夢の城

清瀬 六朗


桜の里(五)

― 1. ―

 薫は白木の門の下まで来て歩みを止め、後ろを振り返った。

 ここから見ると玉井の野原を見渡すことができる。正面遠くに雪消(ゆきげ)山が見え、その左には村井峠に通じる山並みがつづく。南には、雪消山からつづく山並みを遮って、手前に険しく八龍王山がそそり立っている。

 見下ろすと、いま出てきたばかりの市場町が広がり、その北に屋敷町の屋敷が屋根を連ねている。

 市場町は町は全体に土埃の色に汚れている。けれども、その汚れた町の上のところどころに柳の若葉や海棠や桃の花の薄紅色が散らばっていて、それは町全体の薄汚れているのにはかまわず、自分の色の鮮やかなのをその町全体に撒き散らしているように見えた。

 その市場町の華やぎに較べると、屋敷町は、土埃色に汚れてもいないかわりに、華やいでも見えない。海棠や木蓮の花が咲いている屋敷もあるけれども、何か屋敷の重々しさを乱さないように片隅に慎ましげに咲いているようだ。屋敷町は町の全体が黒く沈んで見える。

 市場町と屋敷町の向こうに玉井川の流れが見える。町は川のこちら側だけに広がっていて、その向こうは荒れ地だ。荒れ地は(もや)に沈んでいる。でも、その荒れ地にも、島のように浮き上がっている森がいくつもある。森の中からは寺の塔が空を指しているところがある。それは森ではなくて、人の住んでいる村なのだ。

 しばらく前に、あの子は、安濃(あのう)さまの森からその町の東側を見下ろして、どこにどんな村があって、どの山がどういう名まえかを、(とう)国から来た船頭さんに話して聞かせたと得意そうに話してくれた。

 そのとき、何か危ういような感じがしたのだ。

 危ういと言っても、何かの危うさが身にさし迫っているという危うさではない。あの子が安濃様の社にいるところに、何の気まぐれか、越後守(えちごのかみ)定範(さだのり)が訪れて来て、あの子が定範と出会ったと聞いたときも、たぶん何ごとも起こるまいという気もちがあった。

 たしかにあの気性だからすぐに何か悶着(もんちゃく)は起こす。そんなことで薫はたしかにずっと気を揉んではいる。けれども、あの子は、守らなければならないところはこれまでも守ってきたし、これからも守るだろうと薫は信じている。

 それよりも、あの子がその荒れ地の村に自分で出向きたいと言ったときに、その危うい感じが自分に近づいてきたように薫は感じた。

 まだもっと大きい「危ういこと」が先にあって、そちらへと過たず一歩進んだように思ったのだ。

 ――あの子が? 自分が?

 それともほかの何かが?

 それに、その「危ういこと」へと進みつづけると、いったい何が起こるのかは薫にはわからない。それは急に起って激しい痛みを感じさせるようなことではたぶんないと思う。気がつかないうちに進んで、いつか見回してみると暗い窪地のなかにいて外に出られなくなっているような、そんな恐ろしさだ。

 薫は門のなかに向かってまっすぐに手を合わすと、それまでと同じように穏やかに世親寺(せいしんじ)の境内へと歩んでいった。


 関所番の男は、昨夕や今朝とはまったく違って、にこやかに一行を迎えてくれた。

 「ほう、(ふな)を釣られたのですか。で、どれほど釣れましたか?」

 「中ぐらいのが二(ひき)と小さいのが五尾」

 さわがまたにこやかに(うれ)しそうに応じている。

 「ほう、それはまた」

 関所番は感心している。

 「あたたかくなってきたと思ったら、鮒も元気に動き出したようで」

 隆文(たかふみ)がそのさわと関所番のやりとりを眠そうな目で横目で見ている。

 「ええ。みみずもたくさん元気に動き出したようで」

 さわが関所番にことばを合わせる。関所番は何でもないように
「おお、それはよかった」
と答えた。

 「みみずが黙って動かない年はやっぱり何のかの言ってうまくいかないものですからな」

 「そんなものなんですか?」

 「ああ、たとえば」

 関所番が身を乗り出しかけたところに、開け放してあった後ろの戸口から入ってきた者がある。

 関所番はちょっとだけ残念そうな顔をした。が、すぐに、何のおもしろいこともないように(かたち)をあらためる。

 「安総(あんそう)です。中橋様のところから参りました」

 入ってきたのはまだ幼さの消えない尼さんだった。まん丸い顔に、長くてぱっちりした目をしている。

 「ご苦労です」

 関所番と安総尼は何かあらたまったあいさつを交わす。

 「ご使者の件でしょうか?」

 「はい」

 「で、中橋様は何と仰せになりました?」

 「明徳教寺(めいとくきょうじ)にお連れするようにと」

 「それではお願いします」

 関所番は座ったままお辞儀をした。

 「ご使者はそちらの方三人です」

 「わかりました。では」

 安総は、「では」の声一声でちらっと「ご使者」たちのほうを見た。たまたま美那と目が合う。美那に合図するように小さく頷いたまま、安総はしずしずと歩いて関所の小屋の外に出て行く。

 美那が振り返ってみると、関所番が苦いような顔で笑ってその安総の後ろを見ていた。


 白木の門をくぐると、右側に三重の塔が、左側に瓦屋根の本堂が見える。三重の塔は柱の色も黒ずんでいかにも古く見えるが、本堂は門と同じように白木づくりでまだ真新しい。薫は、本堂に美しく腰を折ってお辞儀をすると、本堂よりさらに左に向かい、木立のあいだの細道を下っていった。

 木立の上はまだまばらだった。木に葉が茂っていないからだ。下り坂の踏み石を用心しながら下る。少し下ったところで目の前が広がる。

 この一角が世親寺の墓地だ。寺よりは少し低く、南に開けたところにこの墓地は造られている。

 墓地の西には山が迫っている。その山にいちばん近いところに、二つ、石垣に囲まれて大きな石の五輪塔が並んでいた。

 右側の五輪塔は(こけ)がむしていて、石の半分を黒ずんだ苔が覆おうとしていた。その左少し前の塔は、右側の塔より少し小さいめだったが、苔はむしておらず、前面の梵字(ぼんじ)の刻み跡も新しい。

 苔むしたほうが玉井春野家の祖正興(まさおき)公の墓、左側が二代目の正勝(まさかつ)公の墓だった。

 その前に小さな墓標がたくさん並んでいる。四角い墓石、丸い墓石、ただ卒塔婆(そとば)のかたちに削った木の柱を立ててあるだけのもの、ただ土が何となく盛って草が抜いてあるだけの場所、いや、草が茂ったまま枯れてそのままになって、その中から墓石が頭の上だけを見せているところもあった。

 それは、さっき、山門の前から見た市場町の乱雑なありさまにもよく似ている。

 二人の殿様は、亡くなってから、そんな死者たちの町を見下ろしているのだ。

 いや、そこの墓をすみかとしている人たちばかりではない。二人の殿様の墓の下には玉井の町と港が広がっているし、遠く牧野・森沢の村々まで見渡せる。

 薫は、まず正興公の墓に、腰を折ってていねいにお辞儀し、それから足を踏み直して体の向きを変え、正勝公の墓に同じように頭を下げた。

 そうして古びた墓石の前に腰を下ろした。

 小さな墓で、正興公の墓以上に苔に覆われ、全体に黒ずんでいた。けれども、石をそのまま墓石にしたのではなく、きちんと四角くかたちを整えて作られた墓石だった。

 薫はその墓の前に膝をつき、手を合わせて頭を下げる。

 空は曇って、薄日すら射さない。

 薫はしばらくそのままの姿でじっと目を閉じていた。

 庫裡(くり)から尼が一人墓地のほうに下ってきた。

 狭い歩幅でしずしずと薫のそばへと歩いてくる。薫はその尼に気づいているのかいないのか、それまでと同じようにお祈りをつづけている。

 「熱心にお祈りですね」

 尼が気品のある、どこか潤んだ声をかけた。

 薫は、慌てることなく、顔を上げ、目を開き、立ち上がって尼の顔を(かえり)みた。尼の顔を見て微笑し、無言で頭を下げる。

 尼も同じように頭を下げた。皺の刻まれはじめた顔に懐かしそうな笑みを浮かべる。

 「私がお祈りして差し上げましょうか」

 尼がいう。薫はもういちど無言で頭を下げた。

 尼は小さく頭を下げ返すと、薫の前に進み出た。そうして経文を唱え始めた。それまでの内にくぐもったような声から転じて(あか)るく鋭く響きとおる声だった。

 薫は少し後ろに退き、自分よりもずっと背の低い墓石に向かって頭を下げている。


 自分とたいして歳も違わないようなのにこの人はどうして尼になったのだろうと美那は思う。

 その安総尼はむだなことは何も言わず美那と隆文とさわを明徳教寺へと案内した。関所のあった森を抜けると、ふいに村が姿を見せる。昨日、城館跡から村を見て、そこに村があることは知っていたけれども、森の木の茂みを抜けたところでいきなり姿を現す村は、遠くから見たときよりもずっと大きく、高いところから見下ろしているように見えた。

 「これは……」

 隆文が言った。美那がちょっとその顔を見上げる。しかし、安総とさわが振り返りもしないで歩いていくので、隆文はつづきを言わなかったし、美那も尋ねなかった。

 川中村は急な崖の上に村が広がっていた。

 安総は、その崖に斜めについた道を進んでいく。崖の上には土塀が見えるだけで、その上がどうなっているかはわからない。

 戦いになれば、この崖の上から矢や火矢を放たれれば、この坂を上っていくことはできない。しかも土塀の向こうがどうなっているかは見通すことができない。

 この村は川上村のように(ほり)で隔てられてはいないけれど、それ以上に守りの堅い村のようだった。

 道は途中で折れ曲がり、最初に進んだのとは反対の向きへ上がる。土塀の切れ目に入り口がある。その土塀の切れ目のところは、坂を上りきってから少し下るようになっていて、そこで土塀が切れていることは下からは見通せない。

 隆文の気が張りつめているのが美那にはよくわかった。

 いったん下って土塀の切れ目を抜けた道は、もういちど石段を上に上がる。

 「なんだこれは?」

 「明徳教寺の墓地です」

 隆文が驚いて上げた声に安総は後ろを振り向きもせずに答えた。歩きかたと同じで、少しも揺れのない声だ。

 たしかにそこは墓地だった。小さく貧弱な墓石が並んでいる。道はその墓地の周りをめぐるようについている。緩い上り坂だ。その緩い上り坂を上りきったところに松林がある。暗い松林を抜けたところから急に村が始まっていた。

 人通りは少しもなかった。それぞれの家が高い塀をめぐらせている。

 「ついてきてください」

 「おう」

 安総尼が言うのに隆文は軽く答えた。

 安総尼は先頭に立って、足音もほこりも立てず、でも早足で歩く。道は何度も分かれ、右へ曲がったり左へ曲がったり、曲がったと思うと少し行ってまたもとのほうに戻ったりを繰り返した。そのあいだに小刻みに段差がある。しかも、道は何度か林や薮のなかを横切った。林の中から鶏が道に出てきて一行の前を横切っていく。でもあいかわらず人の姿はなかった。

 何度も曲がり角のある道を通って、いい加減、太腿のあたりが熱く感じてくる。道はまた松林に入った。その林を抜けたところに、木の枝の下に隠れるようにひっそりと瓦葺きの門があった。

 「明徳教寺です」

 「ああ、鐘のあるところね」

 美那がきいてみる。安総尼は少しも笑いもせずに
「そうです」
とだけ答え、山門をくぐった。美那と隆文とさわもついていく。

 山門をくぐって右手に小さなお堂がある。柱にはもともと()が塗ってあったのだろうけれど、その色は褪せていた。安総はその前で足を止めると小さく手を合わせる。「ご使者」もそれに倣ったのは、昨日、川上村の関所の(ほこら)を通り過ぎて(まり)に文句をつけられたからか。

 何にしても、大きな寺には見えない。

 安総はまた早足でそのお堂のところから早足で歩き出した。石段を上る。その先は高い土塀に両側を挟まれていて、その塀の向こうがどうなっているかわからない。

 小さい門をくぐる。同じような道を進む。もういちど塀の角を曲がった先に、八脚の門があった。これも目立たない門だ。

 安総がその門をくぐったので、「ご使者」たちも何も考えずに門をくぐる。

 最初に顔を上げた隆文が喉の奥で詰まったような声を立てた。

 その先には、塔と瓦葺きのお堂を備えた大きな寺の姿があった。

 「うわー、大きいお寺だね」

 さわが声を立てている。言った相手は安総のようだ。で、その安総は
「そうです」
と答える。

 してみると、安総もこの寺が大きいとは思っているらしい。

 ――いや、そうではないのかも知れず、「そうです」と答えるのが口癖なのかも知れないけれど。

 たしかに、塔は、(かし)ぎかけた川上村の寺の三重の塔とは違い、堂々とした丹塗りの五重の塔だった。本堂は昨日の川上村の寺よりずっと大きく、たぶん幅だけで倍ぐらいある上に、石の壇の上に築かれている。

 安総尼が小さく整った声で
「寄合はこちらです」
と告げた。

 「おう、ありがとうよ」

 隆文の横柄な声が、じつはうわずっているのに美那は気づいている。

 美那はいまさらながらに黙ってこの無垢そうな尼についてきて失敗だったかも知れないと思った。ここでもし襲われたら隆文や美那は不利だ。村から逃げ出すことはまず無理に違いない。

 けれどもいまさらそんなことを考えてもしかたがない。それにもともと襲われたら数でかなわないのだ。

 斬り合いにきたのではないと割り切るしかない。

 安総尼は、そんな思いにはかかわりなく、三人を導いてお堂に上がり、障子を開けた。

 本堂のなかからざわめきが押し寄せてきた。

 なかにはたくさんの男たちが集まり、藁座(わらざ)を敷いたり板敷きの床にそのまま座ったりでいた。

 数が多い。五〇人近くの男が集まっている。身なりもばらばらで、着の身着のままで萎烏帽子(なええぼし)を頭につけているだけのような男もいれば、きちんと折烏帽子を被っている男もいる。

 べつに大騒ぎしているわけではないのだが、人数が多いので、声が重なり合って大きなざわめきに聞こえるのだ。しかも、お堂の天井が高く、その声が響きかえる。

 隆文が先頭に立って敬礼し、本堂に入った。さわがつづき、最後に美那が入る。ざわめきのなかから
「女だ」
「どっちが水盗人(ぬすっと)だ?」
「だからそんなことは……」
という声がする。

 外からするとお堂の中は暗かったが、入り口のすぐ近くに村西兵庫助と大木戸九兵衛がいるのは見つけた。この二人は黙って一行のほうを凝視している。

 「ご苦労だったな、安総」

 そう声をかけたのは、本堂のまん中、寺の本尊の厨子(ずし)の前に座っている男だった。

 烏帽子はかぶらず、髪は総髪にして後ろに伸ばしている。声は少し濁った声だった。端整な姿勢で、体つきはがっちりしている。

 いちばん上席に座っているということは、この男がこの寄合のとりまとめ役に違いない。

 その前には、本堂に集まった衆に向かい合うように七人の男が腰を下ろしていた。

 そのいちばん右は、昨日、川上村の会合で上席に座っていた村長(むらおさ)の川上木工(もく)国盛(くにもり)である。あとの男たちは知らない。

 「村長総出か」

 隆文がつぶやく。ただし、さわと美那にはわざと聞こえるようにだ。

 わざとかわざとでないか美那には少しずつわかるようになっていた。

 「村長?」

 そこで同じようにつぶやき声で問い返す。隆文が低い声で言った。

 「川上の村長と並んでるんだから村長だろう? こういう村じゃ上下に差をつけないのがあたりまえだからな」

 「うん」

 美那が頷く。つまり牧野郷の二つの村と森沢郷の五つの村の村長が集まっているというわけだ。

 「わかれよ、それぐらい」

 「最後のことばがよけい」

 美那が言い返すまえにさわが澄ましてさらっと言う。言ってからも澄まし顔のままでいる。

 総髪の男の向こう側には、昨日の川上村の寄合に押しかけてきた若侍と中原村の地侍がいた。

 中原村の地侍は美那をちらっと見てすぐ知らぬふりをした。なかなかふてぶてしいところを見せてくれる。漆もつややかな烏帽子をかぶった若侍のほうは何か落ち着かないようすで、お堂の中をあちこち見回していた。

 「右手に着座してもらいなさい」

 総髪の男が言うと安総尼はうなずいた。

 三人が安総尼に案内されたのは、総髪の男の右手の一段高くなったところだ。村長たちの後ろ、若侍と中原村の地侍とは総髪の男をはさんで反対側にあたる。安総尼は、三人に藁座を用意すると、自分は本尊の厨子(ずし)のすぐ横、総髪の男の後ろに腰を下ろした。

 美那は横目でその座っている様子を見て、あんなにきれいに座れたらいいなと思う。おかみさんにはかなわないかも知れないが、同じ年ごろなのに。そういえば、隣のさわも背筋を伸ばしてきれいに座り、目を少し閉じ気味にしている。

 いちばん座り姿が様にならないのは自分のような気がした。

 それでまたあの進みもしない議論を聞くのかと思うと少し気が滅入(めい)る。

 いや、そのまえに、「水盗人」の件がどうなったかが気になる。ここに入れてもらえたということは、少なくとも問答無用で捕縛(ほばく)という話にはならなかったということだろうが、それでもまだ安心はできない。

 「それでは始めようか」

 総髪の男が斜め後ろを向いて低い声で言う。安総尼が無言で立ち上がり、お堂の奥の木戸から出て行く。ほどなく、かん、かん、かん、かんと高い鐘の音が鳴りわたった。

 それまでざわついていた座がすっと鎮まった。

 総髪の男が声を上げた。

 「それでは牧野郷二村、森沢郷五村の寄合を始めたい。町からのご使者が参られ、急ぎの用件がおありとのことで村々の衆には無理を言って急ぎ集まっていただいた」

 隆文が頭を下げ、さわが倣ったので、美那もつづいてお辞儀する。ふだんはがさつ者のくせにと思う。村の衆のほうでは、隆文に応えてお辞儀する者もあり、まるで無視する者もいる。

 総髪の男はつづけた。

 「そういうわけだから、本日は、とくに、玉井の町の金貸し衆のご使者と、中原郷からいらした守護代様のご家臣とにも席に加わっていただくこととする。なお、勝手ながら、村長のあいだの話し合いで、今日の寄合は私川中村の中橋渉江(しょうこう)がつとめさせていただく。よろしいか」

 なるほどこのひとが「中橋様」と呼ばれていた男かと美那は思った。渉江はその美那のほうにちらっと目をやる。美那ははっとして背筋を伸ばした。

 心のなかを読まれているように思った。あの浅梨(あさり)治繁(はるしげ)に目配りされたときのような感じがした。

 油断ならない相手だ。

 しかし、席のほうは早くもざわついて勝手に声が上がっている。

 「まったくこんな時期に借銭の取り立てで寄合を開くなんてな」

 「迷惑な話だ」

 「いや、中橋様がうまく収めてくださるに違いない」

 「話してすっきりさせたほうがいいじゃないか」

 「川上の連中がことをこじらせるからめんどうなことになるんだ」

 「こっちじゃ払ってもいいってことですぐ決まったんだぞ」

 中橋渉江はそのようすをしばらく見回して何も言わない。

 「おい」

 川上村の村長木工国盛が太い声でおどかすようにその席に声を放つ。

 「いまの中橋様のご意向に異論のある者は大きな声で言ってみろ」

 そう言われてからもしばらくざわめきはつづいていた。けれどもだれも「大きな声」で自分の考えを言う者はない。

 ざわめきが収まる。中橋渉江は左右を見渡した。

 「では、まず、町から来られた銭屋のご使者に用向きをうかがおうと思うが」

 「お待ちください」

 座から声が挙がった。中橋渉江はその男のほうに顔を向ける。

 「何かな、川上村の村西殿」

 「はい」

 村西兵庫助は背筋を伸ばし、手をついて体の半分ほど前に進み出て、中橋渉江のほうを向いて声を張り上げた。

 美那のほうは見もしない。

 「町の銭屋の使いと申す娘のうち一人はわれら牧野・森沢の衆に欠くことにできない水を盗んだ娘です。町には水盗人の一団があり、この娘はその一味に違いありません。このような者の言うことなど耳に入れるのは無用のことのはずです。いや、むしろこの席でこの娘を処断し、捕縛して城館に突き出すべきです」

 「それは」
と腰を浮かせかけた美那を、隆文が首を振って強く制する。美那は腰を下ろした。

 やっぱりそう来たかと思う。

 中橋渉江は
「ふむ」
と短く言って頷いた。

 「その話は、昨日、お知らせいただいたと思うが、それはあなたが自らお確かめになったことかな?」

 「いいえ」

 村西兵庫助は頭を上げて言った。

 「それはそちらにおられる中原村の長野殿がお確かめになったことでございます」

 「ほう」

 中橋渉江はそう言っただけだ。だが席から鋭く声が上がる。

 「定範の手先の言うことなど信用できるか」

 「帰れ帰れ」

 中橋渉江がその声の起こったほうに目を向けると、声はすぐに鎮まった。

 「長野様、村の者の無礼のことば、お許しください」

 言って、長野雅一郎のほうに目をやる。

 「いえ」
と雅一郎は少し腰をかがめて応えた。

 「で、どうなのですか、いま、川上村の村西殿から出された一件は?」

 「はい」

 雅一郎は、まず主人の中原範大(のりひろ)に軽く頭を下げてから、中橋渉江のほうに向き直った。

 「確かなことでございます」

― つづく ―