夢の城

清瀬 六朗


桜の里(七)

― 1. ―

 中原郷の中原村ではまだ雨は降り始めていなかった。

 いまにも降り出しそうな村の道を、片手に大きな箱と土器(かわらけ)の瓶を提げ、片手で提灯をかざしながら、女が急いで歩いていた。

 女はあの長野雅一郎(まさいちろう)の妻のたみだ。

 この村の道は歩きやすくない。道のまん中に石が突き出していたり、草の刈り株が残っていたり、それどころか草が伸びたまま倒れて枯れていたりする。急に段差があったり、道のまん中に水たまりがあって何日も乾かなかったりもする。

 きちんと道普請(みちぶしん)をしていないからだ。

 しかし、たみは、両手がふさがったままで、その歩きにくい道をすいすいと進んでいく。

 ふと、たみは、坂の下の街道口のほうから男が一人歩いてくるのを見つけた。その男はこの暗いのに提灯も持たず歩いてくる。

 背格好と歩きかたから、それは村の南境に家屋敷を持つ若い地侍の立岡(たつおか)府生(ふしょう)拓実(ひろざね)だとたみは思った。

 拓実が歩いているところはまだ遠い。けれども、このままたみが歩いていくと、道が合わさるあたりで拓実とちょうどいっしょになる。

 拓実は実直な若い侍だった。ついこのあいだ、父親が隠居し、家を継いだばかりである。

 よく働くし、名主にも遠慮しないでものを言う。雅一郎はときとところをわきまえていないと言って嫌っているけれど、雅一郎にも拓実ぐらいの剛直(ごうちょく)さは持ってほしいとたみはいつも思っている。

 「おたみさん」

 拓実のほうから声をかけてきた。

 「あら、立岡の旦那様。どちらかへ行かれていたのですか?」

 「坂口(さかぐち)のはるのところに行っていました」

 「まあ。赤子(あかご)のことで?」

 「ええ」

 拓実はたみと並び、少し照れたように笑った。

 「お荷物か明かりか、どちらかお持ちしましょうか?」

 「ああ、ありがとう」

 たみは人なつこそうな笑いを見せて拓実に答える。

 「でも、いいわ。慣れてるから」

 拓実は頷いた。たみの横を半歩ほど前について歩く。

 「長野の旦那様は牧野にお(つか)いだそうですね」

 「ええ、まあ」

 たみはあいまいに笑ってみせる。

 「たいへんなお仕事のようで?」

 「あのひとがやたらとたいへんがっているだけですよ」

 「いえ」

 拓実は短く言って、
「十郎丸様がいっしょなんでしょう?」

 十郎丸というのはあの範大(のりひろ)の幼名である。というより、ついこのあいだまでその名まえを名のっていた。

 「十郎丸様の遠出というとほんとうにたいへんだと、父がよく申していましたよ。輿(こし)が揺れただけで泣き出すので少しも進まないと」

 「ああ、そうか」

 たみはだいじなことを思い出したような声を上げた。

 「お父上は十郎丸様の元服のときに城館までお供されたんですね」

 「ええ」

 「お父上はお元気?」

 「隠居してかえって元気になりました。母もですよ。しばらく町のほうに出て暮らしてみたいなんて申してます。年をとったらにぎやかなところで気ままにやりたいと言うんですけど、どうなんでしょうね」

 で、顔を上げて道の先のほうを見る。

 たみは、白い髭をいっぱいに蓄えた豪放そうな拓実の父のことを思い出した。

 たしかに明るくて開けっぴろげな性格で、人と大騒ぎするのが大好きで、村の者たちをよく楽しませてくれる男なのだが、やっかいなことは嫌いで面倒くさがりなのが少し困ったところだ。

 「町に出たってよいことなんかありませんよ。だって……ねえ、ああいうのがごろごろしてるだけなんでしょ?」

 「ああいうの?」

 拓実は悪口をすぐに解さないところもよいとたみは思う。

 「ああ……。でも、名主様が町から来られたといっても、町にはああいうひとしかいないということはないですよ、いくら何でも」

 拓実は笑ってから、顔を曇らせた。

 「しかし、名主様ははるさんに赤子が生まれてから何のめんどうも見ていないらしい。しかも、おなかが大きくなってから一度はるさんを呼び出し、いろいろと自由のきかないはるさんに菜を作らせておきながら、まずいと言って怒ったそうな。まったく、はるさんが生んだのがご自分のお子だというのに」

 「いつものことじゃありませんか」

 たみはさすがに笑って言い返すわけにはいかなかった。

 「これで七人めでしょう?」

 「そんなことはありませんよ」

 拓実はすぐに言い返す。

 「わたしの知っているだけで十一人めです。もちろん十郎丸様は別にしてですよ」

 「まあ」

 たみはあきれた声を立てる。拓実はつづけた。

 「しかも、十郎丸様のほかは、生まれた後の面倒をまるで見られない。というより、あのひとは、自分が手をつけても、自分の妻以外からは絶対に自分の子どもは生まれないはずだと信じておられる。だから、ほかの女から生まれた子は自分の子ではないと心から信じておられるのです」

 「まさかそんなことは……」

 たみは言いかけて、ふとことばを止めた。で、拓実の顔を見上げて、
「あ! あるかも知れない、あのひとなら」

 「でしょう?」

 拓実は笑う。

 「だからいつもお(いさ)めしてきたのです。しかし、いっこうおさまらないばかりか、最近はますますひどくなっている」

 拓実は苦々しく言った。

 「お父上が名主になっておられたらこんなことにはならなかったのにね」

 たみが気の毒そうに言う。拓実は苦い顔のまま笑った。

 「父はああいう役のつくことが嫌いできらいでたまらないのですよ。それに、お(しげ)伯母さんは、先代の名主様にはあまり好かれておいででなかったが、気だてのいい人でしたからね」

 茂というのは、前の名主の中原令史(りょうじ)吉継(よしつぐ)の娘で、あの造酒(みき)克富(かつとみ)の妻だった。その妹の(のぶ)が立岡家に嫁ぎ、この拓実の母となった。

 「でも、令史様はお父上を跡継ぎと考えておられたようではありませんか」

 「やめましょう、その話は」

 拓実はため息をつきながらきっぱり言ったので、たみも話を止めた。

 拓実とたみは無言で並んで歩く。しばらくして拓実がきいた。

 「おたみさんはいまからどちらへ行かれるんです?」

 「この村で夜に女が一人で出歩いていたら、行く先は一つしかないでしょう? いま言ったそのひとのところですよ」

 「旦那をよそに使いに出しておいて、それでですか?」

 拓実は横目でたみのようすをうかがう。

 たみは笑い顔のまま斜め上の天を仰いだ。

 「でないと、まただれかほかの若い娘が犠牲になりますから」

 「だからといっておたみさんが犠牲になることはないじゃないですか」

 「あぁらっ」

 たみはわざとむりに若くつくった浮かれたような声を出した。

 「立岡の旦那、わたしのことを心配してくださるのっ?」

 「当然ですよ」

 拓実はべつにごく普通のことのように言う。

 「あらつまらない」

 たみは言って口をとがらせた。で、拓実に寄り添うようにして、こんどは斜め上に拓実の顔を仰いだ。

 「ね、あんたはいつあの坂口のはるちゃんを嫁にとるんです?」

 「いっ……」

 拓実は、それまでと変わらず歩き、顔色も変えなかったけれど、残念ながら声がうわずるのは防げなかった。

 「そんなことまだ決めてませんよ。はるさんを()るなんて」

 「あらはるちゃんかわいそう」

 たみは拓実を(ひじ)でつついてひがんだ顔をしてみせる。

 「名主様の手がついたからって自分の好きな人にそんなふうに言われるなんて」

 「だからそういうことじゃないですよ」

 拓実はさすがに少し不愉快そうだ。でもたみは軽く
「じゃ、どういうことなんですか?」

 で、拓実が何か答える前に(しな)を作って笑う。

 「それじゃわたしはここですから。立岡の旦那は()なしでだいじょうぶですか」

 名主の家はここから分かれて少し上がったところだ。

 「ええ、平気です」

 「それでは、また」

 立岡府生拓実はしばらくたみの後を目で追っていた。たみの持っていた提灯の明かりが名主の館の門に消えるまで見送る。

 拓実は、その名主の館のほうを、ずっと唇を咬んだまま見つづけていた。

 その拓実の着物に、ぽん、ぽんと雨が当たりはじめた。

 拓実はぶるぶると顔を振ると、自分の家への道を大股に歩き始めた。


 牧野郷川中村の明徳教寺では、庫裡(くり)のいちばん奥の間で、中橋渉江(しょうこう)が書見をしている。板の間の上に椅子を置いて、高い机に書を広げ、ときおり(うな)り声を上げながら上から下へと字を追っている。そしてまた、ときおり朱筆を執り、何かを小さな字で丁の上に書きこんでいた。

 「安総(あんそう)か?」

 「はい」

 そして、中橋渉江の書見は、この夜、二度めに中断されることになった。

 渉江はすぐには椅子を降りなかった。安総尼のいるとおぼしきほうに少し顔を向けて声をかける。

 「(せん)の問答に何かよい答えでも思いついたか?」

 「いえ」

 安総はすかさず答える。

 「ご使者がおられませんのでお知らせに上がりました」

 「ほう」

 渉江はいったん細筆を執り、それを(すずり)の横に置き、机の上の書を閉じて安総のほうを振り向く。

 安総はさっきと寸分違わぬ場所に同じように座って、渉江の顔を見上げていた。

 「おられぬとはどういうことだ」

 「はい」

 安総は言って頷き、まばたきをしてからつづけた。

 「僧坊の裏の間におられません」

 「三人(みつたり)ともか?」

 「はい、三人ともです」

 「うん」

 渉江は書見で難読箇所に行きあたったときのように唸り声を立てた。

 「そのあたりは探してみたか?」

 「探していません」

 安総の答えは早い。

 「しかし、この寺でもこの村でもどこといってお行きになるところはないはずです」

 「そうだな」

 渉江は眉をひそめ気味にして考えている。

 「昨夜の広沢の(まり)のこともあります」

 「うむ」

 渉江はゆっくり首を振った。

 「だがあのご使者の三人はそうかんたんに変事に巻きこまれるような者たちではないと思うがな」

 「それは?」

 安総は少し考えてから、
「殺してもそうかんたんには死にそうにないということですか?」

 言って、上目遣いに渉江を見上げている。渉江は苦笑いした。

 「まあ、そういうことだ」

 「はい。それはそう思います」

 安総は言って頷いた。

 「ふむ……それはそれとして」

 渉江は首を傾げてみせた。

 「……どこへ行ったのかだな……」

 艶のある白い焼き物から出る炎は、やはり、どこからか入ってくるらしい風に躍っていた。

 「中橋様」

 障子の外で声がした。男の声だ。

 「北坂上の大子三郎(おおねさぶろう)です。北坂下の猪次(いのじ)もいます」

 「あ、ああ」

 渉江は安総のほうに首を向けて頷いた。安総が障子を開く。

 「入りなさい」

 安総が場所を空けると、萎烏帽子(なええぼし)をつけ、色の()せた着物を着た男が二人入ってきた。()せてはいるが、体を弾むように動かす。二人は、安総の横に並んで、爪先を立てたまま膝をついて座った。

 「どうした?」

 「それが……」

 大子三郎と猪次は言いにくそうに顔を見合わせてから、これまでと同じように大子三郎が渉江に告げた。

 「わたしのところの小者どもが治部(じぶ)様のお館で狐火(きつねび)が見えるとか鬼火が舞っているとか言い出しまして、そんなはずがあるかと寝かせつけたのですが」

 「ところが、恥ずかしいことにわたしのところでも下女や小者が騒ぎ出しまして」

 猪次がつづけて告げる。

 「それだけならよかったんですが、うちのがこんどは仏様を見たと言って騒ぎ出して。それで子三郎と語らって、やはり中橋様をお訪ねしようということに――いや、夜分にお騒がせするのはどうかと思ったのですが、うちのが騒いでしまって床に着かぬのです。それで恐れながら」

 「うむ」

 渉江は短く言い、安総と村人二人を見回してから立ち上がった。

 「少し様子を見てくる。安総」

 「はい」

 「わたしが戻るまで、ここで待っていなさい。だれかたずねてきても、その鬼火や狐火の話をするのではないぞ」

 「はい」

 「ではいちばん近い道を行こう」

 「はい」

 やはり大子三郎が返事をした。中橋渉江は村人二人といっしょに大股に歩いて出て行く。

 残された安総は、じっと顔を上げて、艶のある白い焼き物の上の銀の覆いを()めて広がる油灯の炎を見ていた。

 飽きもせず、ときどきまばたきしながら見ていた。


 中原村の名主屋敷の奥の間では主人の中原造酒(みき)克富(かつとみ)が酒をあおっていた。

 「おおっ! さすがに豪傑の酒でございますねっ!」

 横で手をたたいて克富を持ち上げたのは、たみである。たみは、克富が弱々しく差し出した杯に、自分の横にあった瓶から酒を注いでやる。

 「それもこれも」

 克富は藁座から肘置きまでずいぶん離して身を斜めにしていた。これはいつものことだが、身の振る舞いが大きくなっているのは酔ったせいだろう。

 「おまえの作ってくる(さい)が旨いからよ、な」

 言って、克富はまた杯から酒を口に運ぶ。しかし、こんどは全部を飲んでしまうことはせず、途中まで飲んで膳の上に置いた。

 「近ごろの小娘どもは、少しは器量がよくても、どうにも菜を作るのが下手でいかん。ほれ、街道口の、坂口の家のはるなどというのは、かわいいということで評判になっておるようだが、あいつの作る飯はこれよりないというぐらいにまずかったぞ」

 「菜を作る腕は年を経て上がりますからね」

 さっき会ったときにあの立岡府生が言っていたのがこの話だろう。たみはすまして言った。

 「器量が年を経て落ちていくのと逆で」

 「うん?」

 克富は身を後ろに退いて、目をまん丸くし、たみの顔をのぞきこんだ。

 「おまえはいまになってもかわいいぞ。うん?」

 身と頭をわざと左右に揺すりながら、両手を広げてたみに抱きつく。小柄なたみの肩の下あたりに斜めから手を回す。たみはべつに逆らわなかった。克富の膝が肘掛けを押しのけたので酒の入った瓶がひっくり返り床を転がる。でも、そんなこともあろうと思っていたのか、たみがさきに栓でふたをしていたので酒はこぼれなかった。

 たみが抵抗しないのを見てか、克富は、斜め後ろから頬をすり寄せると、顎でたみの肩を押し、自分の頬でたみの頬をする。

 「う〜ん、かわいいではないか、たみ。うんうん。女は歳ではないぞ。気性のよい女はいつまで経っても体が若い。そこへ行くと街道口のはるなどというのは」

 「女を抱いたまま別の女の名を出すのはおやめなさいませな」

 たみが言いながら自分の右手を上げて克富の背に軽く触れる。

 「それに、そのおはるにお会いになったときには、長野の妻のたみは、菜もまずければ(とし)をとって器量もまずいと言うのでしょう? ええ、ええ、どんどん言ってくださいまし」

 「そんなっ」

 あれほど笑って緩んでいた克富の顔が動かなくなり、笑みが消える。

 しかし、克富は、すぐに、前にも増して大きく顔を崩した。

 「そのようなことで悋気(りんき)するなど、おまえはかわいいの!」

 「そんなことでごまかそうと言ってもだめですよ」

 言いながらたみは克富の背中を指で繰り返しさすっている。克富は歯をむき出しにして笑い、自分の頬をたみの頬にいっそう力を入れて押しつけようとした。

 最初から(からだ)を斜めにしているのにさらに横に身を乗り出したのだ。克富の頬はたみの頬を滑って落ち、たみの左手の腕のなかに頭ごと落ちていった。

 「ほら、おふざけが過ぎますとこういうことになりますよ」

 克富はいっそう顔を崩して笑う。

 「こういうことというのは、たみ」

 こんどはわざとたみの腕から頭を落とす。その頭はたみの左の膝の上で少しはじけ返った。

 「こういうことか?」

 克富は笑う。

 たみはそれには答えず、左手で転んだ酒の瓶を取り、克富の体を上から覆うように身を乗り出して克富が置きっぱなしにしていた杯を取った。

 危うい手つきながら、瓶から杯に酒をつぎ足す。

 「ん?」

 「お上がりなさいませ」

 たみは乾いた声で言うと、その杯を膝の上の克富の口に持っていってやる。

 「お……お……すまぬな……おっ……おっ……おっ……っああーっ!」

 克富はたみの手に流しこまれるまま杯の酒を飲み干した。

 「ふおーっ……ぶるぶるぶる」

 自分の口で「ぶるぶるぶる」と言って、顔を震わせ、ついでに目を見開いてあちこちをにらんで見せてから
「ああ、目が回った……目が回った……目が回ったぞたみ」

 きいてたみは笑って見せた。

 克富は、ふうっと、たみの膝の上で息をつく。

 「しかし、おまえのような女を妻にしている雅一郎は果報(かほう)者だな」

 うかがうようにたみの目を仰ぐ。たみは目を細めて笑っていた。

 「あのように出来の悪い亭主を取り立てていただいて、感謝しておりますよ、名主様」

 「うんっ!」

 克富は目を細めて笑った。

 「いや、(まさ)は出来の悪い男ではないぞ、うん、うん、まじめによくやっている」

 「そうでしょうか?」

 たみが問い返す。(ねた)ましそうでもあり、心配しているようでもある。

 克富はさらに笑いかけた。

 「ただまじめすぎるのがよくないな。何ごともすぐに思いつめすぎる。うん」

 たみが答えないので克富はつづける。

 「その雅を立身させてやろうと、このたび、範大(のりひろ)につけて牧野に()ったのだ」

 いつにもまして「範大」が間延びし、「のーりーひーろー」になっていた。

 「はあ」

 たみは沈んだ声で言う。克富が、ふっと目をたみの顔に向けた。

 「えっ? 心配か?」

 「いえ、ただ、あの人が何か不調法をしていなければいいと思っただけです」

 「そんなことはない。そんなことはあるまい」

 克富は早口に言って打ち消した。で、たみのほうに顔を上げる。さっきより少し笑みが退いている。

 「じつはわしのこの名な」

 「はい」

 「やはり克富の「かつ」の字を、あの、何というかな、フジの字に似た「かつ」という字があるだろう」

 「ああ、はい」

 どうやら「勝」という字のことらしい。

 「あれに変えようと思うのだ」

 「はあ」

 たみはわからないというように息をついた。克富はそのたみを説き伏せようとするように声をつづける。

 「わしはもともとあの字を望んだのだ。しかし、あの字は民部大輔(みんぶのたいゆう)正勝公の勝の字に重なるということで許しを得られなかった。だが、だな、範大が越後守(えちごのかみ)定範(さだのり)公から範の一字をいただいているのだから、わしが勝の字を名のっても不都合はあるまい? ん?」

 「しかし」

 たみは困りとまどったような声を立てる。

 「城館様がお許しになりますかどうか。あなた様はその定範様の直臣でいらっしゃいましょう? 勝手に名を改められましては何かと……」

 「だから城館様にお願いするのだ。な? 妙案だろう?」

 「そのためには銭が入り用でしょう?」

 「なに、そんな銭すぐ集まる。すぐ集まるぞ。なんなら柿原から借りてもよい。なに、名主の名を上げるための金だからな。すぅぐ集まるぞ。これ、何を不景気な顔をしておる?」

 「はあ」

 たみはあいまいに返事し、そのかわり、克富の顔を見下ろして笑って見せた。

 克富は荒い息をしはじめた。酒が回ったらしい。

 「たみ」

 声もさらに呂律(ろれつ)が回らなくなっている。

 「わしは(しげ)にめあわせてもらって、中原の郷名主を受け継ぐことになった。いまではわしの名は名のある名主として三郡にとどろいておる。そうだろう?」

 「そうでございますね!」

 たみは明るい力の入った声で名主に言った。

 「な。あの牧野の名主など、一時は越後守さまに楯つきながら、借銭借米を返せないという情けないありさまではないか。そこへ行くとわが郷は借銭借米をきちっきちっと返しておる。しかも、越後守さまの直々の家臣となると、わしは、なんだ、柿原大和守(やまとのかみ)や柴山兵部(ひょうぶ)と同じ格だ。しかも、柿原はほれ、草ぼうぼうの竹井から出てきたいなか侍、柴山はまだ乳の香の抜けぬ子どもではないか。わしこそ越後守の一の家臣、そう、わしこそ越後守の一の家臣! それに範大の出世も決まったとなれば、茂も喜ぼう……そう、茂も喜ぼう……ぞ」

 その「ぞ」で力尽きた。やがて「勝富」になるはずの克富は体をぐなっとさせると、たみの膝から転がり落ち、床の上で左を下にして横になり、んすうっ、んすうっと寝息を立てはじめた。

 たみははじめて眉をひそめた。

 すっと立ち上がると、その克富の体をよけて回り、開き戸を打ち開けて部屋を出る。

 「たみっ」

 後ろから声をかけられて、たみは足を止めた。

 「たみっ……行ってはならん……行ってはならん……」

 で、また「ふすぅ……ふすぅ……」と寝息を立てはじめる。

 「(ふすま)をお取り申してくるだけですよ」

 たみは冷たい声で言った。

 廊下に出て、たみは、はじめて雨が降り始めているのに気がついた。

 手を上にかざして天を見上げる。

 天はたみの思いにたぶんかかわりなく、大粒の雨を落としつづけている。

― つづく ―