夢の城

清瀬 六朗


何をなすべきか(一)

― 上 ―

 小森式部大夫(しきぶだゆう)健嘉(たけよし)の機嫌はよくなかった。

 弦三郎が急いで屋敷に到着しても身動き一つしない。もう火も入っていないはずの火鉢に(ひじ)を置き、角張(かくば)ったあごに手をやって、だまって弦三郎のほうを見ている。

 弦三郎はきびきびした身のこなしで行儀よく頭を下げた。

 「お呼びをいただき、参上いたしました」

 「うん。まあこっちへ上がれ」

 健嘉はあごのあたりで剃り残した(ひげ)を手でつまむようなしぐさをしながら言う。弦三郎は、言われたとおり、館に上がり、一礼して健嘉の前に腰を下ろした。

 健嘉は軽くうんとあごを動かしただけだ。弦三郎が重ねて
「このように早い時間にお呼びとは、急ぎの件でも出来(しゅったい)いたしましたのでしょうか」
と声をかける。

 「うん? いや」

 健嘉は、目をまばたきさせると、座り直して弦三郎のほうを向き直った。

 それでやっと最初の不機嫌は収まった。少なくとも顔と身のこなしからは消えた。

 「今日は評定(ひょうじょう)は夕刻からなのでな。それに昨日は夜まで評定でおまえに会えなかったし、早めに伝えておこうと思ってな」

 「はい」

 「困ったものだよ、越後守(えちごのかみ)さまも」

 「は?」

 「今日は朝から安濃(あのう)社などに行ってしまわれた、この忙しい折に」

 「何かのご祈祷(きとう)でしょうか?」

 越後守様も連年の凶作に心を痛めて三郡鎮守の安濃社にお祈りにいらしたのだろうか。そんな期待が弦三郎の心を(かす)めた。だが健嘉は興の乗らない声で答えた。

 「そんなはずがないだろう? 遊びだよ遊び」

 「はい」

 弦三郎は不安になる。それは、健嘉の話が自分の聞きたいことから離れていくからでもあり、また、健嘉のことばに、主君の定範(さだのり)を軽んじているような調子が聞こえたからだ。

 「それもあの」

 健嘉は言いかけて、思い直したらしい。

 「まあいい、やめておこう。それよりおまえに伝えておきたいことがある」

 「はい」

 「なんだ? もっと(うれ)しそうにしろ。昨日の評定でいつか話していた徳政(とくせい)が決まったんだ。今年の夏に竹井でかたちばかりの一揆を起こさせ、それにこたえて越後守さまから徳政を命じていただくという段取りになる」

 「はあ」

 「だからもっと嬉しそうにしたらどうだ? これでおまえの村は助かるのだろう?」

 「はい、ありがとうございます」

 弦三郎は控えめに笑顔を作って頭を下げる。

 「ただ、お見受けしますところ、式部さまは何かご心配ごとを抱えておられるご様子で、もしかするとこの徳政実現のために何かご無理をなさってくださったのではないかと、それが気にかかっていたのです」

 「そんなことはない」

 健嘉は小さく首を振った。だが、すぐに思い直したようだ。

 「いや、そうだな。おまえに隠しごとをすることもあるまい」

 健嘉はおもむろに話し始めた。

 「三郡かぎりの徳政というのが難しいところでな、本家には年貢の半分を送ることになっている。それは知っているな」

 「はい」

 健嘉が弦三郎に向かって身を乗り出したところを見ると、ほんとうは最初から健嘉はこの話を弦三郎に聴かせたいようだった。

 「たが、本家への年貢は、守護代からまとめて払っているかたちにはしているが、実際は三郡の金貸し衆に請け負わせて払わせておる。おまえの村ならば、柿原か、柿原が抱えておるなんとかいう勘定方の奉行が取り立てているはずだ」

 「はい、そのとおりです」

 「しかし、秋になってもすぐに年貢が集まるとは限らん。何やかやと理由をつけて納めるのが遅れる。だから年貢の集まりは遅れるほうが普通だ。それから本家に送っていたのでは間に合わぬ。だから、金貸し衆は、自分のところに年貢の米が集まる前に、手もとにある米銭を融通(ゆうづう)して毎年の年貢を払っておるのだがな」

 健嘉は意味ありげにことばを切る。

 「徳政を行うと金貸し衆の手もとに米銭が入らなくなるではないか。これでは本家への年貢に融通する米銭がなくなり、本家への年貢の支払いが滞る」

 「では、その事情を本家に説明して、払いを待っていただけばよいのではありませんか」

 「いや、そういう話ではないのだ」

 健嘉は首を振った。そして目を細くした。

 「大和守(やまとのかみ)さまがそうやってわざと金貸し衆に年貢の払いができなくしてしまえばよいとおっしゃってな、それで困り果てているところなのだよ」

 「はあ」

 弦三郎は小さくため息をついた。

 「しかし、それでは大和守さまとてお困りになるのではありませんか? 大和守さまは竹井の年貢をすべて任されておられるはずです」

 「大和守さまのところは十分に蓄えがあるので困りはしないそうだ」

 健嘉が吐き捨てるように言う。

 「問題は玉井の金貸し衆だ。どれもこれも小さな倉を持っているだけで、そんな蓄えはありはしない。だから、玉井の金貸し衆を徳政と年貢の件で困らせて、年貢が払えなかったという理由で年貢請負のお許しを取り上げさせるつもりなのだ」

 「それは玉井の金貸し衆への(いや)がらせでしょうか?」

 大和守柿原忠佑(ただすけ)が、玉井の人たち、とくに市場の商人衆や港の衆を嫌い、ことあるごとに厭がらせをしようとしていることは、小森式部から何度も聞いていた。それに、市場に住んでいると、市場での柿原忠佑の評判がひどく悪いことがよく伝わってくる。それもそのことと関係があるのかも知れない。

 だが、健嘉は大きく首を振った。

 「厭がらせなどというかわいいものではないのよ。そうやって玉井の金貸し衆から年貢請負のお許しを召し上げて、かわりに大和守さまが玉井の年貢をすべて請け負われるおつもりなのだ」

 「それは!」

 弦三郎は目を見開いたままことばに詰まる。

 柿原忠佑は蓄えがあるから困らないと言ったという。どうしてそんなに「蓄え」があるか。最初から利息が高いうえに、取り立てが厳しいからだ。

 ほかの金貸しならばもう少し融通を利かせてくれるところを、柿原党の連中は、期限が切れたらすぐに米銭を取り立てに来て、米俵でも銭でも無理やりにさらっていく。それがなければ質物を取り上げ、物がなければ人質に縄をかけて引っぱっていく。ほんとうにいやがるのをむりやり引っぱっていくのだ。子どもでも女でも容赦はしない。その取り立ての厳しさは弦三郎は村にいたころから何度も実際に見聞きしている。

 いま、自分は、この小森式部大夫健嘉をあいだにはさんで、あの柿原忠佑と向かい合わされている。たった一人どころか、出水で田も畑も流されてしまった村の衆を背にしてだ。

 自分はその村の衆を強欲で醜い柿原忠佑から守らなければいけない。

 弦三郎は身顫(みぶる)いした。

 それに、あの市場は、市場で毎日を楽しく暮らしている連中は、当四郎や当四郎の仲間たちは、柿原が玉井の金貸しまで独り占めで行うようになったらどうなるのだろう。

 そして、あの藤野の美那という町娘は?

 「そんなことをすれば玉井の町は乱れるだろうし、町が乱れれば三郡全体が立ちゆかぬ。だからどうしても止めねばならぬのだ」

 健嘉はそう話すと、弦三郎のほうには目をやらないで大きくうなずいた。

 「は」

 弦三郎は暗い小さな声でそう答えただけだった。


 船は安濃の船着き場を離れて城館(しろやかた)の下へさしかかっていた。

 美那は(みよし)近くのふなばたからだらんと手を垂らしてぼうっと外を見ている。遠くを見ているのかすぐ近くを見ているのかもわからない。どこも見ていないようでもある。

 植山平五郎は、さっき話しすぎたせいか、いまは黙って船の(とも)のほうに座っている。ときどき安濃の社を振り返ったり、前のほうを見たりして、何かひとりごとを言っている。何を見て何を言っているのか、こちらもわからない。

 「どうしたの? まだ眠いの?」

 あざみが美那の横から話しかけた。

 「うん?」

 美那が小さくうなずいてあざみのほうを見る。

 「いや、さっきのこと、おかみさんになんて言おうかって考えてんの」

 「さっきのことって、あの……定範さんに会ったこと?」

 「そう」

 「うーん」

 あざみが小さく(うな)り声を立てる。薫にどう言おうかということを美那といっしょに考えているのだろうか。

 そうではなかった。

 「そういえばあのときの美那ちゃんおかしかったね。定範さんに会うってだけであんなに慌てて取り乱すなんて思わなかったよ」

 「そりゃ取り乱すでしょ。人を何だと思ってんの?」

 思い出して笑いながら言ったあざみを美那はわざと目を細めて見返す。

 「あざみこそよくあんな平気でいたね。相手は三郡守護代のお殿様だっていうのに」

 「そりゃそうよ。だって、あのひとは唐国渡りの船頭の平五郎さんと話すのがおもしろかっただけなんだよ。ついてきている市場の娘のことなんか最初から相手にしちゃいないでしょ? 気にしすぎなんだよ、美那ちゃんは」

 「まあ、そうなんだろうけどねぇ」

 美那は大きく息をついて、あざみの顔を見上げた。

 「わたしなんかさ、市場でも浅梨(あさり)さまのお屋敷でも、あいつの悪口言い散らしてるだろ? あいつのこと、悪く言うのが癖になっちゃっててさ。それにこないだは中原村の地侍(じざむらい)とあんな悶着(もんちゃく)起こしたし。もしかして、城館のほうから目をつけられてるんじゃないかとか、よけいなこと考えてしまうんだよねぇ」

 で、ふんっ、と鼻から笑いを漏らす。

 「やっぱりふだんから人を口ぎたなく言うのが身についてるとこういうときに困るね。あざみみたいに育ちがいいほうがいいよねぇ」

 「育ちなんかたいして変わらないと思うけど? お隣どうしなんだし」

 「いや、あざみのほうが育ちがいい。おかみさんもあんなにいい人なのに、なんでわたしばっかりこんなのなのかなぁ」

 ほんとうに困ったことのように美那は言う。あざみは答えず、美那と並んで外を見ていた。

 船は城館の横を回り、崖の下を通り過ぎている。

 「ねえ、美那ちゃん」

 「なに?」

 「さっき会ったあのひと、この上に住んでるんだよね」

 あざみは切り立った崖の上を見上げた。この上には三郡守護代の居館の三層の楼閣があるはずだ。

 美那も同じように、口を半分開いたまま、崖の上を見上げた。

 でも、下から見上げても、(かしわ)の木の枝が川面に大きくせり出しているのが見えるだけだった。

 「そうだね」

 「下から見上げてもどこに住んでるかわからないね」

 「ここの城館は川のほうから見上げてもどこに何があるかわからない造りになってるんだ」

 ちょっとことばを切ってから、美那はつづけた。

 「初代の正興(まさおき)公がこの城館を造ったときにそうしたんだってきいてことがあるよ。下から見てすぐに造りがわかったら川から攻められたときに困るからって」

 「ふうん」

 あざみが感心したように言う。

 「やっぱり浅梨さまのお屋敷に通ってるといろんなこと知ってるんだね」

 「まあね」

 美那もちょっとうなずいた。

 「でもさ、越後守定範って、もっと怖い人だと思ってたよ。なんか考えてたのと違ったような気がする」

 あざみは、たぶん最初からそれが言いたかったのだ。美那は笑いを含んで振り返る。

 「そうだね」

 美那はまた少しことばを止める。

 「あのひとがあんなこと言うなんて」

 「うん?」

 「だからさ、平五郎さんに言ってたじゃない、(すみれ)の花を引っぱって抜くのは簡単だけど、そんなことしたら枯れてしまうって」

 「うん」

 あざみは少し首を傾げる。

 「あのちょっと前にね、居眠りしてるときに、わたしもちょうどおんなじこと考えてたんだ」

 「美那ちゃんと殿様がおんなじようなことを考えてたってこと?」

 「そういうこと」

 美那はふなばたに両方のひじをついて大きくため息をつく。

 「そんなに気が合うわけないんだけどなぁ、わたしとあのひととでさぁ」

 「あんがい合うのかも知れないよ」

 「そうだね」

 美那はわざと子どもみたいに口もとでいっぱい笑いを見せて返事した。

 まもなく船は川の流れに沿って大きく曲がり、城館の東側の崖に安濃の森の社は隠れて見えなくなった。

 崖は三層の主楼のある北側がいちばん高く、それから南に向かうにつれてなだらかに低くなっている。南のいちばん端は町と同じ高さまで低くなっていて、川から城館の西側に流れを分けた堀をはさんでそのまま町につながっていた。

 その南端に城館の船だまりがあるのが見える。

 もやってある船のどれかが、いま定範が安濃まで乗ってきて、また乗って帰った船なのだろう。

 ここから屋敷町を通り過ぎると市場の船着き場だ。美那は身を起こした。

 「わたしね」

 美那があざみに言う。

 「うん?」

 「定範さんもだけど、正興公って人のこと、ちょっと考えてるんだ」

 「うん」

 「あそこに菫の花を植えてあるのは、正興公が好きだった花だからっていう。その正興公って人は、ここの城館を作った人でさ、川のほうからは絶対に上がれないように、攻められてもなかなか攻め落とせないように考えて、あの城館を作った人だよ。菫が好きで、それで武略に長けたお方、そして、さっきのあの定範って人のお父さんなんだ。どんな人だと思う?」

 「さあ」

 あざみの返事はそっけない。

 「わたしたちには想像もつかないようなひと――なんだと思うし、それでいいんじゃない? たぶんあんまり関係ないよ」

 「うん」

 美那はうなずいた。

 「そうだね」

 こういうときに一六歳の市場の娘はどんなふうに笑えばいいんだろう、と美那は考えている。


 市場の船着き場につくと桃丸と薫が待っていた。美那とあざみが船を下り、桃丸と港の衆とが船に乗る。植山平五郎といっしょに港に帰るのだろう。

 「越後守さまに会ったんですね」

 船着き場から花御門(はなみかど)小路に戻る途中で抑えた声で薫が言ったので、美那は、驚きもし、拍子抜けもした。

 そのことを薫にどう伝えようかとずっといろいろ思案していたのだ。

 「うん」

 美那は何も特別に言うほどのことではないというように軽く返事する。

 「でもどうして知ってるわけ?」

 「桧山(ひやま)の若殿が聞きつけて、慌てて知らせてくださったんですよ」

 「ああ、それで桃丸さんがいたんだね」

 「外であんまり気安く呼び捨てにするんじゃありません」

 「あ、ごめんなさい」

 薫は少し笑って見せる。

 「それで、どうでした? 定範さまとお会いして」

 あざみが二人の少し後ろでほんとうにかわいいえくぼを作って笑いかけている。

 「なんともなかったよ。うん……さすがに慌てたけど、なんともなかった」

 最後の「なんともなかった」に力をこめる。薫は聴いて小さくうなずいた。

 「まあ、どんなふうに慌てたかはあざみが話してくれるんじゃない?」

 で、美那は話したくてしかたがないというように笑っているあざみのほうに顔を向ける。

 しかし、そのとき、薫が足を止めてくるんと後ろを向き、あざみと美那のほうを振り向いた。

 「はい?」

 その薫に危うくぶつかりそうになって、あざみが小さく声を上げる。

 「二人ともわかっていると思いますけれど、越後守定範さまはおしのびでお参りにいらっしゃったんですからね」

 「はい」

 「その話が流れれば定範さまもお困りになるでしょうし、それがもとになって城館から市場や港が探りを入れられることになったらわたしたちだって困ったことになりますからね」

 「はい」

 あざみと美那が仲よく(そろ)ってうなずいたので、薫は安心したというようにまた先に立って歩き始めた。

 「そうだよね」

 あざみが美那に肩を寄せて小さな声で言う。あざみの長い髪が美那の肩にまでかかってくる。

 「なに?」

 美那も小声でこたえた。

 「お(めかけ)さんの女の子がお社にお参りしたいって言ったからついてきた、なんて、たしかに広まったら困る話だよね」

 あざみは小さい声で言って、ほかに言いふらせないぶん、美那の耳もとでいっぱいにくすぐったく小さく笑った。

 「それはそうと、美那」

 急ぎ足気味に先を歩く薫が振り返らないまま言う。

 「あなたを訪ねてお友だちが見えてますよ」

 「お友だち?」

 美那は自分の友だちと呼べそうな相手を思い浮かべてみた。女の友だちというといまいっしょに歩いているあざみぐらいしか思い浮かばない。

 「男?」

 どうせ浅梨屋敷の弟子のだれかだろうと思った。もしかするとあの池原弦三郎かも知れないと考えたが、すぐに打ち消す。弦三郎は美那の家を知らないはずだ。ところが薫は
「いいえ、女の人ですよ」
と言う。

 「えっ? だれだろ?」

 「昨日あなたがを橋桁(はしげた)落としたときにいっしょだったひとですよ」

 「わたしが落としたんじゃないよ」

 美那は勢いよく言い返した。でも薫は平気だ。

 「同じようなものでしょう?」

 となりであざみが笑いかけているのだが、笑い声を漏らすのはけんめいに抑えている。

 あの件にはあざみも関わっている。だから、こんどは笑ったら本気で美那を怒らせるとでも思ったのだろう。

 それにしても、橋桁を落とすのと落とされたのとでは、ぜんぜん同じようなものではないと思うんだけど。

 思うんだけど、薫にそうは言えなかった。薫はつづけた。

 「名まえはたしかおさとさんと言ってましたね」

 「おさとちゃんってどの子だっけ?」

 美那があざみを振り返る。あざみはなるだけ取り澄まして答えようとした。

 「ほら、宿で働いてる子」

 そこで止めたのは、先を話すと思い出して笑ってしまいそうだからなのかも知れない。

 あざみってよく笑う子だな、と、美那はふと思う。

 「ああ。わたしを落っことそうって言い出した子だね?」

 「そう。でも悪い子じゃないよ、悪いことはしたけど」

 悪いことをする子を悪い子と言うのではないのだろうか?

 「悪い子じゃないことぐらいわかってるよ。だいたいわたしが弦三郎さんに助けてもらっていきなりぶち(たた)いたのが騒ぎのもとなんだ」

 このけなげなことばは半分は薫に聴かせるものだったが、薫はせわしなく早足気味に歩いて肩を揺らしているだけで、答えなかった。

 おかみさんって、いいな、とふと美那は考えた。

 何をやっても品が悪くならない。大声を立てて怒ったりもしないし、何があっても慌てないし、立っているときも座っているときも歩いているときも背筋を伸ばして顔をきちんと上げている。

 自分ぐらいの歳のとき、このひと、どんなひとだったのだろうと思う。

 きっと、自分にも似ていないし、あざみにも似ていない、美那なんか会ったこともないような立派な若い娘さんだったんだろうな、きっと。

 それに、自分がこのおかみさんの(とし)になったとき、どうなっているかと考えると、残念ながら考えもつかない。つかないけれども、おかみさんみたいにりっぱで品のいいひとにはなってないように思う。

 「あ、おさとちゃん」

 おさとを見つけて声を上げたのはあざみだった。藤野屋の店先と駒鳥屋の店先のちょうどあいだぐらいで立っている。

 あざみに声をかけられて答えようとしたけれど、美那の顔を見てその動きを止めてしまう。そしてそのまま、美那のほうに目を上げようとしながらうつむいてしまった。

 「何やってんだろ、あの子?」

 昨日、いっしょに大騒ぎをして服を洗っていたおさとにしては、ちょっと様子がおかしい気がした。


 その日の浅梨左兵衛尉(さひょうえのじょう)治繁(はるしげ)は機嫌が悪かった。最初はそうでもなかったのだが、だんだんと機嫌が悪くなってきた。

 いま治繁の前で鍋屋の隆文(たかふみ)が銭屋の元資(もとすけ)と勝負していて、それがまた治繁の不機嫌のもとになっている。

 隆文は体の動きがすばやい。元資にめったやたらに打ちかかって行く。元資は自分の木刀でそれを払いのけるのでせいいっぱいだ。少しずつ後ろに下がっていき、とうとう屋敷の館の角に追いつめられる。治繁はそのありさまを見て口の端を横に引き、難しそうに目を細める。

 ところが、隆文は、元資を追いつめておきながら、とどめを打ち込むのが遅れた。元資があまり定まらない手つきで木刀を突き出す。隆文はそれで胸を突かれると
「あ、あ、あれ?」
などと声を漏らしながら仰向けにひっくり返った。元資は腰を引いたまま、その隆文が倒れたのをただ見ている。

 治繁は館から置き石を伝って地べたに下り、急がず、大股に二人のほうに歩いて行った。そして、自分の木刀を構えると、地面に倒れたまま起きあがっていない隆文の胸の横あたりに一つ打ち下ろし、それから二歩で元資のところに踏みこんで元資の引けている腰の横をやはりすばやく打ちつけた。

 隆文は「うぎゃん」と打たれた犬のような声を上げ、打たれたところを抑えながら立ち上がる。元資も腰を伸ばして、治繁のほうを向いて所在なげに立った。

 「なんて勝負しやがる!」

 治繁は怒鳴り、後ろを向いて、館前に並んでいる弟子たちを、一人ひとり吟味(ぎんみ)するように、でもすばやく見回す。

 「おい美那!」

 「はいっ!」

 美那は背筋が冷たくなるように感じ、その勢いで大声で答えて立ち上がった。治繁はいまいましそうに舌を打つ。

 「それと弦三郎」

 「はい」

 弦三郎は涼しい顔で姿勢よく立ち上がる。美那はその立ちかたを見て首筋の後ろあたりからいやな感じが広がってくるのを感じた。

 「気合い入れて試合して見せてみろ。だらだらしやがったら二人とも池に叩きこむぞ」

 「はいっ!」

 美那と弦三郎は立ち上がったときの間合いのままで木刀を構えてにらみ合う。しばらくはお互いの出方を探っている。

 だめだ、と美那は思う。治繁はこういう勝負をいちばん嫌う。いかに油断なく目の前の相手を見ているといっても、刀を持って緩くしか動かないでいたら、どこかから矢を撃たれたら避けられないからだ。

 美那は身をかがめて弦三郎のほうに向かって走りだした。歩幅を短く走って、一挙に間合いを詰める。それを見た弦三郎は美那から見て左によけた。

 身をかがめている美那の背中側に回りこみ、背中から斬りつけるつもりだろう。

 「ふん」

 美那は刀の柄を右の胸の下あたりに引いて持った。身を起こさず、走る向きも変えず、歩幅も変えないで走る。もう五歩あまりのところで弦三郎が美那を行き過ぎさせて背中に回ろうと足を置き換えたのが見えた。

 美那はすばやく刀の柄を屈んだ胸の前で自分の左手に渡す。弦三郎の動きが早い。持ち替えた刀を引いている時間がない。

 「えいもうっ」

 美那は短く右に飛んだ。弦三郎はその美那と行き違いざまに美那の背中を打ちつけてくる。美那はその瞬間に逆手で左手の木刀を払い、弦三郎の膝の後ろあたりを後ろから斬りつける。もう少しで当たるところだった。けれども弦三郎は美那の動きに気づいてさっと小さく跳び、両足を後ろに引く。美那は、剣先が空を切った反動で体がくるんと回り、そのまま転んだ。そうなるのはわかっていた。美那は剣を投げ出して地面をひと転がりする。転がって俯伏せになったところですばやく膝をついて起きあがる。さっき投げ出した剣の柄を右手で掴む。振り返ると、向こうでも弦三郎が前に転びかけたところから体勢を立て直したところだった。

 間に合わない。弦三郎がまだ体をぐらつかせているあいだにもういちど低いところから打ち込んでやろうとした。でもいまからでは遅い。

 いや、かまわない。美那は弦三郎が体を立て直しているのに気づかないふりで、やはり身を低くして突き進む。弦三郎は慌てたらしい。体を後ろに引く。後ずさりする。美那は体を起こし、左手を胸の前に横に置きながら、右手で木刀を振りかざした。弦三郎も背を伸ばし、木刀を体の前に構えた。

 美那の刀を払うか、それとも先を制して美那の左側に打ち込んでくるか。

 美那は弦三郎と行き違う一歩手前でまた右へ避けた。美那から見て弦三郎の右に回りこむ。打ち込んで来れば剣をはずせるし、剣を払ってくれば逆に受け止めることができる。

 だが弦三郎は同じ側に身をずらせてきた。

 「なに?」

 考えていない動きだった。美那は自分の体ごと弦三郎にぶつかってしまった。弦三郎がぶつかられることがわかっていて身構えていたのか、それともたんに美那のほうが体が小さいからかはわからないが、弦三郎の体で美那の体は跳ね返ってしまう。弦三郎は
「やあっ」
と声を上げて打ちかかってきた。美那は木刀の柄に近いところでかろうじて受けとめるが、苦しい体勢だ。

 右手だけで力任せに押し返す。それからあとは乱闘だ。美那も弦三郎も少しでもすばやく相手に打ちこもうとする。何度も転びそうになり、何度も刀を取り落としそうになり、それでもやたらと刀を打ちつけつづける。こうなると残念ながら背の高い弦三郎のほうが有利だ。美那はしだいに池のほうに追いつめられていく。池のほうで見ていた弟子どもが逃げて場所を空ける。おかげで池まで何歩か余裕ができたのは確かだが、負ければまた池に背中から転がりこむ。

 そんなことを考えた隙を()かれる。弦三郎の剣先が左肩に迫る。右足を斜め左前に踏み出してなんとか木刀で受ける。左足を右後ろに引いて木刀を引く。そのまま横に払えば弦三郎の脇腹に斬りつけられる。弦三郎はもういちど左の肩口を狙ってくるだろうが、自分のほうが速い。

 だが違った。弦三郎は美那が横に払ってくる木刀を上から力いっぱい叩いた。

 「読まれた?」

 美那の腕に痛みが走り、そのあとを追うように(しび)れが走った。身をかがめ、剣を左手に持ち替える。だが間に合わない。弦三郎の剣の下で美那のかがめた背中が無防備になっているはずだ。

 ぶざまな勝負をしてしまったと思う。

 「あ?」

 いつまで経っても弦三郎は剣を振り下ろしてこない。美那は身をかがめたまま左手で剣で弦三郎の膝のあたりを払おうとした。だがさっき払おうとして刀を叩かれている。美那は途中で木刀を右手に持ち替え、左手を添えたまま弦三郎の足首に突き入れた。

 弦三郎は足を引いて避けた。けれども足首あたりを狙われることは予想していなかったらしい。長身の弦三郎が右へ転びかけるのがわかる。美那は膝をついて腰を伸ばし、左手で刀を上から下へと払った。

 こんどは美那が弦三郎の木刀をたたき落としていた。拾おうとした弦三郎の喉元(のどもと)を狙う。弦三郎には防ぎようがないはずだ。

 美那は手を止めたつもりはなかった。

 けれども、気がついたときには弦三郎の喉元を突く手が止まっていた。

 この弦三郎の主君――さっき昼間にたまたま会ったばかりの越後守定範のあの思いがけない顔とことばを思い出してしまったのか?

 それともここに出てくる前に会ったおさとのことを思い出したのか?

 美那は慌てて弦三郎の喉元にもういちど木刀の先を突き入れようとした。だが、その前に、腰の後ろに焼けるような痛みを感じて、美那はその場にしゃがみこみかけた。

 弦三郎も痛みをこらえるように顔をしかめて、それでも立ち上がっている。美那も痛みをこらえて立ち上がった。

 「なんだ、おまえらはっ!」

 浅梨治繁の憤りはさらに募っていた。

 「二人とも最後に手加減していいほどの上手じゃないんだぞ! 相手に(あわ)れみかけてるあいだに自分が斬られるんだ! 自分の腕も考えずに思い上がるのもいい加減にしろっ!」

 美那も弦三郎もうなだれて声もない。

 「今日は、これで終わりだ。まったく、どいつもこいつも、めいっぱい気合い入れて気合い抜きやがって」

 弟子のだれも何も言わない。ふだんなら隆文が取りなすところだが、隆文もさっき治繁の木刀でぶっ叩かれたばかりだから、声を立てられないらしい。

 「いいか。なんか心配ごとがあるのかも知れないがな、ほんとにいくさとなれば、相手はこっちの心配ごとのことなんか気にしちゃくれないんだぞ。それに、いま目の前でやらなきゃならないことに身を入れることもできないでいりゃな、心配ごとってやつはますますこっちの身に絡みついてくるものなんだ。わかったか!」

 治繁は憤然と館に入り、そのまま奥へ姿を消してしまった。

 弟子どもは、別に悪びれもせず、大きく息をついてそのまま帰り支度に入る。

 「弦三郎さん、ちょっと」

 美那は弦三郎に声をかけて、弦三郎がわけもわからずにいるうちに、池の脇の植えこみに袖から引っぱりこんだ。

 「弦三郎さんって撃ち合ってるときは隙がないくせに、こういうときってなんでこうすなおに引っぱられるんだろ?」

 美那はさっきのおさとのしんけんな顔を思い浮かべながらそんなことを考えた。

― つづく ―