夢の城

清瀬 六朗


桜の里(八)

― 1. ―

 その日の昼になっても雨は降りつづいていた。朝ほどの大降りではなくなっていた。あの朝の大寄合(よりあい)のときがたぶんいちばんの大降りだったのだ。

 昨夜のような風もおさまっていた。だから、庫裡のいちばん奥の中橋渉江(しょうこう)の部屋でも、今日は煙を気にせずにいろりが焚ける。

 そのいろりの(はた)安総(あんそう)が藤野の美那と話をしたり笑いあったりしながら蕎餅(そばもち)をこねたり伸ばしたり丸めたりしている。あとで焼いて中食にするのだ。

 鍋屋の隆文と銭屋のさわが、その後ろに気の抜けきった顔で座っていた。ときどき美那と安総のほうに目をやったり、窓の外に目をやったりはしているけれど、口もきかないし動きもしない。

 そこに部屋の主の中橋渉江(しょうこう)が戻ってきた。

 「ご苦労さまでした」

 気の抜けきった銭屋二人の姿を見て声をかける。さわが慌てて座りなおし、隆文がそれを見て大儀そうな声を上げて座りなおした。

 「ご客人にたすけていただいて、助かりました。申し文はたったいま評定衆の杉山左馬允(さまのじょう)様宛てに持たせました。夕刻には左馬允様の手に渡ることでしょう」

 申し文というのは、さっきまでここで書いていて、墨の乾かないうちに封をした城館あての文書だ。中原範大(のりひろ)横死(おうし)顛末(てんまつ)を記している。

 村でそういう文章を書けるのは中橋渉江と弟子の安総尼だけだ。村の衆の話はそれぞれの村長にきいてもらい、渉江がその村長を呼んで村長から話を聞く。それをまとめて文章にするのだが、一人で聞いて書いていては間に合わない。そこで、そこで出た話を安総と銭屋のさわとで聞き書きし、それをもとに渉江と安総とさわとで文案を作って、三人で手分けして清書したのだ。

 さわが疲れ切っているのはそのせいだが、隆文が疲れているのはなぜかよくわからない。隆文は銭屋の使者をまとめる立場で渉江に話を聞かれただけなのだから。

 雨よけに被っていった上衣を脱いでたたむと、渉江は隆文とさわの向かい側に腰を下ろした。

 「いやにお急ぎですな」

 隆文がぞんざいな口をきく。聞いて、左隣のさわがその隆文を横目でにらみつけた。

 「こんどの件は相手が柿原党ですから」

 渉江は隆文の態度が横柄なのは気にしないようすで、さばけた声で答える。

 「こういうことは先に評定衆(ひょうじょうしゅう)に知らせておかないと不利なことになります。村の若い衆は殺気立って、もう城館といくさをするつもりになっていますが、いま大っぴらにいくさをするわけにはいきません。米の蓄えもなくなってしまったわけですからな」

 「しかし相手は柿原だ」

 隆文が大儀そうな声で重ねて言う。

 「越後守様は岳父の柿原大和(やまと)()にはめっぽう弱いといいます。評定衆といっても郷名主ほどの知行(ちぎょう)地も持たず、城館に食わせてもらっている手合いが多い。そんな評定衆で抑えが効きますか?」

 渉江は穏やかに顔を綻ばせた。

 「どんなに評定衆が弱腰でも、先に評定で決まったことはそう易々とは覆せません。それは越後守様でも柿原大和でも同じです。だから、先に評定衆に話を通しておくことがだいじなのです。また、評定衆には杉山左馬允(さまのじょう)様がおられます。杉山様は牧野・森沢のことを心にかけてくださっている」

 「杉山様は牧野の治部(じぶ)様と深いつきあいのあったお方ですからなぁ」

 「中橋様」

 その隆文の隣で、さわがきちんと座って、手をついた。

 「このたびは、私たち町の銭屋が押しかけたために、村に大きな災難をもたらしてしまいました。そのうえこういう横柄な口をきく柄の悪い使者で、どうかお許しを」

 言って、勢いよく頭を下げる。

 「おい」

 慌てたのが横柄な口をきく柄の悪い使者と当てこすられた隆文だ。もういちど座りなおして急いで手をつく。それで
「おい美那! おまえも謝れ。だいたいおまえが紛らわしい名まえをしてるうえに他人の墓の前で泣いたりするから騒ぎが大きくなったんだぞ」

 「ふん?」

 美那はいきなり呼びかけられてわけのわからない顔をしている。安総といっしょに蕎餅をこねていて話を聞いていなかったらしい。

 「あんたったら人のことばっかり!」

 さわが頭を下げたまま横を向いて小さい声で罵った。中橋渉江が笑いながら
「いや、いいのです。頭をお上げください」

 言われてさわは頭を上げた。

 「じつは、そちらの美那様が広沢の美那ではないことは気づいていました」

 「へっ?」

 こんどは美那は粉だらけの手を止めて、(くび)を回して渉江のほうを見た。

 だが、それより驚いたのは隣の安総だ。顔を上げてかすれぎみの高い声で言う。

 「ご存じだったのですか?」

 「ああ」

 「しかし、わたしはこの美那様は広沢の美那様に違いないと申し上げてしまいましたが」

 「うん」

 渉江は短い笑い声を立てた。もっとも聞く人によっては笑い声には聞こえないかも知れない。

 「だが、おまえはそう言い切るのを少しためらった」

 「そうですか?」

 安総は身に覚えがないというように言い返す。渉江は目を細めてその安総のまるい顔を見た。

 「そう。気がついていないだろうけど、そうだったのだ。おまえは考えていることがすぐ(かお)にも(かたち)にも出る。墓の前で泣いた以上はほんものの広沢の美那に違いないと考えてはいたが、どこかおかしいということはずっと感じていたのだろう」

 「はあ」

 その丸顔で安総は目を瞬かせる。

 「そうですか」

 他人のことのように言ったのは、いまの渉江の説明に得心していないからだろう。

 「だからお謝りになることはない。こちらも柿原党を追い返すのにわざとそちらに疑いを向けさせる偽りをしたのだ」

 「偽り、というと?」

 美那が聞く。その手を安総がとんとんとたたいた。

 せっかく湯に溶かした蕎麦粉が冷めると促しているらしい。安総はもうせっせと蕎麦粉の塊をこね始めている。

 切り替えが早いのね、と美那は思う。渉江はさきの問いに答えた。

 「そちらの娘御が広沢の美那に違いないと、柿原党の方がたの寝所の前でわざとわたしと安総とで話したのだ。しかも、その時間にご使者の方がたが寝所にいらっしゃらなかったことも話した」

 「ああ、それで朝起きたらあんな噂になってたんですね」

 さわが言う。渉江は首を振った。

 「それも違うのです」

 「えぇっ?」

 聴いて、さわの驚きようはどうも大仰だと美那は思う。渉江は笑みに苦みを交えて話をつづけた。

 「じつはあのとき義倉が焼けたことは村の者が見ていました。しかし、曇っていて暗かったせいと、まさか義倉を焼く者がいるとは思っていなかったのでしょう。みんな霊験(れいげん)怪異(かいい)のたぐいと思っていました。わたしは話を聞いて何者かが義倉を焼いたに違いないと気づきました。それで、最初にその霊験や怪異を見たと言いだした者たちにあとから安総を遣わして、同じことを伝え、わざと噂を広めるように言ったのです」

 「なにぃ?」

 隆文が穏やかでない声を上げて渉江を見た。美那はというと、安総に蕎麦粉の()ねかたを教わりながら
「蕎麦ってずいぶん捏なりにくいんだね」
などと言っている。こちらの話を聞いているようすがない。

 「それにしても、よく朝からあんなに噂が広まりましたね」

 さわが言う。

 「村の者はたいてい中豊(なかとみ)さまのお社に朝参りに行きますから。朝参りのときに小者を通して広めさせたのです。しかも、小者には、柿原の小者から話が出たように言いふらすよう言い含めてありました。だから、あの中原安芸(あき)とやらが乱心しなくても、柿原党に疑いが向くようにはしてありました」

 「しかしどうしてそんな手のこんだことを?」

 隆文が早口でたずねる。

 「(まり)が見ていたのですぞ。動かぬ証拠だ。夜のうちにそれを突きつけてさっさと柿原党の者たちを追い返してしまえば、おれたちもあんな針の(むしろ)のような思いをせずにすんだし、あの中原なんとかを殺して慌ただしく後始末することもなかったのでは?」

 「そうは行きません」

 渉江が落ち着いて諭すように答えた。

 「まず毬が火傷のうえに体が冷え切っていて、とても話ができる様子ではなかった。それだけではない。毬が見たと言っても、村西の一党はしらを切るでしょう。その話が伝わったとき、牧野郷の村人がどちらを信じるかということです」

 「つまり毬が偽りを言っていると?」

 さわがたずねる。

 「そうです」

 渉江は頷いた。

 「お気づきのとおり、村では広沢三家の者は嫌われています。このあたりの事情は判官(はんがん)の若君にお聞きになったでしょう。よそから来たということで(うたぐ)られていたところに、あの勝吉(かつよし)様の件があったのです。あの件だって、勝吉様が悪いわけではなく、村人らが勝手に疑って起こしたことのようですが、わたしはそのころは村にいなかったので詳しいことはわかりません」

 渉江はあらためて隆文とさわと、それからこちらの話は気にかけていない様子で蕎餅を捏ねている藤野の美那とを見た。

 隆文がその渉江に問い返す。

 「しかし、村西一党だって村人から好かれてはいなかったのではありませんか」

 「たしかに」

 渉江は答えた。

 「村西、大木戸、井田といった連中も、ほかの村人とよく話し合いもせずにすぐにいろいろと新しいことをやりたがるので、煙たがられてはいました。村をよくするためには、寄合などを開いてゆっくりものごとを決めていたのではいつまで経ってもだめで、自分たちでことを起こしてうまくいくところを示せば村人はみんなついてくると言うようなことを大っぴらに言っていました」

 「それで無理に新しく田畑を開いたりして借財がかさんだというわけですな」

 隆文がたずねる。

 「そうです。柿原党を呼びこんだのもそういういつものやり方です。しかし、煙たがられてはいたし、反感も持たれていたでしょうが、広沢三家のように嫌われていたわけではない。しかも、村西ら一党は、村のなかではいちばん広沢の家のことを気にかけていました」

 「それは毬も言ってたねぇ」

 さわが言う。渉江は軽く頷いて話をつづけた。

 「そんなところで、毬が村西一党と柿原党が火つけをしたと言っても、村人たちが信じるものでしょうか。毬が村西一党に受けた恩義を忘れて、村西一党をおとしいれようとしていると疑われるだけです。それに、毬は、盗み食いをして捕まったこともありますし、ひとの家に銭を盗みに入ったこともある。社の供え物や賽銭(さいせん)を盗むなどということはいまでもいつもやってますから」

 「ああ、それで拝んで行ってほしかったんだ」

 さわが言う。最初に会ったときの、川上村の関所の(ほこら)でのことを言っているのだ。

 「気がつかなかったのか?」

 隆文は偉そうだ。

 「うん、気づかなかった」

 「おれはすぐに気づいたぞ。だから宣和(せんな)銭を供えてやったんだ。そうしたら、村人が銭屋が来ることを知ってるとか、そのお美那のこととか、いろいろ教えてくれたじゃないか」

 「でも、そのお美那さんの妹だってことは言わなかったよ?」

 「その子と毬は別に暮らしてたんだ」

 背中を向いたまま藤野の美那が言う。「その子」というのは、自分と名まえの同じ広沢の美那のことだ。

 「それに、宣和銭五文じゃ足りなかったんじゃない、そんなこと言わせるには」

 「おれが悪いって言うのか? どいつもこいつもまったくあいたたたっ!」

 ふてたことを言いかけた隆文の足をさわがつねった。

 「お美那ちゃんはそんなこと言ってません!」

 「ああもぅ、痛いなぁ……わかってるよそんなこと」

 「わかってたらどうしてそういうこと言うかなぁ?」

 さわはそう言って隆文をにらみつけてから体の向きを変え、声を弾ませるようにして中橋渉江にきいた。

 「つまり、その村西とかに、疑いが向いたところを見計らって、毬を出さないと、村人は毬を信じないっていうわけですね」

 「そのとおりです」

 中橋渉江が答えた。

 「そのためには、村西一党や柿原党の者が調子に乗って口を開いてくれなければなりませんでした。しかも、あの一党は、川上村の寄合で寄合を追い出されたり、昨日の寄合で水盗人の件を持ち出して見破られたりして用心深くなっています。いちどはうまく行ったと思わせておかないと最初から逃げるための理屈を考えます。だから、もう少しでご使者が火をつけたと詮議(せんぎ)が決まるところまで持っていかなければならなかったのです」

 「しかしどうして柿原党はその義倉というのに火をかけたんですか?」

 さわが背筋を伸ばしてきく。さっきまで疲れ切ってぐんなりしていたのが嘘のようだ。

 「ばかだなおまえ」

 つねられたことを根に持っているのか、隆文は高い声で決めつけた。

 「そうしてしまえば、村はおれたちに返す借銭をひねり出すために柿原から銭を借りるしかなくなるじゃないか」

 「それに、町の銭屋が銭を集められなければ年貢の立て替えに差しつかえ、そうすれば年貢立て替えの仕事を柿原党が横取りできる。そのためには町の銭屋に一文も渡すわけにはいかない、渡すぐらいなら焼いてしまおう――まあそんなところでしょう」

 渉江が言って微笑して見せた。

 「柿原党の考えはおおかたそんなところでしょう。町の銭屋としては、最初から牧野や森沢から返してもらう銭などあてにしてはいない。ただ、牧野や森沢から取り立てをしなければ、町の武士衆が返すのをいやがる。それで牧野や森沢にもいちおう使者を送った。そういう事情があの者たちにはわからなかったということです」

 隆文がぽかんと口を開いた。

 「知っ……てたんですか?」

 「知っているもなにも」

 渉江は穏やかに笑う。

 「わかりますよ、それは。本気で取り立てをするのなら、こんな人のよいお使者衆なんか回しません。町の銭屋にはもっと怖くてねばり強くて悪知恵のはたらく人がいくらでもいるはずだ」

 隆文は憮然とする。だがさわは楽しそうだ。

 「いい人に見られてよかったね、隆文さん」

 「……皮肉か、それは」

 隆文の落胆をよそに、安総と美那はまだ何か話ながら伸ばした蕎餅を丸めている。


 雨が屋根や軒を叩く音はもうそれほど響かない。しかし、屋根から落ちる(しずく)が、あちらこちらでさまざまな音を立てていて、屋敷の部屋の中からも雨が降りつづいているのがわかった。

 「くへぇん……くへぇん……」

 癖のある泣きかたで娘が泣いている。

 「はいはい、泣くのはおやめ」

 そこで、美千(みち)は、娘をなぐさめなければならなかった。なぐさめるぐらいはいいのだけれども、ふくのそのいちいち声が引っかかるような泣きかたをきいていると、笑いたくなってしまうのが困ったことだ。

 こんなときに笑うわけにはいかない。

 「くへぇん……旦那様はあんまりです……あんなひどいことをなさったうえに一人でお逃げになるなんて……」

 それはほんとうのことなので美千はそれを打ち消すことはできない。

 「それより毬が見つかってよかったじゃないの?」

 「毬もあんまりです」

 ふくはようやく顔を上げた。

 「黙って逃げて……しかも……旦那様を悪く言うなんて……奥様やわたしに声をかけていれば……わざわざ逃げなくてもよかったはずなのに……くっ……くっ……」

 「毬を悪く言ってはいけないわ」

 美千は諭した。

 「わたしやおまえでは毬を守りきれなかった。旦那様をお諭しすることはできても、相手は柿原党だったのよ」

 「でも本気で心配したのにぃ……っく……っくへぇーん……」

 「毬は死にかけたというではありませんか。油をかぶってそこに火をつけられたのよ。体じゅう火傷とすり傷と切り傷だらけというし……もうすこし毬のことも思いやりなさい」

 「わかっています……わかっています……」

 泣き声を抑えながらふくは言った。

 「毬が助かってよかった……無事でよかった……うっく……くへぇん……でも、これで……また……毬は嫌われるんだ……村の人に毬は嫌われるんだ……うっく……くっ……」

 「どうして毬が嫌われるんです? さっき顛末(てんまつ)を知らせに来てくれた和生(かしょう)さんも毬のことを悪く言っておられなかったでしょう?」

 「でも……広沢の家の人が目立つと……村の人は必ず悪く言うんだ……悪くなくても悪く言うんだ……だから毬も……くへぇーん!」

 美千はしばらく黙ったまま、幼子のように胸に抱かれているふくの背中を軽く叩いてやる。

 「ねえ、ふく」

 しばらくしてから美千は言った。

 「いっしょに村を出ようか?」

 「くふへっ?」

 ふくは泣きかけて息を飲んだ。美千の顔を見上げる。ふだんは睫毛の目立つ子ではないが、こうやって見上げると睫毛が長いのが目立つ。

 「村を……出るんですか? ……どこへ……?」

 「町に行かない?」

 「まっ……町っ?」

 町というと、城館の城下や市場のあるあの町しかない。

 「町ですか?」

 「そうよ」

 美千が安心させるような笑顔で言う。ふくの顔がこわばった。

 「いっ、いけません、奥様。いけません! 町には人がたくさんいます。あんなところにお行きになったら、すぐにわかってしまいます。いえ。あそこには越後守も柿原もいるんですよ。そんな、そんな恐ろしいことっ!」

 「そうね」

 美千は大きく息をついた。

 「おまえがそう言うのだったら町はやめましょう」

 「はっ……はいっ」

 ふくは美千にしがみついたまま顔いっぱいに笑った。

 美千も穏やかな笑いでふくに応えた。ふくは安心したのか、美千の胸のうえのあたりの着物をきゅっとつかむ。そのまま目を閉じてしまった。

 美千はいとおしそうにそのふくの髪の生えぎわを目で追う。

 急いで編んだのか、もともと髪の質が硬いのがいけないのか、耳の後ろに編み残した毛がたくさんある。美千はそのふくの頭の後ろに手を回してやり、そっと自分の胸に抱きつけてやる。

 ふくの荒い息が美千の胸の下あたりに着物を通り抜けて吹きこんでくる。

 美千は、ふくから目を離し、ふっと肩を落とし、遠くを見るようにした。

 そして、ふくにも届かないような小さな声で言った。

 「あのひと、どこに行くかぐらい教えてくれてもいいのに」


 そのころ、その「ひと」は、岩の上に横たわり、苦しそうに息をしていた。

 「痛いっ……痛いっ……助けてくれ……なんとか……ならないのか……」

 大木戸九兵衛(くへえ)と井田小多右衛門(こだえもん)が側にいるが、ただ見ているだけで何の役にも立っていない。

 玉井川から牧野・森沢への分水が分かれてすぐのところの岩場の上、人目につかない場所だ。村から追っ手が差し向けられてもここまでは探さないだろうということで選んだ隠れ場所だった。

 「くそっ……あの金貸しの……性悪小娘」

 しかたがないからなのか何なのか、村西兵庫(ひょうご)は一人でしゃべりつづける。

 「……おれが……村のやつらに……殴られてるのを見ると……飛び出してきて……先頭に立って殴りやがった……ああ……痛い……助けてくれ……」

 「そういえば毬のやつ」

 大木戸九兵衛が(しゃが)んだまま所在なげに言う。

 「人が恩をかけてやったのに、恩を仇で返しやがって」

 「巣山から来たやつらが恩を返してくれるなんて最初から考えるな」

 井田小多右衛門がことばを交える。大木戸九兵衛が深い息をついた。

 「おれたちの人がよすぎたってことか」

 村西兵庫が寝返りを打とうとし、それで痛みが走ったらしくてうぐえっと大きな声を立てた。

 しばらくして詰めていた息を吐き出す。大きく息を吸って、吐いてする。

 「はあっ。……ともかくあの村の連中……自分らでは……何もできぬくせに……ああっ!」

 「おい兵庫! あんまりしゃべるな。その(からだ)でここまで駆けてきてむりがかさんでるんだろう?」

 井田小多右衛門が村西兵庫に言い、うんざりした顔で大木戸九兵衛を見上げた。

 「おい、これからどうする?」

 「どうするもこうするも……」

 大木戸九兵衛も大きく息をついてうつむく。

 岩づたいに雨が流れてくる。空から降ってくる雨は頭の上の(ひのき)(ひいらぎ)で止められてほとんど降りかかってこないが、岩の上を伝ってくる雨は止められない。春といっても雨に濡れているとやっぱり寒い。

 そんなときに将来のことを明るく考えろと言われてもむりな話だ。

 「白麦(しらむぎ)山にでも行くか」

 九兵衛は自分の太刀の上に手を置いて低い声で言った。

 「ばか言うな」

 小多右衛門がまじめに驚いて言い返す。

 「あそこには山賊がいるんだぞ」

 「だから、山賊の仲間にでもなるかって言ってるんだよ」

 九兵衛は言って目を上げる。

 小多右衛門はその九兵衛と顔を合わせた。

 笑いあうこともできなければ、意を確かめあうなどさらにできるはずもなく、迷い顔のままにらみ合う。

 小多右衛門は自分から目をそらし、吐き出すように言った。

 「ばか言え。おまえの太刀とおれの脇差(わきざし)、兵庫のやつは太刀は取り上げられて逃げてきたんだろう? こんなので山賊なんて稼業(かぎょう)が務まるか」

 「武具ぐらい持たせてくれるだろう」

 「刀をめぐんでもらって、山賊の偉い連中の足でも洗って生きるっていうのか……」

 九兵衛も小多右衛門も顔を伏せてしまい、村西兵庫はその横でときおり(うめ)き声を上げている。

 柊をかき分ける音がした。小多右衛門と九兵衛はいちおう刀に手をかける。

 しかし柊を分けて上がってきたのは長野雅一郎(まさいちろう)だった。

 小多右衛門と九兵衛は大げさにため息をついて、顔をそらす。

 「何だ何だ」

 雅一郎がその様子を見て荒い声を上げた。

 「大の男が三人、こんなところでしょぼくれていてどうなる?」

 小多右衛門は下を向いてしばらく目を迷わせた。迷わせてから、ぐるんと横を向いてふい打ちするように雅一郎の顔を見上げる。

 雅一郎は岩を登ってくるのがきつかったのか、少し息が荒い。

 「われらがこんなところでしょぼくれていなければならないのも、貴殿らのせいではないか」

 小多右衛門は雅一郎に恨みをぶつけた。

 「おまえらの若殿が軽はずみをしなければまだなんとかできたのだぞ。あの毬という娘はな……」

 「あぁあぁ、そういうことは後でたっぷり聞こう」

 雅一郎も機嫌はよくない。

 「だいいち、われらに救いを求めに来たのはそちらではないか」

 「救ってないじゃないか……だいたい義倉の米を焼くことなんかおれたちは最初から考えちゃいなかったんだ。おまえが無理強いしたんだろう?」

 「やめろよ」

 背後でそんな声を立てたのは、岩の上に横たわっている村西兵庫だった。

 「おれたちは仲間割れするためにここまでいっしょに逃げてきたんじゃない」

 それだけ言って大きく息をしている。しかも、息をすると(からだ)が痛むのか、ときどき「はっ」とか「くっ」とか息を止めている。

 「いまここにいる四人と小者が、何人だ」

 「三人」

 雅一郎の答えに九兵衛と小多右衛門が揃って顔を上げる。

 「……ずいぶん少ないな」

 九兵衛がたずねた。

 「逃げられたか?」

 「いや、始末した」

 雅一郎は声の調子も変えず、眉一つ動かさないで答える。

 「始末したって?」

 「だから殺したんだよ」

 「いつ?」

 「いま」

 「どこで?」

 「この岩地の下でだ。(むくろ)は荒れ地に投げ出してある。こんな場所、だれも探しはしない」

 九兵衛と小多右衛門は顔を見合わせた。九兵衛は自分の太刀に手を掛けかけている。

 「そういうことじゃないだろう? そんなことをしたら……」

 「何も起こらないさ。逆に殺しておかなければ何をされるかわからぬからな」

 雅一郎は言って、小多右衛門のすぐ脇に、ただ、小多右衛門とは顔が合わないように腰を下ろした。

 「おれの連れてきた小者というのは、半分がおれの養ってるやつらだが、もう半分はあの若造の小者だ。その連中に死んでもらった。恨まれてこっちが寝首を掻かれてはかなわんし、どこぞにへんな訴えを出されては困るからな」

 「あんたなぁ……」

 小多右衛門が陰鬱(いんうつ)な声で低く言う。

 「そんなことの仲間におれたちを巻きこむなよ」

 「仲間になってくれとは言わん」

 雅一郎は応じた。

 「だが、おまえら三人でどうするつもりだ? はいつくばって許しを求めて村に入れてもらうつもりか?」

 「人殺しの仲間になるよりはましだ」

 九兵衛が低い声で言う。雅一郎はふんと鼻で(あざけ)った。

 「ならやってみろ。あそこで逃げ切れてなければおまえらだってそっちの男みたいなろくでもない姿になってたんだ」

 「ああっ……ああっ……」

 村西兵庫は何か言おうとしたらしい。だが、その拍子に体を動かしたのが痛かったらしく、口から出ることばがことばにならなかった。

 「おい兵庫!」

 「兵庫だいじょうぶか?」

 九兵衛と小多右衛門がその兵庫のほうを向く。兵庫は何とか頷いて見せた。

 その顔の脂汗(あぶらあせ)がときどき落ちてくる雨の滴を弾いている。

 「それにだ」

 雅一郎は逆に兵庫のほうから顔をそむけた。

 「たとえ村に入れてもらえたとしても、こんどはな、おまえらとおまえらの縁者ぜんぶがなんとか三家とか呼ばれて子々孫々まで村人からのけ者にされるんだ。それでもいいのか?」

 九兵衛と小多右衛門の体が止まった。

 苦しそうにあえいでいるだけだった村西兵庫もはっと息を飲む。

 三人は顔を見合わせ、たがいに細かく首を振り合った。

 ――首を振ったのか、ただ震えていたのかはわからないけれども。

 そして、三人揃って、雅一郎のほうを見る。

 雅一郎はその三人に背中を向けて岩の少し高くなったところに座っている。

 「もういつもと変わらぬ村の暮らしをつづけていられる日々は終わったんだ。自分の剣で自分の生きる場所を切り開いていくしかないんだよ。その覚悟のあるやつとならばどこまででも組んでいっしょに行くつもりはあるが、どうだ?」

 雅一郎は背を向けたまま両膝に両肘を置き、手を胸の前あたりに組んで、その返事を待った。

 九兵衛と小多右衛門は顔を見合わせている。互いの血の気のない顔を見合い、目を離すことができずにいる。たがいに震えながら、体に力を入れて、まるで仇敵(あだがたき)のようににらみ合って、身動きできずにいる。

 「覚悟はあるさ」

 落ち着いた声で答えたのは村西兵庫だった。もっとも、また肩で息をしているから、落ち着いているのを装うのは体にこたえているらしい。

 「あたりまえのことじゃないか」

 兵庫の息はさっきより大きくなっている。

 「こっちは家も妻も捨ててきてるんだ」

 そこまで言うと兵庫はまた「いっ」と声を立てて力を抜いてしまった。

 「よし」

 雅一郎は少し三人のほうを振り返りかけて
「ほかの二人はどうだ?」

 小多右衛門と九兵衛はまだ顔を見合わせあっていたが、ふっと二人揃ってその雅一郎のほうに首を向けた。

 「やるさ」

 「ほかにやりようはないからな」

 落ち着ききった声だった。

 その返事をきいて雅一郎は立ち上がった。右手を軽く挙げて合図をする。

 雅一郎の後ろの柊の陰から、三人の小者が姿を現した。それぞれの着物には血が滲みていた。

 してみると、さっき言った「若造の小者を殺した」というのはほんとうなのだ。この小者どもに殺させたのだろう。小多右衛門と九兵衛はまたぶるぶるっと首を振る。

 「ようし」

 雅一郎は大きく息をすると、小者どもを引き連れて九兵衛と小多右衛門のところに歩いてきた。小さく身を引いた九兵衛と小多右衛門の後ろに腰を下ろし、その二人の肩を両方の手で叩いて笑みを浮かべた。

 そんな、何からも自在な、言ってよければさわやかな笑いをこの男が浮かべられると考えた者が、これまでいったい何人いたことだろうか?

 「さあ、とりあえずこれから何をするか、これからそれを考えよう」

― つづく ―