夢の城

清瀬 六朗


桜の里(八)

― 3. ―

 で、その「まじめのなり方がまちがってる気がする」と言われた雅一郎はというと、(ひのき)(ひいらぎ)の下で、村西兵庫助(ひょうごのすけ)、大木戸九兵衛、井田小多右衛門(こだえもん)とこれからの身の振りかたについて、まじめに話をしていた。

 「いい考えがあるんだが、どうだ?」

 長野雅一郎(まさいちろう)が全員の顔を見回しながら言った。

 岩の上に横になっていた村西兵庫も起きてきていた。(からだ)の上半分を丸めて小さくなって座っている。顔色はまだ土気色だ。

 小者たちは雅一郎の後ろで聞いている。

 「ああ」

 「うん」

 大木戸九兵衛と井田小多右衛門は(うなず)く。妙に間延びしている。

 長野雅一郎は身を乗り出し、声をひそめた。

 「中原村をわがものにし、われら四人で分け合う――というのはどうだ?」

 「えっ?」

 九兵衛と小多右衛門はそれで怯えてしまっている。小多右衛門がおそるおそる
「中原って……おまえの村だろう?」

 「そうだ」

 雅一郎は頷く。

 「中原郷にはほかにろくな村がないからな。村を押さえれば郷名主だぞ」

 「そういうことじゃないよ」

 小多右衛門が弱気に言う。

 「どうやってわがものにするんだ? おまえ自身、名主じゃないんだろう」

 「名主になる。いや、おれがならなくてもいい。この四人のうちのだれかがなる」

 「で、どうやってやるんだ?」

 村西兵庫が土気色の唇を震わせながら言った。雅一郎は、先にまばたきしておいて、低い声に力を入れて言った。

 「いまの名主を殺す」

 「は?」

 「なんだ?」

 「名主を殺す」

 大木戸九兵衛と井田小多右衛門がへんな声を立てたのに、雅一郎は念を押すようにもういちど言った。

 「ちょっと待て、それは主人殺しではないか」

 村西兵庫があいかわらず震える声で言う。

 「そのとおりだ」

 雅一郎が言う。

 「しかしそれはおれの話。おまえたちにとってはべつに主人殺しでも何でもない。それに」

 雅一郎がことばを切ったのは、やはりそのことが心にかかっていたからか、それとも自分のことばにすごみをつけるためか。

 「おれはすでに主人の若君を見殺しにして逃げている。いまさらそれ以上に主人殺しを重ねても重ねなくても、たいして違いがあるわけじゃない」

 「おっ」

 震えている村西兵庫よりさらに声を震わせて、井田小多右衛門が言った。

 「おれはそんなのいやだぞ」

 大木戸九兵衛も、声だけは落ち着かせて、
「おれもだ」
と言う。雅一郎はうんざりした顔をした。

 「ばかなことを言うな」

 言ったのは村西兵庫だった。

 「おれたちはいやだとか何とかぜいたくを言っていられるばあいじゃないんだ。それより、長野の旦那に聞きたいのは、名主ってやつを殺してだいじょうぶかってことだ」

 村西兵庫の声の震えは少しずつ収まってきていた。

 「郷名主だろう? おれたちの郷ではあのとおりだ。ずっと前に死んでいるのに、あのとおり、村の連中に慕われつづけて、新しくだれかを郷名主に()すこともできずにいるんだ。郷名主を殺したからって、その殺したやつがすぐにあとの郷名主になれるとは言えないと思うんだが、どうだ?」

 雅一郎は(くび)を振った。

 「おれの村はそんなことはない。むしろ……名主は村人から嫌われている」

 「ほう」

 大木戸九兵衛が声を立てた。

 「まあ、さっき死んだ二代目があれだから、どんな親かはわからんでもないな」

 「先代の名主様――中原令史(りょうじ)吉継(よしつぐ)様はじつに立派なかたであった。町の者がしだいに権勢を強めていくのを苦々しく思っておられ、街道筋や川筋の取り締まりも強めておられた。また、きっちりした方であったから、正勝(まさかつ)公の覚えもめでたかった。ところが、令史様には男のお子がおられなかったのでな、それで」

 雅一郎はそこで唐突に少しことばを切った。

 「まあ、町に出ておられた娘御が、町で拾ってきた酒屋の次男坊だか三男坊だかをあとを継ぐことになった。それがあの若造の父親で――いまの名主というやつだ」

 「なるほど」

 小多右衛門が小さく頷く。

 「それであの若造があんなわがままに育ったのだな」

 「一昨日に娘を寝所に呼びよせたのも、その父親のまねだ。あの名主は、屋敷に呼びつけたり、自分から夜這いに出たりして、村じゅうの妻やら娘やらに手をつけた男だからな」

 雅一郎はいまいましそうに言った。

 「名主自身が何の苦労も知らずに育ったうえに、あの若造を甘やかして育てたからな――あれが名主のたった一人の子だったから」

 「ってことは」

 小多右衛門が口をはさんだ。

 「ほかに手をつけた娘やらなんやらからは子は生まれなかったってことか?」

 「そうではない」

 雅一郎は苦笑した。

 「名主には、女に手をつけたら自分の子が生まれるということが最初からわかってなかったのだ。自分の子が生まれるのは自分の妻からだけで、自分が手をつけたあとにその娘が(はら)んでもそれはぜんぜん自分のせいではないと信じこんでる」

 「そんなばかな!」

 大木戸九兵衛が声を立てる。すかさず雅一郎が言い返した。

 「だから、ばかなんだ――その名主は」

 雅一郎は暗い顔でことばをつづける。

 「あのばか息子は、越後守(えちごのかみ)様に範の一字をいただき、大和守(やまとのかみ)忠佑(ただすけ)様から、大和守の大の字をいただいた。それがあの親子の大の自慢だ」

 「なんかやたらと自慢してたな、あの範大(のりひろ)とかいうの」

 「ああ」

 雅一郎は頷いた。

 「親のほうは、もともと克四とかいう名まえだったのを、縁起のいい文字などと言って富って字を拾ってきて、克富(かつとみ)――しかも、克富の克を正勝様の勝に変えようとして許されなかったのだ。そこで息子の名まえにはあのように執心(しゅうしん)した。あれのために段銭(たんせん)は取られる、柿原からは借銭を重ねる、ろくなことはなかったんだ」

 「で、だ」

 村西兵庫が低い声で口をはさんだ。

 「その名主を殺せば、村の連中が喜んでおれたちを迎え入れてくれると、そういう算段なんだな」

 「そうだ」

 雅一郎は上から下へと大きく頷いた。

 「村人自らの手ではずっとあの男を苦々しく思いながら倒すことができなかったのだ。喜んで方がたを迎えてくれるさ」

 「よしそれはわかった」

 兵庫は早口で言った。

 「しかし」

 大木戸九兵衛が眉を寄せて声をかける。

 「城館がそれを認めてくれるかどうかだな」

 「そんなけちな名主を殺したからって、それを征伐するような力がいまの城館にあるものか」

 村西兵庫が言い返した。

 「この件はおれが何とかする。おれの村の件も合わせて、主計頭(かずえのかみ)様に申し上げ、大和守様の力で何とかしていただこう」

 主計頭というのは、柿原大和守忠佑の息子で、柿原主計頭範忠(のりただ)という男のことだ。いまは、竹井郡柿原郷の父の居城を受け継ぎ、竹井代官代を務めている。

 「城館を動かしているのは柿原様だ。柿原様に味方になっていただきさえすれば、牧野や森沢の村の者どもが何をあがこうが何をどうすることもできぬ。もちろんおまえのその郷名主の件もだ」

 「ああ」

 雅一郎は心の底からというように大きな息をつき、顔中に笑みを浮かべた。


 「でも、(まり)とか(まゆ)とか(かっ)ちゃんとか、心配だな」

 明徳教寺の本堂脇を歩きながら、藤野の美那が言った。

 「何が?」

 さわが横で言う。この二人にやさしくすると不本意な約束をしてしまった隆文は憮然(ぶぜん)としてその二人の後ろを歩いている。

 「だから、家に帰ったら帰ったで、また家のお母さんに何か乱暴されるわけでしょう? 気がかりだな、わたし」

 「そうだねぇ……」

 「葛ちゃんが町に行きたがったのって、そういうこともあると思うんだ」

 美那がつづけて言った。

 「そういうのをほうっておいてわたしたち町に帰ってもいいのかなぁ」

 「そうだねぇ」

 さわがもういちど困ったように言う。

 「でも、そんなこと言っていつまでもこの村にいるわけにもいかないからね」

 「うん」

 二人は歩きながら考えこんでしまう。

 「おう、ご使者衆」

 そこへ本堂の外廊下からことばをかけられ、三人は顔を上げた。

 歩いてきたのは白面の武士だった。森沢荒之助(あらのすけ)である。昨日、僧坊のなかで会ったときには、暗かったこともあって気がつかなかったが、雨の日でも外で見るとやはり肌が白い。朝、その姿を見た村人が大病をしたと疑ったのもわかる気がする。

 もちろん、ずっと僧坊の仏間に()もっていて、もう何年も外に出ず、日に当たっていなかったからだ。

 そのせいか、足もとも少し不確かだ。

 これで、本堂の裏から弓を射て範大の急所を射あて、射殺したのだから、その腕はたいへんなものだと思う。

 「ああ、荒之助さん」

 美那が答えた。いまは着ている着物も武士らしく直垂だし、頭が僧形なのはすぐには変えようがないとして、きちんと侍烏帽子(さむらいえぼし)をかぶっている。

 「どこ行くんですか?」

 さわがきく。

 「いや、寄合にな。二郷で一人の郷名主なんだから、出ねばなるまい。いつまでも渉江(しょうこう)様や安総に頼るわけに行かないからな」

 「がんばってくださいよ」

 さわがよく通る声で言った。荒之助は笑った。

 「いまはまだ見習いだ。渉江様や安総にいろいろと教えてもらわなければならぬ。それではな」

 「うん、また」

 さわが明るく返事したので、美那は会釈(えしゃく)するだけにした。後ろで隆文も軽く会釈している。

 荒之助は脇の木戸の扉を確かめるように上から下まで見ると、軽く目を閉じてからその扉を押す。

 扉は軽く開き、荒之助はそのなかに入っていった。

 ほどなく、入れ違いに安総が出てきて、その扉の上についている小さい鐘を木槌(きづち)で叩いた。

 軽い音が繰り返し広がっていく。

 安総は、少し離れたところにいる使者三人には気づかないようで、そのまま木戸をくぐってなかに入ってしまった。中では評定が始まったところだろう。

 三人はまた僧坊の裏の間に向かって歩き出した。

 「ところでな」

 優しくしなければならない相手の二人の娘に隆文は少しだけ遠慮がちに声をかけた。

 「うん?」

 「なに?」

 娘たちは上機嫌に答える。隆文はかえってうんざりしたような声で答える。

 「そんなことより考えないといけないことがあるだろう」

 「うん」

 さわがうきうきした声で言う。

 「それは何?」

 「だからさ」

 隆文は娘たちの後ろをわざと大股にゆっくりと歩きながらゆっくりと言った。

 「借銭借米の後始末だ。昨日は少しは返してくれるって言ってたけれど、それはたぶんなくなるな」

 「あたりまえでしょ」

 美那が言う。

 「払えるわけないこと、わたしたちがいちばん知ってるじゃない?」

 「でも、じゃ、どうなるんだ?」

 隆文は、わざとだろうか、いつもより歩幅を広げて横柄に歩きながら言った。

 「ここで借銭を待つと、それだけ返してない分の利息が膨らむんだぞ。村のやつらの背負う借銭借米がいっそう増える。おさわならわかるだろう?」

 「なに?」

 さわは隆文の勢いをはね返すような声でききかえす。隆文はつづける。

 「それ、返すのに何年かかるか」

 「むりだね」

 さわの答えははっきりしていた。

 「よっぽど豊作が何年もつづかないかぎり、いつまで経っても返せないね」

 「じゃあ……」

 「だから、村の連中にとっても、いくらかは返さないとこの先どうにもならないんだ。まあその徳政ってやつを待つ手もあるが、なんせあの定範のことだからな」

 「お屋敷の外では呼び捨てにしない!」

 美那がすぐに言う。お屋敷とは浅梨左兵衛尉(さひょうえのじょう)治繁(はるしげ)の屋敷のことだ。

 「ああもう、うるさいな」

 と言ってからさわのほうに目を泳がすのは、またさわにつねられたりするのが怖いのだろう。

 幸い、さわは何か楽しそうに笑っているだけだった。

 「じゃあいっそのことその借銭なかったことにしようよ」

 美那が言った。

 「この村の人たちだって遊んでて返さないわけじゃないってわかってるんだからさ。そんな人たちから貸し金を取り立てるってなんかおかしいよ」

 「むりだね」

 即座に言い返したのはさわだった。

 「むりって、おさわちゃん?」

 美那はさわから言い返されることをぜんぜん考えていなかったらしい。驚いている。

 「考えてもみろ、美那」

 で、さわが味方に回ったと思ったからか、隆文の言いようが急にぞんざいになる。

 「だいたいおれたちがなんで取り立てなんかできそうにないとわかっていてこの村まで来たか。この村から取り立てるところを見せないとほかのやつまで払わなくなってしまうからだろうが」

 「それはわかるんだけどさ」

 美那は思案しながら言った。

 「その人たちは払えるわけでしょ? 少なくともこの村よりはましだと思う。それといっしょにするっていうのも何かへんな気がしない?」

 「へんな気はするよ」

 さわが言う。

 「でもさ、町の武士衆にしたらさ、自分たちだってけっして楽じゃないのに、なんでここの村だけ特別扱いなんだってことになるよ」

 さわはなかなか銭屋らしいことを言う。

 「だってさ、ここの村にもそれほど暮らしに困ってないひともいればさ、町の武士衆で自分の里がここよりずっと困ったことになってるってところもあるわけだから。あの弦三郎(げんざぶろう)さんみたいにさ」

 「ああ、弦三郎さんねぇ」

 池原弦三郎の名まえをずいぶん久しぶりに聞いたような気がする。さわはつづけた。

 「そんなひとから見ればここだけ借銭をただにするなんて言われたらなっとくできないじゃない? 美那ちゃんならどう説明する?」

 「うーん」

 美那は答えに困る。

 「じっさいな」

 隆文が言った。

 「柿原党なら人質とって村のなかのものを洗いざらい持って行ってるところだぞ」

 「柿原党なんかのまねしちゃだめだよ」

 美那が言い返した。だが、そこで隆文は足を止め、前を行く二人を呼び止める。

 「美那、さわ、じつはな」

 まじめな目つきで、隆文は二人の目を順番に見た。

 「人質を取るってのがあんがいいい方法じゃないかって考えてるんだが、どんなもんだろう」

 美那とさわは、言われて目を見合わせた。

 隆文がまじめに言っていることはわかっていた。だから言い返すことばが見つからない。

 「……あんた……まじめに言ってるの?」

 ようやく美那が声を立てた。

 隆文は、その美那の目から自分の目をそらせないで、ゆっくり深く頷いて見せた。


 中原郷中原村の立岡家の持仏堂(じぶつどう)では評定(ひょうじょう)がつづいていた。

 「しかしな、乱行(らんぎょう)だけを理由にするのも何というかな……」

 池渕(いけぶち)外記(げき)五郎が言う。山端(やまばた)左近(さこん)次郎も頷いた。

 「(かつ)はそれが悪いこととはぜんぜん思ってないわけだし、城館にそれだけを理由に申し文を挙げるのも、何か村の恥ばっかりさらしているようでな」

 聞いてこんどは外記五郎がうんうんと頷く。

 「ほんとに困るのは村の者らの生計のことでな――小者を抱えるゆとりがないからどんどん耕し手の数は減る、それでは田が耕しきれないから取れ高も減る、なのに克と来たらそんなことは知らぬ、また柿原から銭を借りればよいと平気で言うのだからな」

 「しかし、そのことを話に出すとなぁ」

 村尾右門が難しそうに言う。

 「柿原党を悪く言うことになるから、そんなものを村が公にしたと知ったら、柿原党がどんな難癖をつけてくるかわかったもんじゃない」

 「あぁ」

 坂口古左兵衛(こさへえ)がため息をついた。

 「柿原党から借りるのをやめて、町の銭屋から借りるってことにしたらどうだ? じっさい、屋敷町に住んでる城館の役付きの連中は町の銭屋から借りてる。取り立ても厳しくないし、とくにこの何年かは不作で払えないって言ったらおとなしく引き下がってくれるっていう話だぞ」

 「だめだな」

 立岡府生(ふしょう)拓実(ひろざね)は首を横に振る。

 「令史様が町の貸し銭屋をお嫌いになって、それ以来、町の銭屋とはあまり関係がよくない」

 「それは令史様がおっしゃっていたのは、貸し銭に頼るんじゃなくて、自分の村で田畑づくりをきちんとやって、年貢を払い、暮らしを成り立たせろっていうことだろう?」

 村尾右門(うもん)が言い返す。

 「そのためにあの方は麻織りや藍の植えつけとか、いろいろ試されたじゃないか。それをいまの名主がぜんぶだめにしてしまった。少なくとも令史様は柿原からならば金を借りていいなどとはおっしゃらなかったと思うぞ」

 「どっちにしてもそのことはいま話してもしようがない」

 拓実が答えた。

 「じっさいの話として、こっちが借りるって言っても、町の銭屋がそうかんたんに貸してくれるとは思えないからな」

 外記五郎も頷く。

 「そうだ。それに、町の連中、いま柿原も顔負けなほどの強引な取り立てを始めてるって言うじゃないか。なんせ、あの牧野の乱を義挙とか言ってる連中が、牧野・森沢まで取り立てに行ってるって話だからな」

 「雅さんが牧野まで引っぱり出されたのはその件か」

 右門がひとりごとのように言った。

 「牧野なんか払えるわけないじゃないか」

 古左兵衛が言う。

 「もともと荒れ地のなかなんだから。掘り返して畑にしたからって急に米がいくらでも穫れるってわけじゃないし」

 「それはここの村もいっしょだ」

 左近次郎が口をはさんだ。

 「半分は山じゃないか」

 「溜め池があるだけましだよ」

 右門が言う。

 「それも、令史様がご存命中に池をさらってくださったうえに、二の池まで掘られて山水を集められるようにしたから、(ひでり)でもなんとか乗り切れたんじゃないか」

 「ともかくな」

 拓実は席の者たちを見回した。

 「わたしはやはり乱行だけで訴えるというのは不足だと思うんだ。城館にとっては、名主の行いがどうであっても、年貢さえ入ってくればべつに気に留めることは何もないわけだからな。やっぱり、あの名主をそのままにしておくと、年貢の入りに差しつかえるというところを城館にわかってもらわないかぎりは」

 「しかし、だからな」

 坂口古左兵衛が口を開く。

 「それを柿原を怒らすことなしに……」

 そこまで言いかけたとき、外から水たまりの水を蹴る慌ただしい足音がして、小者が入ってきた。

 「おい、どうした?」

 拓実が腰を浮かせる。入ってきた小者は着物の雨も払わないままに、早口で拓実に言った。

 「名主様が坂を下って街道口のほうへ行かれます」

 「えっ」と顔を見合わせたのは、拓実と右門、それに古左兵衛の三人だ。

 「で、どこへ?」

 「それはわかりませんが、村の外に出られるようなご様子ではなく……」

 「坂口!」

 右門が古左兵衛を振り返る。

 「おまえのとこじゃないだろうな」

 「いや」

 古左兵衛は眉をひそめた。

 「そうかも知れない」

 「おはるさんは?」

 拓実がきいた。

 「うちにいるはずだ」

 「とりあえず様子を見に行くことにしよう」

 拓実、古左兵衛、右門の三人が刀を押し取って席を立ち、頷きあって堂の外に駆け出す。

 残された山端左近次郎と池渕外記三郎も顔を見合わせて、たがいに小さく首を振った。

― つづく ―