夢の城

清瀬 六朗


安濃(あのう)詣で(二)

 次の日の朝――。

 朝とはいってももう日は高いところまで昇っていた。

 美那とあざみは、唐船の船頭 植山平五郎といっしょに、桃丸が貸してくれた川船で安濃の社に向かっていた。平五郎が乗ってきた船に、市場の船着場から美那とあざみが乗りこんだのだ。

 「町のまもり神さまのところへ行くのにいちいち船に乗らなけりゃいけないなんてたいへんだね。橋でも掛けりゃいいのに」

 唐風の服を着た平五郎が舳先に乗って足を投げ出してのんびりと言う。

 「だって川の東岸はもう町じゃないもの」

 美那の左側に並んで座り、気もちよさそうに風に髪の毛を(もてあそ)ばせていたあざみが答えた。

 「わたしが小さな子どものころはまだ向こう岸はただの荒れ地だったんですよ。それが、ご分水ができて、ようやく牧野(まきの)とか、森沢(もりさわ)とかいう村が開けたんです」

 「牧野? どっかで聞いたような名まえだな」

 平五郎の(まぶた)ははんぶん閉じかかっているようだ。まだ眠りが足りないのだろうか。美那もうっとりしたように目を細めていた。

 「ずっと昔はいまの安濃社のあたりに郡衙(ぐんが)があってね、両岸に町があったんだ。そのころは橋もあったらしいんだけどね、東側がさびれて、西だけが町になって残ったんだよ」

 「ふうん、なるほどね……」

 竿をさす音が、ぽちゃん、ぽちゃんと単調に響く。

 美那はこれからのこともぜんぶ忘れたような気分で船縁(ふなべり)(ひじ)をつき、軽く目を閉じて風が流れて行くのをきいている。

 船が揺れるたびに川面からこまかい水しぶきが跳ね、それが頬や腕にとりついて、やがて風で乾いて行く。やさしい海からのそよ風は、ときに耳許で嵐のようにごうっという音を起こし、髪の毛を意地悪く根もとから引っぱる。ふなばたの外で袖がぱたぱたとはためいた。

 「あ、ここが城館(しろやかた)

 あざみが夢を見ているような声で言う。

 「うーん?」

 平五郎もうるんだ目をあけて、あざみが見ているほうに顔を向けた。

 船が小刻みに揺れはじめた。袖を波が濡らす。しかし美那はその揺れを感じながらあざみと平五郎が話すのを目を閉じたままぼんやりきいていた。

 「なあんだ、絶壁じゃない。二十丈はあるよ」

 「川沿いのほうはずっとこんな崖なんだけど、町のほうはそうでもないのよ。この上のいちばん高いところに三層の楼閣があるの。この町で三層建ての建物はこの楼閣だけなんだって」

 「ふーん、それにしてもこんなところによくお城を作ったね」

 「あたしもよく知らないけど、むかし、いまの殿さまのおじいさんだかおじさんだかが京都から下ってきたときにさ、巣山(すやま)の柴山の兵に攻められてこの山に立てこもったの。それで、川べりも町のほうも柴山に押さえられて水がなくなったとき、深い井戸を掘って、そこに京都から持ってきた家宝の玉を投げこんでね、一族がここで滅びるなら水よ湧くな、しかし一族が栄える定めならどうか水よ湧いてくれって祈られたら、水が湧いたそうよ。それがこの町が玉井っていう名まえになった起こりなんだって」

 「ふうん。唐国にも似たような話がいっぱいあるねえ」

 風がやんだ。船が崖のかげにまわりこんだのだ。

 「それにしてもその井戸、まだあるのかな」

 「もう埋まっちゃったよ。小さなお堂みたいなのが作ってあって(まつ)ってあるけどね」

 美那が目を開いて言った。

 「それにその最初の殿さまはいまの殿さまの父上だよ。正興(まさおき)公にはお兄さんと歳の離れた弟といて、いまの殿様はその弟のほう」

 「ああ、そうなんだ」

 平五郎はべつにどちらでもいいようだった。

 「でも、京都から下ってきたって言ったよね。どうして?」

 あざみが知らないというように首を振る。

 「年貢がとれなくなったからだよ」

 美那が説明した。

 「もともとここは春野家の領地でね、もともと春野家っていうのは公家で、このあたり一帯がその領地だったんだけど、でも、このあたりで戦乱が起こって、京都まで年貢が上がってこなくなっちゃった。それで、その正興公のとき、この土地を南都のお寺に寄進して、都から下ってきて、三郡を平定したわけ。さっきの話もその戦争のときのことだよ。それで、都の守護から三郡守護代に補任(ぶにん)してもらったんだ。わたしの師匠の浅梨どのはそのとき都からいっしょに下ってきた人だし、あの桃丸さんのお父さんはその正興公をさいしょにお迎えした地元の領主だったんだよ」

 「ふうん」

 平五郎は目をはんぶん閉じて美那のほうをふしぎそうに見る。

 「きみ、いろんなことを知ってるんだね」

 そう言って大きくあくびをした。

 船が大きく揺れた。

 「もうすぐだわ」

 あざみがふなばたから身を乗り出し、左手でしっかり船縁を押さえながら平五郎の体ごしに行く手を指さした。

 「あの森が安濃のお社」

 船は城館を後にし、城館のすぐ上の波の立つ浅瀬を乗り越えて、小さな渦の巻くなめらかな(みどり)(ふち)のうえを東側の岸へと近づいて行った。そうして、大きな鳥居の下につくられた粗末な桟橋に横づけした。

 鳥居はもともと()塗りだったのだろうがあちこちが剥げ、色もだいぶん()せている。船はもやってもらっておいて、美那たちは鳥居をくぐって本殿に向かった。

 一の鳥居をくぐったあたりはずいぶん広い。けれどもそこには一行三人のほかだれもいるように見えない。

 「がらんとしてるねえ」

 幅の広い参道を散歩するように歩きながら平五郎が言った。

 両側の森から時たま鳥の声がけたたましく聞こえてくるだけで、玉砂利(たまじゃり)を踏んで歩む三人の足音のほかには何もしない。その玉砂利も踏まれて土にまぎれてしまって、ところどころから若い草が顔をのぞかせている。参道の横には、ところどころにうすよごれたかすみ網が立てられたまま打ち捨てられていた。

 「あんまり信心な殿さまじゃないからね、いまの殿様は」

 美那が言う。

 「お社のことも少しも気にかけちゃいないんだ。だからこんなありさま」

 「じゃ、昔はちがってたんだ?」

 植山平五郎が何の気もなしに美那にきいた。

 「そうだね、わたしが小さかったころ、いまの殿様になる前はもっとちゃんとしてた」

 「うん」

 あざみがつづけた。

 「お参りする人も多かったし、お祭りの日には市場の衆で出店を出したりしてたね。わたしもお母さんに連れられて来たことあるよ……でも、あのころ、美那ちゃんまだ藤野屋に来てなかったでしょ?」

 あざみがふしぎそうに美那を見る。美那はしばらく唇を閉じてまばたきした。

 「そう言われれば、そうだね。じゃだれに連れられて来たんだろ?」

 美那はふしぎそうに首を傾げた。

 「う〜ん忘れた。まあいいでしょ」

 美那はおどけるように笑って見せた。あざみはそれでも少しふしぎそうにしていたけれど、平五郎はぜんぜん気にしていないようだ。

 道が長い石段にかかった。

 海風が三人の首すじをふたたびくすぐったく()ではじめた。鳥の声が下になる。おし黙ったまま(こけ)のむして崩れかけた石段を踏みつづけた。

 「わあ……」

 二の鳥居まで上って来たところで、風に唐服をはためかせながら平五郎がうしろをふりむいた。

 「こうやって見るときれいね」

 あざみも立ち止まって袖で汗を拭っている。美那も横にならんで立ち、弾む息を整えて首の汗を拭った。

 断崖の上の城館が正面に見え、その向こうに玉井の城下が広がっている。鳥居のところからは城館のいちばん高い楼閣も目の下に見えた。楼閣をめぐって流れる玉井川の流れのずっと先には霞をうかべた海が見えた。

 「港はどのへんかなあ?」

 「港はここからは見えないよ」

 美那は城館の向こうに黒く見えるなだらかな山を指した。

 「あの山の向こうが入江になってて、そこが港なんだ。そして西のほう――右のほうで山が切れたようになったところの向こうあたりが桃丸さまの屋敷だね。その北側に板井(いたい)山があって、世親寺(せいしんじ)がある」

 「ああ、昨日、行ったところだね」

 「山なみは北にずっとつづいて竹井のほうまで延びてるらしいんだ」

 「ふうん……」

 「それにほら、こっちのほうがさっき言った川の東っ側だよ」

 あざみが美那とは反対側を指さして言う。

 「原っぱのまんなかを流れてるのが川上の都堰(みやこぜき)からとったご分水なの、見えるでしょ?」

 「うん、見える見える」

 あざみの指したあたりには雑木林と田畑がいりまじっていて、その間を縫うように若い緑に縁どられた川が流れている。昼前の日の光に照らされてところどころがきらきらとかがやいて見えた。まだ黒い土の色の目立つ田にもあちこちに人や牛の姿が見えた。田おこしや苗代(なわしろ)作りにとりかかっているのだろう。

 暗く沈んだ山がところどころが白や桃色にぽっと浮き立っているのは、桃や山桜や遅咲きの梅が咲いているのだ。

 「それで東側の山が雪消(ゆきげ)山で、そのすぐ北が(うぐいす)山、その間が村井峠っていう峠よ」

 「こんなきれいなところで争うなんて能がないね」

 平五郎は目を閉じ、大きく息を吸いこんでから、両側の娘たちを顧みた。

 「そう思うだろ、二人とも」

 あざみはうなずき、美那はあいまいに目を伏せた。

 二の鳥居からは拝殿(はいでん)はすぐそこだ。しかし拝殿にも人の姿はなかった。

 さすがにおかしい。桧山(ひやま)の若殿といえば、齢も若いし、守護代の家臣としての格はそんなに高くないけれども、それでも港の名主だ。その名主の殿様のお客様がお参りすると伝えてあるのに、だれも迎えに出ないというのはどういうことだろう。

 「おかしいね。宮司(ぐうじ)さん呼んでこようか?」

 美那が行こうとするのを、
「いいや」
と平五郎が止める。

 「ちょうどいいじゃない、ほかにだれもいないうちに、先に神さまにお祈りしちゃおうよ。それぞれお祈りしたいと思ってることをさ。そのほうがよく伝わるよ、きっと」

 「ま、そうだね」

 美那はうなずいた。平五郎をまん中にして、あざみとも並んで神さまの前に進み出る。

 三人は並んでお辞儀し、拍手(かしわで)を打って、しばらく拝殿の奥に頭を下げていた。

 海からの風はやまない。平五郎と美那とあざみと、それぞれの髪とそれぞれの着ているものを同じように(なび)かせながら吹き抜けていく。

 最初にあざみが頭を上げ、平五郎が深く下げていた頭を上げ、それに気づいて美那が頭を上げた。

 「美那ちゃん、ずいぶんまじめにお祈りしてたけど、何をお祈りたの?」

 あざみが声をかける。美那は目を細めて唇を軽く閉じて笑って見せた。

 あざみがちょっととまどったような顔をする。

 「だめだよ、あざみちゃん」

 平五郎が言った。

 「へっ?」

 「お祈りは神さまとのないしょのお話しみたいなものだからね。無理に聞き出そうとしたりしてはいけない」

 「はっ……はい?」

 あざみがとまどっているのは、その言っていることではなくて、植山平五郎の何かとても得意そうな芝居がかった言いかたが解せなかったからだろう。

 「どなたかお参りですかな?」

 烏帽子(えぼし)を頭に載せた背の低い老人が、拝殿の裏から顔を(のぞ)かせて声をかける。

 いつも目を細めて笑っているのか、その笑顔がそのまま(しわ)になっているような年寄りだ。烏帽子の下には一本の髪もないらしい。

 美那は、老人と目を合わせると、すぐに老人のほうに向かって声をかけた。

 「桧山の若殿様のお客人で、船頭の植山平五郎様です。わたしは市場の町娘で藤野屋の美那、こっちは隣の駒鳥屋のあざみちゃん」

 「お……おーおー……」

 老人は美那に向けて顔を細めた。

 「ずいぶんお久しぶりですな」

 「ええ、宮司様もお元気そうで」

 「それにしても桧山様のお客人とは」

 老人はつぶやき、拝殿を回ってくる。見ていると身体をあまり大きく動かしているようには見えないが、ずいぶんな早足だった。足腰はしっかりしているらしい。

 宮司は歩きながら小さくつぶやいている。

 「祐三(ゆうざ)のやつ、また忘れやがったか」

 そして急に声を上げた。

 「これ、祐三、祐三!」

 「はい、お呼びですか?」
と、やはり神職の格好をした恰幅(かっぷく)のよさそうな若者が脇殿の後ろからひょいと姿を見せる。

 で、三人の客人の姿を見て、あっと声を立てた。

 「今日、桧山殿のお客人がいらっしゃるとわたしに伝えるのを忘れたな」

 「いえ」

 若者は少しことばを詰まらせてから、つづけた。

 「私は、たしか昨日の夜、ちゃんとお伝えしました」

 「嘘をおっしゃい」

 宮司は厳しい声で言い返す。

 「昨日の夜はわたしは本殿のほうに()もっていておまえは会っていないではないか。まったく……」

 「はい」

 せっかく言いわけを考えたわりには、祐三と呼ばれた若い神職の男はかんたんに自分の非を認める。

 「まあいい、祐三、お客人をお迎えする準備をなさい」

 「あっ、はい、ただいま……」

 祐三は慌てて言われた支度(したく)を始めた。


 平五郎をまん中にして、美那が右に、あざみが左に並んで、小さな机をはさんで拝殿の上で宮司と話をする。拝殿はまわりに(さえぎ)るものもなく、風も、森のざわめく音もぜんぶ通り過ぎていく。

 平五郎の話は、しばらく前に美那とあざみが美那の家で聴いたのと同じような話だった。海の向こうの唐国の話、その唐国からどうやって船を通わせているかという話、京都や関東の戦乱の話、蝦夷島の話などだ。宮司はそんな話には興味はないのかと思っていると、そうでもなく、熱心に唐国の海の話をききたがった。とくに平五郎の雇い主の霍順卿(かくじゅんけい)とその商いについて詳しくききたがった。

 美那とあざみは、高麗(こうらい)の西の海で海賊船に追いかけられた話や、その海にいるという黒い大くらげの話あたりまでは、このあいだと同じように興味を持ってきいていた。しかし、その天津(てんしん)の霍順卿という方が何をどこのだれと商っているかというような話になると、きいたこともないような品物の名まえや、それ以上にきいたことのない、それにどれも同じように聞こえる唐国の地名が何度も何度も出てきて、わけがわからなくなってきた。

 春、長い朝が過ぎて(ようや)く昼になろうかという時間に、わけのわからない話をずっときいていると、どうなるかというと?

 美那はそれでも品のよい顔を作って、唇の後ろで歯を食いしばり、食いしばる歯を奥歯と前歯と順番に入れ替えながら、目に涙を浮かべて耐えていた。けれども、あざみはそんなことはまったく考えていないようで、首を垂れて体を上下に揺らし始めている。そのたびに目は開くらしいが、もう目を覚まそうという気になる間もないようで、背中にいっぱい伸ばした黒髪が肩から前に滑り落ちるのにもかまっていない。

 宮司が苦笑いした。

 「美那。その子といっしょに(すみれ)畑のほうに行ってなさい。菫畑の場所はわかるな」

 「なんならわたしが案内しましょう」

 すかさず言ったのは、宮司の斜め後ろ、宮司と平五郎がかわしていることばの聞き取れないあたりに、所在なげに藁座(わらざ)に座っていた祐三だ。だが
「おまえはここにいなさい」
と宮司に一喝(いっかつ)されて黙る。

 美那はあざみを立たせる。あざみはふだんはしっかりした子なのに、立たされてもまだ眠っているらしくて前後に体を揺すって転びそうになる。そのあざみを抱きかかえるようにして美那は拝殿を下りた。


 そんなわけであざみは機嫌が悪い。

 「起こしてくれてもよさそうなもんじゃないかぁ」

 「だってあざみがいるの平五郎さんの向こう側で腕つねったり足つねったりできないんだもん」

 「声かけてくれてもいいのに」

 「平五郎さんが宮司さんと話してるのに?」

 「恥かいちゃったじゃないか……それなのに、美那ちゃん、すましちゃってさ。お姫様みたいな顔して」

 あざみに拗ねた声で言われて美那の答えが少し遅れた。

 「だって、相手は三郡一えらい神主さんなんだよ」

 美那は大きく息をした。

 「それに、わたしだって眠いのごまかすので懸命(けんめい)だったんだからさ。あんたのことまでなかなか気を配ってられなかったんだよ」

 「なぁんだ」

 あざみがおもしろくなさそうに
「美那ちゃんも眠かったんだ」

 「眠くないと思ってた? あの話で?」

 「そうだよねぇ……あはは、安心した」

 あざみが小さく笑ったので、美那はようやくほっとする。

 「わあっ」

 曲がり角であざみが声を上げる。

 道の下で小さな菫がいっせいに花を咲かせていた。すみれ色の小さな花が、吹いてくる風に揺すられながら、波のようにさざめき立っている。

 「たしかあざみはここの菫が咲いてるときには来たことなかったよね」

 「うん。はじめて」

 あざみは機嫌を直して跳ねるように菫畑まで下りていく。美那は後ろについて早足で下りていった。

 この安濃の菫畑は山の南側にあって、そこそこの広さはあるが、山の下からも社のところからも見通すことはできない。ここまで来ないと菫畑があることもわからないようになっている。

 「うん?」

 菫畑の隅に、しゃがんで花の様子を確かめている娘がいた。一本ごとに菫の花を裏返して、花のつきぐあいなんかを確かめているらしい。

 黄色い衣を身につけているその娘に美那は会ったことがあるような気がした。

 あざみにつづいて美那も畑に下りると、その娘は二人のほうを振り向いた。

 「あ、志穂さん!」

 「なんだ美那じゃないか」

 「?」

 あざみは、自分の知らない娘が美那の名まえを親しそうに呼んだのでわけがわからないようだ。美那は説明した。

 「こないだ中原村で地侍(じざむらい)に絡まれて困ってたときに助けてくれた人」

 「え?」

 あざみは目を瞬かせた。

 「あれって美那ちゃんがやっつけたんじゃないの?」

 「だから、ちがうって!」

 「そうなんだ」

 「そうなの!」

 言われて、あざみは、志穂のほうに軽く頭を下げたが、まだ得心(とくしん)はいっていないようだ。

 「榎谷(えのきだに)の志穂っていうんだ、よろしくね」

 「うん。駒鳥屋のあざみ……美那ちゃんとはとなりどうしで」

 「ああ、お店はよく知ってるよ」

 志穂は畑の端に跳ねるようにして腰を下ろし、そのまま大きく伸びをした。

 あざみはどうしようか迷っていたようだが、その志穂のすぐ隣に腰を下ろし、美那もその隣に腰を下ろす。

 「でも、志穂さん魚売りだったでしょ? ここで何やってるの?」

 美那がきく。

 「何って、あたしは榎谷の者だよ。お社にいてもあたりまえだろ?」

 志穂はぞんざいに答えた。説明するのがめんどうだったからか、それとも志穂のもともとのしゃべり方なのかはわからない。美那は
「どうして?」
ときいてみた。

 「榎谷はここのお社の領地だから」

 志穂はもういちど大きく伸びをする。それから美那とあざみのほうを向いて、
「あたしなんかふだんはあちこちに魚を売って歩いてるけどね。でも、榎谷の者はいろいろとお社のお世話になってるから」

 「お世話に?」

 あざみがふしぎそうにきく。宮司が一人と、その宮司に仕える頼りなさそうな神職の男一人で、何かこの人の世話ができることがあるのだろうか――そんなふうに考えたのだろう。

 「うん。あたしたちはべつに証文持ってなくてもどこの関所でもただで通してくれるし、どこの宿にもいつでも泊めてくれる宿屋がある。それはあたしたちがここの神さまに仕える身分だってみんな知ってるからだよ」

 「守護代が越後守(えちごのかみ)さまになってからも?」

 「そうだよ」

 志穂はふっと小さく鼻息を漏らした。

 「守護代がだれになってもかわらないもんだよそういうのは。市場だってそうだろ? 守護代がだれになろうが、市場は市場で好き勝手にやってきただろ?」

 「それはそうだけど」

 あざみがほんとうにそれで納得したのかどうかはよくわからない。志穂はまた少し笑ってつづけた。

 「まあね、そんなことでここの神さまのお世話になってるから、榎谷の者は順番を決めてお社に出向くことになってるんだ。で、今日はあたしが出てくることになったわけ。ま、何か別に決まった仕事があるわけでもないけどね。いまは宮司さんの身のまわりの世話をする男の人も決まったし」

 「祐三さんって人?」

 あざみがきく。志穂が
「なんだもう会ったのかい? 祐三郎(ゆうざぶろう)って言ってどっかの武士の家の子らしいけどね。まあ間は抜けてるけどいい男だよ」

 「うん」

 「ところで、あんたたちは何しに来たの? 市場の娘二人でお参りかい?」

 「うん……いや」

 あざみは正直に答えていいかどうか迷っているようだ。美那が
「桧山の若殿さまのお客様がお参りに来たいって言ったんで、その付き添い。でもなんか宮司さんと二人で難しい話してるんで、抜けて来ちゃった」

 「なるほど」

 志穂はその話に安心したのか何か知らないが、切り株に背中を(もた)せかけた。

 「桧山の殿様のお客って船頭さん?」

 「そう」

 あざみが答える。

 「唐国のなんとかいう港にいて、琉球とか蝦夷島のほうまでも行くんだって」

 「唐国ねぇ」

 志穂が繰り返した。

 「わたしにはどれほど遠いかもわからないよ」

 美那が言う。志穂は目を細めて笑って見せた。

 このひとがこんな優しそうな、力を抜いたかおをすることがあるんだ、と美那は志穂の顔を見つめ返す。

 「そんなこともないよ。たぶんさ」
と志穂は空を見上げる。

 「高いところの雲って西から流れてくるだろう?」

 「うん」

 美那も、あざみも、その空を同じように仰いだ。

 空は青く澄んでいた。そこに少しずつ群れを作って雲が浮いている。それは、じっと見ていると、たしかに志穂の言うように西から流れてきて東に流れていくようだった。

 「あれって、ここに来る前には鎮西(ちんぜい)のほうにいて、そのずっと前には唐国のほうにいたんじゃないかってね。明日やあさってには兵庫や京都のあたりまで行くかも知れないし、いつかは関東のほうまで行くんだろうね、ってね――そんなことは考えてみないかい?」

 「わぁ」

 あざみが言った。

 「わたし、そんなこと、考えたことない」

 遠くで鳥の鳴く声が少し鋭く聞こえてきた。

 美那は黙っていた。

 志穂はあざみと美那の顔を見くらべて、それから一つ大きく伸びをして立ち上がった。

 「さて、わたしはちょっと出かけるから、あんたたち二人はここにいて」

 「えっ?」

 「どこ行くのさ?」

 あざみが声をかける。

 「ちょっとね。ついでになんか食べるもの持ってきてやるよ、ここで待ってな」

 「あ、はい……」

 美那とあざみが振り向くと、志穂はもうそこにいなかった。大柄なわりにはすばしこいらしい。

 美那もあざみもいま立つのは億劫(おっくう)な気がした。だから、二人で顔を合わせてあいまいに笑いあったあと、志穂がしていたように大きな切り株に二人で背を凭せかけて、そして空を仰いで流れていく雲を黙って追いかけていた。


 「なるほど、そうでしたか」

 宮司は長い手紙を読み終えて、あごに右手を持っていって(ひげ)をしごくようなしぐさをした。

 「はい」

 植山平五郎が深くうなずく。

 「桃丸さんからは、宮司さまのご意見をうかがって来いと」

 宮司はあごを押さえたまま、目を細めて首を振る。

 「意見などありはせぬよ――そうお伝えくだされ」

 「はぁ」

 「それにあの男が決めたことでしょう?」

 「ええ、まあ」

 「だったら、わしが何と言ってもあいつは考えを変えたりはせんでしょう。ならば、何でも好きなようにやりなさいとしか私には言えない」

 「では、そういうことで」

 宮司は、あごに置いていた手を膝に戻して、平五郎の顔を見つめ、目を細めて、それからゆっくりと(うなず)いて見せた。

 「祐三! これ祐三」

 祐三郎は藁座の上で居眠りしてしまったようだ。さっきのあざみと同じように体を揺らしている。

 「これ祐三! またそんなところを志穂に見つけられたら何とする!」

 「うへっ!」

 祐三郎は慌てて身を跳ね起こし、座り直して、いちども居眠りなどしていないような面持ちを装おうとした。

 「志穂っ? 志穂がどうかしましたかっ?」

 「おろか者。すぐに灯明(とうみょう)土器(かわらけ)の皿を持ってきなさい」

 「はっ……はい。でも」

 「早くするんだ!」

 「はいっ!」

 祐三郎は叱りつけられて、いそいそと脇殿に言われたものを取りに行く。平五郎がその後ろ姿を追いながら
「神主さんもたいへんだね」
とつぶやいた。

 「植山どの」

 宮司は、祐三郎の姿が見えなくなってから、低い声でその平五郎に声をかける。

 「はい」

 宮司は目をさらに細め、わざと斜めに平五郎を見る。

 「一つだけ、桧山さまに、いや、桃丸に伝えてほしいことがある」

 「あ、はい」

 平五郎は受け答えはいつもどおりだったけれど、少し声をひそめている。安濃の宮司は一つうなずいて、それまでよりもさらに声を低めた。

 「おまえは一人で何もかもを知っているわけではない、そのことをかたときも忘れるではない、何をするにしても、な――と、そうお伝えください」

 「おまえは一人で何もかもを知っているわけではない、そのことをかたときも忘れるではない、何をするにしても、な――ですね」

 「そのとおりです」

 平五郎を見つめる宮司の小さな目は、笑顔がそのまま皺になってしまったような顔の奥で、決して笑ってはいなかった。

 何か遠いものを見定めようとするような、そんな目だ――と言えばいいのだろうか。


 社の船着き場では、美那とあざみが乗ってきた船の横に二(そう)の船が横づけしている。

 先に着いた船からは、船の揺れも収まらないうちに青っぽい色の着物を着た背の低い娘が跳び出し、船着き場にとんと両足を載せる。痩せていて、背も低く、髪の黒い娘だった。公家の娘のようにきれいに長い髪を結っている。

 二艘めの船からは、船がまだきちんと船着き場に着いてもいないのに、慌てて女たちが下りて来て、最初の娘のあとを追う。

 「おい」

 最初の船の屋形からは武士が身を乗り出した。侍烏帽子(さむらいえぼし)を頭に載せた、顔の丸い男だ。目立たない色の濃い小袖を着ている。年老いていると言うには若かったが、顔には皺が刻まれ、目の下はたるんでいる。それでも、その涼しげな目つきは、若いころにはきっと美男の(ほま)れ高かったのだろうと思わせるものだった。

 「おい、襟花(えりか)

 男は船着き場から社のほうへどんどん離れて行こうとしている最初の娘に声をかけた。

 「はい」

 襟花と呼ばれた小さな娘は、子どものような声で応え、やっぱり飛び跳ねるようにして武士のところに戻ってくる。

 「なんですか、殿様」

 「あんまり勝手にあちこち行くんじゃないぞ」

 「だいじょうぶですよ」

 襟花は体を斜めにそらして、やっぱり幼い声で言う。

 「大きい黄色い蝶々を見つけたんです。追いかけていって、殿様に差し上げますよ」

 「ほう、そうかそうか」

 言うと襟花は参道のほうへと跳ねていく。「殿様」の言ったことをちゃんときいたのかどうか。

 ついてきた若い女たちが「殿様」に一礼してそのあとを急ぎ足で追っていく。この女たちはこの襟花という娘の腰元たちなのだろう。

 「殿」

 武士の後ろに控えていた男が立ち上がった。侍烏帽子の下の髪と髯はよく整えているが、もう半ば以上白くなっている。たぶん殿様よりも歳はひと回りは上だ。

 「まあ慌てるな」

 声をかけた男がふなばたから船着き場に移ると、船の(みよし)に座っていた若い男がうなずき、「殿様」のそばによる。

 「おう、おう、ありがたいな」

 「殿様」はおうような声で言うと、若い男の肩を借りて、まだ揺れている船のなかで立ち上がる。

 「よい、自分で渡る」

 肩を貸そうとする若い家臣を制して、男は船から船着き場に飛び移り、そして得意そうに若い家臣と年老いた家臣の二人を見下ろした。

 「殿、ただちに宣十郎(せんじゅうろう)を先駆けにつかわせます」

 年老いた家臣が膝を折ったまま言うと、「殿様」はやはりおうように首を振ってみせる。

 「しのびで来たのだからそんなに形式張ることはない。宣十郎」

 「はっ」

 「殿様」は年若い臣下のほうに言う。宣十郎はかしこまって答えた。

 「宮司どのにわしが来たことを伝えてきてくれ。そしてものものしい儀礼はくれぐれも必要ないと伝えてくれ」

 そして、少しことばを切ってからつづける。

 「今日は三郡守護代春野越後守定範(さだのり)として来たのではない。襟花という娘の付き添いの爺さんとして来ただけなのだからな」

 「はっ」

 「急ぐ必要はないぞ。おまえが急げばわしまで急がなければいけなくなるし、それではあの襟花が追いつくまい。あれは元気がよいように見えてもまだ子どもだからな」

 「は、はい」

 「急ぐな」と言われたのは初めてらしく、宣十郎は老臣のほうの顔をぬすみ見るように見た。老臣は苦笑いして宣十郎に言った。

 「ま、そんなに急がず、急いで行ってこい」

 「はいっ」

 宣十郎はけっきょく全力で駆けだし、それから「そんなに急がず」を思い出したように少しだけ足を緩め、参道の石段を駆け登っていった。

 「信惟(のぶただ)、よい息子を持ったな」

 「お恥ずかしいしだいでございます。さあ、われらも参りましょう」

 「そうだな」

 そして少しことばを切り、
「あまり若い者に遅れるようでは面目がないからな」

 春野越後守定範はそう言って朗らかに笑って見せた。


 拝殿の上では、祐三郎が灯明に火をつけ、土器の皿を差し出していた。

 宮司と平五郎は大きく頷きあった。そして、宮司は、桃丸からの手紙を右手で取り上げ、左手で右手の袖を持ち、手紙を灯明にかざした。

 「何を!」

 祐三郎が慌てて声を立てる。宮司は首を振って祐三郎を無言で戒め、手紙をなお念入りに火にかざす。手紙の端のほうから炎が上がり始めたのを確かめ、そしてそれを土器の皿の上に移した。

 土器の皿の上で手紙は炎を上げて燃え、少しずつ灰になっていく。

 全部が灰になったところで、宮司と平五郎は、もういちど、こんどは目と目を合わせて小さく頷きあった。

 「もーし、どなたかいらっしゃいませぬか?」

 まだ幼さの抜けない少年武士の声が拝殿に届いたのは、そのすぐあとのことだった。

― つづく ―