夢の城

清瀬 六朗


桜の里(七)

― 2. ―

 雨は、大降りではなかったけれども、少しずつ強くなってきていた。

 島のように盛り上がった牧野郷川中村の北西の角にある中豊(なかとみ)社の拝殿(はいでん)の裏から一群の男女が遠くを眺めている。

 ここの社に本殿はない。かわりに、拝殿の前に立つと、そのなかから遠く安濃(あのう)の森を見通すことができる。安濃社がここの本殿という扱いになっているのだ。

 すぐ近くに見下ろすことのできるのは牧野家の館の跡だ。晴れた昼間ならば細かいところまで見通すことができるはずだ。

 ただ、もとから曇っていて暗い夜でもあり、しかも雨まで降ってきて、はっきりと見通すことはできない。

 「しかしたしかに見たんですよ」

 大声を立てたのはふだん壺助(つぼすけ)と呼ばれている小者だ。この男が大子三郎(おおねさぶろう)の家で最初に火を見つけたという。

 「あのあたりでぼうっと火柱のようなものが立っているのが」

 「火柱?」

 「そう、こう」

 壺助が説明する。

 「真上にぼうっと、いや、ばあああっと」

 壺助は人差し指を立て、それを胸の前から頭の上まで派手に上げてみせる。

 「だから見間違いだろう?」

 ついてきたもう一人の小者がいう。この男は飛弥次郎(とびやじろう)と名のっていて、回りからは「(とび)」と呼ばれている。

 「おれは見なかったぞ」

 「では、飛は何も見ていないのか?」

 「ええ、ただ」

 「ただ?」

 「ぼうっとした明かりが――赤い明かりが地べたの近くにぼうっぼうっと広がっているのが。あれは狐火(きつねび)ですよ。いや、その柱のようなものは、見ていない、見ていないです」

 飛はなぜか知らないが手を目の前で激しく振る。

 「しかしいまはそのどちらも見えないな」

 中橋渉江(しょうこう)がそちらを見(すか)すようにして言った。

 壺助と飛は顔を見合わす。そこに、
「あの、私……」
と声をかけたのはお(りゅう)だ。北坂下の猪次(いのじ)の妻である。

 「地揺れがしたのを感じまして、起きて外を見ましたところ、大きくて赤いものが治部(じぶ)様の屋敷跡から天に上がっていくのを見ました」

 「大きくて赤いもの?」

 「はい、それは、そうでございます、お寺の塔よりも大きな大仏(おおぼとけ)様――炎のように明かり輝く大仏様のおんみ姿ではないかと」

 「炎のような仏様というとお不動(ふどう)様かな」

 「そんなはずが」

 猪次が声を(はさ)む。

 「魔が仏様の姿に似た姿を見せて人をたぶらかすというではありませんか。きっとそれですよ」

 「なんという(ばち)あたりなことをいうのです!」

 笠も猪次に負けぬ勢いで言い返す。夫婦がにらみ合いになったところに、後ろから
「きっと治部様が仏様になられたのですよ」

 声をかけたのは、猪次のところの年取った下女で、(にい)と呼ばれている。

 「治部様は気性の激しい方でいらっしゃいましたから」

 「おまえも見たのか?」

 渉江が振り向く。

 「いえ、天にお昇りになるところは私は見ておりません。私も地揺れで目を覚ましまして」

 「地揺れは感じた」

 「おれも感じた」

 壺助と飛も相づちを打つ。渉江は
「うむ」
と唸った。

 雨は本降りになってきた。あたりの木の枝や葉を叩く音がさあっと広がる。

 見通しはさっきよりずっと悪くなってきた。

 「で、新も何か見たのか?」

 「はあ」

 新はあいまいに言う。

 「よくはわからぬのですが、やはり地からその上っていった姿を送るようなぽうっとした光を」

 「赤かったか」

 「ええ、まあ、それは」

 「うむ」

 渉江は眉をひそめ、腕を前で軽く組んだ。

 「あのう」

 後ろから大子三郎が声をかける。

 「何と思われます?」

 「わからん」

 渉江は首を振った。

 「何かが見えたにはまちがいない。それも赤い明るい何かで、地面から立ち上ったように思えるな。壺助が見た火柱のようなものがやがてお笠さんの見た大きな仏様のお姿のようなものになり、その仏様のお姿のようなものが消えた後に地面に飛や新さんが見た明かりが残ったのだろう。あるいは、その火柱というのは、そのお姿のようなものが消えたあとに残ったものかも知れぬ。それもかなり激しくその姿を変えたということがわかるな」

 「なるほど」

 壺助が感心する。猪次も
「それならみんなが違ったものを見ていたのではなくて、同じものを少しずつ違ったときに見ていたから見えかたが違ったんだということになりますね」

 「だがそれが何かがわからん」

 渉江は(あご)に手を当てた。

 「鬼火(おにび)というような(いん)のものとも思えぬ。話を聞いたところではそれにしては明るすぎる。それに狐火というのは狐がよほど多くすんでいる山ででもないと見えないもので、里ではなかなか見えないものだ。このあたりに狐が多いともきかぬしな」

 「では、やはり」

 笠が言う。

 「仏様か、治部様かと?」

 「うむ」

 渉江は(うなず)く。

 「どなたかはわからぬが、大きな力をお持ちの方だと考えるのがよいのではないか」

 「ああ」

 笠と新は一歩を退いて、いまは雨を降らしている天へと両手を合わせた。

 「しかし」

 大子三郎は、最初は何か見えたという話には疑わしそうにしていたのが、渉江が何かを認めて、打ち消すことができなくなったようだ。同じように身を退かせて、恐ろしげに渉江にきく。

 「だとして、そのようなお方が、どうしていま現れられたのです?」

 「うむ」

 渉江はやはり雨を盛んに降らせている天へと目を向けた。

 睫毛(まつげ)を雨粒が伝っていく。

 「わからぬが」

 言ってから、渉江は目を下ろし、大子三郎のほうに言った。

 「気をつけろとわれらに伝えるためではないか」

 そこにいる者たちは一様に身を震わせた。

 「さあ」

 渉江はふだんと同じ声で言った。

 「何にしても今夜じゅうには何も起こるまい。雨の中に立っていると冷える。いまは家に戻って寝るがよい」

 「はい」

 村の者たちは動けずにいる。それにはかまわず渉江がくるんと後ろを向いて拝殿の角を曲がって行ってしまおうとするので、村の者たちが慌てて渉江を追う。

 その村の者たちの後ろで、小さく「うぃっ」という声がした。

 振り向く間もなく、ばさっと木の葉が擦れ合う音、どんという音と、ぱしゃんと水が広く跳ね飛んだ音とがする。

 何かが勢いよく落ちてきたのだ。

 「ひいいっ!」

 村の者たちは身をすくめた。

 いま怪異の話をしてきて戻るところなのだ。そこに空から何かが降ってきた。恐ろしげに立ち止まる。

 火柱を見たと言っていた壺助などは、その場に(しゃが)みこんでしまい、手を合わせて何か祈りのことばを口にしている。大子三郎や猪次も、立ってそちらのほうは見ていたが、足はいつでも逃げられるように一歩後ろに引いていた。

 中橋渉江は、振り向いて、その村人のあいだからその音のしたほうに向かう。

 「中橋様!」

 飛弥次郎が呼ぶ。中橋渉江は飛のほうを見返した。

 しかたなく、飛弥次郎が小走りに出て渉江に並ぶ。

 あっと声を立てた。

 「おい、だいじょうぶか? おい?」

 渉江が横を向いて飛に合図する。飛は
「はい」
とその落ちてきた黒い塊の下に手を回した。

 「なかばし……さま……もうし……あげたいことが……」

 「後で聞く」

 「あとでは……まにあいませぬ……」

 「体を温めるほうが先だ。それが終わったら、聴く。必ず聴く。だからいまはしゃべるな」

 「は……い……」

 相手がそう言うと、渉江は飛にまた合図をした。

 「立てるか?」

 「う……」

 渉江と飛弥次郎の二人で地面から起こして立てたのは――。

 何も身に(まと)っていない女の子だった。

 村の者は声も立てない。その者たちに渉江はこれまでにない厳しい声で言った。

 「ここで起こったことは、わたしが指図するまでいっさい口外してはならぬ。火の怪異のことからこの子のことまですべてだ」

 「はっ……はいっ」

 村の者たちはまだ恐ろしさにうちふるえている。

 たぶん、その女の子も、この世の者ではなくて、天から落ちてきたもののように思っているのだろう。

 「口にすればその者に考えもしない災異が降りかかるとでも思っておけ」

 村の者たちはいっそう恐れる。

 「それと、ご苦労だが、子三郎と猪次は家で起きて待っていてくれ」

 女の子を横抱きにしながら渉江が指図する。大子三郎と猪次は黙って揃って頭を下げた。

 「あとで安総を(つか)いにやる。安総の言ったとおりにしてほしい。これは村の行く末にかかわるだいじなことなのだ」

 「はい」

 大子三郎と猪次はやはり揃って同じように返事した。

 雨は降りつづいていて、枝や葉を打つ音、それに地面に溜まりはじめた水にさらに雨粒が打ちつける音が一面に広がっている。

 その広がっている音にまぎれるように、中橋渉江はつぶやき声で言った。

 「とんでもないことをしてくれたものだ」

 腕のなかの少女が身を動かし、その渉江の顔を見上げる。

 渉江は少女に向かって笑いかけた。

 「とんでもないことをしてくれたものだ」

 少女もその渉江に向かって笑い返したのが、村のほうから届く(かす)かな明かりでわかった。

 渉江は、もういちど、天のほうに目を移した。


 川上村の村西屋敷の大屋敷の奥の間では、膳の上に、(ふき)(とう)とぜんまいの煮付けと、塩漬けのぶりの焼いたものと、麦七分の飯を置いて、兵庫の妻美千(みち)が待っていた。

 「あのう……奥様……」

 屋敷の下から気後れした声をかけたのは下女のふくだ。背中に軒からの雨をしたたらせている。

 「何をしているの? 上がっていらっしゃい」

 「しかし」

 ふくは手を胸の前で(つか)ねてもじもじした。

 「わたしがお屋敷でお食事をいただくなんて」

 「いいのよ」

 美千は励ますように言った。

 「いつも精勤に働いてくれているのだから」

 「しかし」

 ふくはなおためらう。美千は厳しい顔をしてふくをにらみ、きっぱりと言った。

 「上がってきなさい」

 ふくは言われてびくっと背を伸ばしたけれど、すぐに
「あ、はい」
と照れ笑いして上がってきた。美千の向かいの藁座(わらざ)に腰を下ろす。

 美千はそのふくの前に膳を回してやった。

 「はあっ」

 ふくは頬を紅くして美千に顔を上げた。

 「奥様が炊いてくださったのですか」

 「いいえ」

 美千は優しく、少し得意げに笑ってみせる。

 「自分の分を炊くのといっしょに、おまえのも炊いたのよ。手間はたいして変わらないし。まあ、おまえほど巧くはないかも知れないけれど」

 「あっ……そんな。わたしのためなんかに」

 「ふく」

 美千は胸を張って言った。

 「おまえは自分の仕事をきちんとしているのだから、自分を卑しくいうことはないのよ。堂々としていなさい」

 「はい」

 「では、お上がりなさい。わたしもいただくから」

 「はい」

 ふくは、返事すると、もう何の心配もなさそうな笑みで両手を合わせて(はし)を手に取った。

 美千はぜんまいを少し取って口に運び、ふくは麦七分の飯を大きく箸で(すく)う。ふくは飯を多くまとめて取りすぎたらしい。噛んでいると口からこぼれそうになるのを押さえている。美千がそれを見て笑うと、ふくも同じように笑って見せた。

 「こうしていると、芹丸(せりまる)とお美那と四人でいっしょに膳を囲んでいたころのようね。芹丸は海の魚が好きで、人の膳から魚を取り上げようとするので困ったものだったわ。しかもお美那がそういうのにきつかったから、たいへんだったわね」

 「奥様っ……」

 ふくは何か言おうとしたが、口を開けたとたんに小さな口に詰めこみすぎた飯粒と麦粒が喉に引っかかってしまったらしい。

 脇を向いて左手をつき、右手で口を押さえて、何度か咳をする。それでも、()れ声で、
「それを口に出されては……なりません……万一……」
と言うあたりなかなかの忠臣ぶりである。

 「いいじゃないの、あなたとわたししかいないのだから」

 「いえ、いけません!」

 美千のいささか弛んだ声に、厳しい声をかけながら、ふくは立ち直った。でもまた咳きこんでしまって、慌てて口を押さえる。それで、
「慌てていちどにたくさん食べるんじゃないの」

 諭しているはずの美千に諭される。

 「はい。すみません」

 で、こんどこそ、きちんと口のなかのものをのみこんでから、きちんと座りなおし、美千に向かって(いさ)めのことばを送った。

 「えっと、それで、えっと、ですね、その、気やすく、口に出すことを習いとされますと、いざというときにそれがお口から出てしまい、命取りと、なりかねませんので、ご用心くださいませ」

 言っておいて、それで正しいのかどうか、というふうにふくは美千の顔をうかがう。

 「はい、気をつけます」

 美千は小さく笑ってお行儀よく小さく頭を下げ、自分は魚に箸をつける。

 ふくはもういちど飯をほおばろうとしたが、思い直してぜんまいを拾い上げた。

 美千が声をかける。

 「それで、ふく」

 「はい?」

 「おまえに川中まで行ってもらったわけだけれど、その寄合はどう決まったの?」

 「はい」

 これだけ話して、それぞれ、塩ぶりとぜんまいを口のなかに運んだ。

 こんどはふくのほうが先に食べ終わる。

 「二年前までのものは返し、一年前のものは私たちの村では待っていただき、いずれも利息分は待っていただく、もしくは、話し合うことで利息はなかったこととしていただくと、そのようなことに決したとのことですけれど」

 「それでは、二年前までのものはともかく返すのね?」

 「はい……」

 ふくは顔を少し伏せて、美千と直接に目が合わないようにする。

 美千はため息をついた。

 「そうなればこの屋敷も売り払わないといけないわね」

 「いっいえ」

 ふくが慌てて言い、顔を上げる。

 「今度ばかりは義倉(ぎそう)を開いて応対なさるそうです」

 「義倉を?」

 美千は驚いた。

 「去年も、一昨年も、あれだけ村の人が困っていて、それでも義倉は開けなかったのよ?」

 「ええ、でも」
とふくは言う。

 「お(ふさ)様にお聞きしたところでは、借財は利息でふくれるけれども、義倉の米は増えないので、差し引きするといま義倉の米で支払っておいたほうがよいとのことで」

 お総というのはあの安総尼の俗名(ぞくみょう)だ。川上木工(もく)の娘として川上村にいたあいだはずっと「総」という名だったから、この村の者にはそのほうが通りがいい。

 「総さんがそう言ったってことは、それが中橋様のお考えということなのね?」

 「それは聞いていませんが」

 ふくは顔を伏せた。魚をつつこうとしていたからだ。

 美千とふくは魚の身を口に含んでしばらく黙る。

 「そういえば」

 「なに?」

 「町の金貸し衆のご使者のなかにお美那という方がおられるそうで、それがお美那さんに年格好がそっくりだというので、噂になっていました」

 「年格好がそっくりって……」

 美千はとまどった。

 「でももう何年も姿を見た者はいないのよ。しかも娘であればいちばん容姿の変わる年ごろでしょう?」

 「はい」

 「で、ほんとうにそうなの?」

 「それが……そうだという方と、違うという方で分かれているようです。なんでも、あのお美那が、町で金貸しになって、村に報復をするためにわざわざ使者になって村に来たとか、そのお美那に直接に話をきいたとかいう村人もいるようですが」

 「そんなことするわけないでしょう、あのお美那ちゃんが」

 美千はうんざりしたように言う。

 「そういうもってまわったことのきらいな子だったんだから。気に入らないことがあったとしたら身分なんか隠さないで乗りこんでくるわよ、そう思うでしょ?」

 「はあ、たしかに……」

 ふくは勢いよくうなずいたものの、何か歯切れが悪い。ふくは美千が何も言わないので、報告をつづけた。

 「お総様はそのお美那さんを勝吉(かつよし)様たちのお墓にお連れするとおっしゃっていましたが」

 「思い切ったことをするわね、総さんも」

 美千が驚く。

 「もっとも、総さんは直接にはあの子は知らないはずだし、中橋様もご存じないわけだから、こればっかりは中橋様にもはっきりしたことは言えないわけね」

 「奥様かわたしが直接にお会いすればわかるのでしょうけれど?」

 「あのね」

 美千はつづけて言うまえに飯を掬って口に運んだ。

 「そんなことをしてほんとうにお美那だったら、たがいに困ったことになるでしょう? だいたいそうでなくてもこの村西の家は村人に目をつけられているというのに」

 「はい、そうでした」

 ふくは首を引きこめた。

 「それで」

 首を引っこめて背を丸くしているふくに、美千が声をかける。

 「はい、何でしょう?」

 蕗の薹を口に運ぶ途中のふくが顔を上げる。美千はことばをつづけた。

 「(まり)のことはどうなったの? 何かわかった?」

 「いいえ」

 ふくは顔を伏せたまま首を振り、目をつぶった。

 「ほんとうに毬は殺されたんでしょうか?」

 「ふく」

 あらためて呼びかけられてふくは顔を上げた。

 蕗の薹はまるのまま箸ではさんだままだ。

 美千は諭すように言った。

 「お美那にしても、毬にしても、おとなしく何のあとも残さずに殺される子ではないでしょう? それはわたしたちがよく知っていることじゃないの」

 「はい……」

 「だからそのことは安心するのよ」

 「はい」

 美千に言われて、ふくの顔に笑みが戻り、そして、何の気もなく蕗の薹をまるのまま口に入れて勢いよく噛んだ。

 で、間もなく苦痛で顔をゆがめる。口の端から緑の汁を吹き出す。

 美千が慌てた。

 「どうしたの?」

 「……苦いです……」

 救いを求めるような声でふくは言った。美千は笑う。

 「蕗ですもの、苦いのはあたりまえでしょう?」

 「あのっ!」

 ふくは懸命にことばを継ぐ。

 「あくは抜かれましたかっ……奥様っ……」

 「うん?」

 美千は目を大きく開いて見た。

 「あ? え? そうなの?」

 「奥様はお上がりになって何ともなかったのですか?」

 「いえ、こういう味を楽しむものかなって……」

 「はい……はぁ……」

 苦さで涙の浮かんだ目でふくは美千の顔を見上げて笑った。

― つづく ―