夢の城

清瀬 六朗


安濃(あのう)詣で(三)

 「雲がどこから来てどこ行くかなんて考えたこともなかったね」

 空を見上げてあざみがぼんやり言う。

 「まあ、そうだけどさ」

 美那も眠そうな声でこたえた。それにつづけて、
「ねえ、あざみって阿波(あわ)とか兵庫とかどのあたりかって言える?」

 「いいやぁ。見当もつかない」

 あざみは力の抜けた声でこたえてから、美那のほうに顔を向けた。

 「でも、なんで急にそんなこときくわけ?」

 「いや、あざみのお父さんは阿波とか兵庫とかよく行ってらっしゃるから、あざみもわかるかな、と思ったからね」

 言ってちょっと笑い、美那もあざみのほうに顔を向ける。

 「うん、でも、いっしょに行ったわけじゃないから。話だけじゃわからないよ、さっきの船頭さんの話もそうだけど」

 「でも、あざみちゃんのお店って、その阿波から買いつけてきた藍で布を染めて売ってるわけでしょ?」

 「それはそうだけど、関係ないじゃない?」

 「そうだね」

 美那は空の上を眺めた。

 空はやっぱり上のほうまでずっと晴れている。こうやって日に照らされていると暑く感じるようにさえなってきた。

 このあいだまで日が照ってもその光がはかなく頼りなく思えるほどに寒かったのに。

 「考えてみるとふしぎだよね」

 「何が?」

 「どこで採れたものかわからないものを使って作ったものを平気で売ってるなんてさ。べつにあざみちゃんのところだけじゃないよ。うちだってそうだ」

 美那は目を細くして唇を合わせ、また話す。

 「(くず)餅作りに使う水が川の都堰の上の水だってことは知ってる。汲んできて三日間大甕(おおがめ)のなかで澄ませた上澄(うわず)みを使うんだ。でも、くず粉は巣山で採れるのを買ってるっていうけど、巣山がどんなところか知らない。葛ってものは見たことあるけど、あれからどうやってくず粉にするのかわたしにはわからない。蜜だってどこでどうやって採るのか知らない。それでも店ではそんなものを平気で売ってるんだ」

 「う〜ん」

 あざみは小さく(うな)った。

 「それってやっぱりふしぎなことなのかな? だってそれを言ったら、市場の店ってみんなそうってことになっちゃうよ?」

 「まあ、そういえばそうだね」

 美那はそこで話を止め、(にじ)んできた空を仰ぎながらまぶたを閉じた。

 菫畑も玉井の町も海も空も見えなくなり、まぶたを通してさえ届く日の光が穏やかに(おど)る。こうやって目を閉じてみると、自分の胸が息をするのといっしょに膨らんだりもとに戻ったりするのが伝わってくる。

 「ねえ、あざみ」

 まぶたを閉じたまま、美那が言う。

 「なに?」

 あざみの声も十分に眠そうだ。

 「さっき何お祈りしてたかきいてたでしょ」

 「うん」

 「教えたげるよ。べつにそんなので神さまがお怒りになるとも思わないから」

 「……うん」

 「わたしはね、わたしたちがいまのまま、いまとおんなじようにずっと暮らしていけるようお願いしてたんだ。おかみさんやあざみちゃん、あざみちゃんのお父さんやお母さん、それに隆文(たかふみ)丈治(たけはる)元資(もとすけ)まで含めて、みんながだよ」

 「うん」

 あざみは言って、返事のかわりに美那のほうに手を伸ばした。

 美那が投げ出した手を見つけると、そこに軽く手を重ねる。

 「そうだと思った。美那ちゃんのことだから」

 「うん」

 美那は小さくうなずくと、ゆっくりと大きく息をついた。


 同じころ、市場の藤野屋には、港の名主の若君の桧山桃丸が訪ねてきていた。

 港の衆三人ほどといっしょにのんびりと歩いてきて、ふと藤野屋の軒から下を(のぞ)いたという感じだった。港で働く大男三人に、一人だけ、背丈もそれほど高くなく、やせっぽちの、頬の紅い子どものような桃丸が交じっている。着ているものも同じようなので、見習いの子が大人に連れられて久しぶりに市場見物に来たように見えても、この少年が一行の主人だとはまず見えない。

 「あら、どうされました?」

 おかみの薫も穏やかに答える。桃丸が後ろを向いて小さくうなずくと、港の衆は、桃丸から離れて店の軒から離れ、それぞれ別のほうに歩いていった。目立たないところに分かれて立ち、ほかの店の店先を眺めたり、だれか人を待ったりしているようなふりをしながら、桃丸の様子をうかがう。

 「まあ、こちらへ」

 店の者たちは港の衆のそんな動きなどは目に入らない。桃丸を見知っているので、一人ずつ軽く頭を下げてあいさつする。桃丸もいちいちそれに明るい声であいさつを返しながら、急ぎもせずに薫に導かれて店の奥へと入っていく。

 店の奥の間で藁座の上に腰を下ろした桃丸は、周囲に店の者がいないのを確かめて、ようやく、薫に向かって早口で切り出した。

 「困ったことになりました」

 「どうなさいました?」

 薫は店にいたときと同じように穏やかにこたえる。桃丸は息を整えた。

 「定範が――越後守が安濃に向かったという知らせです」

 「まあ、それだったら」

 薫はたいして慌てもせずに言う。

 「このままだと安濃で顔を合わせてしまうことになりますね、あの子」

 「たぶん。平五郎は何の事情も知らないから、避けたりはしないでしょう」

 「そうですね。それで、わたしに何のご相談です?」

 「いえ」

 薫のことばに、港の名主の若君は圧されたようにことばに詰まる。

 「わたしにはどうも判断がつかないのですよ。その、たとえば、浅梨(あさり)さまにお知らせしたほうがよいかどうか」

 「そんなことですか」

 薫は顔色も変えず、背筋を伸ばしたままこたえる。

 「その必要はないと思いますよ。いえ、若殿さまは、何をなさる必要もありません」

 「しかし……」

 「あの子が落ち着いていさえすれば何も起こりはしません。それに、あの子はそんな軽はずみではありませんよ。とりわけいまはあざみさんがいっしょです。いつもよりも用心することでしょうよ。それより、若殿さまが浅梨屋敷と連絡を取り合って何かしようとしているということが噂ででも伝わってごらんなさい。そちらのほうがおおごとになりはしませんか」

 「そうですか」

 桃丸は薫の話を聞いてほっと息をつき、藁座(わらざ)の上に座り直した。

 「それでは、屋敷町のほうへは行かず、市場を見物して帰るとしましょう」

 「そうなさいませ」

 薫はにっこり笑って、桃丸の目を見返した。

 「まだ、何か?」

 桃丸が問い返すと、薫は、小さく、いたずらっ子のようにうなずいた。

 「若殿さまは、あの植山という船頭を使って何かたくらんでいらっしゃる。そうですね」

 「ええ、そのとおりです。まあ、あいつというよりはあいつの船ですけどね」

 桃丸は照れ笑いのような笑いを浮かべたが、悪びれもせずすなおにこたえる。薫はことばの調子を変えずにつづけた。

 「それが何なのか、わたしにも美那にも教えてはいただけないのですね?」

 「ええ。まあ、ちょっとした大きな買いものをした。それだけですよ」

 「今日、あの方が安濃に詣でられたのも、昨日、世親寺(せいしんじ)に参られたのも、それと関係があるのですね?」

 「いえ、世親寺に行かせたほうは違いますよ。そうでも言っておかないとあいつは女の子にはつきまといますからね、悪気はないんですけど。でも今日のは確かにそうですね」

 ないしょにしていたことを見抜かれて、でもその全部が見抜かれていないのが得意な子どものように答える。そこで薫はそういう子どもをたしなめるように
 「何をお買いになったのかは存じませんが」
と短くことばを切った。

 「あの子はいまの暮らしをいまのままつづけたいと願っています。そして、わたしはあの子のその思いにはいまはできるだけこたえてやりたいと思っていますよ。たとえそれで若殿さまのお考えに不都合が生まれるようなことになったとしてもですよ。よろしいですね?」

 「ご心配には及びません」

 桃丸はその得意そうな笑顔を突然に消した。そして、少し背を丸め、伏し目にして、低い声で言った。

 「あの子の思いはわたしも同じです。いまのままの暮らしでわたしには何の不都合もない。父上や牧野の親子を殺され、母上を失った恨みは消えません。忘れられるものではない。でも、港の衆も、船で港を訪ねてくれる連中もわたしをたいせつにしてくれています。城館(しろやかた)の連中にも、それは港の衆やわたしを快く思っていない者はいるでしょうけど、いまのところ港にもわたしにも手出しをしようとはしません。いい暮らしですよ。だから、そのいまの暮らしを捨てようなんてつもりはありません」

 薫は黙っている。桃丸は一つ息をついた。

 「でもね、時勢が時勢です。それが心配なのです」

 「時勢、ですか」

 「そうです。市場ではそんなには感じないでしょうが、三郡の村の連中はもうほんとうに日々を食べつなぐだけで懸命です。城館では三郡限りの徳政なんてものを計画しているらしいけれど、本家に断りなくそんなことをやって、その帳尻(ちょうじり)をどこで合わせるっていうんです? かといって本家に許しを求めても、天下徳政でもないのに本家が許すわけがありません。そんなことをしたら他国にある領地まで徳政を認めなければならなくなる。またいまの城館の連中が本家とねばり強く話し合いを進めるとも思えない。だからといって、城館が何もしなければ村の連中は生きていけません。どこかに無理は来ます。それがどんなかたちで来るか――備えるだけはしておかなければなりません。わたしはそう考えているんですよ、薫さん」

 桃丸は顔を上げて、薫の顔を見上げた。

 薫は変わらぬ穏やかな顔で桃丸を見返す。

 戸を閉め切った部屋にも、外の明るい光は漏れて入ってきて、薫と桃丸を白く浮かび上がるように照らし返していた。


 美那は自分がいまいてはいけないところにいることをちゃんと知っていた。

 まわりには菫の花が咲き乱れている。空は晴れてはいたけれど、いくらか真綿のかたまりような雲が浮かび、その雲が滲むようにして空の全体を覆っていた。

 美那は、しゃがんだままぴょんと飛び跳ねては、菫の花を一つずつ確かめていた。

 菫は、弱々しい茎と小さな葉に支えられて花を咲かせている。

 美那はその根もとに手をやった。指のあいだに菫の茎をはさんで、すうっと上に引っぱり上げる。指のあいだに、やわらかい、くすぐったい感じが溜まっていくように思う。

 美那の指は菫の花の(がく)にまで届いて、そこで止まった。

 このまま指を引っぱり上げれば、たぶん、そのか弱い根は美那の力に抗うことができなくて、菫の花は抜けてしまうだろう。

 この花を抜いてはいけないことは知っていた。

 でも、いけないと言われたことをやったら、いったいどうなるのだろう?

 試してみたい気もした。この菫の花は、それほど強くないはずの美那の、それも指先の力で、ちょっと引っぱっただけで抜けてしまうほどに弱いのだ。

 その弱い花を引き抜いたら、いったい何が起こるのだろう?

 何も起こらないような気がする。でも、何も起こらないと思っていたら、ほんとうは何かが起こるような気もする。

 だから、試してみたい。何も起こらないことを確かめるためにも、試してみたい。

 美那にはそれができるのだから。

 「だめだよ、美那」

 「あっ、兄上っ」

 とんでもないところを見られたと思った。

 「その花がどうしてここに植えてあるか知ってるだろう? おまえのおじいさんが好きな花だったからなんだよ。おじいさんの思いを伝えるために、この花は、ここと安濃のお社とに植えてあるんだから。それを抜いたりしたら、おまえは……」

 美那はやましい気もちと、何か胸の上のほうを締めつけられるような苦しさとでいっぱいになった。

 「うん、だからしないよ、そんなこと」

 美那はそう言って声のするほうに振り向いてみた。

 空に真綿のかたまりのような雲が浮いているだけだった。しかも、雲はさっきと違って空の全部を覆っていた。空はまだ明るかったけれど、このままだともっと黒い雲がやってきて、空を覆ってしまうかも知れない。

 美那は菫を抜いたつもりはなかった。

 でも、いけなかったのだ。菫を抜こうかなんて考えただけでいけなかったのだ。そうだ。父上やお兄さま、あの優しいお姉さま、それに白い(ひげ)をいっぱい蓄えたお爺さまもいらっしゃるところで、わたしはそう聞いたはずだった。

 どうしてあんなことを考えたのだろう。

 「美那」

 どうしてあんなことを考えたのだろう。取り返しのつかないことになるとわかっていたはずなのに。

 「美那!」

 「うん?」

 いや、その取り返しのつかないことって、いったい何だった……?

 「美那って! ほら、起きろ!」

 「ふぁん?」

 美那の目に青く輝く遠い空からの光が溢れるように入ってきた。美那は目を細めた。

 「ほらぁ、さっさと目を開く!」

 「うぁん……? あ、志穂さん」

 気もちよくて、それに何かけだるくて、美那は自分が眠ってしまったということを思い出した。

 「なに? あ、平五郎さんが呼んでるとか?」

 自分では少しうとうとしたという覚えしかないが、ひょっとしてほんとうは長いあいだ眠ってしまったのだろうか?

 「いや、それがね」

 志穂の声には張りつめた感じがある。美那はひとりでに体の中から眠気がさっと退いていくのを感じた。

 「なに? 何かあったの?」

 「定範が来たんだ、この社に。平五郎さんとも会ったし、もうすぐここに来る」

 「さだのりって?」

 「あんたに喧嘩(けんか)売った村の地侍(じざむらい)の主人だよ」

 「あれのご主人のことなんか知らないよ?」

 「あんたね! あいつは越後守(えちごのかみ)様のご検注(けんちゅう)に逆らったからなんとかって言ってただろ?」

 「ああ? そういえば……。越後守定範っていうんだよねあのひとの名まえ……ってまさかその定範ぃ?」

 その叫び声に、隣で同じように、どんな夢を見ていたか知らないけれど気もちよさそうに寝息を立てていたあざみがむっと半身を起こし、まわりを見回すしぐさをしている。

 「そうだ」

 「三郡守護代の?」

 「そのとおり」

 「なんで?」

 美那は目をいっぱいに見開いて志穂に聞く。

 「だって、殿様って、そう軽々と外を出歩いたりしないもんでしょ? うん、とくにあの定範はそうだ。しかもよりによってお社に来るなんて!」

 「ほんとだからしょうがないだろう? つまりさ」

 志穂は軽く苦い顔をして見せた。

 「あの殿様のおそばに仕えてる娘っ子がさ、何の気まぐれか知らないけどお社に来たいって言ったらしいんだ。そしたら、その娘っ子が心配だからって殿様までひょいひょいついてきたってわけ」

 「あいつったらまたもう腰が軽いんだからっ……」

 美那は苦いものを口に入れられたように言う。志穂が右手で力いっぱいその頬をひねり上げた。

 「いたたたたっ……」

 「いいかい。あんたがあれの手下の地侍と仇結んだのは知ってるけどさ、面と向かってそういうこと言うんじゃないよ。定範って呼び捨てもだめ、まして定範のやつなんて言っちゃいけない」

 「わかってるよ」

 それは、昨日の夜、おかみさんにいっぱい説教されたとおりだ。それに、いまやつを先に呼び捨てにしたのは志穂さんのほうじゃないか。

 「じゃ、あたしは消えるからね」

 「えっ、あっ、ずるい!」

 美那だって消えられるものなら消えたい。その美那に志穂は(さと)すように言った。

 「ずるいも何も、あたしはあれの手下たくさんから恨まれてるんだよ。お社に仕えてるっていうだけで手出しされないですんでるだけなんだからさ。やつと顔合わせるといろいろこじれて困るんだよ。じゃな」

 「あぁっ……」

 言うだけ言ってさっきと同じように消えてしまう。ほんとうにかき消すようにいなくなる。

 手下に恨まれているのは自分も同じだし、それに……。

 気がつくと、あざみが立ち上がって、袖で口を押さえて笑っていた。

 「なんだよあざみ……」

 「だって美那ちゃん、慌てようが大げさなんだもん」

 「だって……定範……っていうか越後守さまがここに来るって言うんだよ」

 「うん」

 「越後守さまって……三郡でいちばん偉い殿様だよ」

 「うん」

 「こっちはさ、(うちぎ)も着てないし、それに鞋は泥だらけだし、それどころか小袖も背中土だらけでさ。なんていうか殿様に会うかっこうじゃないよ」

 「いいじゃない」

 あざみはいっこうに平気で、手を背中に回して手の甲で背中についた土やほこりをぱらぱらと払い落としている。

 「それに、殿様に会ってるのはあの平五郎さんなんでしょ? わたしたちはそのお付きの市場の娘なんだからさぁ。殿様だって市場の娘がそんなちゃんとしたかっこうしてるなんて思ってないよ」

 「わからないよ……ともかく世間知らずなんだし、あいつ」

 「だいじょうぶ。だいたい、小さいお(めかけ)さんだか何だが遊びに行きたいって行ったら着いてくるような人なんでしょ? そんな人がそんな格式ばったことにこだわったりしないって。それよりさぁ」

 あざみは美那の背中に回って、自分が自分の背中でやったように、美那の背中の土やほこりを手で払いのけてくれている。

 「美那ちゃんったらおかしいよ。ふだんは殿様を定範のやつとか呼び捨てにしてるくせにさ、そんなに怖がるなんてさぁ」

 「いや、だからさ」

 志穂につづいて「定範のやつ」の話をあざみにも出されて、美那はちょっとふくれる。

 おかげで少しは気もちが落ち着いた。

 「それに、浅梨屋敷で一‐二を争う剣の腕を持ってるんでしょ? 何も怖いことないじゃない」

 だからよけいに怖いんだって。

 だが、そんなことをいちいちあざみに説明している時間はなさそうだ。

 坂の上で人の声がする。

 「ほう、いや、唐国(とうこく)から来なさったとは思わなんだ。わしなどではせいぜい高麗(こうらい)までしか考えが及ばんところだ」

 「なに、高麗も唐国もあんまり違いはないですよ。それにね、琉球(りゅうきゅう)人たちだって、京都や鎌倉のことを歌にうたったりしているんですから」

 平五郎の自慢している声はもう美那もあざみも聞き慣れたものだった。

 「琉球か」

 相手の声は落ち着いた、低い声だ。抑えてはいるが、何か(うた)うような美しい響きがその底に(うかが)える。

 「海の果てのように思えるな。いや、わしもまだまだ知っていることが狭すぎる。どうやら見聞を広めねばならんようだな」

 だが、その美声に、美那は背筋の下に急に氷のかたまりを押しつけられたような震えを感じた。

 早口で言う。

 「ねえっ、あざみ、聞いてっ」

 「うん?」

 あざみの答えはやっぱり間延びしている。美那はあざみの袖を両方ともぎゅっと(つか)んだ。

 「わたしやっぱりだめだ。だから、定範さんに何か聞かれたらあんたが答えて」

 「うん、いいけど……だめってことないよ、美那ちゃんだったら」

 「いや、わたしふだんからこんなんだから、ぞんざいなこと言ってしまいそうなんだ。へたにまた定範のやつとかいっちゃったらさ、怒られたらおかみさんとかにまで迷惑かかっちゃうじゃないか。お願い!」

 「うんもう、しようがないなぁ。さあ」

 あざみに(うなが)されて、美那は拝殿から下ってくる道のほうに体を向けた。

 「それほどいろんなものを見慣れたあなた様なら、ここの菫畑などたいしたものとは思わぬかも知れぬな」

 「いえいえ。美しいものにたいしたことのないものなんてありませんよ」

 「ふん。巧いことを言う」

 その声とともに、その姿が坂の上に現れる。越後守定範にちがいない。美那はその姿を見ないようにさっと目を伏せた。

 「おや」

 「やあ、二人とも、ここで待っててくれたんだね」

 平五郎が呼ぶ。あざみがひょこっと頭を下げたのがわかったので、美那もそれに倣って頭を下げた。

 「さ、殿、お気をおつけになって」

 言ったのはまだ子どもっぽい声をした武士だ。その若い武士が定範を先導して坂を下ってきているらしい。あざみが道をあけるように脇に退いたので、美那も小走りにそれに倣った。

 息が荒くなり、汗が頬に垂れてきているのがわかる。

 最初に先駆け役の若い武士、つづいて下りてくるのが定範で、いっしょに何か安定しない歩きかたで歩いてくるのが平五郎だろう。後ろに一人、武士らしい男がついてきている。

 宮司(ぐうじ)さんが止めてくださればよかったのに、と美那はふと思う。でもそういうわけにもいかないだろう。相手は三郡守護代なのだ。

 定範に従ってきた武士が菫畑の脇に床几(しょうぎ)を置く。定範はどうやらその上に腰を下ろしたらしい。

 平五郎はその向かいに回り、美那とあざみの前に立った。

 あざみが定範のほうに向いて膝をつく。定範を見下す姿勢になるのを気にしたのだろう。美那は定範のほうは見ないで、ただあざみに倣って膝をついた。そして定範の床几のほうに向かって深く頭を下げた。

 「これが安濃のお社の菫畑だ」

 定範が平五郎に言った。

 「きれいな畑ですね」

 「うん」

 定範が機嫌のよい(うるお)いのある声で言う。

 「菫は花の色が濃くて暗く目立たぬ花だと思っている者がいるやも知れん。しかしわしはそうは思わぬ」

 何を思ったか、定範は床几から下りた。そして膝をつき、しゃがみこんで、その右手の指を菫に伸ばした。二本の指で菫の茎をつまみ、そのまますっと上に茎を()でていく。

 美那が息を()んだ。定範の顔を見ないようにするだけでせいいっぱいだ。

 「おい」

 定範が平五郎に声をかけた。

 「はい?」

 「こっちへ来て見るがよい……いや、もっと近づいてよい」

 「これは恐れ入ります」

 平五郎の平気な声がとても場違いなように美那の身を通り過ぎるように感じる。

 「これを見よ」

 平五郎の顔を下からのぞきこんで定範が言った。

 「はい、なんでしょう?」

 「菫の花だ」

 定範は何度も何度もその指で茎や葉を引っぱったり撫でたりしていた。

 「小さい花だが、かわいい花だろう、え?」

 「ほんとですね。近くで見るとほんとうにかわいくて、美しい。それに気高い感じもします」

 「そうだな」

 定範の声の張りが少し(ゆる)んだ。

 「だがな、このかわいくて美しい花は、こうやってわたしがすこし力を入れれば抜けてしまう。幾本でも、わたしがその気になればこの畑じゅうの菫を抜くことだってできる。そうすれば、わたしは花に埋もれて楽しむことはできよう。しかし、そんなことをすれば、その花はすぐに枯れてしまう」

 「ええ、そうですね」

 平五郎のなんの屈託(くったく)もない返事をきいて、定範は大きくため息をついた。

 「若いころのわたしはそれがわからなかった。近ごろになってようやくそのことに気づいた。いや、気づきかけているというのがほんとうかも知れん」

 「はあ、なるほど」

 「こんなたやすい道理なのに……だからな、わしは、今日、この菫の花が咲いているときにこの菫畑に来ることができたのを、嬉しく思っておるのよ」

 美那はもう膝が震えてしかたがなかった。ただ定範が何度もかよわい菫の花を(もてあそ)んでいる姿しか目に入らなかった。

 間が悪かった。定範がふとしゃがんだまま足を前に進めた拍子に、定範のほうに目をやっていた美那と同じくらいの目の高さで目が合ってしまった。

 定範の顔から満足したようなさびしいような笑みがとつぜん消える。

 美那はあわてて目を伏せた。

 遅かったかもしれない。

 「あの娘たちは?」

 定範が立ち上がって膝のところの土を払いながら平五郎にたずねた。

 「ああ、ぼくを……いや私をこのお社まで案内してくれた、市場の女の子たちです。えーと、駒鳥屋のあざみちゃんと、藤野屋の美那ちゃんです」

 「美那……か」

 定範は何かに打たれて何かを思い出したように言った。

 「美那というのはどちらだ?」

 「……」

 「あ、こっちの子」

 美那が黙っているのに平五郎が言ってしまう。美那はさらに大きく頭を下げた。震えが止まらない。

 「市場の葛餅屋さんにいるとってもいい子ですよ」

 横であざみがその美那の様子をじっと見守っている。

 定範は美那のまえにしゃがみこんだ。

 「これ、娘さん、顔を上げてみなさい」

 定範は笑い声を漏らした。朗らかな笑いだ。

 だが、美那にはどうしてもそう聞こえない。

 「はは、怖がらなくてもいい。それとも怖くてあたりまえか? ん?」

 美那は答えようにも声が出ない。

 「そうか、怖いか。それはそうだな。わたしはたしかに三郡守護代で、守護代ということは、武士の棟梁(とうりょう)のはしくれだ。そしてその武士というのは人を殺すのを仕事にしているものだ」

 「……っ!」

 「はは、ちょっと脅しがききすぎたかな? でもおまえのような娘に何もするものか」

 首から背中のまんなかあたりまでまたぞくっと何かが走った。それにつられるように、美那は顔を上げた。

 間一尺もないところで定範と目が合ってしまう。こうなるともう目をそらすことのほうが難しい。

 美那と定範は目と目をしばらく見合わせあった。

 それは美那にとってはほんとうに未来永劫という時間だった。

 「うん、元気そうないい娘だ」

 起き抜けなのか定範の目はまだ赤い。しかし、その目がしだいにうるんでくるように見えるのはそれだけのせいではあるまい。

 美那は、顔と首筋のこわばったのがいっきになくなって、体じゅうに血がめぐっているのをなぜか突然に感じた。

 「うん、孝行者そうな、いい娘だ。どれ、ふた親にはよく仕えているかな」

 美那は返事できなかった。なぜだか知らないが、自分もどうやら泣きかけているらしく、喉がつまって声にならないのだ。

 それでも、美那は返事をした。

 「はい」

 「そうか」

 定範はさっと立ち上がった。それからあざみのほうを向いて、

 「おまえもいい娘のようだな、いや、わしはそう信じるぞ」

 「ありがとうございます」

 あざみははっきりとよどみなく返事して行儀(ぎょうぎ)よく頭を下げた。定範はうん、うんとうなずいた。

 「わしなんかどうなってもいいが、くれぐれもふた親をたいせつにな。親というのはうるさいものかも知れんが、ほんとうは子がなによりもたいせつだと思っているものなのだからな」

 「はいっ」

 あざみのけなげな返事をきいて、定範はほっと息をつき、後ろにひかえていた武士に声をかけた。

 「さあ、そろそろ戻るぞ。評定までに戻らねば、またあの小森式部に説教されねばならん。おおそうだ、襟花(えりか)はどうした」

 「襟花どのは蝶を追いかけ回してお疲れになったそうで、拝殿(はいでん)でお休みになっているとのことです」

 「で、蝶はつかまったのか?」

 「いえ。それで多少しょげておられるようで」

 「はは……人が蝶をつかまえられるわけがない。蝶はどんなに頼りなさそうでも空を飛ぶのだからな。空を行くものに人が及ぼうはずがない。それでは行くぞ」

 定範は坂にかかる。年かさの武士と少年武士がそれにつづいた。

 「うん、もういいよ、ご苦労さん」

 平五郎が美那とあざみのほうをふりかえる。だが美那はいくらやっても膝に力が入らなかった。

 「美那?」

 心配そうにあざみが声をかけてくれた。

 美那は上体をがくっと落として地べたに両手をついた。そして、心配そうにのぞきこむあざみのほうを向いて

 「ああ、疲れたよ!」

 そうして大きくため息をついた。

 三人は定範のあとを追うように拝殿のところまで行くと、定範が神妙に神前で手を合わせていた。目を堅く閉じて手や顔も心もち震えているように見える。こまかく唇を動かしているようだったが、何を言っているのかはもちろん読み取れない。

 後ろでは評定の時間を気にしているのか、気が気でないというようすで家臣と少年武士が立って待っている。

 その向こうにかたまっている、絹の衣裳をまとった女たちが、さっき定範主従が言っていた襟花という娘とその腰元たちなのだろう。

 定範はもういちど深く頭をさげると、待っていた従者のほうへと足早に行った。平五郎たちの姿を見つけ、軽く品よく会釈(えしゃく)して見せる。

 こんどは美那も平然と微笑さえたたえて会釈を返した。

 「さ、ぼくたちも引きあげることにしよう」

 平五郎は美那とあざみにそう言ってから、拝殿のほうに控えていた宮司にむかって声をかけた。

 「宮司さんもありがとう、おかげでいろんなことがわかったよ」

 宮司はもともと細い目をさらに細めてあいさつを返す。

 「こんどこの国に来られたときも、ぜひ寄ってくだされよ。なんせこの歳で話相手ものうて、退屈しておりますからな」

 「はい、ぜひとも」

 平五郎はもういちど会釈して二の鳥居をくぐった。美那とあざみもつづく。美那がふりかえると、宮司は二度ほどうなずいて笑ってくれた。

 「いや、疲れさせちゃったね、悪かったかな。ごめんね」

 平五郎が美那に声をかける。美那は元気に首を振ってみせた。

 「ううん、ちっとも。それより、平五郎さん、宮司さんと何を話してたんだい?」

 「いろんな話さ」

 平五郎は顔を上げた。一の鳥居から洩れて来るまぶしい光に、まだ定範主従の影が揺れて見える。

 「まあ、その話はいつかまたってことにしようよ」

 平五郎はおだやかに言った。


 杉山左馬允(さまのじょう)信惟(のぶただ)――定範が連れていた従者の名だ――は、城館に帰る船のなかで、屋形のなかに入ったままぼんやりと船縁(ふなべり)から外を見ている主君の姿を、(とも)に腰を下ろしてじっと見ていた。

 「お気の毒に」

 「何がお気の毒なのでございますか、父上」

 少年武士がまだあどけない顔を上げてたずねる。信惟は眼を軽く閉じて言った。

 「殿はまだ五年まえのできごとで悩んでおられるのだ。当然のことだがな、しかし殿はあのことをずっと心の重荷として抱えつづけておられる」

 「ああ、牧野の乱ですか」

 息子の少年武士も目を伏せる。

 「牧野の乱もだが、正稔(まさとし)さまと姉の那世(なよ)さますなわち深雪殿(みゆきどの)を島に放逐(ほうちく)して、結果的に殺してしまわれたことよ」

 「しかしあれは島民のいざこざに巻き込まれたのではないですか」

 「同じことよ、同じこと」

 信惟は言って顔を上げ、城館の下で渦巻く波がしらからずっと崖を上へと見上げた。

 光の加減かもしれないが、そこにはなんだか一列に道が刻まれているようにも見える。

 「あの娘はたまたま死んだはずの妹姫と同じ名だった」

 信惟が息子のほうは見ないで言う。

 「あれも美那という名で、しかも生きていればあれぐらいの歳だ。それに、わしはよく覚えておらんが、たしかに似ていると思えば似ていなくもなかったよ。利発そうで、それに元気そうで」

 「井戸に落ちて死んだ姫ですね」

 「そうだ」

 信惟はうなずいて、しばらく目を閉じた。

 「しかし、殿はいまでもまだ、その娘がどこかで生き残っていると信じておられる。そんなばかなことがと口では言いつつ、ほんとうは気にかけていらっしゃるのがわしにはよくわかるのだ。それでああやって幻を見つけようとなさるのだよ」

 「それは殿が悔いておられると――いえ、しかし、殿様がなさったことはまちがってはいなかったはず……どう考えればいいのでしょうか、父上、私にはわかりません」

 少年武士は正直だ。

 信惟はふうっとため息をつくと、微笑して、息子の顔を見た。

 「それは殿のなさったことはまちがいだよ、それはちがいがないし、殿も認めておられる」

 「しかし」

 「まあ聞けや宣十郎。けれどもそれを償うことなど誰にもできはしない、殿ご自身も含めてな。だから、殿は心に重荷をずっと抱えつづけて、そして最後には赴くところに赴かなければならないんだ」

 そう言って老境に入りつつある武士は目を伏せた。

 風に吹かれて、大きな蝶が二匹、ひらひらふわふわと舞ってきて、定範主従の屋形船を追い越して行った。

 それは、あの襟花がつかまえようとして、つかまえることのできなかった蝶なのかも知れない。

 定範は、その蝶が飛び去っていったほうに、ずっと、名残惜しいというように目をやっていた。

― つづく ―