夢の城

清瀬 六朗


桜の里(九)

 次の朝――。

 雨は上がった。

 朝からまぶしい日射しが注いでいる。

 雨で水かさが増えた川はいつにもまして楽しげにはしゃぎ、しぶきをはね返す。その一つひとつに日の光が照り返す。木々の葉からも昨日の雨の滴がしたたり、細かく震えて落ちる。その滴からも日の光が照り返してくる。地上のあらゆるところに日の光が躍り、日の光が揺れていた。

 さまざまな小鳥の声がひっきりなしに聞こえる。

 川中村の関所を出たところに、村の人びとが集まっている。中橋渉江(しょうこう)とその弟子の安総(あんそう)尼、川上村の村長(むらおさ)で安総の父親でもある木工(もく)国盛(くにもり)、森沢の名主の森沢荒之助(あらのすけ)、川上寺の若い寺男の和生(かしょう)、それとこの関所の関所番の男といった人たちだ。

 「加恵(かえ)さんを説き伏せるのはたいへんだったのではないですか」

 中橋渉江が木工国盛にきいている。

 「いえ、たいしたことは」

 顔を上げて遠い自分の村のほうを見ながら、国盛は答えた。

 「たしかに、最初は、村で困ったことがあるとすぐに広沢家を生け(にえ)にすると大声でお怒りになっていましたがなぁ」

 「それでどう説き伏せたのです?」

 「いや、女手一つでお子三人を育てるのは並みたいていのことではないでしょう、しばらくお子を育てるのをお休みなされと勧めてみたのですよ」

 国盛は、この明るい朝にふさわしくと思ってなのか、朗らかに話した。

 「そうするとなぁ、(まり)がどんなに手癖(てくせ)が悪いかとか、手癖の悪い毬から葛太郎(かつたろう)(まゆ)を守るのがどんなにたいへんかとか、葛太郎がさいきんすなおでなくなったのは毬が悪いとか言い出して、それを育てられるのは自分だけだと言い張って泣き出す始末で」

 「そんなばかなことがありますか」

 和生が言い返す。

 「毬さんが盗みをしたのはたしかだけど、あれは繭ちゃんに食べさせるためだし、それに毬さんだけじゃなくて葛太郎さんにも繭ちゃんにも乱暴を繰り返していたのは加恵さんじゃありませんか」

 「それはそうだがな、(かず)

 和というのは和生の俗名だ。

 国盛はあらたまって目を見開いてまわりを見回してから、和生に顔を向けた。

 「子を育てるというのはそれはそれでたいへんなことだ。とくに片親というのはな。加恵さんも昔から毬を邪慳(じゃけん)に扱ってきたわけではない」

 関所番の男がことばを継ぎ、諭すように和生に言った。

 「先ほど、加恵さんは、毬ちゃんに、あなたがいちばんのお姉さんなんだから葛太郎と繭を頼みますと何度も何度も頼んでいましたよ。薬も銭も、家に伝わっていたというお守り札もぜんぶ毬ちゃんに持たせて」

 和生はただ
「ふぅん」
と感心したような声を立てただけだ。

 中橋渉江が少し黙ってから唇を開いた。

 「やっぱりふくさんは来られないか?」

 「ああ」

 国盛が答える。

 「お婆さんからも言ってもらったんですが、やっぱりいまお美千(みち)さんのそばを離れるわけにはいかないって」

 「お美千さんよりふくさんのほうが参ってるのではないでしょうか」

 関所番の男が言う。渉江は小さく一度だけ頷いた。

 「いらっしゃいました」

 後ろから丸顔の安総が乾いた声をかけた。村の者たちが振り返ると、藤野の美那が毬の手を引き、葛太郎が隆文と並び、さわが繭を背負って森のなかから出てきた。

 金貸しの使者三人と広沢家の子どもたちは村の者たちの向かい側に並ぶ。繭はさわの背中から下りた。

 「お待たせしました」

 藤野の美那が頭を下げた。隆文とさわがつづいて頭を下げる。三人の子どもたちもそれに倣ってくるんと頭を下げた。

 「毬」

 和生が少しばかり驚いて声をかけた。

 「もう歩いてだいじょうぶなのか?」

 「はい」

 毬がいつになく神妙に答える。藤野の美那が横で笑って言った。

 「村を出るまでは自分の足で歩きたいって」

 「ほう、そうかぃ」

 国盛が声をかける。

 「ここがおまえの村だもんな」

 毬はいつになく恥ずかしげに笑い、藤野の美那に寄りかかった。寄りかかったというより逃げこんだという感じだ。

 隆文が渉江に向かって立ち、小さく頭を下げた。

 「それでは、広沢家の毬、葛太郎、繭を人質としてたしかにお預かり致します」

 「よろしくお願いします」

 渉江も応えて頭を下げる。

 「何かとお世話をおかけすることになると思いますが」

 「いえ、なに」

 隆文は朗らかに応じた。

 「この藤野の美那を育てたお方にお願いするのですから心配はいりません」

 美那も軽く頷いた。

 「わたしもいますし、隣の駒鳥屋さんのおかみさんやあざみちゃんもいるし、さわちゃんもいるしさわちゃんの友だちもいるし、だいじょうぶですよ」

 「おまえみたいながさつなのがいるのがいちばん心配だあたっ」

 隆文の頬をさわが軽くはたいた。隆文が言い返すまえにさわが
「約束したでしょう、昨日。美那ちゃんとわたしにやさしくするって」

 「ああやれやれ」

 隆文が低い声で言って、で、渉江に向かって笑って見せる。

 「とまあ、こういう厳しい娘たちもいっしょにいますから、たぶんだいじょうぶでしょう」

 「たぶんがよけい」

 さわが言った。きいて渉江は首を少し傾けて笑って見せた。

 このひとには珍しい格好である。

 で、渉江はすぐに(かたち)を改めた。

 「それよりご使者、子ども三人の人質でこういうことをお願いするのもはなはだ厚かましいが、借銭の減免のこと、よろしく銭屋衆と話し合ってください。なにとぞよろしくお願いします」

 「それはお任せください」

 隆文が胸を張った。

 「どれだけできるかわかりませんが、この村の人たちがどんな暮らしをしているか、きちんとお伝えし、なるたけねばり強く話し合ってみましょう」

 隆文が言うと、横でさわも顎をしっかり引いて頷いた。

 「あのっ」

 渉江の後ろからちょっと気後れ気味に安総が声をかけた。声をかけてから少し息を飲むようにする。

 これもいつも落ち着いている安総には珍しいことだ。

 「うん?」

 隆文がその安総のほうを見返す。安総は美しい二重のまぶたを開いてその隆文のほうをまっすぐに見た。

 「こんな貧しい村ですが、村の者たちはがんばっています。少しでもここを暮らしやすい村にしようとがんばっています。わたしが生まれたころはこのあたりぜんぶ荒れ地だったのです。その荒れ地をここまで田畑に変えて、少しでも暮らしが楽になるようにみんなでがんばってきたんです。そうやって作ったものをできるだけ村の人自身のものにできるよう、町の方がたにはお手伝い願いたいのです。そのこと、お伝えください」

 その美しい声をかすれさせての懸命の訴えだった。

 隆文は少し目を閉じた。

 目を閉じていても舞い踊る日の光をまぶたの後ろで感じることができただろうか。

 隆文は大きく息を吸い、その息を味わうようにして吐いてから、目を開いた。

 「村の朝は気もちいいですな」

 言ってから、ふっと安総のほうに目を留める。

 「こういうところに暮らしている人たちができるだけいい暮らしをできるよう、できるだけがんばりましょう、安総さん」

 呼ばれて、安総はとまどったように笑って見せた。

 「荒之助さんもお元気で」

 藤野の美那が声をかける。荒之助はなにも言わずに頷いた。

 「それじゃ、そろそろ行くか」

 隆文が言った。で、美那のほうに首をめぐらせて
「いまから行けば、昼からお屋敷に間に合うかも知れんぞ」

 お屋敷とは、この二人の剣術の師匠、浅梨左兵衛尉(さひょうえのじょう)治繁(はるしげ)の屋敷のことだ。美那はいやそうな顔をした。

 「今日から行くつもり?」

 「おまえ、修練に休みはないってきかされてこなかったか?」

 「そういうことじゃないでしょ?」

 隆文と美那はしばらくにらみ合う。

 「それでは、お元気で」

 中橋渉江が向かい側から声をかけた。

 「それと、子どもたちをよろしく頼みますよ」

 「毬さん、葛太郎さん、それに繭ちゃんもがんばんるんだよ」

 和生が笑顔で声をかけている。毬がうなずいて
「はい」
と大人びた返事をした。美那、さわも村の人たちに頭を下げる。

 そして、美那は毬の手を引き、隆文は葛太郎と並び、さわは繭を背負おうとしたが、繭が
「お姉ちゃんが歩くのならわたしも歩く」
と言ったのでさわと繭が並んで、道を北へと歩き始めた。

 その姿が遠く小さくなるまで、村の者たちはずっとその場で町の使者たちを見送っている。

 「いちばんがんばらなければならないのはたぶんわたしだな」

 村の者たちを見送りながら、森沢荒之助が口を開いた。

 「わたしは、あの使者たちに、こんどわたしが助けることができるひとのことを助けないで、その人が死んだり傷ついたりしたら、こんどこそわたしのせいだと、そう言われました。わたしはあの子を救うために柿原党の男を殺した。柿原はいずれこのことを種にして村をつけ狙ってくるでしょう。しかも城館ぐるみでこのわたしや村をつけ狙って来るに違いない」

 「うん」

 渉江が頷いた。

 「あのなかの藤野の美那という娘さんは、あの子たちにも治部(じぶ)様のいくさは終わっていないと教えたそうだ。ほんとうにそうかも知れぬ」

 「わたしもそれは言われました」

 荒之助が渉江のほうを向いて言った。

 「死んだ者たちは戻りません。春野家の正稔(まさとし)様、姉姫、妹姫、牧野治部様と芹丸、港の桧山織部(おりべ)様、わが父、それに広沢の上の家の勝吉(かつよし)さん、木美(きみ)さん、広沢のお美那ちゃん――でも、これから、一人でも自分の親しい者が死なないよう、傷つけられないよう、力を尽くさなくては」

 「自分にとって親しくない者も、見知らぬだれかにとっては親しい者なのだ。だからたぶんほんとうは一人でも殺されたり傷ついたりしないほうがいいのだ」

 中橋渉江が、遠く、使者たちが去っていったほうを見て言った。

 「だが、どうやらそういうほんとうのことを言っていたのでは間に合わない世が来ているのかも知れぬ」

 渉江は目を細めた。その目には、まだ、くっついたり離れたりしながら歩いていく三人の町の者たちと三人の子どもらの姿が映っていたはずだ。

 風が吹いた。

 その風がどこからともなく薄紅色の花びらを運んできた。それは風のなかでめまぐるしく表と裏を替え。薄紅色の明かりと陰とを入れ替えながら飛んできた。その身の美しさを見せようとして懸命に舞っていたのか、それとも舞いたくもないのにただ風に弄ばれ踊らされていたのか。

 安総尼はその花びらが森蔭に消えるまで、ずっといとおしそうにその姿を追いつづけていた。


 川中村を出てしばらく行くと、道は牧野治部大輔(じぶのたいゆう)興治(おきはる)の館の跡の前を通る。

 「見て」

 さわが声を上げた。

 美那もその館跡を見上げる。

 「ほんとだ。あんなにいっぱい咲くんだね」

 館の斜面は薄紅色で覆われていた。

 覆われていたと言うより、薄紅色のなかに館が埋もれていたというほうがいいのだろう。それぐらいあの桜はたくさんの花をいたるところにいっせいに花を咲かせていた。

 「あれが広沢桜だぞ」

 葛太郎が自慢げに言った。

 「広沢家がこの村に来たとき、いっしょに苗木を持ってきたんだ。それがあんなに咲くまでに育ったんだぞ!」

 「葛太が自慢するんじゃないの!」

 で、やっぱり毬に怒られている。

 でも、毬の怒りかたはいつもよりずっと優しいように美那には思えた。

 ――べつに「いつも」がわかるほど毬や葛太郎と長くいっしょにいたわけではないけれど。

 「ねえ」

 その毬が藤野の美那の顔を見上げた。

 「わたしね、治部様から言われたことを思い出したんだ」

 「ほう、なんだ、それは?」

 隆文がきく。毬は頷いた。

 「わたしが、この桜がいっぱいで、極楽浄土みたいだって言ったら、治部様が、いや、極楽浄土はこんなのとは違うっておっしゃったんだ」

 で、口をとがらせ気味にしてしばらく黙ってから、
「それ、どういう意味かな?」

 「さあ、わからないな」

 隆文が答えた。

 いまは館跡の桜も風がないからか小揺(さゆ)れもしない。

 美那はその館跡の桜をしばらく見てから、毬のほうを振り向いた。毬はまだ美那の顔を見上げている。

 美那はわからないというように首を振った。

 「わたしならね」

 さわが言った。

 「あの桜の咲いてるところこそがこの世だからだって答えるよ」

 さわは毬と美那を振り向き、すこし寂しそうににっこり笑って見せた。

 「あの桜はね、咲くときにはいっせいに咲くけれども、散るときにもいっせいに散るんだ」

 で、葛太郎を振り向いて
「そうだよね」
ときく。

 「うん……」

 散るときのことはよく知らないのか、それとも散ることなんか考えたくないのか、葛太郎の返事は何か中途半端だった。

 「それに、ここの森ではわりとよく育ってるみたいだけど、木の質も弱くてね、夏に毛虫が着きすぎたりすると枯れちゃうんだ」

 「そうなんだ……」

 葛太郎はふしぎそうな顔でさわを見上げた。繭もそれをまねてさわを見上げる。

 「だから、あの花は来年もああして咲けるかどうかわからない。それでもああして命をかけて咲いてるんだ。だから」

 さわは毬に笑いかけた。

 「治部様はそういうことをおっしゃりたかったんじゃないかな、ってわたしは思うけど」

 毬は、さわに向かって頷いたあと、こんどは意見を求めるように美那の顔を見上げた。

 美那は笑って毬に優しく言った。がさつだとか乱暴だとか言われているこの子ができるかぎりに、優しく――。

 「毬が言われたことだったら、毬が自分で考えて出した答えがほんとうの答えだよ」

 「うん」

 毬は元気に頷いた。

 美那と毬が話しているあいだ、さわはその広沢桜が埋め尽くしている館の跡を、いとおしそうにじっと見つめつづけていた。

 桜は、いま、いまはだれもいない館の跡に、何も言わないで、ただ、その場が埋まってしまうぐらいの花を、ただひたすらにひたむきに咲かせていた。

― つづく ―