「弦三郎さんをぶっとばしたって?」
あざみがひどくおどろいたような声を立てたので、美那のほうがびっくりしてしまった。
あざみは隣の駒鳥屋の一人娘だ。美那がこの店に預けられて以来の親友で、同い齢らしい。
あざみの店は麻布を扱っていて、布織りの忙しい折りなど美那も応援にいくことがあった。そのかわり美那の店のほうで人手が足りないと、あざみがまっさきに応援にきてくれる。
美那の住む藤野屋のおかみさんは旦那さんを亡くしてずいぶん経つし、あざみの駒鳥屋は、お父さんはいることはいるのだが、年の大半は買い付けに出ていてほとんど家にいない。
この日は藤野屋に客が来るということで、もてなしの準備のためにあざみが呼ばれたのだ。あざみも――というよりあざみの母親も心得たもので、どういうつてかは知らないが
そしていま二人であれこれしゃべりながら台所で鶉を煮たり飯を炊いたりしているのだ。
「気がついたらあいつに抱かれてたんでびっくりしただけじゃないか。あとでちゃあんと謝ったよ」
美那は迷惑そうに言いわけしたが、
「だって馬から落ちたのをたすけてもらったんでしょ?」
わざとかどうか、あざみは手を緩めてくれない。
「なんだよ、それってあざみに何か関係あるわけ?」
美那もふくれたふりをして言うと、あざみは澄ました顔でそっぽをむいたまま
「あたしはいいけどさあ、市場の女の子たちがそう信じてくれるかだね」
「市場の女の子たちぃ? いったいどんな関係があるんだよ」
「美那ちゃん知らないの? あの人、市場に住んでるのよ」
「へえっ?」
「ほんとよ、へえっ、て何よ?そんなことであたしが嘘つくわけないじゃない」
嘘をついたと疑われたと思ったのか、あざみは本気でむくれて言った。美那はあわてて
「いや、ちがうちがう。でも、ほらあ、市場に住むような感じの人とはぜんぜんちがうんだよ。だから」
「うん、だから自分の家じゃないのよ」
あざみはすぐに機嫌をなおして、
「あの人の従弟だかなんかが市場に住んでて、そこに住んでるの。去年の秋に竹井のほうから出てきたんだって」
「へーえ、詳しいんだね。あざみはああいうやつが好きなんだ」
こんどはわざとからかってみる。あざみは目をまんまるにして、
「わたしじゃないよ!」
そしてしばらくしてつけくわえた。
「でもさ、市場の娘のなかにはずいぶん熱をあげてる子も多いからさ、恨まれるよ、気をつけないと」
「さあ、どうなんだか。じゃあどうしてそんな詳しい事情を知ってるわけ?」
あざみは、美那の冷やかしにはこたえず、鍋の蓋を上げて中の山鶉をつついていた。
「うん、だいたいいいみたいね」
「じゃあ、火を落とすよ」
美那も弦三郎の話はそれで切り上げることにした。
「どう?」
おかみさんの薫が客間からのれんを掲げて顔をのぞかせた。
「あ、だいたいできましたけど」
あざみが答える。
「それよりだれなんですか、お客さんって?」
美那が
「
「へえ、だれだろ?」
あんまり興味なさそうに美那が言う。
「わたしは表までお迎えに行ってきますから、悪いけど、
「はい」
美那とあざみが答えると薫は首を引っこめた。
「その若殿って、美那ちゃんの弟にまちがえられたって人でしょ?」
山鶉の煮物を
「そうだよ。その馬を浅梨どののところに預けたのがこの若殿だよ」
「馬……? ああ、弦三郎さんを殴ったときのね」
美那があざみをにらむとあざみはくすっと笑って見せた。美那はすまして知らんぷりして
「わたしより三つぐらいは上のはずなんだけど、ほっぺが紅くて、顔がまんまるくてかわいくってさ。桃丸さんっていうんだ。かわいらしい名まえでしょ?」
「へえ、でもその歳なら
「知らないよ。あとでちょくせつ聞けば?」
「あとで、って、あたしは帰るわよ、手伝いに来ただけなんだから」
あざみがその曲物の桶を炉端まで運びながら言うと、美那が
「だめだめ、そんなことおかみさんが許してくれるわけないだろ。あ、そっちの棚にお皿があるから出しといて。お客さんだから唐物のいちばんいいやつね」
「あ、帰さないつもりね、しごと押しつけて」
あざみは言ったがまんざらいやそうでもない。竈とは反対側にあった
「ねえ、でもどうしてその若殿が薫さんのところにたずねてくるわけ?」
「昔からの知り合いだから」
美那の答えはひどくそっけない。そうやって迎える準備をしていると、薫が表の店から二人の客を案内して部屋に入ってきた。
一人は、
そしてもう一人は、唐風なのだかなんだか、まっ赤な服の上に白っぽい上衣を羽織った、いかにも妙な風体の男だ。風体も妙だが、目も半分ぐらいしか開いてなくて眠いのか眠くないのかよくわからない。
美那とあざみがお辞儀をして迎える。薫が桃丸にあざみを、あざみを桃丸にそれぞれ紹介してから、主客席を分かって囲炉裏の端に腰を下ろした。
桃丸は
「やあ、美那どのはもうあの荒馬に乗ったそうだな」
「へえ、馬に乗ったりするの、この子? すごいもんだね」
唐国風の服を着た男が、うわずったどこか軽薄な声で言う。
「ええ、まあ、すぐに落ちましたけど……」
「若い侍の腕のなかにか?」
「そんなことまで知ってるんですか!」
美那ははずかしそうにうつむいて見せるが、桃丸は容赦なく
「左兵衛尉がうれしそうに話していたよ」
「できればだまっていていただけませんか、話がひろまるといろいろまずいんです」
横で煮物を椀によそい分けながらあざみがくすくす笑った。
「また何かやったのですね」
薫がたしなめるように、
「元気なのはいいけど、最近は元気がありすぎませんか? ついこのあいだも中原村の地侍と悶着を起こしてあざみさんの伯父さんのお世話になったばかりだっていうのに、こんどは荒馬乗りだなんて」
それからちょっと間をおいて、
「それに若い侍がどうのこうのというのは何です?」
「いや、べつに、たいしたことではありませんよ」
美那にかわって桃丸が答えた。
「たまたま馬から落ちたところにその男がいたんでひと悶着あっただけの話ですよ。池原弦三郎という若者で、若いながら竹井の名主です。父親は池原
「そういう言いかたをしたらかえっておかみさんが心配するじゃないですか!」
美那が顔をまっ赤にして言うと、
「また殴ったとか喧嘩したとか言うんじゃないでしょうね」
横でおかしくてたまらないというようにあざみが笑いをこらえているのを美那が肘でつつく。薫はため息をついた。
「まあ、いいでしょう」
もちろんこれでいいわけがなく、たぶん夜寝る前になってから薫の厳しい「意見」が美那を待っているのだ。でも、薫はこの場ではそれ以上はきこうとはしなかった。
「それより、そんな人がどうして玉井の町に出て来られたのですか?」
桃丸が事情を話した。
「去年の秋の大水で村の田畑が大部分流されてしまったんですよ。それで、このままでは村がたち行かなくなるんで、定範のところに陳情に来たんですけどね」
桃丸はいまの三郡守護代の越後守定範を「越後守さま」とも呼ばないで名まえで呼び捨てにする。
「あんな血も涙もないやつにたのんだって意味ないよ」
美那が決めつけた。それにはかまわず、薫が、
「でも、どうして定範どのの家臣のかたが浅梨どのの門下にお入りになるのです? たしか、浅梨どのは定範どのとは交わりを絶っておられるはずだったと思いますが」
「あの弦三郎の父親も左兵衛尉の弟子だったんですよ。もっともほんとの理由はべつにあるんですがね」
桃丸が微笑して見せる。美那が、
「ほんとの理由って?」
「ここの町であの弦三郎さんの面倒をみてやっているのが評定衆筆頭の小森式部大夫なんですが……その小森式部が左兵衛尉の門下に不穏な企てがないかどうかさぐらせるために入れたんですよ。ここしばらく、何年もつづいて不作だとか出水とかいろいろあった上に、
「じゃあやっぱり信用できないじゃないですか」
美那が言うと、桃丸は笑いながらたしなめる。
「まあ、最初からそう疑っていると信用できるものも信用できなくなってしまうよ」
「そうですよ。うちの船にも回し者が乗りこんできたことがあったけど、いまじゃあたいせつな仲間になってますからね。回し者だからって、最初から疑っちゃあいけないと思うなあ」
桃丸が連れてきた客がいきなり横から口をはさんで、それもずいぶんわかったような口をきく。
「うちの船?」
銚子でその客に家から持ってきた酒を注いでやりながら、あざみがけげんそうにきいた。
「ああ、すまん、おまえの紹介を忘れていたよ」
桃丸はさして申しわけなさそうでもない。桃丸とは親しい間柄らしい。男も上機嫌で、
「いや、ぼくはこの国のことばを聞いて、この国のおいしい酒をのんで、ついでにこの国の女の人といっしょにいられたらそれでじゅうぶんだよ」
「この国?」
あざみがつづけてたずねる。桃丸が、
「ああ、こいつは船頭でね、
「うーん、
桃丸が微笑してつけたした。
「まあ、いちおう平家の子孫らしいですよ。ほんとかどうかは知らないけど」
「唐の国のどちらにいらっしゃるんですか?」
ひとり困ったような顔をしていた薫が、さっそく空いてしまった杯に酒をついでやりながらたずねた。
「
「かくじゅんけい? 唐人の商人なんですか?」
美那がきく。平五郎が
「いや、よくは知らないんだけど、ぼくらといっしょでこの国の人で、しかもこのあたりのご出身みたいですよ。ほんの何年かまえに、それまでつきあいのあった唐の商人をたよって渡って来られて、天津で南方の品の売りさばきをまかされて、もともと商才のあった方らしくたちまち成功されてたいそうな身代をきずかれたというわけで。太っ腹で面倒見がいいんで、唐人の使用人たちの評判もいいんですよ、これが」
「唐の国か……遠いところね」
あざみがなんだか感慨深げに言うと、平五郎は
「そんなことはありませんよ。船でひと月もあれば往復できます。徒歩で鎌倉へいくよりは楽だし、海路でむずかしいのも博多の北あたりだけです。雲行きがわるくなれば対馬や朝鮮の港にもぐりこめばいい。通辞に高麗の女の人がついてくれてるし。それに海には山賊も出ませんしね」
「でも海賊は出るでしょう? このあたりの海にも
あざみが食い下がる。卯月丸というのは、三郡の沖に出没するという海賊の頭目として伝えられている男の名だった。
平五郎は眠そうにしていた目を丸くした。
「え、海賊……? ああ、そういやあ、海賊かなぁ」
それからわざと目をそらして、
「でも、その卯月丸っていうのはいいやつだよ。何回か会ったこともあるけどね」
「会った、ですって?」
あざみが鶉を箸でつまんだまま顔を上げてきく。しかし平五郎はいっこうに平気だ。
「ええ、何度かね。べつに悪いことをするわけでもないし、なんかこうお日さまの光をいっぱい浴びて育った若い子、って感じかな。だいたいあんたたちよりちょっと上で、この桃丸さんといっしょぐらいだと思うよ。それが頭がよくって、いろんなこと知ってるんだ、これが。こないだなんか
美那とあざみは顔を見合わせる。平五郎は得意そうに笑った。
「海賊なんてね、つきあいかたを覚えればこわくないよ。なじみになってしまえばいろいろなことを教えてくれるし、困ったときには助けてもくれる。だいたい京都の
平五郎はわざと眉間に皺を寄せ、声も低く抑えた。
「見る人が見れば、ぼくらなんかもりっぱな海賊なんだろうな、うん」
「あなたが海賊ですって?」
あざみがうわずってひっくりかえった声できく。
「そう、海賊だよ」
こんどはさっきとうって変わって得意そうに答える。どうもこの人の言うことはどこまでほんとうでどこから冗談かよくわからない。
「でも、そんな船をよく定範の代官が港に入れましたね。桃丸さんはともかくさ」
美那がたずねるとこんどは桃丸が、
「なに、あの田中山っていう定範の代官の言うことなんか港の連中はだれもきいたりしない。わたしが入れるって決めた船は調べもなにもなしに港に入れるんだよ。港の連中はわたしの言うことしかきかないからね」
「そうそう、なにしろ由緒正しい港代官の家柄は桃丸さんのほうなんだからね。うちの旦那が言ってたよ、こいつの家は前の守護代のときから港代官だったんだって」
「前の前からだよ」
平五郎のことばを美那が訂正する。
「でも平五郎さん、どうして平五郎さんが海賊に見えるんですか?」
かわってあざみがたずねた。
「いやそれは唐国の禁令を破ってるからだよ」
「禁令を破るって、なんです? お見受けしたところ、とても禁令破りのような悪いことをなさる方のようには見えませんけど」
酒をついでやりながら薫がきく。
「そう。悪いことなんかしてませんよ」
平五郎の言いようは何か芝居がかって得意そうだ。桃丸が苦笑いしている。
「でもね、ほら、いまの
「へえ、割り符とか合わせ札とか、唐国もわたしたちの商人仲間とおんなじようなことをやってるんだね。なんかふしぎ」
美那が言うと、あざみもふしぎそうに、
「じゃあ、その合わせ札を持たないのに、どうやって出てきてるんですか……?」
「なあに、そう規則規則って言ってたら世のなかおもしろくないじゃないですか。そんなことは唐国の役人連中だって知ってますよ。だから、ぼくたちは
「ふぅん」
調子を合わせてうなずいてはみたものの、美那は遼東なんて地名は知らないし、天津とかいうところとその遼東がどういう関係にあるかも知らないし、したがってまったくわけがわからない。たぶんあざみだってわかってないだろう。それにはかまわず平五郎はつづけた。
「でもときにはあぶないこともある。じっさい海賊のたちの悪いやつもいるし、役人だってみんないいやつとはかぎらない。高麗の国の役人はここのとこ倭人に神経をとがらしてますからね。ことばが通じないどうしだと、どこの国の人間もともかくすぐにかっとなるから」
「じゃあやっぱりあぶないじゃないですか」
あざみが言うと、平五郎は
「なあに、うちの船は火槍を積んでますからね。べつにこわいことはありませんよ」
桃丸がびくっとした様子で顔を上げ、ちょっとむずかしい顔で平五郎のほうを見た。が、何も言わなかった。
「何ですそれ? 火矢みたいなものですか?」
それには気づかないで美那がたずねる。
「いや、火矢じゃなくて、ほら、あれ、あの、ずっと昔に蒙古が鎮西に攻め入ったことがあるでしょう、あのとき連中が使った、火をつけると派手に炸ぜるやつ。あれを、
「その富藍希国って
「琉球どころか……もっとずっとむこうですよ。
「なんだかぞっとするような話ね」
あざみが言う。美那はあんがい平気で
「そう? でも京都とか山城のほうじゃここのところずっといくさばっかりやってるよ」
平五郎がつづけて、
「いや、京都なんてましなほうです。東国なんてここ何百年か合戦ばかりやってますよ、治まっていたのは頼朝公のころぐらいなもので。最近は蝦夷島のほうもいよいよたいへんですしね」
「なんにしても、いくさなんてあってほしくないものですね」
薫がしずかに言った。
桃丸が、その薫のほうを見ながら、妙に沈んだ表情で杯を飲み干した。