夢の城

清瀬 六朗


晴れた春の(よい)

 「そうか、それは災難だったな」

 囲炉裏(いろり)のむこう側で、狐のような細い目をさらに細め、どうにもしまりのない笑い声をもらして小森式部大夫健嘉(しきぶだゆうたけよし)が言う。

 健嘉は明朗濶達(かったつ)な青年武士がそのまま中年になった男だ。身体もがっしりしていてたのもしそうである。

 だが、どんなに気をゆるめているようにみえても、眼の奥に宿る用心深そうな小さな光は消えることはなかった。

 ひとしきり笑ってから、健嘉は池原弦三郎に言った。

 「しかし相手がかわいい娘でよかったじゃないか」

 「はあ」

 「なんていう名まえだ?」

 「はあ、藤野の美那とかいうそうで」

 慰められているのかからかわれているのか知らないが、ともかく弦三郎は正直に答えた。

 「美那というのか」

 健嘉は、手酌で銚子から酒をつぎながら
「いわくありげな名まえだな」
と言う。

 「いわくありげですって?」

 「そうだ、知らないのか?」

 「はい」

 その返事をきいて、健嘉は得意そうに、
 「あの正稔(まさとし)に妹がいたんだ。それが美那って名まえだった」

 言って酒を飲みほす。

 「ああ」

 弦三郎はその話なら聞いたことがある。三郡では知らない者のない話だと思う。

 「でも、死んだんじゃなかったですか?」

 「そうだよ。柴山兵部(しばやまひょうぶ)があの娘をほしがったんで、おれが説得したんだ。柴山兵部のところに嫁に行く気はないかって」

 健嘉は弦三郎にも杯を進めたが、弦三郎は「いえ、もう」と小さく言って断った。健嘉はまた自分の杯に酒を注ぐ。

 「で、どうだったんです?」

 「もちろんいやがったさ。おれもいやだったしな。なんとなくいやな予感がしたんだ。そしたら、案の定、庭で遊んでるときに古井戸に落ちて死んだしまった。身投げしたのかもしれない」

 「それは気の毒な」

 「ところがそれが生き残っているという話があるんだよ」

 「確かなことなんですか?」

 弦三郎は、健嘉の愚痴だか自慢げな思い出話だかわからない話にいちいち律儀(りちぎ)に返事する。そのたびに健嘉は頬を(ゆる)ませて微笑するのだった。

 「いや、嘘に決まってるよ。ばかな連中がおもしろはんぶんに話をつくって、それをまたばかな連中が広めて、それをばかな連中が信じているだけだよ。そんなのは城館の井戸の底を調べればすぐにわかることだ、はっはっは」

 「はあ、なるほど」

 「調べれば」ということは、まだ調べていないのだろう。

 ひとしきり笑ってから酒で喉をうるおしている健嘉を、弦三郎は沈みがちな顔で見ている。

 「なんでも市場の娘なんだそうです、その娘は」

 「へ、市場の娘?」

 健嘉がいきなり顔をしかめた。

 「どうして市場の娘が武芸なんて習うんだ?」

 「さあ、それは知りませんが、べつに深い意味はないようですよ。浅梨どのの弟子はいまでは半分以上が市場の人間ですからね」

 「もうそこまで調べたのか! いや、すごいね、さすがだ!」

 健嘉が大げさに唸る。弦三郎はうつむいて、

 「いえ、浅梨どのに、話のついでにうかがったまでです」

 「いや、その調子でやってもらえればけっこうだよ」

 健嘉は弦三郎の杯に酒をついでやった。

 「それにしても、落ちたものだな。三郡一の剣術の名手が、市場の連中ごときを相手に暇をつぶしているとは」

 「そうでしょうか」

 弦三郎がぽつりと言ったのを健嘉はききのがさなかった。

 「なに? 何か不審な動きでも?」

 「いいえ……」

 弦三郎は言い淀んで天井と(はり)の間あたりをぐるぐると見回す。

 「なんでもいい、言ってごらん」

 「はい……なんというか、その逆で、何でもいかにもあけっぴろげという感じで、なんか、こう、暇つぶしにしては熱が入りすぎている感じですし、だからといって何か目的があってまとまっているという感じはまるっきりありませんし……じっさい、稽古のあいだじゅうどこかで喧嘩や口論が絶えない、そしてそのたびに相手の悪口をあらいざらいまき散らすっていう、とんでもないやつらですよ、あの弟子たちは」

 「やっぱり暇なんだよ、はっはっは」

 健嘉がまた笑った。こうやって見ていると表情がくるくると変わる。

 「考えすぎだよ、弦三郎。いちいち小さいことを気にしていたら、大成しないぞ」

 「はあ……」

 弦三郎は中途半端に下を向き、上目づかいで健嘉を見た。

 「村のことかい?」

 弦三郎の気もちをさとったらしく、健嘉は笑うのをやめた。

 「いや、きみの心配はわかるよ、それは。わたしも越後守(えちごのかみ)さまに伝えてはいる。でも、去年の不作で困ってるのは何も君の村だけじゃないんだ」

 「はい、それはわかっています」

 「勘定方の奉行なんかは帳尻を合わせるために苦労してるんだ。越後守さまとてほかの家臣をほうっておいて、きみ一人に特別なご措置をとれるわけはないだろう」

 「はい」

 弦三郎はあくまでもすなおだ。落胆を隠せないようすの弦三郎の杯に健嘉は酒をつぐ。弦三郎が軽く唇を湿らせたのを見て健嘉は目を落とした。

 ため息をまじえて言う。

 「ほんとうなら、まだ言っていい話じゃないんだがな」

 「は?」

 弦三郎は顔を上げた。

 「いや、きみの働きに免じて、打ち明けることにするよ。言っておくが、このことはいっさいほかで口にしてはいけないよ。いいね。いま微妙なところなんだから」

 「はい、それはお誓いいたします。しかし……」

 弦三郎は少しのあいだためらう。

 「いったい何のお話でしょう?」

 「うん」
と健嘉はわざと間をおいて、身を乗り出し、声を潜めた。

 「近いうちに徳政(とくせい)がある」

 「徳政ですか?」

 弦三郎はもうひとつよくのみこめていない。

 「徳政というのは、金貸しから借りた借銭借米(しゃくせんしゃくまい)を帳消しにして、質物も取り戻しを許すっていう、そういうご命令のことだ。これできみの村もいくぶんらくになるだろう」

 「はあ」

 弦三郎はかえって要領を得ない思いだ。

 「しかし、徳政となると大事で……天下すべてが関わることですから、公方(くぼう)様にお願いしないことにはできないのでは」

 「ふむ。天下の徳政となるとそうだな」

 健嘉はわざとらしく(うなず)く。

 「しかし玉井三郡かぎりの徳政ならば、守護代の越後守さまの判断でどうでもできる」

 「けれども、それには名分が必要ではありませんか?」

 「それだよ。じつはな」

 健嘉はわざといちだんと声を(ひそ)めた。

 「竹井で一揆(いっき)が起こる」

 重々しく打ち明ける。弦三郎はきいて目を丸くした。

 「そんな!」

 竹井というのは玉井三郡の一つで、この玉井からは柏原(かしわら)峠を越えた向こう側だ。柿原、野嶋、片野、池原、長山の五つの郷に分かれている。

 そして、池原弦三郎は、この若さで、そのうちの一つ池原(ごう)の名主なのだ。

 名主の不在中に勝手に一揆など起こされては、もちろん弦三郎も責めを負わされることになって無事ではすまない。それだけではない。一揆を起こして成功すればともかく、失敗すれば、いま願い出ている年貢・段銭(たんせん)の減免など絶対にかなわなくなってしまう。

 弦三郎が大声を上げて驚いたのも無理はない話だ。

 「ならば私はいますぐ村に戻って、村人たちにそんな不届きな動きに加担しないよう説得してまいります」

 「いや、ちがうんだ」

 健嘉はまた目を細めた。顔には例のにやにやした笑いを浮かべている。

 「しかし、一揆ということになりますと……それはおおごとで」

 「だから狂言だよ」

 おろおろしている弦三郎に、健嘉が説明する。

 「越後守さまとしても家臣領民の困窮は助けたい。しかし何もないのに徳政を行うわけにいかない。わかるな。玉井春野家は家臣が困っていると訴えただけでかんたんに徳政を行うという前例を作ってしまうと、のちのち、今度のようにほんとうに困ったばあいでないときにも、玉井春野家の殿様はかんたんに徳政を行ってくださるという気もちを領民どもに植えつけてしまう。それではのちに悪い前例を残すことになるんだ。わかるな」

 「はあ」

 「だから、今回は、形ばかりの一揆を起こしてもらって、その求めに応じたことにするんだよ。ははは、じつはわたしが考えたことなんだけどね。いま、手の者に竹井の村を回らせて内々に下準備を進めている」

 「しかし……」

 池原弦三郎は得心していない。

 「いったん一揆が起こってしまえば、抑えが効かなくなることだって……」

 健嘉は明るい声で答える。

 「そんなことはないさ。心配しすぎだよ。領民たちにしても徳政となれば喜んで一揆を解くよ」

 「はあ」

 弦三郎の返事はまだあいまいだった。

 「ただ、それとは別に困ったことがあってね、それで手間どっているところなんだ」

 健嘉は一人で話をつづける。

 「柿原大和守入道だよ。あの方は金貸しもやっていらっしゃる。だから、この計画にも反対していらっしゃるんだ。もうすこし、こう、ご政道全体を高いところから見渡す目をお持ちならいいんだけどね。なにしろ、あの方は越後守さまの岳父だから、越後守さまもまったく頭が上がらないんだよ。なに、気を落とすな、今月の末ごろにはなんとかなるよ」

 「は、はあ……」

 弦三郎はあいまいにうなずいただけだった。向こうをうかがうと、健嘉はよそを向いたまま上機嫌で一人で酒を注いで杯を口にあてている。

 これいじょう話すことはなさそうだ。弦三郎はかしこまって頭を下げた。

 「それでは今日はこれで失礼いたします。また折りにふれてお知らせに上がりますので」

 「あ、そうかい?」

 健嘉は言うと、杯を置いて懐から銭の束をつかみ出した。こよりで通したのが三つ、相当な分量だ。

 「五百文ある。宣和(せんな)銭だから銭屋に持ちこめばもっと高く替えてもらえるよ。これで今月いっぱいはなんとかなるだろう?」

 「しかし、こんなにたくさんいただいては……」

 「いいんだよ、きみの働きへのお礼だ。きみのおかげで浅梨屋敷の内情もわかる。本来ならもっと払っていいぐらいだよ、ははは」

 「お心づかい、まことにいたみ入ります」

 弦三郎は深々と頭を下げた。健嘉は満足そうだ。

 「なに、余ったら、その気の強い娘を誘ってうまいものでも食わせてやればいいさ、ははは……ははははは」

 健嘉は、自分でそう言ったのがよほどおかしかったのか、一人で声をあげて笑いつづけた。

 「今月いっぱい……か」

 五百文の宣和銭をふところにしまいながら、弦三郎は屋敷町を足早に歩いていた。

 「たしか先月も今月末にはなんとかなるって。いや、そのまえの月もだ。去年の暮れにも、年貢がぜんぶ入ったらって。いったいどうなっているんだろう」

 武士の子として厳しく育てられ、生前の父親にも侍の心得をよく言いふくめられていた池原弦三郎には長上の者を疑うような気もちなどなかった。きっと城館のほうでも対応には困っているのだろう。

 もし弦三郎一人の問題ならばたのみがかなわなくてもかまわない。だが、村の年寄たちは目をまっ赤にして孫のような歳の弦三郎に言ったのだ。このままではどんなに切りつめても来年秋まで食いつなぐことはできません、しかも田畑も柿原村の金貸しどもにかたにとられていて、借りた銭や米を返せないと、わたしたちはみんなやつらの下人(げにん)にされてしまいます……。

 弦三郎はためいきをついた。

 その空の下を、中途半端に酒の回った、なんとなく不愉快なほてりを感じながら、池原弦三郎は早瀬(はやせ)川の橋を渡る。この東西に流れる小さな堀割(ほりわり)が屋敷町と市場の領分を分けていた。

 堀割の分流に沿ってまっすぐ南につづいている通りには、いたるところに松明(たいまつ)が焚かれ、明るく浮かび上がって見える。辻々に(かがり)が灯されるとはいえ、夜は暗く落ち着く屋敷町とはまるで別世界だ。

 この通りは花御門(はなみかど)といって市場のまん中を南北に通っている。にぎやかな市場のなかでもいちばんにぎやかな通りだった。

 道端には、しっかりした土蔵を持つ家から、少しでも強い風が吹けば飛んでしまうような粗末な小屋まで、あらゆるつくりの店が並んでいた。広場には行商人や旅の芸人たちがたむろして芸を見せたり、博奕(ばくち)打ちが大声を上げて博奕を打ったりしている。桶を天秤でかついで大声を立てて売り歩く酒売りや油売りに、めかしこんだ若い男女、これから喧嘩か殴り込みにでもいくのか徒党を組んで大股で歩く連中からぼろをまとった物乞いの老人まで――ここにはありとあらゆる人たちがあふれていた。

 そのなかを、うつむいて、目をふせたまま、弦三郎は歩いた。

 いまごろ村では山桜の咲きはじめているころだろうか?

 いや、まだだろう。竹井は山を一つ越すせいか玉井よりずっと寒い。

 「よっ、兄貴じゃないか!」

 弦三郎はいきなり人なつっこい声をかけられ立ちどまった。

 そちらをふりかえると、そんなに背の高くない男がなれなれしく寄ってきた。つきあたりの店の横のほうから出てきたらしい。

 「なんだ、当四郎(とうしろう)か」

 「なんだはないだろう? それとも何か、声をかけたのがかわいいねえちゃんじゃなかったから不満なのか?」

 「ばかを言うな。おまえとはちがうんだ」

 弦三郎は苦笑いした。

 この野嶋当四郎というのは弦三郎の従弟にあたる。歳は弦三郎よりすこし下で、弦三郎の村から下ったところにある野嶋郷の名主の家の出身だ。その家を数年前に出奔して町に出てきて、ずっと博奕打ちで身を立てている。家からは帰ってくるようにずっと催促されていて、弦三郎もそれとなく野嶋の名主からの言伝てを伝えているのだが、それをきく気配はまったくない。

 「いまごろこんなところでどうしたんだ? また博奕で金をすって、おれにたかるつもりか?」

 「そんなことはしないって」

 で、照れかくしか何か知らないがへらへら笑う。

 「女の子のところに行ったんだけど、今日はとりこみ中だって追い返されちゃって、にゃはははは……」

 「まったく()りないやつだな。ふられたのか?」

 弦三郎がきくと、
「ちがうってば。そこのお父さんが長いこと阿波(あわ)のほうに行くんで、酒盛りをやるんで入れてもらえなかっただけだ」

 当四郎は本気になって言いわけした。

 この当四郎は市場のはずれに狭い家を借りて住んでいる。弦三郎は、村から出てきて以来、ずっとこの当四郎の家に泊めてもらっていた。だからあんまりえらそうに説教をするわけにもいかない。

 弦三郎がその家のほうに歩き出そうとすると、当四郎がにやにやしながら、
「兄貴、いいこと教えてやろうか?」

 弦三郎は迷惑そうに言い返した。

 「なんだ?」

 「こないだ兄貴をひっぱたいた娘の家だよ。どこか知ってるか?」

 「知らないよ」

 弦三郎がいやそうに言うのにもかまわず、当四郎はつづけた。

 「まあ、そう言わずにさあ。何かの役に立つかも知れないからいちおう教えとくわ。ここだよ」

 「ここ?」

 「ほら、いま兄貴が立ってるそこの後ろの店」

 「え?」

 弦三郎はいきなり冷水を浴びせられたような声を立てて、その店を見上げる。

 もう店を閉めたのか、それとももともと休みなのかは知らないが、表は木戸(きど)が閉じられていた。暗くてよくわからないけれどたしかに看板の文字は「藤野屋」と読める。

 「それであいつ藤野の美那なんていうのか……」

 「藤野」というのはどこかの土地の名だと思っていた。

 「でも、残念だけどいまはあいつ、いないぜ。さっき出てったからな」

 弦三郎の思いとは関係なく当四郎はつづける。

 「ふうん、女のことだけはよく知ってるな」

 弦三郎が言うと、当四郎はいかにも心外だというように言い返した。

 「なんだよその言いかたは、おれが女のことしか知らないみたいじゃないか!」

 「じゃあほかに何を知ってるんだ?」

 「たいていのことは知ってるさ、市場の人間の知ってることならな」

 当四郎は何か得意げである。

 「あ、そうだそうだ、それで思い出した。兄貴に知らせてやろうと思ってすっかり忘れてたんだ。なんでももうすぐ徳政があるそうだぜ。もしそれがほんとだったら、兄貴の村も相当にらくになるんじゃないかな」

 そう言ってまた人がよさそうに笑う。

 「どうだい兄貴の役に立つことだってちゃあんと知ってるんだから」

 「ふーん、そうかそうか」

 生返事をして歩き出そうとしていた弦三郎はとつぜん立ちどまった。

 「ちょっと待て!」

 「なんだよ?」

 「いま、おまえ、徳政がどうこう言ったな?」

 当四郎の不服そうな態度にはかまわず、弦三郎は声をひそませてたずねた。

 「ああ、言ったよ。それがどうかしたの?」

 当四郎は大きな声で答える。

 「もっと小さな声で話せ! そんな話、どこできいた?」

 弦三郎は苛立(いらだ)つ。なにせ評定衆(ひょうじょうしゅう)筆頭の小森健嘉が内密にするように強く念を押した話だ。

 それが外に漏れているとなるとおおごとである。ばあいによっては弦三郎が漏らしたと解されかねない。

 そんな弦三郎の気もちにはかまわず、当四郎はいっこうに平気だった。

 「なぁんだ、大げさな。こんなこと市場ではだれでも知ってるよ」

 「どこから出た話だ?」

 「市場の噂だぜ? そんなの確かめられるわけないじゃないか。どっかから流れてくるんだよ」

 「確かな話なのか?」

 「そんなのわからないよ、市場の噂なんて十中八九はでたらめなもんさ。鎮西(ちんぜい)韃靼(だったん)がまた攻めてきて、長門(ながと)周防(すおう)まで落とされたなんて話もあったぐらいだからな。でも、市場の噂ってそんなにばかにしたもんでもないぜ。それでもときどきはあたるんだから。ま、ほんとにときどきだけどな」

 「それじゃもうちょっと詳しく教えてくれ」

 弦三郎が矢つぎ早にきく。当四郎はすこしめんくらって、

 「こらこら、そんなに必死になるなよ。そりゃあ、兄貴が徳政にたよりたい気もちもわかるけどさ」

 弦三郎は、自分が必死になる理由を当四郎が勘違いしてくれたことにとりあえずほっとした。

 「まあ、今年の夏あたりに、定範のやつが三郡かぎりで徳政を命じるように策をめぐらしているって噂があるんだ。あんがい兄貴が出入りしてるあの小森式部ってやつあたりが張本人なんじゃないかな。でもあの柿原の入道野郎は反対してるって話だ。柿原入道ってのは裏じゃ金貸しの親玉みたいなやつだからな。けど、絶対に反対ってわけじゃなくて、裏でそれに乗ってひと儲けしようとしてるって話もある。まあ、おれにはどっちでもいい話だけどね、でも、市場の連中の動きなんか見てると、どうもこいつはあたる方の噂じゃないかなって気がするね、おれの勘だと」

 「そうか、ありがとう。さ、行こう」

 「いや、おれはもう一打ちしてから帰る」

 「あのなあ……」

 「まあまあいいってこと。じゃな」

 当四郎はするっと抜けるように姿を消した。

 「無理してまた身ぐるみはがれて取られて帰ってくるんじゃないぞ」

 弦三郎はそう言って黙って歩き出した。

 「ときどきはあたる……か」

 それどころか、大当たりだ。三郡かぎりの徳政が画策(かくさく)されていること、それを中心になって進めているのが小森式部大夫健嘉だということ、柿原大和守入道がそれに反対しているということ――当四郎が「市場の噂」として伝えたことは、健嘉から聞かされたことそのままだ。しかも、柿原大和守入道が、徳政実施を渋っている裏で、じつはそれを使って儲けをたくらんでいるという話までついている。

 「あの方なら、それぐらいは……」

 弦三郎の脳裡(のうり)に、肉を何段にも積み重ねて上から押しつぶして丸くしたような、でっぷりとふとった柿原大和守入道忠佑(ただすけ)の醜い顔が浮かぶ。

 「あのひとなら、それぐらいは考えそうだしな」

 弦三郎は腕を組んで市場の道を歩く。

 遊女らしい女が弦三郎の後ろを追うようにしてしつこく何度も声をかけてきた。弦三郎の耳にはその声も入らなかった。というより、そうやって女がついてきていることにも気がつかなかった。女はおもしろくなさそうに去っていく。

 それは、何もしないでいても心が浮かれてくるような、晴れた春の宵だった。

― つづく ―