特権的古代史からあたりまえの古代史へ


平勢隆郎

中国の歴史 02 都市国家から中華へ 殷周 春秋戦国

講談社、2005年



4.


「華夏族」と「異民族」?

 もう一つ、後にできた中国の世界観で、「いちばん古い古代」までさかのぼるとされているものに、後の漢人と異民族との区別の問題がある。

 従来、「いちばん古い古代」を扱った本には、戦国時代ごろにはのちの漢人(「漢」がまだ存在しないのに「漢人」もへんなので「華夏族」と呼んだりする)のあいだで「中華」の一体性が認識され、その外にいる異民族を「東夷(とうい)西戎(せいじゅう)、南蛮、北狄(ほくてき)」と呼んで軽蔑したという話が書いてあったりする。戦国時代の諸国は、対立しあっていたけれども、一方では「華夏族」としての一体意識を持っていたというのだ。ちょうど、いまのヨーロッパの諸国が互いにライバル意識を持ちながら「ヨーロッパ人」としての一体感を持っているように、である。

 しかし、平勢さんの説明によると、「夷」・「戎」・「蛮」・「狄」という呼びかたは必ずしも漢人(華夏族)以外の「民族」を指すとは言えないようだ。たしかに後の漢人(華夏族)以外の「民族」を指すこともある。しかし、後の漢人の枠に入り、漢字を使いこなして同じような文化も持っているのに、「蛮」とか「夷」とか「狄」とか言われているばあいもある。逆に、河北省あたりに存在した小国「中山(ちゅうざん)」は、「鮮虞(せんぐ)」という「異民族」の国らしいのに、自らを「中国」と見なしている。

 もっとも漢人以外の「異民族」が自ら「中華」を自称することは多い。後の満洲(マンジュ)人の清まで――ということはつまり20世紀まで――例がある。だから、中山の例は漢人と「異民族」の区別はなかったということの証明にはならないかも知れない。

 また、漢字を使う範囲の人びとについて「蛮」とか「夷」とか呼んでいるのは「たとえ」で、まず「漢字もわからない野蛮人」像があり、漢字を知っている範囲の人びとをそれと同列の存在に(おとし)めるために「蛮」とか「夷」とか呼んでいるだけかも知れない。

 けれども、たとえば、「周の東遷」事件に関係して出てくる「淮夷(わいい)」や、両湖同盟の楚が中原(ちゅうげん)同盟の領域に進出してくる契機になったらしい「陸渾(りくこん)(じゅう)」というのは、ほんとうに後に漢字を使うことになる「漢人」の範囲外の人たちだったのだろうか? そう考えるよりも、むしろ、「淮夷」は海岱(かいたい)同盟南部を構成する人びと、「陸渾」は、中原同盟(周や晋の立場)から見た両湖同盟北部の人びとか両湖同盟(楚の立場)から見た中原同盟南部の人びとと考えたほうがいいだろう。

 中原同盟の人びとにとって、他の文化地域の人びとは、それより遠い地域に住む人びとと同じように「異民族」だった。それは他の文化地域でも同じかも知れない。やはり、後の時代にできあがった整然とした世界観を、都市国家時代や統一帝国より前の領域国家時代にあてはめるのには慎重であったほうがいいと私は思う。


「平勢史学」をどう評価すればいい?

 さて、このような平勢さんの「いちばん古い古代」中国史の描きかたをどう評価したらいいだろうか?

 専門的なことは私にはわからない。

 たとえば、この本で使われている年代は、平勢さんがいくつかの仮説に基づいて復元した年代である。平勢さんによると、この「平勢年表」(『新編史記東周年表』東京大学出版会など)のみが、複数の国についての記録が矛盾を起こさない説明を可能にしているということだ。平勢さんはその復元の方法を公開しているから、自分で同じ作業をやってみて検証することは可能だが、私はその作業をやっていない。いくら方法が公開されていると言っても、『史記』や『春秋』から年代を拾い、出土史料の銘文もぜんぶあたって検証するのは、現在の私の手にあまる。だから、この年代復元は詳しく検証するともしかすると問題が出てくるかも知れないが、私は平勢さんの書いていることを信頼して話を進めている。そういう検討と、それをもとにした批判は、専門家にお任せしたいと思う。

 だから、あくまでしろうとの歴史好きという立場から、この本をはじめとする平勢さんの「いちばん古い古代」中国史について、感じていることや考えていることを書いてみよう。


漢字の歴史と漢字で記された歴史

 平勢さんの方法は、何より、漢字に強くこだわった方法だということができる。漢字で残された史料がどんな情報を伝えているかを、他の史料との比較やその時代の漢字の担った役割の考察を通して徹底して解き明かそうとする。

 この時代の中国の文字史料は当然ながら漢字で残されている。漢字以外の文字史料も残されてはいるが、未解読だから、文字史料として使えるのは漢字史料しかない。そして、漢字史料という点では、紀元前11世紀以前の殷「王朝」の甲骨文でも、紀元前8世紀に周「王朝」によって作られた青銅器でも、紀元前4世紀ごろに作られたらしい『春秋』でも、紀元前1世紀に完成した『史記』でも同じだ。

 平勢さんは、しかし、それを同じ「漢字で記された記録」としてひとまとめにして捉えない。この1000年以上のあいだに漢字が担う役割は変化した。まずそのことに平勢さんは注目する。第1回で書いたように、漢字はもともと「殷字」・「周字」であって、殷・周の「王朝」だけが神との交信のために使いこなした神聖文字だった。他の国に対して漢字を使うこともあったが、それは「漢字で書いたことを相手に伝える」というコミュニケーションの道具の役割を担わせるためではなかった。自分たちはこの文字を使いこなせる力を神から与えられている特権的な国なのだということを誇示するための道具だったのである。じっさい、周以外の国は、漢字をもし読み解けたとしても、それを青銅器に鋳こんで表現する技術を持っていなかったらしい(この技術の解説は平勢さんの『よみがえる文字と呪術の帝国』にある)

 ところで、中原同盟の指導国が周だった時代、漢字を鋳こんで「神から与えられた特権」を誇示したのは「本拠地の周」だったが、平勢さんが指摘するように、おそらく「周の東遷」事件で一方の旗頭になる「本拠地の周」の「弟」国家「成周」(洛陽の周)は漢字を知っていたし、漢字を鋳こむ技術も知っていただろう。平勢さんの紹介するように、「東遷」事件のときにいち早く自分の立場を示す青銅器を作っているのだから。また、この漢字と漢字を鋳こむ技術を殷が周に伝えたのだとすると、殷の支配下にいた人びとを支配したいくつかの国(宋、陳、衛、鄭など)には、漢字の知識と漢字を鋳こむ技術が残ったとしてもおかしくない。とくに宋は殷「王朝」の子孫が君主となった国である。これらの国ぐには、漢字の知識とそれを鋳こむ技術を忘れてしまったのだろうか、忘れさせられてしまったのだろうか、それとも忘れていないけれども禁じられていたのか?

 紀元前8世紀、中原同盟の指導国の周同盟が分裂したことから、漢字の知識とそれを青銅器に鋳こむ技術が諸国に流出したという。漢字は、文化地域の壁も超えて、たとえば両湖同盟の楚や江浙(こうせつ)同盟の呉・越にも伝えられ、使われるようになる。だが、それでも、都市国家の時代には漢字は神との交信の文字だった。人間どうしの約束にも使われたが、それは、人間どうしの約束を神の前に誓約するという形式での使いかただった。

 それが行政用の文字になるのは、都市国家の時代が終わって領域国家の時代になってからである。この時代になって、領域国家は文書行政用の文字として漢字を活用し始め、また、自分の国が「天下」を統一する資格を持つことをアピールするために漢字によって書かれた文書を活用し始める。青銅器に文字を鋳こむ時代ではなくなり、木簡・竹簡(木製・竹製の札)に文字を筆で書く時代になる。紙はまだないけれど、木簡や竹簡を紐でつないだ書物が出現する。

 こうやって漢字の使われかたや使われた範囲を限定することで、平勢さんはかえって「漢字で残された記録」で語れる範囲を限定していく。


漢字で残された史料で語れない広大な世界

 漢字は最初から中国(漢人の住む地域)共通の文字で、最初から漢字はそのぜんぶの地域で使われ、漢字を使う者たちの一体性が早くからできていたとすると、秦の始皇帝の統一によってできあがった「中華帝国」がはるか昔からあったような幻想が生まれてしまう。

 だが、平勢さんは、漢字にこだわることで、漢字で残された史料で語れる範囲を限定し、その外に漢字で残された史料では語れない範囲をきちんと想定する。これまで「天下」全体の王朝だったように思われていた周王朝は、じつは中原地域の都市国家同盟の指導国に過ぎず、海岱同盟の斉や両湖同盟の楚が周に従属する国だというのは周側からの勝手な位置づけに過ぎないとする。周だけが漢字を独占していて、その漢字で書いた資料だけが多く残されたために、斉や楚まで周に服従していたのだという歴史像ができあがった。だが、それは漢字で残された史料で語れる範囲であり、その外に漢字で残されていない可能性を広く想定すると、斉や楚が周に服従していたのではない可能性も高くなる。斉や楚では、斉や楚が周を服従させているという世界観があったかも知れない。少なくとも楚や斉の側で積極的に周に服従しようとしていたことが証明されないかぎり、そういう可能性を考えておくほうが妥当だろうと思う。


夏「王朝」の実在について

 また、平勢さんは夏「王朝」を実在の王朝と認めるのに慎重だ。それもこの漢字へのこだわりと関係がある。

 この「中国の歴史」シリーズ第01巻(この『都市国家から中華へ』は第02巻)では、最近の発掘成果をもとに、夏王朝を実在の王朝と位置づけている。しかし、平勢さんは、「殷より前に存在した国(都市国家)」の存在は確実だと認めても、それを『竹書紀年』や『史記』に記される「夏」であると言い切ろうとしない。歴史書で夏について伝えられていることを、平勢さんは、神話や信仰から由来するものごとと、戦国時代作り出されたものごとに分解してしまう。

 領域国家から「天下の統一王朝」への成長を狙っていた戦国時代の諸国の一部は、自分の国が「天下の統一王朝」になる資格を証明するために、夏が「天下の統一王朝」だったと論じて、自分の国にその夏を受け継ぐ資格があると論じようとした――というのが平勢さんの見解だ。歴史書の夏についての記録は、神話・伝説・信仰に由来するものでなければ、そうやって戦国時代に作り出されたものに分類できてしまう。つまり、ほんとうに夏から伝えられたものごとは歴史書には書かれていないとする。そして、夏については、おそらく存在はしたのだろうけれど、その実体は不明としてしまうのだ。

 殷については、殷の末期の文書に限られるけれども、殷の時代に書かれた史料が出土している。その史料から『史記』に記されたのとほぼ同じ殷王の系譜が出土史料から復元できる。厳密に言えば、殷の初期の王がほんとうに実在したかどうかはわからない。けれども、少なくとも殷の末期に信じられていた王の系譜は出土史料と歴史書の両方をチェックすることで明らかにできる。しかも、殷の墓から出土した史料は、司馬遷が『史記』を書いたときには地底に埋もれていたわけで、司馬遷がその出土史料を読んで『史記』を書いた可能性はない。司馬遷が参照していない史料から『史記』の内容の正しさが証明できるのだから、その記述の客観性はそれだけ高まる。

 それに対して、夏については、この時代に漢字がないので出土史料からのチェックができず、歴史書に記されたものごとも現実にあったことと確認できることは一つもない。だから夏「王朝」の実態はまったくわからない。


夏の実在を認める立場と疑う立場

 夏王朝が実在したと認める立場は、具体的にどのように伝承されたかは論証できないにしても、『史記』などの歴史書に記された夏王朝の記事にはほんとうのことが含まれているという前提のもとに、発掘成果がその記事と合致する――たとえば『史記』が夏王朝の首都とする場所から大規模な都市遺跡が見つかった――ことを根拠に、夏王朝は実在したとする。

 それに対して、平勢さんは、夏王朝に関するほんとうの記録がどうやって『竹書紀年』や『史記』に伝えられたかわからないかぎり、たとえ『史記』に書かれた場所から都市の遺跡が見つかってもそれが夏王朝とは論証できないという立場をとる。もしかすると、自分では「夏」ともなんとも思っていなかった都市国家を「夏」として論じてしまうかも知れないではないかというわけだ。

 夏王朝を実在と認める立場は、逆に、自分で「夏」と思っていなかった都市国家を「夏」と認める危険を冒しても、「夏」を実在と考えて、それを手がかりに「殷より前の時代」の実態を明らかにして行こうという立場だ。

 どちらの態度が「正しい」かは私にはわからないし、あえて言えば私にとってはどちらでもいい。ただ、夏「王朝」の実在を認めるのに慎重なところに、平勢さんの歴史に向かう姿勢がよく表れていると思う。

 文字史料で証明できることには限りがある。たとえ文字で書き残されていたとしても、それがどういう意図でどういう立場から書かれたかを検証して、それが史料で語られていることの実態を伝えていることが証明できなければ、それはその時代を語る史料としては使えない。文字が、中原同盟の、しかもごく一部の指導国でしか使われなかったものである以上、文字で語られていないことが、文字で語られていることの何十倍も何百倍も、いやそれ以上に豊富にあったはずである。そういう「文字で残されなかった事実」よりも、それから何百年も経った後にその時代の都合で書かれた「事実」のほうが重視されるのはおかしい。そのことがまちがった歴史像を組み上げてしまう可能性は、たとえば紀元前1世紀の漢の時代に書かれた歴史書で戦国時代を語ることの危なっかしさから類推できる。それが平勢さんの立場だ。

 漢字に徹底してこだわるために、漢字で残されている記録の限界を厳格に見極め、漢字で記録が残されている世界の外にさまざまな可能性をそのまま認める。漢字で残されていない歴史の豊かさを認め、それを漢字で残されている歴史で冒すことに慎重な態度をとる。それが平勢さんの方法の大きな特徴だと思う。


「徳治主義」について

 平勢さんが明らかにした「いちばん古い古代」の中国史で、私が強い印象を受けたのは「徳治主義」の位置づけだ。

 儒教では、周「王朝」を王の徳によって天下を支配した理想の王朝とする。ここでいう「徳」は、だれもがその人を慕ってその人の支配を受けたいと自分から願うような立派な人格のことだ。

 その周「王朝」の徳が「東遷」事件後に衰えて、やむなく力によって天下を支配する「覇者(はしゃ)」が登場した。「覇者」の存在によって周「王朝」の権威はなんとか保たれていた。そして、戦国時代に入ると、各国が勝手に「王」を名のりはじめ、周の権威はまったく無視されるようになり、世は戦乱の時代に入っていった。それを統一したのが秦の始皇帝だ。しかし、秦の始皇帝は、力で中国を統一し、その後も周のやり方とは似ても似つかぬ「法による専制支配」を強行し、天下に大きな災厄をもたらした。「徳」のないその支配は長つづきせず、秦はすぐに滅亡してしまう。

 儒教の立場から整理すると、だいたいこんな「いちばん古い古代」の中国史像が描ける。そして、これが儒教の理想から語られたものであることを知りながらも、従来の「いちばん古い古代」の中国史はこの整理にそって理解されていた。少なくとも私はそう理解していた。


ところで、だれが言い出した?

 ところで、「徳による支配が尊く、武力による支配はダメだ」という価値観はだれが持ちこんだのだろう?

 私は平勢さんの本を読むまでそんな疑問を感じたことはなかった。

 武力支配よりは、「徳」というのか何というのか知らないけれど、「この集団の支配に従うのがいちばんいい」とか「この集団の支配はもっともだ」とかいう理由があって人びとが支配にしたがっているほうがいいに決まっている。今日の国際社会での常識はそうだ。

 無理やり武力で押さえつけて支配したりすると、国際的に制裁を受けるかも知れないし、「多国籍軍」が攻めてくるかも知れないし、また報復テロを起こされるかも知れない。国内政治についてもそうだ。武力で支配する軍事政権はよろしくないというのが現在の国際社会の常識である。民政に移行できる条件があるのに軍事政権がいすわっていたりすると、やっぱり国際的に制裁を受けるかも知れないし、そうでなくても外国企業がその国への投資をためらうだろう。「この集団の支配はもっともだ」という理由の感じられない勢力が支配している国がミサイルとか核エネルギーとかいうような「力」を保持しようものなら、「国際社会」から廃棄するように圧力をかけられる。

 「徳治主義」はよいが「武力による支配」はダメだという価値観は、現在の国際社会ではたしかに共有されている。


力による支配が当然という世界もあった

 だが、これは、じつは必ずしもどこの世界でも通用した価値観ではない。「武力による支配で何の問題もなし、大いにOK」という世界もあったのだ。

 たとえば、この評で何度も引き合いに出した古代ローマ帝国である。

 吉村忠典『古代ローマ帝国』(岩波新書)によれば、古代ローマ帝国では、ローマの「友」であれば、強大なローマの支配を受けているのが当然だという価値観が通用していたそうだ。「友」だから対等だという発想ではなかったのだ。

 だいいち、ローマ皇帝の称号の一つ「インペラトル」は「強大な武力を背景に命令を下す者」というような意味である。古代ローマ帝国は武力こそが支配を正統化する帝国だったのだ。ローマ帝国が拡大しすぎて、武力で抑えが効かなくなったところで、新たな支配原理としてキリスト教が導入され、「神の恩寵を受けた皇帝の支配」というような支配原理が登場してくるのである。

 「いちばん古い古代」の中国でも、最初はそうだったらしい。

 平勢さんによると、「徳」という文字は、最初はにらみつけて威圧するという意味で、武力による征伐をあたりまえの前提とするものだったようだ。武力による討伐を成功させるには、「天」から霊的な威力を与えられていなければならない。それがこの時代の「徳」だったのである。

 周が殷を打倒した事件にちなんで、さまざまなエピソードが残っている。そのうちの一つが、殷の有力者だった伯夷(はくい)叔斉(しゅくせい)が、殷がどんなに暴虐でも暴力で打倒したらけっきょく同じことじゃないかと抗議して、周王朝が成立しても周に協力せず、山にこもってワラビだけ食べてやがて餓死したというものだ。ワラビだったら健康食っぽいけどなぁ、やっぱりそれだけじゃだめなんだろう――というようなことはともかく、このエピソードに出てくる「暴をもって暴にかえ、その非を知らず」(暴力を暴力で倒しておいて、それが悪いことだとちっとも気づかない)ということばを思い起こす機会が最近とくに多い。でも、この時代の人間がほんとうに言ったことではなさそうだな。平勢さんによると、「伯」・「叔」というのは、都市国家の下の小都市や農村の指導者に与えられた称号らしい。「夷」とか「斉」とかいうのは周にとっての異民族で、周は殷を「夷」扱いしたらしいから、伯夷・叔斉という人物がもし実在したとしても、それは殷に支配されていた人びとや隣の海岱同盟の人びとの指導者だったのではないだろうか。なお、伯夷・叔斉については、404ページに、周が殷を滅ぼしたこと自体を否定する論理を表現する伝説として紹介がある。


「覇者」の実態

 周が「徳」によって支配したというのは、周「王朝」自体の理解では、戦って勝つための資格が天から周に与えられたという意味だった。その意味が、「徳による支配」という政治思想が出てきたころにはもうわからなくなっていた。または、もしその意味を知っていたとしても、「徳による支配」を打ち出した政治思想家が無視した。その政治思想家たちは、「徳」を「みんなが自分からその人の支配を受けたいと願うような立派な人格」というふうに再解釈することになる。

 では、王の「徳」による支配、つまり「王道」が衰え、かわって諸侯のなかから「覇者」が出てきて、武力を背景に周にかわって「天下」を指導したという件はどうなるのだろう? 「徳」が衰えて「徳」だけで支配できなくなった時代に、周の王の「徳」の存在を前提として、その下で力によって「天下」を指導し、周王を補佐した「覇者」とは何者なのか?

 平勢さんによれば、まず、斉や楚や呉や越や宋や秦などという、中原同盟以外の「覇者」は、端的に中原同盟を武力で脅かした存在だ。武力を背景にしていたのは確かだけれど、周「王朝」の支配を助けて「天下」を指導したなどという実態はない。

 また、同じ中原同盟から出た晋の「覇者」が周王朝を補佐したというのは、これまた端的に中原同盟の主導権を晋が握ったということで、その実態は都市国家同盟の指導国の交替である。周による殷の撃滅のような激しいかたちはとらなかったけれど、中原同盟を斉・楚・呉・越など(つまり晋以外の「覇者」の国)から防衛できない周にかわって、晋が中原同盟の指導国になったことを意味する(先に書いたとおり、ここまで言い切るのはもしかすると私の読みこみすぎかも知れない)

 つまり、この時代には、武力による支配という実態は、周「王朝」であろうと、周を含む中原同盟であろうと、他の文化地域の都市国家同盟であろうと、変わりがない。殷を周が滅ぼして以来、武力による支配ということは、この「覇者」の時代まで一貫している。周は「王道」で支配し、覇者は「覇道」で支配し、武力を背景とした「覇道」は「王道」よりも一段劣る「やむを得ない選択」(だから、やむを得なくないのに「覇道」で支配すると非難される)だという価値観は、この時代にはなかったのだ。

 では、「徳」を「人格的な立派さ」というような意味に置き換えたうえで、王道は徳による支配で、覇道は武力による支配で、王道のほうが覇道より優れているとする価値観は、いったいだれが言い出したのか?


犯人は意外な人物

 それは、領域国家から帝国へ成長しようとする戦国諸国が言い出したことだ――と平勢さんは言う。

 はじめてこの解釈を知ったときには、私はアガサ・クリスティーの『ロジャー・アクロイド殺人事件』か『オリエント急行殺人事件』で犯人を知ったときのような驚きを感じた(『アクロイド』は、高校時代に読んでから読み返していないけど、またいちど読んでみてもいいな)。だって、普通は「覇道」よりもさらに悪い戦乱状態をもたらしたとされる戦国君主が、まさか「王道」の概念を発明したなんて考えないじゃないですか! だって、そんなことをしたら、自分が「悪」であることを認めているようなものなのだから。

 しかし、そうではないのだ。「混乱状態をもたらした悪い戦国君主」という像自体が、漢の時代の統一帝国を前提とした「歴史編纂の第二の波」で作られた像で、戦国君主自身は、自分こそが統一帝国を実現して「王道」を実行するすばらしい君主だと名のりを上げたのである。いや、それまでの都市国家同盟の秩序を打破するには、それぐらいの大ボラを吹かなければならなかった――と言ってもいいのかも知れない。


支配の「理念」を必要とする者たち

 まあ、これだって、わかってみるとそんなに意外ではない(引き合いに出したクリスティーには悪いけど)。だって、アメリカ合衆国を中心とする連合軍(日本も協力している)は、どう見たって力でタリバーン政権を崩壊させ、サッダーム・フセイン政権を倒したわけだけど、自分では自由と民主主義を拡げる戦いだったと評価している。武力による支配を実行する者が、自分では「王者の徳」とか「自由と民主主義」とかいう理念のために戦っていると宣伝し、それどころか自分でもそう信じ切っている――ということは、紀元前4世紀の中国でも現在の国際社会と同じようにありそうなことだ。

 中原同盟の指導国であった晋を分割した韓・魏・趙や、海岱同盟の新しい指導者となった斉の田氏一族、それほどの大国ではないが中原・燕遼・海岱の諸同盟の中間にあって勢力を拡げようとしていた中山などの勢力は、自分の国が天下を支配する帝国(この時代にはこんなことばはまだないが)になる資格があることを証明しようとした。

 そのためにはいままでの「都市国家同盟の指導国」を正統化する論理ではだめだ。つまり、「戦争をしたらうちの国が勝つ、というのは特別な霊力を与えられているから」では、戦争をしてもいないほかの国の領域まで支配することの正統性は生まれてこない。また、漢字が行政用文字として各国の指導層に使われるようになっている現状では、その漢字を利用して宣伝ができたほうが有利である。「なんかわかんないけどうちには神様がついてるんですよ」とか「何の神様かわからないけどわたし神様になっちゃった」とか(いや、これは関係ないです……)では、文書で宣伝する論理としてはちょっと弱い。


理念から歴史像が創造される

 「武力で戦って勝って支配する」を上回る支配の論理とは何か?

 それは、「武力で戦うまでもなく、だれもが自分たちの支配を正しいと認める」という論理だ。武力で刃向かおうという気力さえ最初から持てなくしてしまうような支配の論理である。そういうものとして「支配者の人格的な立派さ」という論理が持ち出され、それが「徳」とされたのだ。

 そうやって「武力による支配」や「覇道」を上回る「徳による支配」や「王道」の論理が生まれる。ばあいによっては、それに「血筋による支配より徳による支配のほうが優先する」という論理がついてくる。たとえば、歴代の君主である姜一族を君主の地位から追放した斉の田氏のばあいなどだ。このばあい、「血筋による支配」を絶対に正しいとすると、自分のやったことが悪になってしまうので、「徳があれば血筋による支配を覆してもよい、むしろそうするべきだ」という論理を持ち出してくる。

 このような論理を完成させるために、戦国時代にもいちおう実在していた都市国家の周とはほぼ完全に無関係に、「東遷」事件以前の周が理想国家に仕立てられる。また、この時代にすでに実態がわからなかった夏王朝の歴史が理想に合わせて創造される。神による支配者の「徳」の承認ではなく、すぐれた人間による「徳」の承認が支配の要件とされるようになる(もちろん「神」的なものがなくなったわけではなく、「天」によって「徳」が与えられているかどうかを人間の賢者が見分けるということだが)。実際には武力で都市国家同盟の秩序を破壊し、官僚が支配する領域国家への組み替えを強行しておきながら、自分は理想の夏「王朝」や周「王朝」初期の政治体制を復活させているのだと自分を正統化するのだ。

 その流れとともに歴史編纂の第一の波が到来した。「領域国家から帝国へ」という方針に合わせた夏・殷・周の歴史像が創造される。それが「文化地域別の都市国家同盟」というそれまでの実態を覆い隠してしまった。


支配のための「大きな物語」が必要とされるとき

 どうやら、「武力による支配」が「身の丈」にあった規模のばあいには、支配するための論理をとくに必要としないか、せいぜい「うちが強いのは神様がついているから」程度の論理で間に合うらしい。反抗する者が出ても武力で叩きつぶせばそれで十分だからだ。

 けれども、その規模を超えてしまうと、世界観や歴史観を援用した支配のための論理(東浩紀さんの言う「大きな物語」の一種だろう)が必要になるらしい。都市国家同盟の指導国から領域国家へと成長し、さらに「天下の統一王朝」を目指しはじめると、夏‐殷‐周やそれ以前の理想的な帝王の歴史が再編され、自分の国が天下を統一することの正統性が主張されるようになる。ローマ帝国でも、実力で膨張していたあいだは「力が強い国に服従するのは当然」という論理でよかったけれど、それができなくなった後には、皇帝自身が神であるとか英雄であるとかいう論理が持ち出されるようになり(それ以前にも皇帝崇拝はあったが)、最後にはキリスト教の権威に頼るようになった。

 このローマ帝国の転換点に立ったのが、最後の賢帝マルクス・アウレリウスと、その息子で暴君のコンモドゥスである。ローマ帝国は、マルクス帝の二代前の「賢帝」ハドリアヌスの時代にイギリスからシリア・エジプトまでの大きな領域を獲得した。しかし、マルクス帝の時代には、いまのハンガリーあたり(パンノニア)で異民族との戦いが慢性化し、「哲人皇帝」のイメージとは裏腹に、マルクス帝はこの異民族との戦いの陣中で亡くなる。その後を嗣いだ実子のコンモドゥス帝は、自分を古代ギリシアの英雄になぞらえ、首都ローマ市を「コンモドゥスの街」と改名して私物化するなど、暴虐の限りを尽くして殺されたという。そのため、実子コンモドゥスを後継者にしたことが賢帝マルクス帝の唯一の過ちだったなどと評されたりする。けれども、たぶん、コンモドゥス帝は、「皇帝は神だ」という支配論理を持ち出さないと、父マルクス帝の下ですでにまとめきれなくなっていた帝国はとてもまとめきれないと考えたのかも知れない。なお、ネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス(「アントニヌス敬虔帝」の意味)、マルクス・アウレリウスの「五賢帝」時代は、血筋にはこだわらず人物本位で皇帝が選ばれたとされることがある。このあたり、まさに戦国時代の中国で開発された「徳による支配は血筋の論理より優先する」、「すぐれた人間が帝王の支配権を承認する」という論理がまったく別世界のローマ帝国に適用されているようで興味深い(賢帝の数が5人なのも中国の夏「王朝」の前の「五帝」つまり5人の聖なる帝王と数が合う)。しかし、「五賢帝」が血筋による継承を行わなかったのは、実子がなかったため行えなかっただけのことだ。じっさいには養子にするなどの方法で血筋による継承に近づける努力も行われている。たとえばマルクス帝はその前のアントニヌス帝の養子として皇帝の地位を嗣いでいる。だから、実子のいたマルクス帝が実子を後継者にしたのは当然のことで、もしあんまりいい選択でなかったとしてもやむを得なかったのである。また、「ローマ皇帝は市民の第一人者だから実質的には大統領だ」というような議論をときおり見かける。たしかに(五賢帝時代ごろまでは)ローマ(都市国家に起源を持つ帝国首都)の内部では専制皇帝でなかったにせよ、他の地域に対しては「強大な武力を背景に命令を下す者」(インペラトル)だったわけだし、少なくとも死後は皇帝は神として崇拝されるのが原則だったし(暴君、愚帝、悪帝は例外)、血筋によって継承するのが原則だった。「大統領」としてはかなりヘンな存在である。まあ現代世界にも大統領の世襲とかないわけではないけど。


平和で民主的な「徳治主義」とその実体

 支配者の人格が立派なのでだれもがその支配を受けたいと願う。それが「徳治主義」の論理である。それはまた平和な支配の論理でもある。支配者の人格が立派なので、その支配権を奪うために戦争を起こす気もちなど生まれようもないというわけだから。現在の民主主義もこの「徳治主義」の一種と考えていいだろう。いちばん信頼できそうな支配者や支配集団をみんなで選び、その支配者・支配集団が支配することを認めようというのが現在の民主主義なのだから。

 現在の日本人は漢文の知識なんか忘れてしまっただろうけれど、漢学・漢文の知識や教養がまだ社会で生きていた時代の日本人が「民主主義」を受け入れられたのは、ヨーロッパやアメリカ合衆国からもたらされた「民主主義」に、儒教の「徳治主義」の平和さ・穏和さや倫理感覚が重ね合わされたからではないか? それは、日本の「民主主義」者たちの平和志向や倫理感覚、急激な変化を好まない傾向などにつながっているのかも知れないと思う。

 その平和主義で民主主義にも通じる「徳治主義」は、じつは武力で「天下の統一帝国」への成長を図る戦国諸国の支配を正統化するために主張されたものだった。そして、その戦国諸国は、「合従連衡」の権謀術数を繰り広げ、誓約をかわした相手を裏切り、前の時代の都市国家の系譜を引く小国は容赦なく滅ぼすという、まさにむき出しの「武力による支配」を展開していく。徳治主義で自分の立場を正統化しながら、現実には露骨な現実主義外交と「武力による支配」を展開する。それがこの戦国期の大国の姿だったのだ。

 自分の支配の正統化のためには美しい理念を掲げ、じっさいには力を背景とした外交と武力による支配を展開する――それはべつにこの戦国諸国に限らない。中国王朝は、この戦国諸国が開発した「徳」の理念を受け継いだ。武力で前の王朝を圧倒しておいて「前の王朝には徳がなくなったから自分が王朝を樹立する」という理論で王朝交替を正統化しつづけた。べつに中国に限ったことでもない。先に書いたように、いまの国際社会でもよくある話だ。


政治思想の見かた

 けれども、一面で、「徳の重視」ということは、道徳論としても広がったし、武力による支配や安易な武力行使を抑制する論理としても機能を果たした。「徳がない者の支配は打倒してもよい」という論理は、逆にいえば、「支配者に徳があれば武力で打倒してはいけない」ということにもなる。さらに、この論理は、支配者に対して武力を行使しようとする者は、支配者の「徳」が理解できない「超愚か者」だという論理に発展する。「超愚か者」の言うことを聴く者もいないだろうから、支配者に反抗する者は、まず自分は「超愚か者」ではなく、支配者にほんとうに「徳」がないのだということを言論で主張しなければならなくなる。こうして支配者への抵抗はまず言論で行われるという傾向も生まれる(じっさいにはそれが泥沼の党派論争を招いて王朝の活力を低下させることもあったわけだが)。「徳治主義」は、支配を安定させ、平和を維持する機能も確かに果たしたのだ。

 私たちはどんな美しい政治思想についても両面を見なければいけないのだろうと思う。美しい理念の背後には、むき出しの暴力が隠れているかも知れない。理念の美しさだけに酔っていると、いつの間にか自分がその暴力に利用されてしまうかも知れない。だが、だからといって、その美しい理念がいつもむき出しの暴力を正当化するためだけに使われるわけではない。理念は理念で、ほんとうにその理念どおりの方向に人や世のなかを動かす力もある――ある程度は。だから、理念の背後に暴力があるからといって、その理念を最初から見捨てるのも賢い選択ではないだろう。

 平勢さんのこの『都市国家から中華へ』は、後の「中華帝国」のたてまえを前提に、それを正統化するために特権的な時代に仕立てられた「いちばん古い古代」の中国史を、都市国家同盟から領域国家へ、そして帝国へという「あたりまえの歴史」へと置き換える試みだった。そしてその過程を追うことでいろんなものごとが見えてきた――文字で記された歴史の領域の外には文字で記されなかった歴史の領域が広大に広がっていることとか、美しい理念の背後にはむき出しの暴力の論理が隠れているかも知れないこととか。こういう方法が世界のどこの歴史についても有効かどうかは知らない。だが、「文字の(さき)わう国」である中国の歴史については、たしかに有効な方法だと思う。

 文字に祝福された国は、もしかすると、同時に文字の呪縛から解き放たれることのない国かも知れないのだから。



―― つづく ――



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