こんどは庭などではなく、前と同じように本堂で、大人衆だけが集まって開く。
町の銭屋からの借銭借米をどれだけ返すかは昨日の寄合で話し合って決まっていた。しかし、そのあと、
それぞれの村の
そこで三人は、昨日の夜を過ごした
廊下の障子を開けるとまだ雨は降りつづいている。滴の落ちてくる軒先を見上げたとき、ふと横にだれかがいるのに気がついた。
相手も気づいたらしい。
「あ、
「お美那ちゃん……だったっけ?」
「おう、どうした?」
隆文が朗らかな声で呼びかける。
「いや、
「お婆ちゃんっていたっけ?」
さわがきいた。葛太郎はかたちだけちっちゃい
「ううん、ふく姉ちゃんのところの婆ちゃん」
「?」
で、わからない顔をしているさわを見て、葛太郎は慌てて
「ってふく姉ちゃん知らなかったっけ?」
とつけ加える。
こういうところに毬がいたら、たぶんすかさず葛太郎の頬を手の甲ではたくのだ。
苦労の多い男の子ではある。
「あの」
と葛太郎は顔を伏せて、ことばからちょっと元気を
「村西兵庫のところ、っていうより、お
「ああ、そうなんだ」
さわが相づちを打っている。
「で、そのお美千さんってだれだ?」
からかうように隆文がきいている。葛太郎がしまったというように、
「あ、それは、兵庫のお嫁さん……っていうか奥さん」
と慌てて説明している。
美那はふと「美千」という名まえはどこかで聞いたことがあるように思った。
「みち」――道、通、美知といくつも書き字があるなかで美那は迷わず「美千」という字を思いついた。だから、たしかに聞いているのだ。
だがどこでだったか思い出せない。市場で、昔、会った娘かも知れない。だいたい、自分の「美那」という名まえと同じで、どこにでもある名まえだ。
だからその名まえは忘れることにした。
「で、毬はどうなの?」
「うん」
葛太郎は
「体じゅう、
「うん、そうだねぇ」
さわが言う。
「あ、そうか。姉ちゃんたち知ってるのか」
「うん……」
美那が答えた。
「それより、刀で斬られそうになったりして怯えてない?」
美那は、斬ればほんとうに人を殺せる刀で剣術の勝負を何度もやったことがある。その自分が、目のまえでさっきほんとうに人が血を流して死んだとき、そこから目を離すことができなかった。
いきなり刀を自分に向かって振り上げられた毬が
葛太郎は首を振った。
「あいつ、たぶん平気だと思う」
で、ちょっと唇をきつくかみ合わせてから、言う。
「母ちゃんに刃物で追い回されたこと、何回もあるから。何回かほんとに切られたこともある」
「そんなのなんだ」
さわが驚く。というより、美那には、さわがどんなときに驚いているのか、よくわかるようになってきた。
さわがどんな気もちでいるのか、声とか
「うん」
葛太郎はもっと低い声でこたえる。
「まあ毬も悪いんだけどね。ほかの家に忍びこんで食べもの持ってきたり、お金盗んできたりとか、何度もやったことあったから。見つかるたびに母ちゃんが謝りに行って、泣かされて帰ってきてたもん」
「お母さんが?」
「そう、母ちゃんが」
そういうことか、と美那は思う。
「母ちゃん、嫌い」
繭が唐突に言った。
「おい繭っ!」
「だって怖いんだもん。怖いことしかしないんだもん」
美那と隆文とさわは繭を見下ろした。葛太郎に抱きとめられた繭は泣きそうになっている。
葛太郎は申しわけなさそうに三人を見上げていた。
美那が繭の前にすとんと腰を下ろした。
「ねえ繭」
「うん」
繭はあんがいすなおに答える。美那は、繭の目をまっすぐ前から見て、ちょっと顔を前に出してことばをつづける。
「そんなこと言うけどさ、自分を生んだお母さんってこの世のなかに一人しかいないんだよ」
美那はふと繭のお母さんが生みの母なのかどうか確かめてから言うんだと思った。もしかすると違うかも知れない。
――自分は藤野屋の娘のように名のっているけれど、ほんとうはそうではないように。
でももう間に合わない。
「でも、いなくていい。この世に一人もいなくてもいい」
「おいっ……」
隆文が声を挟もうとするのをさわが止める。そしてそのさわがすとんとしゃがんで美那の横に並んだ。
「ねえ繭ちゃん。そういうのって早くない?」
「?」
ああそうか、さわの理屈がすぐにわからないのは繭もいっしょか。
――美那はへんなところで安心している。
「だってまだ母ちゃんと十年もおつきあいしてないでしょう?」
「うん」
「人と人ってね、何年もつき合ってはじめてよくわかることがあるの。ね? それまでに嫌いって言っていやがったら、好きになれる人も好きになれずにすんでしまうかもしれないよ」
「……うん」
「だから、そのこの世に一人しかいないお母さんとも何年もつき合ってみれば、もしかすると、よくわかるようになるかも知れないよ、お母さんのこと。せっかくそういうお母さんがすぐそばにいるのにさ、最初っから嫌いって言っていなくていいとか言ってたら、好きになれるかも知れない人を一人なくすことになるよ。もったいないよ、それって」
「……うん」
「じゃあ、お母さんのこと、嫌いとか言うのやめる。いいね?」
「……」
「嫌いじゃなくならなくてもいいんだ。嫌い、って口に出して言うのをやめる。それ、約束してくれない?」
「……きらいじゃなくならなくてもいいの?」
「うん。言うのをやめる。それでいいんだ」
「……うん」
繭はしばらく黙る。黙って考える。
もしかすると、さわの理屈がわからなくて黙ってるのかな、と美那は思う。
「じゃ、やくそくって、する。やくそく……する」
「うん」
「繭」
葛太郎がちょっと気後れがちに声をかけた。
「約束って、したら、破っちゃいけないんだぞ。いつまでも破っちゃ、いけないんだぞ」
「うん」
繭はそれまでと変わらない顔で頷いた。
その返事を聞いてさわが立ち上がったので、美那も立ち上がった。隆文が部屋のほうに戻ろうと後ろを向きかけ、葛太郎と繭を振り返って声をかける。
「じゃあな、葛に繭」
「あのっ!」
それを見て、葛太郎があわてて声をかけた。
「なあっ!」
「ん?」
男どうしのよしみなのかどうかは知らないけど、隆文がそれに答える。
「まだ何かあるのか?」
「もうちょっと町の話を聞かせてくれよ!」
葛太郎は、繭に
「おれ、いつか町行きたいんだ。いやもちろん、おれだけじゃなくて、繭も、毬も」
「ほーう?」
隆文が感心したようなばかにしたような声を立てたので、美那は心配した。
――もちろん、さわがまた隆文をつねったり足を踏んだりするんじゃないかということを。
だが、さわは、その必死な葛太郎を見て、まばたきしただけだった。
「だがな、葛」
隆文が、斜めを向いたまま振り返って、教えを垂れるように言う。
「町ってのはそんなに暮らしやすいところじゃないぞ。悪い人がいっぱいいるんだ。そして、自分の身は自分で守らなくちゃいけない。村みたいに、みんなで守ってくれるっていうのとはぜんぜん違うんだ」
「いい人もいっぱいいるんだろ?」
葛太郎は溜めていたことばをいちどにはじけさせるように勢いよく言った。
「だって、姉ちゃんたち、いい人だもの。いい人もいっぱいいるんだろ?」
「それは……」
隆文はとまどった。
自分が「いい人」と言われるとはまず考えてなかったのだろう。
この男、自分の考えなかったことを言い返されると弱いな、と美那は思う。
「葛ちゃん」
だから美那がかわりに言った。
「なに?」
「大きくなったら、町に行くのはいつでもできるようになると思うよ」
美那は
「でも……」
と言いかけて止まっている葛太郎に笑いかける。
「あんたも繭も、それに毬も、これからいっぱい生きるんだからさ、そんなに慌てて町に行きたがらなくてもいいって思う」
「でもっ」
葛太郎は何かことばをのみこんだようだった。
で、たぶん、そののみこんだのと違うことばを用意して、言う。
「じゃあ、それはいつ行けるようになるんだ? 大きくなったらってどれぐらい待てばいいんだ? いつでもって、でもいつなんだ?」
こんどは美那が答えに困る。さわを振り向いてみるが、さわも困ったように葛太郎を見るだけで、何も言わないらしい。
「はっは」
とつぜん、隆文が笑った。
「それはずっと先かも知れないし、あんがいすぐかも知れないぞ。先のことは、たとえすぐ先のことでも、
隆文は何か上機嫌に得意そうに言う。それで葛太郎はかえって不安になっているらしい。
「……楽しみにしていいんだな?」
「ああ」
隆文はなぜか上機嫌だ。
「楽しみにしていろ。それじゃな。毬にも繭にも優しくするんだぞ」
「うん」
葛太郎はまだちょっと不安げだ。隆文は笑顔で葛太郎に
「じゃあな」
と声をかける。柄にもなく笑顔なんか作っているのは「いい人」なんて言われて、その気になっているのだろうか?
「あっ、あともうひとつ」
と葛太郎はこんども少し慌て気味に声をかける。
「何だ?」
隆文はさっきの上機嫌をつづけて振り返る。葛太郎は繭の手を引っぱって、大きな声で言った。
「あんたも姉ちゃんたちにやさしくするんだぞ!」
「なにっ!」
隆文は上機嫌顔のまま顎がはずれたようになって、動きを止めた。
だがそれは一瞬のことだった。隆文は笑った。
「おおっ、約束するぞ」
「繭、行こう」
隆文の約束を確かめて、葛太郎は繭といっしょに毬が寝ている部屋に戻っていく。
いっぽうの隆文は、美那とさわからいっせいに目を注がれて、両方から目をそらした。
しばらくして目をもとに戻してみると、美那もさわも、何かおもしろそうな顔でやっぱり隆文を見上げているので、また目をそらす。
「約束ってしたら破っちゃいけないんだぞ」
美那がその逃げた隆文の目を追って愉しそうに言う。さわも倣って
「そうだぞ。それに、いつまでも破っちゃいけないんだぞ」
と言う。隆文は目を合わせないように逃がすことしかできない。
「うるさいんだよもう!」
隆文は一転して泣きそうな声を立てた。
「おまえらこそもうちょっと優しくしろよ、ほんとにもぅ……」
――こちらも何かと苦労の多い男である。
同じころ、中原郷の中原村でも五人の村人が寄り合っていた。五人は、旧家や、わりと大きな田畑や屋敷を持っている家の主人たちである。
名主の中原克富は最初から呼ばれていない。
村人たちが集まっているのは、
寺ではなくて屋敷地の奥に建てられたお堂は狭い。雨が降っていることもあって中も暗く、じめじめしていた。
「でも、そんなことをしたらかえって話がややこしくならないかねぇ?」
声を立てたのは
「だいたい、村の者が顔を揃えて何を言っても、名主様に通じるとは思えませんけどね」
「しかし手順は守らなければいけないと思う」
立岡府生拓実が答えた。
「まず、名主様に揃って言上し、それで聞き入れてもらえなければ
「しかしなぁ」
山端左近次郎より年上の
この外記五郎は、引退した拓実の父とほとんど同じ年ごろだ。
「城館に口を出させるのはそれはそれで考えものでなぁ」
ほかの村人たちの目がいっせいに外記五郎のほうに向く。外記五郎はわざと難しいような顔をした。
「ほら、城館とは言うが、ほんとのところはあの柿原大和入道が
「どっちにしても、年ごろの女には生きにくい村だ」
左近次郎がため息まじりに言う。
「いままで投げ出しておいたのが悔やまれる。われらもどこの村もこんなものだろうと思って過ごしてきたが、府生様に声をかけていただいて、もっと早くに手を打っておくべきだったと思った」
「いまそんなことを話しても始まらぬ」
外記五郎が口をはさむ。
「で、先の話、どうなのです?」
「ご
拓実は眉を寄せて答えた。
「だが、城館には
「そういうたてまえにはなっているがな」
左近次郎が言った。
「あの評定衆というやつは、牧野の乱をなんとか収めたあと、
「城館への訴えなどこれまでやったことがありませんからね」
拓実も自分の説にさほどの自信があるようでもなかった。
「いっそのことさ」
村尾
「あのひとに死んでもらったほうがよくはないか?」
「うん?」
ほかの村人らがいっせいに頭を上げる。右門はつづけた。
「いや、べつに殺すって話をしてるんじゃない。そろそろ春だからな、山にでも酒を飲みに行って、あのひとを酔わせて置いて帰るんだ。たぶん一人じゃ帰ってこられないよ」
「あのなあ」
坂口
「仮にもここの立岡家の――この府生の伯父だぞ? そんなことしたら大奥様がどんなに悲しまれるか」
「しかしだなぁ」
右門がつづけようとするのを抑えて、古左兵衛が
「ともかく名主様に自ら村を立ち去っていただくということにしないといろいろ難しいわけだ。だから村人みんなでまず申し上げるというところから始めないと」
「おまえはるが孕まされておいてよくそういうのが言えるなぁ」
右門が詰るように言うと、古左兵衛も
「おまえだってひと月のあいだに二人の娘の伯父になりやがって」
と言い返す。
「まあまあそのへんでやめろ」
いちばん年上の池渕外記五郎が笑って割って入った。
「それより、雅のやつは入れなくていいのか?」
「いいよあんなの」
右門が低い声で吐き捨てるように言う。
「ずっとあの克さんの言うことを二つ返事で聞いてきただけの男じゃないか。春先には
右門はぞんざいに顎をしゃくってみせる。
「柿原なんかの手に乗せられて牧野に行ってるわけだしさ」
「そういえば、一昨日の夜、牧野から来たじゃないか、使者っていうのが」
古左兵衛が口をはさむ。
「そんな使者が来たってことは雅さんが何かまずいことをやったんじゃないか?」
「夜中の使者だ」
年上の山端左近次郎があまり気が進まなさそうに言い返す。
「べつに会う義理はない」
「いやかりにそうでもさ」
古左兵衛が答えた。
「名主が
「だから村に入れないで帰ってもらったんだ。使者には気づかれておらんよ」
外記五郎がうるさそうに言い返した。
「まあ雅さんもなぁ、これまで克に取り入ってきたから
「うちもだよ」
左近次郎が言うと、右門も苦い顔で、
「うちにもだ。ふだんは毛嫌いして口も聞かないくせに、
「あれほんものなのかねぇ? 雅さんずっと自慢にしてるけど」
外記五郎が言う。左近次郎が頭を振って、
「偽物だろう……いや、雅さん本人はほんものだと思ってるのかも知れないが、あやしげな行商人にだまされたんじゃないか?」
「まあ酒のことはともかくとして、だ」
まとめ役の立岡拓実が久々に口を開いた。
「村人全部で名主様に
「あれを入れると、すぐに克に話が漏れるぞ」
左近次郎が言った。
「雅もまじめなやつなんだが、どうもまじめのまじめになり方がまちがってる気がするんだなぁ」
「そうだな」
「そう、そうだ」
そんなことで話が行き詰まる。