夢の城

清瀬 六朗


仕事の話(一)

― 上 ―

 朝はもう明けていた。

 ひと月前まで松明を持たないと歩けなかった道が、いまは店を出るときからもう明るい。

 美那は、牧野郷に行っているあいだ休んでいた水汲みに出ている。

 「ほら、この坂を上ったら水汲み場だから」

 ついてくる子は、息をあえがせ気味に、不器用に道を踏みしめて来る。美那の顔を見上げると、うんざりしたという顔を作り、そのままうつむいてしまう。

 髪を肩のところで切りそろえた上に烏帽子(えぼし)をかぶっている広沢の葛太郎(かつたろう)だった。

 美那は坂を上り始めたところで足を止め、天秤棒を担いだまま、葛太郎が追いつくのを待つ。

 町もこのあたりまで来ると屋敷も家もほとんどない。川の岸には荒れ地と畑が広がっているだけだ。向こう岸にはあまり高くない森がつづく。痩せてひょろっと高い木と岩肌がところどころに見えている。この森を抜けると、牧野へとつづく広い荒れ地が広がるのだ。

 坂の横では川の水がどうどうと音を立てて流れ下っている。岩や石が一列に積み上げられて、はるかな向こう岸まで並び、その上から川の水がいっせいに流れ下り、とどろきを響かせているのだ。その音は腹の底にまでじかに響いてくる。

 「姉ちゃんさ」

 やっと追いついた葛太郎は息を切らしていた。

 「毎朝、こんな遠いとこまで来てるのか?」

 「うん」

 美那は平気で(うなず)く。

 「だって、これって川上から川中どころか、牧野から森沢ぐらいまでの遠さだぞ」

 「もっと遠いかもね」

 言ってから葛太郎に笑って見せた。

 「だってここ都堰(みやこぜき)だよ。あんたの住んでた村に川が分かれてるところ。昨日通ったでしょ?」

 「ええぇっ」

 葛太郎は目を丸くして訊き返した。何かことばを継ごうとするが、そのことばが出ないらしい。

 美那が滲んだ汗を右腕の袖で拭って言った。

 「昨日、この堰の下の渡し場から船に乗ったんだよ」

 「だって、昨日って、船乗って、安濃(あのう)様の森を通り過ぎて、城館(しろやかた)の下を通り過ぎて、それであの河原まで行ったんだぞ」

 「ほら」

 美那は右手を上げて、川の流れを下ったところに見える高い黒い森を指さした。

 「あれが安濃様のお社」

 「えぇっ?」

 葛太郎は鼻の上を引きつらせた。

 「で、城館はそのもっと向こうだよ」

 「……」

 葛太郎はもう「えっ?」と声を立てる元気もないらしい。

 「……こんな遠いのになんで船で来ないんだ?」

 「だれが船漕ぐの? (かつ)ちゃんやってくれる?」

 「そんなわけないだろう!」

 「じゃあ、歩いてくるしかないよね」

 美那は少しうつむき、少し首を傾げて、葛太郎の顔を見た。

 「うん……」

 そこで葛太郎は顔を伏せた。で、美那が「さあ、行くよ」と言うように足を坂の上に向けて()ったのを感じて、慌てて言った。

 「でも、どうしてこんなところまで水汲みに来るんだ? 水だったらどこでも汲めるじゃないか!」

 「そういうわけにはいかないんだ」

 美那はふっと息をついた。

 「昨日、うちの井戸から水飲んだ?」

 「うん」

 「どうだった、味?」

 「うちの――いや、村の井戸のほうがおいしかった!」

 「どうしてだかわかる?」

 「町の井戸の水ってなんか味がぬるいよ。塩かなんかまじってるんじゃない?」

 「そう。海の塩が混じってるんだ」

 美那はまじめな顔で答えた。葛太郎はふしぎそうに言い返す。

 「だって市場に海なんかないじゃないか」

 「たしかにね」

 美那は前にあざみといっしょに(とう)国の船頭におんなじような説明をしたのを思い出す。

 「市場と海のあいだには板井山があるから市場から海は見えない。でも、板井山のすぐ向こうはもう港だよ。だからたぶん土の中じゃ海とつながってるんだ」

 「だから川で汲むんだ」

 葛太郎はいちおう相槌(あいづち)を打つ。でも納得したようではない。

 「でもこんなとこまで来なくていいじゃないか?」

 「ここの堰落ちたあとは水が濁るの。葛餅ってね、水が少しでも濁ってたらだめらしいんだよ――わたしにはよくわからないんだけど。わたしがここで汲んだ水も、店の桶に四日か五日か置いて、濁りが沈んでから使うんだよ」

 「ふぅん」

 「さ、行くよ」

 「うん」

 美那は葛太郎を従えて街道の坂道を上る。

 その朝、美那は(まり)や葛太郎や(まゆ)を起こさないように水汲みに行くつもりだった。だが、天秤と桶を取り、しばらく使っていなかった桶が傷んでないか、縄が傷んでいないかを確かめていたら、葛太郎が起きて出てきたのだ。

 まだ寝てていいよ、と言ったら、葛太郎は「姉ちゃんどこ行くんだ?」ときいてきた。水を汲みに行くと答えると、ついて行っていいかと言う。遠いよ、というと、それでも行くというので、連れてきた。

 でも、葛太郎はこんなに遠いとは思っていなかったらしい。

 坂を上りきると、地をとどろかせるようだった水の音が急に遠のく。こもったような音に変わり、そのかわり、川の上に茂った木々の葉がときどき風にあちこちで擦れる音がその音にかぶさるように聞こえてくる。

 堰の上は川の両側に森が迫っている。川上のほうはその森の木々に下に消えていく。

 いまの時季になるとその森の木の葉に新しい葉が交じって、その下にいるだけで明るく感じる。

 「あー」

 坂を上りきって安心したのか、川の上が森だったのに心打たれたのか、それともただ伸びをしただけなのか、葛太郎は大きな声を立てた。

 美那は葛太郎を見て、目を細める。小さいけれども、しっかりした声で言った。

 「気をつけてね、ここはもう町じゃないから」

 葛太郎が、背を伸ばして、首は動かさないまままわりのようすをうかがっている美那を見上げた。

 美那がそれに応える。

 「町の領分はその堰までなんだ」

 「じゃ、ここは?」

 「ここは中原郷の中原村。……覚えてる?」

 「何を?」

 「おととい、毬ちゃんを殺そうとして荒之助(あらのすけ)様に殺されたお侍さんの名まえ」

 「あ、えっとね……そうだ。中原、あきのかみ、のりひろ、だったかな」

 「そう」

 「それとこれとどう関係あるんだよ?」

 「中原安芸守(あきのかみ)って言ったでしょう?」

 「……その中原なのか?」

 「そう」

 美那は葛太郎を()めるようにうなずいてほほえみかけた。

 「あのひとはここの中原郷の名主様の子だった。このすぐ近くに住んでいたはずだよ」

 「それって」

 葛太郎は言って、右手でふと美那の着物の裾を握った。

 「危ないじゃないか。やめようよ、こんなところで水汲むの」

 「だいじょうぶよ。お侍がいたとしても、こっちからお侍に手を出したりしないかぎり、何も起こらないから」

 「ふぅん」

 牧野郷で柿原党の使者たちが何度も何度も取り上げていた「水盗人」事件はここで起こったのだ。だが、葛太郎はその話を知らないか、知っていてもいまの自分たちのやっていることに結びつけられないか、どちらかなのだろう。だから美那はその話に触れるのはやめにした。

 河原に出て、桶と天秤棒を置き、(わらじ)を脱いで裾をひっぱり上げる。

 葛太郎は美那が桶を担いで川に入ろうとするのをじっと見ていた。だが、美那がつぎの一歩で足を川に踏み入れようというところで、思いあまったように
「なあ」
と美那に声をかけた。

 「なに?」

 片手で自分の着物の裾を持ち片手で桶を持ったまま器用に腰をひねって、美那は葛太郎を振り返る。

 「明日から、おれがこれをやらされるのか?」

 葛太郎が早口できく。美那は眉を上げ、首を少し傾げた。

 「え? 水汲みのこと?」

 「うん。おれがやらされるのか?」

 「そんなことないよ」

 「じゃ、毬がやるのか?」

 「とうぶんはわたしの仕事だよ、いまのとおりにね」

 美那は軽く言った。

 「なんでそんなこときくの?」

 「だって、きのう、おかみさんが言ったじゃないか」

 で、少し言いにくそうにする。

 「おれたちも働くんだって」

 「ああ、ねえ」

 美那はとまどって言った。

 「おかみさんってそういう考えのひとだから」

 「そういう――って?」

 「家にいるなら働きなさい、っていうね。むかしからそう」

 そうだ。

 薫は美那をさえ働かせようとしたのだ。

 ――おかみさんにとってはたいせつな預かり子であるはずの美那をさえ。

 美那は最初は拒んだ。いやがって暴れた――隣家のあざみも巻きこんで。中庭の向かい側にある駒鳥屋のあざみの部屋に逃げこんで立てこもったのだ。

 で、けっきょく、あざみの母のおよしに
「薫さんは体が弱いんだから、助けてあげてよ。ね?」
と言われ、「じゃあ、助けてやるよ」なんて生意気なことを言って、少しずつ仕事の手伝いを始めた。

 「でも、この仕事をさせられることは当分ないよ」

 「当分、って?」

 「わたしがこの仕事をやらなくなるまで。何年か先じゃない? でもそのころには三人とも牧野に帰ってるよ」

 「だって、家にいるなら働けって……?」

 「だから、お店の仕事のお手伝いとかでしょ?」

 「おれたち」

 葛太郎は少し口ごもる。

 「広沢の家の者だぞ? 市場町では広沢の者に家のなかの仕事やらせるのか?」

 「関係ないよ」

 美那は葛太郎の心配していたわけがようやくわかった。

 牧野郷でやられていたように下に見られて、きつい仕事を押しつけられると思っているのだ。

 「だっておふくさんだけだよ、あれだってお美千(みち)さんがとくべつに……」

 「関係ないって」

 美千という名まえがまた美那が覚えているはずのだれかを思わせかけ、美那は肌を針で軽く引っかけられたように感じる。それで美那は話を急いだ。

 「町ではそんなのぜんぜん関係ない。町にはいろんなひとがいるんだから」

 話が長くなりそうだと思ったのか、裾を引っぱり上げたまま男の子としゃべっているのも何か変だと思ったのか、美那は桶は抱えたままで裾を持つ手を離した。

 「町で育ったひと、玉井の村から出てきたひと、竹井や巣山から来たひと、それから三郡の外から来た人たちもね。それを、出てきた村とか家とかでなんとか家なんとか家って分け隔てしてたら、つきあいができなくなっちゃうじゃない? だから、広沢家でも何でも、関係ない」

 美那は言って笑って見せた。

 「そんなのに関係なく、働いているひとは働いてるし、遊んでるひとは遊んでる」

 「……遊んでるやつもいるのか?」

 葛太郎が気後れ気味にきく。美那は笑ったまま元気よく頷いた。

 「いるよ。それも大人でも――大人でも一生遊んで暮らすひともいる」

 「金持ちなのか?」

 「貧乏でも」

 「でも貧乏人が遊んでてそれでどうやって食うんだよ?」

 「だから、遊びで儲けて食べたり、ひとに銭や食べものをめぐんでもらって食べたり、それか、食べなかったり。そんなんだね」

 「そんなのさ!」

 葛太郎が大声を立てて、急に声をひそめたのは、まわりに侍がいるかも知れないというのが気になったからだろう。

 「おれの村なんか、働いても食えないんだぞ! 大人が遊んで暮らして、それで食えるなんて信じられない」

 でも葛太郎は怒った声で言った。

 「だからさ、遊んで暮らすか、それとも働いて暮らすか――ってこと」

 美那は優しく応える。

 「遊んで暮らすのも楽じゃないんだ。だってやっぱり遊びではなかなか儲けられないし、遊んでたようなひとは食えなくなって死にそうになっててもだれも心配してくれないしね。それはわかるでしょ?」

 「うん……」

 「働いてたひとは、よっぽどひどいことしたとかじゃないかぎり、いっしょに働いてたひとが何か心配はしてくれる。遊んでるだけじゃ縁は生まれないけど、働いてると何か縁は生まれるからね」

 「えん?」

 「うん、縁」

 葛太郎はその「縁」ということばについてもっと何かききたかったのだろう。でも、美那はその話はつづけず、話を結ぼうとした。

 「だから、店で働いて暮らすのも悪くない――おかみさんが言ったのはたぶんそういうことだよ。すぐにきつい仕事をしろってことじゃなくてさ」

 美那は、じつは、薫が言ったのがそういうことだったのかどうか、よくわかっていない。勢いで出てきたことばだった。

 「そうか」

 でも、その美那の思いには関係なく、葛太郎はようやく晴れた顔で頷いた。

 「じゃあ、手伝うよ」

 葛太郎は美那に近づいてきた。

 「あ、いいのいいの」

 美那はまた裾を持ち上げているところだったので、少し慌てて葛太郎に言った。

 「二人でやったからってどうなるって仕事じゃないから」

 「桶、二つあるだろう?」

 葛太郎は不満そうに言った。

 「一つをおれに汲ませろよ」

 「汲ませろよって……重いよ?」

 「いい」

 葛太郎は強情だ。

 「だから、いまからこの仕事はしなくていいって」

 「手伝う」

 「そう」

 美那はそっけなく言った。

 「じゃ、何やるのも言うとおりにしてね」

 「何やるのもって?」

 葛太郎は天秤棒からはずして置いてあった桶を拾おうとする。

 「だめ! 先に鞋を脱いで」

 「え? おれ平気だよ、鞋が濡れるのぐらい」

 「平気じゃないの。それで町まで歩いて帰るんだよ? 鞋が濡れてると疲れるし、鞋も傷むでしょう?」

 「うん」

 「着物も濡らさないように気をつけるんだよ。同じように歩いて帰るときに疲れるから」

 「……うん」

 「ほら、桶をじゃりっと河原の石に擦りつけない! 割れたり水漏れしたりするかも知れないから」

 「うるさいなぁ……姉ちゃんわざとうるさくしてるだろ?」

 「そんなこと言うなら手伝わせてやらない!」

 「いいよ、わかったよ、言うとおりにやるよ! 言うとおりにやればいいんだろ?」

 美那もむかし薫に同じようなことを言ったか、どうか……?


 美那も葛太郎も気がつかない。でも、その河原より少し川上の草むらから、男と女が隠れてその二人のようすをのぞき見していた。

 「ほら」

 大柄の女が言って、隣の男を振り返る。

 「あれが藤野屋の美那だ」

 「あれが?」

 隣の男は、体の色は白く、背は低くきゃしゃだったが、顔つきはりりしくたくましい若者だった。着ているのが襤褸(ぼろ)のような着物で、腕は肩まで、足は膝の上まで肌脱ぎだ。ただ、襤褸にしてはところどころ綻びた錦糸が見えたり紅の()せた色が見えたりだ。だからもとは艶やかな着物だったのかも知れない。烏帽子はかぶっておらず、髪は肩の少し下のあたりまで伸びている。硬い質の髪らしく、まとまらないで肩の幅ぐらいにぼさっと拡がっている。男はそれを気にしてもいないようだ。

 女は榎谷(えのきだに)の志穂だ。あの春先の朝、長野雅一郎(まさいちろう)と小者たちの乱暴から藤野の美那を救った女だ。

 男は志穂の顔をうかがった。

 「で、もう一人は? ……烏帽子はかぶってるけど、まるきり子どもだぞ」

 「あの子はちょっとわからないね。店に新しく来た子かも知れない」

 「あれが藤野の美那?」

 男がもういちど確かめる。

 「ああ、そうだよ。まちがいない」

 志穂は言ってから、男のほうを振りかえる。

 「……もうちょっと近くで見られないかな?」

 「市場で会えるだろ? 藤野屋の近くで見張ってれば近くで見ることはできるさ」

 「それはそうだけど」

 男は身を落として少し近づき、少しでも美那に近づこうとした。

 「なあ」

 男に場所を譲ってやりながら志穂が言う。

 「なんであいつのことそんなに気にするんだ?」

 で、ふふんと笑って、
懸想(けそう)でもしたか、左助?」

 「ばかを言うな!」

 左助――男の名まえ――は叱りつけるように言って、慌てて声をのんで身を隠す。

 でも美那は葛太郎に水の汲みかたを教えるのに気を取られていて気がつくどころではない。葛太郎は無事に桶に水を汲んだけれども、河原に戻る途中でみごとに足を滑らせてお尻から水に落っこち、派手に水しぶきを上げている。

 「……山の御方が気にしておられるんだ」

 左助は気が進まないげに説明した。

 「御方が?」

 それは志穂にとっては意外なことだったらしい。

 「美那を?」

 「そう」

 「でも何で?」

 「おれにわかるわけないだろう」

 左助は少し憤ったように息を吐いてこたえた。志穂は声が高くならないように声を抑えて言い返す。

 「だって、あんたがいちばんお側に寄ることを許されてるんじゃないか」

 「それでもわからないことはわからないんだ」

 「ふうん」

 問いつめるたびに左助が不機嫌になっていくからか、それともきいても何もわからないと割り切ったからか、志穂は問いつめるのはやめた。

 やめて、左助の背後から目を細めて美那を見守る。

 美那は水浸しになった葛太郎を許さなかった。もういちど水を汲むように言う。葛太郎はもういちど自分の着物の裾に足を取られて転ぶ。ようやく汲んだ水は転んだときに巻き上げた濁りが入っていると言って捨てさせる。そのつぎに葛太郎が汲んできた水をすかして見て、美那はうなずき、足を拭いて鞋を履いて、全身がぬれたままの葛太郎を連れて天秤を担いで町に帰って行った。

 「あの子、あんがい厳しいんだ」

 志穂が見て感心し、独りごとに言う。

 「まあ浅梨(あさり)左兵衛(さひょうえ)の弟子だからね」

 美那と葛太郎が帰ってしまったので、二人は身をかがめるのをやめて立ち上がった。

 そこは街道から見通せない場所なので、立ち話をしていても見とがめられる気づかいはまずない。

 「で、これからどうする、志穂?」

 「とりあえず(ひびき)の宿に行って宿を回って話を聞く」

 左助に問われて志穂がこたえた。

 「響か? どうしてまた?」

 「響なら竹井からも巣山からもひとが来てるし、仲のいい子もいるから便利なんだ。それからお社に寄って、夕方には市場に出る」

 「谷には戻らなくていいのか? しばらく帰ってないだろう?」

 「なるべく町の近くにいたい」

 志穂は鋭い目で少しだけ顔をその町のほうに向けた。

 「徳政騒ぎで何が起こるかわからないからね。町の銭屋のこともあるし、柿原党も動き出してる。何か大きいことが起こらなきゃいいと思ってるけどね」

 志穂は言って唇を強く結んだ。それから左助のほうを振り向く。

 「左助は?」

 立つと左助と志穂はずいぶん背の差がある。左助の頭が志穂の(あご)にも届かないぐらいだ。

 「いちど山に戻る。夕方にはやっぱり市場に出よう」

 「山で何か動きがあるのか?」

 「うん」

 左助は頷いた。

 「何か考えておられるようだ」

 「また歳幣(さいへい)の話?」

 「それもあるみたいだが、あまりその話はなさらない」

 左助は意味ありげに首を振って見せ、話を変えた。

 「そういえば、安濃の宮司、何か船荷を受け取るって言ってたな」

 「ああ、そうだね」

 「何なんだ?」

 「まだわからない」

 「山の御方が気にしておられた。何なんだって」

 「そうかい」

 志穂は一つはっきりと頷いて見せた。

 「それはじいさんに伝えとく」

 じいさんというのは安濃社の宮司のことらしい。

 「わかった。それは御方に言っとこう。それはそうと、安濃社って言うと」

 左助がことばを切り、少し心配そうな顔をして志穂の顔を見上げた。

 「あの祐三(ゆうざ)とかいう男、だいじょうぶなのか?」

 「だいじょうぶって?」

 志穂は意外なことを聞いたというように左助の顔を見下ろす。

 「何か頼りなさそうだし、物覚えもよくはなさそうだし、それに武士だろう?」

 「だから雇ったんだそうだ、武士のほうが鍛え甲斐(がい)があるっておっしゃってな」

 「宮司のもの好きにつき合うひまはないんだぞ?」

 「だいじょうぶさ」

 志穂は少しぶっきらぼうに言った。

 「まじめなやつだ。ああいうほうが大仕事になったときに役に立つ。いいかげんな仕事は絶対にしないからね」

 「そうか」

 左助も頷いた。

 「おまえがそう言うならそうなんだろう」

 「うん」

 「じゃあな。日暮れごろに市場で落ち合おう」

 「また例のとこ?」

 志穂がきくと、左助は頷いた。

 「うん、何もなければ」

 「それじゃ山のみんなによろしく伝えておいてくれ。谷のに会ったらそいつらにもね」

 左助は志穂のことばをぜんぶきくと、返事をせず、小さく会釈して黙って姿を消した。

 消えたわけではない。たぶん身を潜めたまま早足で山に分け入って行ったのだ。でも、志穂にもその跡を見つけることはできなかった。

 志穂は、その左助が「消えた」ほうをしばらく見送ると、魚売りの(ざる)を取り上げ、河原から街道筋に出る。美那が去っていった街道を志穂もまた下って行った。

― つづく ―