴史を復元するためには統一帝国安定期と領域国家時代の二度の「波」の影響を取り除かなければならない。

 もっとも、平勢さんも書いているとおり、春秋時代までを都市国家時代と見る認識は「(ゆう)制国家論」という形でこれまでも語られていた。けれども、そういう見かたでも、殷・周・春秋時代という「王朝別」時代区分が基礎に据えられていた。殷・周・春秋時代が連続した「都市国家時代」だとはあまり認識されなかった。


「王朝交替」の質的な違い

 また、これも平勢さんが強調しているように、殷から周へという「王朝」交替自体が、たとえば秦から漢へ(紀元前3世紀)、隋から唐へ(7世紀)、明から(しん)へ(17世紀)という「王朝」交替とは異質だということもあまり強調されなかった。同じように、周の「統一」時代から春秋時代への変化を、後漢の統一時代から三国の分裂時代へ(3世紀)とか唐の統一時代から五代十国の分裂時代へ(10世紀)とかいう「統一から分裂へ」の変化とは異質だともあまり捉えられなかった。

 殷から周への「王朝」交替は複数存在した文化地域のなかで「中原区」内部のできごとだった。中原区以外でもそれぞれの文化地域内部で都市国家同盟の指導国交替があった。両湖区での楚の指導権確立、江浙区での呉から越への指導国交替などである。しかし、それは、殷から周への「王朝」交替と対等の意味を持つできごととして論じられては来なかった。

 また、文化地域全域を支配する都市国家同盟よりも下のレベルの都市国家同盟でも指導国交替があった。周の「東遷」事件はそうした指導国交替の一例だし、中原区の有力国で後に周にかわって中原区の指導国になる晋でも、もとの指導国から曲沃への指導国交替があった。

 いずれにしても、殷から周への「王朝」交替は、両湖区での楚の指導権確立や江浙区の呉から越への指導国交替に近い性格のできごとで、秦から漢へ、隋から唐へというような、「天下」全体を支配する王朝の交替とは大きく異なったものだったのだ。

 また、中原区の殷・周・晋などと、他の文化地域をまとめる秦・楚・呉・越・斉・燕などとの緊張関係は、周の「統一」時代(西周)も春秋時代(東周)もつづいていた。

 三国時代や五代十国時代には、「天下は統一されているべきもの」という考えが当然のこととして共有されていた。それにもかかわらず、現実にはさまざまな国・さまざまな王朝があって分裂していて、その時代の指導者や知識人はそのようなあり方を異常だと思っていた。だが、春秋時代には「天下は統一されているべきもの」という考え自体がまだ存在しなかった。だから、この時代の「分裂」は、とくに異常な事態とは認識されなかったのだ。

 そのような点を強調するのが平勢さんの議論の独特の点だろうと思う。


ただし私の「勇み足」もあるかも知れない

 もっとも、この評で多用している「都市国家同盟」という捉えかたは、古代地中海史の「デロス同盟」や「ペロポンネソス同盟」から私が持ちこんだもので、平勢さんが多用する用語ではない。また、その「都市国家同盟」が多重構造になっていて、たとえば「中原都市国家同盟」の下にさらに「周都市国家同盟」や「晋都市国家同盟」があったという説明も、平勢さんの議論をもとに私が考え出したものである。周の武王の「克殷」(殷を滅ぼす)事件や、紀元前7世紀後半の晋の「覇権」(「覇者」として他の都市国家に号令する地位とされる)の確立を「中原都市国家同盟」の指導国交替とし、殷(もし実在したとすれば夏も)のたび重なる「遷都」や周の「東遷」事件をその下のレベルの「殷都市国家同盟」や「周都市国家同盟」の指導国交替としたのも私の整理で、もしかすると平勢さんは「そんなことを言った覚えはない」とおっしゃるかも知れない。とくに、周から晋への「中原同盟」の指導国交替は私の勇み足の可能性もあるが……でも平勢さんが紹介している『竹書紀年』の構成は「……→夏→殷→周→晋→魏」となっているわけだから、歴史書編纂の「第一の波」の時期にそういう認識があったのは確かである。

 古代王朝は「女」と「子」の世界? ところで、夏「王朝」の王一族の姓は「じ」(Unicode:59D2、女+以)、殷「王朝」の姓は「子」、周「王朝」の姓は「姫」である。ただし、夏王朝は存在したとしても文字史料を残していないので、ほんとうに「じ」姓だったかどうかわからない。殷「王朝」の子孫(または殷都市国家同盟の生き残り)は戦国時代までいたが、「子」という姓はその国に伝えられたものだったのか? 平勢さんによると、「周正(しゅうせい)」という「周王朝の暦」は、当時も残っていた実在の周にはかかわりなく戦国諸国が作り上げたものらしいし、魯(中原同盟のうち周同盟に属する都市国家)の年代記とされる『春秋』は、隣国で海岱同盟の指導国であった斉が作り上げたものらしい。だから、殷王朝の姓が「子」であるというのも、実在の殷の子孫にはかかわりなくどこかででっち上げられたものである可能性もある。ただ、かりに夏「王朝」や殷「王朝」の姓が正しいとすると、夏と周の「姓」は「女」を部首に含み、殷の「姓」は「子」で、「女」とか「子」とか家族のメンバーを意味することばである。これには何か意味があるのだろうか? 夏の「じ」は「姉」の意味らしいので、夏:姉、殷:子(男の子?)、周:姫(女の子?)で「三人きょうだい」みたいな位置づけがあったのだろうか。それとも、そういう発想が出てくるのは、たんに萌えアニメの見過ぎですか? いちばん上は「夏子」で、まん中の男の子の「殷」は「ゆたか」と読めるらしいし、いちばん下は「周美」で「ちかみ」かな。だれかこの三人きょうだいで萌え話考えません? って、なんか話が違うほうに行ってしまった。


古代地中海世界との対比

 平勢さんは、それを日本の弥生時代から奈良時代への「国家統一」の流れと対比しているが、私はここで古代地中海世界の統一過程と比較してみた。こうやって整理してみることで、中国の殷時代から漢帝国の時代までの発展過程を、都市国家に過ぎなかったローマが、エジプトやシリアからイギリス(後のイングランド)までを含む大帝国へと成長した過程と比較することができるのではないかと思う。ローマの歴史も日本の歴史も「あたりまえの歴史」とは言えないかも知れない。だが、少なくとも、こうやって日本やローマの歴史と対比させることで、「中国は王朝とその皇帝の下で統一されて安定しているもの」という後からできた理念を投影させて中国の歴史を見る見かたからは自由になれるのではないかと思う。

 また、この「いちばん古い古代」について、古代地中海世界と対比して考えることは、「中国はなぜ統一国家でありつづけられたのか?」という根本的な疑問を考える手がかりにもなると私は思う。


なぜ地中海世界は統一しつづけられなかったのか?

 平勢さんが書いているとおり、「中国」を漢人が主に居住する地域だけに限ってみても、その広さはEU圏並みの広さだ。その広大な領域は、紀元前3世紀の秦の始皇帝の統一以後、一つの王朝の下に統一されてきた期間が長い。

 たしかに、長い分裂時代があったり、かたちのうえで統一されていても実質的には分裂していた期間があったり、また、13世紀のモンゴル時代以後の「統一」とそれより前の「統一」とでは内実が違うのではないか(この点の議論は第08巻『疾駆する草原の征服者』に期待しよう)という問題があったりはする。それでも、ともかく紀元前3世紀後半から紀元3世紀前半の秦漢帝国期、6世紀末から10世紀初頭の隋唐帝国期、10世紀後半から12世紀までの宋の時代、13世紀後半以後の元・明清帝国期と、中国(いちおう漢人が主に居住する地域のみを考える)は統一帝国でありつづけた。

 これに対して、古代地中海世界は、ローマによってイギリスからエジプト・シリアを含む大帝国に統一されながら、その後、分裂してしまって、現在も多くの国に分かれたままだ。

 話をヨーロッパに限ってみても、ヨーロッパ諸国は大きく東と西に分かれたままだった。たしかに、中世の西ヨーロッパには、形式的には一人のローマ教皇と一人の神聖ローマ皇帝しかいなかった。しかし、フランスやイギリス(「イギリス」というのがどこを指すかがじつはまた問題なのだが、ここではその問題には触れない)は神聖ローマ皇帝の支配を服していたわけではない。中国にも、形式的にいちおう一人の皇帝の下に統一されているが実際には分裂していた時代があった。しかし、神聖ローマ皇帝の支配権力は、そういう「実質分裂時代」の皇帝の権力よりもずっと小さいのが普通だった。しかも、中国では、「形式的に統一していても実質は分裂している」という状態はともかくも異常だと認識されたのに対して、ヨーロッパではそのような皇帝権力のあり方がむしろ普通だった。

 ヨーロッパでも、ときどき「統合」へ向かう動きは現れた。16〜17世紀、ハプスブルク王朝はスペインとオーストリアの支配権を手に収め、ヨーロッパを統一する勢いを示すが、17世紀前半の三十年戦争に敗れて挫折した。ナポレオンのボナパルト王朝も、ナチスのドイツ第三帝国も、全ヨーロッパを支配下に収めようとするが、やはり挫折している。現在も「ヨーロッパ統合」の動きはあるが、最近の「憲法条約」をめぐる動きが示すように、ある段階以上の統合には、さまざまな立場からの抵抗が生じる。

 古代地中海帝国のうち、ヨーロッパ以外の部分については、16世紀にオスマン帝国が統一を果たし、19世紀まで、少なくとも形式的にはその統一を守りつづける。だが、オスマン帝国の統合も、現在のトルコとギリシア周辺を除けば、王朝管理下の間接支配だったり、貢納を収めれば自治を許すという緩やかな自治支配だったりして、王朝が地方の末端までを支配してしまう王朝時代の中国のような強い統合ではなかった。そして、そのオスマン帝国の支配領域も、いまでは数多くの国に分かれてしまっている。オスマン帝国の領域が分かれてしまったのは、一つには、19世紀から20世紀にかけて、イギリス、フランス、イタリアが切り分けて植民地にしてしまったり、第一次大戦の戦後処理のときにやはり列強の都合でへんな国境線引きをしてしまったりした結果だけれど、それだけではないだろう。

 古代ローマ帝国の領域は、名目や権威の面ではともかく、実質的には、ローマ帝国の統一が失われてから再び統一されることはなかったし、いまも統一していない。しかし、中国は、その後、政治的に一つの王朝の下に統一されていた時代が長かったし、現在はさらに広い領域を統一する巨大国家として存在しつづけている。

 どうしてこのような違いが生まれたのだろうか?


「都市国家時代の終わりかた」をめぐって

 いろいろな要因があるだろう。なかには、秦や漢・後漢の段階ではまだ存在せず、その後の隋唐帝国の統一や元による統一の段階でつけ加わった要因もあるに違いない。

 しかし、その要因の一部は、この「いちばん古い古代」にもある。

 その一つは、秦の始皇帝の統一が、都市国家的性格を克服して領域国家の統一を目指す流れに連続した性格を持っていたことだ。鉄器時代・戦国時代に入り、領域国家への成長をめざす諸国は、滅ぼした都市国家を温存せず、そこに自国から官僚を派遣して支配した。それが可能だったのは、鉄器による道路・水路の開発と、漢字と木簡・竹簡による文書行政の確立だった。秦の始皇帝は、領域国家を滅ぼした後に同じやり方を強行した。そのために秦は反発を受けて滅亡してしまったけれど、その成果は次の漢(前漢)王朝に受け継がれた。

 ところが、古代ローマ帝国は、他の都市国家を支配下に組み入れても、基本的にその都市国家の性格を残した。元老院などの都市の支配機構を温存し、その都市だけの問題は都市自身の支配機構で解決させた。もちろん、都市を超えた問題には帝国が解決しなければならない問題もあったし、都市の支配に介入してローマへの反抗が起こらないように干渉・抑圧したりもした。また、都市の自治を温存する反面では、支配下の都市から平気で搾取したりもした。だから、「都市の自治を認めた」ということを、近代的な地方自治や民主主義に引きつけて解釈することはできない。できないけれど、それが秦の始皇帝の統一とはかなり大きな質の違いのある「統一」であることには違いがない。

 では、「いちばん古い古代」の中国と古代地中海世界とで、どうしてそんな違いが生まれたのだろうか? ここで「古代地中海世界は都市の自治の伝統が強い世界であったのに対して、中国は天下統一を尊ぶ世界だった」などというまさに「伝統」的な説明を持ち出すと、じつは問題は何も解決できない。古代地中海世界に対してはある程度の説明にはなるだろう。でも、「いちばん古い古代」の中国が「天下統一」を目指し始めるのは戦国時代に入ってからで、殷・周や春秋時代からの「伝統」ではないということは平勢さんが明らかにしたとおりだ。中国にも都市国家の伝統はあった。領域国家化の進行の段階でどうしてその「都市国家の伝統」が尊重されなかったのか? そこにこの二つの世界の大きな違いがあるように私には思える。


文字の問題

 もう一つ、後にまた触れる問題で、文字の問題も重要かも知れない。

 古代地中海世界には早い時期からギリシア文字が広がっていた。ローマ字はギリシア文字を改良して作られたものだ。また、いまは絶滅した古代イタリアのエトルリア語などがある程度まで解読されているのは、エトルリア語をギリシア文字で記した文書が残っているからだ。古代地中海世界にはフェニキア文字も広がっていたかも知れない。だが、ギリシア文字自体がフェニキア文字から作られたものだから、どちらにしても、古代地中海世界は、統一帝国ができるずっと以前から、フェニキア文字‐ギリシア文字‐ローマ字の系列の文字の世界になっていたのだ。

 また、古代ローマ帝国でも文書行政は行われていた。法典も早い時期から存在する。

 文字の統一と文書行政の出現という点では、中国も古代地中海世界も違いがなかった。だが、古代地中海世界では、それが中国のような強力な中央集権的統一につながらなかった。なぜなのだろう?

 この問題を考えることは、あるいは、中国の近隣で、朝鮮・日本・ベトナムなどが漢字文化を受け入れながら「中華」帝国の一部にならなかったのはなぜかという問題を解く鍵にもなるのかも知れないと思う。

 ただし、こういう問題を考えるときに注意しなければならないのは、中国の「統一」の質は、分裂時代を経るたびに変化しているのではないかという点だ。

 少なくとも、先に少しだけ触れたように、12世紀の宋までと13世紀の元以後ではその統一の性格は大きく変わっている。中国王朝がモンゴルやチベットまで支配しているのが当然になったのは元以後のことで、それ以前は、モンゴルやチベットなどの「少数民族」地域は「中華」王朝とは別の王朝を持つ別の地域だった。そういう「統一の質の変化」は、3世紀に秦漢帝国が崩壊してから、6世紀に隋唐帝国による統一が実現するまでのあいだにもあっただろう。だから、「中国は、多少の分裂時代はあるけれども、つねに統一国家でありつづけた」というような見かたをすると、まさに平勢さんが指摘している歴史書編纂の第二の「波」で作り出された歴史観の罠に落ちてしまうことになる。


歴史を語ることの難しさ、怖さ、楽しさ

 歴史について考えるときにやっかいなのは、歴史が、歴史的事実だけではなく、歴史を解釈する見かた――つまり歴史観をも同時に伝えている点だ。だから、歴史的事実を論じるときには、それがどんな歴史観によって伝えられたかを検証し、その歴史観の影響を取り除いていく必要がある。けれどもそれはそうかんたんなことではない。伝えられた事実のどこにどんな歴史観が隠れているかがわかりやすいかたちで残されているとは限らないからだ。だから、一つの罠を回避したつもりでも、じつは別の罠に深々とはまっていて、しかも当人はそのことにまったく気づいていないということもあるだろう。

 平勢さんの本は、歴史を語ることの難しさ、怖さ、そして同時にそれゆえの歴史を語ることの楽しさを教えてくれているように私には思える。



―― つづく ――



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