夢の城

清瀬 六朗


町に集う人びと(二)

― 1. ―

 その日は月のさやかな晴れの夜だったが、つぎの夜は日が暮れてから雨が降り出し、また次の日は一日じゅう雨だった。そしてその次の日になって雨は上がった。

 あざみは店の表の戸をつっかえ棒で押し上げ、せいいっぱい背伸びをして戸についた金具を軒の金具に引っかけた。

 美那ちゃんにかなわないことはいろいろあるけど、これは自分にできて美那にはできない――なんてあざみは思っている。

 あざみは美那より背が高いからだ。

 それだけのことなんだけど。

 「わあ」

 雨の(しずく)が残ってきらきらと朝の日を宿らせていて、あちらこちらがまぶしかった。あざみは胸にいっぱい息を吸いこんだ。

 「あざみ」

 店のなかからおよしが声をかけた。

 「なに、お母さん?」

 あざみは店の外を見ていた首をそのまま後ろに向けて振り向く。

 「お美那ちゃんって今日あたり帰ってくるの?」

 「さーあ」

 あざみの返事はのんびりしていた。

 「わたしはなにも聞いてないよ」

 「でも、いっしょに行ってるおさわさんってあんたの友だちでしょ?」

 「そうだけど」

 「何も聞いてないの?」

 「うん」

 「ずいぶんのんびり屋さんね」

 「お母さんゆずりだから」

 あざみが言って笑うと、奥から出てきたおよしもいっしょに笑った。

 「でもずいぶん気にするのね、お母さんって」

 「それは仕事が仕事だしね。貸し銭の取り立てなんだから」

 およしはまっとうな心配をしている。

 「でも、それはさぁ」

 あざみは少しことばを待ってから返事した。

 「仕事のことはさわちゃんがわかってるし、さわちゃんって年は若いけどしっかりしてるから。それに、浅梨さまのいちばん上のお弟子もついてるんでしょ? だいじょうぶよ」

 「それはそうね」

 およしはあざみと並んで同じように空を見上げた。雲のない明るい空だ。

 あざみと目を合わせて、ほっと笑う。

 ――で、話のつづきだ。

 「でも、ほら、一昨日の夜、雨降る前に牧野郷のほうに狐火が見えたって話があったでしょ?」

 「あんなの雨の夜にはよくある話じゃない」

 あざみはごくつまらないことのように言い返した。

 「だいたい狐火が見えたのが牧野だってはっきりした証拠もないわけでしょ?」

 「でもねぇ」

 およしは声をひそめた。

 「ふだんはあのあたりで狐火が見えることはないんだって。それがあの日に限って――しかもその火が火柱になって空に立ち上ったって話もあるんだから」

 「それは昨日いっぱい聞いたよ。お店に来る人みんなその噂してたじゃない? でも狐火って狐の多いところじゃないと出ないんでしょ? いくら牧野郷でも人がたくさん住んでるところに出るわけないよ」

 「でもねぇ」

 およしは言いにくそうにことばを切った。

 「それだけだったら母さんも心配しないんだけど」

 「また何かあった?」

 「うん」

 およしのあんまり元気でない返事にあざみははじめて心配顔になった。

 「朝にお社にお参りに行ったときに聞いたんだけど、昨日、中原郷の名主が殺されたんだって」

 「中原郷って……美那ちゃんが前に喧嘩とかしてきたところ?」

 「うん」

 この母子にとっては、中原村は「町のすぐ北の村」ではなく「美那ちゃんが喧嘩してきたところ」らしい。

 「で、名主さんが殺されたの?」

 「うん」

 およしはまた少し黙る。

 「あざみは知らないと思うけど、あの名主って昔は酒屋の克四(かつし)って言って、そこの広場で見せ物のお客に酒売ってたひとなの」

 「市場のひとだったんだ」

 「ええ。どこかの酒屋さんの次男か何かで、店は持ってなかったんだけど、たいそう話がうまくて、酒を売ったりしながらひとを知らないうちに上機嫌にさせるのが巧くて、憎めないって言うのかな、みんなに好かれてたんだけど。……手癖は悪かったけどね」

 言ってから少しあざみのほうをうかがうように見たのは、自分の娘が「手癖が悪い」ということばを解するかどうか確かめたかったからだろうか。

 「それが名主様になっちゃったの?」

 「うん。その中原村の前の名主の娘さんが町に出てきてたのといい仲になっちゃってね」

 「そういうのってほんとにあるんだ」

 あざみは感心している。

 「で、そのひとが殺されたっていうの? とんでもない話ね」

 「うん……でも気になるのはね、殺したのは村の地侍の一人らしいんだけど、その地侍に加勢していたのが牧野郷の村人なんだって」

 「なるほど」

 あざみはちょっと考えた。

 「でも、だからってそれが美那ちゃんとはちょくせつ関係ないんじゃない?」

 「だといいんだけど」

 およしは心配そうに言う。

 「その牧野郷の村人って、どうも牧野郷で何かの変事があって逃げ出してきた人たちだって話があるらしくて。もちろん何か確かな証拠があるわけじゃないんだけど、それにその借銭の話っていうのが絡んでるとしたらね。たとえば、町の銭屋に催促されて払えなくなって逃げ出してきた連中だとしたら」

 「ふぅん」

 あざみは感心したような声を立てる。で、つづけて
「だいじょうぶなんじゃない? 美那ちゃんなんだし」

 言って、母親のほうを仰ぎ見てくすんと笑う。

 「そうね」

 およしは柳や海棠の若芽の鮮やかなのを見て首を軒のなかに引っこめた。

 「でもいいかげんに帰ってくれないと、薫さんが心配するのよね。お美那ちゃんを預かってから遠出させたのは初めてだから。おととい世親寺様にお参りしたのも、きっとお美那ちゃんの身の安全を願ってだったに違いないんだから」

 「そうだね」

 あざみは言って振り返った。

 「今日の昼までに美那ちゃんが帰ってこなかったら、薫さんのようす見に行こう」


 弦三郎は今日もまたあの控えの間で待たされた。朝からだ。なんでも式部大夫(しきぶだゆう)健嘉(たけよし)は朝早くから城館に出ているというのだ。

 朝に屋敷に来たときには、あの木村範利(のりとし)のほか三人ほどしかおらず、あとから一人、二人とほかの若者衆がやって来る。弦三郎もあとから入ってくるのが
「おはようございます」
とあいさつするのに黙っているわけにもいかず、あいさつを返す。そして、あとから来る者たちが新しい話をつぎつぎに持ってきて、みんなに聞かせてくれたのだ。

 弦三郎も、来たときにあいさつを交わした行きがかりで聞かないふりもできず、話に交ざっていた。

 木村範利だけは聞いていないふりをして書見をつづけていたけれど。

 それはたしかにややこしいできごとのようだった。

 牧野郷で変事が起こった。牧野郷に町の銭貸しの使者がやってきて、貸した銭をいくらかでも返してほしいと言い出した。ところが、三人の村人が、その町の銭貸しを追い返すために、郷の衆議にはかけないで柿原党の者を呼びこんだ。柿原党の者たちは何か下心を持ってやって来たらしい。牧野・森沢二郷では寄合が開かれ、借銭の一部分を返すということで話が落ち着いた。それを知ると、柿原党の使者は、柿原党を呼び入れた三人の村人と共謀して、郷の隠し倉に蓄えてあった米を焼いた。それで町の銭貸し衆に村から銭を返せないようにし、しかもその火つけの罪を町の銭貸しの使者に押しつけようというわけだ。ところがその一部始終を見ていた者がいた。子どもだったという。しかも女の子だ。寄合の場でほんとうのことが暴かれ、隠しおおせなくなったと見た柿原党の使者は、とつぜんその証人の童女を殺そうと斬りかかった。あまりに急なことで、証人の童女を守るにはその柿原党の使者を射殺すしかなかった。柿原党の残党と、柿原党を呼び入れた村人は村から逃げ出した。横死した柿原党の使者は手厚く葬った。

 ――そんな話である。

 しかも、厄介ごとはそれではすまなかった。

 その柿原党の使者が射殺された日の昼ごろ、中原郷中原村にひと群れの浪人どもが押し入ってきた。浪人どもは村に入って来るなり村の娘を(かどわ)かそうとした。ところが、たまたま村の見回りをしていた郷名主の中原造酒(みき)克富(かつとみ)がそれを見とがめた。拐かしを止めようとした克富は浪人どもに斬り殺されたが、娘の悲鳴で急を知って駆けつけたほかの地侍が浪人たちを追い返した。

 それは別々のできごとだ。控えの間に溜まっていた若者衆に推し量ることができたのは、その中原村の名主が殺された件は、中原村に柿原寺を造るという柿原大和守(やまとのかみ)忠佑(ただすけ)の野心と関係があるのではないかということぐらいだった。

 しかし、そのうわさ話を聞いていないふりをして聞いていた木村大炊助(おおいのすけ)範利が、あの平坦な声で言った。

 「その牧野で殺された柿原の使者というのがだれか、知っている者はいるか?」

 みんな黙っている。しばらくだれも何も言わないので、弦三郎が声を上げた。

 「それがだれかということが、中原村のできごとと何かかかわっているということだな?」

 「そのとおりだ」

 範利は声と同じように平らかな目線で弦三郎のほうを見る。範利のほうが高いところに座っているので、その目の線は弦三郎の頭の上を通り過ぎてしまう。

 「柿原党の手先として牧野に乗りこんで殺されたのは、中原安芸守(あきのかみ)範大(のりひろ)――おまえたちが話していたあの中原家の若造だという話だ」

 場がどよめいた。

 「ほぅ……」

 「越後守(えちごのかみ)様から名をいただいたのを自慢していたとかいう」

 「でもまだお子さまだろう?」

 「そんなのが村に乗りこんだ? 柿原党の手先として……?」

 そのどよめきを抑えるように範利はつづけた。

 「しかもだ。中原村に乗りこんだ浪人の一人は、中原村でその中原克富の恩顧を受けた地侍で、息子の範大のお守り役として牧野郷に行かされていた男だ。それに、そのほかの三人の風体というのが、牧野郷から逃げ出した三人の村人の風体にそっくりなのだそうだ」

 その場にいた若者衆はやっぱり黙って顔を見合わせている。

 そのうちの一人が、範利の目を盗んで、弦三郎に目配せをし、何か言うように合図した。

 「つまり、中原村の名主の若い(せがれ)が柿原党の手先として牧野郷に乗りこみ、牧野郷の寄合での衆議が思い通りにならないと見ると、柿原寄りの村人と謀って米の隠し倉に火を放った。それが隠しきれなくなると、証人の女の子を殺そうとし、逆に村人に殺された。そこから逃げ出したその名主の倅の守り役の地侍と、柿原党の手先を引き入れた村人三人が、こんどは中原村に押し入り、村の娘を拐かそうとして名主に見とがめられ、名主を殺してまた逃げ出した。そんな流れなわけだ」

 「そうだ」

 範利は(うなず)きもせず平坦な声でそう言う。

 「しかし」

 弦三郎は少し(ふる)えぎみの声で言った。

 「中原村で村の娘を拐かそうとした、その理由は何なんだ?」

 「こればっかりはわからん」

 範利がかんたんに答える。弦三郎はあれこれ考えて、自分の考えを言おうとしたが、その前に小森式部大夫健嘉が帰ってきて、弦三郎は呼び出しを受けたので、それを話しているいとまはなかった。


 そんな件を立てつづけに持ちこまれた評定衆が苦りきるのは少し考えればよくわかる。

 この件はどう見てもこれは柿原党と柿原党に味方した側の分が悪い。しかし評定衆がそんな評定を下せば柿原大和守の機嫌を損ねることは目に見えている。柿原大和守は自分の娘婿の越後守定範(さだのり)を動かし、そして定範は評定衆に何か言って来るに違いない。

 そこまで考えると、評議をまとめる立場にいる小森式部大夫健嘉の機嫌がいいわけがない。果たしてそのとおりだった。

 昼近くになってようやく屋敷に帰り、弦三郎を呼んだ健嘉は、弦三郎が来るとしばらく黙ってから、低い、聴き取りにくい声で言った。

 「おまえは、徳政のことも柿原大和守様のことも町で噂になっていないと言ったではないか」

 「はい、確かに申しましたが」

 弦三郎は覚悟を決めて落ち着いて答えた。健嘉はさっそく眉間の皺を深くした。

 「それではどうして町の銭屋が牧野郷に取り立ての使者を送るのだ? おかしいではないか」

 「しかし、それは前にお会いしたときにもうご存じだったことでは?」

 「このわたしが知っていようといまいと関係ない」

 小森式部は吐き捨てるように言う。

 「それがもとで牧野で厄介なことが起こったのだ。その銭を返す返さないという話が紛議になって、そのあげく、大和守様の手先が村の者を斬り殺そうとして村人に殺されたという。それも殺そうとした相手が女の子だというのだ。そんな大事になるとは考えないではないか」

 言ってから健嘉は腕組みをする。

 「こんな大事になったのは、町の銭屋がしつこく取り立てを図ったからに違いない。町の銭屋がそんなにしつこく取り立てを図ったのは、徳政の話が漏れているからとしか思えないのだよ」

 で、弦三郎の顔を細い目でにらみつける。

 「細大漏らさず教えてもらわなければ困るのだ、市場で話されていることはどんな細かいことでも話してもらわなくては。そのためにきみに市場なんかに住んでもらっているんじゃないか。そうであろう? だから、話してもらわなくては困るのだよ。そうでないと、町の銭屋がただの思いつきで牧野郷に取り立てに行ったのか、それとも徳政のことを見越して取り立てに行ったのかが見抜けぬではないか。それが見抜けなかったためにこんな紛議が持ち上がる。だから次からはどんなことでもいっさい話してもらわないと――市場で話されていることは何でもな」

 「……はい」

 弦三郎は健嘉のことばが切れたとわかってからそう答え、しばらく迷った。

 ――ほんとうのことを言ったほうがいいのかどうか? 当四郎に伝えられた話そのものを。

 弦三郎は小さく首を振った。心を決めた。

 「では、間もなく韃靼(だったん)長門(ながと)に攻め寄せるという話もお伝えしたほうがよろしかったでしょうか?」

 「何? え? 韃靼? 何?」

 健嘉は何を言われたかわからず、とまどい、ふと首から上を弦三郎のほうに突き出した。

 「それと、もうすぐ公方(くぼう)様の世はおわり、天狗(てんぐ)様の世が始まるという話もでしょうか?」

 健嘉はさらにわけがわからず、突き出した首の上で目をしばたたかせる。

 「天狗様? 何?」

 「市場の噂でございます。市場の者たちが春先からずっと噂していることです」

 「何だ……ばか者!」

 健嘉は興味を持って損をしたと言わんばかりに身を立て直した。そして首を高いところに据えて、そこから身をかがめた弦三郎を叱りつける。

 「何をばかなことを言っている! そんな噂に意味はない! わたしが聞いているのは徳政のことと大和守様のことだ。それぐらい分かる分別はあるだろう!」

 「それがです」

 弦三郎は声音を変えずに言った。

 「同じように春先から徳政の噂はあったのです。それも天下徳政だいや三郡かぎりの徳政だと。公方様が徳政の命を下されたとか、それが止まっているのは管領なにがしが握りつぶしたからだとか、そんな噂が繰り返し繰り返し流れておりました」

 「なんと……!」

 健嘉は弦三郎が考えたようにとまどった。考えが乱れたらしい。弦三郎は一気に話をつづけた。

 「徳政の話はずっと流れています。韃靼や天狗と同じです。ですから、徳政の話が出回っていても気に留めないようにしていたのです」

 「そう……そうか」

 健嘉は少し和やかな顔になって身を引いた。

 「だが、大和守様のことはどうなのだ? 大和守様のことも噂になっていたのではないか?」

 「あまり申したくはありませんが」

 弦三郎は口ごもる。健嘉は身を乗り出し
「ん?」
と声をあげた。弦三郎はつづける。

 「申したくはありませんが、大和守様の悪評は市場にいくらでも出回ってますよ。それに、すでにお察しのことと存じますが、浅梨さまのお弟子は大和守様を少しもよく思っていません。ですが」

 弦三郎はことばを切った。

 「何もかもただの悪口です。そうでなければだれもが知っていることです」

 「それは何だ?」

 「はい?」

 「その、大和守様をめぐってだれもが知っているとはいったい何だ?」

 健嘉はいらいらして弦三郎に迫る。

 「はい。取り立てが厳しく、一日でも返すのが遅れると人質を取っていくとか、役人よりも厳しく隠し田を探して、柿原様の一党に目をつけられると必ず見つけられる。村の名まではぜんぶ覚えていませんが、どことかの村で隠し田が見つけられて追加で銭を取られたとか、また別の村では隠し田を守ろうとした村人が行方がわからなくなったが、それは柿原党に消されたに違いないとか、そんな話ですが?」

 「その……」

 健嘉は少し迷う。そして疑い深い目を弦三郎に向けた。

 「ご寺院の話とかは聞かないか?」

 「ご寺院の話というと、中原村に大和守様ご自身のご寺院をお造りになるという話ですか?」

 「ほら見ろ、知っているではないか!」

 「大松十四郎(じゅうしろう)と木村様にうかがいました」

 弦三郎が強く言い返す。

 「町の連中はそんな話は知りもしませんよ。それはそうです。そんな話が町に漏れたらどんな騒ぎになるか……」

 「あいつらにはその手のうわさ話はするなと言ってあるのに!」

 健嘉が苦々しく言ったのは、控えの間の若者衆たちのことらしい。

 「とくに木村の息子だ。気位が高いくせに口が軽くていかん。あれも間もなく評定衆に加えてやろうと思っているのに、厳しく叱っておかねばならんな」

 矛先が木村大炊助範利に向かう。これで弦三郎はこんどは範利から口が軽いと責められるのだろう。それを考えると少し気が重くはある。

 「ともかくおまえの言うことはわかった。徳政のことはやはり漏れていないのかも知れぬ。そうだ」

 健嘉はいきなり大きく頷いた。

 「こんどの徳政のことが漏れているなら、竹井の一揆の件が漏れていなければおかしい。しかし市場の者らは牧野に行った。してみるとたしかに漏れてはいないのだな」

 弦三郎にはその理屈がよくわからなかった。竹井には市場の金貸しはもともと銭を貸していない。竹井こそはあの柿原大和守が銭を貸し、他所の銭貸しは出入りもできないようにしているところなのだ。だから町の金貸しの使者が竹井に行くはずがない。

 けれどもわざわざ言うのはやめにした。

 「ともかくだ。その牧野郷の件、杉山左馬允(さまのじょう)殿が持ってきたのだが――杉山左馬允殿は知っているな?」

 「お目にかかったことはありませんが」

 弦三郎への疑いは解いたが、健嘉の不機嫌は治っていない。

 「お名まえは存じています。大民部正興(まさおき)様が玉井に下ってこられた折りにお働きになった方とうかがっていますが」

 「ここだけの話だが、厄介な老人だ。いちど言い出したら聞かぬたちで……そうそう、あの杉山左馬は自分の息子を頑としてわたしの屋敷に寄越(よこ)さない。まったく、困ったものだ」

 健嘉はこの前は同じような理屈で弦三郎を叱ったものだ。

 「杉山殿は牧野郷の者どもに(とが)めなしとせよと強く言い張っておられる。それどころか、その柿原様のお手先の者を見つけ出して吟味(ぎんみ)せよと強く言い張るのだ」

 弦三郎は少し気後れしたように言い返した。

 「しかし、先ほどのお話ですと、やはり柿原党に罪があるのではないでしょうか?」

 「だから違うのだよ」

 健嘉の不機嫌は相手を変えながら続いている。

 「そういうことではないのだよ。柿原党だけというわけにはいかないだろうということだ! 柿原様は越後守様の岳父、そして牧野はあの牧野の乱で越後守様のかたきになった村だ。柿原党だけに罰を下して、牧野郷は咎めなしではどうしてもよくないのだ」

 健嘉のことばは綿々とまとわりつくように調子が上がったり下がったりしながらつづく。

 「役に立ってくださらない――そういうことね」

 一昨々日(さきおととい)の日、玉井春野家の菩提寺から町を見下ろしながら聞いたあの娘の冷たい一言がふと胸の内からよみがえってくる。

 「それでは無理にでも牧野郷の罪ということにしないといけないということですか?」

 「そんな言いかたをするものではない」

 健嘉はぼつっと言うと、不機嫌に鼻を引きつらせる。

 「だが、つまりはそういうことだ。理不尽と思うかも知れぬ。だが、いまわれらがここにこうしていられるのは柿原大和守様のおかげなのだ。考えてもみるがよい、柿原様がおられなければ、牧野勢に城館も奪われていたにちがいないし、いまでも柿原様がおられるから町の者どもに疎まれながらもわれらはこうしていられる。そのことを杉山左馬はわからないのだよ」

 「しかし……」

 「それに困ったことにこの件にはつづきがあるのだ」

 弦三郎のことばを遮りながら、健嘉は疑り深そうに弦三郎の顔をうかがう。

 「何か聞いているか……その、木村やだれやに」

 「はい」

 弦三郎はあいまいに頷いた。

 「はっきりした証拠はないそうですが、牧野郷から逃げ出した柿原方の村人たちが中原村で名主を襲って殺したとか」

 「それどころか、その連中、中原村で柿原党と名のっておるのよ。それに、牧野郷で殺された若造というのが中原郷の名主の息子と来ている。しかもやろうとしたことが娘の拐かしで――まったく! 牧野郷では女の子を殺そうとして、日も改まらないうちに中原郷で娘の拐かしか! 柿原殿はご自分の手下をどのようにしつけておられるんだ!」

 健嘉はぶるぶるっと首を振り、もの憂げな目で弦三郎を見て目を伏せてしまった。

 弦三郎は一刻も早くこの場を去りたかった。だが、このままにしておいては健嘉は自分を去らしてはくれないだろう。

 健嘉は黙りこんだまま弦三郎とも顔を合わせない。

 いっしょに黙っているのはどうにもやりきれない。弦三郎はふと口を開いた。

 「しかしそれはほんとうに柿原様のお手先のしわざでしょうか?」

 「何だ?」

 健嘉はふと顔を上げて探るように弦三郎を見た。

 弦三郎は気後れした。

 牧野の村人というのがどういう人たちなのか弦三郎は知らない。だが、自分の村の村人と同じように貧しいなかでなんとか年ごとの暮らしを成り立たせているのだろう。その村人たちが、自分の前ではっきりした検分もなしに罪に落とされようとしている。柿原党を罪にするなら村人にも罪があることにしなければならないのなら、柿原党にも罪がないことにしてしまえばいい。ただそれだけの思いつきだった。

 だが、小森健嘉を前にいまさらやめることもできない。

 「はい。いまのどちらの話にも柿原様の名が出てまいります。しかしほんとうに柿原様のお手先の方かどうか、わたしには得心がいかないのです」

 「うん?」

 健嘉は前屈みになっていた背を起こし、食い入るように弦三郎の顔を見つめた。

 「どういうことだ?」

 「はい」

 弦三郎はつづけた。

 「私には、その、中原村の者が柿原様のお手先の者として働くというのがよくわからないのです」

 「何を言うかと思えば!」

 健嘉は鼻から息を漏らして顔をそむけた。

 「中原と柿原のつながりははっきりしている。おまえは知らぬかも知れないが、その殺された若造というのは、柿原様の仲介で越後守様に元服してもらった男なのだぞ」

 「名主の方はそうかも知れません」

 弦三郎は食い下がる。

 「しかし、あの村は、ここしばらくのあいだに柿原様に二度、三度とつづけて隠し田を暴かれ、そのたびに詫び銭を取られています」

 「その話は知っている。柿原様も隠し田がほんの一つや二つあったところで気にすることなどないのだよ。城館の役人でも手心を加えているというのに」

 ひとしきり柿原大和守の愚痴を言って、
「それで?」

 「名主は柿原様とつながりがあったかも知れませんが、村の者が柿原様のために相手の村の者を殺そうとまでするでしょうか? 柿原様のためにそこまで懸命に働く気になるとは思いませんが」

 「だが、いっしょに名主の息子がいたのだぞ?」

 「それもあやしいところだと思います」

 弦三郎は少しずつ気もちが落ち着いてきた。

 「仮にも越後守様からお名まえをいただいたような方が、柿原様のために銭の取り立てでお手先を務めるとも思えません。もしほんとうにその中原の名主の息子だとしたら、それは柿原様とは何もかかわりがないのではないでしょうか?」

 「何が言いたい?」

 「はい。この二つの件、柿原様の手先と名のる者はじつは柿原様とは何の関わりもなく、ただ柿原様の名を勝手に借りただけの者なのではないでしょうか?」

 「何?」

 健嘉は身を起こした。

 それは考えもしなかったことらしい。

 「だが、どうしてそんなことをしたのだ? そんなことが露顕(ろけん)したら柿原様がただではすますまい、それはわかっているだろうに」

 「おそらく」

 弦三郎はすぐに考えが思いついた。

 「中原村の郷名主は、その牧野郷の三人に、町の銭屋の取り立てをやめさせることができたらいくらかの銭を貰う約束をしていたのでしょう。隠し田を作っていたぐらいですから銭が欲しくないわけがありません。ただ、中原郷から救いに行くと言っても牧野郷の三人の村人が信用しない。そこで柿原様の名をお借りした。柿原様ならば銭の貸し主として名が通っていて、町の銭屋の横暴を抑える力をお持ちに違いないですから。おそらく、そんなことではないでしょうか?」

 「なるほど」

 健嘉は身を起こした。血色が一気によくなっている。

 「中原郷の名主は柿原大和守様と強いつながりがある。それを使って一儲けをたくらんで、牧野郷に乗りこんだ。うむ、それに違いない」

 声にも勢いがこもっている。

 「そうだ。考えてみればあの牧野の乱のときのことをご存じの柿原様がそうたやすく牧野郷のものごとに首をつっこまれるはずがない。これは中原の名主が柿原様の名を勝手に使ってやったことなのだ。そうにちがいない。弦三郎、よく言ってくれた!」

 「はあ……いえ」

 弦三郎はとまどっていた。だが、健嘉は手放しで喜んでいた。

 「いや、すっかり見落とすところだった。この理屈ならば柿原様にもご迷惑がかからず、杉山様もご異議は申されまい。どうだ? 昼も近いし、中食をわしといっしょに食って行かぬか?」

 「はい、しかし」

 弦三郎は行儀よく頭を下げた。

 「中食は控えの間の衆といっしょに摂りたく存じます。その……」
と言い淀んでから、
「控えの間の衆とはさいきんあまり顔を合わせておりませんし、それに、あの衆とのあいだで話したことは式部様には内密にという申し合わせでなのに、いまわたしは破ってしまいました」

 「そんなことは気にしなくていいのに」

 「いえ」

 弦三郎はきまじめに答える。

 「木村大炊助殿に恨まれるのは怖うございますから」

 「気にしなくていいよ、あんな男。根は悪い男ではないから」

 健嘉は朗らかに笑っていた。でも弦三郎を中食にさそうのはあきらめたようだ。

 「まあきみとはまた時間を作ってゆっくり酒でも飲もう。わたしも中食など食わずに城館に戻ったほうがいいように思う」

 「はぃ……」

 「柿原様が乗り出してこられてからではやっかいだ。早く評定のつづきをやってしまおう。城館に行って早く評定衆を集め直さねば、うん」

 健嘉はさっさと腰を浮かせ、弦三郎とのあいさつもそこそこに先にさっさと去ってしまった。

 健嘉の気分は晴れたようだ。だが、そのぶん、弦三郎には黒雲のような思いが胸に生まれ、どうにもその胸が重く感じられるようになってきた。

 とりあえず、健嘉に言ったように、控えの間に戻ろうと屋敷の庭を歩き出す。

 そのとき、ふいに、その思い胸の横にあの肌の感じがよみがえってきた。

 そして、右の手には、あのとき、ぎこちない言いわけをして自分から握ったあの手の感じが――。

 けっして柔らかくはない、どことなく骨っぽい手だった。温かくもなかった。でも冷たかったのはたぶんずっとあの寺で日暮れ近くまでじっと自分を待ってくれていたからだろう。

 あの娘の(しろ)い歯、白い頬、笑い声……それに息の弾む感じ、息に合わせて胸を弾ませるしぐさまで……。

 いま胸に抱えているものを――その思いをぜんぶあの娘に話してしまったらどうだろう? きっとこの重々しい思いは消えるに違いない。

 控えの間の衆のところに戻るのではなく、あの娘の宿に行って中食を食えば……。

 あの娘は昼は休んでいると言っていたが、あれの友だちの藤野の美那はどこかに遠出しているらしくていないと聞いた。だったらあの娘は今日はあの宿にいるのではないか?

 しかし弦三郎は思いを振り切った。あの娘には「今日限り」と言って別れたのだ。それにほんとうに少なくとも木村範利に先のやりとりを明かして謝っておかなければどんな恨まれかたをするかわからない。

 だいいち、年貢の減免が実現したら、弦三郎は村に帰らなければ行けない。町娘とつき合っている余裕はないのだ。

 しかし……と思いが続きそうになるのを無理に断ち切って、弦三郎は大股の早歩きで控えの間へと急いだ。

― つづく ―