夢の城

清瀬 六朗


安濃(あのう)詣で(一)

― 下 ―

 美那はいろんなことを考えていた。

 もうずっと訪れていない安濃の社のこと、同じように訪れていない世親寺(せいしんじ)のこと、世親寺にいる何人もの人たちのこと、そして何よりあの植山平八郎というわけのわからない男のことだ。

 あけっぴろげで裏表がない男――というのは美那は浅梨(あさり)屋敷でいくらでも見ている。隆文(たかふみ)とか、丈治(たけはる)とか、元資(もとすけ)とかいう弟子連中は、少なくとも美那を含めた弟子連中の前では何の隠しごともないようにふるまっている。だが、それは、この連中が市場の人間で、一つにはほんとうに隠すことなどあんまり持っていないからだし、もう一ついうと、同じ市場の娘である美那に隠してもしようがないと思っているからだ。

 あの植山平五郎という船頭のあけすけさ加減にはそれと似ているところもある。でも何かぜんぜん違うところがあるように思えるのだ。

 市場の連中だって隠していたいと思っていることをしつこく聞き出したがる。美那もいやだと思ってもけっきょくは答えてやるし、そのかわり隆文や丈治や元資のことだってきっちり聞いてやる。それっていうのは、おおごとでさわぎ立てるわりには、浅梨屋敷の弟子のくせに犬に()まれるとは修練不足だとか、ほんとにあったのかどうかわからない懸想(けそう)話とか、たいしたこともない話ばっかりだからだ。ばれたからといって何か困るものでもない。

 でも、あの船頭のばあいはちがった。

 だいたい、桧山(ひやま)の若殿はどうしてあの船頭を自分のところに連れてきたのだろうか?

 美那にあまりほかの人を引き合わせたがらないあの若殿が?

 しかも、桃丸は、平五郎につきそってというかたちだけれど、自分に安濃社にお参りするようにしむけたのだ。それに、平五郎を智誠(ちせい)上人と引き会わせようともしている。

 どうしてなんだろう?

 美那はいろんなことを考えながら、花御門小路への近道になる狭い路地の、小さな溝にかかる橋を渡ろうとした。

 「美っ……!」

 だれかに呼びかけられたような気がして美那は足を止めた。だが、遅かった。

 美那が乗っていた橋が落ちた。そして、美那は
「きぃゃん!」
とか何とかいう珍妙な声を立てて体の前のほうを投げ出し、溝に落ちてしまった。

 「ぷっ」

 「あははははっ!」

 「なんておかしなかっこう。かえるみた……」

 だが、美那をおとしいれた連中が十分に考えていなかったのは、美那がある程度は武芸を身につけていて、落っこちたときや倒されたときの立ち直りかたをすっかり身につけているということだった。

 浅梨屋敷の稽古では、倒れたときにすぐ起きあがらなければ、相手は倒れたところにでも打ちこんでくる。それどころか、だれか倒れたら、隣やすぐ近くで稽古していた組の者までそれに加わって、立て、立てないのかこの意気地なしなどと(はや)しながら、どんどん叩いてくる。そうなったら途中で参ったと言っても聞いてもらえるものじゃない。どんなに痛くても、どんなに体が動きそうになくても、ともかく立たなければ、ほんとうに立てなくなるまで打ちつけられるのだ。

 しかも、最近では美那はもう何度も何度も馬に振り落とされているわけで、落ちるのが身についてしまっている。だから立ち直るのも早い。

 最初の心づもりでは、何が起こったかが美那にわかる前に、広場の隅の小さな築山(つきやま)を越えて向こう側に逃げるつもりだったのだろう。

 ところが美那はさっさと立ち上がってしまった。しかも、稽古帰りってことで、木刀なんか背負っているわけで――。

 相手は築山のまん中あたりまで逃げて、美那にじろっと見回され、背を後ろに向けたまま顔は美那から離すことができず、動けないでいる。

 しかも、反対側の端の少しふとり気味の娘が、橋の下の桁からつながっている縄の端を握っている。この娘が何をやったかがすぐにわかる。

 「美那ちゃん、ごめんっ」

 いちばん端で、隣の娘に襟首をつかまれているのは、駒鳥屋のあざみだ。

 あと三人も娘で――。

 ――えーと、名まえが出てこない。

 市場に住んでるだれかには違いないのだけど、あざみと違って美那はこの連中とあんまりつきあいがないし、だいいち、市場の娘どもは入れ替わりが早い。昨日まで知らなかった子が平気で娘どものつきあいに入っていたり、朝は見かけた子が夕方にはどっか行ってしまっていたりする。

 あざみの襟をつかんでいるのがどうやら(はか)りごとの主であるらしい。丸顔とも細面ともつかない、その中間のような顔で、口を不平っぽく上にとがらせていて、色は白めだけれどほっぺたは子どものように紅い。隣の娘はやせっぽちで、唇も頬も血色が悪いようだ。でも背の高さはこの子がいちばん高い。縄の端を握っている子はぽっちゃりとふとっていて、いまはしまったという顔で目を見開いてこっちをじっと見ているが、ふだんは目が頬の後ろに隠れてしまうような感じだろうか。

 「だれだっけ? いや、あざみはわかるんだけど、こっちの三人」

 美那は平気な声で言った。

 その「こっちの三人」がびくんとしたらしい。縄を握っている娘の足もとから砂土がずるずると溝に滑り落ちる。

 「なっ……なんだいっ」

 あざみの襟首をつかんでいた娘が、あざみの襟を投げ出しながら美那のほうを向く。それで足もとがまた滑りかけて、足の下から砂や土器(かわらけ)のかけらが滑り落ちる。

 だいたい、この山は、最初は築山として広場と道を隔てるために造ってあったのかもしれないが、ここまで高くなったのは、食い物を入れてきた折りや酒を飲んだ後の土器をみんな無造作に捨てるからで。

 (もろ)いし、足場は悪いし、もし刃物なんか捨ててあったら危ない。

 そんなことにはかまわず娘はつづけた。

 「あんた、藤野屋のだろ?」

 「そうだけど?」

 美那は「藤野屋の」で止められて少しむっとした。

 「藤野の美那」と呼ばなくてもいいから、せめて「藤野屋の娘っ子」とか――いや、それでも腹は立ちそうだ。ともかく、自分に向かってがさつな口をきかれるのはいい。慣れている。しかし、あのおとなしくて何ごともきっちりしているおかみの店の名まえをそんなふうに出してほしくはない。

 けれども顔色を変えもしない。それが相手をよけいに怒らせるというのか、焦らせるというのか。

 「なんだい、武芸がどれだけできるのか知らないけど」

 「うん、知らないだろ?」

 「いちいち口を突っこむなっ!」

 「うん」

 いいんだけど……そんな(わらじ)で踏ん張るのもうやめたほうがいいと思うんだけど?

 滑るよ?

 そうは思ったけれど、いちいち口を突っこむなという相手のことばを容れて、美那は黙っている。

 「あんたねっ……弦三郎さまをぶん殴ったそうじゃないか。そのお返しだ……よっ」

 言い終わるとともに、娘はそのまま足を滑らせて、ずるずると溝に落ちてしまう。あざみはけなげにもその体を支えてやろうとしたのか、自分から溝に飛びこんだ。けれども間に合わなかった。最初の一人はみごとに溝のなかに尻餅をついてしまう。あと二人も、べつにいっしょに落ちる義理はないのに、脆い砂土に足を取られながら溝まで下りようとし、ふとった娘が握っていた縄に二人とも引っかかって足をもつれさせ、けっきょく二人とも転がりながら水の中に落ちてしまった。

 水の中に転んでいないのはあざみだけだ。娘たちは一人ずつあざみに手伝ってもらってやっと立ち上がる。

 着物が泥と砂と()にまみれているのは美那と変わらない。

 「あざみのやつ、へんなところで要領いいんだから」

 美那がそんなことを考えているのとは関わりなく、三人の娘は、くるぶしあたりまで藻と水とに絡ませながら、美那と溝のなかで向かい合った。

 あざみはあいだでおろおろしながら両方の顔を見ている。

 芽吹きはじめてその若い緑が目を射るように鮮やかな柳の葉が溝の両側でぬるい風に揺れる。

 「なんだなんだ?」

 「何やってんだ?」

 広場にいた博奕(ばくち)打ちの連中や通りがかりの商人やらが周りから集まって来た。

 広場からのぞきこんでいるような連中はもともと一日じゅうひまでひまでしようがないような連中だ。また、道を通りがかった人たちは、橋が落ちているわけだから、何が起こっていてもとりあえずは立ち止まって見ているしかないわけだ。

 それが、娘どうしの喧嘩らしいということで、みんな生唾を呑んで立ったまま見ている。

 美那は周りの様子を見回した。そして、いきなり、木刀と包みを溝のなかに投げ出し、三人の娘の前でがぼっと膝をつき、頭を下げて水の流れに突き入れんばかりにした。

 「ちょ……ちょっと……」

 「許してくれ、このとおりだ」

 美那は目のすぐ下の水の(おもて)に向かって大きい声で言った。

 「あのときは焦ってたんだよ、生まれてはじめて気性の荒い馬に乗せられてさ、それで落ちたところを池原さまに抱き留めていただいて、何が起こったのかわからなかったんだ。ほんと悪いことをしたと思ってる」

 「そ、それは……わかったけど」

 美那がけんか腰で来ると思っていたらしい相手はどう答えていいかわからないらしい。

 「池原さまにも謝った! ほんと悪いことをしたと思ってるよ」

 「それもわかったけど……でも、ねぇ、いくらなんでも」

 「だから言いわけなんかできるわけない。許しておくれ! 頼むよ、お願いだ!」

 周りの声がだんだんうるさくなってくる。

 「おいおい、何があったか知らないけど、そこの娘さんがそんなにしてまで謝ってるじゃないか」

 「気の毒だよ」

 「だいたい、何、三人、いや四人か、四人と一人ってのは釣り合いが取れなさすぎないか?」

 「そうだよ。三人よってたかって一人をいじめるなんていうのはよくないぞ」

 「いじめる」ということばを聞いてあざみがぷっと小さく吹き出したのを美那は聞き逃していない。

 「なんだいあざみのやつ」

 多少恨めしく思いながら美那が頭を下げたまま盗み見で見回してくると、周りで見ているのはぜんぶ男だ。小さい子どもを二人か三人連れた女の人はいるけれど、巻きこまれたくないというように後ろのほうに身をひいている。

 美那は頭を下げたまま動かないでいた。

 「い、いやその……」

 いままで美那を(ののし)っていた娘が、美那の横の水の中に膝をついた。

 「わ、悪かったよ、わたしたちもやりすぎた」

 「……」

 「やりすぎじゃないぞほんとの話が!」

 美那が言わずに黙っていたことを上の見物人が怒鳴る。

 「たかが娘っ子の喧嘩で橋の(けた)落としやがって!」

 「そうだそうだ。みんな迷惑するじゃないか!」

 「喧嘩なら人の見てないところでやれっ!」

 あの――。

 始めたときはだれも見てなかったんですけど。

 見てないところで始めたら、見る人が後からたくさん湧いてきただけなんですけど……。

 美那は言いたかったけど黙っていた。また、じっさい、そんな言いわけが通るはずもなく、あざみはもちろん、美那まで手伝わされて橋桁を立て直して、娘っ子たちはようやく解き放たれたのだった。


 それから少しあと、美那とあざみを含む娘連中はがやがやとおしゃべりしながら駒鳥屋と藤野屋にやってきた。裏にある井戸の周りに集まり、水と藻と泥と砂にまみれた着物をみんなで洗っている。

 娘どもは自分の着物を洗い、美那も溝で汚した着物を洗い、ただ一人着ているものを汚さなかったあざみが美那の稽古着を洗うのを引き受けている。

 橋桁直しをいっしょにやらされたためか、それとは関係ないのかはわからないけれど、ともかく娘たちは、旧怨はどこへやら、すっかり仲よくなってしまっていた。着物を洗いながら、娘たちは、美那の浅梨屋敷での稽古の話をいろいろときいていた。

 「ふぅん、お美那ちゃんって強いんだ?」

 「強いってことはないけど」

 「そうよ。昔はよく体じゅうに打ち傷と(あざ)と作って、泣きながら帰ってきたんだもん。でも、そういえば、最近はあんまりそういうのないね。ってことはやっぱり強くなったのかしら?」

 「あざみったら勝手なこと言わないでよ。まあ、負けてもけがせずにすむようになったとか、そんときの調子で勝てなさそうだと思ったらさっさと参ったことにしてしまうとか、そういうのが身についただけ」

 「それって強くなったってことなんじゃないの?」

 「なんでそうなるのかなぁ? まぁあ、たしかに、最初は隆文のやつに一度も勝てなかったけど、最近は半々ぐらいには持ちこめるようにしたけどね」

 「隆文ってあの鍋屋の?」

 「あーっ、知ってる! ねえ、やつってお屋敷でもやっぱりどっかの名主の家の出身だって言ってる?」

 「言ってる言ってる。でもだれも信じてない」

 「でしょうねぇ、あの風体だもんね」

 「それにさぁ、言うことがきくたびにちがうんだよ。山を持っててきのこが採れるから秋には大もうけするんだとか」

 「えーっ? 池に鯉がいっぱいいて、年中、鯉を絞めて開いて食べてて、それに飽きたから海に近い町のほうに出てきたって」

 「だからいいかげんなんだよ」

 「まあ、名主ったって、弦三郎さんは嘘いつわりのない名主だけど、隆文のやつはなぁ、信じろってほうが無理だよな」

 美那が言い、娘連中はしばらく黙る。でも、すぐに、ぽっちゃりとふとった娘が
「ねえ、弦三郎さんってどんなひとなの?」

 この娘はおみやという名まえらしい。いつも気むずかしそうにしていて、めったに口をきかない鋳物(いもの)屋の逸斎(いっさい)じいさんというのが花御門(はなみかど)の一つ向こうの小路(こうじ)に住んでいて、このおみやはそのじいさんのところで、じいさんの身のまわりの世話なんかをしているという。

 「あんたたちのほうがよく知ってるんじゃないの?

 「いやぁ、だってねえ」

 あざみも入れて、美那のほかの四人が(うなず)きあう。

 「あのひとさぁ、市場に住んでるっていうけど、市場にいるところめったに見ないんだもん」

 「こないだ」

 謀りごとの主だったらしい頬の紅い娘が言う。この娘はおさとという名まえで、市場の宿屋で働いているらしい。

 おさとは言いかけて、すぐ口を閉じる。

 「えっ? こないだどうしたって?」

 背の高い、やせっぽちで、いかにも頼りなさそうな娘が口を突っこむ。この子はおさわで、銭屋で働いているという。市場の銭屋というと元資の家かも知れない。でもそのことは美那はきかなかった。

 口を突っこまれて、おさとはちょっといやそうな顔をした。

 「いや、こないだたまたまお見かけしたんで、お声をかけようと思ったんだけどさ」

 「え、どこで?」

 「だから……あの、あそこのさ、花御門のまん中の小社のあるところの脇で」

 「ど、どうしたのどうしたの?」

 「それがさ、小社のところでわたしが立ってたら、なんか急な用でも思い出したみたいにすっと横に入って行かれて」

 「あーっ、嫌われてる嫌われてる!」

 「そうじゃないって」

 あざみが取りなす。

 「あのひとの住んでるおうちがあの小社の裏を入ったところにあるんだもん」

 「えっ、なんであざみちゃんそんなの知ってるの?」

 「だって、ねえ」

 こんどはあざみが答えにつまったので、
「あざみはこの市場生まれなんだ」

 美那があざみのために言ってやる。

 「子どものころから市場で育ってるから、市場のことだったらたいていのことは知ってるよ」

 「そんなもの?」

 おみやが言う。

 「うん」

 美那は頷いて、
「だって、あざみの伯父さん、市場の長者だもん」

 「ああっ!」

 あざみが高い大声を立てた。

 「それ言わないでよ。恥ずかしいんだからさぁ」

 「え、なんで?」

 「そうだよ、教えなよ」

 「わたしたちの仲で言わないってなしにしたんじゃなかったっけ?」

 「してないしてない」

 「坂戸(さかど)の長者って知ってる?」

 あざみが向かい側にいて止めに入れないのをいいことに、美那がばらした。

 「あ、ああ」

 ほかの三人の娘はそう言ったとたん、手を止め、身動き全部を止め、互いに顔を見合わせあった。

 「ほらぁ」

 あざみが一人で手を動かしながら不機嫌に言う。

 「みんな怖がっちゃったじゃないかぁ。美那のいじわる」

 で、水を弾いて美那の顔にぶつける。ちょうど、浅梨屋敷で美那が馬にやったのと同じようにだ。思い出して美那がふっと笑う。

 「なに笑ってんのよ」

 「ごめんごめん。でも悪い人じゃないよ」

 「悪気がないからかえって悪いんでしょう?」

 「だってあざみっていっしょになって騒いでるじゃない? こないだだってお寺の前のご禁制のお池で車屋の有一郎なんかといっしょに」

 「あーもーっ! なんでばらすの?」

 あざみが耳をふさいで大声を上げる。

 「一人でいい子のふりしようとするから」

 「だってあれってばれたらさらし首なんだからね」

 「だいじょうぶだいじょうぶ」

 美那は平気で首を振った。

 「定範(さだのり)のやつ、世親寺さまの掟なんか守る気ぜんぜんないから」

 「へーえ、お美那ちゃんって越後守(えちごのかみ)さま呼び捨てにするんだ?」

 「それもやつまでつけて?」

 「つけるよ、それは」

 美那は(きょ)をつかれてこんどは守りに回る。

 「だって、あいつが守護代になってよかったことって何かある?」

 「うーん……?」

 娘たちはまた顔を見合わせてしまった。そこに
「あなたたち!」

 藤野屋の縁からふいに声をかけられて、娘どもはおそるおそる振り向く。

 きつい声ではない。柔らかい声だ。でも、その声を耳にすると、聞き慣れた美那でも、やっぱり背筋がぴんと張るような感じがしてしまう。

 藤野屋のおかみの薫が、駒鳥屋のおよしといっしょに娘たちを見ていた。

 「洗い物は終わったの?」

 「はい、もうすぐっ」

 美那が答えて、洗い物をする手に力をこめる。ほかの娘たちも倣った。

 「終わったらいらっしゃい。みんなで晩ご飯にしましょう」

 「はいっ!」

 美那とあざみ以外の娘たちはいっせいに嬉しそうに答えた。

 美那もほっと息をつく。

 娘らがいっしょにいてくれる時間だけ、薫のご意見の時間が遅くなるからだ。


 けれども、だからといって薫が美那に意見するのを忘れるようなことはなかった。

 娘どもが大騒ぎして夜の食事を平らげて退散し、あざみも母親のおよしといっしょに駒鳥屋に帰ったあと、薫は美那の向かい側に座って、ご意見を始めた。

 「まず、わかってるでしょうけど、めったに越後守さまを呼び捨てにするんじゃありませんよ。気心の知れた相手ならばともかく」

 「はい」

 「市場の娘たちと言っても、いつお屋敷にご奉公することになるか、わからないんですからね」

 「はい、気をつけます」

 美那は「市場の子たちだからだいじょうぶだって」という言いわけを考えたところだった。しかし薫に先回りされてしまう。

 これだから薫の意見につき合うのは疲れるのだ。

 「それに、かりに呼び捨てにするにしても、のやつ、なんてつけるものじゃありませんよ。そんな品のない言いかたを身につけてもらっては困ります」

 「はい」

 「わかってるんでしょうね?」

 「はい」

 わかっている。わかってはいるが、手遅れで、とっくに身についてしまっている。浅梨屋敷で隆文のやつとか丈治のやつとか言ってもだれもとがめない。だからそれが癖になってしまっているのだ。

 もちろんそんなことを口に出して言うわけがないけれど。

 「それから、安濃のお社にお参りすることですけど」

 「あ、ああ」

 美那は、喧嘩の件と、馬から落ちて屋敷の池にはまった件を意見されると思っていたので、ちょっと当てがはずれた気がした。

 「ほんとうに若殿さまがおっしゃったのですか?」

 「それはわからないけれど、あの平五郎さんってひとの言うところではそうだったけど?」

 「どういうことかしらね? あなたをなるべく市場の外の人たちと近づけないように常から気を配っておられる若殿さまが、あなたをお社に行かせるなんて」

 「それって、平五郎さんが嘘をついてるってこと?」

 「そうではないと思いますよ」

 薫は穏やかに言う。

 「平五郎さんはあなたと分かれて世親寺に行かれたのでしょう?」

 「ええ。それも桃丸さんがそう勧めたって」

 「わたしはあの植山さまというお方が嘘をつかれるとは思いません。あなたはどうですか?」

 「わたしも、そう思います」

 「それに、もしほんとうに桃丸さんに言われたことでなければ、世親寺に行こうとしたりするはずがないと思いませんか」

 「というと?」

 美那は目を瞬かせた。

 「だってあの方はお寺なんてたぶんご存じないでしょう? 外から来られた船頭なのですから」

 「そういえばそうですね」

 「わたしは何か不安に思いますよ」

 「では、やめましょうか、明日、行くの?」

 「そういうわけにはいかないでしょう? それに、桧山の若殿の計らいなのだったら、やっぱり行ったほうがいいでしょう。ただ、十分にお気をおつけなさいね」

 「はい」

 美那はすなおにうなずいた。

 「それに、あざみさんがいっしょなら、あなただってそうむちゃはしないでしょうし」

 「ああ、ええ」

 ふだんなら、そこで美那は何か言い返したかも知れない。けれども、美那は、いま、別のことを思い起こそうとしていた。

 それは昼間に植山平五郎と会って話をしたときに感じた何かの思いだったかも知れない。

 「それはそうと、まず喧嘩のことですけれど」

 「はいっ?」

 「はいっじゃないでしょう?」

 美那はみごとに不意打ちを食ってしまった。

 「まず、いくら申し開きがめんどうといっても、いきなり頭を下げて謝るものではありません。それでは相手のかたが困ってしまいますし、それに、だいいち、あなたは……」

 そして、そのあと、薫は、自分が眠る時間を遅らせてまで、長い長い時間、美那に意見をしたのだった。

― つづく ―