夢の城

清瀬 六朗


桜の里(六)

― 5. ―

 森沢荒之助(あらのすけ)は眉を瞬間で上げ、また下げた。

 歯を咬んで唇を少し開き、少し顔を震えさせて隆文に目をやる。だが、隆文は何の関わりもないように顔を上げて傲然(ごうぜん)と荒之助を見返している。

 荒之助は、その隆文から目をそらすと、ふうっと息をついた。そして目をそらしたまま言った。

 「父の(とむら)いだ。そのためにこの堂にこもっている」

 「しかし」

 隆文は明るい張りのある声で言い返した。

 「先のお話しだと、父上が亡くなられたのはずいぶん前のはず――(とう)国の士分(しぶん)の者たちはこういうことを重んじて、三年の喪に服すというが、御身のはそれより長い」

 荒之助はきいて身を反り返らせ、目を見開いて隆文を見返した。

 そして胸を大きく膨らませて息を吸うと、
「何年の喪に服しようがわたしの勝手ではござらぬかっ!」
と喚く。

 声と身の動きで起こった風とで、灯明が揺らいだ。

 荒之助は息を整えた。それで、ふと、隆文は別にして、美那とさわの二人の目が自分に注がれているのに目を留める。

 荒之助は動きを止めた。

 町から来た者たちのほうも何も言わない。

 荒之助は肩を落として大きく息をついた。

 「いや、失礼したぁ」

 で、目を閉ざし、頭を垂れた。

 これまでずっと張りつめていた体からこんなに力が抜けるとは美那は思っても見なかった。

 「そうなのだ……最初は百日のつもりだった。そうだ。最初の十日は百日も()もることに決めたのを後悔した。一日も早く外に出たいと思った。だが、ひと月が経ち、ここに籠もりきる生活にも慣れてきた。そして、百日が近くなると恐ろしくなった」

 「恐ろしい……の?」
と恐る恐るという声できいたのは美那だった。

 「そうだ」

 荒之助はがっくりと頷いた。

 「そんなころに、配流(はいる)されていた正稔様と姉君 深雪(みゆき)の方様が亡くなられたときいた。それに、ただ一人、城館に残されておられた、末娘の美那姫が井戸に落ちて亡くなったとも。わたしはだれ一人救えなかった!」

 力のないところから、荒之助はせいいっぱい絞り出すように最後のことばを言った。

 「正稔様も、そのご姉妹も、治部様も芹丸様も、わが父も、勝吉殿も木美様も、それにこちらの村のお美那も――だれ一人救えなかったのだ。だから」

 そこで荒之助は急に声から力を抜いた。

 「わたしは罰として自分をここに閉じこめているのだ。(とら)われというのはおかしいと先ほど言ったが」

 荒之助は隆文に顔を上げる。

 「それはそういう意味なのだ」

 「おかしいよ、それ――やっぱり」

 藤野の美那が言い返した。

 もしかすると、早く言わないとさわに先を越されると思ったのかも知れない。それは自分でもわからない。

 「子どもだったわけでしょう?」

 肩を落としていまにも涙をこぼしそうな荒之助に向かって、美那は、別に責めるでもなく、優しくするでもない声で言った。

 「芹丸(せりまる)さんと同じぐらいだったわけだ」

 さわが目を見開いて、その美那のほうにちょっと目をやる。荒之助は答えた。

 「わたしが二つ上だ」

 「だったら、その年で何もできなくても、それはあたりまえだと思う。だって、いまのわたしよりは上だけど、いまのこの隆文よりは下でしょ? この隆文なんてこの年で何もろくにできないのに」

 「おまえなぁ……」

 隆文が顔を伏せてつぶやく。美那は相手にしなかった。

 「そうは言うが、わたしは郷名主の子だ」

 「初陣(ういじん)でしょう?」

 美那がすぐに言い返す。

 「それはいろいろ言われるだろうけど、できないことはできないよ。だいいち、あなたは、いくさのときには柏原(かしはら)峠にいたのだし、その後は森沢にいたんだから、さっき言った人たちを救えるはずがないじゃない? だって、どんな武将でも、自分のいない場所で戦ってだれかを救うことはできないのだからね」

 美那の声は少しずつ諭すような調子になってきた。

 「だが……」

 荒之助は弱い声で言い返した。

 「わたしは行くことはできた。知らなかっただけなのだ。幼くて何が起こっているかわからず、ただ父の差配(さはい)にしたがっているだけで」

 荒之助は大きく息をつく。

 「どうしても守りに行けなかったのならわたしのせいでないと言い切れる。また守りに行って力のかぎり戦っても守れなかったのでもそうだ。だが、わたしはいつもその場にいなかった。しかも、いることはできたのに、いなかったのだ。それで数多くの人が死んだ。伯父上も芹丸も、城館にいた妹姫も……しかしわたしは生きている!」

 「それで、罰を?」

 問い返したのは隆文だった。

 隆文は眉を下げて荒之助に笑いかけた。荒之助はふしぎそうにその隆文の顔をのぞきこむ。

 「あなた様はいまも――ここに何年も籠もられた後でも、相当な武芸をお持ちでおられる。いや、わたしに言わせればたいしたものです。あのとき弓を放っておられれば、私は一本の矢で命を()としていたでしょう」

 「それは」

 荒之助は自らあざ笑う。

 「この近い間合いだ。だれにもできることだ」

 「いや」

 隆文は胸を張ったまま(くび)を振った。

 「近い間合いで相当な傷を負わせることはだれにもできましょう。でも、一撃で急所を狙い撃ちするのは並大抵の技ではない。そうではありませぬか?」

 「それは……」

 荒之助は顔を上げた。

 「父から子どものころから厳しく教えられてきたからな」

 息をついてつづける。

 「治部様はあの気性ゆえ遅かれ早かれいくさを招かれる。そのときにお守り申せと言われて――治部様も、村人をもな。だが……」

 「ねえ」

 荒之助のことばを遮って、藤野の美那が声をかけた。

 「気がついてないかも知れないと思うから言うんだけどね」

 「何だ?」

 荒之助がくるんと顔を上げる。何か酔ったようなしぐさだ。美那はつづけた。

 「荒之助さん、知らなくてたくさんの人を助けられなかったって行ったでしょ? そしてわたしはそれは小さかったからしかたがなかったって言った」

 「ああ」

 「けれどもいまはもう荒之助さんは小さくはないでしょう? 初陣から何年も経っているのだから」

 「それはそうだ」

 荒之助はとまどって、でも相づちを打った。

 「じゃ、今度こそね、荒之助さんが助けることのできる人がいるのに、それを助けなかったとしたら、今度こそ罪になるよ。こんなところに()もっていたら、だれか荒之助さんが助けなければいけない人がいても知らずに過ごしてしまうよ」

 「わたしなんか……」

 荒之助は下を向いていやなものを吐き出すように言った。

 「それに、いくさは終わった。とっくの昔に終わった」

 「いいえ」

 藤野の美那は背筋を伸ばしてまっすぐに荒之助のほうを向いた。

 さわがそのようすを斜めにうかがうように見ている。

 「終わってはいない。終わったっていうのはあなたが自分の気もちを紛らわすために言ってることだよ」

 「そうだよ」

 さわが藤野の美那のことばをすぐに継いだ。

 「そのお美那ちゃん――このお美那ちゃんじゃなくて、あなたの言ったそのお美那ちゃんの妹の(まり)ちゃん、いま行方知れずになってるよ」

 「なに?」

 荒之助は顔を上げた。

 「知らなかったでしょう? わたしたちが町からこの村に借銭の取り立てに来ると聞いて、先を争うように柿原党の銭貸しが村に来たの。そして、わたしたちの取り立てを妨げて村の人たちに恩を売って、あとで村の人たちにわたしたちのかわりに銭米を貸し付けるつもり」

 「柿原党が? しかし、村の者たちは? だいいち柿原は敵ではないか!」

 「それは嫌ってるよ」

 さわはすまして言う。

 「でも、わたしたち町の銭屋とのつきあいがうまくいかなくなったら、柿原党から借りるぐらいしかないでしょう? 村の人たちのなかには、わたしたちに銭米を返せない以上は柿原党の力を借りるしかないという唱える人も出てきてるのよ」

 「そんなことが……」

 「そして毬ちゃん」

 さわは少しもことばの調子を変えないので、こういうときには容赦なく責めているように聞こえる。

 「毬ちゃんはその柿原党の使者に召し出されて、それ以来、どこに行ったかわからなくなってる」

 もちろんさわは毬がどこにいるか知っている。でもそれはさわのことばからは少しもうかがえなかった。

 「そのお美那ちゃんを救えなかったのは、このお美那ちゃんが言ったようにしかたのないことだと思うよ」

 それにしても「広沢の美那」と「藤野の美那」というぐらいに言い分けてもよさそうなものだと美那は思う。

 「でも、その妹の毬を助けられなかったってなると、もしかするとこんどはしかたないではすまないかも知れないよ」

 うわー。おさわちゃん、これは脅しきいてるわ。

 しかも、怒ったようにではなく、にこにこしながら楽しそうに言うんだから。

 荒之助は顔を上げた。

 すこし開いた唇の裏で、荒之助は白い歯を強く咬んでいた。

 二本の灯明は同じように煤を高く上げていた。灯芯のはぜる音だけがしばらく聞こえる。

 ――それと、風の音と。

 でも、銭貸しの三人はこんなことをしている場合ではなかったのかも知れない。

 中橋渉江(しょうこう)に言われて寺の中の庫裡(くり)塔頭(たっちゅう)のあちこちの村の者たちのようすを見に回っていた安総尼(あんそうに)が、ようやく仕事を終えて、自分の部屋のある僧坊に戻ってきた。

 そして、僧坊の裏の間の前を通り、部屋の障子が開いているのに気がつく。

 安総は少し首を傾げ、中をのぞきこんでみた。

 なかには(ふすま)が脱いであるだけで、金貸しの使者衆の姿は見えない。

 安総はその場で少し首を傾げていた。

 しばらくじっと立ったまま首を傾げていた。

 ――ふっと吹いてきた風が安総の衣の裾を吹いたのがきっかけになったのか?

 安総はくるんと後ろを向くと、もと来たほう、庫裡の側へと向かって、音を立てずに廊下を歩いて行った。


 毬は穴蔵のなかで考えつづけていた。

 食わずに過ごすのはいい。けれども水を飲まずにいつまでがんばれるだろうか?

 眠っても、いまみたいな夢を何度も見つづけ、体から生気が取られてしまうんじゃないかと思う。

 葛太には悪いけれど、身動きできなくなる前にここを逃げ出したほうがいいかも知れない。

 しかし逃げてどこに行く?

 家には戻れない。村にも戻れない。少なくとも柿原党が村にいるあいだはだめだ。村を出ても、牧野と森沢の二郷では自分とわかってしまう。

 ひとつ普通は思いつかないような逃げ場があると思う。村西兵庫(ひょうご)の屋敷だ。兵庫本人は別にして、お美千(みち)さんとふく姉さんは自分に味方してくれる。それに、兵庫にしたって、大木戸九兵衛(くへえ)も井田小多右衛門(こだえもん)も、心の根からの悪人ではないと思う。

 でもいまはいけない。柿原党はあの屋敷にいるのだし、もしお美千さんとふく姉さんがかくまってくれるにしても、ただの迷惑ではすまない大きな迷惑がかかってしまう。

 では、どうすればいい?

 牧野郷と森沢郷を出るしかない。

 川沿いの道を上るか、下るか。

 上はだめだ。三郡の土地のどこがどうなっているか毬は知らなかったが、そちらに柿原党や越後守(えちごのかみ)の与党の土地があるということは知っている。

 べつに村の人たちのように毬は越後守や柿原を嫌ってはいない。村の人たちは越後守や柿原が悪い人のように言うけれど、どんなふうに悪いのか、毬にはよくわからない。

 けれど、昨日のことを考えると、いまはやはり柿原党の土地には近づかないほうがいい。

 となると、下るしかない。

 道を下ると、道は森沢郷に入り、その森沢郷を抜けるとどこまでも広がるような葦原(あしはら)に入るという。船では葦がじゃまになる。川筋をよく知っている者のほかはまず進めない。それに、葦原を歩けば泥に足を取られる。

 でも、毬は何とかなると思った。

 葦の根もとを選って歩けばいいのだ。時間はかかるだろうが、抜けることはできる。

 抜けた先は港だという。

 港から先はどこへでも行ける。広沢郷というらしい、毬の一家が出てきた里へ行くか、それとも港で船にもぐりこんでどこか三郡の外の土地へ行くか。

 それとも、あのお美那という大きい娘が出てきた市場というところに行くか。

 「市場というのもおもしろいかも知れない」

 どうするにしても早くしなければいけない。腹が減ってもじっとしているのはだいじょうぶだ。でも歩くのに腹が減っていては歩けなくなってしまう。まだあの朝の団子の力が残っているうちに行かなければいけない。

 それに、夜のうちに森沢郷の先まで抜けてしまわないといけない。子どもの脚では時間がかかる。子どもが一人で歩いているところを見つかればつかまえられて連れ戻される。

 そう思った毬は跳ね起きた。

 跳ね起きたとたんに、異変に気づいて息をのむ。

 戸口から光が漏れている。夜が明けたようすではない。そんなに長く寝たつもりはないし、それに、光は揺らいでいる。しかも色が赤い。

 朝の明かりではない。

 松明(たいまつ)の明かりだ。

 でも、こんな夜にだれかが義倉に来る?

 もし、その借銭がらみで義倉を開けなければならなくなったとしても、来るとしたら昼間に来るだろう。こんな夜に来るはずがない。

 だとすると……?

 あの市場の金貸したちだろうか? 毬のことが心配になって見に来てくれたのだろうか?

 それも何かおかしいと思った。金貸したちは自分らがこの義倉の場所を知っていることを村人に勘づかれるのを怖がっていた。来るとしても、松明なんかかざして来るはずがない。

 では、葛太(かつた)がようすを見に来た? 昨日は月が出ていたから松明なんかいらなかったけど、今日は曇っていたはずだ。だから松明をつけてきた?

 ――不用心なんだから!

 いろいろ考えをめぐらせていると、ばん、という音がして、戸が開いた。

 毬はいちおう身を隠したけれど、金貸しか葛太かも知れないと考えている。それがだれなのか見てみようと思った。

 「おい」

 低い男の声! ということは……。

 ぱちゃっと音がした。上から何かを投げ入れたのだ。毬の足もとまで(ほとばし)ってくる。

 「きっ……」

 声を立てかけるのを毬は強く抑えた。

 外の松明の光が床にねっとりと揺らいで、部屋が目を覆いたくなるほどに明るくなる。

 油だ!

 ぱちゃっ……。

 毬は後ろを向いて逃げた。音を立てない用心どころではない。

 石の床に油だ。滑る。膝をついてしまう。手をついて立とうとすると右の(てのひら)にまでべったり油がついてしまう。しまったと思うがそんなことを気にしていられない。

 ぱちゃっ……ぱちゃっ……ぱちゃっ……。

 外の男どもは惜しげもなく油を投げこんでいる。それの意味を考えているほど毬には余裕がない。

 毬は床の上で何度も転びながらいちばん奥までたどり着いた。

 声を抑えていたこともあって、外では毬がいることには気づいていないらしい。

 毬は懸命に井戸に通じる抜け道を塞いでいた石を取り除ける。油のせいで手が滑る上に、床も滑るので力が入らない。二度、三度と転ぶ。転んだ拍子に石が転げ落ちた。

 「ふにゅっ」

 石の上で体を打ち肌がすりむける。だが、立ち上がって、毬は石の上ならば少しは滑らずにすむと気づいた。毬は井戸との壁から抜いた石を少しずつ取って床に積み、その上に立って井戸側の壁の石を抜きつづけた。

 少しは背の高さが稼げたこともあって、壁の石はこれまでの倍の速さで抜いていくことができた。

 後ろでこつんという音がした。どうっという音といっしょに明かりが襲ってきた。

 「うそっ!」

 こつん、こつんと間延びした音がつづく。

 毬は油で滑る足で力いっぱい床に積んだ石を蹴った。壁に身を預ける。だめだ、動かない。毬は手を上げて力いっぱい(かいな)と拳とで壁を叩く。壁はゆっくりと崩れる。毬はその崩れてできたすき間に体ごと飛びついた。

 そんなことをしたら古井戸に真っ逆さまに落ちてしまう。そう思ってここまで慎重にやってきたのだが、そんなことは言っていられない。

 やつらは火をつけたのだ!

 「ぬぅっ!」

 毬は古井戸の下に真っ逆さまに落ちた。が、足を後ろに回して軽く後ろに蹴ってみる。

 「いぃっ!」

 狭い井戸だ。反対側の壁に足が触れて擦れる。足の骨の髄に痛みがいっぱいに走る。

 毬は痛いのを承知で足を突っぱった。

 「うんぎゅっ……」

 こんどは反対側の壁にいやというほど頭と壁をぶっつけた。鋭い痛みと鈍い痛みがいっしょに襲ってくる。それに絞り出されるように甘い唾が口に広がり、口の端からよだれが漏れた。

 毬の体は狭い井戸の穴につっかえたかたちで、さっき逃げ出してきた穴の二尺ほど下で上を向いて止まっているらしい。

 「なんてことを……」

 その毬の口から苦しいことばが漏れた。

 だれだか知らない。義倉に火をつけたのだ。

 火をかけてぜんぶ焼かれてしまったあの治部大輔(じぶのたいゆう)様の館の焼け残った穴蔵だ。そこにまた火をつけたのだ。

 そして、村人が少しずつ蓄えた米を焼いてしまうのだ。

 「なんてことを……」

 二度めに言ったときには毬は少し落ち着いていた。でも落ち着いてどうなるというわけでもない。

 毬のすぐ上で、明るい鮮やかな炎と黒い煤が渦巻いている。それも井戸じゅうに渦を巻いて上に上がっていく。

 このままでは焼き殺されてしまう。

 下へ逃げる? 古井戸の底に?

 いや、そんなことをしたら逆に蒸し焼きになってしまうかも知れない。それに底に落ちたら二度と上がれなくなってしまうかも知れない。それほど深くない井戸ならば毬ならば這い上がれる。でも、この館地は小高くなっている。そこから掘った井戸だ。深いに違いない。

 あの春野家に井戸に落ちて死んだ姫君がいたことを思い出す。春野家の城館も高いところにある。それは村から見て知っている。だから井戸は深いだろう。その底に落ちたら、助からないのはもちろん、死んだ(むくろ)もすくい上げてはもらえない。

 毬もここで落ちたらそうなる。そんなのはいやだ。

 でも、どうする?

 すぐ上で燃える炎の熱を避ける方法もないまま、毬は目を見開いて考えた。

 壁が熱くなってくる。このままでは支えていられない。

 いや、毬の着物そのものが油を吸っているのだ。火の粉がかかれば火がついてしまう。

 毬は目を見開いていた。

 火の勢いが強くなり、火の(かたまり)がひとつぶんと噴き出してきた。

 毬の体が動く。

 「ういっ……」

 そのとたんに足が滑った。たしかに油だらけだったのだ。毬の体は少し落ちる。毬は何でもいいからと思って体を伸ばした。がりがりっと壁を擦って体が止まる。

 膝と肩と頭で体が止まっている。頭の後ろを擦って血がじっと滲みてきているのがわかるけれど、どうにもしようがない。

 自分の体がどうなっているか確かめようとした。だが、暗くて何がどうなっているかわからない。

 暗い?

 なぜ?

 いや、炎は消えていない。毬が抜けてきた穴からは光が漏れている。しかし炎は……?

 何がどうなったかはわからない。だが、いまを逃せば助からない!

 体が先に動いていた。爪先は滑る。左手はいいのだが、右手はさっき油にまみれていてやっぱり滑る。

 左手と、右手の甲と腕と、両足の膝とで、滑らないようにしながら井戸の壁を()じ上っていく。

 自分が抜けてきた穴を通り過ぎて上に行く。なかがどうなっているかを見る暇はない。ただ火がやっぱり(さか)んに燃えているのはまぶしい光と熱とでわかった。

 毬は壁を突っぱっている手や足が熱いのを感じた。刺すような痛みがするだけではない。どろっと気もちわるく滑るような感じがする。壁が灼けていて、それで火傷し、たぶん膚が剥けているのだ。滑ったあとには針千本を塊にして突き刺したような痛みが来る。

 しかし、いまはたとえ火傷して、皮がすっかりなくなって骨だけになっても、ともかく体を支えつづけるしかないのだ。

 風が毬の髪を勢いよく吹き流す。着物も吹き流す。その風の力で毬の体は井戸の底に吹き落とされてしまいそうだ。

 「だめ……」

 そこに井戸の縁が見えている。左手の指先から一尺ほどしか離れていない。

 それなのに、左手の指先に力が入らない。何か手がかりを掴まなければならないのに、左手には掴む力どころか、手がかりを探る手触りすらなくなってきたように感じる。

 いや、体が、とくに自分を支えている手足が重く、鈍くなってくる。

 「うっ……」

 呻く。呻くと同時に、がんばりきる力が口から(くう)に漏れるように感じる。だから口を閉じようとするのだけど、閉じると逆に抑えきれなくなって
「ふうっ」
と大きく息が漏れてしまう。

 手足が(ふる)えてきた。

 風は無情に毬を落とそうと強く吹きつけてくる。

 「うんっ」

 毬の喉がひとりでに鳴った。

 それが毬の祈りの声だったのか?

 それに答えるように風が止まった。身が軽くなる。

 「あぶないっ!」

 毬が(からだ)を跳ね上がらせた。

 どこにそんな力が残っていたかはわからない。

 その跳ね上がる毬の躯の後ろを押すように、いや、それに追いついてくるように炎の塊が飛んでくる。

 「あぎゃっ」

 間に合わない!

 毬の身体は井戸の出口で炎の塊に捕らわれる。そしてその炎の塊につつまれて井戸から跳ね出された。

 ただでさえ油まみれなのだ。

 「あぎゃあっ!」

 毬は懸命に叫んでいた。転がり回った。懸命に転がりながら帯を探っていた。解いている暇はない。引っぱる。ちぎれない。もっと力を入れて! 切れた!

 毬は焼け残り杭か枯れ草の根かにわざと着物を絡ませてぐるんと回る。回って勢いで立ち上がる。

 毬は腕と脚とを少し開いたまま、大きく、肩どころか腰から上の全部を揺り動かして激しく息をし、あたりを照らしながら燃えている自分の着物を見下ろしている。

 昨日の夜、葛太に言われて、懸命(けんめい)に引き被ってきた着物だ。

 少し離れた向こうでは抜け穴の井戸が炎を吹き、その炎は井戸のまわりの草にも燃え移っていた。

 毬ははっとした。明かりに照らされると見つかってしまう。

 毬は後ずさりした。

 そのとき、ごっ、ごごっという鈍い音がした。毬は後ろに退き、咄嗟(とっさ)に身を伏せて頭を押さえる。

 大きな地響きがした。毬の体は、地面にぴったりくっついているにもかかわらず、大きく揺すぶられた。地から天へたたき上げられ、また天からたたき落とされるようだ。ごんとかどんとかいう鈍い音といっしょに地揺れが繰り返す。それといっしょに勢いよく井戸のあとから火が噴き出しているのがわかる。頭を押さえながら盗み見しただけでわかるのだ。

 こんどはがらがらがらがらという音が響いた。天を支える柱が崩れたかと思うような音だ。しかしそれは急に遠くくぐもって消え去る。

 「何?」

 それきり、地揺れも、大きな柱が崩れるような音もやんだ。それでも毬はしばらく頭を押さえたまま地面に貼りついていた。

 もう天地が動かないことを確かめて、毬は頭に手をやったまま這い起きる。

 「はああああっ!」

 悲鳴とも慨嘆の叫びともつかない声が毬の喉から出る。

 いや、喉が絞れすぎていてそれは声にもならなかった。

 何もない。

 何もなくなっていた。

 義倉の穴蔵のあった場所は、ちょうどそのかたちのまま地面が崩れて窪地になっている。そこから、いくつか大きな切石らしい四角いものが天に向かって突き出していた。大きな墓石のようだ。

 井戸も崩れたのか、炎が噴き出す穴は見あたらなかった。

 まだ未練がましくさっきまで自分が着ていた着物の切れ端が燃えているだけだ。

 毬の体から力が抜ける。けれども毬は(しゃが)んでしまいはしなかった。

 炎は消えていなかった。入り口のほうからは、弱くだけれど、ときどき炎が漏れ、燃え上がっているのが見える。

 そして、そこに男たちの姿が見えた。

 「これでぜんぶ燃えてしまいました」

 「うむ。長居は無用だ。急いで村に戻らなければ」

 「南の道に回りましょう。もしこちらの道を行けば、気がついてこちらを見ている村人がいたら見とがめられてしまう」

 「思ったより派手なことになったからな」

 「うん」

 「さ、早く」

 男たちは、まだ燃え残る炎を残したまま身を翻した。川中村の畑のほうに下りていく。

 「中の村……」

 毬の力が抜けるのが止まった。いや、さっきの毬の力はぜんぶ抜けてしまって、気がついてみると、ぜんぜん力の抜けていない毬の躯が別にあったという感じだ。

 「南の道……」

 急がないといけない。

 あの者たちが南の抜け道を行くなら自分には別に行き道がある。だれも知らない道――というより、道ではない行きかただ。

 石垣を攀じ登り、木を攀じ登り、溝を這わなければならない。しかも、あの村は、下手に道でないところを行くと逆茂木(さかもぎ)が仕掛けてあったり落とし穴があったりする。注意がいる。

 擦り傷と切り傷と火傷だらけの身体でだいじょうぶ?

 そんなことを考えている余裕はない。

 毬は歩き出した。体じゅうが何か(うず)いたようだったけれども、足取りはまちがいない。毬は館のある丘を道を選びながら下っていく。

 ふと、いつか、いや、ついさっき歩いたところを行っているように思えて、毬はふと足を止めた。

 そうだ。毬はそこを歩いた。さっきまで歩いていた。

 燃え残りの炎が照らす牧野治部大輔の館の跡で、いま、あの桜がいっせいに花を咲かせはじめていたのだ。

 毬は、今度こそ、渾身(こんしん)の力を振り絞って、その桜のあいだを駆けていき、やがてその姿は闇にまぎれてしまった。

 毬の身を追うように、空からはついに大粒の雨粒が地に落ちはじめていた。

― つづく ―