夢の城

清瀬 六朗


仕事の話(四)

― 中 ―

 (ひびき)の宿の少し北に離れた屋敷の板の間に肘をついて寝転がり、膝を折って、退屈そうに足をさすっているのは、春野家評定衆の元塚(もとづか)九郎衛友(もりとも)だ。

 外は暗い。部屋には小さい灯がひとつ灯っているきりだ。

 ほかにはだれもいない。

 衛友は足をさするのをやめ、大きくあくびをして、右手を顔のまえに持ってきて、その指先を見つめる。

 その目は一つきりの灯火の薄暗い明かりに輝き、唇は一文字に横に結んでいる。

 掌が前に来るように回してみたり、反対側に回してみたりして、その指先をじっと見ている。

 何か考えごとをしているらしい。

 その考えは廊下からの呼び声で遮られた。

 「元塚様! ……元塚様!」

 「おう」

 元塚衛友は右足で勢いよく空を切って器用に起きあがり、板間に行儀よく座りなおした。

 「何だ、俊三(しゅんざ)

 部屋に入ってきたのは、この屋敷の主人の南藤(なんどう)俊三郎(しゅんざぶろう)だった。中背で四角い顔いっぱいに髭を生やした男だが、なんでも名家の子孫だという。響の宿場に住む数少ない定範(さだのり)の家臣の一人だ。

 南藤俊三郎は衛友の左斜め前に、少しあいだを置いて腰を下ろした。

 「はあ、それが、表にあやしい者どもが行ったり来たりしておりまして」

 「そんなやつら、おまえの好きにするがいい。気が向けば泊めるもよし、追い散らすもよし」

 「いえ、それが」

 俊三郎の声には何か喉の奥で絡みついてから出てくるような粘っこさがある。言いかたの歯切れも悪い。それがどうも硬い針を顔じゅうから突き立てたような髭面に似つかわしくない。

 「追い遣ろうとしたんですが、どうも」

 で、体半分だけ、衛友のほうににじり寄る。髭越しに斜めに明かりが当たるので、髭が顔に角張った影を落とし、寺の仁王(におう)様に踏まれている鬼のような顔つきに見える。

 衛友は(いぶか)しげにその俊三郎の顔を見た。

 「それが、柿原様の手の者と名のっておるのですが、手前では判じかねまして」

 「柿原様ご自身や、柿原様からの証文を持った者ならともかく、自分で柿原様の手の者と名のっているだけではな」

 衛友はふいに顔を上げる。

 「で、その者たちは何と名のっている?」

 「はい?」

 「名まえだ。柿原様の手の者のなかにもおれの知り合いはいる。おれが泊まっているのにそういうのを追い返しちゃ、あとでおれが恨みごとを言われる」

 「あ、はい」

 俊三郎は軽く頭を下げた。

 「お一人は長野一郎雅継(まさつぐ)様」

 「知らんな」

 「村西兵庫助(ひょうごのすけ)様」

 「知らん」

 「大木戸九兵衛(くへえ)様」

 「それも知らん」

 「井田小多右衛門(こだえもん)様」

 「知らん」

 「それと何か笹丞(ささのじょう)とか申している、小者だかなんだかを連れていますが」

 「笹丞?」

 衛友はぴくんと顔を動かして、その顔を少し斜めに向ける。

 「笹丞……笹丞……何かきいたことがあるな」

 で、衛友はまぶたを閉じる。

 思い出せないようだ。だが、衛友は、少し考えてから、すぐに俊三郎に言った。

 「まあ、なんにしても、もう外も暗い。柿原様の手の者を追い返すわけにもいくまいから、おれの客としてお迎えしよう」

 「へっ? よろしいのですか?」

 無愛想な――というよりどんな気もちでいるか見てもわからない俊三郎の顔がぱっと明るくなる。

 たぶん、衛友の客ならば、酒やら飯やらの代金を持たずにすむからだろう。

 「ああ」

 衛友は俊三郎を手招きした。腰に結わえつけていた紐をはずす。

 じゃりっと重そうな音がした。

 紐に通した銭の(つづ)り三本を衛友は手に握っている。

 「これで三百文ある。その連中を招くのに、これでは不足か?」

 「いえ」

 俊三郎は喜びの色を顔いっぱいに浮かべた。

 「いえ、いえ。これで十分です。あっ、ありがとうございます」

 立ち上がる。

 「さっそくお客人をお招きしましょう。さ、さ、あ、ごめんなさい。おいこらぁ!」

 最後の声は屋敷の小者に言ったことばだろう。俊三郎の早足が遠ざかっていくのが聞こえる。

 「ふん」

 衛友は、やりきれないような――でも見ようによっては何か満足しているような笑いをその顔に浮かべた。


 市場の花御門(はなみかど)小路のすぐ東側に牛や馬に食わせる(まぐさ)を置いた広場があった。

 いまは秣はまとめて小屋のなかに置いてある。秣干場のまん中は短い草が生えてきていて、いまは何もないまま残されている。

 だいぶ満ちてきた月が秣干場を照らし、柿の木の影を地面に作っていた。

 その秣干場を見渡せる小屋の横、乾いた秣を積み上げた上に、男と女が寄り添って寝ていた。

 榎谷(えのきだに)の志穂と左助(さすけ)だ。

 ここならば、秣置き場に人が入ってくればすぐに見えるし、後ろは連珠(れんじゅ)川が流れているので、小さな声で話しているかぎり、人に話を聞かれることはない。

 「で、それからどうなった?」

 「どうなったって?」

 左助が志穂のほうに顔を向けて言う。

 「だからその銭貸しの話だ」

 「どうもこうも」

 志穂はあいまいに笑い声に紛らせた。

 「板屋の小助(こすけ)は市場に泊まりだ。今日は泊まって明日は家に帰るだろうが……帰りたがらないかも知れないな。奥さんに先立たれてから久恵(くえ)とずっと二人で暮らしてきたんだから」

 「その娘、取り返せないのか?」

 「無理だね」

 志穂は寝たまま首を振った。

 「やつらには言わなかったけど、あれは柿原党のしわざだ」

 「なんだ?」

 左助は志穂の顔をのぞきこむ。

 「だって市場の銭貸しだろう? 柿原とは(かたき)どうしだ」

 「市場の銭貸しにもいろんなのがいる」

 志穂は首を動かさずに言った。

 「それに、いきなり人質を連れて行くやり方が柿原にそっくりだ。その笹丞っていうのは市場の銭貸しを裏切って柿原に身を売ったんだよ、たぶん」

 「なんてことだ」

 左助が吐き捨てるように言う。でもさして驚いてはいないらしい。

 「で、その娘は?」

 「柿原に連れて行かれた娘はすぐに売り(さば)かれちまう。それに、人質は連れて行かないって証文に書いておいたのならともかく、書いてなければ連れて行かれても取り戻すことはできないよ」

 「やれやれ。志穂にしては気弱なことだ」

 「じゃ、あんたがやってみなよ、左助さん」

 志穂がむっとして言い返した。

 「柿原屋敷に忍びこんでみるか?」

 「ばか言うな」

 左助は鼻を鳴らした。

 「山の御方がお命じになったのならともかく、そうでなければそんな命を危うくするようなことはしない」

 「じゃあえらそうなこと言うな」

 志穂は夜の空を見上げたままだ。

 風が吹き、秣干場の周りの草や柿の木の枝や新芽を揺すって流れて行く。

 「なあ」

 左助が両手を頭の下で組んで枕にし、志穂と同じように空を見上げて言った。

 「この銭貸しの件におれたちが深入りするのはよくないよ。何か危ないっていうかさ」

 「それは山の御方のお考え?」

 志穂が横目で左助を見てきく。

 「いや」

 左助は軽く目を閉じた。

 「山の御方は乗り気だ」

 「ならいいじゃないか」

 「なあ、志穂」

 左助は言って、頸を回して志穂のほうを向けた。

 「おまえの正直な考えを聞かせてほしいんだが」

 「なんだよ、あらたまって」

 志穂は鼻から息を吐いて笑って見せた。

 懸想(けそう)している男に言い寄られたときのようだ。

 「山の御方は何か急ぎすぎのようには感じないか?」

 「急ぎすぎ?」

 志穂は眉を上げて目を丸くした。

 「何を?」

 「何かを、だ。それがわかればおれだって心配なんかしない」

 左助はしんぼう強く語りつづける。

 「去年の歳幣(さいへい)の件で城館からはいよいよ目の敵にされてるし、今度の銭屋のことだって下手をすると柿原とことを構えることになってしまう。城館が本気になったら――いや、定範とかいうやつはいいんだ。その取り巻きもどうってことはない。けれど、柿原と柴山が本気になったら、山は無事ではすまないよ」

 「ひどく気弱だね」

 志穂は言って笑った。

 「柿原にも柴山にも長い戦いを続けるだけの余裕なんかない。柴山は去年の歳幣が受け取れなくて武士衆に配る銭米が足りなくなって困ってる。もう一年、歳幣が柴山に渡らなければ、巣山の郷名主衆の謀反が起こるよ」

 「去年の秋、広沢の名主を殺したのはそれを抑えるためだろう?」

 「そうだ。けれども不満の起こるのは止めようがない。歳幣を止めたら今年もおんなじことになる」

 志穂は口を結んで目を上げた。左助はため息をつく。

 「山の御方がそうお考えになるのはわかる。だから今年も歳幣は止めることになってる」

 「やっぱりね」

 「でもな」

 左助は志穂のほうを向いた。

 「それで柴山が本気になって山に攻めこんできたらどうするんだ? 柴山に長いいくさはつづけられないにしても、おれたちだって似たようなもんだ。山の(とりで)がそんなに長いいくさにもちこたえられるわけでもない」

 「そのときはそのときで何かやりようがあるさ」

 「何かって?」

 「どこか別の山に移るか、竹井に撃って出てどこかの村か(やかた)かを乗っ取るか」

 「そんな……」

 「なあ、左助」

 志穂は横を向いて左助に穏やかに笑いかけた。

 「山の御方にはそれはそれで考えがあるんだろうさ。いまその左助の言う急ぎすぎたことをやらないで、ずっと山に()もってて、何かいいことがあるかい?」

 「いや、それは……」

 左助は考えた。志穂はつづける。

 「このまま山を往き来する旅の連中や竹井の村を(おびや)かしつづけていつまでもやってられると思うのかい? それはさ、いまはさ、あたしたちはあの定範や柴山や柿原を相手に回してるっていうんで、あたしたちのほうに心を寄せてくれている人たちだってたくさんいる。市場の連中だって銭を回してくれる。あの城館の連中、山の連中よりずっと評判が悪いからな。でもそれがいつまでつづくんだ? 城館と戦いもせずに旅人の財物を(かす)め取ってるなんて思われるようになったら。それに、仲間たちだって、いつかはその連中に仕返ししてやるんだっていうんで山賊暮らしに耐えてるんだ。やつらのなかには山賊稼業なんていやなのがいくらでもいるんだよ。知ってるだろ、あんただったら」

 「それはわかってる」

 左助は口を結んで、しばらく志穂のほうを見つめた。

 それからはっと息を吐いて空を見上げた。

 「これでよくわかった。いや、わかっちゃいたんだ。でもあんたに確かめてみたかった」

 「何を?」

 こんどは志穂がもの問いたそうに口をすぼめて左助のほうに顔を向ける。

 「あのひとは決着をつけるつもりなんだ。たぶん、今年のうちにな」

 「あのひと?」

 「山の御方のことさ」

 左助は大きく息をした。

 志穂はその横で小さくため息をつく。

 「ところできいてみたかい? その山の御方がどうして藤野の美那って娘のことをそんなに気にするかって」

 「そんなのきけるわけないだろう?」

 左助が()ねたように少し大きな声を出したので、志穂は手を上げてその声を抑えた。

 で、その手で頭の後ろのほうを指さしてみせる。

 「だから、藤野屋でその子を見てきたらいいよ。明日の朝にはまた天秤担いで水を取りに行くはずだ」

 「いいよ」

 左助はまだ拗ねた声で言う。

 「どうして? 今朝は見たがってたじゃないか」

 志穂が甘い声できく。志穂にしては珍しいことかも知れない。

 「それはそうだけどな」

 左助は居心地悪そうに体を動かし、小さく息をついて空を見上げてから、言った。

 「あのあと、山の御方とまたあの子の話をしたんだ」

 「それで?」

 「朝にあの子どもと水を汲んでいた話を興味深そうに聴いておられた。どんなことを言って子どもを叱っていたかとか、そんなことまでお尋ねになるんだ」

 「だったらいいじゃないか」

 「でも、そのとき感じたんだ――おれがその子をもっと間近で見てしまったら、ほんとに取り返しのつかないところにものごとが進んじまう」

 左助は志穂が自分をふしぎそうに見ているのに気づいただろうか?

 ともかく左助は志穂のほうを振り向きはしなかった。

 「たしかにどうしてそう感じるのかって言われるとどう言っていいかわからない。でも、おれはわけもわからず何かがむしょうに怖くなるってことがあって、それがいまの感じなんだ」

 志穂は答えなかった。

 答えないで黙って左助から顔を離し、空を見上げた。

 左助はずっと空を見上げている。

 「あんたには向かない仕事かも知れないね」

 しばらくしてから、志穂が目を細めて言った。

 「何が」

 「ぜんぶさ」

 「おれはっ」

 左助は言い返そうとして身を起こしかけた。その動きで秣が崩れかかり、藁が何本も土の上に落ちてさらさら音を立てる。

 左助は身の動きを止め、しばらくあたりをうかがってから、もとのように秣に身を委ねて空を見上げた。

 「そう、そういうところさ」

 志穂が落ちついた声でつづけた。左助が言い返そうとしたのか、顎を喉のほうにくっと引きつける。志穂はかまわず言う。

 「たしかに身軽さはお山でもいちばんだ。そんなことで向かない仕事だなんて言ってないよ。あんたがいてくれてどれだけ助かってるか知れたもんじゃない」

 言ってから、志穂はもういちど左助の顔を見ようとした。けれどもこんども左助は顔を合わさない。

 「けれど、あんた、何ごともまっすぐでないと気がすまない性分だからね。ほんとは博奕(ばくち)打ちで暮らすのも気が進まないんじゃないのか?」

 「そんなことはない」

 左助は硬い声で言い返した。

 「博奕打ちにだって気のまっすぐなやつはいる」

 「だからそういう意味じゃないんだよ」

 「じゃあどういう意味なんだ?」

 「ひとが気がまっすぐかどうかをまず気にしてしまうようなところがさ」

 「あたりまえだろう」

 左助は、小さく息を一つつくと、落ちついた声で返した。

 「危ない仕事をしてるんだ。相手が信じられるかどうかはまず最初に見るさ」

 志穂は返事をしなかった。

 ほうっ、ほうっとフクロウの鳴く声がした。

 志穂は顔をほとんど動かさないで左助に目を向ける。左助は顎を引いて両目を開いて空を見ていた。

 唇が微かに動く。

 「……三……四……五」

 こんどは月夜にキツツキがコン、コンと音を立て、つづいて、またフクロウが二つ鳴く。

 左助が喉だけをほんの少し動かして声を立てる。

 「お呼びだ」

 「それも港からだな」

 「港」という声を聞くと、左助はすこし顔をしかめた。

 だが、次に志穂が横を向いたとき、左助の姿はもう志穂の隣にはなかった。

 志穂は大きく息をついた。左助を探すこともせず、ただ一人、秣の山の上で、その身を天空にいっぱいにさらけ出して、眠っていた。

 草の上を風が撫でて行くこともなかった。

 月明かりは中天のいちばん高いあたりを過ぎて、西に傾いて行きつつあった。


 南藤俊三郎の屋敷では、べらの煮付けを(さかな)に、元塚九郎衛友、長野一郎雅継と銭貸しの笹丞が酒を飲んでいる。村西兵庫助、大木戸九兵衛、井田小多右衛門の三人も最初はいっしょに飲んでいたが、疲れたと言って先に引き上げてしまった。

 「室屋という宿屋をご存じですか? あの宿のおかみというのがひどい女です」

 言って、笹丞は椀の酒を背筋を伸ばしてくうっと飲み干してしまう。

 「ほう」

 長野雅継――これまで長野雅一郎と名のっていた男だ――はその笹丞を横目で見据えたが、衛友は唇の端をいっぱいに引いて笑って笹丞に酒を注いでやる。注いでやって、きく。

 「どうひどいのです?」

 「それはもう、あの室屋のには誠の心がありません。いつもは快く泊めてくれていたのに、いえ以前から何か意地悪な嫌がらせはいろいろとしましたけどね。ほかの客にはサッパの漬け物を出すのに、わたしには出さないとかね」

 「ほう」

 言って、衛友は自分も酒を一口飲む。

 「それが、今日にかぎって、泊めないといいます。しかもわたしが人質を取ったから泊めないというのです。しかも、自分が泊めないと言うのではなく、ほかの客がいやがるからというのです。わたしはほかの客にいやがられるようなことは何もしていないんですけどね」

 笹丞はまた酒をひと息ですいすいすいと飲んでしまい、こんどはさすがに咳きこんだ。

 衛友は笹丞の咳が終わるのを待ってから、また酒を注ぐ。長野雅継が手を上げて止めようとしたのは、そんなにこの銭貸しに飲ませると自分のぶんがなくなってしまうと心配したからだろうか。

 衛友はかまわず、笹丞に酒をいっぱいに注いでやった。

 「その人質を取った先というのが」

 笹丞は、頬だけでなく顔中をまっ赤にし、大きく激しく息をするようになった。それでも話しつづける。ふと下を見ると、笹丞はべらの煮付けにも菜の葉漬けにもほとんど箸をつけていない。

 「板屋の小助です。知っていますか、あの板屋の小助」

 「いいえ。あいにくと」

 元塚衛友が落ち着き払った声で答える。

 「下響の板屋です。これにわたしはもう何年も前から銭を貸していました。しかし家が貧しいからと言ってこの小助は返そうとしません。それで、今日、あの小助の娘を人質に取ったのです。そうすると娘を返せ娘を返せとしつこくついてくる。市場の情誼はどうしたなどと、自分で銭を返さないでおいて説教する始末です。わたしが、誠の心は情誼に優ると教えても聞きもしません。それで手の者に打ち据えさせたんですよ」

 笹丞がくくーっとまた杯を干す。その椀を衛友のほうに差し出しかけるところに、雅継が自分の近くの瓶を急いで手に取り、無理やり笹丞の椀の上に瓶の口を差し出し、傾けた。

 雅継は背を伸ばして反りかえり、手をいっぱいに伸ばして酒を注いでやる。

 笹丞はその雅継の顔を見て、首をすくめて小さく会釈し、椀を唇のまえに持ってきた。

 「いや、乱れているのはこの三郡の人心のみではないのです」

 笹丞は、もともとあまりはっきりとしゃべるほうではなかったが、さらに声がはっきりしなくなって、低い声で吼えているような感じだ。

 「天下すべてが乱れているのですよ。だから、私は論語、大学、中庸などを学び、四書五経を修めて、都に出て、天下を正そうという思いをかねてから抱いているのですよ」

 また酒を流しこむ。ただし、こんどはぜんぶを飲んでしまうことはできず、椀に半分ぐらいが残った。

 「ほう」

 衛友が目を細めた。

 「よく学ばれたのですな」

 「はい」

 笹丞の顔に満面の笑みが浮かぶ。

 「論語、大学、中庸、四書五経についてわたしほど知っている者はこの三郡にはほかにいないのですよ。それは都から来られたお坊様に保証していただきました。じっさい、この町で物知りぶっている者に聞いてみても、論語を知っていればいいほう、大学、中庸となるとだれも知りません」

 「ほう」

 「だが、利穂(りほ)はわたしが都に出るというのを笑って、絶対にわたしを都に出そうとはしません。ひどい女です。利穂こそ誠の心を知らない女ですよ。そんな妻を持ってごらんなさい、どんなに暮らしが苦しく、惨めなものになるか」

 「利穂というのは奥方のお名まえ?」

 衛友が半分しか酒の残っていない笹丞の椀に酒を注ぐ。

 「奥方などという上品なものではないのですよ、これが」

 笹丞は勧められるままに酒を流しこむ。

 「自分が都に出るのが怖いものだから、わたしにも町から出ることを許しません。もし利穂がいなければ、わたしはとっくに都に行き、公方(くぼう)様にお仕えして、天下の政道を正していたことでしょう。利穂がいるばかりに、わたしは金貸しなどという仕事を……」

 言って笹丞は椀に残った酒をぐいぐいと飲み、もう少しで飲み干すところまで行ったところで、いきなりごろっと横向きに倒れてしまった。

― つづく ―