木蓮の花の
そよ風も眠気を誘うほどに生ぬるい。
「ようく押さえといとくれよ」
美那が言って
「いいよ、さあ早く乗って」
「よくやるよあいつも」
元資に
「あいつもう十回以上落とされてるんだよ。それも頭っからまっさかさまにさあ」
隣に腰を下ろした
「あれじゃいつ首の骨を折るかわかったもんじゃない。見てるほうがひやひやする」
「やめさせようよ」
「しかたあるまい、浅梨どのがお勧めになったことだからな。それに、おれたちが言ってやめると思うか? かえって意地になるだけだ」
「ようし、放すぞ」
「それっ!」
元資の合図と同時に美那は鞭をくれた。馬が派手に跳ね上がる。美那は振り落とされないように懸命に鐙を踏み手綱を短く持ってすがりついた。
前よりは上手になっている。
「それにしてもどうしてあんなにこだわるのかなあ」
丈治がぼんやりした天気と同じようにぼんやり言った。
「よりによってあんなあばれ馬に乗れなくてもいいようなもんじゃないか」
「知るか。好き好きだろうがそんなこと……ん?」
隆文は言って、ふとつつじの植え込みの向こうの屋敷の縁側に目をとめた。
声をひそめて丈治に言う。
「おい、見ろよ」
「え、なに?」
「あいつだよ、ほら、つつじの向こう……」
「あ、ああ」
丈治がもういちど首をひねって後ろを見る。そこでは柱に背をもたせかけて腕組みしながら新弟子の池原弦三郎がぼんやりと庭のほうを見ていた。
「あいかわらずえらそうなやつだなあ」
丈治が憎まれ口を叩く。
「それはしかたあるまい、なんたって重臣の息子だ。おれやおまえとは家格がちがう」
「関係ないよそんなの」
丈治がむきになって大きな声を出しかけるのを、隆文が止める。
「それよりあいつ、いったい何をやってるんだ」
「何って……」
「だからさ、あいついつも稽古が終わったあともああやって居残ってるじゃないか。けどおれたちみたいにむだ口をたたいてるわけでもなけりゃ美那のやつみたいに居残って稽古をつづけてるわけでもない。じゃ何のために残ってるんだ」
「美那に
丈治の答えをきいて隆文はぷっとふき出し大声で笑った。それからまた声をひそめて
「ばーか。だったらあのじゃじゃ馬娘となんか話ぐらいするだろう? でも、あいつら、あの出会い以来、ひと言も口をきいちゃいない」
「まあ、出会いかたが悪かったけどな」
丈治が言う。たしかに、いま乗っている――いまのところ振り落とされずにいる――馬から落ちたところを抱き留めてもらって、そしてその相手をぶん殴ったのだから、いい出会いとは言えない。弦三郎にとっては、怒る理由はあれ、親しくしてやる理由は一つもない。
丈治の言うように、懸想でもしてなければ、だが。
「それに、あれは懸想している相手を一途に見つめてるってふうでもなかろうが」
その美那はあばれる馬をなんとか抑えようと苦闘していたが、ついに「うぎゃっ!」というみっともない声を立てて投げ出された。
「おーいだいじょうぶかー?」
元資が轡を押さえながら間延びした声をかけている。
「じゃあ退屈なんだよ、きっと」
それにはかまわず丈治が言った。
「おまえなあ」
隆文がため息まじりで言う。
「もうちょっとましな考えってできないのか」
「ましな考えって?」
「たとえばだ」
隆文はまた弦三郎のほうを盗み見、いっそう小さな声でつづけた。
「たとえば屋敷のようすをひそかに探ってるとか」
「まさかそんなこと……」
丈治の返事にもかかわらず隆文は大まじめだった。
「考えてもみろ。あいつは親の代から
「でも、おれたちは何もやってないんだからべつにかまわないじゃないか」
「おまえなあ」
美那がまた馬にまたがろうとしているのを横目で見ながら隆文が言う。
「相手はあの定範の野郎だぞ、どんな口実をつけてでっちあげをかますかわかったもんじゃない。ただでさえ、ここんとこ不作つづきであの野郎、町ではもちろん村のほうでも評判わるいらしいぜ」
「それがおれたちに何の関係があるんだよ?」
のんきな丈治に隆文もいらいらして、
「おまえ何もわかってないんだな。そんときにおれたちが何か悪だくみをしてるとでも言い触らしてみろ、町のやつらはともかく、村の連中ならふだんは眠ってる定範の野郎への忠義の心ってやつがむくむくと頭をもたげてくるだろうが」
「ふうん、そんなもんかねえ」
丈治の答えはあいかわらずまのびしていた。
そんなぐあいだから、門のほうからから一人の男がふらふらと入ってきて、二人の後ろまでやってきたのに二人ともまったく気づかなかった。
「こりゃあ本気でさぐってみる必要がありそうだな」
隆文が低い声でささやいた。
「あのう、お話し中のところ申しわけありませんが」
男が後ろからいきなり声をかけた。
「なんだ、なんだきさまは、どっから入ってきた! ここは浅梨
隆文がびっくりしてましくしてる。
隆文は落ち着きを失うとともかくたくさん話して相手を圧倒しようとする。それが欠点なのか、いいところなのか。
ま、いいところということはないだろう。
「いやあ、やっぱりここでよかったんだ、よかったよかった」
大声でどなりつけたにもかかわらず、くだんの男はいっこうにこたえていないらしく、にこにこしてそんなことを言った。
「市場からここへ来る途中で道に迷っちゃってさ、でもここのお屋敷ってけっこう町のはずれにあるんだね」
「なんだいあんた?」
最初にまとめて早口で怒鳴りつけたのがいっこうにきかないので、隆文は
「あ、私は千歳丸の船頭、植山平五郎って者なんですけどね」
「船頭? じゃ港の?」
「ええ。いま桃丸さん……いや桧山の若殿のところにいるんだけど」
「ふぅん……若殿ねぇ」
隆文は生返事する。平五郎はつづけた。
「もしかして藤野屋の美那ちゃんって子がここにいないかなあ、なんて訪ねてきたんだけど、もうお稽古も終わっちゃったみたいだね」
「ああ、美那ね」
桃丸の名まえをきいて、隆文はいくぶん打ち解けた声になった。
左手で髯をしごきながら、右手で白馬の鞍にまたがったばかりの美那のほうを指さす。
「美那ならあそこで馬に乗ってるよ」
「あらま、馬に……」
「呼んでやろうか……おーい、美那!」
隆文に声をかけられ、振り向いて気を抜いたのがいけなかった。馬は手綱をゆるめられていきなり走り出す。丈治が
「わあっ、こっち来るな!」
馬がそんなことばをきくわけがない。美那が鞍からはんぶんずり落ちながらそれでも懸命に手綱を絞っている。
「こらっ、言うことをききなさいっ! あんたみたいな強情者はじめてだ!」
美那は声を張り上げる。白馬は耳を小馬鹿にしたようにくるんくるんと動かしただけで、ちっとも言うことをきかず、三人のほうへ突進してきた。
「言うことききなさいって!」
左の鐙を力いっぱい踏んで美那が手綱を左に力まかせに引く。馬は首をむりやりねじ曲げられて目をむき、いきなり左へ跳んだ。
「わっ!」
美那の体はその反動で馬の背中の上でくるんと半回転した。その勢いで馬からすべり落ち、そのまま池に転がりこむ。
「あ、あーあ……」
隆文がため息をもらした。
美那はすぐに池から顔を上げた。が、顔から着物から泥だらけ、髪もほどけていかにも凄い様子だ。
馬のほうは、背中からよけいなものが落ちてせいせいしたというように岸からその姿を見下している。
「もう、父上に似ないおてんばだね、見てらっしゃい、わたしがかならずいい大人にして見せるから!」
顔の泥を
馬はぶるぶるっと顔を震わせただけでべつに怒ったようすでもなくばかにしたように美那を見る。
「あんた……」
美那が
「あのばか、馬なんか相手に本気になってやがる」
「あらまあ」
間の抜けた調子の合わせかたをした平五郎をにらんでから隆文は美那に声をかけた。
「あんまりむきになるんじゃないぞ、その馬は殿さまの馬の娘で気ぐらいが高いんだ、おまえなんかの及ぶ相手じゃないよ」
美那はますます
「なんだよ隆文、こいつがそうならわたしだってねえ……」
そこまで言って急に口をつぐむ。
「わたしだって馬にばかにされたら怒るぐらいの気ぐらいはあるんだ」
「やあっ、元気があっていいねえ」
平五郎が横からことばをはさんだ。
「あーっ、えーと、あんたたしか……」
美那はこのとき平五郎がいることにはじめて気づいたらしい。
「いやあ、おどろいちゃった、きみ、あんな元気な馬にも乗れるんだ」
「乗れないよ、平五郎さんもわたしが落ちたとこ、見ただろ」
まだ乾いていない髪を背中へやりながら美那は足早に歩く。
稽古着に着がえていたからよかったようなものの、稽古着を入れた包みからはまだ雫が滴っていた。稽古着とはいっても、ぼろになってよそ行きに着なくなった古着を使っているだけで、稽古のためにあつらえたものではない。
「こんなのじゃまたおかみさんに意見されちゃうよ」
「いいじゃない、だってまじめに稽古してた証拠でしょ?」
その美那にけんめいについて行きながら平五郎が言う。
「着物を濡らしちゃったのがいけないんだよ、また洗わなきゃいけないだろ。けっきょくおかみさんの仕事ふやすし、町娘の暮らしってけっこうたいへんなんだよ」
「町娘ねえ……」
平五郎がふしぎそうに美那の顔をのぞきこむ。
気づいて美那はあわてて顔をそらした。
「それで、用って何なんだい?」
よそよそしげにききかえす。
「ああ、それなんだけどさあ」
二人は浅梨屋敷の裏で早瀬川の橋を渡った。
「明日の朝さ、
どうして?――と美那は思うが口に出さなかった。
「それできみはどうかなって思って、桃丸さんに相談したら、まあいいんじゃないって話で、ただ、きみとこないだのもう一人の女の子」
「……あ、あざみね」
「うん。そのあざみちゃんといっしょに行ったらどうだって」
「うん」
桃丸があざみを添えた理由は――。
――いろいろと思いつくけれども、ここは深く考えないようにしよう。
「それに、美那ちゃんには安濃のお社にお願いすることがずいぶんあるはずだから、って言ってたかなぁ」
「ふぅん」
「そんなわけで悪いけどいっしょに来てくれないかな?」
「いいよ」
美那は軽くうなずいた。
「安濃のお社ならよく知ってるから」
桃丸の言ったこと――桃丸が言ったこととして平五郎が伝えたことが少し気もちに引っかかっていた。たしかにお願いすることはたくさんある。けれども?
「ほんと、いや、たすかるなあ。お礼はあとでちゃんとするよ」
「いいよお礼なんて」
美那はあまり深く考えないことにした。
「それよりなんでお社にお参りしようなんて思ったわけ?」
「いや、
「ああ、あんたの雇い主……唐国の何とかいうところにいる」
「そう、よく覚えてたね」
「唐国の何とかいうところ」で「よく」覚えていたことになるんだろうか? そんなことは平五郎も美那も気にしない。
「あそこの神さまに今度の船路の無事を祈って来い、ってね」
「ふぅん」
美那は生意気に返事する。
「でも、安濃の神さまって海の神さまじゃなかったと思うんだけど? あそこは玉井春野家のご守護の神さまでさぁ、三郡の大
「いえいえ。どんな神さまでも、お祈りするのはいいことだと思うよ」
「そうかな?」
美那が言うと、平五郎は笑ってその美那の顔を見返している。
「ま、そうだね」
美那も笑った。
「ところでさ」
平五郎は立ち止まったまま美那に尋ねた。
「世親寺ってどう行くの? たしかこのへんからどっちかに行くってきいてきたんだけど」
「あんたお寺にまで行くのかい?」
美那が感心したように言う。
「ずいぶん信心深いひとなんだね」
「それはもう、ほかに頼るもののない海で頼りにできるのは神さま仏さまのほかにないわけだから」
なんだか前に会ったときの自信ありげな様子とはずいぶんちがう気がして、美那は
「ふぅん」
と生返事ふうの返事を返した。
「それにね、桃丸さんがね、安濃の社に行くんだったら、世親寺ってとこにも行って、
「桃丸さんが?」
「そうだよ。いや、この玉井三郡って偉い人がたくさんいるんだね」
「はあ」
美那はいまひとついまの話がよく受け取れない気がしたけれど、とりあえず船頭の平五郎に道の説明をすることにした。
「まあいいや。ここの道をさ、右に行くと板井山ってところを越える道になるんだけど、その山に越える手前で分かれてまっすぐの道をずっと行くとお寺に着くよ。山門があるからすぐにわかるはず。門前はすっかりさびれちゃってるけどね。一の山門をくぐるとずっと石段があって、その段を上ったいちばん上が二の山門。それでその中に本堂とか塔とかあるけど、智誠さまだったら本堂の左っ側の奥の
「ふーん」
植山平五郎がまた美那の顔を
「どうしたの?」
「いや。でも、有名なお寺なんでしょ?」
「安濃の社といっしょで、玉井春野家の氏寺だよ」
「ってことは、三郡の守り仏さま」
「ま、そういうことになるね」
「だったらさ、年に一度ぐらい、お参りに行ってもいいんじゃないかな?」
「そんな信心深くないもの、わたしって」
美那はしごくかんたんに答えた。
「それに、自分の住んでるところのお寺なんて、かえって行かないもんじゃない? いつも行けるって思ってるからさ。そりゃ
「そんなものかな」
「そんなもの。ま、そのへんは、好きなときに好きなところに行けるあんたとはちがうところかな」
「ま、そういうことにしようかな」
「うん」
相づちを打って、美那はにっこりと笑った。
「ついて行ってあげようか? 世親寺まで」
「いや」
平五郎はきっぱりと断って、
「それは美那ちゃんや
そして得意そうに振り返る。
「若殿から美那ちゃんにあんまり手間かけさせるなって言われてるんだ」
「そうなんだ?」
「そう!」
それをどうしてこう得意そうに言わなければいけないのかが、よくわからない。いま気づいたのは、この植山平五郎という男は、言ってることと顔とがどうも食い違っていることがあるってことだ。いや、前から気づいていたかも知れないけど、いまになって気づいていると気づいたわけで。
――わけがわからなくなるから、やめよう。
「じゃあさ」
美那はそういうことは深く問わないことにした。ともかくこの船頭はそういうやつなのだ。
「世親寺の前から市場に戻らないで、板井山を越えると桧山の若殿の屋敷の裏あたりに出るよ。暗くなってなければそっちの道のほうがいいと思う」
「うん、ありがとう」
「じゃ、あざみやおよしさんにはわたしから伝えとく」
「うん。ありがとう。それじゃね」
植山平五郎はそう言って美那と分かれた。美那はその後ろ姿を見送る。
平五郎は、窮屈なのかゆったりしているのかわからない唐風の衣装を着たまま、手を懐に入れて、ふらふらと左右に大きく体を揺らすような歩きかたで、世親寺のほうへと歩き去っていった。
「あのひと、だいじょうぶなのかなぁ? あんなので船頭なんて……」
ぬるい風がまだ重い美那の髪を吹き過ぎていく。