夢の城

清瀬 六朗


桜の里(六)

― 3. ―

 「だれだ?」

 荒い息の、うわずった声だった。

 部屋は狭い。その部屋の、入り口のちょうど向かい側で、男が弓を構えて立っていた。

 粗末な身なりだった。髪は剃って僧形(そうぎょう)のようで、烏帽子(えぼし)もかぶっていない。染めていない麻の衣を着ている。部屋から煤と油の混じったようなにおいがあふれ出てきた。

 弓はまっすぐに隆文を狙っている。身を乗り出そうとしたさわを、美那が左手で(さえぎ)って制した。

 「だれだ、名を名のれ」

 「上総掾(かずさのじょう)隆文」

 この男が「上総掾」などと名のるのをいままできいたことがない。

 でも、相手の気の張りつめぐあいから見て、たしかに「鍋屋の隆文」では通じなさそうだ。

 「村のものではないな」

 「町から参って当寺に逗留(とうりゅう)いたしておる」

 「その上総掾殿が何のご用か?」

 「その前に」

 隆文は両手を腰のあたりで広げて立ったまま男に向かって言った。

 「弓の上手とお見受け致すが、まずその弓を収められよ。こちらに弓を向けられていたのでは話もできぬ」

 男は息をついて手を(ゆる)めた。だが、すぐにまた弓を引き直す。

 「ご用がなければ立ち去られたい」

 「まあそう言われるな」

 隆文はいきなりことばに抑揚をつけだした。

 「われらは客としてこの寺を訪れ、ここに泊まるように案内されたのだ。そちらはここのご主人であろう? 客が泊まりに来ておいて主人にあいさつしないというのも失礼な話でな」

 「それ……」

 相手の男は何か言おうとした。だが、その前に隆文がつづけて、
「それに春先でな、裏の間は風が吹き抜けますのでやや寒うございます。しばらくお部屋で温まらせてくださらぬかのう」

 「あ、ああ……」

 男は弓を弛めてわけがわからなそうに隆文を見、ついで、部屋のなかでよく(おこ)った火の載っている四角い長火鉢に目を移した。

 隆文は無遠慮に部屋に進み、美那とさわを招いた。美那はさわが怯えるのではないかと思っていた。でも、さわも(たもと)を押さえながら灯台を持って入って来、灯台を置いて引き戸を閉め、また灯台を手にとって火を吹き消した。

 落ち着いている。

 男は弓を収めた。弓と矢をそれぞれ床に投げ出した。立ったまま隆文と向かい合う。

 「座らせてもらうぞ」

 男が不機嫌にではあるが
「ああ」
と言ったのは隆文が床の上に勢いよく腰を下ろしてからだった。美那とさわは顔を見合わせて、その隆文の後ろに並んで行儀よく座った。

 相手は、やはり居心地が悪そうに、体のあちこちをいからせながら、隆文の向こうにこれも勢いよく腰を下ろした。

 美那は部屋の四方を見回した。

 それほど広い部屋ではない。左手には木の仏様とその脇侍(わきじ)厨子(ずし)のなかに収められている。前には灯明が灯してあったが、その場所が右と左に大きく開きすぎていてお厨子のなかを照らしておらず、まつられているのがどんな仏様なのかはここからは見ることができない。

 ただ、少なくともお厨子にはほこりが積もっているのが灯明の光でわかるし、灯明に使うろうそくらしいものが何本も無造作に床に転がしてある。

 あまりよく手入れもしていないらしい。

 入り口と反対側の壁には、槍が長いものから短いものまで五本ほど、いま投げ出した弓を含めて弓も大きなものから小さなものまで五張、矢壺がちょっと見ただけで三つあってそれに矢が挿してある。太刀や脇差も何本も無造作に置いてある。

 武具は、きちんと並べてよく手入れしてあるらしいものと、無造作に投げ出してあるものと、両方があった。

 「で、ご主人は?」

 隆文が尋ねる。

 「何だ?」

 「何だでもなかろう?」

 隆文はまた大きく抑揚をつけて、でも早口でなく言い返す。

 「こちらが名のっているのだから、ご主人もお名を教えていただいてもよいのではないか?」

 「わたしは主人ではない」

 相手の男は目をそらせた。床の上に目を迷わせ、なるべく暗いほうに目を向けて答える。

 「わたしは(とら)われの者だ……ここに囚われているのだ」

 声は若かった。それに、短くしか言わないときには濁った低い声だと思っていたが、いまのことばを聞くと、高く張りのある声だ。

 「よくわからぬな」

 隆文が問い返す。

 「そこの入り口には錠など下りていなかったぞ。出て行くことはいくらでもできよう。それに、御身(おんみ)のまわりには、太刀(たち)脇差(わきざし)、弓矢、槍と武具が並んでおる。だれが囚われ人のそばにそんなものを置いておくものか」

 「それは……」

 囚われ人は深く、それに荒いため息を漏らした。

 「……そうだが」

 「おそれながら、あなた様は弓の上手と見申した」

 隆文は言って唇を咬み、犬が人を見上げるように相手の顔を見上げる。

 「ほかの武具も自在に操れよう」

 で、こんどはまばたきしてから目をそらし、
「ここから抜け出すことなど容易だと思うが」

 「そこまでして」

 相手はやはり暗いほうをにらみつけながら、暗い低い声で言った。そしてとつぜん吼えた。

 「そこまでして、わたしを討ち死にさせたいか!」

 お堂の(はり)を裂いてしまうような大声だった。言い終わって、首筋から顔にかけて、いや、手足も震えているのが見ていてわかる。

 だが、隆文はまたまばたき一つしただけで動きを見せない。美那もだ。この二人は、ほんとうに怒ったらこんな程度ではすまない師匠の浅梨左兵衛尉(さひょうえのじょう)治繁(はるしげ)の怒声を聞き慣れているから、当然といえば当然なのだけれども、さわも少しも怯えたようすを見せない。

 この子武士の妻になるのに向いてるのかな、と美那は思う。

 隆文は眉をしかめて相手の顔を見上げ、一つふっと笑って見せた。

 相手が、半ばいきり立ち、半ば(おび)えたのを、美那は見た。

 隆文はつづける。

 「無礼はお許しください。が、どうやら、仔細(しさい)がありそうですな。よろしかったらこの客人に話してくだされ。客人ですから、村の者に伺った話を漏らす理由もありません」

 「何をしに来られたのだ……いや、こんな辺境(へんきょう)の村に」

 「借銭の取り立てでございます」

 隆文は淀みなく正直に言った。

 「われら三人、牧野・森沢両郷で滞っております借銭借米の取り立てに参りました」

 「どこから?」

 「玉井の町から――市場町からでございます」

 「市場か……そうか」

 相手はまだうつむいていて、さっき喚いたときに荒れた息をまだ整えていたが、目はさっきより明るいほうに向けていた。

 「で、後ろのお二人、どちらかがご妻女か?」

 「妻女ではござらぬ」

 隆文はすばやく答えた。

 そんなにすばやく答えることはなかろうと思うのだけれど?

 「こちらのさわは銭屋の店で働いている娘でな、勘定を受け持たせたら右に出るものはないというすぐれた娘でございます」

 「ちがうよー」

 さわが小さい声で言うが、相手は聴いているのかいないのか。

 すくなくとも気にとめているようではない。

 また、さわも、照れて言っているのかそうでもないのか、よくわからない。

 「で、こちらは」

 隆文はかまわずつづけ、短く美那のほうに目をやった。

 「わたしとともに剣術を習っている妹弟子で」

 そこで、一言ぶんだけことばを切った。

 「名を藤野の美那と申します」

 「美那、だと?」

 相手はその名にやはり驚いた。

 「やはり」というのは、美那は、隆文がことばを切ったところで、自分の名を相手に聞かせるつもりだとわかっていたからだ。

 「美那、と申すのか?」

 「はい」

 見知らぬ相手に目下扱いされ「申すのか」などと言われるのは嬉しいことではない。でもそれで怒っているばあいでもないことはわかっている。

 相手は覗きこむように美那の顔を下から見上げたので、美那は、別に目を合わせることもせず、まっすぐ前に目を向けていた。

 相手はそれでもあちらこちらに首を回して美那の顔を執拗に見ている。

 だが、そのままぴくっと首を後ろに引くと、背筋を伸ばした。

 まぶたが閉じかけ、なにか疲れたような(かお)になる。

 「違う。広沢の美那ではないな」

 「えっ?」

 こんどは美那が驚く。だが、相手は悪いことをしたというように、小さく頭を下げた。

 「失礼の段、お許しください」

 「それはいいけど」

 美那は何と言おうか迷う。だが、相手が先にことばをつなげた。

 「わたしはこれまで、二人、美那という名の娘のことを知った。一人は民部少輔(みんぶのしょうゆう)正稔(まさとし)様の妹姫、もう一人が広沢の美那だ。わたしはその二人ともを救うことができなかった。救おうとすれば救うことはできたはずであるのに」

 「な……」

 「その話をもう少し詳しく聞かせてもらえませぬか」

 美那自身が何かを聞こうとするまえに、隆文が切り出した。

 「なに、この娘がこの名まえでござろう? 村に入ってからもう何度もまちがわれたり疑われたりしておるのですよ」

 「なるほど」

 相手は値踏みするように目を細める。美那は顔を上げたまま相手をなんとなく見返していた。

 「なるほどな。その貌容(かおかたち)だ。そういうことがあってもおかしくないと思う」

 「よろしかったら、そのあたりの事情を教えていただけませぬか? なに、まあ、正直に申せば、この商売です。少しでも誤解がありますと大きな差し支えになりますので」

 「ふむ」

 相手は何か解しかねるように声を立てた。だが、当の美那に両の(ひとみ)で見られている。その顔は、まえから遠い灯明で照らされ、横から近くの灯明で照らされて、陰と明かりが入り交じっている。

 相手はほっと一つため息をついた。

 「一つ確かめるが、ほんとうに広沢の美那ではないのだな? いや、ほんとうに広沢の美那ならば、村のなかで名まえを易々(やすやす)と名のれないのはわかる。だが、わたしはこのとおり、村の者とは顔を合わすこともない。遠慮する必要はない」

 「いえ」

 美那は声を硬くして言った。

 「ほんとうに違います」

 それで、もうひとこと、つけ加える。

 「小さいころからこの玉井に暮らしていますが、牧野郷を訪れるのはこれが初めてです」

 「そうか」

 相手の男は小さく頷いた。そして小さく肩を落とした。

 「広沢の……というと」

 美那が逆にたずねた。

 「(まり)葛太郎(かつたろう)と関係のある家ですか?」

 「葛太郎? 毬?」

 男は首を傾げた。だが、すぐに一つ頷いて、
「毬という名は聞いたことがある。そう……たしかその美那の妹が毬と言ったと思うな」

 「なに?」

 隆文が短く声を立てた。美那は別に驚きはしなかった。

 「ただ、広沢三家の者たちはほとんど川上村に住んでいたから、わたしはじかにはあまり知らない。わたしが知っているのは美那とふくの二人だけだ。あとは勝吉(かつよし)殿と奥方の木美(きみ)殿だな。毬という子には会ったことはないが、ちいさくて、すばしこい子だと、美那が言っていたか、それとも木美さんから聞いたのか」

 「そのお美那さんと妹の毬は別の家に住んでいたということですか?」

 やっぱり自分と同じ名まえを「お美那さん」などと呼ぶのは気恥ずかしかったけれど、気にしているばあいでもないと思う。

 「ああ」

 男は答えた。

 「つまり、勝吉殿と木美殿、それに美那とふくはお屋敷に奉公していたからな。広沢家のほかの者たちは川上村に残っていたはずだ」

 「ちょっと待ってください」

 さわがいきなり声を挟んだので、美那は少し驚いた。

 さわが声を挟んだことにも、また、その声が、いままでさわから聞いたことのないほど張りつめていて早口だったことにもだ。

 「その広沢三家というのは、いったいどういう素姓の家なんですか?」

 「ああ」

 男は虚をつかれたようだった。

 「そういえばそうか。町から来たのならわからなくて当然だな」

 「ええ」

 男は少しだけさわのほうを(うたぐ)るように見た。

 「牧野の伯父上様が川を開き荒れ野を開かれていまのような村を作られたときに、牧野の村々も大きくなったのだからと、巣山郡から人を集められて、何家かの家がそれに応じて来たのだ。巣山は耕せる土地が少なく、貧しい人らが多いから、新しく開いた村に招けばよいと考えられたのだろう。だが、昔からの村の者たちが巣山の者たちとなかなかなじまなかったこともあって、ほとんどの者たちが村を離れていった。そのなかで最後まで残ったのが、巣山郡広沢郷から来た三家――それが広沢三家だ」

 男はしばらくことばを切る。

 「牧野森沢の村々も貧しかったから同じようなものだが、村の者たちは、巣山の者たちは着ているものも粗末ならば食い物にも卑しい、何についても卑しい者たちだと(さげす)みがちだった。伯父上は、そういう思いを変えようと、勝吉殿を館にお招きになり、美那も侍女として仕えさせ、それに、美那より少し年下のふくにもその仕事を見習わせられた」

 「あなたは」

 さわが低いけれども鋭い声で問う。何かすごみさえ感じるくらいだ。

 「治部大輔(じぶのたいゆう)様を伯父上と呼ばれるあなたは、いったい何者なのです?」

 「ああ」

 男はまた虚をつかれたように声を立てた。

 「言っていなかったな」

 「ええ」

 さわが迫る。

 男はいちど口を結んでから、少し重いめにことばを継いだ。

 「わたしの母がその治部さまの妹なのだ。父は森沢判官(はんがん)為順(ためより)、そしてわたしの名は森沢荒之助(あらのすけ)――森沢郷の郷名主だ」

 「なに?」

 問うたさわだけではない。いや、ほかの二人のほうが大きく驚いた。

 森沢荒之助は、左目の眉だけをしかめて、三人のほうに顔を上げつづけている。

 「これは驚いた」

 しばらくして隆文がかすれぎみの声を立てた。

 「判官殿が乱のあとに病死なさったことは存じていたが、そのお世継ぎがこのような境遇でおられたとは!」

 これだけ外から閉ざされた部屋でも、床の下から風が吹き上げ、灯明の炎を揺らしている。

 こんどは逆に森沢荒之助が隆文に向かって次に何を言うか聞いてやろうというように身を乗り出していた。


 自分の手を、すべすべしているけれども硬い手でつないでくれているのがお美那だ。ああ、自分のお姉ちゃんのお美那なんだと毬は思う。

 ずいぶん久しぶりに会ったような気がする。

 お美那は何か少し大人っぽい娘だった。子どものころからがさがさちょろちょろしていると言われてきた毬とは違う。

 もっとも、毬には毬で、自分とあんまり年の違わない葛太郎(かつたろう)を一人前にするためにがんばってきたのは自分で、自分はお姉さんなんだという思いがある。

 「ほら、(まり)

 呼ばれて毬は顔を上げた。

 お美那が毬の手を引っぱってもう一人の人の手に渡した。

 ごわごわに荒れて、ささくれ立った手だ。

 でも毬は手を引っこめようとは思わなかった。その手の主に自分の手を委ねて、安心していた。

 もうお美那の姿は見えない。

 いま毬の手を握っているのは、焼けこげたような肌の色の、深い(しわ)がたくさん刻まれた顔の男だった。そんなに肥えているわけではないのだが、頬の肉が垂れ下がっているように見える。醜い男だとは思ったが毬はべつに怖いとは思わなかった。頭の上につけている折烏帽子(おりえぼし)の縁が空を()っているようで美しい。

 「ほら、治部大輔(じぶのたいゆう)様よ、あいさつしなさい」

 お美那の声が言った。

 毬は何か言った。でも、何と言ったのか、自分では覚えがない。

 毬のけなげなあいさつをきいて、治部大輔興治(おきはる)は、目を細めて満足そうに笑って見せた。

 興治の背後がさっと明るい優しい色に染まっていた。

 毬がはっと小さく息をついて振り向く。桜が咲いていたのだ。

 それもいっぱいに――村が埋まるほどいっぱいに咲いていた。空もその薄紅色の花びらを映して、昼間だというのに雲が薄紅色に染まっていたし、地上には薄紅の花びらに応えるように若緑色の短い草があちらこちらに()えていた。

 天も地もこの桜と桜の色に領されてしまったように思う。

 治部大輔興治の黒く醜い姿は、その桜の花がいっぱいの場所のなかに溶けこむことはなかった。

 「どうだな、ここは?」

 興治に問われて毬は答えた。

 ここは極楽浄土のようです――そんなことを答えたのだと思う。

 興治はまたあの小さい目を細めて笑ったんだろうと思う。

 「そう言ってくれると嬉しいな。でも」

 少しことばを止める。

 「浄土とはずいぶん違っているように思うがな」

 「どうしてそう思うわけ?」

 毬はきいた。自分がそんな声を出したことにはっとする。何かとても甘えた幼い声のように感じる。それに、治部大輔興治(きょう)にそんな聞き返しかたをしていいものだろうか。

 興治は少し笑ったようで、桜の花に手を伸ばした。

 「この桜はおまえたちの里のものからもらったものだ。おまえたちといっしょにこの桜もおまえたちの里から来たのだ。たいせつに育てなければならぬ。花もおまえたちも、たぶんわたしがこの世に残し、次の世に伝えていく、この里のほんとうにたいせつなものなのだよ」

 毬はその重そうな声に振り返った。

 桜の花がどこまでも広がっているのだけが見えた。毬はその桜の森のなかを歩いた。少しずつ早足になった。濃い霧のなかを歩いているように、桜の花はどこまで行っても尽きることがなかった。早足でも桜の森がどこまで行っても尽きないとわかると、毬はその桜の花の薄紅色を首のあたりで分けるのを感じながら駆けた。それも少しずつ速く。

 べつに速く駆けようと思ったわけではない。気がついてみたら速く駆けていたのだ。

 毬はいっぱいに息を吸いこんだ。

 心地いい――と思う。

 それなのに、興治卿はどうしてこれが浄土とずいぶん違っているように思うのだろうか? 少し考えたがわからない。

 毬は、ふと、熱く、襟の裏あたりが汗ばんでいるのを感じた。汗が冷えてつめたいのと肌の熱いのがまだらに入り交じっていて何か気もちがよくない。

 胸も高鳴っている。

 これだけ走ったのだから、それもあたりまえだと思う。

 葛太にはこんなに走れまい。この半分ぐらいで足が止まっていただろう。

 得意になって毬は足を止めた。

 たしかに止めた。

 けれども、桜は止まらなかった。毬が走っていたときと同じように、いや、毬が走っていたときより速く、桜は過ぎ去りつづけた。川が流れていくように毬のまわりを桜が流れていくようだ。

 桜の花が胸やら頬やらに軽くあたるのがくすぐったくて気もちいい。でも、少し息苦しい。

 毬はふと顔を上げた。

 空は黒く曇っていた。そして、その黒い雲がひび割れるように裂けて、その裂け目の向こうは赤かった。

 空の赤さではない。掻き傷のなかの血をのぞき見ているようだ。

 「はあ」

 毬は息をついた。

 熱いと思った。心地よい感じはどうでもよくなっていた。熱いと思った。

 胸は高鳴っている。

 桜の流れではなかった。薄紅色が渦巻いているのではなかった。

 血の色をすきとおらせたような赤い美しい色だった。赤い美しい色には違いなかったが、その渦巻くものは炎に違いなかった。

 毬は立っていた。逃げようとも思わなかった。立っていた。

 熱い。炎のなかにいるのだから当然だ。熱いと思った。

 逃げる気にはならなかったけれど、襟のところがべっとりと肌に貼りついてきて気もちわるい。そこで、毬はそれを引きはがそうと右手で襟のところに手を持って行った。襟を(つか)む。

 襟を掴んだはずが、なぜか右手は自分の顎にあたっていた。

 胸は高鳴っている。

 「あーあ……」

 毬は声を漏らした。

 目を開いても何も見えない。

 あたりまえだ。あの義倉(ぎそう)の穴蔵にいて、しかも夜なのだ。

 「あーあ」

 毬はもういちど声を漏らした。そして首を少し上げてみて、そのままにして、首を下ろす勢いに合わせて寝返りを打つ。

 何度も見た夢だった。

 いや、桜のところは知らないけれど、炎の夢は何度も見た。

 のどが渇いているのだ。胸からのどにかけて体の内側から()かれているようだ。

 毬は大きく息を吸ってから、こんどはため息をついた。

 息が喉の縁に引っかかるようで何か気もちがわるい。

― つづく ―