夢の城

清瀬 六朗


仕事の話(四)

― 上 ―

 日暮れが迫っていた。

 下響(しもひびき)の村は(ひびき)から少し玉井川を下ったところだ。響が宿場町としてそこそこにぎやかなのに、下響は旅人が通りすぎるだけの小さい村だった。店も宿屋もあることはある。でも、村に住んでいるのは、小さい畑を作っている村人衆か、響の宿屋のいろいろな仕事をしている職人衆が主だ。

 その下響のさらに村はずれのみすぼらしい家の門の前、門から川に下ったところの河原にひとりの男が倒れていた。

 身につけているのはあちこちが敗れた襤褸だった。帯も外れてところどころ肌が出ている。そして、その肌には、擦った傷や何かに打たれてできたらしい青ぶくれがところどころに見えていた。

 「……久恵(くえ)……」

 男の口からそんな声が漏れる。目はまっ赤で、その目の縁から横に涙の流れたあとがある。

 倒れたまま、涙を流していたらしい。

 「……久恵……。あの……ささ……の…………ゆる……さぬぞ……」

 言って、男は口を結び、顔全体をぶるぶると震わせ、肘をついて身を起こそうとする。目から漏れた涙の粒が、その(からだ)の震えに合わせて細かく揺れる。

 男は口をきつく結んだまま、右肘で体を支えつづけた。

 けれども、
「いたっ! あっ、あっ……」

 身体に激痛が走ったらしく、男はごろんとひっくり返ってしまった。

 はぁ、はぁと、仰向けのまま激しく息をする。

 で、「うんっ」とのどを詰まらせたように目を閉じた。

 「久恵……久恵……なにが……誠の……痛っ……」

 そうして体中から力を一度に抜く。もういちど体の向きを直して、うつむくと、また肘で体を支えた。

 こんどは肘で立とうとはしない。口を開いてあえぎ声を立てながら、かわりに肘で体をごっ、ごっと前に摺らせ、川の流れへと躯を進める。

 流れは遠いところではなかった。

 男は口をいっぱいに開くと、頭ごと流れに突き入れるようにしてがぷっと水に口をつけた。

 最初のひと飲みで、口から黒い血が川の流れにかたまりを作って流れたことに男は気づいただろうか?

 男は口から大きく息を吸い、水を口のなかに集めると、唇を閉じて水を飲みこみ、また口を大きく開いて水に入れ、すっと息を吸いこみ、そしてとつぜんごほごほと咳きこんだ。

 いちど咳きこみ始めるとなかなか止まらない。口を押さえようと右手を前に出したが、口を押さえる前に右腕がどぽんと水にはまってしまう。

 男はそれを引き上げる力もないらしい。

 そんな次第だから、男は後ろから背の高い頑丈そうな娘が走り寄ってくるのに気がつくことはなかった。男は後ろから頑丈な腕にとつぜん抱きかかえられた。

 「だいじょうぶかい? 板屋の小助(こすけ)さん」

 「はぇ?」

 女だった。小助は女に体を抱きかかえられて、はんぶん身を起こしている。

 何がどうなっているのかが小助にわかるまでにしばらくかかったようだ。

 「あ、あんたは?」

 「榎谷(えのきだに)の者だよ。名まえは志穂」

 「ああ」

 「それよりどうしたんだい? こんなに手ひどく傷を受けてさ」

 「あ、ああ」

 小助はぽかんとして、口を開いたまま閉じもしなかった。

 薄く血の色の(にじ)んだ水が唇の端から細い筋を作って流れる。

 「たいしたことない……たいしたことないって……ははは……」

 志穂は小助の体の下に右膝を入れ、その体をぐいっと引き起こしてやった。

 「たいしたことはあるよ。傷だらけの上に口からも血を流してるじゃないか。とりあえず家に戻って手当てしないと」

 「あ……すまないな……」

 志穂が自分の胸を小助の背中の後ろに押し入れ、右手で小助の右の肩を後ろ抱きにして、後ろから絞め上げるようにして立たせてやる。

 小助はぐらっと体を揺らせ、志穂の胸に頭をぶつけて、それでも自分の足の上に立ち上がった。

 志穂は体中に銭を巻きつけている。その銭がその背中や頭の後ろに当たって、その痛みが小助を目覚めさせたのか。

 小助は、志穂の手をふりほどくと、くるんと志穂を振り返ろうとした。だが、まだ足腰が立たず、ふらつく。

 「危ない、ほら」
と志穂が差し出した右腕にすがりついてようやく体を支える。

 「いや、こんなことをしてるひまはないんだよ。久恵が……久恵がさらわれた」

 「久恵ちゃんがさらわれたって?」

 志穂は左手を小助の体に回して支えてやる。このまま小助がもういちど倒れたら右腕を捩ってしまいそうだったから。

 「で、だれがさらったかわかってるのかい?」

 「もちろんさ……」

 小助は激しく息をして、その息を整えてから、声を低くして言った。

 「銭屋の笹丞(ささのじょう)だ」

 「笹丞が?」

 「そうだ」

 「そう」

 小助が振り向くと、志穂は、眉根を寄せて、難しそうな顔でその小助の顔のほうに両目を向けていた。

 「それはやっかいなことになるかも知れない。ともかくすぐに手当てをして町に行こう」

 「町に? いや、しかし……」

 「連れて行ってやるからさ。さあ早く!」

 「あ、ああ」

 だが、小助が息を整えて背を伸ばすまで、しばらくかかる。そのあいだに、志穂は小助の顔から目を離し、晴れ上がってきた夕方の空を見上げた。

 険しい目で玉井川の川下のほうを見わたす。


 笹丞の狭い家に金貸したちが集まってきていた。

 とは言っても、時次(ときじ)雪次(ゆきじ)小琴(おごと)小綾(こあや)姉妹は村に取り立てに出ているので、町にいない。集まっているのは、本寺(もとでら)元資(もとすけ)と、(つかさ)屋の匡修(まさなが)志多(しだ)屋の理禎(まささだ)の三人だ。加えて、元資の店のさわも来ている。

 さわは元資の店でずっと利穂といっしょにいてやっていた。いくら待っても笹丞が来ないので、家に帰っているかも知れないと利穂は言う。だったらとまずさわが利穂についてこの家に来た。そのあと、元資がやって来て、笹丞がいないことを知ると、匡修と連絡をとって笹丞探しを始めたのだ。

 部屋はすすけていた。とくに高いところが(すす)だらけだった。(ふすま)も破れたままだ。糊だけで継いだ痕はあるが、またもとのように破れてしまっている。

 そんな家でも、奥には違い棚があって、古びた本の(ちつ)が重ねてある。帙には『尚書疏』・『論語正義』と文字が貼ってあった。

 元資がその帙に目を留めた。

 「へえ。笹丞さん、勉強家なんだ」

 落ち着いた声で言う。さっきから心配でうつむいたままそわそわしている利穂が小さく笑った。

 日が暮れてきたせいもあるが、昼には美しく見えた利穂の白い肌も、いまは何か病に(かか)ったか何かに()かれたように見えてしまう。

 「勉強して都に上り、天下の政事を(あらた)めるってあのひとはいつも言ってました」

 「それで、こんな難しい本を?」

 「ええ」

 利穂が目を細める。

 「でも、だめなんですよ。本の紙を一枚、二枚とめくったあたりでやめてしまうんです。わたしがうるさくするから今日はやめだとか言って。それで、四‐五日経ってまた開いてみたりして、また読むのが最初からで。大きい声を立てて読んだり、小声でぼそぼそ読んだり、でもまた飽きてしまって」

 「笹丞のやつ!」

 匡修がいまいましそうに言う。

 「そんな夢みたいなことを言うより、こんなきれいな奥さんの暮らしを少しでも楽にしてやるのが先だろう。それをこんな心配かけやがって!」

 利穂はあいまいに笑った。

 そこへ人影が表の襖に近づいてくる。利穂がはっと明るい顔になる。けれども入ってきたのは甲子(かっし)屋の史晋(ふみみち)だった。

 「おいどうだった甲子屋?」

 匡修がきく。匡修におうへいな口をきかれるといつも(いや)な顔をする史晋だが、いまは別だ。

 「いや、どうにもこうにも」

 言って史晋は匡修と理禎のあいだにどんと腰を下ろした。

 「そのへんで遊んでるガキどもを捕まえて駄賃をやって、それで探させたんだけど、音沙汰なしだ。近ごろのガキども、五文の駄賃ぐらいでは動いてくれん! ずいぶん損したぜ」

 「こら!」

 元資が叱る。志多屋の理禎が
「で? 子どもまかせで、自分では探さなかったんじゃないだろうな?」

 「とんでもない!」

 史晋は足を組み直して、車座になっているみんなのまんなかのほうに体を向けた。

 「みんなの店ももういちど回ってみたし、福聚(ふくじゅ)院にも行ってみた。あそこに来ていた娘の、えーと、あの牧野に使者に行った……」

 「お美那ちゃん?」

 さわがきく。

 「そうだそうだ。その子の店にも行ってきいてみたし、その子や隣の、えーっと、なんとか鳥屋の、えーと」

 「あざみちゃんだ」

 「そう。その子を、なんだ、あの花御門(はなみかど)のとこの宿屋……ほら、角のとこの大きい……」

 「水鶏(くいな)屋?」

 さわが言ったのは、そこがさとのいる店だからだろう。

 「そうだそうだ。そこまで行ってそのなんとか鳥屋の子にきいてだな」

 「駒鳥屋」というのがそんなに覚えにくい名まえだろうか? 史晋はつづけた。

 「笹丞みたいなやつの行きそうな店を教えてもらって回ったけど、どこも何も知らないって言うし」

 「やっぱり市場のなかにはいないのか?」

 元資が言う。

 「だれか世親寺(せいしんじ)探ってきてくれないかな? まさかとは思うけど、おれの親父にじかに掛け合いに行ったかも知れない」

 元資の父の得性(とくしょう)和尚は元資の店の持ち主で、市場町の銭貸しを束ねる世話役でもある。

 「世親寺にはおれが行こう」

 志多屋の理禎が立ち上がる。匡修が難しい顔をした。

 「あいつがふだんからそんなことを言ってたのなら、いっそのこと、港で都に向かう船を探してるかも知れぬ」

 史晋もつづけて、
「都へ行くなら、巣山から隣国へ抜けようとしてるかも知れないな」

 「いいえ」

 利穂がうつむいたまま少しだけ笑って見せた。

 「そんなことするものですか。あのひとは、ずっと前から、市場なんかすぐに出て行ってやるって言ってました」

 「それはときどききいたな」

 志多屋の理禎が言う。

 「市場の連中はなってないから市場なんかとっくに見限ってるんだって」

 「あんまりうるさく言うものだから、じゃあ出て行けば、わたしはいいよ、って言うと、いきなりしゃがみこんで震えだして、ああ、今日はいい、とか言い出して、そのうち、銭がもっと儲かってから、それをもとでにする、だからそれまでは市場でがまんするとか言い出すんです。とても一人で港で船を探したり街道沿いに隣国に出たりできるようなひとではありませんよ」

 「じゃ、やっぱり世親寺ぐらいか?」

 匡修が考えこみながら言う。

 「いちおう船着き場にもひとを出してみよう。理禎さんは世親寺、船着き場は」
と隣を見て、
「さわ、行ってくれるか?」

 「はい」

 さわは力の入った元気な声で答え、膝を立てる。

 「急がないと日が暮れる」

 理禎がさわに声をかけた。たしかに、長い春の日でも、外はもう暗くなっている。理禎は外に出ようと襖を開けた。

 だが、理禎が外に出る前に外から声がした。

 「おぉい、だれかいる?」

 ぶっきらぼうな声だった。女の声のようだ。

 「だれ?」

 襖を開けた理禎が、勢いの抜けた声で問い返す。

 「うん?」

 つづいて、史晋、匡修、さわ、元資の順で、表に出た。

 笹だらけの庭に、柿色の衣を着た大柄の女が初老の男を背負って黙って立っている。

 大柄の娘は何も言わないで自分たちを険しい目つきで見上げた。

 「あんた、志穂さんじゃないか? 榎谷の」

 しばらく見合ってから、史晋が言った。志穂は(うなず)いた。

 さわの後ろから利穂が顔を覗かせた。

 「小助さん!」

 志穂の背に負われていた板屋の小助は、体を動かし、利穂のほうを向いた。利穂はぴょっと地べたに跳び下りた。

 「小助さん、どうしたんですか?」

 「下ろしてくれ」

 それに答えるように、小助は志穂の背中で小さく言った。

 「だいじょうぶかい?」

 「ああ、早く」

 志穂は心配そうに小助の躯を自分の背から地面に下ろした。肩に左手を回してその躯を支えてやる。小助はもういちど
「ああ、もうだいじょうぶだから」
と言って、ゆるゆると右手で志穂の手を払い、志穂の顔を見上げて中途半端に拝むようなしぐさをしてぽろっと笑った。

 「小助さん……」

 笹丞の妻の利穂が向かいに来て、笑って見せ、小助の顔をのぞきこんだ。

 「何があったんですか?」

 小助は答えないで、頬と目許を引きつらせ、笑いを返すようにしかける。

 だが、小助は、笑顔を返すまえに、喉の奥のほうで、小さい声を漏らした。

 志穂が、少し斜めに顔を向けて、利穂の(かお)を見ている。

 「……娘を……久恵を返してくれ……」

 「え?」

 小助の声は小さくてほんとうによく聴き取れなかったので、利穂はすぐにきき返した。だが、その利穂のことばをきいた小助は、急に身をのけぞらせかけ、鼻をいっぱいに開いて息を吸うと、躯全体を震わせだした。

 その粗末な着物がゆらゆらと揺れているので、その震えは後ろで見ていた銭屋衆にもわかる。理禎が息を飲んだ。

 「あ……あんた何だい、そのけがは!」

 「うるさいっ!」

 小助がいきなり唾を飛ばして大声を出した。利穂は弾かれたように後ろに退がり、袖で自分の顎を覆う。

 小助は激しく肩で息をしていた。

 「娘を返せ! 久恵を返せ! 久恵をいったいどこへやった!」

 「久恵?」

 利穂はわけがわからない。あたりまえだ。利穂はずっと市場にいて、笹丞の行方を心配していただけなのだから。

 銭屋衆は庭に下りてきた。さわが利穂の右隣について利穂の体を支え、史晋が利穂の左に並ぶ。

 「久恵ちゃんが何か……久恵ちゃんに何かあったんですか?」

 「けっ!」

 小助は喉を鳴らした。ほんとうに唾がつまったのか、それとも勢いづけのつもりかはわからない。

 「あんたがそんなずるい女だとは知らなかった。騙されてたよ」

 「いったいだれのこと……」

 「だれってあんたに決まってるじゃないか、利穂さん。何が久恵ちゃんに何かあったんですか、だ? 久恵はあんたが連れて行ったんだろうが! 久恵を隠してどこかに売り飛ばすつもりだな! そうか、甲子屋、あんたも仲間か。あんたの倉にでも隠してるのか! よし、こうなったらおれひとりでも捜し出してやるぞ! 久恵! 久恵っ!」

 元資が身を乗り出そうとしたのを、匡修がさっと腕を挙げて止めた。

 「まあ待ちなさい」

 匡修は史晋を押しのけて利穂と史晋のあいだに割りこんだ。

 「利穂はずっと町にいた。それはおれたちが見て知ってる。だから、その利穂があんたの娘御を連れて行けるわけがないだろう」

 志穂が後ろで小助の背中に手を回して軽く支えてやる。小助は曲がった背中を少しでも伸ばそうとしていた。

 そんなに腰が曲がるほどの歳ではないはずなのに。

 小助を支えながら、志穂は両目を見開いて銭屋衆のようすをうかがっている。

 「きっ!」

 小助は舌打ちした。

 「利穂はここにいたかも知れんさ。だが、笹丞が連れて行ったってことは、あんたが指図したからだろう? 笹丞は銭の勘定も取り立ても一人ではできん男だ、それぐらいこっちはまえからわかってるんだ! あんたを気だてのいい若奥さんだと思っていた――あの笹丞がたとえどんなやつでも、あんたを信じて借りてきたのに……騙したな!」

 「笹丞が連れていっただと?」

 理禎が声をひっくり返した。

 利穂の頬は血の気が引いている。小助は勢いづいてつづけた。

 「何が誠の心は情に優るだ? あんな乱暴な男どもをくっつけやがって! 力づくでいやがる娘を後ろ向きに――そうだ、背中の襟に手をかけて、娘が叫ぶのもかまわず引っぱっていかせやがって! 久恵は……久恵は最後には泣き叫んでいたんだぞ。そういえばおまえらは牧野からも人質をとったそうじゃないか、よりによって牧野から! そうだ、牧野からも年ごろの娘を人質に取ったんだな。そして売り捌いて銭に替えて儲けるつもりだろう。町の銭屋はそんなことはしないって信じてやったのに、この……この、罰当たりどもがっ!」

 全身の力をこめて大声を上げ、小助はよろめいた。よろめくことを見越してか、先に背に手を回していた志穂がその躯を受けとめる。志穂は最初に匡修を見、それからさわの後ろにいる元資にその厳しい目つきを移した。

 「小助さん……」

 元資が利穂とさわのあいだを抜け、利穂の斜め前に立った。

 「それはまちがいだ」

 志穂の腕に躯を預けて口を開いて激しく息をしながら、小助は血走った目をその元資のほうに向ける。だが、さすがに浅梨左兵衛尉(さひょうえのじょう)の下で剣を学んでいる元資は、それぐらいでは動じない。

 「たしかに牧野からは人質を取りましたが、借銭借米を繰り延べするか帳消しにするかの話し合いがつくまでの人質です。話し合いが終われば人質は帰しますよ。だれが売り払ったりするものですか」

 匡修がちらっとその元資に目をやったが、何も言わなかった。

 「……しらを切るつもりか?」

 小助が激しい息のあいまに言った。

 「そうやってしらを切っているあいだに、あの乱暴者どもが久恵を売り(さば)いてるんだな。その手には乗らんぞ! さえ久恵を出せ! 志穂さん! まず甲子屋だ、甲子屋にいなければ司屋、志多屋、それから本寺の店だ。倉の隅から隅まで探してやるぞ! そこにいなければ世親寺だ。さあ、早くせんとこいつらが先回りして隠してしまう。志穂さん! たのむ!」

 頼むとは言って身を翻し、勢いよく歩き出そうとしたものの、
「いっ!」
と大声を立て、右の太腿を両手で押さえ、小助はそのまま右に倒れてしまった。

 さわが抱きかかえようとするのを止めて、志穂が自分で小助の躯を支えた。

 小助はあえぎながら、それでも、久恵、久恵、急がないとなどと漏らしている。

 利穂は血の気を失ったまま立ちつくしていた。

 「……あのひとだ」

 「何だ?」

 匡修が首を利穂のほうに向ける。利穂も志穂ほどではないが背は高く、匡修と同じぐらいの背丈だ。

 利穂は匡修とも志穂とも小助とも顔を合わさないでつづけた。

 「あのひとが悪い仲間を見つけて無理やり取り立てに行ったんだ」

 「笹丞が……か?」

 匡修のことばに、利穂はだれかに操られているように目を遠くを見たまま頷いた。匡修が聞き返す。

 「だが、笹丞に悪い仲間なんかおるまい?」

 「それはそうだけど……」

 利穂は眉根を寄せ、助けを求めるように匡修の顔を見た。

 さわが小助のまえに膝を折り、小助の顔を下からのぞきこんでたずねた。

 「ねえ、ほんとうに笹丞さんだったの? 笹丞さんを(かた)ったにせものじゃないの?」

 「何を言うか……っ!」

 小助は荒い息で小さい声で答えた。傷が痛むらしい。

 「あの腐った大根みたいな顔を見間違えるもんか。いつもはそこの利穂の後ろに隠れてこそこそしてやがるが、顔はしっかり見覚えてる。それにやつは本物の証文を持ってた。まちがいない……まちがいない……」

 そう言うと小助は咳きこみ、痛みに頬を引きつらせた。

 小助を助けるのはさわと理禎に任せておいて、志穂は小助の後ろで背を伸ばし、元資と匡修を半々に見ながら言った。

 「あたしもおかしいとは思ったんだ。市場の銭貸しがそんな柿原党みたいな取り立てをするとはって」

 「ええ」

 元資が応じる。元資はそんなに背が低いほうではないが、背を伸ばした志穂には少し届かない。

 「ともかく、この件は市場の銭貸しで決めたことではありません。それは市場の銭貸しだって人質は取りますが」

 と、理禎のほうを見ると、理禎は眉根に皺を寄せて元資を見上げている。元資は苦笑いした。

 この理禎は芝居師と結びついていて、人質を取ってきては芝居師に売りたがる。

 「最初から人質を取るって取り決めがあったならばともかく、取り決めもないのに、それもいきなり人質を取るようなことはしませんよ」

 「でも、小助さんのとこの久恵さんが連れて行かれたのはたしかなんだ」

 志穂は少し言いにくそうに言った。

 「しかも、それを止めようとしたこの小助さんにこんな乱暴をした。素手とか、あと脇差で(さや)ごと何度も殴ったんだよ」

 志穂は元資の目をまっすぐに見ている。元資もその志穂のほうを見て小さく頷いた。

 「小助さんの話では、笹丞は乱暴な男を連れていたということだから、笹丞さんは何か悪いやつらの手に落ちたか、だまされたかでしょう。たぶん笹丞はだまされたにちがいありません。悪いやつらが取り立ての手助けをしてやるとか言い寄って、で、あのひとも気の強いひとではないから、つい……」

 「じゃ、その悪いやつらってだれだい?」

 匡修が話に割って入る。

 「さあそれは……」

 「そいつらを突き止めないと、久恵さんの奪い返しようもないじゃないか」

 「それはそうですが」

 「きっと……」

 甲子屋の史晋が後ろで低い声で言った。

 「それは、あれだ。町で銭屋に使われていた小者連中には身を持ち崩したのがいくらもいる。そんなやつらはすぐに町を追い払うんだが……どこかの村に潜んでいたり、いやもしかすると屋敷町のどこかの武士の屋敷に入りこんでそこで飼われてるかもな。笹丞をたぶらかしたとすれば、その連中だろう。小助さんが乱暴な男どもと言うのならそいつらにまちがいない」

 元資はその史晋のほうに目をやり、頷いたけれども、口は結んだままだった。

 「小助さん、志穂さん」

 匡修は元資の前に出て、いまはさわと理禎に体を支えてもらっている下響の板屋の小助のまえに膝をついた。

 「きいてのとおりだ、小助さん」

 白髪頭に白い短い髭の老人が、小助の顔を見上げる。

 小助の体はいまも震えていて、口は閉じず、よだれが伸びている。

 「笹丞は利穂さんのところから逃げ出して、どういう事情かは知らぬが悪いやつらにたぶらかされたんだ。笹丞がそんなことをしたについては、おれたち町の銭屋仲間にも責任がある。ついてはおれたちでその久恵さんを取り返すために力を尽くす。な、それで許してはくれないか? な? このとおりだ」

 匡修は小助のまえでいっぱいに頭を下げた。小助は匡修にそう言われるとなんとも言えないのか、口を開いたまま黙っている。

 「その約束はやめといたほうがいいよ」

 鋭い声で言ったのは志穂だった。

 小助を含め、その場にいた者たちのみんなが志穂の顔を見る。

 志穂は気後れせず、つづけて言った。

 「市場の中じゃ銭屋衆のことは銭屋衆でなんでも決められる。もし笹丞と悪い仲間が市場の中で久恵さんを隠してるんだったら、久恵さんを取り返すことはできる。けどね、笹丞は市場にはいないんだろう? 市場の外でも笹丞を見つけて連れ戻すことはできるよ。でもね、久恵さんが屋敷町や村に捕まってて、それを取り返しに行ったりしたら、悪いのはあんたたちってことになる。笹丞はともかく、その悪い仲間が久恵さんのことを借銭の人質だって言い張れば、せっかく見つけても取り返すこともできない。それどころかあんたたちが捕まってしまう」

 「おい」

 匡修が険しい顔をして志穂をにらむ。

 「それじゃどうすればいいって言うんだ?」

 「さあ、城館の検断(けんだん)に任せるしかないだうろね、もし筋道を通すんだったら」

 「城館だと?」

 史晋が大きい声で言った。

 「城館が村の職人や市場の銭貸しのためにそんな人捜しなんかしてくれるものか!」

 「そうだそうだ」

 理禎も勢いづいて言う。

 「あんたいったいだれの味方なんだ?」

 「あたしはだれの味方でもない」

 志穂は笑って、魚売りの笊を脇に抱えて見せた。

 「ただ安濃(あのう)の神様に仕える女だよ。でも、人ならぬ魔物とやり合うのはお手のものさ。それで少しぐらいひとの役に立つことぐらいある。筋道を通したくても通せないような人の役にね――それがあたしたちの仕事だよ」

 志穂は目を細め、唇を軽く合わせて、銭屋衆をゆっくり見回した。

 空はもう暮れていて、明かりの灯った笹丞の家を後ろにしている銭屋衆がどんな顔で志穂を見ているか、志穂にはわからなかったはずだ。

― つづく ―