特権的古代史からあたりまえの古代史へ


平勢隆郎

中国の歴史 02 都市国家から中華へ 殷周 春秋戦国

講談社、2005年



2.


ここまでのまとめなど

 戦国時代にできた歴史書や、さらにそれを踏まえてできた『史記』など後の歴史書には、それぞれの時代の王朝の立場が前提とされている。その時代の出土史料も、やはり文字史料には、その文字を刻んだ国や王朝の立場が反映している。その立場がどんなものだったかを明確にしながら、何がその立場から持ちこまれた虚構で、何が実際にあった「事実」なのかを区別していく。それが平勢さんの歴史の書きかた――歴史叙述の方法だ。

 ……というのは前回のまとめでした。

 平勢さんの文章の特徴は、その過程の主要な部分を公開しながら議論を進めるというところにある。しかも、読者として、いちおう従来の「いちばん古い古代」の中国史を知っているひとを想定している。ばあいによってはかなり詳しく知っているひとを想定しているのではないか。たとえば、夏王朝の星座がオリオン座(の一部。「(しん)宿」という)、殷王朝の星座がさそり座(その一部で一等星アンタレスの附近。「(しん)宿」という)ならば、周王朝の星座は北斗七星だと考える読者がいるのではないかと平勢さんは書く(115ページ)。話はそう単純ではないという議論がその先に続く。でも、それより、夏王朝・殷王朝の星座が出たところで「周王朝の星座は北斗七星ではないか」と思いつくのは、この時代の中国史について相当の知識のある読者だけではないだろうか? ちなみに私はぜんぜん思いつかなかった。

 ここでちょっと話の本線をはずれよう。


天文関係の雑談

 私が平勢さんの本をよく読むようになったのは、この時代の天体現象について、正確な知識に基づいて書いていることがわかったからだ。

 たとえば、この時代、いまの北極星(こぐま座アルファ星)は北極星ではなく、北極のまわりをまわる明るい星の一つにすぎなかった。北極近くには目立つ明るい星がなく、いま北極星のあるこぐま座と、北斗七星のあるおおぐま座とが、その明るい星のない北極のまわりをぐるぐる回っていた。ちなみに現在も北極星(こぐま座アルファ星)は北極から少しだけずれている。北極星がほんとうの北極に近づくのはいまから100年ちょっと後の22世紀の初めごろだ。

 ギリシア神話では、おおぐま座が主神ゼウスに寵愛された女のひとで、こぐま座がそのひとの子どもだとする。ゼウスの正妻ヘラが嫉妬して、この親子を熊の姿に変えたうえ、一晩じゅう眠れないように――つまり地平線の下に沈んで休めないように――北極の近くに上げたのだとされている。ところが、いまのギリシアあたりの星空では、こぐま座は確かに沈まないけれど、おおぐま座は一部を除いて沈んでしまう。なぜそうなっているかというと、たぶんこのギリシア神話ができた時代が、中国の戦国時代と同じころの時代で、おおぐま座とこぐま座は北極をはさんでぐるぐる回って沈まない時代だったからだ。

 同じくギリシア神話ではさそり座とオリオン座はライバル関係にあるとする。巨人で英雄のオリオンがいばり散らしていたので、神がオリオンを懲らしめるために巨大サソリを送り、オリオンは巨大サソリに刺されて毒にあたって死んだという。どちらも巨大星座であること(さそり座は現在でも巨大星座だけれど、昔はいまの天秤座のあたりまで広がっていて、さらに巨大だったという話も聞いたことがある)、オリオン座のベテルギウスとさそり座のアンタレスとどちらにも赤い目立つ星があること、さそり座が上ってくるとオリオン座が沈んでしまうことなどから、オリオンとサソリはサソリ優位でライバル関係という関係が想定されているわけだ。

 それが中国の「いちばん古い古代」になると、その時代でも「古代」とされた時代に栄えた二つのライバル王朝の夏と殷があてはめられる。さそり座の殷は、夏王朝を破った王朝なので、オリオン座の夏よりあとからやって来て、夏を追い落としてしまう。ところで、平勢さんによると、この時代の星空では、さそり座が東に、オリオン座が西に見えた時期があったそうだ(現在もオリオン座の一部とさそり座の一部分が同時に見える時期がまったくないわけではないが)。この話はこの本ではじめて知った。


雑談のつづき

 この本には出て来ないけれど、平勢さんの本では地球の自転の揺らぎのことも論じている。一年に1000分の1ミリの単位で見ると、地球の自転の速度は揺らいでいる。最近では、1980年代ごろから1990年代半ばまでは自転がやや遅くなりがちだったのだが、現在では速くなってきているという。このことは『天文年鑑』(誠文堂新光社)の「最近の「時」」(2005年版では316〜317ページ)のページに出ている。この自転速度の変化を計算に入れないと、古い歴史書で起こったことになっている日食が、計算上は起こらないという不都合が生じる。天文学の本にはそういうことも書いてあるのだけれど、歴史学者がそれをきちんと知って議論を組み立てているかどうかは私には疑問だった。平勢さんは少なくとも私と同じ程度には知って議論をしていると知って嬉しくなった。

 私が平勢さんの本に興味を持ちだしたのは、この天文現象の話と、もう一つ、「三分損益(さんぶそんえき)法」という会計処理みたいな名まえの方法で五度上や五度下の音程(「五度」は「ド」と「ソ」の音程。正確には「完全五度」)を作っていく音楽理論の話とが平勢さんの本に出てきたからだ。それが私の趣味にちょうどはまったのである。中国史にも興味を持っていたけれど、天文現象と音楽がそこに絡んできたので、私は「この先生の書く中国史の本はおもしろい」と即座に思ってしまったのだ。

 三分損益法 現在の音階で、たとえば「ド(C)」を基本の音とすると、「ソ(G)」は「ド(C)」の1.5倍の振動数の音である。管楽器ならば管の長さ、絃楽器(弦楽器)ならば絃の長さなど、震動するものの長さを「1.5分の1」つまり3分の2にすると、1.5倍の振動数の音が得られる。つまり、最初の長さの管で「ド」の音が出ていたならば、その長さを短くして3分の2にすると「ソ」の音が出る。その「ソ」の音が出ている管の長さをさらに3分の2にすると、「ソ」の音のさらに五度上の「レ」の音が出る。このように、管の長さを3分の2にしていくことを繰り返せば、「ド(C)‐ソ(G)‐レ(D)‐ラ(A)‐ミ(E)‐シ(B、クラシックではH)……」という音のつながりが得られる。これは「ハ長調(シャープなし)‐ト長調(シャープ一つ)‐ニ長調(シャープ二つ)‐イ長調(シャープ三つ)」という西洋音楽の「調性」を決める重要な音のつながりである。しかし、短くする一方だとすぐに管の長さが短くなりすぎて音が出にくくなる。そこで、「ソ」の音の次には、3分の2にするかわりに、それを倍にして3分の4にする。つまり、3分の1の長さを継ぎ足す。そうすると、五度上の一オクターブ下の音が出て、途中でオクターブ下がるところが入るけれど、「ド‐ソ‐レ‐ラ……」という音のつながりはそのまま残る。こうやって「五度上」を次々に求めていく方法を「三分損益法」という。最初に3分の2にするときに3分の1(三分)を切り落とし(損し)、次にその切り落とした後の長さの3分の4にするときに3分の1(三分)を継ぎ足す(益する)からだ。基本になる高さの音(たとえば「ド」)が出る長さを、ひと桁の整数ではいちばん大きい9に設定すると、その五度上の音(「ソ」)が出る長さは6になり、さらに五度上の一オクターブ下の音(「レ」)が出る長さは8になるが、そのさらに五度上を求めると5.33...となり、整数でなくなる。このことから、長さが整数になる三つの数をとりわけ尊重し、九が「天」、六が「地」、八が「人」を意味するという意味づけが生まれた――というのが平勢さんの説明である。


「理科離れ」について

 「理科」のおもしろさがどこから生まれるかというと、その一つは、こういう「無関係だと思っていた分野の知識がいま考えている分野を知るのに役立つ」というのに気づくところからだろう。そういう「驚き」感を演出できないことが「理科離れ」の一つの原因のようにも思う。

 知識を体系化して、その体系の「基礎」だけを教えるとなると、どうしても他の分野とのかかわりが見えにくくなってしまい、学問はつまらなくなるのではないだろうか。4分の1ぐらい理解できればいいから、そのかわり4回に1回は別分野とのつながりに気づいて「驚き」を感じるというように「理科」を組み立てたら、「理科離れ」は少しはましになるかも知れない。もっと進む危険性もあるけど。だが、ともかく、何の役に立つかもわからないまま「基礎」を詰めこまれることは、学ぶ側にとっては苦痛にほかならないことはわかっておいていいと思う。

 もちろん、だから「詰めこみ教育」はやめようなどと言うつもりは私にはない。ただ、「教えられる者全員が教えられる内容を教えられたときにぜんぶ理解していなければならない」という原則をゆるがせにしないで「教育」を進めるのは私は無理だと思う。そんなのは理想論に過ぎないからだ。どんなに説明したって、また説明してもらったって、わからないものはわからないのである。それが時間が経ってみればふいに「そうだったのか」と理解できたりも起こる。

 そういう理想論にとらわれすぎているから、超詰めこみ教育になったり、逆に最低限以上は教えてはダメという「詰めこみの裏返し」教育が出てきたりするのだ。「基礎」から「応用」を自在に往き来して、「ここがこんなふうにつながるんだ」という「驚き」感を演出するほうがよほど「教育」の効果があるんじゃないだろうか。少なくとも、教えるほうもそのほうが楽しいだろうと思うんだけどなぁ。

 あ、このネタ、とっておいて「シュレディンガーの猫」で使えばよかった……。「シュレディンガーの猫」ももうだいぶ長いあいだ放置してしまったからなぁ。あのページをはじめたときにはブログの存在とかまったく考えに入れてなかったからね。

 と、このまま進めていったらどんどん支線へ分岐していくので、ここで本線に戻るとしよう。


平勢さんの本の難しさ

 平勢さんの本は、ある程度の「いちばん古い古代」中国史の知識をもっているひとにも、けっこう読みにくいだろうと思う。

 それは、まず通説で言われるような内容を示し、その内容を示す史料の原文(ただしわかりやすいように現代語訳している)を示し、それがどの国や王朝の立場を反映したものかを長々と説明した上で、史料が示している「事実」と、それを述べた国や王朝の主張を分けていくという作業過程を示しているからだ。

 もちろん、平勢さん自身が行った作業の全体量に較べれば、この本に出てくる「作業過程」はそのほんとうにごく一部に過ぎないだろう。でも、読む側からすると、その作業過程についていくのがけっこうたいへんだ。たとえば、古代王朝「周」のことを論じていたはずなのに、いつの間にか議論の焦点が戦国時代の国に移っていたりする。ときにはその話が漢の時代に移ったりもしている。しかも、一つの作業が終わると、話はすぐに次の作業に進む。漫然と読んでいると、それまでの一つの作業が一段落して次の作業に移ったこと自体すら読み落としてしまう。

 殷とか周とかの古い時代の話と、その時代のできごとを歴史書にまとめた戦国時代の話と、それをさらに再編集した漢の時代の話とが、出てきたり引っこんだりする。注意していればいいのだろうけど、予備知識のない読み手にとっては、周王朝の話も戦国時代の話もはじめて知る話がどどっと出てくるわけで、どれがどの時代の話かを把握するだけでけっこうたいへんだろう。そういう膨大な作業の果てに、ようやく平勢さんが示す「いちばん古い古代」の中国史像が示されることになる。

 そこで、この評では、私が理解しているかぎりでの平勢さんの描く「いちばん古い古代」の中国史をまず書いてみよう。


まず古代地中海世界との対比から

 中国の古代国家はまず都市国家として出発した。一つの都市が、周辺の農村などを支配しつつも、一つの都市で一つの国家を形成しているような状態である。

 「都市国家」として有名なのはやっぱり古代ギリシアのアテネ(アテナイ。長音と短音を区別すれば「アテーナイ」)とかスパルタ(ここは、正式には都市名はスパルタで、国名はラケダイモンと、いちおう分ける)だろう。あと、興隆期のローマと三度の「ポエニ戦争」を戦って滅亡したカルタゴも都市国家だし、じつはそのカルタゴと戦った相手のローマももともとは都市国家だった。そういう地中海の都市国家に似た状態から中国の古代国家は出発する。

 その古代地中海の都市国家も、ギリシア人の都市国家もあれば、いまのシリアやレバノンあたりに本拠地を持っていたフェニキア人の都市国家もあり(カルタゴはフェニキア人の都市国家だ)、ローマのようにラテン人の都市国家もある。一時期、ローマのラテン人を制圧していたエトルリア人の都市国家もある。地中海沿岸には、エトルリア人と同じく、いまでは滅亡した言語を話していた人びとの残した石碑があるという。いまは名も伝えられていない人びとが地中海沿岸にはいたのだ。さらに古代地中海の南東には古い文明を誇るエジプトがある。「古代地中海世界」といっても、ギリシア、フェニキア、ラテン、エトルリア、エジプトなどのさまざまの文化系統を背負った人びとが活躍する世界であった。古代地中海の歴史としてはとくに注意するまでもない事実である。

 平勢さんは中国の古代もそれと同じだったという。


複数の文化地域

 「いちばん古い古代」が始まる前の新石器時代には、中国には複数の新石器文化があった。ある文化地域の神像が他の文化地域に影響を与えているなど、相互に交流はあったのだけど(このことは以前に上海博物館展の感想にも書いた)、文化地域としては別々だった。

 その文化地域は、黄河流域では、上流に近い甘青区(現在の甘粛省・陜西省西部)、黄河中流域と渭水(いすい)盆地(西安などのあるところ)を含む広大な中原(ちゅうげん)(現在の陜西省南部、山西省、河南省など)、黄河下流の山東半島を中心とする海岱(かいたい)(現在の山東省が中心)、黄河河口の北側の現在の北京周辺から遼寧(りょうねい)省のあたりまで広がる燕遼(えんりょう)(現在の河北省、遼寧省など)などがある。

 長江(揚子江)のほうにも別の文化地域があって、上流の四川(しせん)盆地(すごく辛い料理とか、パンダがいることとか、三国志の(しょく)の国とかで有名)には巴蜀(はしょく)(現在の四川省)、中流の湖北・湖南地方には両湖区(現在の湖北省・湖南省)、下流の上海とか観光地で有名な杭州・蘇州とかのあたりは江浙(こうせつ)(現在の江蘇省、浙江省など)がある。

 さらに、黄河の北側で、現在は寧夏(ねいか)回族(かいぞく)自治区や内モンゴル自治区のあるあたりの雁北(がんほく)区を加えて、平勢さんは8つの文化地域を区別している。

 中国の漢人居住地域の北半分には黄河が流れ、南半分には長江(揚子江)が流れているとする(南の福建省・広東省や香港などはここではまだ範囲に含めない)。黄河流域には、上流(内陸側)から甘青区・中原区・海岱区が並び、甘青区と中原区のあいだの北側に雁北区が、海岱区の北側に燕遼区がある。長江流域には上流から巴蜀区、両湖区、江浙区が並ぶ。大ざっぱに言うと、巴蜀区の北が甘青区、両湖区の北が中原区、江浙区の北が海岱区でそのさらに北が燕遼区である。

 古代地中海世界が、ギリシア人の世界、フェニキア人の世界、ラテン人の世界、エジプト人の世界……と分かれていたように、古代中国世界も、甘青人の世界、中原人の世界、海岱人の世界、燕遼人の世界……と分かれていたのだ。違いといえば、古代地中海では、ギリシア人の本拠地はラテン人世界より東なのにラテン人の世界の西側にギリシア人の都市国家があったり(たとえばマルセイユ)、フェニキア人の本拠地はギリシア人世界より東なのにギリシアのずっと西にフェニキア人の都市国家があったり(カルタゴがその典型だろう)して、それぞれの人びとの住む場所が入り交じっていた。まんなかが海で、海を通じて往来できたからだろう。しかし、古代中国ではそういう入り交じりかたはしていないようだ。


都市国家の時代の始まり

 紀元前1000年よりずっと前、そういう古代中国世界の各文化地域に都市国家が生まれはじめる。これらの都市国家は青銅器を使い始める。いくつかの文化地域の都市国家は、ことばを表現するシンボルを使い始め、それを青銅器に刻みはじめる。また、いくつかの都市国家では、そのシンボルは文字へと発展し、文字が文章を形作ることもはじまった。

 それぞれの文化地域では、一つの都市国家がその地域の多くの都市国家のまとめ役としての地位を獲得する。アテネを中心とするデロス同盟や、スパルタを中心とするペロポンネソス同盟、ローマを中心とするラテン都市同盟のようなものだ。私たちは「同盟」というと、実質はともかく、形式的にはそのメンバーとなる国は対等のように感じる。けれども、古代地中海の都市同盟ではそうではなく、指導国が一つに決まっているばあいが多かった(傑出した指導国がない同盟もあったけど)。「いちばん古い古代」の中国の都市国家同盟でもそうだったようだ。

 こういう都市国家同盟のなかで、後まで残る文字を使っていたのは、中原同盟の殷だった。だが、同じころ、巴蜀地域にも同盟が成立していた。そこでは別系統の文字が使われており、その文字によって文章も綴られていた。しかしこの文字はまだ解読されていない。ただ、奇異な人面の青銅像が出土したことで有名な三星堆(さんせいたい)の都市国家を中心とした巴蜀同盟が、殷を中心とする中原同盟と並行して存在したらしい。他の文化地域にもこのような都市国家同盟は成立していただろう。


中原同盟で周が指導国になる

 平勢さんによると紀元前1023年、中原同盟で同盟を率いる都市国家の交替が起こった。殷から周への交替である。中原同盟の東側――黄河が山岳地域を抜けて平原に流れ出たあたりを中心とする殷から、西の渭水盆地を中心とする周へと、同盟の指導国が移った。

 この中原同盟の指導国交替には、東の海岱同盟の動きも関係したらしい。海岱同盟の指導国として、中原同盟の殷から周への指導国交替を支援したのは斉である。その指導者が「太公望」と呼ばれる呂尚(りょしょう)姜子牙(きょうしが)という名まえもあり、子孫はこの「姜」姓を受け継ぐ)であった。

 中原同盟で周の主導権が確立し、海岱同盟の斉と連携を確立したころから、各文化地域の都市国家同盟にも指導国となる都市国家が次々と出現した。巴蜀同盟では蜀が、両湖同盟では()が、江浙同盟では周や楚より遅れるけれども()(えつ)が相次いで、甘青同盟では後に統一帝国を樹立する秦が、燕遼同盟では(えん)が、それぞれ同盟の指導国になった。

 なお、どの地域もほんとうに「都市国家同盟」といえるほどの「都市国家」がたくさんあったのかどうかはわからない。たとえば、都市国家の世界とされる古代ギリシアでも、「ポリス」という都市国家を形成する以前の段階でとどまった人びとの集団もあって、それは「エトノス」と呼ばれたらしい。現在、「エスニックグループ」とか「エスニック料理」とかいうときに使う「エスニック」ということばがこの「エトノス」に由来する。この時代の中国の文化地域にも、都市国家を形成する以前の「エトノス」状態にとどまった人びともいて、それも秦や楚や呉や越や燕や斉を指導国とする同盟の一員扱いされていたかも知れない。ここでいう「都市国家同盟」はそういう「都市国家形成以前」の人たち(「以前」というと人は必ず都市国家を形成しなければならないという古代ギリシア的偏見を持ちこむことになりかねないが、そういう意味で使っているのではない)も含むものとする。


都市国家同盟の多重構造と周同盟の分裂

 紀元前770年(平勢さんによると)、中原同盟の指導国の周が分裂する。

 古代地中海世界の都市国家は「植民市」関係という絆を持っていた。アテネやコリントス(コリント)、スパルタ、ローマなどの有力な都市は、地中海各地に、自分の都市の市民の一部が移住して樹立した「植民市」というのを持っていた。これらの植民市と、その市民が移住してきたもとの都市とのあいだには、「同じ都市国家の系列に属する都市国家」としての特別に強い絆があった。

 都市民の一部が移住したのかどうかはわからないけれど、「いちばん古い古代」中国にも「同じ都市国家の系列に属する都市国家」という意識はあったらしい。中原同盟の指導国である周のばあいは、渭水盆地の周のほかに、洛陽附近の「成周(せいしゅう)」という都市国家があった。どうやら本拠地の周に対して「弟」国家とされていたようだ。さらに、もっと東の海岱同盟に近い地域には、斉を指導国とする海岱同盟を牽制するために、都市国家「()」が置かれた。これも周一族の都市国家である。中原同盟の指導国が周だというのは、詳しく言えば、中原同盟のなかに「周」や「姫」(周王朝の王家の「姓」は「姫」とされる。そういえば『姫ちゃんのリボン』がようやくDVD化されたらしいが、とりあえずここには関係ない)の名で結ばれた特別に結びつきの強い「周都市国家同盟」あるいは「姫都市国家同盟」というのがあって、それが全体として中原同盟を指導していたのである。

 つまり、「中原同盟」自体が、さらに複数の「都市国家同盟」によって構成されていたのだ。こういう「都市国家同盟の下にさらに都市国家同盟がある」という多重構造は、中原同盟だけではなく、他の都市国家同盟にもあったかも知れない。

 このときの分裂事件は、本拠地の都市国家周と、洛陽附近の「弟」国家「成周」との分裂だったようだ。ひとまずは、分裂した一方の、現在の洛陽を中心とする勢力(成周→分裂事件後は東周)が中原同盟の指導国の地位を確保する。しかし、「周同盟」の分裂はその弱体化を招き、「周同盟」の弱体化は中原同盟全体の弱体化を招いた。ここからがいわゆる春秋時代である。

 まず、もともとの都市国家周が本拠地にしていた渭水盆地は、甘青同盟から勢力を伸ばしてきた秦が奪ってしまった。紀元前8世紀のことだ。つづく紀元前7世紀も中ごろになると、東の海岱同盟の指導国で、周が中原同盟の指導国になるときに協力した斉が、中原同盟の領域に勢力を伸ばしてくる。また、両湖同盟で指導国になった楚も勢力を中原同盟の領域に伸ばしてくる。新たな中原同盟の指導国(都市国家)である洛陽の周は、東にも南にも開けた土地にあるので、東や南の文化地域の都市同盟の影響を受けやすかったらしい。洛陽の周や、その周を指導国とする周同盟は、中原同盟のなかでも指導力を減退させていった。


中原同盟の指導国交替

 斉の率いる海岱同盟や楚の率いる両湖同盟の影響に対抗して新たに中原同盟の指導国となったのが(しん)である。晋は日本語で「しん」で「秦」と同じだけれど、まったく別の国で、中原同盟の北側の現在の山西省を本拠地としていた。

 晋は周の指導する中原同盟の有力国だった。そして、その晋自体が、周と同じように「晋都市国家同盟」のような体裁を持っていたらしい。紀元前7世紀には、この「晋都市国家同盟」のなかで指導国の交替が起こる。新しく曲沃(きょくよく)が「晋同盟」の指導国になる。そして、その曲沃指導下の晋同盟が、もっと広い範囲の中原同盟の指導国の役割を果たしはじめるのだ。都市国家曲沃がまず「晋都市国家同盟」を指導し、その「晋都市国家同盟」が中原都市国家同盟を指導し、海岱都市国家同盟(斉が指導国)や両湖都市国家同盟(楚が指導国)や甘青都市国家同盟(秦が指導国)と対抗するという構図ができた。

 中原同盟のなかに「周同盟」や「晋同盟」がある。その「周同盟」のなかで、渭水盆地の本拠地の周都市国家から、洛陽附近にあった「弟」分の周都市国家へと指導国が変わる。また、「晋同盟」でも、もとの本拠地の都市国家から曲沃(曲沃の晋都市国家)へと指導国が変わる。

 こういうことは、少なくとも中原同盟については以前からあったのかも知れない。『史記』には夏王朝も殷王朝も何度か遷都したと記されている。また、中原地域からは夏王朝や殷王朝があったとされる時期の大都市国家の遺跡が複数見つかっている。『史記』で「周都市国家同盟」の指導国の交替を「周室の東遷」つまり「遷都」として描いていることから類推すると、夏も殷も「夏都市国家同盟」や「殷都市国家同盟」という実体を持っていて、そのあいだで指導国交替が起こっていたのかも知れない。ただし、これは、周や晋の例のように現在の段階では実証はされていない。

 ただし、曲沃が指導する晋同盟が中原同盟の指導権を握ってからも、周同盟や、その指導国としての洛陽の周も、このときには中原同盟の(たぶん重要な)一員として存在しつづける。


大きな変化の兆しが現れる

 紀元前6世紀も同じような構図での対立が続く。その構図に波乱をもたらしたのが、現在の上海・杭州・蘇州などを含む江浙都市国家同盟の急速な発展だった。

 この江蘇・浙江のあたりは発展しはじめると急速に発展し、その当時の「中原」に大きな影響を与えるようだ。ずっと後の唐の時代の後期もそうだったし、明の末から清の時代もそうだ。そして現在もそうだ。何か地理的・地政学的な条件があるのだろうか?

 ともかく、江浙同盟がまず都市国家呉の下で急速に発展し、それまで中原同盟に影響力を及ぼしていた両湖同盟へと影響力を及ぼしはじめる。両湖同盟を率いる楚はこの江浙同盟との戦いにしばらく忙殺されることになった。その後、江浙同盟の内部でも指導国の地位をめぐって内紛が起き、呉が滅ぼされて越が新しい指導国になる。紀元前5世紀の初めごろのことである。

 この紀元前5世紀には、他の都市国家同盟でも指導国の交替が起こっている。海岱同盟では、指導国は変わらず斉のままだが、斉の君主を出している氏族が交替する。中原同盟地区の海岱同盟地区との境界近くからやってきた(でん)氏が、太公望の子孫である姜氏にかわって君主になる。中原同盟の指導国になっていた晋都市国家同盟では、有力な都市国家三つが分立し、ついに晋同盟は韓・魏・(ちょう)の三国に分かれてしまった。晋同盟は中原同盟の中央部を押さえていたから、それは中原同盟の大分裂でもあった。この中原同盟の分裂が固定化するのが紀元前5世紀の末である。

 ここまでが都市国家の時代である。

 後に殷代、周代、春秋時代と時代分けされる時代だ。なお、殷の前に存在したとされる「夏」も、同じような都市国家であり、おそらく殷より少し西の領域に存在して中原同盟を率いた都市国家だろうと推定される。


鉄器時代の始まりと領域国家化の流れ

 この時期を境に、中国は文明レベルで大きな変動期にさしかかる。「春秋時代」から「戦国時代」への転換――という形式的な話ではない。鉄器時代の始まりである。

 都市国家時代は青銅器時代だった。平勢さんによると、青銅器時代といっても、青銅器はそれほど大量に造れるわけではないので、日用の道具は石器時代とたいして変わらない。石器だから、そんな鋭利な刃物も作れないし、畑を耕したりするのもひと苦労である。この時代から中国では稲の栽培も始まっているが、くぼんで水がたまって浅い沼みたいになったところにばらばらと稲を蒔いていたような感じで、いま私たちが日本で見るような整然とした田んぼができていたわけではなかった(だから「田」という漢字が「あぜで仕切られた田んぼ」の象形文字だという説明は成り立たない)。それではまだ穀物の生産もそれほど多くはならない。

 しかし、鉄器が導入されると、それまで自然のままに放置しておくしかなかった山や川も開墾できるようになるし、土地を整地して畑にすることもできるし、平坦な道を開くこともできるし、水路を開いて交通や灌漑の利便を向上させたりすることもできる。

 そういう生産力の飛躍的な発展を背景に、中国各地の国家は「都市国家」や「都市国家同盟」のあり方を脱し、広い領域を支配する「領域国家」へと発展する(「都市国家」と「領域国家」については、以前にも論じたことがある。「PAX JAPONICAをめぐる冒険」第1回「独立国としての東京」

 一つの都市国家が同盟諸国を指導するという形ではない。同盟諸国を滅ぼして、その諸都市とその支配下にあった農村などを自分の国の支配下に置くのだ。その国のなかでは官僚を用いて効率的に行政を展開し、食糧を効率的に分配して国を富ませ、国力を充実させて隣の文化地域へと侵攻を図る。「点」としての都市とそれに従属する農村などを支配し、その「点」の都市どうしが「線」で結びついて同盟を形成するという時代は終わった。「面」として自分の国を支配する「領域国家」の時代が始まるのだ。そしてそれはただちに「帝国」の時代へと結びついていく。


再び古代地中海世界との対比

 古代地中海世界ではローマが同じような発展のしかたをした。都市国家だったローマは、ラテン諸都市国家の同盟の指導国となった。その同盟を領域国家へと組み替え、同時に、カルタゴやギリシア諸都市国家やギリシア系の諸王国との戦争を経て、ローマは「帝国」へと成長する。「まず同じ文化地域(ローマならばラテン人の世界)の領域国家に発展して、それから違う文化地域(ギリシア人やフェニキア人の世界)を支配する帝国へ」というお行儀のよい発展のしかたはしない。文化地域内部の領域国家化と、異なる文化地域を含む帝国化では、領域国家化のほうがもちろん先に進むけれども、帝国化のほうも同時並行で押し進められる。

 ただし、古代ローマと古代中国で違うところもある。まず、私は、不勉強ながら古代地中海世界の鉄器時代の始まりを確認していない。ただ、ローマの領域国家化・帝国化の時代にはすでに鉄器時代が始まっていたように思う。古代地中海では都市国家の時代にすでに鉄器時代だったようだ。では、どうして鉄器時代の始まりが領域国家化の始まりに直結しなかったかというと、それはやっぱりあいだにあるのが海だったからだろう。山や川は鉄器で直接に開拓できるが、海は鉄器を手にしただけでは開拓できない。

 もう一つ、古代ローマでは、帝国化したあとも各都市国家の自治を尊重したということである。かなり後になっても、各都市にはローマと同じように元老院があり、自分の都市のことは自分で解決していた。だから、ある段階までは、どんな悪逆非道な皇帝や無能な皇帝が出ても、ローマ帝国は崩壊せずにすんだのだ(新保良明『ローマ帝国愚帝列伝』講談社選書メチエ)。「帝国」の下に、「都市国家同盟」という実質がまだ残っていたのである。

 ところが、中国では、同盟の指導国が同盟国や違う文化地域の国を滅ぼしたあとには、「県」というのを置いて、官僚を指導国から派遣して支配する。いわゆる「郡県制」の始まりだ。もとあった都市の自治機構は保存されない。というより、中国の都市国家には、古代地中海世界にあったような元老院や民会などの自治機構が存在しなかった。もしそれに相当するものがあったとしても、その権限は古代地中海世界の元老院や民会に較べて弱く、しかも形式的に確立されていなかったようだ。

 地中海世界の都市国家では、王の立場がそれほど強くなく、貴族を中心とする元老院と、貴族以外の民衆を中心とする民会が存在して、多くの都市では元老院が権力を握っていた。これを地中海世界だけの特色だと考えると、「ヨーロッパには民主主義の伝統があるが、アジアには民主主義の伝統がない」というような議論になってしまう。この古代地中海世界には広い意味での民主主義的な伝統は確かにあった。しかし、一方で氏族や血統というのが非常に重視される社会でもあり、そういう点では、この中国の春秋時代までの社会と大きな違いはない。

 平勢さんの本にはどの都市国家にも有力な氏族はいたということが書いてある(385ページ。ただし、この段落に書いている内容は私が考えたもので、平勢さんの説ではない)。それは、たとえばその都市国家の君主の分家のような存在だったようだ。けれども、平勢さんによれば、周の時代ごろまでは、中国の「姓」を同じくする集団(たとえば周の「姫」氏集団や、その前の殷の支配集団)は必ずしも血のつながりでつながっていたとは限らないらしい。だから、その有力者の一部も、もしかするとほんとうに王の一族ではないのかも知れず、有力だということで王の一族扱いされているだけなのかも知れない。都市国家のこういう有力者たちは、地中海世界で元老院による政治運営を担った貴族集団に類比できるのではないか?


「天下の統一帝国」へ

 ともかく、中国では、鉄器時代の始まりと同時に「文化地域別の都市国家同盟」というあり方は消滅する。たとえば、魯や(てい)のように、「同盟の指導国ではないが同盟の一員」だったような国は容赦なく滅ぼされてしまう。中原都市国家同盟の指導国の地位から滑り落ちたあとも、もと指導国として一定の地位を保ちつつ一同盟国として同盟に参加していた周もやはり滅ぼされる。

 もと海岱同盟だった地域は斉の領域になり、燕遼同盟は燕の領域になり、甘青同盟と中原同盟の渭水地域は秦の領域になり、巴蜀同盟は渭水地域から侵入してきた秦によって併合されてその領域になり、両湖同盟は西半分を秦に押さえられ、東半分は楚の領域になり、江浙同盟はやはり楚の領域になる。そして、広大な中原区は、韓・魏・趙の三大国の領域に分割される。

 これらの国は官僚支配を行い、それまで祭祀用の文字だった漢字を行政用の文字として活用しはじめる。現在の漢民族地域に相当する(ただし、江西・福建・広東など中国南部はまだ含まれていない)「漢字の通用する領域」が生まれる。これが「天下」である。そして、各文化地域を統合した各国は、自らを「天下」全体を支配する「帝国」(当時はこんなことばはないが)になるべき国家と見なしはじめる。その動きのなかで、過去の夏・殷・周の歴史が再解釈された。自分の国がやがてなるべき「天下の帝国」の姿を過去の夏・殷・周などに投影したのだ。

 「天下の帝国」をめざす諸国のなかで、甘青区・巴蜀区と中原区の西側と両湖区の西側を押さえた秦が、紀元前3世紀、他の諸国を従えて「天下の統一帝国」を樹立する。ほかに複数の文化地域を押さえていた国には楚があったが、楚は本拠地の西半分を秦に押さえられ、もう一つの大国の斉とも仲違いしたために、主導権が執れない。その斉は、海岱地域を押さえ、中原区の東側にも力を及ぼす大国で、一時は秦とともに天下を二分しそうな勢いだったが、中原区の東端にあたる境界地帯の小国(そう)との戦争に足をすくわれ、「天下の統一帝国」になることに失敗した。この宋も中原都市国家同盟の一員だった国で、殷都市国家同盟の生き残り(「殷王朝の子孫」とされる)だったようだ。


「天下の帝国」の下で歴史が整理し直される

 秦は「天下の帝国」として、それまでの文化地域の区別などにかまわず、一律に「郡県制」を実行した。しかし、この時点でその政策はむちゃで、やがて始皇帝が死ぬと国は分裂し、もとの文化地域を基礎とする諸国(帝国になる前の領域国家)の復活運動が起こる。その復活運動を利用して王朝を樹立したのが漢だった。漢は秦の始皇帝のような急進政策ではなく、諸国復活の動きを認めるたてまえを掲げつつ、実際には圧迫を加えて反乱に追いこんで各個撃破したり、北方の遊牧帝国匈奴(きょうど)との戦争に動員して勢力を削減したり、その支配権を名目化したりして、徐々に「諸国復活」の芽を摘んでいった。そして『史記』が完成したころには「文化領域別の都市国家同盟」のような昔の国家のあり方がわからなくなってしまったのである。「天下の統一帝国」のミニチュアが戦国時代の領域国家で、そのあり方は春秋時代も同じで、春秋時代より前には「天下の統一帝国」として夏・殷・周の「三代」の王朝があったのだという歴史叙述がこうやってできあがった。


今回のまとめ

 ここまで書いたのが、平勢さんの打ち出した「いちばん古い古代」の中国史像である――と私が信じる歴史像である。

 平勢さんは私のように軽率に「都市国家同盟」というようなことばを頻繁に使ったりはしない。また、古代地中海世界やローマ帝国との対比も平勢さんはやっていない。平勢さんはむしろ古墳時代以後の日本史に重ね合わせて説明しているのだが、「都市国家」というと地中海世界の都市国家のほうが有名だし、ローマの「都市国家から帝国へ」という道筋がたとえば秦の発展と対比しやすいだろうと思って、私は古代地中海世界との対比を使ってみた。

 いくつか平勢さんの書いたことを読み誤ってミスをしていることと思う。けれども、平勢さんがこの本を通じて提示した「いちばん古い古代」の中国史像は、非専門家が大ざっぱにまとめればだいたいこんなものではないかと思う。



―― つづく ――



平勢隆郎さんのホームページ