夢の城

清瀬 六朗


桜の里(八)

― 4. ―

 その中原造酒(みき)克富(かつとみ)は、足をあまり上げない、半ば()り足のような歩きかたで村の道を街道口に向かって歩いていた。

 口には小さなつぶやきを絶やさない。

 「かつーとみー、のりーひろー。かつーとみー、のりーひろー。うん、いい名だ、わが親子はじつにいい名にめぐまれておる」

 そして満面の笑顔――大きな福にとり()かれたような笑い顔を絶やさない。

 「しかもかつとみの「かつ」は「まさかつ」様の「かつ」、のりひろの「のり」は「さだのり」様の「のり」、「かつ」は「まさかつ」様の「かつ」、「のり」は「さだのり」様の「のり」、「まさかつ」様の「かつ」、「さだのり」様の「のり」、幸い者だのう。そうよ。しかも「ひろ」は大和守(やまとのかみ)様からいただいたもの、あの立岡の(せがれ)拓実(ひろざね)などというのとは格が違う、おなじ「ひろ」でも格が違う、立岡など話にも何にもならぬ!」

 で、自分で言っておいて、急に怒り出す。

 「だれだ、立岡などと言うやつの名を出したのは! あの若造がひろざねとはけしからぬ、範大の名を冒しているではないか! 字が違うといっても、いやいや、あんな若造に範大の名を汚させるわけにはいかぬ。なにせこっちは名主なのだからな。いやしかし、あの男は(のぶ)の子だからなぁ……困ったものだなぁ……。まあよい、そのうちわしが村人の心がけをとくと説いてやろう」

 それで急に気分を立て直す。

 「そうよ、わしはただの郷名主ではないぞ。わしは、越後守(えちごのかみ)様の一の家臣。柴山兵部(ひょうぶ)はまだ小倅(こせがれ)で、しかも貧乏名主の小倅に過ぎぬ。とても範大の足もとには及ばぬ。柿原とて老いぼれてとてもこのわしの力には及ばぬ。評定衆などという小ものどもはとうていこの郷名主のわしにかなうまい。うぐふっ! 柴山は小倅、柿原は老いぼれ、評定衆はどれも小もの! 評定衆はどれも小もの! だからわしこそは越後守様の一の家臣、一の家臣であぁあぁる!」

 (わらじ)の先で道を流れる泥水を(たの)しげにはね上げながら、克富は坂道を下りていく。

 「かつーとみー、のりーひろー。かつーとみー、のりーひろー。さて、範大はどんな手柄を立ててかえってくるのであろうのぅ? そうだの、範大に息子が生まれたら、わしの名と範大の名から一字ずつをとって範勝(のりかつ)という名をつけようではないか。そうなれば、正勝様の勝、定範様の範――立岡の小倅など足もとにも及ばぬ。そして二の子が生まれれば範富(のりとみ)、範富がよかろう。そうすればわが勝富の二つの字が子々孫々に伝わるぞ。そうそのためには範大にも妻が必要だが……ぐふっ。範大も村からよい娘を連れて帰ってくるかもしれぬのぅ、うん、うん。範大のことだからのぅ、うん。範大が帰ってきたら(しげ)の墓にともに詣でようではないか。うん? いや、その手柄をまず城館に言上(ごんじょう)して褒美を受けねばなるまい。それに茂も茂だけではどうものぅ、かつー、とみー、のりー、ひろー、と釣り合いがとれぬ。せめて何とかの内侍(ないし)というぐらいの名はもらえぬものかのぅ。うーん? あいっ!」

 急に叫び声を上げたのは、ほとんど摺り足で歩いていたその爪先が、道のまん中の石にぶつかったからだ。

 果たして、克富の無上の笑顔は、無上の笑顔のまま唇の横が引きつり、目も細くなった。

 目から涙が溢れ、喉からは高い声が絞り出すように出てくる。

 「ひーっ。おのれっ、道の石のくせに、わしをばかにするのか! わしをばかにするのか! わが名を言ってみよ! どうだ言えまい! ん、言ってみよ!」

 そこまで半ば涙声で石に向かって言っていた克富は、急に声が詰まったようになって顔を上げて動きを止めた。

 あたりを見回す。だれかいないか探るようにあたりを見回す。

 だが、あたりでは雨が降りつづく音がしているだけだ。

 そこで、克富は、ひとつ唾を呑みこみ、恐る恐る足もとを見下ろした。

 下を向いたまま、しばらく石の頭をうかがうように見る。そして、克富はその石に向かっていきなり大声を上げた。

 「さっ……酒屋の克四(かつし)などではない! わしはそんな名で呼ばれた男ではない! よくきけっ。わが名は、そう、わが名は、中原、みっ……いやよおくきけ、わが名は、なかーはらー、みんぶの、たいゆー、みんぶのたいゆーうぅっ、かつーとみー、であるっ。みんぶーのたいゆーうぅっ、かつーとみー、である! うん。ほら、言え! みんぶのたいゆーかつーとみーと言え!」

 それから克富は少し身を離し、身をそらして、(あご)を引き、しばらくその石の少し上のほうに目を注ぎつづける。

 「そうか。言えぬか。やっぱり言えぬのだな」

 声は震え気味だった。その震えぎみの声のまま、克富はつづける。

 「越後守様の一の家臣の名を言えぬとは、おまえなど打ち首だ、ふん、打ち首だ」

 そういうと、克富は、その石の上を足で強く踏みつけて、また歩き出した。

 湿った鞋で出っ張った石を踏むと足のほうが痛いだろう。でも克富にはその痛みにかまっている様子はない。

 克富は顔を上げ、満足げな、あの「福」の貼りついているような(かお)に戻る。

 ちょうどそこで――。

 ――克富は、少し先の家の軒先に何者かを見つけたようだった。

 立ち止まり、両手の脇を絞り、胸の横にくっつける。

 「はるっ! は〜ぁるっ!」

 「きゃっ!」

 相手の娘は世にも恐ろしいものを見たように軒の下から部屋に飛び上がり、(かまち)にごんと膝をぶっつけ、
「いっ」
と声を立て、その痛いであろう膝を懸命にばたばたと動かしながら家のなかに入りこんでばたんと引き戸を閉めた。

 だが、そんなもので郷名主克富の足を止められるものではない。

 「はるぅ! 何を驚いている? ん? 何か恐ろしいものでも見たのか? ん?」

 克富は勢いづいてそのはるの消えた戸口へと近づいていく。

 「恐ろしいものに会ったのならばわしが成敗(せいばい)するぞ? ん? どうじゃ? ん?」

 この名主は自分がその「恐ろしいもの」かも知れないという疑いを持たないらしい。はるが閉じた引き戸を引き開けようとする。

 「うんっ? 戸が重いのぅ? 何かあるのか? 何かあるのか、はるっ!」

 戸は、少しずつ開いていった。が、克富が力を抜いたらまた閉まる。

 「はて? 何か奇異な仕掛けでもあるのであろうかの?」

 娘が向こうから懸命に扉を閉じようとしているという考えは頭に浮かばないものらしい。ついでに言うと、反対側の引き戸を引けばかんたんに開くのではないかという考えもだ。

 そのとき、部屋のなかからうわーんっという大声が響いた。「あっ」という娘の声がする。そのとたんに扉は急に軽くなってばあんと大きな音を立てて開いた。

 克富は部屋に上がると、部屋を見回した。

 部屋のなかでは娘が両手を後ろについてひっくり返っている。大きな声の主は部屋の隅の赤子だった。赤子は大声で泣きつづける。

 娘は、その赤子のほうに何とか近寄ろうとするのだけれど、そちらに行くと克富に近寄ってしまうので怖くて近寄れない。

 後ろから娘の両親らしい男と女が出てきたが、部屋のまん中で立ちはだかる郷名主を見て、その場に座りこんで頭を下げてしまった。

 古左兵衛がいればまだ名主と言い争ってはくれるのだろうけれど、いまあいにく古左兵衛がいない。

 「うん? はぁる? 何か恐ろしいことでもあるのか? あるならわたしに言ってみるがよい」

 「い……いいえっ……いいえっ……」

 はるはわりと低い声で言って懸命に首を振る。どうやらこの低い声がこのはるの地声らしい。

 克富はまた満面の笑顔になって、上からはるの顔をのぞきこんだ。

 「いや……いえっ……いいえっ……」

 はるは震えている。そして、
「いいえっ、恐ろしいことはございませんっ!」

 そう叫ぶと、克富の足のすぐ脇をすり抜け、克富が開けたままにしていた引き戸から外に飛び出した。

 「あっ、はる!」

 克富は驚いた。

 ばしゃあんと水が跳ね上がる。あまりに慌てて外に飛び出したはるが、框で転び、胸から道につっこんでしまったのだ。相当にいたかっただろうが、そのまま立ち上がり、走る。

 「はる!」

 克富は、きっと鋭い目をすると、後ろのはるの両親をにらみつけた。

 「ふんっ!」

 はるの両親は、その克富と目を合わさないように、頭を下げて平伏してしまう。

 「きぇっ!」

 そんな声を投げつけると、克富ははるを追って外に飛び出した。

 克富が道の村の側に跳び下りたので、はるは街道筋のほうに向かって逃げる。克富ははるを追った。

 ふだんから武芸とは無縁の男だ。(からだ)(なま)りきっている。だが、仮にも武士である。しかもかなりの大男である。どたどたとぶざまな走りでも、それはそれで速い。

 歩幅からして娘のはるとは違う。はるは娘としては大きいほうだったが、克富が本気で走るのにはかなわない。

 「はるっ! 何を逃げる? 何か悪いものでも憑いているのか?」

 「お助けください! お助けください!」

 「だから助けてやろうといっておるのだ。何が憑いている? え、おまえの目には何が見えておる? 言うてみよ、このかつーとみーが成敗してやるから、言うてみよ」

 「お助けください! お助けくださいっ!」

 はるにとっては何の望みもないはずだった。

 もし街道筋まで逃げ切り、もし街道筋で善良な旅人にめぐり会い、その旅人がはるを連れて行くと言ったら、克富は手出しできない。街道は道であって村ではないからだ。だが、もし逃げ切れたとしても、いまでは(さび)れぎみのこの街道でだれかに出会うことはあまりなさそうだし、出会ったとしてもそれが善良な旅人とは限らず、善良な旅人が連れて行ってくれるとしてもはるは村に帰れなくなってしまう。それに、勝手に川まで領分を広げたことにして市場町の商人の娘や安濃(あのう)様に仕える榎谷(えのきだに)の娘にまで因縁をつけた克富のことだ。旅人にだって斬りかからないとは限らない。

 「お助けください!」

 要するに、何か普通では考えられないことが起こらないかぎり、はるは助からないのだ。

 「お助けくださいましっ!」

 そして、普通では考えられないことが起こった。

 街道のほうから村に向かって三人の男たちが駆けてきたのだ。

 はるは大声で男たちを呼んだ。

 「お助けくださいましっ! お助けを……」

 で、はるは足を止めてしまう。

 足だけではない。(かお)が動かなくなる。

 男たちの先頭に立つ男がだれかがわかったからだ。

 長野雅一郎(まさいちろう)だった。この無道な郷名主の言うことならばなんでもきき、いつも郷名主の威を借りて自分より弱い相手に当たり散らしている男という評判だ。

 あの克富の意を受けて川で町の娘や榎谷の娘に絡み、悶着を起こしたのもこの男だという。

 「あっ……」

 (しゃが)む気力も湧かず、はるは道のまん中に立ちつくした。前から長野雅一郎とその一党が、後ろからは克富が、そのはるへと向かって走ってくる。

 雅一郎のほうが少し早かった。

 「きゃ?」

 そして、雅一郎ははるの横を行きすぎる。雅一郎についてきた男たちも行きすぎる。まるではるなどそこに立っていないようにだ。

 「?」

 はるは思わず振り向いた。三人の男は克富の前で足を止め、克富を取り囲む。

 そのときになって、克富は、やっと雅一郎の姿がわかったようだ。

 「おおっ、雅!」

 言われて、雅一郎は足を止めた。

 「ご苦労だったな。それで範大(のりひろ)はどこにおる? 範大はどんな手柄を立てたな? 早くきかせてくれ。のりーひろーの手柄をききたいっ!」

 「範大様は」

 雅一郎は頭を下げ、鋭い目で名主を見上げた。

 「うんうん、範大はどうしたな?」

 「村でご乱心、罪なき小娘を襲われましたため、村人に成敗されました」

 「うんうん、乱心して小娘を襲おうとした村人を成敗したのか? それは手柄である!」

 「そう思われますか?」

 「うんうん、もちろんそう思うぞ」

 いまにも脇差(わきざし)を抜こうとしている姿、張りつめた面持ち、そしてその目に宿る凶光――克富もそろそろその雅一郎から殺気を感じてよさそうなものだ。

 ――が、いっこうに感じないらしい。

 「では、我々も同じように罪なき小娘を襲おうとしている者を成敗しようと思います」

 「うんうん、よい心がけである」

 はるが小娘か「小」のつかない娘か、それとも、先にこの克富の子どもを産んだからもう「娘」でもないのかということは別として、克富は自分がはるを襲おうとしているというつもりがまったくないのだから、自分のこととは夢にも考えられないのだろう。

 「で、範大はどこだ? いったいどこにおる?」

 「間もなくお会いになれます。失礼!」

 雅一郎が脇差を抜く。後ろの一人も同時に太刀を抜き、さっきはるを後ろに退かせた男も少し遅れて脇差を抜いた。

 「ふん? 刀を抜いて何をする?」

 「斬ります」

 言いざま、雅一郎は克富に向けて脇差を振り下ろす。

 「?」

 だが、刀は克富のはるか手前の空を切っただけだった。

 妻の脇差でもともと小振りだったうえに、相当に古い刀で何度も研ぎ直したらしく刃が短くなっている。そのうえ、雅一郎は刀をほとんど(ふる)ったことがないので、間合いがまったくとれないらしい。

 「……!」

 主人殺しに失敗して、雅一郎は声を失っている。後ろで大木戸九兵衛(くへえ)
「ああっ」
と苛立ちの声を上げた。

 「うん? 何かおるのか?」

 克富は慌てた声を出した。

 「わしの前に何かおるのか? それがわしには見えぬのか? どんな恐ろしいものがおる? どうしてそれが見えぬ? はるも怯えておった。はるにも見えていたのだ。どうしてわしにだけそれが見えぬのだ?」

 「はい」

 克富がうろたえたことで、雅一郎は立ち直る時間を稼ぐことができた。

 「それは」

 「それは?」

 怯えた克富はいちいちきいてくる。

 「その恐ろしいものが」

 「その恐ろしいものが、何だ?」

 「あなた様だからです!」

 言いざまこんどは頭から飛びこみ、克富の肩口からざっと斬り下げた。

 こんどは斬れた――ことは斬れた。

 ただ、刃が鈍かったのか、それともやはり雅一郎の腕がよくないのか、克富の幅の広い肩に先が当たってはね返り、あとは空を切って斬り下げただけだった。

 傷は浅い。これだったら今朝の毬のすり傷一つのほうがずっと深かったに違いない。

 しかし、克富の目を少しだけ覚まさせるには十分だった。

 「雅! 乱心したか? 乱心したか? 雅! わしをだれだと思う? 中原、造酒(みき)、克富、中原、造酒、克富であるぞ! おまえの主人であるぞ! 目を覚ませ、雅、目を覚ませ!」

 「目は覚めております! いえ、目が覚めたからこそ、あなた様を成敗するのでございます」

 雅一郎は刀を上段なのか何なのか知らないけれども中途半端に上のほうに構える。

 「ひいっ!」

 克富は身を翻した。坂を上って逃げ出した。

 「あ、待て」

 逃げ出してしばらくしてから追いかける。克富は仮にも武士である。しかもかなりの大男である。どたどたとぶざまな走りでも、それはそれで速い。

 追われる克富と追う雅一郎一党ははるの家の前を通り過ぎた。雅一郎は、克富から引き離されないかわりに、間合いを詰めることもできない。

 雅一郎の後ろから大木戸九兵衛が追いつき、追い越す。九兵衛は長い刀を槍のように平らに構え、後ろから走った勢いで克富の尻を突き刺す。

 「いっ?」

 克富が痛がったところを見ると、当たってはいるのだろうけれど、深手にはほど遠いようだ。

 「乱心である! 乱心である! わしを思い出せ! だれか思い出せ!」

 克富はそんなことを言いながら逃げる。逃げる歩調はまったく変わっていない。

 井田小多右衛門(こだえもん)が後ろから近づいてきてまた雅一郎を追い越し、こんどは克富のすぐ後ろに迫って、その首筋あたりを狙って脇差を振り下ろす。

 そのとき、ようやく何が起こっているかを知ったはるが
「ぎゃーっ!」
という悲鳴を上げた。小多右衛門が振り返る。

 そのせいで小多右衛門の手元が狂い、すぐ前を走る克富の体にはまったく当たらなかった。当たらないばかりか、空を切った剣先が自分に当たりそうになり、それを避けて身を(よじ)ったらそのままその場に倒れてしまった。雅一郎がその体に(つまず)きそうになって、危ういところで跳び越していく。

 要するに、長野一党の剣戟(けんげき)は、三人がかりで克富にほとんど何の傷も負わせていない。

 だが。

 「あいっ……うーっ!」

 克富の体は地面に倒された。

 「うーっ……あ、いたい、いたいっ」

 先ほど克富が躓き、克富が「打ち首」と言って踏みつけたあの道のまん中の石が、また克富の爪先を襲ったのだ。

 武運は尽きた。

 「いたいっ……いたいっ……」

 三人の(さむらい)が地上で爪先を押さえてわめく克富を取り囲んだ。

 「いたいっ……痛いのだ、雅。わたしはいま石に躓いて痛いのだ。この性悪の石に躓いて痛いのだ。何の話でもきく、きくから、後できく。後できくから、後にしてくれ、後にしてくれ、な?」

 「ここまで来た以上、後にはなりません」

 雅一郎は律儀に受け答えをした後、爪先を両手で握っている名主の顎のあたりに剣先を向けた。

 剣が短くて首の根まで届かないのだ。

 克富はあっと声を上げる。爪先を押さえるのをやめてがばっと起きあがった。

 「そうだっ、範大っ! 範大っ! 範大はどこだ?」

 そして立ち上がろうとするのだが、爪先に力をこめたからか、
「いっ」
と声を立ててそのまま膝をつく。その背中に、大木戸九兵衛が、渾身(こんしん)の力をこめて太刀を振り下ろした。

 「ああぁんっ」

 何か甘えたような叫び声を立てて克富は横に転んだ。それでも口数は減らない。

 「範大! 助けよ! 助けてくれっ! 父がいじめられているのだ、わけのわからぬ地侍どもにいじめられておるのだ。おまえならば打ち払うことができる。たすけてくれー!」

 井田小多右衛門がもういちど起きあがろうとした克富の脇に脇差(わきざし)を打ちつける。

 「ああっ、痛いっ、痛いではないか。範大、早く来てくれ、助けてくれ、助けてっ」

 「範大様は来られません!」

 そう言って雅一郎が克富の頭の上に脇差を振り下ろした。というより、脇差ごとぶつかっていった。

 「うのぉっ……」

 克富はへんな声を立てた。両手で頭を押さえて、へたへたと倒れこんでしまう。そこへ地侍らが思い思いの方向から剣を突き入れ、また剣を振り上げて打ち叩いた。

 「のーりーひーろーっ! のーりーひーろーっ!」

 克富はひたすらその名を呼びつづけて転がり回るばかりだ。

 「範大、範大、のりひろ、のりひろっ!」

 転がってくる体を足で蹴って押し戻しながら地侍らは剣を揮いつづける。

 「範大、範大、のりひろ、のーりーひーろーっ! のー、りー、ひー、ろーっ!」

 克富の声はそれで尽きた。

 いや、最後に、呂律(ろれつ)が回っていなかったので、よく聞き取れなかったが、克富は一つだけ別の名を呼んだ。

 それは
「しげ……」
と言っているようだった。

 そして、町の酒屋の倅から村の名主に成り上がった男はもう地上に声を残すことはなく、やがて普請の悪い道にその(むくろ)をさらすことになった。

 「よし!」

 肩で息をしながら、雅一郎、九兵衛、小多右衛門は(うなず)きあった。頷きあって、たがいに顔を見合わせながら、最初は恐るおそる、途中から勢いづいてその剣を空へと突き上げた。

 「おーっ!」

 「もう一度!」

 雅一郎が言う。勢いが弱いと感じたのかも知れない。

 「おーっ!」

 たしかにさっきよりは勢いが上がってきた。

 「もう一度だ!」

 「おーっ!」

 その勢いのまま長野雅一郎が大声で呼ばわった。

 「中原村の方がた! 長野一郎雅継(まさつぐ)、柿原党の方がたの助力のもとに、無道の名主、中原造酒克富をここに討ち果たした! これからともに村を立て直そうではないか! 志ある者はわれらの下にはせ参じよ!」

 雨が降っている音が里に響きわたった。

 「中原村の方がた! 長野一郎雅継、柿原党の方がたの助力のもとに、無道の名主、中原造酒克富をここに討ち果たした! これからともに村を立て直そうではないか! 志ある者はわれらの下にはせ参じよ!」

 雨は朝よりは小やみになったけれども、晴れ上がる気配はまったくない。

 「中原村の方がた! 長野一郎雅継、柿原党の方がたの助力のもとに、無道の名主、中原造酒克富をここに討ち果たした! これからともに村を立て直そうではないか! 志ある者はわれらの下にはせ参じよ!」

 玉井川が流れる音が背後でする。前の日からの雨で水かさが増し、いつもよりも大きい音で流れている。

 雅一郎はあと二人と顔を見合わせ、もういちど、呼ばわってみる。

 「中原村の方がた! 長野一郎雅継、柿原党の方がたの助力のもとに、無道の名主、中原造酒克富をここに討ち果たした! これからともに村を立て直そうではないか! 志ある者はわれらの下にはせ参じよ!」

 「府生(ふしょう)様、早くっ!」

 背後で声がした。はるだ。

 「府生様っ、兄ちゃんも右門(うもん)も早くっ!」

 「どうした、はる?」

 走りながらきいているのは坂口古左兵衛(こさへえ)だ。

 「雅が柿原党の侍を連れてきて、いっしょに名主様をぶち殺したの! 早く! 早く来て!」

 「おうっ!」

 棚畑を回って駆けつけたのは三人の地侍たちだ。

 「おお、立岡の……!」

 雅一郎が声をかけようとしたとき、立岡府生拓実は自分の脇差を引き抜いていた。

 残る二人――右門と古左兵衛も倣う。

 雅一郎が朗らかな顔から転じて険しい顔になる。後ろの二人はとまどうばかりだ。

 「何の……まねだ?」

 「それはこちらがききたい!」

 拓実が少しばかり肩で息をしながら倍ぐらいの声で怒鳴り返した。

 「無道の名主、中原造酒克富を成敗したのだ。村のためだ」

 「村のためだ?」

 拓実は剣を構えなおす。古左兵衛と右門が左右に回り、雅一郎ら三人を囲むかたちになったので、九兵衛と小多右衛門もやむなく剣を構えなおした。

 「そうだ」

 雅一郎は低い声を絞り出すように言った。

 「この名主がいたからこそ村の衆は苦しみに苦しみを重ねてきた。それを成敗いたした」

 「だれが雅さんに成敗してくれと頼んだ?」

 「だれも頼まぬ」

 口を強く引き結んだ拓実に向かって、雅一郎は低い声で言い返しつづける。

 「村の者は意気地がないからこの名主の横暴を見て見ぬふりをしてきた。そこで、この長野雅継、柿原党の方がたの手をお借りして」

 と左右に顎を振ってみせる。

 「悪名主中原克富を成敗したのだ」

 「勝手なことを言うな!」

 拓実が雅一郎に負けない大声で叱咤した。

 「村のことは村の寄合で決めるものだ。勝手な行いは許されぬ」

 「見るところ」
と右門も剣を油断なく構えながら言った。

 「名主殿と古左(こざ)の妹の取り合いでもして、いさかいになったのであろう? そうだな?」

 「えっ……あっ……あっ」

 剣の先で脅された井田小多右衛門が思わず頷いてしまう。

 「うん……うん……」

 古左兵衛が口の端から舌打ちの音を漏らした。

 「やっぱりそういうことか」

 「えぇっ?」

 考えてもいなかったほうに話が行きそうだからか、雅一郎が驚く。

 「いや、待て! 待て!」

 雅一郎は慌てて拓実に向かって、
「この二人は柿原党の方がただ、柿原党の方がたに剣を向けるとは不届きだぞ」

 「柿原党の方がたであれ何であれ、よその村に押し入って名主を殺していいという道理はない」

 「悪名主を殺せとは」

 雅一郎が苦しまぎれにいう。

 「悪名主を殺せとは、柿原大和守様のお申しつけだ。おっ、おまえは大和様に逆らうつもりか?」

 「大和守様は竹井の代官でいらっしゃる」

 坂口古左兵衛が落ち着いた口ぶりで言う。

 「竹井の代官様がこの村のことに口を出されるはずがないではないか」

 「しかし……」

 雅一郎はさらに苦しまぎれに言い返す。

 「この村の者は柿原様から多大な銭を借りておる」

 「毎年きちっと返している!」

 古左兵衛が言い返す。右門も、
「名主様が借銭を滞らせるのが大嫌いな方だったものでな」
とつづける。右門はさらに皮肉をこめて言った。

 「それは、名主様になりかわって村の者からの借銭の取り立てに懸命に働かれた雅どのなら十分にご存じであろう?」

 「ん……」

 雅一郎はことばにつまってしまった。

 「……あれは、名主殿がお命じになったことで、しかたがなかったんだ」

 古左兵衛が(なじ)る。

 「おれの隙を見てはるをたびたび名主殿のところに連れて行ったのもそうか」

 「そうだ」

 「それならおれのところのお(こん)やお多香(たか)もそうか!」

 こんどは右門が詰る。

 「そ、そうだ。あれは名主様が言われたことで、しかたなくやったんだ」

 「柿原党の方がたとやら」

 古左兵衛、右門の二人がいっしょに失笑を漏らした。

 立岡拓実が、雅一郎を通り越して後ろの二人に声をかけた。

 「お聞きになったとおりです。あなた方はこの男にだまされて不義の手助けをしたのです。剣を収めて、とりあえず館までご同道ください」

 「いっ……いっ……」

 大木戸九兵衛が頭を振る。井田小多右衛門がひと声、
「逃げろっ!」

 小多右衛門と九兵衛はくるんと後ろを向いた。左右の古左兵衛と右門にはさまれているので身を寄せ合って押し合いながら逃げる。しばらくは刀を持って走っていたが、走るのにじゃまになると思ったのか、すぐ捨ててしまう。

 「あ、待て! ……くそっ、覚えてろ!」

 雅一郎も野太い声で捨てぜりふを残すと、慌ててそのあとを追いかけた。

 「逃げるな!」

 逃げる三人の前に立ちはだかったのははるだった。両手を広げてとおせんぼする。

 「あっ……」

 「はる、危ない、やめろ!」

 小多右衛門と九兵衛は娘の前で足を止めてしまう。顔を見合わす。

 「こらっ、退けっ」

 後ろから駆けだしてきたのは雅一郎だ。

 「退けっ!」

 その声といっしょに雅一郎は渾身の力で刀を振り下ろした。

 名主にはなかなか当たらなかった刀が、こんどは一撃で的中する。

 はるは力を失うと、その場に膝からくずおれた。その横を雅一郎ら三人が駆け抜ける。

 「はるっ! はるっ!」

 「おはるさん! しっかり……あいつは!」

 古左兵衛が妹を抱き起こし、右門が反対側からそれを支えながら走り去る雅一郎らを目で追った。

 雅一郎らは村のほうを振り向きもせず、いっさんに街道筋へと逃げてしまった。

 「傷は?」

 右門にきかれて、兄は妹の体を探ってみる。

 「だいじょうぶだ」

 古左兵衛は、半ばは安心し、半ばはあきれ顔で右門を、つづいて拓実を見る。

 「身どころか、着物も切れてない」

 たぶんまったく切れもしないほどに刃が鈍っていたか、腕が不確かで刃を身体に当てられなかったかなのだろう。

 その古左兵衛の腕のなかで、弱々しくなのか、照れてなのか、妹のはるが笑って見せる。

 「むちゃするんじゃない」

 古左兵衛がはるの顔をのぞきこんで叱り、その身体を自分の胸に抱きつけた。

 拓実はその古左兵衛、はる、右門の顔を順番に見て、頷いた。

 「はるさんのことは二人に任せたい。おれは左近さんと外記さんといっしょに申し文をまとめてくる」

 「わかった」

 古左兵衛と右門は頷いた。右門が言う。

 「早いこと評定衆に話を通しておかないと、柿原を通してどんな横車を押してくるかわからない」

 兄の腕に抱かれたはるが、その拓実のずっと追いかけている。

 刀で撲殺された名主の(からだ)は、あいかわらず道の上に醜く色を変えて横たわっていた。だがだれも気にしようとしない。

 そんなものを気にしているゆとりはない――ということなのだろうか。

 空は明るくはなってきたけれども、雨は降りつづいていた。

― つづく ―