特権的古代史からあたりまえの古代史へ


平勢隆郎

中国の歴史 02 都市国家から中華へ 殷周 春秋戦国

講談社、2005年



1.


 ※ 著者名の「平勢」の「勢」の字は、正確には上が「生丸」、下が「力」である。また、「隆郎」の「隆」の字は正確には正字(「生」の上に「一」が加わる)である。平勢さんご自身のホームページでも、また出版元の講談社のホームページでも「平勢隆郎」という表記になっているので、この評でもこの表記に従う。ちなみに、国立国会図書館では、『『春秋』と『左伝』』(中央公論新社、2003年)の著者を「平[セ]隆郎」、『中国古代の予言書』(講談社現代新書、2000年)の著者を「平〔セ〕隆郎」としている以外は、すべて「平勢隆郎」で採録している。なお、正しい表記は、下に書いた平勢さんのページのうち、東洋学情報センターのページに出ている。

平勢隆郎さんのホームページ




中国古代史と平勢隆郎さんの業績

 中国の古代史――と言っても、中国って「古代」が長いんだよなぁ。

 しかも、どこで「古代」と「中世」を区切るかでも論争があるらしい。が、「古代」を短く採って、日本の古墳時代がまだ本格的に始まらないころからを中国の「中世」にしたとしても、それでも「古代」が1000年以上もある。もし、日本で「古代」が終わる平安時代の頃に中国でも「古代」が終わるという乱暴なものさしを使うならば、中国の「古代」の長さは2000年を超えてしまう。

 この本では(いん)から秦の始皇帝の中国統一までを扱っている。この時代はその長い「古代」のなかでも「いちばん古い古代」ということになる。

 平勢さんは、1990年代後半から、この「いちばん古い古代」の通史の書き手として大活躍しているひとだ。

 通史だけでも、中央公論社(当時。現在は中央公論新社)の「世界の歴史」シリーズの『中華文明の誕生』(尾形勇と共著、1998年)、山川出版社の「世界各国史」シリーズの『中国史』(尾形勇・岸本美緒 編、1998年)の「古代文明と(ゆう)制国家」に続いてこの本で3編めになる(ただし、中央公論社「世界の歴史シリーズ」の中国関係の巻の担当者と山川出版社の『中国史』では他にも重複している執筆者がいる)

 平勢さんは、このほかにも「いちばん古い古代」の中国史を扱った一般向けの本を続々と刊行している。『『史記』2200年の虚実』(講談社, 2000年)、『中国古代の予言書』(講談社現代新書、2000年)、『よみがえる文字と呪術の帝国』(中公新書、2001年)、『『春秋』と『左伝』』(中央公論新社, 2003年)などである。私はこの分野の専門家でないので読んでいないが、専門論文もたくさん発表しているようだし、中国の学界でも論文を発表しているようだ。しかも、日本の地方史を扱った『亀の碑と正統』(白帝社、2004年。私はこの本で「贔屓(ひいき)」ということばの本来の意味を知った)も出版していて、その筆力にはひたすら感服するほかない。

 内容には重複も多い。けれど、ある本であまり詳しく触れられなかった点を他の本で詳しく掘り下げるような形になっていて、次から次へと読みすすめると平勢さんの書く壮大な「いちばん古い古代」の中国史像が浮かび上がるようになっている。たとえば、戦国時代の国と「()」の関係は他の本にも出てくるけれど、その点を掘り下げて論じているのが『よみがえる文字と呪術の帝国』である。また、普通は『春秋』の注釈書とされている『左伝』(『春秋左氏伝』、『左氏春秋』)が、その体裁とは裏腹に、『春秋』の論旨を否定する内容を含んでいることは、平勢さんは多くの本で論じている。平勢さんの古代史学の一つの柱になっている議論だ。で、なかでも、その問題を中心に据えて、豊富な実例を検証しつつ論じたのが『『春秋』と『左伝』』だ。

 平勢さんの本は、むしろ、一冊を読んだだけでは、内容が詰めこまれすぎているために、平勢さんの「いちばん古い古代」の中国史像を十分に把握できないのではないだろうかと思う。

 この『都市国家から中華へ』は、平勢さんの一般向けの本のなかでは、分量も多いし、触れている論点も多い。それでもあいかわらず「詰めこみすぎ」の傾向があって、軽く読み飛ばすことのできない本になっている。その点は平勢さんも自覚しているようで、「はじめに」の最後の部分(27〜29ページ)でこの本の「わかりにくさ」を強調している。


「いちばん古い古代」史の一般的な像

 この「いちばん古い古代」史は次のように説明されることが多い(『都市国家から中華へ』30〜31ページ)

 新石器時代に各地に都市国家が生まれ、やがて、夏王朝が最初の統一王朝を樹立する。夏王朝は、以前はたんなる「伝説の王朝」とされ、実在の王朝とは考えられなかったが、現在では夏王朝は実在したとして中国の「いちばん古い古代史」を描くほうが普通になっているようだ。この講談社の「中国の歴史」シリーズも最初の巻を「夏」時代にあてている。

 夏王朝が倒れた後、殷王朝が樹立され、これが次の統一王朝になる。しかし、殷王朝は、紀元前11世紀(平勢さんによると紀元前1023年)に、西から興隆した周王朝に倒され、周王朝が統一王朝になる(この時代の周を「西周」ともいう)

 周王朝は、現在の西安近くの鎬京(こうけい)に王の首都を置き、王の一族を初めとする諸侯に一定の地方を与えて、そこを支配させた。これが「封建」の仕組みである。封建された諸侯が支配する領域が、この時代の「国」である。王から領地を封建された諸侯は、一般に「侯」という称号を名のり、とくにステイタスの高い諸侯は「公」という称号を名のった。とくに、洛陽(らくよう)(当時は洛邑)に領地――つまり「国」――を与えられた王家一族の周公は、王家を支えて活躍した。

 ところが、周王朝の支配が長くなると、乱暴な王や暗愚な王が現れるようになり、ついに8世紀の幽王(ゆうおう)のときに周王朝の本家が滅亡する。周王朝の一族が洛陽に本拠地を移して王朝を維持する(平勢さんの議論では事件の経緯についての解釈が異なるが、ともかくこの新政権ができたのは前770年とする)が、王朝の権威は衰えた。本拠地を洛陽に移してからの周を「東周」、また、周王朝が洛陽に移って「東周」になってからの時代を春秋時代という。

 現在の山東省方面に周の王の一族が封建された()という国があった。この国の年代記のタイトルを『春秋』といい、孔子が書いたとされている。この『春秋』が描いた時代なので、この時代を「春秋時代」と呼ぶ。

 春秋時代には周王朝はまだ尊敬されてはいたが、諸侯を抑えるだけの実力はなくなっていた。そこで、諸侯の中から、周王朝を補佐する実力者が出て、全中国を安定させるために活躍した。これが「覇者」である。

 ところが、紀元前5世紀中ごろに、春秋時代の有力国だった(しん)(現在の山西省方面)で、公(周王から晋の国を封建された支配者)の権力が衰え、替わって(かん)氏、()氏、(ちょう)氏の三家が晋の国を三分する勢いを示した。この三家はやがて晋の国を分割して自立する(紀元前403年)。また、周王朝創立にゆかりの深い太公望(たいこうぼう)呂尚(りょしょう)の子孫が封建されていた山東半島の大国(せい)(先に触れた魯のお隣の国)でも、臣下の(でん)氏が公家から政権を奪い、斉の国を乗っ取った(紀元前388年)。

 この晋の三分と斉の最高支配者の交替以後、中国では周の王の権威はまったく通用しなくなった。各国の最高支配者は、「侯」や「公」ではなく、かつて周だけに許されていた「王」の称号を名のり、戦争を繰り返すようになった。この時代が(中国の)戦国時代である。

 太公望は「呂尚」という名だが、本来の姓は(きょう)で、その子孫が封建された斉の公家の姓も姜だった。なお、釣り好きを「太公望」と呼ぶのは、この人物が周王朝の創立者である文王に会ったときに釣りをしていたという伝説からである。

 戦国時代には、支配者が「王」を称した有力な国が7つあり、「戦国の七雄」と呼ばれている。現在の山西省から河南省のあたりを三つに分割した韓・魏・趙の諸国(だから当時の「韓」は現在の韓国とはまったく違う場所にあった)渭水(いすい)流域の陜西省方面に勢力を広げた(しん)、山東省方面の大国斉、現在の北京を含む河北省あたりを本拠地にした(えん)、長江流域に大きく勢力を広げた()である。周や魯を初めとして、七雄以外の国も生き残ったが、やがて七雄諸国の力に圧倒され、併合されていく。

 戦国時代は紀元前3世紀後半まで続く。そして、その戦国の諸国のなかから、陜西省方面の秦が力を伸ばし、秦の始皇帝のときに中国を統一するのである(紀元前221年)。

 この「いちばん古い古代」史像を、平勢さんは少しずつ崩し、平勢さんの歴史観に従った「いちばん古い古代」史像を提示していく。その道筋の概略を、私の理解している範囲で示してみたいと思う。もっとも、私はこの時代の歴史を専門にしているわけではないから、誤解している点も多々あるのではないかと思うけれど。


「いちばん古い古代」史のわかりにくさ

 ところで、この中国の「いちばん古い古代」史はなぜわかりにくいか?

 まず、その「いちばん古い古代」だけで1000年以上の長さがあるという時代の長さだ。しかも、それを「一つの時代」として認識してしまうところに問題が生じる。たとえば、日本の飛鳥時代から室町時代までを「一つの時代」としてくくって一冊の本にまとめようとしたら、やっぱりその内容は詰めこみすぎになり、読みにくいものになってしまうのではないだろうか。中国の「いちばん古い古代」にはそれぐらいの長さがあるのだ。

 しかも、中国のばあい、この1000年以上も続く「いちばん古い古代」について文字史料が残っているというのが、かえってそのわかりにくさの原因になっている。ほかの地域ならば「文字史料がほとんど残っていないからわかりにくい」というほうが普通だろうから、何というか、ぜいたくな悩みではある。

 なぜ文字史料がたくさん残っていることがわかりにくさの原因になるのか?

 中国の文字史料の大部分は編纂(へんさん)された歴史書の形で残っている。しかも、その歴史書を編纂したのは、紀元前3世紀末に始まった漢王朝か、紀元前5世紀後半ごろからの戦国時代の各国かである。さらに中国には多くの出土史料があり、出土史料にも文章が刻まれていることがある。

 編纂された歴史書には編纂した国や王朝の立場が反映している。だから、その国にとって都合のよいことは大きく採り上げ、都合の悪いことは無視している。また、同じ事件でも、自分の国に都合のよいように書き変えたり、ほかの国にとって都合のよい点を(けな)すコメントを加えたりしている。

 また、(この本ではあまり強調されていないが)国によって暦が違う。正月をいつにするか、いつ年が変わることにするか(普通は正月で変わるのだが、秦では10月で年を変える暦を使っていた)が違う。だから、同じ事件でも、国によって年が明けてからの事件として記録されたり、年明け前の事件として記録されたりしていた。

 さらに、王の在位年数の数えかたが二通りあったのも混乱のもとである。当時は、年を表現するのに「○王のx年」という言いかたが使われていた。この「○王のx年」を、○王が即位したその年を元年、翌年を2年として計算する方法(立年称元法という)と、○王が即位した翌年を元年として計算する方法踰年(ゆねん)称元法)があった。立年称元法では、王は即位すると同時に王になるが、踰年称元法では、即位してから年を越さないと王としての完全な資格が手に入らない。この「いちばん古い古代」の中国では立年称元法が普通で、途中で一部の国が踰年称元法に切り換えた。ところが、戦国時代に作られた歴史書には「立年称元法でA王のx年」、「踰年称元法でB王のy年」などと書き分けてあるわけではない。


客観性を装うことの意味

 こういう複数の歴史書が「この本は、この国の、または、この王朝の立場を正当化するために書きました」などとちゃんと書いていれば、後の世の私たちもそれを考えに入れて読むことができる。しかしそんなことは書いていない。それを書いてしまえば、他の国からは「この本に書いてあるのはしょせんその国に都合のいい歴史であって、私たちの考える歴史はこれとは違う」と切り捨てられてしまうからだ。

 それでもいいではないか――と現在の私たちは考えるかも知れない。だが、戦国時代の国どうしの関係は、現在の国際関係とは違っている。戦国時代の国では、それぞれの国の王が、本来は「天下」(当時の漢字文化が通用した範囲)の唯一の支配者だというたてまえをとっていた。だから、歴史書は、あくまでその国の王だけが本来は全中国の支配者なのだというたてまえで書かれる。

 そうである以上、「いまは全中国の一部しか支配していない私の国のために書いた本ですよ」などと書いてはいけない。どの国にも偏らない立場を装って「この国の王こそが全中国の本来の支配者なのだ」と主張しなければならないのだ。

 戦国時代に書かれた歴史書の背景にあるのは、複数の国が併存しているにもかかわらず、そして、実質的には外交関係も持っているにもかかわらず、正統な支配者はあくまでただ一つ自分の国だけだと主張する国際関係である。

 こんな国際関係は私たちにはあんがい理解しやすいのではないだろうか。現在の中国が台湾に対してとっている姿勢がそれに似ているからだ。

 中国では台湾は中華人民共和国の一部として扱う。もし必要ならば後から台湾には中国が認めていない不法な当局が存在するというようなことを書き、自分が正統な政府であることを主張して、台北政府を非難する。しかしわざわざ触れる必要がなければ台北政府のことなど最初から触れもしない。中国の主張として台北政府が不法な存在だと主張するのではなく、客観的に台北政府などというものが存在する理由がない(にもかかわらずそれは存在している)という世界認識を打ち出す。そのことで台北政府の正統性を強く否定しているのだ。台湾の側も、かつては、全中国(このばあいは現在の人民共和国の領土に台湾とモンゴルまで加わる)の正統な支配者は台湾にある中華民国政府であって、中華人民共和国というのは反乱団体がでっち上げた支配組織に過ぎないというたてまえをとっていた。

 こういうことを考えると、戦国時代の歴史叙述の伝統があるから、いまの中国も、その戦国時代の王国のような姿勢を台湾に対して示しているのだ――と断定してしまいたい気もちになる。それがほんとうかなという気もしないでもない。けれども、一方で、そういう戦国時代の歴史叙述の立場は紀元前2〜1世紀ごろには忘れられてしまうのだから、すくなくとも単純に現在の中国に直結しているとは言えない。もうすこしていねいな議論が必要だろう。

 自分の国こそ全中国を支配する資格のある唯一の正統な国だという歴史書を書いたとする。その国と対立する国では、「あの歴史書はあの国が勝手に言っているだけの偏った歴史像を描いている」と暴露するだけでは足りない。それを暴露するのも重要だが、さらに進んで、その国ではなく自分の国の王こそが当然に全中国を支配する資格があるのだということを証明しなければならない。それも、どの国にも偏らない立場を装って、自分の国の王が全中国の正統な支配者だと証明する形で書かないといけないのだ。


忘れられてしまった歴史書の立場

 ところが、その戦国時代の諸国は秦の始皇帝の統一で滅亡してしまった。しかも、その秦は実質的に始皇帝一代で滅亡し、その後、漢が統一王朝になった。その漢の時代に編纂された歴史書が『史記』である。

 『史記』が完成したのは紀元前1世紀の初めごろだ。秦の滅亡から100年以上が経っている。秦が滅亡するころには、秦が滅ぼした戦国時代の諸国の復活の動きもあったし、漢の初期にも、戦国時代の諸国の系譜を引く人物が有力者として活躍していた。けれども、そういう人びとも姿を消してしまうと、戦国時代の歴史書が特定の国のために編纂されたということ自体がわからなくなってしまった。歴史書は、それぞれの国や王朝の立場から書かれたものではなく、ほんとうにそれぞれの国を超えた普遍的な立場で書かれたものだと信じられるようになった。

 また、戦国時代の最初まではどの国でも年代を立年称元法でカウントしていた(新しい王の即位の年が元年)のに、戦国時代の途中から諸国がばらばらに踰年称元法(新しい王の即位の年の翌年が元年)に切り換えていった。そのことも『史記』の時代にはわからなくなってしまった。だからどの国も最初から踰年称元法で年をカウントしていたという仮定で計算する。だから計算が合わなくなる。そのため、『史記』では、文章によって、一つの事件が違う年のできごととして記されることになってしまった(この点を含め、平勢さんの『史記』論は『『史記』2200年の虚実』で詳しく論じられている。専門家向けの本としては『新編史記東周年表』東京大学出版会、1995年があるが、私は未見である)


『史記』は漢王朝のための歴史書である

 しかも、その『史記』自体が漢王朝の立場で編纂された歴史書である。けっして王朝から距離を置いて中立の立場から書かれたものではない。当然ながら、統一王朝としての漢王朝の立場を正当化するように書かれている。しかも、どの国・どの王朝に偏らない立場を装ってである。

 『史記』の編者は司馬遷(しばせん)である。司馬遷は、当時の皇帝であった武帝に対して、敵の匈奴(きょうど)に降伏した将軍李陵(りりょう)を弁護したために怒りに触れ、生殖器を切除される刑を受けた。屈辱的な刑罰だし、かなりの重罰である。司馬遷が『史記』を完成させたのはその後のことだ。

 自分にそのような屈辱的な罰を与えた武帝の立場を司馬遷が擁護するはずがない。だから、『史記』は、漢王朝から距離を置き、歴史的な事実と司馬遷の信念だけをもとにその歴史観を構築したはずだ。しかも、この「中国の歴史」シリーズで秦・漢時代を担当している鶴間和幸さんが明らかにしているように、司馬遷は『史記』を書くにあたって中国全土を調査のために旅行している。だから、『史記』には、漢王朝の立場を超えた普遍的な立場からの歴史が描かれているはずだ。

 そう思われることが多いと思う。

 中国の「正史」は、一般に、前の王朝が滅亡した後に、新しい王朝が成立したことを正当化するために編纂されるものだ。だから、前の王朝の最初のほうは誉めても、最後のほうは貶しまくる。そうでないと自分たちの新しい王朝を正統化できないからだ(悪い王朝を倒した新王朝だから正統なのであって、よい王朝を倒したら自分たちが悪い王朝になってしまう!)。だから、中国の「正史」には王朝の立場が色濃く反映している。

 しかし、そう知っている人でも、司馬遷の『史記』、班固(はんご(こ))の『漢書(かんじょ)』、陳寿(ちんじゅ)の『三国志』あたりまでは、古代の歴史家個人の努力で完成された歴史書で、王朝の立場を超えた立場で書かれた歴史の名著であると考えている人が多い。

 扱う時代としては『後漢書』のほうが『三国志』より前になるが、成立したのは『三国志』のほうが先である。なお、この歴史書『三国志』は、(しょく)正統論の立場からは評判が悪い。歴史書『三国志』ではあくまで魏を正統とし、魏の皇帝のみを皇帝と認めて、蜀・呉は皇帝と位置づけていないからだ(『三国演義』で劉備が「先主」と呼ばれるのは、劉備は「主」であって「帝」ではないという歴史書『三国志』の表現を受け継いだものだ)。そのため、蜀正統論の立場からは、陳寿は諸葛亮(しょかつりょう)(諸葛孔明(こうめい))父子に軽蔑されていたつまらない人物であり、正史『三国志』も陳寿が賄賂を取って事実をねじ曲げて書いた駄書だという評価が出てきたりする。だから、正史『三国志』に「諸葛孔明は戦争が下手だった」というようなことが書いてあるのに、孔明は戦争の天才だったという『三国演義』(小説の『三国志』)の評価が正しいと言われたりもする。べつにそういう評価をするのも自由だが、それはあくまで蜀正統論の立場からの評価だということは押さえておいたほうがいい。ちなみに、ここで断るまでもなく、『三国演義』は蜀正統論である。

 『史記』についても、司馬遷が武帝の横暴の被害者であるからと言って、だからその武帝を相対化して、武帝とか漢王朝とかの立場を超えた立場から書いたものだと見るのはまちがいだと平勢さんは断定する。

 だいいち、「横暴な武帝」という像を打ち出しているのは『史記』ではなく、漢王朝がいったん滅亡してから(紀元後8年)、それを復興するというたてまえで樹立された(25年)後漢王朝の下で編纂された『漢書』だ。平勢さんの見かたによると、『漢書』は後漢王朝のために書かれた歴史書だから、漢(前漢)王朝のとくに後半の時代をあまり高く評価することはできない。たしかに後漢王朝は漢王朝の後継者という立場をとっている。それでも、漢王朝を復興した後漢王朝の偉大さを強調するためには、漢王朝の後半はやっぱりダメ王朝でないといけないのだ。だから、『漢書』では、漢の武帝は、一方では漢の支配領域を拡大した偉大な皇帝として描かれるが、晩年には過ちを犯し、その後の漢王朝の混乱の元凶を作ってしまった皇帝として否定的に描かれることになる。

 前半生は王朝の勢力振興に尽くしたが、晩年には混乱の元凶を作ってしまった――というと、子ども時代に1970年代の記憶を持つ私などはやはり毛沢東を思い出してしまう。毛沢東は、とう〔JIS:963B、シフトJIS:FBB9、Unicode:9127〕小平が権力を握る過程で、前半生は功績があったが晩年には誤りもあったなどと評価されるようになった。晩年に「誤り」があったのはたしかだろう。でも、とう小平は晩年の毛沢東の下で二度も失脚した経歴を持っている。晩年の毛沢東まで正しかったとしたら、とう小平が権力を握っていることは不当になってしまうのだ。そういう意味で、このばあいは「前王朝の末期は貶さなければならない」という中国の正史叙述のフォーマットがあてはまるのかなという感じもする。もちろん、さっきも書いたように、よりていねいな議論が必要なのだろうけど。

 また、生殖器を切除された人物が「宦官(かんがん)」として皇帝のそばに仕えるというのは、中国では別に珍しいことではない。しかも、後宮(皇帝のハーレム。日本の徳川時代の「大奥」にあたる?)のお世話係としてではなく、政治家や将軍としても大活躍している。儒学を修めて官僚になった人びとにとってはライバルにあたるので、それらの人びとが書いた文章では宦官出身の政治家・官僚は悪く書かれがちだが、それは文章の執筆者の立場を考えてやっぱり差し引いて考えなければいけないだろうと思う。日本でも、江戸時代に、一種の抜擢(ばってき)人事で将軍のお側に仕えた「側用人」については悪く書かれる傾向があったが、近年の江戸時代研究ではそういう「側用人」評価は覆されつつあるようだ。同じように、宦官についても、たしかに皇帝や後宮の女性の寵愛を得て無能なくせに横暴だった例もあるだろうけど、ぜんぶがそうだったとは考えないほうがいいだろう。

 武帝から、現在から見れば理不尽な仕打ちを受けた司馬遷も、漢王朝の歴史編纂官としては、その仕事に忠実に、漢王朝の支配を正統化するための歴史書編纂に尽くした。それが『史記』だというのが平勢さんの評価だ。


すべての歴史書は王朝の歴史書だ

 戦国時代の歴史書についても、やはり、諸侯国からは距離を取って、客観的に、国や王朝の立場を超えた歴史観によって書かれていると考えられてきた。

 「春秋の筆法」ということばがある。孔子が書いたものとされる歴史書『春秋』は、「よいものはよい、ダメなものはダメ」と書く姿勢を貫いているとされる。その姿勢を「春秋の筆法」というのだ。『春秋』は、一国や一王朝の立場に左右されるものではなく、客観的によいこと・悪いことを区別して厳しい評価を下すものだというのである。

 平勢さんはこのような歴史書観を否定する。

 この時代の歴史書はすべてあくまで国や王朝の立場を正当化するために書かれたものだ。たしかに、歴史書は国や王朝の立場を超えた客観性を装って書かれている。しかし、それこそが、その歴史書がある国や王朝の支配を正統化するための手段なのだ。ところが、後の時代になって、その性格が忘れられ、その歴史書が主張している「一国・一王朝を超えた立場で書かれた歴史」というたてまえが真に受けられてしまった。その結果、戦国時代の歴史書についても、『史記』についても、国や王朝との関係がわからなくなってしまったのだ。

 そういう立場を考慮せずに、どの歴史書も同じように事実を伝えていると横並びにして評価するから、一つの事件や一人の人物についてのいろんな書かれかたやいろんな評価が混ざってしまう。さらには、一つの歴史的事件の年代が何通りも伝わることになってしまう。

 だから、平勢さんの議論は、歴史書がどの国で書かれたか、その国はそのときどういう状況にあったか、どういう暦を使っていて、いつ立年称元法から踰年称元法に移行したのかを細かく突き止めることから始まる。


漢字は王朝専用の文字だった

 その歴史書の記述を検証するために使える有力な史料が出土史料だ。しかし、平勢さんは、その出土史料も国や王朝の立場を反映していると主張し、それを基本に出土史料を使っていく。

 しかし、どうしてこの「いちばん古い古代」の文字史料は、国や王朝の立場を反映したものばかりなのだろう? 「いちばん古い古代」にも、国家や王朝をバックにしない歴史の本が一つぐらいあってもいいではないか。

 歴史書『三国志』につけられた註からは、『三国志』が扱う同じ時代についてさまざまな歴史書や説話集があったことがわかる。『三国志』本文は曹操とその子孫の魏が正統として書いてあるが、逆に曹操の悪口を集めた本もあったらしい(そういう素材が『三国演義』に利用された)。だから、中国でだって、異なる立場からの歴史書は、3〜4世紀ごろにはいくつも書かれていたのだ。ただ、それがどの政権とも関係のない中立的な立場からのものだったか、それとも何かの社会勢力を背景にして成立した歴史書や説話集だったかというと、やっぱり何かの社会勢力が背景にあって書かれた本だと考えるほうがいいのだろうけど。それにしても、だったら、「いちばん古い古代」にも国や王朝以外の立場からの歴史書があってもいいだろう。

 「いちばん古い古代」に国や王朝以外の立場から書かれた歴史書がないのは、平勢さんによると、漢字自体が王朝や国の文字だったからということになるのではないだろうか。

 平勢さんによると、漢字はじつは「殷字」であり(平勢さんはこういう表現は使っていない)、もともと殷王朝が神の意志をうかがうために使っていた文字だった。いわゆる甲骨(こうこつ)文である。殷の時代にも地方国家はあったが、それらの地方国家では、漢字が主体的に(つまり「殷が使っている文字」以上の意味づけで)使われていたことを示す考古学的遺物はまだ発見されていない。殷以外で文字を使っている文化圏はあったが、それは漢字とは異なる文字だった。あくまで現時点の考古学の成果をもとにすると、漢字そのものは殷でしか使われていなかったと推定するのが妥当だ。それが平勢さんの考えである。

 殷は周に滅ぼされ、漢字(殷字)は周に受け継がれた。この周も、周が陜西省地方に本拠を置いていた時代(「西周」の時代)には漢字を独占していた。周王朝は、自分にしかわからない漢字をわざわざ青銅器に鋳こんで、自分が「封建」した諸国(諸侯の国)に配布していた。漢字を鋳こむ技術は周王朝が殷王朝から受け継ぎ、独占していた。「相手にはどうせわからない」ということをわかっていて文章を記し、それをわざわざ相手に与えるという行為は、北田暁大(あきひろ)さんの記す「アイロニー」の構図に似ている――というようなことはどうでもいいとしよう『嗤う日本の「ナショナリズム」』の評 第3回のうち「「アイロニー」という方法」を参照してください。以上、宣伝でした)

 周王朝が、相手にわからないことを知りつつ漢字を使ったのは、それが殷以来の神の権威を背後に背負った文字だったからだ。漢字は神との交信に使う文字であり、周はその文字を使いこなせるが、他の諸侯はそれが使えない。それは周は特別に神の恵みを受けた王朝だということを示している。もしそのことを否定するつもりなら自分でも漢字を鋳こんだ青銅器づくりをやってみるがよい――どうせうまく行かないから! じっさい、もし漢字が解読できたとしても、それを青銅器に鋳こむ技術がなかったので、諸侯は周王朝のような漢字入り青銅器を造れなかった。そのことが周王朝の威信を支えたのだ。

 ところが、周王朝の本拠が洛陽附近に移るという紀元前770年の「東遷(とうせん)」事件(ここから春秋時代)のときに、たぶんこの事件の動乱が諸侯国を巻きこんでしまったために、漢字(周字)とそれを青銅器に鋳こむ技術とが周辺の諸侯国に伝わってしまった。周辺の諸侯国も漢字を使い始める。

 しかし、それは最初はやはり神との交信の儀式の場で、神との誓いや、神の前での人間どうしの誓いを記す(日本史でいう「起請文(きしょうもん)」である)ために使われる文字だった。文字を書く役割は、各地の神官の一部が管理していたらしいが、この時点ではまだ日々の暮らしや行政のなかで使われるものではなかった。

 戦国時代になると、それぞれの「国」が支配する領域が広がった。遠く離れた地方を支配するようになって、文書で意思を伝達する必要が生じてきた。そのために漢字が文書行政に使う文字に使われるようになる。

 しかし、この時代にも、漢字は、国の官僚や、国の下で文字を管理しているエリート集団だけのものだったはずだ。そのエリート集団だけが、漢字を使って歴史書を書いたり、漢字を記した青銅器を作ったりすることができた。だから、この時代の歴史書や出土遺物は、国の立場を反映したものになっている。平勢さんの説明はおそらくそういうものだろう。

 漢字を神との交信に使っていた殷の王族や、春秋・戦国時代の諸侯国の支配者の下で漢字を管理していたエリートたちが、世界で何億もの人たちがインターネットの上で漢字を使いこなしてコミュニケーションをとったり感動を表現したり罵倒し合ったりしているようすを知れば、どんなことを感じるだろう? そんなことを考えたりもする。


「平勢歴史学」の前提

 戦国時代の文字史料は、歴史書も出土史料も、どんなに国を超えた客観的な立場を装って書かれていても、戦国時代の各国の立場に立って書かれたものだ。歴史を書き記す漢字自体が、最初は殷や周という王朝の文字であり、それによって記された文章は殷や周の立場を反映している。その戦国時代よりずっと後に書かれた『史記』も、漢王朝の立場に立って書かれたものだったうえに、戦国時代の歴史書の性格がわからなくなっていたため、まちがった整理で記事に混乱が生じてしまった。したがって、その時代の漢字がどういう集団の文字だったかとか、その歴史書がどの国やどの王朝の立場に立って書かれたものだったかとかをはっきりさせなければ、殷・周・春秋・戦国の時代の歴史像は描けない。その作業過程を説明し、それに基づいてこの中国の「いちばん古い古代」の歴史を描くことが平勢さんの歴史学の方法なのだ。



―― つづく ――