この舞台の構成・演出を手掛ける Stefan Kaegi はスイス (Switzerland) 出身。 2000年にフランクフルト (Frankfurt am Mein, Hessen, DE) で Helgard Haug、Daniel Wetzel とアートプロジェクト Rimini Protokoll を結成し、そのプロジェクトの下での活動も多い。 老人ホームの女性4人を出演させた Kreuzwrträtsel Boxenstopp (2001) のような、一般の人々を出演者として起用して 社会的な問題をドキュメンタリ的に取り上げる 「ドキュメンタリ演劇」 (documentary theatre) で知られる。
Mnemopark では バーゼル (Basel, CH) の鉄道模型サークル Modulbau-Freunde Basel (MFB) の会員4人 (Kurrus, Löhle, Ludewig, Mühlethaler) を出演者として起用している。 それも、最も若くて1944年生、最高齢は1925年生といずれも70歳以上の高齢だ。 また、舞台の上は MFB 制作のHOスケール (1/87) の鉄道模型で埋めつくされている。 スイスの駅や路線を模した模型が主だが、鳥篭や金魚水槽を抜けるようなものもある。 食肉の山のような明らかにこの舞台作品のために制作されたモジュールもあった。
MFB からの出演者も演技するが、自身について語るようなものが中心で、 他のキャラクタを作り出すようなものではない。 舞台の進行を仕切り演劇的な枠組を作るのは、 MFB からの出演者より2回り近く若い女優の Hubacher だ。 もう一人、Neecke は舞台上手の脇で音出しをしていることがほとんどだ。 出演者が大きく舞台を動き回って演技して物語るというより、 鉄道模型の貨車に乗せられた小型カメラからのライブの映像が あらかじめ作られた映像と組み合わされ、 その映像とセリフを通して物語っていく。
その内容は、スイスの農業政策の実状に関するドキュメンタリ的な断片と、 実際にスイスでロケ撮影されたインド (India) のボリウッド (Bollywood) 映画をネタにしたと思われる スイスでボリウッド映画を撮影することに関するメタ・フィクション的な物語だ。 この2つの話は交わるというよりすれ違うように進行し、 それらに MFB の4人と Hubacher の5人の個人的なバックグラウンドの話が絡めらる。 スイスでのボリウッド映画撮影という語を通しての展開は感じられるが、 それほど明確に物語るような展開は無い。
そういったものを通して、 スイスにおける農業補助金政策とその副作用、農業における後継者問題や移民問題、 スイスの持つ観光的なイメージと実態、 経済急成長するインドとその周辺の地政学的問題などが、言及される。 しかし、それはそういう問題があることを指し示す程度のもので、 その問題を理解できるようなものではない。 あまり知られていない問題を提起しているわけでもないし、 そういったことを理解したいのであれば、 もっとよいノンフィクションの書籍や ドキュメンタリのテレビ番組が、いくらでもあるだろう。
この舞台作品が魅力的なのは、 この作品が指し示す社会問題やそれに対する問題意識が鋭敏だからではない。 むしろ、その魅力は、作品のデティールともいえる、 老後の人生を鉄道模型に注ぎ込むマニアなご老人たちの可愛らしさや マニアらしい濃さの片鱗などを殺すことなく舞台作品にしている所だ。 観ていて思わず微笑んでしまうような舞台だった。 そして、彼らを通して、単に彼らがハマっている鉄道模型の面白さを示すだけではなく (それは、舞台を埋めつくした模型の中を走る様子や や小型カメラからの映像からだけでも、充分に伝わる)、 スイスの農業政策に関わるローカルな問題や、 インドの経済的な台頭に関わるグローバルな問題も指し示してみせている。 それは、いい味出した可愛らしいおじいちゃんやおばあちゃんから 直接個人的にそういう話を聴いたかのような親しさ近しさを感じさせるものがあった。 今後、ヨーロッパでの農業保護政策に関するニュースを読んだら 「あのおじいちゃんたちの話だ」と思い出してしまいそうな。 そしてそれがこの舞台の良さだろう。
フライヤに「各公演終了後、出演者との懇談あり」とあったので、 アーティストトークのようなものがあるのかと思っていた。 しかし、実際は、舞台上の鉄道模型を間近で観ることができるというものだった。 そして出演者は鉄道模型の脇について、観客たちと自由に会話していた。 (ドイツ語ができればの話だが。) 舞台が一転して鉄道模型サークルによる展示会場になったのもとても面白かったし、 鉄道模型自体の魅力を伝えることも決して忘れていないように感じられて良いとも思った。 これも演出の一環なのかもしれない。
以下は、関連する談話室への発言の抜粋です。
一般の人々を出演者に起用する舞台作品といえば、 アオキ 裕キ と ホームレス生活者6名 によるコンテンポラリー・ダンス作品 『ソリケッサ』。 以前に 『The Big Issue 日本版』 で読んで、もし第二回の公演があったら観に行きたいなあと思ってたのですが。 なんと、この週末に第二回公演があったという。 金曜に Mnemopark の予習をしつつ、 そういえば『ソリケッサ』ってあったな、と検索していて気付きましたよ。 健康だったら日曜に『ソリケッサ』へ行ったところですが、 今回は謙虚に家で休養につとめました。
あと、演劇・ダンスというより音楽ですが、Nicolas Frize の Les Musiques de la Boulangére。 街とその住人というのはもちろん、刑務所の囚人や病院の入院患者などと ワークショップをして音楽公演の舞台を作り上げていくという。 Columbe Babinet, "Le Studio du Temps" (Probation in Europe, no. 27, June 2003) というヨーロッパの保護観察に関する専門ニュースレターに載った記事が興味深いです。 長期服役囚の職業訓練に関する報告として、この Frize の作品を紹介しています。 2ヶ月前に話したのも偶然ですが、 1998年に Nicolas Frize のワークショップと舞台に参加したことがあります (レビュー, 関連掲示板)。 また日本でやらないかしらん。 TIFの中の人が 2006年にフランスで観てるようですし、 持ってきてくれないかなー。
こういう一般の人々を舞台に上げる作品は、「一般の人々」といっても、 老人ホームの老人 (Rimini Protokoll, Kreuzwrträtsel Boxenstopp) だったり、 ホームレス生活者 (『ソリケッサ』) だったり、 囚人 (Nicolas Frize, Les Musiques de la Boulangére) だったりすることが多いわけで、 コミュニティの統合というか社会的包摂 (social inclusion) としてのパフォーマンス・舞台作品というか そういう面も大きいように思います。
先週から今週前半にかけて、 Dance Life Festival 2008 という JCDN (Japan Contemporary Dance Network) のイベントがあったわけですが、 そのテーマは 『ダンスが日本を救う!? —— 日本におけるコミュニティダンスの確立に向けて』。 シンポジウムやワークショップへは参加しなかったものの (というか平日昼は無理)、 どっかのブログに感想とか出ないか期待したのですが、今のところ見当たらず。 何か面白いこと書いているサイトをご存知の方がいたら、教えて下さい。
このコミュニティダンスというのは イギリス (UK) において地域に根ざして活動するカンパニーによる 一般の人の参加によるワークショップや公演などの活動を指しています。 生徒・学生を対象にしたものももちろんありますが、 障がい者や高齢者、少年収容受刑者等を対象にしていることが多いのも特徴です。 現在の様々なカンパニーの活動の実態については、 NPO法人ジャパン・コンテンポラリーダンス・ネットワーク (編) 『イギリス・コミュニティダンスの現状視察 報告書』 (3rd ver. 2008-02-28) [PDF] に詳しく書かれています。 多くのカンパニーに関する報告は、その層の厚さに驚かされます。 しかし、カンパニーの運営や実践とは縁の無い自分にとっては、むしろ、 「イギリスにおけるコミュニティダンス普及の歴史」 (p. 55) あたりを もっと詳しく知りたいと思いました。 やっぱり post-1967/68 なカウンターカルチャーの影響が大きいのかなあ、とか、 日本のカウンターカルチャーに同様の動きは無かったのかな、とか、 そんなことを思ったりしました。
このテーマがひっかかったのは、今年の3月に Stefan Kaegi (Rimini Protokoll), Mnemopark. A Mini Train World という舞台作品を観たから。 その時に、同様な試みとして、『ソリケッサ』や Nicolas Frize の作品も 挙げましたが、 Rimini Protokoll は演劇、Nicolas Frize は現代音楽の文脈になるとはいえ、 「コミュニティダンス」と同様の面を持っています。 カンボジア (Cambodia) の難民の子供たちを対象とした Phare Ponleu Selpak (レビュー) もそうでしょう。 今回のシンポジウムでは「イギリス」「ダンス」に焦点を絞ったようですが、 それ以外の同様の動きについてはどうなっているのかな、と。 もし、広めの視野でまとまって書かれている文献等ご存知の方がいましたら、教えて下さい。 こういう最近日本で公演があったものについて シンポジウムで言及されたりしたのかも、気になってるのですが……。
というか、この3月に Rimini Protokoll を観て こんな話をした後に、 Dance Life Festival 2008 が「コミュニティダンス」なんてテーマを掲げたので、 「今、日本でコレが来てるのか!? どうして今!?」と気になっています。むむむ。 単に自分のアンテナが偶然そっちに向いただけかな?
この Dance Life Festival 2008 でも多くのワークショップが行われているわけですが、 参加者としてどういう層の人たちが参加したのか、気になります。 10年前に Nicolas Frize のワークショップに参加したことがあるわけですが、 その時は、老若男女が集まるという Frize の期待に反して、 参加者の多くは音大・美大の学生・卒業者や演劇関係者のような人で それも圧倒的に女性が多かった、ということを思い出します。 自分は一般人男性なので、非常に場違いなものに参加してしまったようで、 少々疎外感を覚えたりしましたよ (遠い目)。 一般に公募したら今でもこういう参加者構成にしかならないような気がします。
あと、公演をした際の作品としての評価が難しくなりそうだなあ、とも。 この手の表現は、一歩間違えれば 「人権割引」 (『sociologbook』 2008-05-30) の世界なわけで、質を保つのも難しそうです。 ま、何を良いとするのかで art vs. folk のイデオロギーの矛盾を内包しながら 進んでいくしか無いんだろうなあ、と。 ちなみに、『sociologbook』の「人権割引」の話は、価値判断が art 寄りで、 folk 的な価値判断をするとちょっと違う評価もできるかもしれないなあ、と思ったりもしています。
ところで、話はちょっと変わって。先々週末、府中の後、根津まで戻って、
新橋お多幸呑み友達
美術作家の こばやしなつこ さんが
ボランティア・スタッフをしている
NPO法人プティ・プワソン
のギャラリーでの
展覧会
(void chicken での紹介) の
オープニング・パーティに顔を出してきました。
このプティ・プワソンは、
東大病院小児科で長期入院している子供たちを対象した「めだかの学校」
として始まった美術ワークショップ等の活動をしていてる団体です
(活動概要)。
活動内容にはダンスは含まれませんが、
コミュニティダンスの活動と方向性は重なるようにも思います。
というか、日本ではダンスではまだまだなのかもしれませんが、
美術や音楽の分野ではこういう活動はそれなりに根付いているようにも思います。
Dance Life Festival 2008 は「イギリス」の「ダンス」に学べという雰囲気ですが、
このような「日本」の「ダンス以外」での活動にも学べる所は多いのではないか、と。
「イギリスのコミュニティダンス普及の歴史」を読んでも、
イギリスでも美術での活動から広がったという面もあるようですし。