特権的古代史からあたりまえの古代史へ


平勢隆郎

中国の歴史 02 都市国家から中華へ 殷周 春秋戦国

講談社、2005年



5.


「帝」の起源

 この『都市国家から中華へ』で、読んでいてもう一つ感服したのが、「帝」という呼び名についての議論である(279〜281ページ)。

 古代の理想的帝王が「帝(ぎょう)」・「帝(しゅん)」と「帝」をつけて呼ばれることは、「いちばん古い古代」の中国史の知識がある程度ある人は知っていると思う。もしかすると、殷の王に「帝×」という称号が多いことも知っているかも知れない(知らなくても殷の王の系図を見れば書いてある)

 しかし、中国の「帝」についての説明では、尭・舜は「皇帝」に含まれないし、殷の王もあくまで王であって「皇帝」ではない。「帝」は、殷の時代以来信仰された最高神の名まえだとされる。そして「帝」がつく支配者の名まえは、周王朝の時代に入ると姿を消してしまう。

 中国の「皇帝」は秦の始皇帝に始まる。始皇帝自身が選んだ称号だ。「王」というとそれまでの戦国諸国の君主の称号になるので、それを上回る称号として始皇帝は「皇帝」ということばを作り、それを採用した。そして、その意味は、煌々(こうこう)と光り輝く(煌=皇)最高神(帝)であったと説明される。そして、秦の滅亡後、歴代の統一王朝の支配者は20世紀の清にいたるまで「皇帝」を名のりつづけた。

 その説明に先んじて、戦国時代の秦は「西帝」を名のり、斉が「東帝」を名のったことがあるという議論が紹介されることもある。

 だが、なぜ「帝」が出てくるのか? この議論だと、どうやら秦と斉が戦国時代にまず「帝」という称号を「王」にかわって採用し(燕や趙にも「帝」を採用する動きがあったともいう)、始皇帝がそれを発展させて「皇帝」を採用したということになりそうだ。

 平勢さんは、諸国で「帝」の称号が採用された時期に、中原同盟の一員だった都市国家の宋で君主が「王」を名のりはじめ、斉をはじめとする諸国がその宋を討伐するという動きがあったことに注目する。また、その宋が殷の王族を支配者とする国(殷都市国家同盟の生き残り?)であることにも注目する。殷は王を「帝×」と呼んでいた国だ(平勢さんによると、正確には、生前は「王」で、死後に「帝」とされたらしい)。もし、このとき宋が「王」を名のるだけではなく「帝」を復活させていたとすれば? それに対抗するために諸国が「王」から「帝」を名のりはじめたと考えれば説明がつく。

 しかし、このときは、宋がいちおう滅亡してしまったので(でも宋の支配下にあった人びとはレジスタンス運動を繰り広げたらしく、宋情勢は王家の滅亡以後、泥沼化していく)、「帝」の称号は消滅した。


天体の位置のズレ

 なお、平勢さんは、「帝」取りやめの契機になったのは木星の位置の「ズレ」という異変だと推定している。つまり木星の公転周期が11.86年(太陽暦で11年と10か月半ほど)なのに、それを12年として計算したために、計算上の木星の位置と実際の木星の位置がズレてしまい、それを「帝」などと称したことへの天の怒りと解釈して諸国がいっせいにやめたのではないかという推定だ。ほんとうかどうかを判定するのは私の能力を超えるからやめておくが、天文好きにとっては嬉しい推定である。

 計算と実際で天体位置がズレるという現象は、ときにはその時代の天文学を前進させる動力になる。地動説が天動説より優位に立ったのは、天動説ではものすごく複雑な計算をしないと天体の位置がすぐに計算からずれてしまうのに対して、地動説ではケプラーの法則でかんたんに正確に天体の位置を算出できたからだ。また、水星の軌道の変化は、ケプラーの法則などニュートン力学の法則だけではどうやっても説明できなかった。その説明に成功したのがアインシュタインの相対性理論で、その正しさを証明する一つの例証になった。彗星(ほうき星のほう)の軌道が、他の惑星の引力の影響(「摂動」という)を考慮に入れた計算とズレるのは「非重力効果」と呼ばれ、彗星の構造を解明する手がかりとなった。

 「計算上の天体位置と実際の天体位置のズレ」を気にしていた「いちばん古い古代」の中国の天文学には思いのほか近代天文学に近いセンスがあったかも知れない。ただ、近代天文学は、そこから天体の構造を探ったり、物理学の法則を検証したりして、「科学」の発展につなげる。「いちばん古い古代」の中国の天文学は、それを支配者の行為の正しさの判定に結びつける。

 現在の天文学の視点から見ると、「いちばん古い古代」の中国の天文学は「トンデモ」にすぎない。しかし、それは、当時の支配階層にとっては、やっぱり、私たちが天体の構造を探ったり物理法則を検証したりするのと同様にまじめな「科学」だったのではないだろうか。

 ともかく、宋がはるか700年の時を超えて殷の仕組みを復活させたことが、その後、20世紀まで続く「皇帝」の仕組みを形作ったとすれば、なんかすごいことだと思う。そして、もしそうだとすれば、その前の1000年以上の時間とその後の2000年以上の時間を結びつけた宋が、歴史の記録上はただの身のほど知らずの暴君(宋王(えん))の国としてしか残っていないことも、歴史的記録の意味を考えさせるエピソードだと思う。


生き残った殷同盟の影響

 なお、『都市国家から中華へ』を読むと、戦国時代の「歴史編纂(へんさん)の第一の波」時代以後、「殷王朝の支配領域」が何度も問題にされているのがわかる。

 第三章で紹介されている韓のばあい、殷王朝の支配領域の一つだった都市国家の(てい)を滅ぼし、その地を首都に選んだこと、韓に対抗する斉の君主に田氏一族が立ち、その田氏一族がやはり殷の支配領域の(ちん)の出身だったことなどから、こだわらざるを得なかったのだろう。韓としては、西半分に夏の領域、東半分に殷の領域を持ち、しかも殷の領域のうち陳はダメで鄭はよいということを論証しなければならなかった。

 ほかにも、周が中原同盟の指導国になる時期から、殷の支配した四つの諸侯国を支配したことが重視されたり、孔子が遍歴した地域がこの殷の支配した地域に重なっていたりと、「昔の殷王朝の支配領域」が何度も問題にされている。

 殷王朝の一族が君主となったとされる宋だけでなく、殷の支配していた人びとをまとめて樹立されたという鄭・衛・陳なども、もともと殷都市国家同盟の一員だったのだろう。そして、殷の「本家」が滅亡した後も、殷同盟の都市国家群はその記憶を失うことなく存続し、一定の存在感を誇っていたのかも知れない。ちょうど、周が「東遷」事件の後に衰えて晋連合が中原同盟の指導国になった後にも周同盟が一定の存在感を保っていたように。

 もしそうだとすれば、殷同盟は中原同盟のなかで海岱同盟寄りの地域に存在することになる。平勢さんの説によると、海岱同盟にはこの殷同盟を意識して動いている形跡がある。宋が「王」を(もしかするとさらに進んで「帝」を)名のりはじめたとき、その宋を討伐して自ら泥沼にはまったのが斉だ。また、その時代の斉の君主である田氏は、殷同盟の一都市国家らしい陳の出身だという。さらに、その殷同盟の都市国家を遍歴した孔子は、平勢さんによると、その田氏が非常に重視した「聖人」である。

 海岱同盟と中原同盟は別々の文化を基礎としている。だが、漢字はもともと中原同盟のものだから、漢字を使って表現する世界では、どうしても海岱同盟のほうが「後進」・「野蛮」扱いされてしまう面があったかも知れない。

 それに対して、海岱同盟が中原同盟と対等な関係を主張するのに利用したのが、この殷同盟との繋がりだったのかも知れない。殷同盟ならば、周より先に漢字を知っていた国ぐになのだから、海岱同盟から成り上がった斉でも、中原同盟から成り上がった諸国に負けない立場を主張できる(ここで、前回、挙げておいた疑問――殷同盟の国ぐには漢字を忘れてしまったのか封印しただけなのか――が意味を持ってくるだろう)。

 そういえば、孔子の有名なことばに、「私は東の地に周を作るだろう(われは東周をなさん)」というのがある。なんかたいしたことのない反乱者が旗揚げしたときに孔子を招き、孔子がその招きに応じようとしたので、剛直で知られる弟子の子路(しろ)がいさめた。すると、孔子は「私は私を使ってくれるところならどこへでも行くよ、うまく行けば私はこの東の地に周に劣らないりっぱなくにを作るだろう」と答えたというのだ。孔子が、周の武王の弟――じつは周都市国家連合で本拠地の周に対する「弟」都市国家の君主だったようだが――の周公を特別に尊敬し、「最近、夢に周公が出てこない(夢に周公を見ず)」と嘆いたという話もある。孔子は周を理想視していた。これはたぶん動かせないところだ。

 しかし、この「東の地に周(に劣らない立派なくに)を作るだろう」という自負は、同時に、現実の周の系譜を引く中原同盟への対抗心と解釈することはできないだろうか? 周同盟の一員である都市国家()に生まれ、しかし、殷同盟の伝統にアイデンティティーを感じて周への対抗心を育む孔子――という図式もおもしろそうだ。まあ、しろうとの思いつきなので、フィクションとしては、ということにしておこうと思うけど。


水の豊かな中国

 この『都市国家から中華へ』には、中国の創世神話のようなものがいくつか紹介されている。

 その一つは「大一、水を生ず」というものだ。「大一」(「太一」という表現もある)という「世界のもと」があって、まずそこから水が生まれ、その「世界のもと」の周囲を取り囲んだという。その後に「天」が生まれ、最後に「地」が生まれるということだから、この「水」というのは、地を取り巻く海と、雨を降らせる雨雲のようなものを考えていたのだろう。

 もっとも、この創世神話を残した楚は海から遠い内陸だから、海に囲まれた陸地を考えていたのではないだろう。楚は、長江や漢水(かんすい)(四川省北部の山岳地帯から湖北省に流れ、長江に合流する)湘江(しょうこう)(湖南省から湖北省へと北に流れ、長江に合流する)などが合流する場所にある。20世紀でも水が氾濫すると一帯が海のように切れ目なく水に浸かってしまう。この時代には葦が果てしなく生い茂る見わたす限りの湿地帯だったかも知れない。また地面に井戸を掘れば水が湧く。だから、地面の下も世界の周囲も水でいっぱいだと考えたのかも知れない。

 また、夏について伝えられていることが、戦国諸国の創作か、そうでなければ神話・伝説のたぐいかだということの証明の過程で、夏の初代の王である()の治水伝説が検討されている。

 禹の父(こん)は、伝説の賢王(賢帝?)舜から治水を命じられ、失敗した。そこでその子の禹が父の失敗した事業を受け継ぎ、完成させた。そこで禹は舜から王の地位を譲られ、夏王朝を樹立した。それが禹の治水をめぐる伝説である。

 平勢さんは、禹の治水事業について述べている文献を参照しつつ、それが領域国家へと発展しつつあった戦国諸国の治水の実態を反映していることを論証していく。

 この論証は、盗掘によって世に出た「容成氏(ようせいし)」という文書がなければこの論証は完成しなかった。これはこれで、文書が眠っている可能性をつねに考えておかなければならないことや、盗掘は文書についての情報を切断してしまうという意味で学術的にも大きな損失をもたらす犯罪であることを考えさせる興味深い一節である。

 ところが、そういうことを述べた後、禹が治めなければならなかったのは、丘を沈め、山を覆うような巨大洪水だったという記録もあることを平勢さんは紹介している。それは水路を開いて交通を便利にしたというのとはぜんぜんスケールが違う。だから、禹が水路を開いたというような治水伝説は、じつは戦国時代にできたものだと判定するわけだ。それが、さらに次の歴史書編纂の「波」の時期の『史記』で混同されてしまった。

 この「大一、水を生ず」の話と、禹の「大洪水」の話とを読んで、私は「水の豊かな中国」というイメージを思い浮かべた。

 いまの中国では水資源問題が深刻になっている(なんか最近報道されないけど)。経済発展で工業用水とかをいっぱい汲み上げるようになった上に、中央アジア乾燥化の影響か何か知らないけど、ともかく黄河の水が途中でなくなってしまうのだ。

 禹は中原区に属する夏の始祖とされる。つまり、その夏の始祖としての禹と、大洪水を治めた禹とが同じ存在であるのなら、現在は水不足と沙漠化に苦しむ黄河流域は、「いちばん古い古代」には水の豊かな地域――むしろナイル川のように洪水に苦しまなければならないような地域だったことになる。

 別の可能性もある。夏の始祖とされる「禹」と、大洪水を治めた「禹」とはもともとは別の神様だった。「大一が水を生じた」という伝説は楚の伝説のようだ。たしかに、さっき書いたように、楚の領域だった長江中流域(この本でいう「両湖区」)は水の豊かな地域だ。むしろ大洪水に悩む地域だった。だから、楚では大洪水を治めた神様が信仰されていた。

 長江流域で「大洪水を治めた神様」とされていた禹が、いつの間にか――あるいは意図的に夏の始祖の禹と混同され、「禹は治水を行った」という伝説ができた。そして「治水の功績で王朝の始祖になった」という位置づけが与えられたのかも知れない。

 でも、私は、長江も黄河流域も、水に覆われ、ついでに緑に覆われた中国という想像のほうが好きだ。


蛇足

 伝説で「周の東遷」事件のきっかけを作ったのが「褒じ」(「じ」は前出の夏王朝の姓。「女以」)という女性だとされる。

 周の幽王の妃だった褒じは笑わない女だった。ところが、あるとき、まちがってのろしを上げたら、そののろしに応じて「いざ鎌倉」的に臣下たちがはせ参じてきた。褒じはそのようすを見て笑った。幽王は、愛する妃を笑わせるために、何ごともないのにのろしを上げた。そして臣下たちが集まってくると褒じはいつも笑った。

 ところが、こんなことを繰り返していたものだから、だんだんオオカミ少年化してきた。ついに、ほんとうに異民族が侵入し、緊急事態が発生したのだが、のろしを上げても臣下は一人も駆けつけず、幽王は異民族に殺されてしまった。

 井上靖に「褒じの笑い」という短編があり、私は中学生のころにこの短編を読んでこの周の東遷事件のことを知った。この井上靖の小説では褒じはさらに悪魔的な女性として描かれている。

 平勢さんは、『史記』より古い年代記『竹書紀年』と青銅器を検討し、この説話は周を貶めるためのつくり話であって、東遷事件の真相は周都市国家同盟の分裂事件だったことを証明した。

 ところで、この褒じという女性は、龍の吐き出した泡から生まれたという説があるそうだ。

 夏の一族の家に龍がやってきたので、その龍が吐き出した泡を保存していた。褒じの「じ(女以)」は、先に書いたように「あね」の意味があるらしいので、もしかすると「褒ねえさん」というくらいの意味だったのかも知れないが、ここでは夏「王朝」の姓としての「じ」と結びつけられているわけだ。

 で、その泡は箱に入れたまま保存されていて、夏の滅亡後は殷に、殷の滅亡後は周に受け継がれたのだが、「東遷」事件前の周の最大の悪王である(れい)王の時代に開いてしまった。

 なんかさっきはオオカミ少年みたいな話だったが、こんどはパンドラの箱みたいな話である。

 で、箱から出た泡は庭にあふれ出て、取り除くことができない。そこで女を裸にして騒がせた。

 なんで……?

 どういう理屈かはわからないが、ともかく効果があったらしく、泡はイモリに姿を変えて後宮に侵入した。後宮に7歳の童女がいたのだが、イモリを見ると急に適齢期の女性に変わって身ごもった。

 それで生まれたのが褒じだという話なんだけど……。

 ――だれ、こんな話考えたの?


蛇足のあとのまとめ

 中国の歴史の特徴は、歴史の記録が漢字によって3000年以上も伝えられていることともに、それが何度も歴史書として編集しなおされ、語られなおされているというところにある。

 現在で言う「歴史書」に限っても、『竹書紀年』・『逸周書』や『春秋』が戦国初期に編纂されたとすれば、現在から2400年ほど前には歴史書の編纂が始まっていたことになる。その後、漢(前漢)の統一王朝体制が固まると、それをもとに歴史が再解釈され、『史記』が編纂された。その後も、何度も、その時代の政治的状況を反映した歴史書の再編集が行われた。

 王朝による歴史編纂は、その王朝の支配の正統性を立証するために行われる。また、時代が進むと、王朝が編纂する歴史に対して、民間人や官僚個人が編纂する歴史も登場する。しかし、これも、やはり、その歴史書の編纂者の、その時代の立場を反映した歴史書だった。

 また、「いちばん古い古代」は儒教の源流となる儒家思想が成立した時代である。儒教の経典にも、この「いちばん古い古代」についての議論が多く出てくる。儒教は、伝説時代の王とされた尭・舜や、夏・殷・周の創始者である禹、殷の湯王(とうおう)、周の文王・武王・周公旦を理想的な支配者とし、その系譜を孔子・孟子へとつなげた。その儒教の解釈に合わせてこの時代の歴史は再解釈される。たとえば、都市国家同盟の支配の仕組みとしてではなく、統一王朝を前提とした理想的な地方自治のやり方として「封建」という制度が理想化される。

 そうやって「いちばん古い古代」の歴史は再解釈を重ねられ、中国史のなかで特権的な歴史になっていった。

 理想王朝としての夏を復活させようという動き――「夏の復活」を名目に自分たちの支配を正統化しようという動きは戦国時代からあった。そのことはこの『都市国家から中華へ』に描かれているとおりだ。そこでは、現実の夏がどんな王朝であったかよりも、その「夏復活」の企てに合った夏のあり方が構想され、それが歴史として書き残された。

 統一王朝時代にはいると、今度は、「周は理想的な統一王朝だった」という理解を前提とした「周の復活」の動きが何度も起こるようになる。もちろん、自分の王朝の支配を「周の復活」として正統化しようという動きだ。1世紀の王莽(おうもう)(「莽」は本来はUnicode:83BEの字)(しん)、6世紀後半の宇文(うぶん)氏の北周、7世紀末から短期間だけ存在した女性武照(「照」は本来はUnicode:66CCの字。というか、この人自身がこの字を作って自ら改名した)の周(武周)などである。

 王莽も、宇文氏も、武照も、周は統一王朝などではなく、「天下」の一部分に過ぎない中原区の都市国家同盟の指導国に過ぎなかったと知っていたら、自分の王朝を「周の復活」として樹立しようとしただろうか? もしかすると、それを知っていたら、自分の王朝を樹立しようという意欲の何分の一かすら喪失したかも知れない。

 武周革命 唐の第三代皇帝 高宗 の皇后だった武照が、唐王朝を廃絶して自分の王朝「周」を樹立した事件を武周革命という。この武照が中国史上唯一の女帝である。武照は、自ら「則天大聖皇帝」と名のったため、唐王朝の皇后時代の称号と合わせて一般に「則天武后」という。自ら名のったということは、この時代には普通になっていた「皇帝の称号は没後に与えられる」という原則を変更したことになる。武照は王朝を自分の実家である武氏のほうに継承させようとしたのだろうが、晩年に唐王朝存続を主張する勢力のクーデターに敗れ、唐王朝が復活することになった。そのため、この「周」王朝は、普通は唐王朝の時期に含めて「唐王朝がおかしくなっていた時期」と見なし、独自の王朝とは見なさない。ところで、中国史上、「日本」という国号をはじめて認めた王朝はこの「周」王朝である。このときの日本からの遣唐使と中国の役人のあいだには、「倭国はなぜ名まえを日本に変えたのか?」、「それを言うなら、そっちこそこないだまで唐だったのになぜ周に変えたのか?」というような問答があったらしい。

 このように、「いちばん古い古代」の歴史は、その後の中国史のなかで「特権的な時代の歴史」に祭り上げられてきた。理想的な王がおり、理想的な王朝があり、理想的な聖人がいて、理想的な制度が行われていた時代……一時的にその理想からの逸脱はあっても、聖人がその制度の復活をつねに試み、理想的制度が修復されていた時代――そんな時代として描かれ、そして、それは後の時代のひとの政治的な行動に大きな影響を与えてきたのだ。

 平勢さんの試みは、「いちばん古い古代」を実際に生きた人たちが知るはずもないその特権的時代像を取り除き、その人たちが実際に生きていた「あたりまえの古代」の姿を甦らせようとする試みだと言えるだろう。



―― おわり ――



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